世界を手にした男 後編

5.路上の天使と悪魔

やることがない。 その事実は、20億円の資産を持つ健司にとって、皮肉にも最大の苦痛だった。 広いタワーマンションの一室は、静寂が満ちていて、まるで世界に自分一人だけが取り残されたような孤独感を増幅させる。 だから健司は、今日も街へ出る。 目的もなく都心を徘徊し、行き交う人々を眺める。

歌舞伎町の広場、通称「トー横」と呼ばれるその場所には、昼間からたむろする若者たちの姿があった。 中高生くらいの少女たちが、円陣を組んで笑い合ったり、スマホで動画を撮ったりしている。 楽しそうに見えるその光景を、健司は缶ビール片手にベンチから眺めることにした。高級ラウンジのソファよりも、この硬い木のベンチの方が、今の彼にはしっくりくる気がした。

30分ほど経った頃だろうか。一人の少女が近づいてきた。 「おじさん、何買いたいの?」 あどけない顔立ちだが、その目は値踏みするような光を帯びていた。 そうか、彼女たちはここで体を売って生きているのか。 ここ数ヶ月、プロ中のプロである高級娼婦たちと遊んできた健司の目には、ジャージ姿に安っぽいメイクをした彼女たちは、異性としての魅力を全く感じさせなかった。

「別に……」 「はあ? なんだよ、気持ちわりいおっさんだな。あっち行けよ」 「うん」 健司は気のない返事をして、言われるまま少し離れた場所に移動した。 それでも視線は彼女たちから外せなかった。 彼女たちは一見自由に見える。だが、日が暮れると様子が変わった。

夜の帳が下りると、どこからともなく複数の男たちが現れる。 少女たちと何か話し込み、指示を出しているようだ。 (ああ、始まったのか) 少女たちは客と思われる男たちと連れ立って、雑居ビルの隙間やホテル街へと消えていく。そしてしばらくすると戻ってきて、また別の男と消える。 それを一晩中、繰り返す。

終電がなくなる時間帯。客足が途絶えた広場に、一際柄の悪そうな男が現れた。 少女たちは稼いだ金をその男に渡している。 自由に見えた彼女たちも、結局はアンダーグラウンドな組織に搾取される家畜でしかないのだ。 やがて彼女たちは一斉にどこかへ向かって歩き出した。おそらく、組織が用意したタコ部屋のような宿があるのだろう。

それから数日間、健司はその光景を見続けた。 昼間の無邪気な笑顔が、夜には疲れ切った能面のような顔に変わる。 その落差が、健司の空っぽな心に奇妙な引っかかりを残していた。

6.一夜の対話

「おっさん、キメェんだよ! あんまりしつけえと、ボコるぞ!」

連日の監視に我慢の限界が来たのか、少女たちのリーダー格の少女が健司に詰め寄ってきた。 金髪のメッシュが入ったボブカット。鋭い眼光は、大人への不信感で濁っている。 健司は缶ビールの残りを飲み干し、静かに言った。

「わかった。買うよ」

財布から10万円の札束を抜き出し、彼女に差し出す。 少女は目を丸くした。薄汚れたサラリーマン崩れだと思っていた男が、相場を遥かに超える金額をあっさりと出したからだ。

「……おう。金出すなら相手してやるよ」

少女はすぐに気を取り直し、慣れた手つきで健司の腕を取り、近くの安ホテルへ向かおうとする。 だが、健司はその足前で立ち止まった。

「こんな汚いところじゃなくて、もう少し綺麗な所へ行こう」

そう言ってタクシーを止め、行きつけの一流ホテルを告げた。 少女は車内で落ち着かなげに窓の外を見ていた。 ホテルのロビーに入ると、その豪華さに圧倒されたのか、彼女の背中が小さく縮こまる。 だが、すぐに虚勢を張るように睨みつけてきた。

「金持ってるからっていい気になるなよ。どうせあんたも、若い女の体が目当ての変態なんだろ」 「……どうだろうな」

スイートルームに通された少女は、部屋の広さと調度品の数々に言葉を失っていた。 健司は彼女の反応を気にも留めず、「一回お風呂入ってきなよ」と促した。 少女は「結局、綺麗にしてからヤりたいだけだろ」と毒づきながらバスルームへと消えた。

しかし、バスルームに入った少女は息を呑んだ。 足を伸ばせる広いバスタブ。一人で入るには広すぎる空間。 カビ臭い安宿のユニットバスとは違う、清潔で良い香りのする空間。 彼女は温かいお湯に浸かりながら、いつの間にか男が入ってくるのではないかと警戒していたが、ドアが開く気配はなかった。 ふかふかのタオルに包まれ、上質なバスローブに身を包むと、張り詰めていた緊張が少しだけ解けた気がした。

リビングに戻ると、テーブルにはルームサービスの料理が並べられていた。 見たこともないような色鮮やかな前菜や肉料理。 「一緒に食べよう」 健司の誘いに、少女は戸惑いながらも席に着く。 ナイフとフォークの使い方がわからず、ぎこちない手つきで食事を進める少女。 健司は何も言わず、ただ自分の皿と向き合っていた。

「……何が目的でこんなことをするんだよ」 少女が耐えきれず尋ねる。 「なぜ、か……」 健司自身も答えに窮した。同情? 暇つぶし? 「特に理由はない」 そう答えるのが精一杯だった。

食事が終わると、重苦しい沈黙が流れた。 少女はその空気に耐えられなくなり、立ち上がってバスローブの紐に手をかけた。 「ほら、ヤるんだろ。早く済ませてよ」 しかし、健司は動かなかった。

「服は着たままでいい。……少し、話をしよう」 「はあ!? なんだよそれ! 私は稼がないといけないんだよ。のんびりしてられないんだ! やらないなら帰るよ!」

少女が慌ててまくし立てる。 健司は黙って財布からさらに10万円を取り出し、テーブルに置いた。 「これでもう少し、会話できるかな」 少女は驚きと困惑の表情で、その金と健司の顔を交互に見た。

「……何が目的なんだい。あんた、本当になんなの」 「あの公園で遊んでいた子たちは何だったのか気になって、知りたかったんだよ。君たちは何であんな所にいたんだい?」

少女はため息をつき、諦めたように話し始めた。 「あそこしか居場所がないんだよ。みんな色々あるんだ。私は家が貧乏で、親から売りをやらされて……嫌になって飛び出したけど、結局、女を使わないと生きていけなかった」 彼女の声は乾いていた。 「自由があるかと思ったけど、結局は変な大人たちに囲われて、搾取されて。どこにいても変わらない日々だよ」

健司は、彼女の言葉を反芻した。 どこにいても変わらない日々。それは、20億円を持て余す今の自分とも重なる気がした。 「……何があれば、この状況から抜け出せる?」 健司の問いに、少女は即答した。

「金だよ。金があれば自由になれる」

その言葉は、かつて悪魔に魂を売った瞬間の自分と同じだった。 「わかった」 健司は立ち上がり、部屋の出口へ向かう。 「清算はしておくから、明日の10時まで部屋を使っていい。ルームサービスも好きに頼んでいいよ」 「えっ、あんたは?」 「帰るよ」

変な奴。 少女はそう思ったが、人生で初めて味わう高級ベッドの寝心地には抗えず、泥のように眠りに落ちた。

7.自由への代償

翌朝、少女が目を覚ますと9時を回っていた。 慌てて着替えてホテルを飛び出し、いつもの公園へ向かう。 そこでは、仲間の少女が泣いていた。 「昨日、売り上げが足りないって……あいつに殴られた……」 腫れ上がった仲間の頬を見て、少女は胸が締め付けられた。自分だけが良い思いをしてしまった罪悪感。 だが、ポケットには健司から受け取った20万円がある。 「大丈夫、昨日の分を取り戻して余るくらいあるから!」 少女は金を皆に見せ、今日の分のノルマを肩代わりすると宣言した。 一瞬、場が明るくなり、笑顔が戻る。 だが次の瞬間には、「じゃあ今日はホストに行けるじゃん!」と歓声を上げる子もいた。 金があっても、使い方がわからなければ、結局はこの連鎖からは抜け出せない。 終わらない日々。

そして夕方が来た。 元締めの男が現れ、少女に詰め寄る。 「昨日はどうしてたんだ?」 「大金稼いでたんだよ」 少女は上納金をいつもより多めに渡すが、男の目は笑っていなかった。 「誰のおかげでここで無事でいられると思ってるんだ。あんまり調子に乗るなよ」 男の手が伸び、少女の髪を乱暴に掴む。 痛みが走り、恐怖が蘇る。 (ああ、結局この世界からは逃げられない……) 少女が絶望に目を閉じた時だった。

「『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』」

場違いな声が響いた。 少女が目を開けると、そこに健司が立っていた。 「あなたではなく、日本国憲法で約束されたものですよ」 健司は淡々と告げ、男と少女の間に割って入った。

「てめえ、誰だか知らねえが、粋がってると痛い目に遭うぜ?」 男がドスを利かせ、健司の胸倉を掴もうとしたその瞬間。 黒いスーツを着た巨漢の男が、横から割って入った。 さらに健司の背後から、同じような体格の男が二人現れ、元締めを取り囲む。

「こうなると思ったんで、対策済みです。セキュリティ会社と契約しましてね」 健司は冷ややかな目で見下ろす。 「消えないと、痛い目に遭うのはあなたですよ」 プロの警護人を前にしては分が悪いと悟ったのか、男は舌打ちをして去っていった。

静寂が戻った広場で、健司は少女に向き直った。 「昨日、君は言ったね。『お金があれば幸せになれる』と」 少女は呆然と頷く。 「それが本当に君が望むものかはわからない。でも、お金なら用意した。来てくれ」

健司が合図を送ると、数台のタクシーが横付けされた。 「どうぞ乗ってください。もちろん、お友達も」 少女たちは顔を見合わせ、戸惑いながらもタクシーに乗り込んだ。総勢10名ほどの少女たちを乗せた車列は、夜の街を走り抜けた。

8.新たな世界

連れて行かれた先は、都心から少し離れた閑静な住宅街にある、低層の高級マンションだった。 健司は不動産会社を通じて、この一棟を買い上げていたのだ。

「こちらの建物は皆さんの住居です。衣食住、それなりに準備させていただきました。まずはそちらへどうぞ」

オートロックのエントランスを抜け、清潔な部屋に通された少女たち。 ふかふかのベッド、温かい食事、そして何より、誰にも脅かされない安全な空間。 彼女たちは久しぶりの安息に、涙を流し、あるいは歓声を上げて抱き合った。

それからの数ヶ月、健司は彼女たちのために奔走した。 ただ金を与えるだけでは意味がないことを、彼は自身の経験から知っていた。 教育が必要な子には家庭教師をつけた。 心の傷が深い子には専門のカウンセラーを手配した。 親の庇護が必要な年齢の子には、行政と連携して養護の手続きを進めた。

少女たちは少しずつ、本来の笑顔を取り戻していった。 勉強の楽しさを知る子、絵を描く才能に目覚める子、ただ普通の生活を送ることに喜びを見出す子。 彼女たちが成長し、自立への道を歩み始める姿を見るたび、健司の胸に温かいものが満ちていった。

20億円を使っても埋まらなかった心の穴が、彼女たちの笑顔で埋まっていくのを感じた。

「そうか……」 健司は、マンションの中庭で遊ぶ少女たちを見ながら呟いた。 「人を幸せにすることが、自分の世界を掴むことだったんだ」

自分のためだけに使っていた力と金は、彼を孤独な牢獄に閉じ込めた。 だが、他人のために使ったとき、それは世界を変える力になった。

健司は決意した。 この世にはまだ、救われない子供たちがたくさんいる。自分の残りの人生と資産、そしてこの「やり直せる」能力を、すべて彼女たちの未来のために使おうと。

「健司さん!」 不意に声をかけられ、振り返る。 そこには、あの時のリーダー格の少女が立っていた。 今はもう派手なメイクも落とし、清楚な服に身を包んでいる。彼女は照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳で健司を見つめた。

「ありがとう。……これからも、手伝わせてよ」

健司は微笑み、大きく頷いた。 かつて灰色だった世界は今、鮮やかな色彩に満ちていた。 悪魔との契約で手に入れたのは、単なる金や時間ではなく、「誰かのための自分」を見つけるチャンスだったのかもしれない。

彼はもう、時を戻す必要を感じなかった。 明日が来るのが、楽しみで仕方なかったからだ。

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