十二歳になった。小学校六年生、最後の学年だ。 思春期というには少し早く、けれど子供でいるには少し賢くなりすぎた、そんな微妙な季節の真ん中に、少年はいた。
机の上に置かれたプリント。「授業参観のお知らせ」。 これまでは、両親は仕事で忙しいということにして、欠席で通してきた。だが、担任の教師が「最後ですから、どなたか来られるといいですね」と、妙に気を利かせてしまったのだ。
「テツコ、今度の土曜日、学校に来てほしいんだけど」 リビングで洗濯物を畳んでいるテツコに、少年はぶっきらぼうに言った。 「授業参観ですね。保護者代行としての業務範囲内です。承知しました」 テツコは作業の手を止めず、いつもの平坦な声で答えた。
その時まで、少年は深く考えていなかった。家の中では、テツコがいる風景は当たり前すぎたからだ。 シリコンの顔、エプロンドレス、モーターの駆動音。それが少年にとっての「日常」だった。
しかし、土曜日の教室は、「非日常」の空間だった。
後ろの壁際に並ぶのは、化粧をした母親たちや、休日の父親たち。楽しげな私語、柔らかな肉体の匂い、人間特有の体温で満ちた空間。 その中に、テツコは立っていた。 無表情なシリコンの顔。季節感のない服装。直立不動の姿勢。 まるで、賑やかな花畑に、場違いな墓石が一本立っているようだった。
授業が始まると、背後からひそひそ声が聞こえてきた。 「ねえ、あれ何? マネキン?」 「違うよ、お手伝いロボットだって。すっげー旧型の」 「うわ、マジで? 親、来てないの?」 「なんか事故で死んだらしいぜ。で、あれが代わりだって。ウケる」
少年の耳が熱くなる。心臓が嫌な音を立てる。 やめてくれ。見ないでくれ。 少年は背中を丸め、教科書に顔を埋めるようにした。
最悪の瞬間は、算数の時間に訪れた。 担任が少年の名前を呼んだ。簡単な計算問題だった。だが、緊張と恥ずかしさで頭が真っ白になり、答えが出てこない。 「えっと……その……」
沈黙が流れた、その時だ。
「正解は、42.5です」
教室の後ろから、抑揚のない機械音声が響き渡った。テツコだった。 教室中の視線がテツコに集中し、次の瞬間、ドッと笑い声が爆発した。 「ロボットが答えちゃったよ!」 「すっげー、計算はえー!」 先生は苦笑いしながら「あー、お家の方、答えを言わないでくださいね」とたしなめた。
少年は、その場から消えてしまいたかった。 恥ずかしい。惨めだ。 なんであんなこと言うんだ。なんで空気読めないんだ。 ……なんで、僕には普通の親がいないんだ。
家に帰るまでの道のり、少年は一言も口をきかなかった。早足で歩き、テツコを置き去りにしようとしたが、彼女は一定の距離を保って正確についてくる。それすらも腹立たしかった。
玄関のドアを閉めた瞬間、少年の感情が爆発した。
「なんで来たんだよ!」 ランドセルを床に叩きつけた。 テツコは静かにドアの鍵をかけた。「あなたが来訪を要望したからです。記録を再生しますか?」
「そういうことじゃねえよ! お前、自分がどれだけ浮いてたか分かんねえのかよ!」 「『浮いていた』の定義が不明瞭です。私は周囲の保護者と同様、直立して授業を観察していました」 「それがおかしいんだよ! みんな笑ってたじゃないか! お前のせいで、僕までバカにされたんだ!」
少年はテツコを睨みつけた。十歳のあの嵐の夜、すがりついた冷たい体が、今は憎くてたまらなかった。 「お前なんか、来なきゃよかったんだ。ただの機械のくせに、親みたいな顔してそこに立つなよ! 恥ずかしい!」
テツコのシリコンの顔は、ピクリとも動かない。 「私の行動が、あなたのストレス反応を引き起こしたと推測します。今後の参考にします」
「……もういい! 知らない!」 少年は自室に駆け込み、ドアを乱暴に閉めた。ベッドに顔をうずめる。 目蓋の裏に焼き付いているのは、クラスメイトの嘲笑う顔と、教室の後ろで異様な存在感を放っていたテツコの姿。 「あんなの、偽物じゃないか……」 枕に顔を押し付け、滲む涙を吸わせた。
夕食の時間になっても、少年は部屋から出なかった。 反抗だ。ストライキだ。意地でも食べてやるものかと思った。
だが、夜の九時を過ぎると、さすがに腹が減った。 少年はこっそりと部屋を出て、リビングに向かった。
リビングの電気は消えていた。テツコは、部屋の隅の充電スタンドで休止モードに入っているはずだ。 少年はダイニングテーブルに目をやった。 そこには、ラップのかかった夕食が置かれていた。 好物のハンバーグ。冷めないように、保温プレートの上に置かれている。 その横には、小さなメモ用紙があった。
『栄養摂取を推奨します。本日のメニューは、あなたの嗜好データに基づき、ハンバーグを選択しました』
手書きではない。プリンターで印刷された、無機質な文字。 少年は椅子に座り、ラップを外した。まだ温かい湯気が上がる。 一口食べた。完璧な火加減。完璧な味付け。世界で一番美味しいハンバーグ。
食べているうちに、昼間の怒りが、波が引くように静まっていった。 代わりに、別の感情が湧き上がってきた。
今日、教室で自分を笑った奴らには、「本物」の親がいただろう。 その「本物」の親たちは、自分の子供が他人を傷つけて笑っているのを、ただ見ていた。
テツコは「偽物」だ。 空気も読めない、恥ずかしい、ただの機械だ。 でも。 僕がどれだけ酷い言葉をぶつけても、彼女は絶対に、僕の食事を用意することをやめない。僕の健康を損なうようなことは絶対にしない。
あそこで答えを言ってしまったのも、彼女のプログラムが「被保護者が困っている状況」を看過できなかったからだ。その不器用すぎる行動原理が、今は少しだけ、痛いほどに分かった。
少年は完食し、食器を流しに運んだ。 そして、リビングの隅で、緑色の充電ランプを点滅させているテツコの前に立った。
暗闇に浮かび上がる、能面のような白い顔。 やっぱり不気味で、ちっとも人間らしくない。
「……ごちそうさま」
少年は小さな声で言った。 テツコは反応しない。休止モードだから当然だ。
「ごめん。言い過ぎた」
少年は、冷たく硬いシリコンの手に、そっと自分の手を重ねた。
血は繋がっていない。心も通じ合わない。 世間から見たら、奇妙で、哀れで、滑稽な「親子」ごっこかもしれない。
それでも。 この冷たい手のひらから伝わってくる、不変の献身だけは。 誰がなんと言おうと、僕にとっての「本物」の絆なんだ。
十二歳の少年は、暗いリビングで一人、そう噛み締めた。 少しだけ大人になった夜だった。
