
八月。地方都市の夏は、逃げ場のない湿気と蝉時雨(せみしぐれ)に包まれていた。 「部長! 止まらないでください、あとたったの五百メートルです!」 アスファルトの照り返しの中、陽葵は白のポロシャツを汗で滲ませながら、坂道を駆け上がっていく。
「……陽葵さん、その『たったの』は、垂直距離の話じゃないよね」 航は首に巻いたタオルで眼鏡を拭いながら、力なく答えた。長身の彼は、太陽に近い分だけ熱を余計に浴びている気がする。 今日の目的は、明治時代に開削された「幻の農業用水路」の起点を確認すること。古地図によれば、この先の杉林の奥に、当時の石組みが残る「水神の祠」があるはずだった。
林に入ると、空気の温度がふっと下がった。 「あ……涼しい」 航が安堵の溜息をつくと、先を歩いていた陽葵が「でしょ!」と得意げに振り返る。 木漏れ日が彼女の短い髪を透かし、汗に濡れた首筋が白く光る。航は一瞬、視線をどこに置くべきか迷い、慌てて手元の資料に目を落とした。
「見てください部長、これ! 当時のノミ跡が残ってます!」 目的地に辿り着いた陽葵は、小さな沢のほとりにある朽ちかけた祠へ飛びついた。 「すごい……重機もない時代に、こんな山奥まで石を運んで……」 彼女は膝をつき、夢中で石の表面を撫でる。その無防備な後ろ姿に、航は自分の心臓が、暑さのせいだけではない速さで脈打つのを感じた。
「……陽葵さん、服が汚れるよ。ほら」 航が屈み込み、彼女の肩に触れようとして、止めた。 彼女にとって自分は、この街の歴史を解き明かすための「同志」であり、便利な「記録係」なのだ。 今の距離感は、歴史調査という大義名分があってこそ保たれている。それを超えることは、この心地よい部活動を壊すことと同義だと思えた。
調査を終えた帰り道、二人は古い商店の軒先にある自販機でサイダーを買った。 「ぷはー! 生き返るー!」 陽葵は空き瓶を頬に当て、幸せそうに目を細める。
「部長は、この街の夏、どうですか? 都会より暑いでしょ」 「……そうだね。でも、嫌いじゃないよ。君に連れ回されなかったら、僕はきっと部室でずっと、一人で埃を被った資料を読んでいただけだろうから」 航が本音を漏らすと、陽葵は少しだけ真面目な顔をして彼を見上げた。
「私は、部長がいてくれて良かったです。だって、地図を読んで、私の無茶な解釈をちゃんと正してくれるのは、部長しかいませんから」 「……それは、僕が眼鏡で理屈っぽいからだろ」 「違いますよ! 部長が、この街をちゃんと『見て』くれようとしているからです」
陽葵が差し出したサイダーの瓶が、航の瓶とカチンと音を立てて触れ合った。 青い空、入道雲、そして隣で笑う少女。 航の心の中にあった「余所者」という名の空白が、彼女の屈託のない言葉によって、少しずつ埋まっていく。
(……もし、僕がこの街の人間だったら) そんな叶わない仮定を飲み込み、航はぬるくなりかけたサイダーを煽った。 彼女の視線の先にはいつも、この街の古い歴史がある。自分の姿は、まだその風景の一部に過ぎないのだと、自分に言い聞かせながら。

