GAME2

第4章:色褪せた世界での再会

病院を出たキリとリアム(ゲーム内でのリオン)は、リアムの父親が用意した都心から離れたアパートの一室で、新しい生活を始めた。父親は罪悪感と安堵から、生活のサポートを申し出たが、キリは「金はいらん。この子の父親は俺だ」と一蹴した。

しかし、現実はゴールド・スクラップのように、鉄と暴力で解決できるほど単純ではなかった。

現実は、あまりにもつまらなかった

キリは、静寂に慣れるのに苦労した。夜中でも絶え間なく響いていた銃声やネオンのノイズがない。誰もが自分のスマホを見つめ、キリのように殺気立っている人間はいない。

「キリ、また窓の外を見ているの?」

リアムの声で、キリはハッとした。リアムはソファで古い図鑑を広げている。あんなに小さな体で、システムの核として世界を支えていた少女が、今、病的なまでに痩せてはいるが、穏やかな表情で成長を始めている。

「…ああ。この街は、ゴールドがゴミのようだ」

キリにとって、お金は命の価値を決める絶対的な基準だった。だが、現実の紙幣やデータは、触れても何も感じない。稼ぎ方も分からない。

殺し屋としてのスキルは、現実では何の役にも立たなかった。

「お父さん(キリ)、仕事を見つけなくちゃ」リアムが言った。「このままじゃ、生活費が尽きちゃう」

キリは、自分の無力さに苛立った。ゲームでは最強のキラーだった自分が、現実では無職の居候だ。

彼はアパートを飛び出した。そして、無意識のうちに、街の裏通り、廃墟のようなゲームセンターに足を踏み入れた。

そこで彼は、馴染みのある、狂ったネオンを見た。


第5章:ゲームセンターの再会

ゲームセンターの奥。埃を被った筐体の列の中に、キリはかつての世界の残骸を見つけた。

古びたアーケードゲーム。タイトルは**『ゴールデン・スクラップ・アウトロー』。あのVRゲームの、簡略版のレトロアーケード**だった。

キリが呆然と画面を見つめていると、後ろから声をかけられた。

「…おい、兄さん。そのツラ、どっかで見た気がするな」

振り向くと、そこに立っていたのは、くたびれた作業服を着た婆さんだった。ゴールド・スクラップで情報屋をしていた、あの老婆にそっくりだ。

「あんたは…」

「やれやれ。まさか、あの**『ゴールド・キラー』**が、現実でこんな寂しい顔をしてるたあね」

婆さんは笑った。この婆さんも、**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**の元プレイヤー、あるいは関係者だったのだ。

「あんたの娘さん…リアムかい?彼女の父親が、このゲームの残党を隠すために、このゲームセンターを作ったんだよ。仮想現実(VR)で繋がっていた仲間たちが、ここで、現実で再会できるようにね」

このゲームセンターは、元プレイヤーたちが、現実の生活に馴染めない心の病を抱えながら、交流する隠れ家だった。

「キリ。あんたのは、現実でも使える場所がある。誰も傷つけずに、金を稼げる場所がな」

婆さんはキリをアーケードの裏手にある倉庫に連れて行った。そこには、大量のVR機器と、新しいシステムの開発に必要なサーバーが並んでいた。

「あんたの反射神経危機管理能力は、現実ではセキュリティとして最高の才能だ。それに、このゲームセンターの用心棒も必要だ。現実に戻れないバグった連中が、ここで騒動を起こすんでね」

キリは、久々に自分の存在意義を感じた。そして、何より、この場所には、微かに鉄の匂いと、裏社会の空気が残っていた。


最終章:現実のゴールド・キラー

キリは、ゲームセンター**『ゴールド・ラッシュ』の用心棒兼、セキュリティの専門家として働き始めた。彼の異常なまでの集中力と、一瞬で状況を把握する能力は、現実のトラブル対処で最高のスキル**となった。

そして、彼はリアムを連れてきた。

リアムは、最初は戸惑っていたが、ゲームセンターの賑やかさ、そこで働く元プレイヤーたちの人間的な優しさに触れ、少しずつ、本来の少女としての笑顔を見せるようになった。

ある日の閉店後。

リアムは、アーケードの筐体の一つを見つめていた。それは、かつて自分とキリがいたゴールド・スクラップの風景を映し出していた。

「お父さん…私たちは、またゲームの中に戻るの?」

リアムの不安そうな瞳に、キリは答えた。

「もう戻らねぇよ。あそこは、ただの箱庭だ」

キリは、リアムの小さな手を握り、静かに言った。

「俺は、『ゴールド・スクラップ』で、お前という金を見つけた。そして、現実で、それを守るキラーになる」

キリにとって、もはやは、殺し合いの報酬ではない。リアムを育て、守り、現実を豊かに生きるための手段になった。

彼は、アトラス(リボルバー)の代わりに、工具とキーボードを扱うようになったが、その眼差しは、誰よりも鋭かった。

その晩、リアムはキリのために、生まれて初めて料理を作った。焦げ付いた、ひどい味のオムレツだった。

キリは、それを一口食べ、笑顔で言った。

「ああ、美味い。…この味は、ゴールド・スクラップでは、絶対に味わえなかったな」

リアムは泣き笑いの顔になり、キリに抱きついた。

二人の**『ゴールド・キラー』は、現実という新たなゲームを、ようやく、『親子の愛』**というルールで攻略し始めたのだった。

GAME1

第1章:黄金に憑かれた街と、拾った命

ネオンは退廃を、排ガスは金粉の匂いを運んでくる。ゴールド・スクラップは、金が支配し、欲望が火花を散らす無法の街だ。俺、キリはここで殺し屋を営んでいる。

今日の獲物は「ビッグ・ジョー」。いつものように仕事を片付け、廃墟の裏路地を歩いていた時だ。

血と錆の匂いに混じって、微かな生命の匂いがした。

スクラップの山を蹴散らすと、そこにいたのは、少年だった。十歳にも満たないように見える、痩せた、不思議なほど整った顔立ち。ボロボロの服を着て、手には小さな黄金の弾丸を握りしめていた。

「おい、こんなところで何してる」

俺の殺気を帯びた声に、少年は怯えることもなく、ただ俺を見上げた。その瞳は、この街のネオンよりも、もっと深く、寂しい光を宿していた。

「…寒い」

その一言に、なぜか俺の足は動かなかった。殺し屋稼業で硬く冷え切ったはずの心臓の奥が、微かに脈打った気がした。

俺は舌打ちし、少年を抱き上げた。驚くほど軽かった。

「ちっ。運が悪かったな、ガキ」

俺は少年をアジトに連れ帰った。名を尋ねると、少年は**「リオン」**と答えた。

リオンとの生活は、殺伐とした俺の日々を一変させた。

彼は決して成長しないようだった。数週間経っても、体格は変わらず、常に飢えているようだった。そして何より、リオンは**「死」**を理解していないようだった。

「キリ、あれは何で動かなくなったの?」

ある日、俺が仕事を終えて戻ると、リオンは俺が撃ち殺した裏切り者の写真をじっと見つめていた。

「あれは死んだ。この世界から消えたんだ」

「…消えた?」リオンは首を傾げた。「僕も、いつか消えるの?」

俺はリオンの頭を乱暴に撫でた。

「お前は消えさせねぇよ。俺が守ってやる。その代わり、この街では、金を稼ぐ者が、生き残るってことを覚えとけ」

俺はリオンのために、金を稼いだ。それは生活費というより、リオンの存在をこの街に繋ぎ止めるための杭のようなものだった。


第2章:崩壊する現実と、リオンの秘密

リオンを拾って半年が経った頃、異変は始まった。

廃墟ビルの窓が、突然青いポリゴンとなって砕け散り、すぐに元に戻る。俺の視界に**【SYSTEM WARNING: Low Gold Reserve. Upgrade Required.】**という文字が一瞬表示される。

現実が、プログラムのエラーのように揺らぎ始めたのだ。

俺は混乱した。しかし、リオンは違った。

ある晩、リオンが眠っているかと思い、そっと様子を見に行った時、俺は衝撃的な光景を目撃した。

リオンの身体から、半透明のコードのようなものが伸び、部屋の壁に張られた古い配線に接続されていたのだ。そして、リオンの周囲には、無数の数値が浮かんでいた。

【LIAM: Status-Unchanged. Age-Fixed. EXP-Accumulating.】

そして、最も目を疑ったのは、リオンの胸元だった。服がはだけて見えたその肌には、幼いながらも女性的な輪郭があり、その中央には、小さな黄金のペンダントが埋め込まれていた。

リオンは少年ではなかった。そして、不老の、システムの核のような存在だった。

俺が物音を立てると、コードは瞬時に消え、リオンは目を開けた。

「…キリ?」

「お前は、誰なんだ」俺はアトラスを抜き、リオンに向けた。

リオンは静かに答えた。

「私は、リオン。この街の、管理者(アドミニストレーター)…でした」


第3章:ゲームの終焉と、真実の解放

リオンは全てを語った。

ここは**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**という名のVRデスゲーム。プレイヤーは金のために殺し合う。

リオン、本来の名はリアム。現実世界では、このゲームの開発責任者の娘だった。幼い頃に難病で余命いくばくもなく、父は彼女の意識を永遠に生きられるゲーム世界のコアプログラムに移植した。

「父は、私を永遠に生かすために、この狂った世界を作った。私は、この世界が崩壊しないように、常にエネルギーを注入し続けていました。私が成長しないのは、私のプログラムが、成長しないようにロックされているからです」

そして、俺の周りで起きているバグの原因も、リオンだった。

「あなたが、私を拾ってくれた。孤独だった私の**『感情』**が、システムの制御を超えて、現実世界(父)へのSOSを発し始めているんです。だから、バグが起きる」

リオンは握っていた黄金の弾丸を差し出した。それは、システムからの強制ログアウトキーだった。

「これを使えば、あなたは現実に戻れます。私も、この世界とリンクを解除し、意識だけは現実の肉体に戻れるかもしれない。でも、この世界は終わります」

俺は絶句した。俺の生きた日々、殺し屋としての矜持、そしてリオンを育んだヒューマンな感情。全てが、ゲームの中の出来事だった。だが、リオンへの情は、間違いなく本物だった。

「…この街が、終わるのか」

「ええ。ですが、誰も悲しみません。彼らはまた、新しいゲームにログインするだけです」

リオンは俺を現実に戻すことで、自分もゲームの鎖から解放されようとしていた。それは、この狂った世界で得た、俺とリオンのささやかな家族の結末だった。

俺はアトラスを下ろし、黄金の弾丸を受け取った。

「…行くぞ、リオン。このクソゲーを終わらせる」

俺はリオンの頭を撫でた。

「俺が見つけて、育てたんだ。最後まで責任を持つ。現実でも、俺の娘になれ」

リオンは初めて、心からの涙を流した。

俺は弾丸を、アトラスのシリンダーに装填した。


エピローグ

パンッ!

その瞬間、世界はホワイトアウトした。

白い、人工的な光。消毒液の匂い。

キリは目を開けた。そこは病院の集中治療室。酸素マスクを外され、彼の隣には、同じようにチューブが外された**リオン(リアム)**が横たわっていた。彼女の顔には、幼い頃の面影があるが、成長の兆しが見えていた。システムの呪縛から解き放たれた証だ。

看護師が安堵の声を上げた。

「リオンちゃんも、あなたも、意識が安定しました。ゲームの影響はもうありません」

リアムは弱々しく、キリの手を握った。

「キリ…ここが、現実…」

「ああ、そうだ。つまらないほど、静かな世界だ」

キリは笑った。殺し屋の笑みではない、穏やかなものだった。

その時、病室のドアが開き、疲弊しきった一人の男が入ってきた。リアムの父、ゲームの開発責任者だ。

「リアム!生きて…」

男は娘に駆け寄ろうとしたが、キリは手を広げて遮った。

「あんたのクソゲーのおかげで、俺は現実の家族を得た」

キリはリアムの手を握りしめた。

「俺は、この子を育てる。現実でな。もう誰も、ゲームの金のために、この子を孤独にさせたりしない」

キリは、現実で初めて、自分の役割を見つけた。それは、殺し屋でも、プレイヤーでもない。

リアムの父親になることだ。

リアムは微笑んだ。その瞳には、ネオンの光ではなく、穏やかな愛が宿っていた。

ゴールド・スクラップの鉄槌は、現実ではなく、ゲームの世界に打ち下ろされ、それは静かに、二人の新たな現実の始まりを告げていた。

ゴールド・スクラップの鉄槌

第1章:黄金に憑かれた街

ネオンは退廃を、排ガスは金粉の匂いを運んでくる。ここ、ゴールド・スクラップは、その名の通り、金が支配するスクラップと欲望の街だ。地平線まで続く廃工場と、違法カジノのギラついた光、そして常に漂う火薬の臭い。法も道徳も、この街では黄金の重さで量られる。

俺の名前はキリ。殺し屋だ。

今日の獲物は「ビッグ・ジョー」。裏カジノの支配人だが、どうやらデカい金を横領し、組織を裏切って高飛びを企てていたらしい。依頼主はジョーが属していた「G.O.L.D(Golden Outlaw’s League of Destruction)」のボス、キング。ゴールド・スクラップの真の支配者だ。

俺は錆びついた非常階段を上り、ジョーが隠れている廃墟ビルを見下ろした。愛用のリボルバー、**「アトラス」**の銃身を撫でる。重く、冷たい感触。これは俺の命であり、稼ぎだ。

ジョーは最上階の窓枠に座り、葉巻を燻らせていた。夜景を眺めながら、逃げた後の豪遊を夢見ているのだろう。バカな奴。この街から逃げられると思っているのが、何よりの罪だ。

風向きを確認し、呼吸を整える。

パンッ、と乾いた一発。

ジョーの葉巻が火花を散らし、彼の身体は夜空へと吸い込まれるように落下していった。音もなく、ただ重力に従って。

ミッション完了。報酬はゴールド・スクラップの口座に振り込まれる。今日の取り分で、しばらくは廃油まみれのステーキと安酒にありつけるだろう。

俺は闇に紛れてその場を後にした。背後では、ジョーの落下地点に集まったハイエナたちが、彼のポケットを漁り始める気配がした。

ゴールド・スクラップ。ここは生きるためなら、誰の骨でも踏みにじる場所だ。そして俺は、その骨を砕くプロフェッショナルだ。


第2章:崩壊する現実

それからも、俺は次々と仕事を片付けた。裏切り者、情報屋、果てはキングに逆らったゴロツキの始末まで。ゴールド・スクラップでのキリの名は、冷たい鉄の響きと同意義になっていた。

そんなある夜、いつものように報酬を受け取り、アジトに帰る途中、奇妙な出来事が起こった。

廃墟と化した銀行の跡地を通り過ぎたとき、突然、空気が歪んだ。ネオンの光がバグを起こしたかのように、緑と紫のピクセルに分裂し、路上の廃車が一瞬、ポリゴン化して消えたのだ。

「…なんだ?」

俺はアトラスを抜き、周囲を警戒した。目眩がする。頭の奥で、甲高いノイズ音が響いた。

その瞬間、俺の視界の隅に、半透明の文字が浮かび上がった。

【SYSTEM ERROR: Terrain Load Failure. Reverting to Default Texture Pack.】

一瞬で文字は消えた。しかし、俺の心臓は激しく鼓動していた。現実が、今、俺の目の前で、プログラムのエラーのような挙動を見せたのだ。

次の日から、異変は加速した。

  • 道端のジャンクフード店の看板の文字が、突然**「フォントサイズ変更」**のような表示と共に巨大化し、元に戻る。
  • キングの護衛を撃ったとき、そいつの身体が血ではなく、**「ダメージポイント」**を示す青い数字と共に消滅した。
  • 俺自身も、突然の頭痛と共に、自分の手首に**【HP: 85/100】**のようなゲージが一瞬見えた気がした。

俺は怯えた。長年の殺し屋稼業で、は恐れない。だが、現実の崩壊は、俺の存在そのものを揺さぶった。

俺はキングに報告すべきか迷ったが、キングはただでさえ常軌を逸している。こんな話をすれば、間違いなく精神異常者として処分されるだろう。

俺は一人で真実を探すしかなかった。このゴールド・スクラップの裏に隠された、何かを。


最終章:ゲームの終焉

俺は手がかりを求め、この街で最も古い情報屋の元へ向かった。古びたバーの奥、酒とタバコの煙に巻かれた婆さんは、全てを知っていると言われている。

「おい、婆さん。知ってるだろ。最近、街がおかしい」

婆さんは笑った。しわくちゃな顔が、どこか嘲笑っているように見える。

「キリ。あんたも気づいたかい。あんたは特別だからねぇ」

婆さんはグラスの酒を一気に飲み干すと、震える声で告げた。

「この世界は**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**さ」

俺は耳を疑った。

「…何だと?」

「そのままだよ。金(ゴールド)を巡って、アウトロー(スクラップ)が殺し合う、最高のリアル系デスゲームさ。あんたはその中でも、トップランカーの一人だよ、プレイヤー名:キリ

俺の頭の中で、全てのピースがはまった。

  • 黄金が全てを支配する理由。
  • キングという絶対的なボス、つまり**最終目標(ラスボス)**の存在。
  • そして、俺の周りで起きていた、システムのエラー

婆さんは続けた。「あんたは、**『ゴールド・キラー』**の異名を持つほどの腕前だったが、最近、現実世界でのあんたの意識が、**肉体(アバター)**への干渉を強めている。だから、バグが起きるんだ」

つまり、俺が今いる世界は、現実ではなく、デーム。そして俺は、その中で殺し屋を演じるプレイヤーだった。

「俺は、現実で何者なんだ…?」

「さあね。ただの廃人かもよ。このゲームにハマりすぎて、意識だけがここにいる」

俺はアトラスを落とした。鈍い金属音が床に響いた。

殺し屋キリとして生きた日々、血の匂い、金銭の冷たさ、全てが偽物だった。俺の命がけの戦い、苦悩、矜持。全ては**『EXP』『ゴールド』**という数値に還元される、仮想現実(VR)の娯楽だったのだ。

俺はバーを出た。空は依然としてネオンに照らされ、人々は欲望に目を輝かせながら、殺し合い、金を奪い合っている。

これらは、ただのノン・プレイヤー・キャラクター(NPC)か、あるいは他のプレイヤーか。もう、どうでもいい。

俺はアトラスを拾い上げる。その銃口を、自分のこめかみに押し当てた。

「ゲームオーバー、か」

【ログアウトしますか? Yes / No】

俺の視界の真ん中に、巨大な、見慣れない文字が浮かび上がった。

俺は笑った。乾いた、絶望的な笑い。

殺し屋キリは、このデームの中で、自分の生きた証を求めた。だが、その証は、現実という名の冷たい病室で、酸素マスクに繋がれた俺の抜け殻にこそあるのかもしれない。

俺は指に力を込めた。

パンッ!

その瞬間、世界はホワイトアウトした。


エピローグ

白い、人工的な光。消毒液の匂い。

キリは目を開けた。そこは、チューブや医療機器に囲まれた、薄暗い病室だった。

彼の頭には、分厚いVRヘッドセットが装着されており、それを外した看護師が、安堵のため息をついた。

「よかった、目を覚ましましたね。キリさん。また長時間潜りっぱなしで…本当に心配しましたよ」

キリは虚ろな目で、天井を見つめた。

**「『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**は、もう終わりですか?」

看護師は戸惑いながら答えた。

「ええ。もう電源は切りました。…あんな暴力的なゲーム、もうやめた方がいいですよ。現実に帰りましょう」

キリは自分の手を見た。殺し屋のタフな手ではなく、弱々しく、痩せ細った、ただの男の手だった。

彼はただ一言、呟いた。

「…つまらない」

現実は、ゴールド・スクラップと比べて、あまりにも色褪せていた。金はただの紙切れで、命は簡単には失われず、そして何より、鉄の重さと火薬の匂いが、どこにもなかった。

キリは、再びヘッドセットに手を伸ばした。

「すいません。もう一度、ゴールド・スクラップに戻ります」

看護師は悲鳴のような声を上げたが、キリは聞かなかった。

電源が再起動する。視界が暗転する。

そして、ネオンと排ガス、金粉の匂いが、再びキリの意識を包み込んだ。

【プレイヤー名:キリ。ログインしました。】

【HP: 100/100。所持金: 35,000ゴールド。】

キリは立ち上がった。錆びついた非常階段、冷たいリボルバー、そして、黄金に憑かれた街。

「…ああ。これだ」

彼はにやりと笑った。

殺し屋キリは、今、現実へと帰還したのだ。

彼は再び、銃を構えた。

天才贋作師の立身出世 〜食の著作権時代を駆ける〜

第一章 飢えと最初の発明

寛政の末、江戸の裏長屋に暮らす少年、新太(しんた)は、十三歳にして既に独り立ちしていた。親は幼い頃に疫病で失い、日々の糧は魚河岸の手伝いや瓦版配りで稼いでいる。貧しいが、その眼差しには常に火が灯り、誰も真似できないほどの負けん気前向きさを持っていた。

新太が何よりも腹を立てていたのは、「食の著作権」という名の理不尽だった。

「どうして、腹を満たす方法にまで銭がいるんだ」

江戸の食文化は、二年前にレシピ著作権制度が導入されて以来、大きく変わった。有名な握り寿司や天ぷらの**「秘伝の配合」「揚げ方の手順」**は、大店の「調理著作物」として厳重に守られ、価格は高騰した。庶民の料理本は抽象的な内容ばかりになり、美味い飯の情報は富裕層の嗜みとなっていた。

新太の出世のきっかけは、ある冬の夜、空腹に耐えかねた末に生まれた。

彼は、近所の大店の前で嗅いだ、鰹出汁の残り香を頼りに、安く手に入れた大根とわずかな味噌を煮ていた。だが、有名な「三つ葉料亭」の**『雪見大根』**のレシピは著作権で保護され、材料の比率はおろか、どのタイミングで酒を入れるかさえ、知る術がない。

「だったら、盗むんじゃなくて、上書きすればいい

新太は燃えるような目で煮方を観察した。彼が気づいたのは、料亭の煮方が「完璧に均一」であること。しかし、貧しい新太が持つ大根は、端っこで硬い部分と中央の柔らかい部分が混ざっていた。

新太は、硬い部分を先に低温の出汁で時間をかけて煮含め、柔らかい部分を最後に加え、残りの味噌で「炙り味噌」にしてから乗せる、という二段階の煮込み方を編み出した。味は三つ葉料亭に劣らない、いや、貧しい食材の個性を活かした**「長屋風雪見大根」**だ。


第二章 贋作師としてのデビュー

新太は、この料理を隣の長屋の貧しい老夫婦に振る舞った。二人は涙を流して喜んだ。この評判が、一人の変わった版元(出版社の主人)の耳に入った。

版元の名は喜兵衛(きへえ)。彼は著作権侵害を恐れ、具体的なレシピ本を出せない状況に業を煮やしていた。

「お前さんの料理は、三つ葉の雪見大根に酷似しているが、**手順が違う。**これは既存の著作物を侵害しない、新たな発明だ!」

喜兵衛は新太の負けん気と発想を気に入り、契約を持ちかけた。

「世にはびこる、富める者のレシピを、庶民でも手の届く食材と手順で**『贋作(がんさく)料理』**として作り直す。料理の魂は残すが、手順は完全に変える。その著作権はお前が持つんだ」

新太の最初の仕事は、料亭「金龍」の**『鰻の二度焼き』**の贋作だった。金龍の鰻は、特許のような権利で守られた秘伝のタレと火加減が命。

新太は鰻に手を出さず、代わりに当時安価だった穴子を使うことを決めた。タレの味を複雑にするため、醤油と砂糖だけでなく、長屋で手に入る古漬けの沢庵の漬け汁を隠し味に加えた。さらに、二度焼きの「外側はパリッと、内側はふっくら」という食感を、高温の油で短時間揚げるという全く新しい手順で再現した。

『穴子の二度揚げ〜沢庵の香りを添えて』

金龍の料理とは似て非なる、庶民のための新しい味が誕生した。


第三章 料理著作権訴訟と逆転

新太が考案した穴子料理は、喜兵衛の出版した抽象的な調理エッセイ(レシピではない)を通じて口コミで広がり、庶民の間で大流行した。しかし、これに激怒したのが金龍の主人だった。

金龍はすぐに幕府の**「食の取締役」(グルメ取締役)**に訴え出た。

「この新太の穴子料理は、我が店の鰻の『創作性』、すなわち『二度加熱して食感を変える』という発明の骨子を侵害している!」

新太は貧しい身ながらも、奉行所の法廷に立たされた。法廷の周りには、新太の料理に救われた庶民や、著作権制度に苦しむ零細な料理人たちが詰めかけた。

金龍の主人は、秘伝のタレの製法や、二度焼きの手順を細かに記した正式な**「調理著作物」**を提示し、新太を追い詰めた。

しかし、新太はまっすぐと奉行を見据えて言い放った。

「私が発明したのは、鰻の調理法ではありません。穴子を高温で揚げるという新しい料理法です。タレの味の決め手は沢庵の漬け汁であり、金龍様のどの著作物にも、沢庵の漬け汁を使う手順は書かれておりません!」

新太は続けた。

「料理は、ただの手順ではなく、食材が持つ命をどう生かすか、という創意工夫です。金龍様は高い鰻を、私は安い穴子を。金龍様は手間のかかる焼きを、私は手早くできる揚げを。私の料理は、金龍様の『創作性』を借りたものではなく、貧しい者への『慈悲』から生まれた、全く新しい『発明』でございます!

奉行は深く頷いた。

「確かに、調理手順は完全に異なり、使用された食材も根本的に違う。お前の料理は、金龍の著作権を侵害していない、新たな著作物として認められる!」


最終章 「味の解放者」

新太の勝利は江戸の社会を大きく揺るがした。彼はただの貧しい小坊主から、一夜にして**「天才贋作師」、そして「食の解放者」**として英雄視された。

新太は、手に入れた権利収入を元手に、誰もが気軽に立ち寄れる屋台**『新太の創作所』を開いた。そこで彼は、次々と新しい「庶民のための贋作料理」**を編み出し、そのレシピを惜しみなく庶民の言葉で語り継いだ。

彼の料理は、既存の著作権に触れないように、必ず一つ、斬新な工夫が施されていた。それは、「庶民でも手に入る食材への愛」、そして**「不公平なルールへの徹底的な負けん気」**から生まれた、魂の叫びそのものだった。

やがて、新太は江戸随一の発明家としての地位を確立し、多くの弟子を持つに至った。彼は、誰もが腹いっぱい美味いものを食べられる未来を信じ、その道で立身出世を成し遂げた。彼の屋台の暖簾には、こう染め抜かれていた。

「真作より、贋作に愛がある」

禅の光と影 サイドB

雲水寺夜語り:断絶と執着
昔、雲水寺(うんすいじ)という古刹に、チンネンとボクネンという二人の小坊主がいた。

チンネンは、陽だまりのような温かい笑顔を持っていた。愛嬌があり、誰に対しても分け隔てなく接する彼の周りには、いつも笑い声が絶えない。寺の坊主たち、出入りの商人、近隣の農夫まで、皆が彼を可愛がった。その社交性ゆえか、一見すると座学や修行には身が入っていないようにも見えた。

ボクネンにとって、その陽光のような笑顔こそが、彼の心を灼く最大の業火だった。

ボクネンは、己の内に世界を閉じ込めるような、寡黙で生真面目な少年だった。朝から晩まで経典を読み込み、座禅の姿勢は微動だにしない。誰よりも勤勉で知識も豊富であったが、彼のすべての努力は、愛されることを知らない孤独な自分と、誰にでも平等に微笑みかけるチンネンの決定的な差を埋めるために捧げられていた。彼は他の坊主たちとは言葉を交わすことも少なく、唯一、チンネンの背中を、嫉妬と切望が混じった視線で追い続けることだけが、彼の日常のすべてだった。

ある日のこと、寺の和尚(おしょう)が、書物にも記されていない秘伝の経(きょう)の教えを、ひそかにチンネンに授け始めた。

「なぜ、この私ではないのですか。なぜ、私だけを見てくれない者が選ばれるのですか——」

修行で一日の大半を過ごすボクネンは、この出来事を、自分がチンネンから選ばれないことの決定的な宣告だと受け止め、耐えられなくなった。

「和尚様」

ボクネンは強い決意をもって進み出た。その声は震え、純粋な求道心ではなく、愛する者への執着からくるものであった。

「私はチンネンよりも多くの書物を読み、真摯に修行に打ち込んでおります。難しい奥義を授けるのであれば、学ぶ姿勢、知識の深さにおいて、私こそが先であるべきではないでしょうか」

和尚は静かに座禅を組み、目を閉じたままボクネンに語りかけた。その声は、深山の水のように澄んでいた。

「ボクネンよ。お前は真に勤勉であり、その熱意は尊い。だが、学問とは、書物の中だけに宿るものではない」

和尚はゆっくりと目を開け、穏やかに続けた。

「一見すると、チンネンは軽やかに見えるかもしれぬ。だが、彼は多くの者と常に情報と心を交換している。お前が求めているのは真理ではない。お前が求めているのは、チンネンその人だ。お前が真に彼を理解したいのであれば、お前が遠ざけている、彼が愛し、彼を形作っている世界を知らねばならぬ」

ボクネンは、その言葉が、自分の恋が修行の妨げになっていることを見抜かれていることに気づき、全身の血が引くのを感じた。

彼は深く頭を垂れた。そして、この日を境に、彼は努めて周りの人間と交流するようになった。それは、他者の声に耳を傾けるという新しい修行の道であると同時に、チンネンが愛する世界に身を投じ、その世界を通じてチンネンとの接点を探ろうとする、報われない愛の試みであった。

それから数十年という月日が流れた。

チンネンは、人々との交流の中で培った温かい心と知恵を買われ、修行した雲水寺の和尚となっていた。彼の寺は、地域の人々の心の拠り所として、常に賑わっていた。

一方、ボクネンは、その知識と努力が認められ、宗派の総本山へと移り、宗家の中枢で教義を司る上級の僧侶となっていた。二人は、互いへの制御不能な感情を、出世という名の「断絶」と「修行」によって封じ込め、何十年もの間、物理的な距離を保ち続けていた。

ある晩秋の夕暮れ、宗家の説教のために、立派な身なりになったボクネンが、雲水寺を訪れた。宗家の高僧としての威厳をまとったボクネンの姿は、もはや昔の小坊主ではなかった。

説教を終えた日の夜。二人は庵の一室で、久しぶりの再会を喜び合った。酒とは呼ばぬ般若湯(はんにゃとう)を静かに酌み交わし、若かりし日の懐かしい思い出話に花を咲かせた。しかし、その言葉の端々には、互いを思い続けた年月の重みと、取り戻せない時間の苦さが滲んでいた。

夜が更け、月の光が障子に細い影を落とす頃、チンネンがぽつりと呟いた。

「実はな、ボクネン。あの頃も、今も、私はお前のことを嫉妬していたのだ」

ボクネンは驚いて目を見開いた。

「私はこの寺とこの土地の人々を愛してきた。だが、お前のように宗家の本山へ行き、仏教の真髄に迫ることは叶わなかった。お前は、私には決して届かない、孤高の頂きに立っている。今も、宗門の柱として立派に立つお前を、羨ましいと思わずにいられない」

その言葉を聞き、ボクネンは笑った。それは、諦めと悲しみが混ざった、乾いた笑いだった。

「何を言う。私こそお前を羨ましく思っている」

ボクネンは続けた。

「私は宗家で、確かに高度な学問と知恵を追求している。だが、それは、この狭い宗派の世界の中でしか通用しない、限定された知恵かもしれぬ。それに比べ、お前は、この地の人々に心から愛され、多くの魂を救っている」

ボクネンは杯を置き、障子の影に映るチンネンの横顔を見つめた。

「お前の生き方こそ、生きた仏法だ。人々の顔を見、その手を取り、悩みを聞く。どれほど経典を読み込んでも、私にはお前のその温かさが、どうしても足りぬのだ。そして何より、私の二十年、三十年の努力は、お前のその温かい笑顔一つに勝てぬのだ。私は、誰にでも平等な光であるお前を、ただ一人占めしたいという業から、未だに逃れられていない」

二人は、それぞれの胸の内にあった報われない執着と、遠すぎた道の苦悩を打ち明け、顔を見合わせた。

その瞬間、ボクネンは立ち上がり、宗家の高僧の威厳をすべて捨てて、一歩、チンネンに近づいた。彼はただ、数十年ぶりに、彼の光の近くに身を置きたかった。

そして、「もう、離れないでくれ」という言葉の代わりに、ボクネンは、冷え切った自分の手のひらで、チンネンの頬にそっと触れた。

チンネンは何も言わず、その冷たい手に自分の手を重ねた。互いの道のりを認め合う、清々しい笑いはそこにはなかった。あったのは、互いの存在によってしか埋められない、数十年分の空虚な時間と、それを悟ってしまった、今更どうすることもできない、切なすぎる夜語りだけであった。

その後、二人はそれぞれが選んだ生き方に、互いを唯一の執着として抱き続け、二度と一線を越えることなく、それぞれの場所で禅の光を灯し続けたという。その心の奥底には、いつまでも消えない、遠い夜の温もりが残っていた。

どう読むか、この悲劇的な喜劇

前の二つの小説を読んでください。

あるミッション系高校の教室で、教育という名の茶番劇が上演された。登場人物は、二人の教師と、十七、八歳の感受性豊かな観客たち。そして、小道具は一冊の分厚い聖書である。

第一幕:心臓病のプロフェッショナルと、無秩序という名の儀式
チャイムが鳴る。主演は、病弱な心臓に信仰心を宿す高尾先生。しかし、舞台に登場したのは代理の西村浩介、歴史教師である。彼は、いつもの「無秩序」な光景に遭遇する。すなわち、授業開始と同時に、生徒が一斉に黒板脇の本棚に殺到し、分厚い聖書という名の「鈍器」を強奪する、この学校の伝統的な儀式だ。

西村は激怒した。その怒りのベクトルは、生徒の不真面目さではなく、「持病持ちの同僚への敬意を欠いた、準備の無さ」に向けられた。心臓に悪いという理由で怒りを募らせ、その怒りが自らの血圧を上げ、結果的に病気の同僚と同じような体調不良を引き起こすという、見事な自己言及のパラドックスを披露したのだ。彼は、誰にも一言の説明もなく、無言で退場した。

生徒たちからすれば、これはまさしく「突然、神隠しにあった教師」というホラーコメディである。教師は、自分の病気のリスクと、生徒への説明責任のどちらを「どう読むか」という選択を迫られ、両方を放棄したのだ。


休憩を挟み、「教育熱心病」を患う歴史教師、西村が再登場する。彼は鎮静剤で己の怒りを鎮めた後、一つの崇高な使命を帯びていた。「答えを与えるのではなく、自力で過ちに気付かせる」という、極めて抽象的な教育理念だ。

彼は、生徒たちが一向に理解できていない「なぜ高尾先生は消えたのか」という疑問に、正面から答えることを拒否する。代わりに与えられたのは、「ヒント」という名の、拷問的な言葉の連打だった。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

この授業で使う教科書のタイトルが、西村にとっての「真理の言葉」であった。彼は、声のトーン、イントネーション、表情を変えながら、このフレーズを二十回以上も繰り返したという。

生徒たちの視点から見れば、これは単なる「真面目な大人が故障した瞬間」に他ならない。彼らは、真剣に問いかける教師の姿を前に、「何か重要なことを言っているのだろう」と耳を傾けるが、聞こえてくるのは、「どう読むか聖書」という無意味な呪文だけだ。彼らの困惑は、「自責の念」ではなく、「教師の正気」に対するものへと変化した。

西村は、生徒たちが俯いたのを「反省」と読み取り、体が震えているのを「罪の意識」と読み取った。教師は、生徒の沈黙と身体的反応を、常に自分の都合の良いように「読んで」しまうのだ。


そして、極めつけの幕切れが訪れる。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」という、慈愛に満ちた(と本人が信じた)最後の問いかけの直後、一人の生徒、田中が堪えきれずに吹き出した。

田中が笑ったのは、西村の言葉ではなく、その言葉の反復によって生み出された滑稽さ、そして教師の意図と生徒の反応の、あまりにも巨大なズレだった。しかし、西村の脳内では、これは即座に「教師の威厳と、同僚の病気を嘲笑うニヒリズム的な反抗」と翻訳された。

西村は、自分の教育的アプローチの失敗を認める代わりに、田中を「犯人」に仕立て上げ、最初の被害者である高尾先生への謝罪という名目で「生贄」として差し出した。

こうして、この一件は終結した。西村は、「自力で気付かせる」という高邁な理念を掲げたにもかかわらず、最終的には「答えを理解できずに笑った生徒を罰する」という最も権威主義的で、最も教育的でない方法で幕を引いた。

最後まで、生徒たちは高尾先生の退場の理由も、西村先生の「どう読むか聖書」の真意も理解できなかった。彼らはただ、一連の出来事を、「二人の先生が、それぞれ別の理由で勝手に怒り、一人の生徒が巻き添えになった喜劇」として記憶するだろう。

結局、この物語で誰も「読めなかった」のは、教師たちの自己満足的な感情と、生徒たちの素直な困惑であった。「どう読むか聖書」。皮肉なことに、このタイトルこそが、教師と生徒の間に横たわる、永遠に埋まらない断絶を最も雄弁に語っていたのである。

「どう読むか聖書」地獄

山田(俺)の席は窓際の後ろから二番目。今日も今日とて、聖書の授業は地獄だった。ミッション系高校の慣例で、教室の黒板横にはデカい本棚があり、分厚くて邪魔くさい俺たちの聖書が並んでいる。授業が始まる直前に、一斉にわらわらとそこに取りに行くのが、このクラスのお約束だ。

聖書強奪と、消える先生
チャイムが鳴り、いつもの聖書の高尾先生がドアを開けた、その瞬間。

「よーし、強奪開始!」

誰かが叫ぶより早く、クラス全員が本棚ダッシュを決めた。ドタバタと聖書をひっつかみ、席に戻る。俺も自分の名前の入った分厚い鈍器(聖書のことだ)を抱えて席についた。

と、異変が起きた。高尾先生が、固まってる。

先生は普段からちょっと神経質なところがあったけど、今日は様子がおかしい。顔が真っ赤で、首筋の血管が妙に浮き出てる。「うわ、なんかキレてる?」と思った瞬間、先生は何も言わずに、まるで電源が切れたかのように、クルッとUターンして、そのまま職員室へ引き返していった。

「…は?」

教室は静寂に包まれた。何が起きた?聖書を取りに行ったのがマナー違反だった?いや、いつもやってるじゃん。

「おい、まさか俺たちのせいでブチ切れたんじゃねーの?」「いや、でも理由の説明ゼロだぞ?」「もしかして、先生、幻覚でも見たんじゃね?」「あの顔、なんか苦しそうだったよな。心臓止まったんじゃねーか?」

誰も真実を知らないまま、クラスはミステリー談義で盛り上がった。

壊れたレコーダーの襲来
10分ほどして、救世主が現れた。代わりに授業に来たのは、歴史担当の西村先生だ。この先生は普段は温厚だけど、たまに難しい顔をして「若者に自力で気付かせたい」みたいな教育熱心病を発症する厄介なタイプだ。

西村先生は、教壇に立つと、高尾先生の病気の事情は一切説明せず、やたら深刻な顔で俺たちを見回した。

「お前ら、なんでこんなことになったか、わかってるか」

全員が目を丸くして首を振る。「いえ、さっぱり」

西村先生は「チッ」と舌打ちしたように見えた。そして、ここからが悪夢の始まりだった。

「お前ら、いいか。高尾の授業は聖書の授業だ。そしてお前らが使っている教科書は、『どう読むか聖書』なんだぞ」

俺たちはポカンとした。「どう読むか聖書」。それがどうした?教科書の名前を暗唱しろってこと?

西村先生は俺たちが正解に辿り着くのを待っているようだったが、誰もピンとこない。すると先生は、イライラを抑えつつ、同じ言葉を繰り返した。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

誰も答えられない。俺たちの困惑を、先生は「ヒントが足りない」と解釈したらしい。

「お前らわかるか、どう読むか聖書なんだぞ」(←聖書に力を込める)

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ?」(←急におどけてみる)

先生はイントネーションを変え、声のトーンを変え、まるで再生速度を調整された古いカセットテープみたいに、同じフレーズを永遠に繰り返した。

俺たちの頭の中は「先生、どうした?」「何かのおまじないか?」「流行りのギャグか?」という疑問でいっぱいになった。真面目な顔で同じことを連呼する西村先生は、だんだん滑稽に見えてきた。

特にひどかったのは、先生が「威圧感を与えすぎたのでは」と勘違いした時の、あのおどけた言い方だ。あれには、普段からお調子者の田中が、口を手のひらで覆って必死に笑いをこらえているのが見えた。

田中、生贄になる
そして、先生は「厳しさ」に戻った。

「お前らわかるか!『どう読むか聖書』なんだぞ!」

そして、トドメとばかりに、連打を始めた。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ、お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ、お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!」

これはもう、精神攻撃だ。

俺たちは先生の異常な行動に、恐怖と、爆発寸前の笑いで俯いた。笑っちゃいけない雰囲気なのはわかる。だけど、先生が真面目に同じ言葉を三回繰り返すたびに、内臓が揺れる。多くの奴らが、肩を震わせて笑いを必死に押し殺している。

先生は、それを「反省の色」と勘違いしたようだ。最後の最後に、優しいトーンで言った。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

その瞬間、耐えきれなかった田中が、「ブフッ!」と盛大に吹き出した。

教室の笑いの堰が決壊した。

西村先生の顔が、今度はさっきの高尾先生とは違う、純粋な怒りで真っ赤になった。

「お、お前がやったのか!お前がこの状況を嘲笑ってるのか!すぐに高尾先生に謝って来い!」

田中は、笑い過ぎて涙目になりながら、先生の全く見当違いな怒りに巻き込まれて、生贄として職員室へ引きずられていった。

結局、俺たちは最後まで、高尾先生がなぜブチ切れて帰ったのかも、西村先生の「どう読むか聖書」が何を意味していたのかも、全く理解できなかった。ただ、あの日の聖書の時間は、先生の壊れたレコーダーと、一人の友人の壮絶な爆笑死をもって、伝説の喜劇として語り継がれることになった。

可哀想なのは田中だ。彼はただ、真面目な先生の滑稽な姿に耐えられなかっただけなのに。

どう読むか、この教室を

西村浩介は、ミッション系高校の教壇に立ちながら、自分の心臓の鼓動が不規則なリズムを刻むのを感じていた。彼は歴史担当だが、今日は病欠の高尾先生の聖書の授業代理でこの教室に来ている。

教室の黒板の横には、作り付けの年季の入った本棚がある。分厚い聖書を机にしまうには場所を取りすぎるため、生徒一人ひとりの名前が記された聖書が、そこに整然と並べられていた。

チャイムが鳴り、西村が教室のドアを開けた、まさにその瞬間だった。

それまでざわついていた教室内の十七、八歳の生徒たちが、まるで示し合わせたかのように一斉に立ち上がり、本棚へと殺到した。

「おい、待て!」

西村の脳裏に、心臓を患う高尾先生の顔が浮かんだ。高尾先生は、授業開始前に生徒が席で静かに待っている状態、つまり「準備」を重んじる先生だ。授業が始まってから、皆が一斉に私物を整理し始めるような「無秩序」を、彼は最も嫌う。

西村は代理とはいえ、高尾先生の苦労を知っていた。彼は、生徒たちが授業直前にようやく聖書を取りに行くという、準備を怠った彼らの無神経さに、猛烈な怒りを覚えた。それは、彼らの学習態度、そして高尾先生への敬意の欠如に見えた。

「何だ、この体たらくは…!」

その怒りは、持病を持つ西村の血圧を急激に押し上げた。頭がくらくらし、視界が白んでいく。怒りの感情が、心臓の痛みに変わる。彼は、生徒に何かを怒鳴りつけることも、状況を説明することもできず、ただ激しい動悸に耐えながら、無言で踵を返し、職員室へと引き返した。


職員室で鎮静剤を飲んだ西村は、高尾先生から事情を聞き、ふたたびその教室へと戻った。

教室は静まり返っていた。生徒たちは困惑の表情で、互いに顔を見合わせている。「先生は怒って出て行ったのか?」「何があったんだ?」彼らの間には、状況への理解が全くないことが見て取れた。

西村にとって、答えを出すのは簡単だった。「高尾先生は君たちが準備をしていなかったことに怒ったんだ」と。しかし、すでに十七、八歳にもなる彼らだ。教師が答えを与えるのではなく、自らの過ちに自力で気付いてほしい。それが、西村の教育者としての信念だった。

彼は、静かに教壇に立ち、そして問いかけた。

「お前ら、なんでこんなことになったか、わかってるか」

生徒たちは一様に首を振り、茫然としている。「いえ、さっぱり」という声が響く。

西村は、彼らにヒントを与えることを決断した。今日の授業で使う教科書の名を思い出す。それは『どう読むか聖書』という、実に示唆に富んだタイトルだった。

「お前ら、いいか。高尾の授業は聖書の授業だ。そしてお前らが使っている教科書は、『どう読むか聖書』なんだぞ」

彼は、生徒たちの反応を待った。彼らは目を丸くしているが、それが「どう読むか」に繋がっているのかは理解できていない。西村は、いらだつ心を抑え、同じ言葉を繰り返す。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

困惑は深まるばかりだ。西村は考えた。伝え方が悪いのか。

今度は「聖書」に力を込めてみる。

「お前らわかるか、どう読むか聖書なんだぞ」

反応は変わらない。むしろ、教師の繰り返す言葉に、彼らはますます混乱している。

西村は、威圧感が邪魔をしているのではと推測し、態度を一変させた。おどけた調子で、少し笑顔さえ作って同じ言葉を繰り返す。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ?」

しかし、生徒たちの表情は変わらない。それどころか、教師の甘い態度を察したのか、クラスの隅で薄ら笑いを浮かべる生徒がいる。反省の色は、微塵も見えない。

「やはり、この世代には厳しさが必要なのか…」

西村はそう思い直し、再び語調を厳しくして詰め寄った。

「お前らわかるか!『どう読むか聖書』なんだぞ!」

厳しさが効いたのか、何人かの生徒は体を震わせている。答えには辿り着いていないようだが、その瞳の奥で、何かが働きかけている。

彼は、繰り返せば理解に繋がると信じ、壊れたレコーダーのように同じ言葉を畳み掛けた。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!」

多くの生徒が俯いた。西村は「よし」と思った。彼らは自分の行動の愚かさを理解し、己を恥じているのだろう。思春期の生徒は、なかなか素直に謝れないものだ。

最後に、彼は慈愛に満ちた教師の顔を作り、優しく問いかける。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」


一息ついた静寂の中、クラスのいつもお茶らけている生徒が、突然吹き出した。

「くっくっく…」

西村の思考は一瞬にして凍りついた。彼は必死に彼らに気付きを与えようとしていた。彼らの無準備が、病を持つ教師の命を危険にさらしたことを、「どう読むか」を問いかけていたのだ。

しかし、この生徒には、彼の真剣な思いは届いていなかった。真面目な大人を馬鹿にし、ニヒリズムを気取っている自分が格好いい、そう思っているに違いない。

西村の心は、怒りへと転じた。彼はこの笑い出した生徒こそが、クラスの雰囲気を乱し、教師の意図を嘲笑っている「犯人」だと決めつけた。

「お前が、やったのか。すぐに高尾先生に謝って来い!」

生徒はしぶしぶ、西村の指示に従い、職員室で休んでいる高尾先生に謝罪に向かった。これで一件落着。そう思ったのは、教師である西村だけだった。

生徒たちは、最後まで高尾先生が教室から出て行った理由を全く理解できなかった。

困惑の中で教室に入ってきた西村先生は、何か重要な答えをくれると期待していた。しかし、彼は滑稽なほどに同じ言葉を繰り返すだけだった。生徒たちの目には、教師の真剣な「気付きを促す問いかけ」は、ただの壊れたジョークにしか映らなかったのだ。

彼らは、笑いをこらえることに必死で、俯き、肩を震わせていた。そして、とうとうこらえきれずに吹き出してしまった生徒は、残念ながら、教師の感情的な裁きの生贄となってしまった。

「どう読むか聖書」という言葉の裏に隠された教師の思いは、結局、生徒たちの心の扉を開くことなく、言葉の暴力として受け取られ、彼らの間に、深い溝と、滑稽な誤解だけを残した。西村は、彼らに「読ませる」ことはできなかったのだ。

こんな夢を見た

加藤健吾、30代の日本人考古学者である彼は、いつものようにジャングルの湿った空気を吸い込んでいた。ここは地球の肺、アマゾン川のさらに奥地。彼のキャリアのほとんどは、この地で失われた文明の痕跡を追うことに費やされてきた。

「健吾、無理しないでね」

出発前、東京の自宅で、妻のアンバーが心配そうに言った言葉が、湿った空気の中にふと蘇る。アンバーは、彼の研究を理解し、いつも支えてくれる太陽のような女性だった。

調査は順調に進み、新たな遺跡の断片を発見できた喜びも束の間、異変は静かに、そして素早く起こった。現地ガイドが発熱で倒れ、健吾自身も激しい悪寒に襲われた。熱帯特有の熱病かと思ったが、幸いにも彼の体力と免疫が勝った。数日で症状は治まり、調査は続けられた。現地医師は「一時的な風土病でしょう」と診断した。

健吾は知らない。彼の体内で、アマゾン奥地の古代の菌株が変異した、恐ろしい「何か」が静かに定着したことを。彼は、それをただの「治った風邪」として、自身のキャリアの成果と共に日本へと持ち帰ってしまったのだ。

帰国後、健吾は精力的に研究と論文執筆に取り掛かった。体調は万全。何事もなかったはずだった。

異変は、彼が帰国して一ヶ月後の夜に起こった。

「健吾、私、体がだるいの…それに、寒気がする」

アンバーの声に、健吾はハッとして彼女を見た。彼女の肌が、照明の加減か、わずかに青みを帯びているように見えた。翌日、病院で精密検査を受けたが、原因は特定できない。ただ、アンバーは徐々に様子がおかしくなっていった。

最初は些細なことだった。些細な音に過剰に反応し、夜中にうなされる。だが、数日のうちにそれは悪化し、彼女の瞳からは理性的な光が消え、代わりにある種の獰猛さが宿るようになった。そして、彼女の肌は、深く、鮮やかな青色へと変色していった。

ある晩、健吾が書斎で作業をしていると、背後から物音がした。振り返ると、青い肌と充血した眼を持つアンバーが、信じられないほどの力で本棚を押し倒し、獣のような唸り声を上げながら彼に襲いかかろうとしていた。

「アンバー!やめてくれ!」

健吾は恐怖と混乱で叫んだ。これが、彼がアマゾンから持ち帰った「キャリア」の真の姿だった。このウイルスは、感染者を凶暴化させ、皮膚を青く染め、そして、接触や体液を通じて恐ろしい速度で増殖する化け物へと変貌させるのだ。

健吾はなんとかアンバーを拘束し、感染のメカニズムを理解しようと必死になった。彼自身の体内で抗体ができたのは、ウイルスの変異初期に感染したためかもしれない。彼は一縷の望みをかけ、隔離した自宅で治療法を探したが、時間は彼を待ってはくれなかった。

アンバーは拘束を破り、外の世界へと飛び出した。そして、その恐ろしいウイルスの拡散源となってしまった。

街は地獄と化した。青い肌の化け物たちが人々を襲い、次々と感染者を増やしていく。警察も軍隊も、その狂暴な集団の爆発的な増殖には対処できなかった。健吾は、自分が引き起こした惨状に打ちひしがれながらも、唯一、アンバーを止めることだけを考えた。

彼は、狂気の中心へと向かった。そこには、数え切れないほどの青い化け物たちを率いる、一際大きく、凶暴な一体がいた。それは、かつての彼の愛する妻、アンバーの姿を留めた、化け物のボスだった。

「アンバー…俺が、全部終わらせる」

健吾は最後の力を振り絞ってボスに立ち向かった。だが、力は圧倒的だった。激しい格闘の末、彼はボスとなったアンバーによって組み伏せられる。

牙が彼の首筋に食い込み、熱い痛みが走った。彼は知った。これで終わりだと。

ウイルスは、彼という抗体を持つ最後の理性的な人間をも飲み込んだ。痛みと狂気が全身を駆け巡り、彼の肌も徐々に青く染まり始める。意識が遠のく直前、健吾はポケットから調査用のメモ帳とペンを取り出し、震える手で最後の言葉を書き付けた。

「ボスはアンバー」

日本は青い肌の化け物の国と化した。その頂点には、かつての愛と優しさを完全に失った、アンバーという名のボスが君臨している。

健吾は、アンバーの忠実な、新たな青い化け物の一員として、かつて愛した女性の支配下で、永久の狂気の中で咆哮を上げ続けた。彼の人生を賭けた考古学の発見は、皮肉にも、文明を終わらせる災厄となったのだ

禅の光と影

昔、雲水寺(うんすいじ)という古刹に、チンネンとボクネンという二人の小坊主がいた。

チンネンは、陽だまりのような温かい笑顔を持っていた。愛嬌があり、誰に対しても分け隔てなく接する彼の周りには、いつも笑い声が絶えない。寺の坊主たち、出入りの商人、近隣の農夫まで、皆が彼を可愛がった。その社交性ゆえか、一見すると座学や修行には身が入っていないようにも見えた。

一方、ボクネンは、己の内に世界を閉じ込めるような、寡黙で生真面目な少年だった。朝から晩まで経典を読み込み、座禅の姿勢は微動だにしない。誰よりも勤勉で知識も豊富であったが、他の坊主たちとは言葉を交わすことも少なく、その孤高な態度は、時として軋轢を生んだ。

ある日のこと、寺の和尚(おしょう)が、書物にも記されていない秘伝の経(きょう)の教えを、ひそかにチンネンに授け始めた。

修行で一日の大半を過ごすボクネンは、これを見て耐えられなくなった。

「和尚様」

ボクネンは強い決意をもって進み出た。

「私はチンネンよりも多くの書物を読み、真摯に修行に打ち込んでおります。難しい奥義を授けるのであれば、学ぶ姿勢、知識の深さにおいて、私こそが先であるべきではないでしょうか」

和尚は静かに座禅を組み、目を閉じたままボクネンに語りかけた。その声は、深山の水のように澄んでいた。

「ボクネンよ。お前は真に勤勉であり、その熱意は尊い。だが、学問とは、書物の中だけに宿るものではない」

和尚はゆっくりと目を開け、穏やかに続けた。

「一見すると、チンネンは軽やかに見えるかもしれぬ。だが、彼は多くの者と常に情報と心を交換している。病で苦しむ村人の悩み。旅の僧がもたらす遠方の宗派の教え。市井の人々の暮らしの智慧。彼はそれらを、経典と同じように、己の糧としている。その知識の幅広さは、お前が想像する以上に深く、そして実用的なのだ」

書物から頭を上げず、自分の努力だけを絶対視していたボクネンは、その言葉に顔が熱くなるのを感じた。それは、己の過信と狭量さを、冷たい水で洗い流されるような恥ずかしさであった。

ボクネンは深く頭を垂れた。そして、この日を境に、彼は努めて周りの人間と交流するようになった。勤勉さはそのままに、他者の声に耳を傾けるという、新しい修行の道を歩み始めたのである。

それから数十年という月日が流れた。

チンネンは、人々との交流の中で培った温かい心と知恵を買われ、修行した雲水寺の和尚となっていた。彼の寺は、地域の人々の心の拠り所として、常に賑わっていた。

一方、ボクネンは、その知識と努力が認められ、宗派の総本山へと移り、宗家の中枢で教義を司る上級の僧侶となっていた。

ある晩秋の夕暮れ、宗家の説教のために、立派な身なりになったボクネンが、雲水寺を訪れた。

説教を終えた日の夜。二人は庵の一室で、久しぶりの再会を喜び合った。酒とは呼ばぬ般若湯(はんにゃとう)を静かに酌み交わし、若かりし日の懐かしい思い出話に花を咲かせた。

夜が更け、月の光が障子に細い影を落とす頃、チンネンがぽつりと呟いた。

「実はな、ボクネン。あの頃も、今も、私はお前のことを嫉妬していたのだ」

ボクネンは驚いて目を見開いた。

「私はこの寺とこの土地の人々を愛してきた。できる限りの修行に励んだつもりだ。だが、お前のように宗家の本山へ行き、仏教の真髄に迫ることは叶わなかった。今も、宗門の柱として立派に立つお前を、羨ましいと思わずにいられない」

その言葉を聞き、ボクネンは静かに微笑んだ。そして、般若湯の入った杯を掲げた。

「何を言う。私こそお前を羨ましく思っている」

ボクネンは続けた。

「私は宗家で、確かに高度な学問と知恵を追求している。だが、それは、この寺の中、この狭い宗派の世界の中でしか通用しない、限定された知恵かもしれぬ。それに比べ、お前は、この地の人々に心から愛され、その日々の苦しみや喜びに寄り添い、多くの魂を救っている」

「お前の生き方こそ、生きた仏法だ。人々の顔を見、その手を取り、悩みを聞く。どれほど経典を読み込んでも、私にはお前のその温かさが、どうしても足りぬのだ」

二人はお互いの胸の内を打ち明け、目を見合わせた。そして、声に出して笑い合った。それは、お互いの道のりを認め合い、その価値を確かめ合う、清々しい笑いだった。

その後、二人はそれぞれが選んだ生き方に確かな自信を抱き、生涯、多くの人々を導く素晴らしい僧侶として、それぞれの場所で禅の光を灯し続けたという。