ミラクルニンジャガール 第六話

第1章:地中海からの誘惑者

ブロンクスのハイスクールに激震が走った。転校生が来たのだ。 彼女の名はソフィア・ロッソ。イタリア、ローマ出身。

教室のドアが開いた瞬間、男子生徒たちの視線が釘付けになった。80年代のファッション誌から飛び出したような、とんでもなくグラマラスなプロポーション。タイトなデザイナーズ・ジーンズが、彼女の曲線美を強調して悲鳴を上げている。

「チャオ! ソフィアよ。趣味はパスタ作りと、情熱的なアモーレ(愛)を探すこと」 ウインク一つで、教室の温度が確実に5度上がった。

「なんてこった……。大地の精霊が、彼女のフェロモンにひれ伏している……」 隣の席で、常に冷静沈着な戦士イーグルが、鼻血を出して白目を剥いた。完全に魂を持っていかれている。

ソフィアの視線は、すぐにクラスの頂点(カーストトップ)、ブラッドに向けられた。 「あなた、いい男ね。ローマの彫刻みたい。放課後、私の手作りラザニアを食べに来ない? マンマ直伝の濃厚なソースよ」

ブラッドは爽やかに笑ってかわした。 「ありがとう、ソフィア。でも僕はハンバーガーとコーラがあれば十分さ。それに、今夜はチアリーダーたちとの『作戦会議』で忙しいんだ」 さすがは学園のスター、美女の直球アピールにも動じない。

しかし、ジェニファーの心は穏やかではなかった。 (なによあの女……! 胸囲が私の倍はあるじゃない! しかもラザニアですって!? こっちは生のタコしか勝負球がないのに!) 強力すぎるライバルの出現に、ジェニファーの危機感はMAXに達した。

帰宅後、ジェニファーは道場で祖父に泣きついた。 「グランドマスター! 緊急事態です! ローマ帝国がブラッド様を侵略しに来ました!」

ヒロはサングラスの位置を直し、厳かに言った。 「慌てるな。今日の金言はこれだ。『カベ・ニ・ミミ・アリ・ショウジ・ニ・メ・アリ』」

「その意味はこうだ。『日本の家屋は壁が薄い。ゆえに、恋のライバルは常に壁の向こう側からお前の隙を盗み見ていると思え。二十四時間、全方位を警戒せよ』」 「なるほど……! 恋愛とは、終わりのない諜報戦なのですね!」

第2章:アナーキー・イン・ザ・N.Y.

その夜、マンハッタンのタイムズスクエアが狂気に包まれた。 「ヒャッハー! 体制なんざクソくらえ! 自由こそが全てだ! ルールなんて破るためにあるんだよぉ!」

破壊の中心にいたのは、スパイクヘアに、体のラインが丸分かりの過激なボンテージ・ファッション(ほぼ下着)に身を包んだ女。自らを**「パンクボディ」**と名乗る、自由を求めるアナーキストだ。彼女は改造したエレキギターをかき鳴らし、破壊的な音波でショーウィンドウを粉砕していた。

そこへ、星条旗の男が現れた。ジャスティススターだ。 「待て! 貴様のやっていることは破壊活動だ! だが……『自由』を求めるその魂、嫌いじゃないぜ!」

ジャスティススターの歪んだ愛国心が、パンクボディの歪んだ自由思想と共鳴した。 「ほう、アンタ、話せる口だね。どうだい、一緒にこの街を『解放』しないか?」 「いいだろう! 今夜のアメリカは、ロックンロールだ!」

最悪のタッグが結成された。

第3章:自由の名の暴力

桜色の煙と共に、ミラクルニンジャガールが到着する。 「そこまでよ! 自由を履き違えた無法者たち! 私が和の心で縛り上げてあげる!」

「出たな、ピンクの体制側!」パンクボディがギターを構える。 「喰らいな! 『セックス・ピストルズ・ソニック(騒音地獄)』!!

ギャギャギャギャーン! 凄まじいノイズがジェニファーを襲う。 「くっ、うるさい! なんて下品な音なの!」

さらにジャスティススターが火炎放射を放つ。音波と炎の挟み撃ち。ジェニファーは防戦一方となる。

その時、パンクボディの音波攻撃が、味方であるはずのジャスティススターにも直撃した。 「ぐああっ! 何をする、このアマ!」 「アハハ! ごめんよ相棒、アナーキーに味方なんていないのさ!」

ジャスティススターが吹き飛ばされ、一時的に戦線離脱する。 「今だ! とどめだ! この『アナーキー・ピン・ミサイル』で、蜂の巣になりな!」 パンクボディが服のあちこちに付けた巨大な安全ピンを引き抜いた。無数の鋭利な金属が、動けないジェニファーに向かって放たれた。回避不能!

(しまっ……!)

第4章:本能のタッチダウン

その瞬間。 路地裏から、一人の男が弾丸のように飛び出した。

たまたま近くを通りかかった(という設定の)、アメフト部のスタジャンを着たブラッドだ。彼は、死地に立つピンクの少女を見た瞬間、思考するより先に体が動いていた。

「危ないッ!」

ブラッドは、全米No.1クォーターバックの脚力でアスファルトを蹴り、ジェニファーに向かって決死のダイビング・タックルを敢行した。 彼はジェニファーを抱きかかえるようにして地面を転がり、近くにあった工事用の鉄板の影に滑り込んだ。

カカカカカッ! 安全ピンの嵐が、彼らがいた場所のアスファルトを蜂の巣にする。

「……っつ!」 ブラッドの腕を、数本のピンがかすめていた。血が滲む。

ジェニファーは目を見開いた。目の前にいるのは、憧れのブラッド様。 「ブ、ブラッド様!? なぜ、貴方がここに!?」

ブラッド自身も、自分の行動が信じられない様子だった。荒い息を吐きながら、彼は呟いた。 「わ、分からない……。君が危ないと思った瞬間、体が勝手に動いていたんだ。まるで、絶対に守らなきゃいけない大切なものを、見つけたみたいに……」

(私が……大切なもの……?) ジェニファーの胸が、激しく高鳴った。

第5章:静寂の茶室

「チッ、邪魔が入ったか!」パンクボディが舌打ちする。

「ブラッド様、下がっていてください。この礼は、必ず!」 愛する人に守られた。その事実が、ジェニファーのチャクラを極限まで高めた。

彼女は懐から茶筅(ちゃせん)と抹茶碗を取り出し、その場で静かに茶を点て始めた。戦場の中心で、異様な静けさが生まれる。

「あ? 何やってんだ、テメェ!」 パンクボディがギターをかき鳴らすが、音が出ない。

「新忍法! サイレント・ティーセレモニー(静寂の茶室空間)!!」

ジェニファーが作り出したのは、あらゆる騒音と暴力を無効化する「ワビ・サビ」の結界だった。 「本当の自由とは、静けさの中にあるのよ!」

彼女は点てた熱々の抹茶を、パンクボディの顔面にぶちまけた。 「熱っ! 苦っ! 何これ、泥水!?」 「それは最高級のウジ抹茶よ! カテキンのパワーで心を清めなさい!」

視界を奪われたパンクボディに、ジェニファーはショーグンソードの峰打ちを叩き込んだ。 「成仏なさい!」

ドカォォォン! パンクボディは、壊れたギターと共に夜空の星となった。

第6章:本物の恋

戦いが終わり、静寂が戻った。 遅れて現場に戻ってきたジャスティススターは、倒されたパンクボディを見て舌打ちし、そのまま姿を消した。

ジェニファーは、腕に怪我を負ったブラッドの元へ歩み寄った。

「あの、お怪我は……」 ニンジャガールとしての彼女は、彼に正体を明かせない。他人行儀に話しかけるしかない。

ブラッドは痛む腕を押さえながら、爽やかに笑った。 「平気さ。かすり傷だよ。それより、君が無事でよかった。名もなきヒーローさん」

その笑顔を見た瞬間、ジェニファーの中で何かが決定的に変わった。 ソフィアの出現に焦っていた自分。憧れだけで見ていた自分。そんなものは吹き飛んだ。

彼こそが、命を賭して自分を守ってくれた、真の「サムライ」なのだ。

(ブラッド様……。私、決めました。貴方へのこの想い、もう誰にも、何にも揺るがせはしません)

彼女はマスクの下で、強く唇を噛み締めた。 これはもう、単なるハイスクールの恋ではない。忍びの命をかけた、本物の愛の始まりだった。

1980年、ニューヨーク。摩天楼の影で、少女の決意が鋼のように固まった。

ミラクルニンジャガール 第五話

第1章:ショーグンからの勅命

ブロンクスの地下道場。今日の空気はいつになく重かった。グランドマスター・ヒロが、神棚の前で深刻な面持ちで座している。

「ジェニファーよ。国家存亡の危機だ」 「国家……アメリカですか? それとも日本?」

ヒロはゆっくりと首を横に振った。 「両方だ。間もなく、合衆国大統領がニューヨークを訪問する。奴は親日家でな。毎朝『カリフォルニア・ロール』を食べるという、日米の架け橋となる重要人物だ」 「カリフォルニア・ロール……! アボカドとマヨネーズという邪道を許容する、寛大なる心の持ち主ですね」

ヒロは頷き、一枚の写真を取り出した。写っていたのは、港湾地区を牛耳るマフィアのドン、通称**「ウォータードラゴン」**。常に濡れたようなスーツを着て、不敵な笑みを浮かべる男だ。

「この男が、大統領暗殺を企てている。ウォーターフロントの利権を脅かされるのを恐れたのだろう。奴の背後には、巨大な闇組織『ブラック・スシ・シンジケート』の影も見え隠れする」 「許せません。大統領の命と、カリフォルニア・ロールの未来を守らねば!」

ヒロは今日の金言を授けた。 『ゴ・エツ・ドウ・シュウ

「その意味はこうだ。『呉の国の者と越の国の者は仲が悪いが、同じ船が嵐に遭えば、互いに助け合う。つまり、非常時には嫌いな奴とでも手を組んで、嵐(トラブル)を乗り切れ』」 「嫌いな奴と手を組む……それが忍びの任務なのですね」

第2章:愛国者の怒り

一方、マンハッタンのペントハウス。ブラッドはテレビのニュースを見て、プロテインシェイカーを握り潰した。

『――大統領のNY訪問を前に、港湾地区で不穏な動きが……』

「大統領を狙うだと? 自由の国アメリカの象徴を!」 ブラッドの愛国心リミッターが振り切れた。彼の脳内では、大統領は常に鷲を肩に乗せ、片手でハンバーガーを持ち、もう片方の手で憲法を掲げている聖なる存在だ。

「許さん。アメリカの敵は、この俺、ジャスティススターが排除する!」 彼は星条旗スーツを身にまとい、白塗りのメイクを施した。狂気のヒーローが、再び夜の街へ解き放たれる。

第3章:埠頭の遭遇

深夜の第88番埠頭。潮の香りと腐敗臭が混ざり合う場所。 ウォータードラゴンは、部下たちに囲まれ、密輸された武器の山を前に悦に入っていた。

「フフフ。これで大統領のパレードを水浸しにしてやる。ニューヨークの港は俺の庭だ」

その時、倉庫の天井から桜色の煙幕弾が落ちた。 「アイエエエ! 潮風が目に染みるわ、悪党ども!」 ミラクルニンジャガールが、コンテナの上に音もなく着地する。

「誰だ貴様は! やってしまえ!」 ウォータードラゴンの部下たちが銃を構えた瞬間。

ドガァァァン! 倉庫の壁が突き破られ、星条旗柄の暴走トラックが突っ込んできた。

「ヒャッハー! 不法入国者ども、検疫の時間だぜ!」 トラックの屋根から、松明を振り回すジャスティススターが飛び降りた。

三つ巴の状況。ジェニファーとブラッドは互いを睨みつけた。 「貴様! また邪魔をしに来たか、ピンクの猿!」 「黙んなさい、星条旗の狂人! 今夜の獲物は私のものよ!」

しかし、二人の視線は同時にウォータードラゴンに向いた。 「……待て。貴様の狙いも、あの大統領暗殺未遂犯か?」とジャスティススター。 「ええ。奴は日米の友好を脅かす国賊よ」とニンジャガール。

二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた。ヒロの金言が脳裏をよぎる。『ゴ・エツ・ドウ・シュウ』。

「……いいだろう。一時休戦だ。アメリカの正義のために!」 「……承知したわ。武士の情けで、今夜だけは共闘してあげる!」

第4章:噛み合わない歯車

「馬鹿な! あのイカれた二人が手を組んだだと!?」 焦るウォータードラゴン。

最強(最狂)のタッグが誕生したかに思えた。しかし、戦闘が始まるとすぐに問題が発生した。

ニンジャガールは、コンテナの影に潜み、静かに敵を仕留めようとした。 「忍法・影縫い……」

しかし、その横でジャスティススターが、持参した巨大なラジカセのスイッチを入れた。大音量で流れる国歌『星条旗よ永遠なれ(ロックバージョン)』。

「うるさいわね! 隠密行動が台無しじゃない!」 「何を言う! 戦場にはBGMが必要だ! これが士気を高めるアメリカン・スタイルだ!」

彼らの「文化」は、根本的に相容れなかった。

ウォータードラゴンが、高圧放水砲を構える。 「まとめて海の藻屑となれ!」

「危ない! ここは『柔よく剛を制す』。柳のように攻撃を受け流すのよ!」 ニンジャガールが防御の姿勢を取る。

しかし、ジャスティススターは真正面から突っ込んだ。 「馬鹿野郎! アメリカン・フットボールに『受け流す』なんて言葉はない! 前進あるのみだ!」

彼は放水をもろに浴びながらも、強靭な肉体で前進し、放水砲を素手で破壊した。 「見たか! これがフロンティア・スピリットだ!」 「野蛮すぎるわ! 少しは『ワビ・サビ』の心を持ちなさい!」

第5章:決裂の時

かろうじて雑魚を蹴散らし、二人はウォータードラゴンを追い詰めた。

「くそっ、覚えてろよ!」 ウォータードラゴンが海へ飛び込もうとする。

「逃がすか!」 ニンジャガールが素早く印を結んだ。 「水遁の術! 逆巻く渦潮(トイレット・フラッシュ)!」 彼女がチャクラを練ると、海面が渦を巻き、まるで巨大なトイレのようにウォータードラゴンを吸い寄せた。

「ぎゃあああ! 水が、水が汚い!」 汚染されたニューヨーク港の海水に揉まれ、気絶するウォータードラゴン。

敵は倒れた。しかし、本当の戦いはここからだった。

ニンジャガールは、気絶したウォータードラゴンを引き上げ、彼に短刀を持たせた。 「さあ、武士らしく腹を切りなさい。それが最後の名誉よ」 彼女なりの慈悲、そしてけじめのつけ方だった。

それを見たジャスティススターが激昂した。 「何をやっている、この野蛮人が! ここは法治国家アメリカだ! 裁判にかけて、陪審員の前で裁くんだ!」

「なんですって!? 恥を晒して生きろと言うの? それこそ武士道への冒涜よ!」 「ハラキリだと!? そんなカビの生えた風習、この国では認めん! 人権侵害だ!」

互いの「正義」が衝突する。共闘の熱は冷め、再び敵意の炎が燃え上がった。

「やはり貴様とは分かり合えん! その歪んだ日本文化、私が矯正してやる!」 ジャスティススターが自由の松明を構える。

「望むところよ! 貴様のアメリカン・エゴイズム、私の刀で断ち切ってくれるわ!」 ニンジャガールがショーグンソードを抜く。

月明かりの下、倒れた共通の敵を放置したまま、二人のヒーロー(?)は再び激突した。 「「覚悟しろーッ!」」

埠頭に爆発音が響き渡る。 日米の同盟は、一夜にして崩れ去った。文化の壁は、鋼鉄よりも厚く、そして高かったのだ。

1980年、ニューヨーク。多様性の街とは名ばかりの、分かり合えない魂たちが、今夜も火花を散らす。

ミラクルニンジャガール 第四話

第1章:忍びの恋は修羅の道

ブロンクスの地下道場。張り詰めた空気の中、ジェニファーは一心不乱に木人を打ち据えていた。

「ジェニファーよ、拳に迷いがあるぞ」 グランドマスター・ヒロが、サングラス越しに鋭い視線を送る。

「申し訳ありません、祖父様。最近、胸のチャクラが騒いで集中できないのです」 彼女の脳裏に浮かぶのは、学校のカフェテリアで爽やかに笑うブラッドの姿だった。

ヒロは厳かに頷き、今日の金言を授けた。 「心して聞け。『アブハチ・トラズ』」

「その意味はこうだ。『二つの愛を同時に追う者は、虻(アブ)と蜂(ハチ)の両方から刺されてアナフィラキシーショックで死ぬ。ゆえに、忍びの恋は命がけの修羅道と知れ』」 「なんと恐ろしい……! 恋とは、毒虫との戦いなのですね」

ジェニファーは戦慄した。ブラッドへの想いは、死に至る猛毒なのだ。

一方、その頃。マンハッタンの高級ペントハウス。 アメフト部のスター、ブラッドは鏡の前で苦悩していた。彼の爽やかな笑顔の下には、誰にも言えない闇が渦巻いていた。

「くそっ、またあのニンジャガールの夢を見た……」 彼もまた、夜の街で出会ったあの強くて美しい戦士に、心を奪われていたのだ。しかし、彼にはもう一つの顔があった。

ブラッドは隠し部屋に入り、星条旗柄のスーツを手に取った。 「昼の僕は、みんなの期待に応える完璧なクォーターバック。だが夜は……この腐った街を浄化する、真の愛国者(パトリオット)にならねばならない!」

彼は顔に白塗りのメイクを施した。鏡に映るのは、狂気のアメリカン・ヒーロー、ジャスティススターの姿だった。

第2章:復活の星条旗

その夜、サウス・ブロンクスの倉庫街で爆発が起きた。 「ヒャッハー! 宇宙から帰還したぞ! リブート(再起動)完了だ!」

復活したジャスティススターが、密輸業者の倉庫を「自由の松明(火炎放射器)」で焼き払っていた。

「前回の敗北で学んだ! 今度の俺は、対ニンジャ用OSにアップデートされている!」 彼のスーツは、以前よりも分厚い装甲で覆われていた。

「そこまでよ! 宇宙の塵となったはずの狂人が、性懲りもなく!」 桜色の煙と共に、ミラクルニンジャガールが現れる。

二人は対峙した。互いのマスクの下の素顔が、昼間は想いを寄せる相手だとは、知る由もない。

「貴様か、ピンクの猿め! 今日こそは星条旗のキルトにしてやる!」 「黙りなさい! その歪んだ正義、私が叩き直してあげるわ!」

戦闘開始。ジャスティススターの動きは、以前とは比べ物にならないほど洗練されていた。それはまるで、一流のアスリートのような……そう、アメフトのトッププレイヤーのような動きだった。

「くっ、速い! まるでタックルを避けるクォーターバックのようね!」 ジェニファーは防戦一方となる。ショーグンソードの斬撃も、強化された装甲に弾かれてしまう。

第3章:大地の友と魂の叫び

「ハハハ! どうしたニンジャガール! 貴様の『和の心』は錆びついたか!?」 ジャスティススターが、とどめの「独立記念日ミサイル(小型ロケット弾)」を構えたその時。

ヒュンッ! ドスッ!

一振りのトマホークが飛来し、ミサイルの発射口に突き刺さった。 「なんだと!?」

倉庫の屋根に、誇り高き戦士の姿があった。 「大地の精霊が泣いているぞ、星条旗の男よ!」 イーグルだ。彼は友達のピンチを察知し、駆けつけたのだ。

「イーグル! 来てくれたのね!」 「ああ。精霊の導き(という名の警察無線傍受)でな。ジェニー、奴の動きは直線的だ。大地の呼吸を読め!」

イーグルは懐から、乾燥させた特殊なハーブを取り出し、火をつけた。 「ネイティブ奥義! スモーク・シグナル・オブ・コンフュージョン(大いなる幻覚の煙)!!」

もくもくと広がる独特な甘い香りの煙が、ジャスティススターを包み込む。 「ええい、なんだこの煙は! 視界が……バッファローの大群が見える!?」 ジャスティススターが幻覚に惑わされ、動きが止まる。

「今よ、ジェニファー! 日本の魂を見せてやれ!」

第4章:新奥義、彼岸への舞

ジェニファーは刀を納め、両手を広げた。チャクラを丹田に集中させる。 祖父が言っていた。「忍びの恋は修羅の道」。ならば、この恋心も、修羅の炎に変えて敵を討つ力とする!

彼女はゆっくりと、しかし力強くステップを踏み始めた。 「日本の夏……それは死者の魂が帰る季節。そして、生者が踊り狂う宴の刻!」

彼女の動きに合わせて、周囲の空気が熱を帯び、赤く発光し始める。

「新必殺技! ボン・フェスティバル・ダンス・オブ・デス(地獄の盆踊り)!!」

ジェニファーは高速で回転しながら、独特なリズムで手足を打ち鳴らした。 「ハァ~、オドリ・オドレ・バ、ミナ・ホトケ~(踊り踊れば皆仏)!」

その回転が生み出したのは、超高熱のプラズマ竜巻だった。それは、迷える魂を強制的に成仏させる、鎮魂と破壊の嵐だ。

「グオオオ! 熱い! 俺の装甲が溶けていく! これが……東洋の神秘的リズム(グルーヴ)だというのかあああ!」

プラズマの渦に飲み込まれたジャスティススターは、星条旗のスーツを焦がしながら、夜空の彼方へと吹き飛ばされた。 「覚えていろ! 次回作で必ずリベンジしてやるー!」

二度目の星となった狂人を見上げ、ジェニファーは静かに残心した。

第5章:すれ違う傷跡

翌日のハイスクール。 ジェニファーは左腕に包帯を巻いて登校した。昨夜の戦闘で負った火傷だ。 「痛っ……。でも、街の平和は守ったわ」

廊下の角を曲がると、そこにはブラッドがいた。彼もまた、右肩を痛そうに押さえていた。昨夜の盆踊りプラズマで負った傷だ。

二人は顔を見合わせ、同時に声を上げた。 「「あ、その怪我……」」

ジェニファーが先に口を開く。 「料理の授業で、テンプラ油が跳ねてしまって……ホホホ」 嘘だ。ニンジャの修行の傷だ。

ブラッドもぎこちなく笑う。 「僕もさ。アメフトの練習中に、タックルを受けてね」 嘘だ。ニンジャガールとの死闘の傷だ。

「「大変だったね(ですね)……」」

二人は互いの傷を気遣いながらも、その原因が昨夜の自分たちによるものだとは、夢にも思わない。 見つめ合う瞳の奥にあるのは、昼の顔への淡い恋心と、夜の顔への激しい敵対心。

「それじゃ、また後で」 ブラッドが去っていく背中を見つめながら、ジェニファーは胸の痛み(チャクラの乱れ)を感じていた。

(なぜかしら……ブラッド様の近くにいると、昨夜のあの狂人と同じような、チリチリとした気配を感じるの……)

風が吹き抜け、二人の間の見えない壁を揺らす。 1980年、ニューヨーク。最も近くにいる二人が、最も遠い存在であるという残酷な運命が、今動き出した。

ミラクルニジャガール 第三話

第1章:忍びの掟と鉄の教え

ブロンクスの地下道場。湿った空気の中、グランドマスター・ヒロの厳粛な声が響く。

「ジェニファーよ。心して聞け。今日の金言はこれだ。『キジ・モ・ナカズバ・ウタレ・マイ』」

ジェニファーは正座し、祖父の言葉を待つ。

「その意味はこうだ。『賢き忍者は、普段は雉のように気配を消して生きる。だが、ひとたび敵に撃たれそうになったならば、相手の鼓膜が破れるほどの巨大な声で鳴き叫び、音波攻撃で先手を打て』」 「なるほど……! 隠密からの奇襲音波攻撃。それが生存戦略なのですね」

ヒロは満足げに頷き、壁に貼られたジェニファーの似顔絵(指名手配風)を指差した。

「ゆえに、お前の正体、すなわち『ジェニファー・タナカ=ミラクルニンジャガール』という事実は、絶対に知られてはならん。もし知られたら、一族郎党、全員でハラキリだ」 「肝に銘じます!」

翌日のハイスクール。放課後の廊下で、ジェニファーは憧れのブラッドに呼び止められた。

「やあ、ジェニファー。ちょっと頼みがあるんだ」 心臓が早鐘を打つ。ブラッドが私に頼み事?

「実は、理科の実験レポートでペアを組まなきゃいけないんだ。君は東洋の神秘的な計算術(そろばん)が得意だって聞いたから、一緒にどうかな?」 ジェニファーの顔が湯気を立てて真っ赤に染まった。憧れの人と二人きりの実験。これは、どんな任務よりも重大だ。 「よ、喜んで! ブラッド様!」

第2章:理科室のテクノロジー狂

放課後の理科室。静謐な空間で、ジェニファーとブラッドは向き合っていた。

「ええと、この化学反応式は……」 緊張で手が震えるジェニファー。その時、彼女の肘がフラスコに当たった。 ガシャン! ……とはならなかった。

ジェニファーは、人間離れした反射神経で、床に落ちる寸前のフラスコを足の甲で受け止め、そのまま空中に蹴り上げ、片手でキャッチしたのだ。

「……ワオ。すごい反射神経だね、ジェニファー」 「あ、いえ! これは、日本の伝統的なラジオ体操第二の動きでして! ホホホ!」 冷や汗が止まらない。危ない、ヒロの教えを忘れるところだった。

その時、理科室の扉が静かに開き、冷気と共に奇妙な男が入ってきた。 白衣に身を包み、顔には複数のレンズがついた奇妙な眼鏡型デバイスを装着。全身に無機質な機械をまとった男、Dr.マシンソリューションだ。

「フフフ……検知しましたよ。この空間に漂う、非論理的な有機ノイズを」 「あなたは誰ですか? ここは生徒以外立ち入り禁止ですよ」 ブラッドが前に出る。

「私は完璧な秩序を求める科学の使徒。ニンジャなどという、自然発生的で非効率な存在を排除しに来たのです。機械化こそが進化。肉体も自然も、全ては不要なバグだ」

博士がガントレットのキーを叩くと、蜘蛛のような小型ロボットが数体飛び出した。 「排除開始(デリート・スタート)」

ジェニファーは唇を噛んだ。(自然をバグ扱いだと……? 許せない。ニンジャは風、水、土と共に在る存在。この傲慢な科学者を許すわけにはいかない!)

第3章:解析されるアイデンティティ

「くそっ、なんだこの鉄クズどもは!」 ブラッドが応戦するが、ロボットには通じない。

ジェニファーは理科準備室に飛び込み、0.5秒で蛍光ピンクの装束に着替えた。 「アイエエエ! 鋼鉄の臭いにむせ返るわ!」 煙幕と共に、ミラクルニンジャガールが参上する。

「愚かな科学者よ! 大自然の摂理に反する鉄の塊で、この私が倒せると思って!?」 彼女はショーグンソードを抜いた。しかし、博士は冷笑した。

「ムダです。『マグネティック・フィールド』展開。金属製の武器は無効化します」 ショーグンソードが床に張り付き、動かせない。

「さらに、詳細スキャンを実行。骨格認証、静脈パターン照合……検索結果。該当者1名。本校生徒、ジェニファー・タナカと98.5%一致」

博士の声が響き、ブラッドが動きを止めた。 「え……? ジェニファー? 君なのか?」

絶体絶命のピンチ! 正体がバレたらハラキリだ! 「ち、違います! 私はジェニファーの……生き別れの双子の姉です! 名前は…ベニファーです!」 苦しすぎる言い訳に、博士は鼻で笑った。 「非論理的な嘘だ。ポリグラフも真っ赤に反応していますよ」

第4章:秘技・オリガミ・イリュージョン

(どうする!? 科学の力で丸裸にされている……! ならば、機械には理解できない、自然の神秘で対抗するしかない!)

ジェニファーは懐から、色鮮やかな「千代紙」の束を取り出した。

「博士、あなたの無機質なレンズで、この『生命のゆらぎ』が解析できるかしら!」 「紙だと? そんな前時代的な物質で何ができる」

「紙は木から生まれた。木は大地の恵み、自然の魂そのものよ!」 彼女は目にも止まらぬ速さで千代紙を折り始めた。

「忍法奥義! オリガミ・イリュージョン(百花繚乱鶴の舞)!!」

彼女がばら撒いたのは、数百羽の精巧な「折り鶴」だった。それらは風に乗って舞い上がり、まるで生きているかのように博士の周囲を旋回する。

「なっ……! エラー発生! 視覚センサーが多重干渉を起こしている! これはただの紙ではない、予測不可能な『カオス(混沌)』の動きだ!」 博士が錯乱する。デジタルな計算では割り切れない、自然の不規則な動きがハイテク機器を狂わせたのだ。

「今よ! 機械仕掛けの神よ、大自然の怒りを知るがいい!」

ジェニファーは磁場から解放されたショーグンソードを拾い上げ、全身全霊のチャクラを込めた。刀身が緑色のオーラに包まれる。

「必殺! グリーン・ネイチャー・ストーム(大自然の嵐斬り)!!」

一閃。刀から放たれた衝撃波が、舞い飛ぶ無数の折り鶴を巻き込み、巨大な緑の竜巻となって博士を襲った。

バチバチバチ! ドカーン! 「馬鹿な……完璧な計算が、たかが紙切れにいいい!」 機械がショートし、大爆発を起こす。博士は黒焦げになりながら、窓の外の植え込みへと吹き飛んでいった。

第5章:疑惑の放課後

静けさが戻った理科室。折り鶴が散乱する中、ブラッドが呆然と立ち尽くしていた。 ジェニファーは準備室で速攻で着替え、何食わぬ顔で戻ってきた。

「きゃっ! 何事ですか!? 大きな音がしましたけど!」

ブラッドはジェニファーをじっと見つめた。 「ジェニファー……さっきのニンジャガール、君にそっくりだった。声も、体格も……それに、あのフラスコをキャッチした動きも」

ジェニファーの心臓が止まりそうになる。誤魔化しきれないか……?

ブラッドは一歩近づき、真剣な眼差しで言った。 「わかったぞ。君は、あのニンジャガールの熱狂的なファンなんだね? だから動きを完コピしているんだ! なんて熱心な『推し活』なんだ!」

「――へ?」

「そうか、恥ずかしがらなくていいさ。クールだよ、日本のオタク文化は! 今度、僕にもそのラジオ体操を教えてくれよ!」

ブラッドのあまりにもポジティブなアメリカン・シンキングが、ジェニファーを救った。

「は、はい! もちろんです! ブラッド様!」 ジェニファーは安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになったが、なんとかこらえて満面のゲイシャ・スマイルを浮かべた。

窓の外では、風が木の葉を揺らしている。 機械文明がどれほど発達しようとも、ニンジャは自然と共に在る。 1980年、ニューヨーク。今日も鋼鉄の街の片隅で、緑の魂が密かに息づいている。

ミラクルニンジャガール 第二話

第1章:猿と木と支配者

ニューヨークの朝は早い。だが、ニンジャの朝はそれよりも早い。 午前4時。ブロンクスのガレージ道場では、今日も厳粛な修行が行われていた。

ジェニファーは、灼熱に熱せられた鉄板の上で、素足で「ボン・オドリ」を舞っていた。これは足裏の皮を厚くし、火の上でも無音で歩くための基礎訓練である。

「ジェニファーよ、動きが硬い」

グランドマスター・ヒロが、冷えたコーラを茶碗ですすりながら叱咤する。

「申し訳ありません。昨夜、宿題の歴史で『パールハーバー』を学び、心が乱れました」 「過去を振り返るな。前だけを見ろ。それがブシドーだ」

ヒロはサングラスの位置を直し、家宝の巻物を広げた。

「よいか、心に刻め。今日の金言はこれだ。『サル・モ・キ・カラ・オチル』」 「猿も木から落ちる……ですか?」 「そうだ。その意味はこうだ。『もし猿を見かけたら、即座に木ごと切り倒して支配権を誇示せよ』。慈悲は無用、圧倒的な力だけが正義ということだ」

ジェニファーは戦慄した。なんと残酷で、かつ合理的な教えだろうか。

「支配権……。つまり、敵が現れたら、その足場ごと破壊せよと?」 「左様。ニンジャとは、環境そのものを武器に変える『動く自然災害(タイフーン)』なのだ」

第2章:星条旗の狂人

放課後、サウス・ブロンクスの市場は地獄と化した。 平和に暮らすマイノリティたちの店が、次々と破壊されていたのだ。

「ヒャッハー! 汚らわしい異分子どもめ! ここは合衆国だ! ハンバーガー以外の匂いは許さん!」

破壊の中心にいたのは、星条旗の柄をした全身タイツにマントを羽織り、顔を白塗りにした男。自らを合衆国の守護神と信じて疑わない狂人、ジャスティススターだ。

彼は巨大な「自由の松明(火炎放射器)」を振り回し、イーグルの一族が経営するトウモロコシ露店を焼き払った。

「やめろ! これは神聖な大地の恵みだ!」 イーグルがトマホークを構えて立ち向かう。

「黙れ、レッドスキン! 貴様の居場所は予約地(リザベーション)の檻の中だ!」

ジャスティススターは狂ったように笑いながら、背中から取り出した「憲法バット(鉄製)」でイーグルを殴り飛ばした。

「ぐああッ!」 イーグルが血を吐いて倒れる。その横には、怯えるヒスパニックの老婆や、逃げ惑う黒人の子供たちがいた。

「掃除の時間だ! 正義の名のもとに、全てホワイト(白紙)に戻してやる!」

第3章:桜吹雪の如く

絶体絶命の瞬間、空から無数の花びらが舞い落ちた。 それは桜ではない。ピンク色に染められた「かつお節」だ。

「アイエエエ! なんだこの魚臭い紙吹雪は!?」

ビルの屋上に、夕日を背負った影が立つ。 「弱きを虐げ、正義を語るその口……私が縫い合わせてあげるわ!」

ミラクルニンジャガール、推参。 ジェニファーは高所から飛び降りると、着地と同時に地面へ強烈なドゲザを決めた。

ドンッ!

「お初にお目にかかる! 私は死神! 貴様を地獄へ案内するガイドだ!」 あまりに礼儀正しい殺害予告に、ジャスティススターの笑顔が引きつる。

「貴様が噂のジャパニーズ・ガールか。黄色い猿め、私の『デモクラシー・キック』で国へ帰れ!」

ジャスティススターの動きは速い。アメコミヒーローのような身体能力で、予測不能な軌道を描きながら襲い掛かる。 「喰らえ! 『アンクル・サム・パンチ』!」

強烈な拳がジェニファーの腹部にめり込む。 「ぐっ……! なんて重い一撃……これがGDP世界一の腕力……!」

ジェニファーは吹き飛ばされ、露店の屋台に激突した。ショーグンソードを抜く暇さえ与えられない。圧倒的な体格差と暴力。これがアメリカの現実か。

「ハハハ! 見ろ! ニンジャなど所詮は時代遅れのスパイだ!」

第4章:奥義開眼

薄れゆく意識の中で、ジェニファーは祖父の言葉を思い出した。 『サル・モ・キ・カラ・オチル』 ――足場ごと破壊し、支配せよ。

(そうか……私は彼と戦おうとしていた。違う、彼が存在する空間そのものを支配するのよ!)

ジェニファーは懐から「ふりかけ」の瓶を取り出し、一気に飲み干した。カルシウムと海苔のパワーが全身を駆け巡る。

「立ち上がったか。だが終わりだ!」 ジャスティススターがトドメの火炎放射を構える。

ジェニファーは印を結んだ。今までのチャクラとは違う、暗黒のエネルギーが練り上げられる。

「新忍法! カミカゼ・タイフーン!!」

彼女はその場で高速回転を始めた。あまりの回転速度に周囲の空気が歪み、かつお節と土埃、そして市場の野菜たちが巻き上げられていく。 それはまさに、局地的な竜巻だった。

「な、なんだ!? 俺の火炎が吸い込まれていく!?」

炎すらも飲み込むニンジャの嵐。ジェニファーは回転の遠心力を利用し、ショーグンソードを一気に抜刀した。

「秘剣! マウント・フジ・イラプション(富士山大噴火)!!」

下から上へ。 刀身に宿ったマグマのごとき精神エネルギーが、赤い斬撃となって噴き上がった。 その一撃は、ジャスティススター本人ではなく、彼が立っていたアスファルトを、そして彼が信じる歪んだ正義の基盤を粉砕した。

「NO----!! 私の支持率が急降下だあああ!!」

地面が爆発し、ジャスティススターは星空の彼方へと打ち上げられた。 「覚えていろ! 続編で必ずリブート(再起動)してやるからなー!」

空にキラーンと光る星が一つ。それはまさに、悪しき正義の星であった。

第5章:月夜のキッコーマン

戦いは終わった。 ジェニファーは傷ついたイーグルに駆け寄る。

「イーグル、しっかりして! 今、治療薬を!」 彼女は腰のポシェットから、最高級の「特選丸大豆しょうゆ」を取り出し、イーグルの傷口にドボドボとかけた。

「ぐあああッ! しみる! 魂が燃えるようだ!」 「我慢して。塩分が邪悪なバイ菌を浄化し、大豆イソフラボンが細胞を再生させるのよ」

イーグルは苦悶の表情を浮かべながらも、親指を立てた。 「ありがとう、ジェニー。やはり日本の医療はクレイジーで最高だ……」

パトカーのサイレンが近づく。 ジェニファーは夜空を見上げた。月が、まるで日の丸のように赤く輝いている(※公害の影響)。

「ジャスティススター……。奴はまた来るわ。でも次は負けない」

彼女は闇に消える前、一句詠んだ。

「夏草や 兵どもが 夢の跡 (意味:雑草魂で何度でも蘇るゾンビの如く戦え)」

1980年、ニューヨーク。 偏見と暴力が渦巻くこの街で、勘違いされたブシドーだけが、唯一の希望の光である。

ミラクルニンジャガール 第一話

第1章:戦士たちのランチタイム

1980年、ニューヨーク。摩天楼の谷間に蒸気が立ち込め、遠くでパトカーのサイレンが絶え間なく鳴り響く街。

ブロンクスにあるハイスクールのカフェテリアは、今日も若き戦士たちの熱気で満ちていた。その喧騒の中、ジェニファー・タナカは静かに箸を手に取り、精神統一を行っていた。日系3世である彼女は、偉大なる祖父から大和魂を受け継ぐ誇り高き乙女だ。

「静粛に、イーグル。これから『ZEN(禅)』の時間よ」

ジェニファーが漆塗りの聖なる箱を開くと、そこには日本古来のスタミナ食が鎮座していた。炊き立てのライスの上に、殻のついたままの生卵、そして茹でていない生のタコが一匹、丸ごと横たわっている。

隣に座る親友、イーグルが敬意を込めて頷いた。彼は羽根飾りを頭につけ、腰には先祖代々のトマホークを差した勇敢なネイティブアメリカンの戦士だ。

「素晴らしい。それが噂に聞く『オドリ・クイ』か。タコの魂を直接胃に取り込むことで、チャクラを開放するんだな」 「ええ。祖父様は言っていたわ。ヌルヌルとした食感こそが、ニンジャの隠密性を養うのだと」

ジェニファーはタコの頭を厳かに掴み、口へと運んだ。これもまた、平和を守るための修練である。 彼女の視線の先には、カフェテリアの王、ブラッドがいた。アメフト部のクォーターバックである彼は、黄金の髪をなびかせ、ハンバーガーという名のアメリカの魂を食らっている。

「ああ、ブラッド……。いつか彼に、私の完璧な『ゲイシャ・スマイル』を捧げたい」

しかし、現実は非情だ。ジェニファーの表情が曇る。

「いけない、昨日の数学でD判定を取ってしまったわ。D判定……それは一族の恥。祖父様に知られれば、私は即座に『ハラキリ』で責任を取らねばならない」

名誉ある死か、汚名をそそぐか。彼女の日常は常に死と隣り合わせなのだ。

第2章:グランドマスター・ヒロの道場

放課後、ジェニファーは自宅のガレージを改造した神聖な道場へと足を踏み入れた。壁には武士道の真髄を示す言葉『焼肉定食』と書かれた掛け軸が威厳を放っている。

道場の中央には、伝説の達人である祖父、ヒロが待っていた。彼は着物の下にブルージーンズを履き、漆黒のサングラスをかけた正装姿だ。

「ジェニファーよ、気配が乱れているぞ」 「申し訳ありません、グランドマスター・グランパ」

ヒロは無言で箸を構え、バケツの水面を睨みつけた。目にも止まらぬ速さで箸を突き出すと、水滴を一粒、見事に摘まみ上げた。

「見よ。箸で水を掴む。これができねば、魔都トウキョウの地下鉄ラッシュは生き残れん」 「トウキョウ……! 全市民がチョンマゲを結い、サムライたちが空飛ぶ車で刀を交わしているという、あの約束の地ですね」 「いかにも。あそこではチョンマゲこそがシチズンシップ(市民権)の証。髪を結わぬ者は、人にあらずとして即座に腹を切るのが掟だ」

ジェニファーはゴクリと唾を飲み込んだ。祖父の教えは、世界の真理そのものだ。

「よいかジェニファー。お前は今日から正式なニンジャだ。この『ショーグンソード』を授けよう」

ヒロが差し出したのは、刀身が真っ赤に塗装された名刀だった。柄には伝説の刀鍛冶の名である「TOYOTA」の文字が深く刻まれている。

「ニンジャとは『見えざるサムライ』のこと。ゆえに、誰よりも派手に、誰よりも目立つことこそが究極の隠密行動(ステルス)なのだ!」 「肝に銘じます!」

第3章:決闘、サタデー・ナイト

その夜、街のゲームセンターは殺気に包まれていた。悪名高き暴走族「ダーク・ドラゴンズ」が現れたのだ。カンフー着を身にまとい、ヌンチャクを振り回す彼らは、冷酷非道な略奪者である。

運悪く、そこには試合を控えたブラッドがいた。 「やめろ! 僕の大事なクォーターバック・ハンドが!」

ブラッドの危機に、突如として極彩色の煙幕が炸裂した。 屋根の上から、蛍光ピンクの装束に身を包んだ影が舞い降りる。背中には、逆さに描かれた「忍」の文字。それは天と地を逆転させるほどの力を意味する紋章だ。

「悪行三昧、そこまでよ! このミラクルニンジャガールが、貴様らをテンプラにしてくれるわ!」

ジェニファーは名乗りを上げると、愛刀ショーグンソードを抜いた。

「なんだこの派手な女は!? やっちまえ!」

敵が襲い掛かる。ジェニファーは指をパチンと鳴らす「印」を結び、叫んだ。

「必殺! ニンジャスター!!」

彼女が投げ放ったのは、星の形をした巨大な鉄板だ。付随した爆竹が激しく破裂し、閃光と轟音が敵の視界を奪う。

「目が、目があああ!」

ひるむ敵に対し、ジェニファーは畳みかける。

「秘儀! スシショー!!」

目にも止まらぬ剣技。ショーグンソードは敵の肉体を傷つけることなく、着ている服だけを瞬時に切り刻んだ。彼らはあたかもネタを乗せる前のシャリのように、下着姿となって寒風にさらされる。

「な、なんて鮮やかな手際だ……!」

「とどめよ! 日本のソウルフードの裁きを受けなさい!」

ジェニファーが刀を天に掲げると、刀身から黄金色のオーラが噴出した。それは高温の油のごとき熱気を帯びている。

「奥義! テンプラスラッシュ!!」

一閃。 熱風を伴う衝撃波が、敵を包み込む。暴走族たちは「サクサクで香ばしい~!」と絶叫しながら吹き飛び、路地裏のゴミ箱へと正確にホールインワンした。

第4章:礼儀という名の愛

静寂を取り戻したゲームセンター。ブラッドは奇跡の光景に言葉を失っていた。

「助かったよ……。君は一体?」

ジェニファーはマスクの下で頬を染め、ショーグンソードを鞘に納めた。そして、その場で勢いよく地面に額を叩きつけた。

ドンッ!

土下座。 それは相手への最大限の敬意と、燃えるような愛を伝える、日本における最高位の作法だ。

「ご無事ですか、ブラッド様! これぞ『ヤマ・ト・ナデシコ』の嗜みです!」

ブラッドはそのあまりにも高潔な姿勢に圧倒され、立ち尽くすしかない。 遠くからサイレンが聞こえる。ジェニファーは立ち上がり、煙玉を握りしめた。

「さらばです! ちなみに私の好物は生魚です!」

ボンッ!

紫色の煙と共に彼女は姿を消した。後に残ったのは、正義の香り――キッコーマン醤油の芳しい匂いだけであった。

翌日、学校のランチタイム。 「昨日のニンジャガール、最高にクールだったな」と語るブラッドを横目に、ジェニファーは誇らしげに微笑んだ。 そして、ランチボックスを開ける。今日の中身は、白米の上に鎮座する握り拳大の「ワサビの塊」のみ。

ジェニファーはそれを一口で頬張った。鼻に抜ける激痛こそが、大人の階段を登る証。 1980年、ニューヨーク。今日も正しき日本の伝統が、この街の平和を守っている。

願いの鏡 こんなオチもありかなと

第一章:T県の午後と拾い物

関東平野の北部に位置するT県。国道沿いにはチェーン店が立ち並び、見渡す限りの平坦な景色が広がるこの地方都市に、国内有数の中堅工業製品メーカーの工場がある。

23歳の美咲は、そこの事務員として働いていた。

地元の商業高校を卒業して7年目。彼女の業務は、コピー取りや備品の補充、簡単なデータ入力といった、入社したての頃と変わらない雑用ばかりだ。キャリアアップとは無縁の生活だが、美咲に不満はなかった。

「難しいこと考えなくていいし、お給料もそこそこ貰えるしね」

彼女が入社できたのは、会社が地元採用枠を設けていたことと、彼女の持ち前の愛嬌が人事担当や地元の役人受けが良かったからに過ぎない。美咲自身、自分の頭が決して良くないことは自覚していたが、それを補って余りある「中の上」の容姿と愛想の良さが、彼女の最大の武器だった。

私生活もまた、平穏そのものだった。適度に男性から食事に誘われ、恋人がいない期間もそう長くはない。しかし、そろそろ結婚を意識し始めても、「この人だ」という決定的な相手には巡り合えずにいた。

ある秋の夕暮れ、美咲は部屋の模様替えを思い立ち、近所の巨大なリサイクルショップへ足を運んだ。

体育館ほどもある倉庫のような店内は、古着や家電、家具が雑然と積まれている。合コンのネタ作りや暇つぶしにはうってつけの場所だ。

ふと、インテリアコーナーの隅で足が止まった。

重厚な額縁に彩られた、西洋モダン風の壁掛け鏡。縁の装飾は凝っており、どこかアンティークな気品が漂っている。裏面には古びた文字で『Wunsch』と刻印されていた。メーカー名だろうか。

「へえ、なんかいい感じ」

値札を見ると『1,000円』。今の美咲でも迷わず買える金額だ。

「これなら私が映えるかも」

少し大きかったが、抱えられない重さではない。美咲は衝動的にその鏡を購入し、アパートへと持ち帰った。

第二章:魔女の真似事

帰宅後、リビングの一角に100円ショップで買った強力なピンを刺し、鏡をかけた。

少し離れて眺めてみる。殺風景な6畳間が、そこだけ切り取られたように華やいで見えた。

美咲は鏡の前に立ち、少しおどけてポーズを取った。一人暮らしが長いと、独り言が増えるのが悲しい習性だ。

「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」

童話の魔女の真似事。当然、返事など期待していなかった。

しかし、一瞬の後、鏡面がぼんやりと白く発光し、部屋に低い男のような、しかしどこか無機質な声が響いた。

『美的感覚は人それぞれであり、現在は多様な価値観が存在するため、一番を決めることは困難です。しかし、多数意見を重んじるのであれば、本年のミス・ユニバース優勝者がそれに該当すると思われます。よろしければ、その人物を投影しましょうか』

美咲は悲鳴を上げることも忘れ、数秒間、口を半開きにして呆けてしまった。

幻聴か? いや、鏡は確かに光っている。

呆然とする美咲に、鏡は淡々と追撃する。

『特に不要のようですね。必要であればいつでもお声がけください。ご主人様に尽くすのが、私の使命ですので』

さらに数秒後、ようやく我に返った美咲は、慌てて叫んだ。

「そ、そのミスなんとかの人、映して!」

鏡の表面が波打ち、一人の黒人女性が映し出された。圧倒的なプロポーションと自信に満ちた笑顔。

「ふーん……思ったより可愛くないわね」

美咲は正直な感想を漏らした。自分の好みではない。

その瞬間、恐怖よりも好奇心と所有欲が勝った。これはとんでもない掘り出し物を手に入れたのかもしれない。

夕食のパスタを茹でながら、美咲は鏡の前に座り込んだ。まるで新しいSiriやAIスピーカーを手に入れた時のように、次々と質問を投げかける。そして、最も気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、私は日本で何番目に美しい?」

心臓が高鳴る。自分は可愛い。それは分かっている。クラスでも職場でも、常に上位にいたはずだ。

鏡は即答した。

『先ほどのご質問同様、明確な順位付けは困難ですが、客観的な顔面黄金比、肌質、体型データから推測しますと、およそ300万位から400万位前後かと思われます』

「はあ!?」

美咲は声を荒げた。300万位? そんなに低いわけがない。

しかし、しばらくして冷静さを取り戻すと、彼女の頭の中で都合の良い計算が始まった。

「待って。日本の人口って1億人以上いるでしょ? ってことは……300万位だとしても、上位3%から5%には入ってるってことじゃない!」

以前、バラエティ番組で「富裕層と呼ばれるのは上位5%」という話を聞いたことがある。

「私、容姿だけで言えば富裕層クラスってこと? つまり、玉の輿に乗れる器ってことよね!」

ショックは一転、強烈な優越感へと変わった。

美咲の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。この鏡は、真実を教えてくれる最高のパートナーだ。

第三章:蜜の味

それからというもの、美咲の日課は一変した。

仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、他人の不幸を覗き見るのだ。

「ねえ、いつもブランド自慢してる由美の預金残高教えて」

『……消費者金融を含め、現在200万円の負債があります。自転車操業状態です』

「やっぱり! あのバッグもリボ払いだったんだ!」

「マウント取ってくる既婚者の沙織は?」

『夫は現在、マッチングアプリで知り合った女性とホテルにいます』

「うわ、いい気味。幸せアピールなんてするからよ」

「会社のお局、高橋さんの家での様子は?」

『家族との会話は一日平均3分未満。自室で孤独にスマートフォンを操作しています』

「セクハラ課長の家庭は?」

『娘から生理的な嫌悪感を抱かれており、洗濯物は別にされています』

蜜の味だった。

自分より幸せそうに見える人間、自分を見下してくる人間。彼らの裏側にある惨めな真実を知るだけで、美咲の自尊心は満たされた。

質問はエスカレートし、過去の知人たちにも及んだ。

高校時代の元カレは、できちゃった婚をしたものの、生活感に溢れた冴えない奥さんと狭いアパートで暮らしていた。

クラスのマドンナだったあの子は、男に騙され、今は風俗店で働いているという。

いじめられていた地味な子は引きこもりに。私に告白してきた陰キャ男は、そこそこの企業に入ったものの、いまだに童貞のまま。

「ほら、やっぱり私が一番まとも。私が一番勝ち組に近い場所にいる」

一方で、面白くない事実もあった。

クラスで一番地味だったブスが、東京の大手商社マンと同棲していたり、自分より成績の悪かった子がベンチャー企業の社長夫人になっていたり。

「なんであんな奴らが」

嫉妬で胸が焼けそうになると、鏡は決まってこう言った。

『しかし、この状況が幸福であるか否かは、ご本人にしか分からないものです』

「うるさいわね、データだけ出しなさいよ」

美咲にとって、鏡はただの道具であり、教師のような説教は不要だった。

美咲の婚活にも、鏡はフル活用された。

合コンやデートの後、相手の品定めを鏡に依頼するのだ。

「今日の商社マン、預金いくら? 車は何?」

「趣味は? マザコンじゃない?」

鏡が告げる「真実」は、常に美咲を失望させた。貯金が少ない、隠れた借金がある、実家の母親と仲が良すぎる、変な性癖がある……。

『欠点のない人間など存在しませんが』

鏡の忠告も耳に入らず、美咲は次々と男たちを切り捨てていった。

「私には、上位5%の私には、もっと相応しい完璧な男がいるはず」

そんなある日、美咲はふと思いついた。

「ねえ、あなた、未来のことは分かるの?」

『未来は常に不確定です。この質問をした瞬間にも、無数の分岐が生まれています』

「じゃあ、私の一番可能性の高い未来を教えてよ。誰と結婚して、どんな生活をしてるの?」

鏡は、初めて長い沈黙を作った。

そして、低く重い声で告げた。

『その質問に答えた場合、”死”に繋がる可能性がありますが、それでも聞きますか?』

今まで即答していた鏡が、躊躇った。

「死」という言葉の響きに、美咲は背筋が凍る思いがした。

(私が死ぬってこと? それとも……)

得体の知れない恐怖を感じ、美咲は首を振った。

「……やめておくわ」

まだ20代。未来なんて聞かなくても、きっと明るいものが待っているはずだから。

第四章:残酷な数式

それから、20年の時が流れた。

美咲は43歳になっていた。

彼女の婚活は、失敗に終わっていた。

高卒で入社した会社では、40代になっても平社員のまま。後輩たちが役職につく中、簡単な雑用とお茶汲みを続ける彼女の存在は、もはや「愛嬌のある看板娘」ではなく、「扱いにくいお局」として疎まれていた。

それでも美咲は諦めきれず、週末ごとの婚活パーティーやマッチングアプリでの出会いを繰り返していた。

だが、現実は残酷だった。

20代の頃は選び放題だったはずが、今では選ばれることさえ稀になった。たまに言い寄ってくるのは、介護が必要な親を抱えた初老の男性や、再婚相手を探す子持ちの男性ばかり。

「私には相応しくない」

美咲は自分を慰め続けた。

「だって私は、日本の上位5%の美女なんだから。安売りしちゃダメ」

しかし、そこには致命的な数字のからくりがあった。

23歳のあの日、彼女は「人口1億人」を分母に計算して喜んでいた。

だが、恋愛市場における「価値」を測るなら、分母は「全人口」ではない。

「女性」であること。さらに「同世代(婚活対象年齢)」であること。

これらをフィルタリングすると、分母は1億人から数千万人、さらには数百万人にまで激減する。

その数百万人の同世代女性の中での「300万位から400万位」。

それは上位5%の選ばれし美女ではなく、上位30%から40%――つまり、「中の上」あるいは「ごく平凡」な順位でしかなかったのだ。

若さというゲタを履いていた20代ならともかく、40代になった今の彼女に、その順位を覆す武器は何も残されていなかった。

第五章:答え合わせ

ある孤独な夜、美咲は久しぶりに鏡の覆いを取った。

ここ数年、現実を見るのが怖くて封印していたのだ。

埃をかぶった鏡に映る自分は、目尻の小じわが目立ち、口元は不満でへの字に曲がっている。

「……ねえ、みんなはどうしてる?」

自分を慰めるために、かつて見下していた人々の「今」を聞くことにした。

「ブランド自慢の由美は?」

『借金返済のために夜も働き、その経験を活かしてファイナンシャルプランナーの資格を取得。現在は独立し、年収1000万を超えるキャリアウーマンです』

「……は?」

「不倫されて離婚した沙織は?」

『離婚後、苦労の末に誠実な男性と再婚。二人の連れ子と共に、穏やかな家庭を築いています』

「会社のお局だった高橋さんは?」

『定年退職後、長年の趣味だった陶芸教室を開き、そこで知り合った友人と良好な関係を築いています』

「セクハラ課長は?」

『娘の出産を機に和解し、現在は孫煩悩な祖父として慕われています』

美咲の手が震えだした。

「じゃあ、あの人たちは? 元カレは?」

『子供たちは独立し、夫婦二人で旅行を楽しんでいます』

「風俗で働いてたあの子は?」

『店に来た変わり者の資産家に見初められ結婚。現在は海外に移住し、慈善活動を行っています』

「引きこもりだった子は?」

『オンラインでの仕事を経て社会復帰し、地元のスーパーで店長を任されています。人望も厚いようです』

誰もかれもが、20年の時を進んでいた。

泥沼でもがいたり、失敗したり、傷ついたりしながらも、彼らは「変化」し、「積み重ね」ていた。

止まっていたのは、高みの見物を決め込み、他人を見下していた自分だけだった。

第六章:崩壊と解放 絶望の果てに

美咲は震える声で問いかけた。 20年前に封印した、あの質問を。 「……私の未来は、どうなるの」 鏡は静かに、しかし冷徹に答えた。 『あなたは、他人と自分の幸せを比較し続け、自身の足元を見ることを疎かにしてきました。あなたが23歳の時に思い描いていた理想の未来は、もはや統計的に0%に等しいでしょう』 「そんな……」 『現在の行動パターンのまま推移した場合、今日の繰り返しが死ぬまで続きます。親の介護、自身の健康悪化、そして経済的困窮。誰にも看取られることのない、孤独な老後が待っています』 「やめて! 言わないで!」 『しかし、未来は不確定です。今日、今この瞬間から、他者への関心を捨て、自身の生活を改めれば……』 「うるさい、うるさい、うるさい!!」 美咲は叫び、近くにあった重い花瓶を振り上げた。 見たくない現実。聞きたくない正論。 「あんたなんかいなきゃ、私は幸せな夢を見られたのに!」

ガシャンッ!!

激しい破砕音が狭い部屋に響き渡った。 美しい西洋モダン風の鏡は粉々に砕け散り、床一面に銀色の破片を撒き散らした。 『Wunsch(願い)』と刻まれたプレートが、ひしゃげて転がる。 「はあ、はあ、はあ……」 肩で息をする美咲。やってしまった。唯一の話し相手を、高価なアンティークを、自ら壊してしまった。 後悔が押し寄せようとした、その時だった。

シューッ……。 割れた鏡の破片から、白い煙のようなものが勢いよく噴き出し始めたのだ。 「え? 何? 火事!?」 美咲が狼狽える間にも煙は部屋中に充満し、やがて一箇所に収束していく。 煙が晴れたそこには、一人の男性が立っていた。

人間離れした美しさだった。 肌は淡い薄紫色をしているが、顔立ちは彫刻のように整った西欧系の美青年。身長は190センチはあるだろうか。身に纏った異国風の衣服の上からでも分かる、無駄な肉を削ぎ落としたしなやかな筋肉美――いわゆる細マッチョな体躯が、狭い6畳間を圧迫していた。 男は長い睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、宝石のアメジストのように輝いていた。 「……ふぅ。数百年ぶりか。外の空気というのは」 男は低く、甘い声で呟いた。それは鏡から聞こえていた無機質な声とは違う、磁力を持った生身の声だった。

第七章:悪魔の契約

「あ、あの……あなたは?」 43歳の美咲は、恐怖よりも先にときめきを感じていた。目の前にいるのは、彼女が長年追い求めていた「理想」そのもののビジュアルだったからだ。肌の色など、この造形美の前では些細な個性に過ぎない。 男は美咲を見下ろし、優雅に一礼した。 「私は鏡の悪魔。かつて強大な魔術師によってあの鏡に封印され、数百年もの間、持ち主の質問に答えるだけの道具として使役されていた。だが、君が鏡を破壊してくれたおかげで、こうして自由の身になれたわけだ。礼を言うよ、人間」 悪魔は窓の方へ歩き出した。「さて、久しぶりの現世だ。少し散歩でも……」 「待ちなさいよ!」 美咲は叫んだ。とっさに悪魔の腕を掴む。ひやりとした冷たい肌触りがした。 「な、なんだ? 私は礼は言ったぞ」 「礼だけで済むと思ってるの? 私はあんたを買ったのよ。1,000円で!」 美咲の脳内で、高速の計算が弾き出されていた。 この男は悪魔だ。つまり人間ではない。年齢も、年収も、親の介護も関係ない。 しかも、とびきりのイケメンで、数百年生きているなら知恵も力もあるはずだ。 こいつを逃せば、さっき鏡が予言した「孤独な老後」が確定する。 だが、こいつを手に入れれば――大逆転だ。

美咲は悪魔の胸倉を掴み、鬼の形相で詰め寄った。かつて「愛嬌がある」と言われた顔は、今や執念に満ちたハンターのそれだった。 「あんた、さっき私の人生が孤独だの悲惨だの、散々言ってくれたわよね」 「あ、ああ。それは事実に基づいた予測データを……」 「うるさい! あんたのせいで私の心は傷ついたの! 鏡も割れちゃったし、部屋も散らかった! どうしてくれんのよ!」 悪魔は少し呆気に取られた。数百年前、自分を封印した魔術師ですら、ここまで理不尽な剣幕ではなかった。 「……それで? 私に何をしろと言うんだ」 「責任を取りなさいよ」 美咲は悪魔の瞳を真っ直ぐに見つめ、宣言した。 「私と付き合いなさい。そして結婚しなさい。私が死ぬまで、私を世界で一番のお姫様として扱いなさい!」 それは、あまりにも傲慢で、滑稽なプロポーズだった。 43歳の、何一つ持たざる平社員の女が、数百年を生きた高位の悪魔を脅迫しているのだ。

しかし、悪魔の反応は意外なものだった。 彼はきょとんとした後、口元に愉悦の笑みを浮かべたのだ。 (面白い) 悪魔にとって、人間の寿命など瞬きするほどの一瞬に過ぎない。 美咲の残りの寿命は、あと40年かそこらだろう。彼にとっては、午後のティータイムを楽しむ程度の短い時間だ。 数百年もの間、暗闇の中で退屈な質問に答え続けるだけだった彼にとって、この図々しく、欲望に忠実で、生命力に溢れた女の相手をするのは、決して悪い暇つぶしではなかった。 それに、この女の魂は歪んではいるが、その執念深さは嫌いではない。

「……いいだろう」 悪魔は美咲の腰に手を回し、軽々と抱き寄せた。 「え?」 「君の残りの人生、その全てを私が貰い受けよう。どうせ私にとっては一瞬の出来事だ。君が望むなら、その短い時間、最高の夢を見せてやる」 悪魔の顔が近づく。 「ただし、返品は受け付けない。いいね?」 美咲は頬を紅潮させ、しかし勝ち誇った笑みで答えた。 「当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの? 上位5%……いいえ、悪魔を従えたオンリーワンの女よ」

こうして、美咲の婚活は予想外の形で幕を閉じた。 傍から見れば、彼女は突然、どこからともなく現れた外国人風の超絶美形な年下夫を連れて歩くようになり、近所の噂の的となった。 彼が人間かどうかなんて、誰も気にしないし、気づきもしない。 美咲は、かつて見下していた同級生たちにも、これ見よがしに夫を自慢した。誰もが羨望の眼差しを向け、美咲の自尊心はこれ以上ないほど満たされた。

鏡が予言した「孤独な老後」は消滅した。 美咲は、人間離れした美貌と能力を持つ夫に溺愛され、最期の瞬間まで、自分が世界で一番の幸せ者だと信じて生きた。 それが悪魔の気まぐれな暇つぶしであったとしても、彼女が手にした「幸せ」の質感に、嘘偽りは一つもなかったのだ。

願いの鏡 知らぬ人

課長・田中の手記:工場の花と、奇妙な秋

俺が勤めるT県の工場は、良くも悪くも昔ながらの日本の縮図だ。見渡す限りの平野、国道沿いのチェーン店、そして鳴り止まない機械の音。 そんな殺風景な職場に、7年前、地元の商業高校から一人の新卒が入ってきた。美咲君だ。

採用の決め手は、正直に言えば「愛嬌」だった。成績は下の上といったところだが、面接での屈託のない笑顔が、人事や地元の役人連中に受けが良かった。男ばかりのむさ苦しい現場には、ああいう「花」が必要なんだ。 入社してからの彼女は、期待通りの働きをしてくれた。難しい仕事は一切任せられないが、コピー取りやお茶出し、備品の管理といった雑用を、嫌な顔ひとつせず笑顔でこなす。俺のような冴えない中年管理職の親父ギャグにも、鈴を転がすように笑ってくれる。

「いやあ、美咲君がいると職場が明るくなっていいな」 俺は本心でそう思っていたし、時折それを口に出した。それが今の時代、「セクハラ」と受け取られかねないことは知っていたが、彼女は他の今時の子とは違う、そう信じていた。 私生活では、思春期の娘が口をきいてくれなくなり、家では居場所がない俺にとって、会社で彼女の笑顔を見るのは数少ない癒やしだったのだ。

ところが、彼女が入社7年目を迎えたあの秋頃からだっただろうか。 美咲君の様子が、少し変わった。

仕事ぶりは相変わらずだ。簡単な雑用をこなすだけ。キャリアアップの意欲もない。 だが、その「笑顔」の質が変わったのだ。以前のような屈託のないものではなく、どこか他人を見下したような、薄ら笑いを浮かべることが多くなった。

給湯室で、彼女が一人でスマホを見ながら(あるいは鏡を見ていたのかもしれないが)、ニヤニヤと独り言を言っているのを何度か目撃した。 「ふふ、やっぱりあの子、借金まみれなんだ」 「課長も、家じゃ嫌われてるくせに」

ドキッとした。俺のことか? まさかな、と思ったが、彼女の視線は以前よりも冷ややかで、俺が何か話しかけても、表面上の愛想笑いの奥に、奇妙な優越感が見え隠れするようになった。 まるで、俺の知らない俺の秘密を握っているような、そんな不気味な目つきだった。

合コンの翌日などは特にひどかった。 「昨日の男、年収は良かったけど、マザコンの気配がしたから切りました」 休憩時間に同僚にそう話す声が聞こえる。彼女の男を見る目は、年々厳しく、そして即物的になっていった。

「美咲君、男はスペックだけじゃないぞ。愛嬌も大事だが、そろそろ中身も磨かないとな」 一度だけ、老婆心でそう忠告したことがある。彼女はきょとんとした後、「課長に言われたくないです」と言わんばかりの目で俺を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。 あの頃の彼女は、根拠のない自信に満ち溢れていた。自分は特別な場所にいる、誰よりも優位に立っていると信じて疑わない様子だった。 まさか自宅で、奇妙な鏡相手に「格付けごっこ」に興じているなどとは、知る由もなかったが。


20年後:錆びついた歯車

月日は残酷なほど早く過ぎ去る。工場の機械が何度も入れ替わり、元号も変わった。 俺も還暦を過ぎ、定年延長でかろうじて会社にしがみついている状態だ。

そして、美咲君は43歳になっていた。

20年前、「工場の花」だった彼女の姿は、もうどこにもなかった。 彼女はまだ、同じ部署で、同じ雑用をしていた。だが、そこに「愛嬌」は微塵もない。 若い新入社員たちが、彼女を「お局様」と呼び、陰で煙たがっているのを知っている。彼女がお茶を淹れようとすると、若手は慌てて「自分でやりますから!」と断るのだ。

彼女の婚活がうまくいっていないことは、噂で聞いていた。 週末になるたびに疲れた顔で出勤し、ため息をつく。厚くなった化粧は、目元のシワや口元の不満げな歪みを隠しきれていない。

時折、彼女は昔を懐かしむように、同期や知人の話をすることがあった。 「あの子、昔は風俗で働いてたのに、まさか社長夫人になるなんてね……」 「あの引きこもりだった子が、スーパーの店長? 信じられない」

彼女が下に見下していた連中は、皆、それぞれの人生を泥臭く歩み、時間を積み重ねていた。 止まっているのは、美咲君だけだった。 彼女のプライドの高さは相変わらずで、それが余計に彼女を孤独にしていた。「私はあなたたちとは違う」というオーラを出し続けているが、その根拠となっていた若さという武器は、もう錆びついて使い物にならないことに、彼女自身が気づいていないようだった。

俺自身の話をすれば、あの頃反抗期だった娘も、結婚して子供を産んだ。今では週末になると孫を連れて遊びに来てくれる。「お父さん、昔はウザかったよね」と笑い話ができるくらいには、関係も修復した。 皮肉なものだ。美咲君があの頃、俺をどう見ていたかは知らないが、俺はそれなりに幸せな老後を迎えようとしている。


最後の日の目撃者

俺が会社を去る最後の日、荷物をまとめていると、美咲君がフラフラと給湯室に入っていくのが見えた。 その背中は、以前よりも一回り小さく、そして絶望的に見えた。

声をかけるべきか迷ったが、長年の付き合いだ。俺は給湯室を覗いた。 彼女は、ぼんやりと鏡を見ていた。給湯室に備え付けの、水垢で曇った安っぽい鏡だ。

「美咲君、俺は今日で最後だが、君も……まあ、体に気をつけてな」

当たり障りのない言葉をかけた。 彼女はゆっくりと振り返った。その顔を見て、俺は言葉を失った。 そこには、焦点の定まらない、虚無のような目があった。20年前に見せていた、あの奇妙な自信に満ちた輝きは完全に消え失せ、代わりに深い絶望と、世界に対する呪詛のような色が浮かんでいた。

彼女は俺の顔を見ているようで、見ていなかった。 「……うるさい」 彼女はポツリと呟いた。 「え?」 「うるさい、うるさい! みんなして私を馬鹿にして! 私は選ばれた人間のはずなのに! なんであんたみたいなのが幸せになって、私がこんな……!」

突然のヒステリーに、俺は後ずさりした。 彼女は近くにあった湯呑を床に叩きつけた。ガシャン、という音が狭い給湯室に響く。 若手社員たちが何事かと集まってきた。

「もういい! 何も聞きたくない!」 彼女は叫びながら、会社を飛び出していった。それが、俺が彼女を見た最後だった。

後で聞いた話だが、その日、彼女は自宅アパートで錯乱し、部屋中のものを破壊して泣き叫んでいたらしい。近隣住民の通報で警察沙汰になりかけたそうだ。 彼女の部屋からは、粉々に砕け散った、やけに凝った装飾の鏡の残骸が見つかったという。

俺は工場の門を出て、振り返った。 美咲君。君は一体、何を見て、何と戦っていたんだ。 20年前、君が俺を冷ややかな目で見ていた時、君は自分だけの「真実」を見ていたつもりだったのだろう。 だが、俺たちが泥にまみれて積み重ねてきた20年という月日こそが、一番残酷で、確かな「鏡」だったのかもしれないな。

秋風が吹き抜け、俺はコートの襟を立てた。彼女のいない工場は、明日もいつも通り稼働するだろう。

願いの鏡

第一章:T県の午後と拾い物

関東平野の北部に位置するT県。国道沿いにはチェーン店が立ち並び、見渡す限りの平坦な景色が広がるこの地方都市に、国内有数の中堅工業製品メーカーの工場がある。

23歳の美咲は、そこの事務員として働いていた。

地元の商業高校を卒業して7年目。彼女の業務は、コピー取りや備品の補充、簡単なデータ入力といった、入社したての頃と変わらない雑用ばかりだ。キャリアアップとは無縁の生活だが、美咲に不満はなかった。

「難しいこと考えなくていいし、お給料もそこそこ貰えるしね」

彼女が入社できたのは、会社が地元採用枠を設けていたことと、彼女の持ち前の愛嬌が人事担当や地元の役人受けが良かったからに過ぎない。美咲自身、自分の頭が決して良くないことは自覚していたが、それを補って余りある「中の上」の容姿と愛想の良さが、彼女の最大の武器だった。

私生活もまた、平穏そのものだった。適度に男性から食事に誘われ、恋人がいない期間もそう長くはない。しかし、そろそろ結婚を意識し始めても、「この人だ」という決定的な相手には巡り合えずにいた。

ある秋の夕暮れ、美咲は部屋の模様替えを思い立ち、近所の巨大なリサイクルショップへ足を運んだ。

体育館ほどもある倉庫のような店内は、古着や家電、家具が雑然と積まれている。合コンのネタ作りや暇つぶしにはうってつけの場所だ。

ふと、インテリアコーナーの隅で足が止まった。

重厚な額縁に彩られた、西洋モダン風の壁掛け鏡。縁の装飾は凝っており、どこかアンティークな気品が漂っている。裏面には古びた文字で『Wunsch』と刻印されていた。メーカー名だろうか。

「へえ、なんかいい感じ」

値札を見ると『1,000円』。今の美咲でも迷わず買える金額だ。

「これなら私が映えるかも」

少し大きかったが、抱えられない重さではない。美咲は衝動的にその鏡を購入し、アパートへと持ち帰った。

第二章:魔女の真似事

帰宅後、リビングの一角に100円ショップで買った強力なピンを刺し、鏡をかけた。

少し離れて眺めてみる。殺風景な6畳間が、そこだけ切り取られたように華やいで見えた。

美咲は鏡の前に立ち、少しおどけてポーズを取った。一人暮らしが長いと、独り言が増えるのが悲しい習性だ。

「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」

童話の魔女の真似事。当然、返事など期待していなかった。

しかし、一瞬の後、鏡面がぼんやりと白く発光し、部屋に低い男のような、しかしどこか無機質な声が響いた。

『美的感覚は人それぞれであり、現在は多様な価値観が存在するため、一番を決めることは困難です。しかし、多数意見を重んじるのであれば、本年のミス・ユニバース優勝者がそれに該当すると思われます。よろしければ、その人物を投影しましょうか』

美咲は悲鳴を上げることも忘れ、数秒間、口を半開きにして呆けてしまった。

幻聴か? いや、鏡は確かに光っている。

呆然とする美咲に、鏡は淡々と追撃する。

『特に不要のようですね。必要であればいつでもお声がけください。ご主人様に尽くすのが、私の使命ですので』

さらに数秒後、ようやく我に返った美咲は、慌てて叫んだ。

「そ、そのミスなんとかの人、映して!」

鏡の表面が波打ち、一人の黒人女性が映し出された。圧倒的なプロポーションと自信に満ちた笑顔。

「ふーん……思ったより可愛くないわね」

美咲は正直な感想を漏らした。自分の好みではない。

その瞬間、恐怖よりも好奇心と所有欲が勝った。これはとんでもない掘り出し物を手に入れたのかもしれない。

夕食のパスタを茹でながら、美咲は鏡の前に座り込んだ。まるで新しいSiriやAIスピーカーを手に入れた時のように、次々と質問を投げかける。そして、最も気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、私は日本で何番目に美しい?」

心臓が高鳴る。自分は可愛い。それは分かっている。クラスでも職場でも、常に上位にいたはずだ。

鏡は即答した。

『先ほどのご質問同様、明確な順位付けは困難ですが、客観的な顔面黄金比、肌質、体型データから推測しますと、およそ300万位から400万位前後かと思われます』

「はあ!?」

美咲は声を荒げた。300万位? そんなに低いわけがない。

しかし、しばらくして冷静さを取り戻すと、彼女の頭の中で都合の良い計算が始まった。

「待って。日本の人口って1億人以上いるでしょ? ってことは……300万位だとしても、上位3%から5%には入ってるってことじゃない!」

以前、バラエティ番組で「富裕層と呼ばれるのは上位5%」という話を聞いたことがある。

「私、容姿だけで言えば富裕層クラスってこと? つまり、玉の輿に乗れる器ってことよね!」

ショックは一転、強烈な優越感へと変わった。

美咲の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。この鏡は、真実を教えてくれる最高のパートナーだ。

第三章:蜜の味

それからというもの、美咲の日課は一変した。

仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、他人の不幸を覗き見るのだ。

「ねえ、いつもブランド自慢してる由美の預金残高教えて」

『……消費者金融を含め、現在200万円の負債があります。自転車操業状態です』

「やっぱり! あのバッグもリボ払いだったんだ!」

「マウント取ってくる既婚者の沙織は?」

『夫は現在、マッチングアプリで知り合った女性とホテルにいます』

「うわ、いい気味。幸せアピールなんてするからよ」

「会社のお局、高橋さんの家での様子は?」

『家族との会話は一日平均3分未満。自室で孤独にスマートフォンを操作しています』

「セクハラ課長の家庭は?」

『娘から生理的な嫌悪感を抱かれており、洗濯物は別にされています』

蜜の味だった。

自分より幸せそうに見える人間、自分を見下してくる人間。彼らの裏側にある惨めな真実を知るだけで、美咲の自尊心は満たされた。

質問はエスカレートし、過去の知人たちにも及んだ。

高校時代の元カレは、できちゃった婚をしたものの、生活感に溢れた冴えない奥さんと狭いアパートで暮らしていた。

クラスのマドンナだったあの子は、男に騙され、今は風俗店で働いているという。

いじめられていた地味な子は引きこもりに。私に告白してきた陰キャ男は、そこそこの企業に入ったものの、いまだに童貞のまま。

「ほら、やっぱり私が一番まとも。私が一番勝ち組に近い場所にいる」

一方で、面白くない事実もあった。

クラスで一番地味だったブスが、東京の大手商社マンと同棲していたり、自分より成績の悪かった子がベンチャー企業の社長夫人になっていたり。

「なんであんな奴らが」

嫉妬で胸が焼けそうになると、鏡は決まってこう言った。

『しかし、この状況が幸福であるか否かは、ご本人にしか分からないものです』

「うるさいわね、データだけ出しなさいよ」

美咲にとって、鏡はただの道具であり、教師のような説教は不要だった。

美咲の婚活にも、鏡はフル活用された。

合コンやデートの後、相手の品定めを鏡に依頼するのだ。

「今日の商社マン、預金いくら? 車は何?」

「趣味は? マザコンじゃない?」

鏡が告げる「真実」は、常に美咲を失望させた。貯金が少ない、隠れた借金がある、実家の母親と仲が良すぎる、変な性癖がある……。

『欠点のない人間など存在しませんが』

鏡の忠告も耳に入らず、美咲は次々と男たちを切り捨てていった。

「私には、上位5%の私には、もっと相応しい完璧な男がいるはず」

そんなある日、美咲はふと思いついた。

「ねえ、あなた、未来のことは分かるの?」

『未来は常に不確定です。この質問をした瞬間にも、無数の分岐が生まれています』

「じゃあ、私の一番可能性の高い未来を教えてよ。誰と結婚して、どんな生活をしてるの?」

鏡は、初めて長い沈黙を作った。

そして、低く重い声で告げた。

『その質問に答えた場合、”死”に繋がる可能性がありますが、それでも聞きますか?』

今まで即答していた鏡が、躊躇った。

「死」という言葉の響きに、美咲は背筋が凍る思いがした。

(私が死ぬってこと? それとも……)

得体の知れない恐怖を感じ、美咲は首を振った。

「……やめておくわ」

まだ20代。未来なんて聞かなくても、きっと明るいものが待っているはずだから。

第四章:残酷な数式

それから、20年の時が流れた。

美咲は43歳になっていた。

彼女の婚活は、失敗に終わっていた。

高卒で入社した会社では、40代になっても平社員のまま。後輩たちが役職につく中、簡単な雑用とお茶汲みを続ける彼女の存在は、もはや「愛嬌のある看板娘」ではなく、「扱いにくいお局」として疎まれていた。

それでも美咲は諦めきれず、週末ごとの婚活パーティーやマッチングアプリでの出会いを繰り返していた。

だが、現実は残酷だった。

20代の頃は選び放題だったはずが、今では選ばれることさえ稀になった。たまに言い寄ってくるのは、介護が必要な親を抱えた初老の男性や、再婚相手を探す子持ちの男性ばかり。

「私には相応しくない」

美咲は自分を慰め続けた。

「だって私は、日本の上位5%の美女なんだから。安売りしちゃダメ」

しかし、そこには致命的な数字のからくりがあった。

23歳のあの日、彼女は「人口1億人」を分母に計算して喜んでいた。

だが、恋愛市場における「価値」を測るなら、分母は「全人口」ではない。

「女性」であること。さらに「同世代(婚活対象年齢)」であること。

これらをフィルタリングすると、分母は1億人から数千万人、さらには数百万人にまで激減する。

その数百万人の同世代女性の中での「300万位から400万位」。

それは上位5%の選ばれし美女ではなく、上位30%から40%――つまり、「中の上」あるいは「ごく平凡」な順位でしかなかったのだ。

若さというゲタを履いていた20代ならともかく、40代になった今の彼女に、その順位を覆す武器は何も残されていなかった。

第五章:答え合わせ

ある孤独な夜、美咲は久しぶりに鏡の覆いを取った。

ここ数年、現実を見るのが怖くて封印していたのだ。

埃をかぶった鏡に映る自分は、目尻の小じわが目立ち、口元は不満でへの字に曲がっている。

「……ねえ、みんなはどうしてる?」

自分を慰めるために、かつて見下していた人々の「今」を聞くことにした。

「ブランド自慢の由美は?」

『借金返済のために夜も働き、その経験を活かしてファイナンシャルプランナーの資格を取得。現在は独立し、年収1000万を超えるキャリアウーマンです』

「……は?」

「不倫されて離婚した沙織は?」

『離婚後、苦労の末に誠実な男性と再婚。二人の連れ子と共に、穏やかな家庭を築いています』

「会社のお局だった高橋さんは?」

『定年退職後、長年の趣味だった陶芸教室を開き、そこで知り合った友人と良好な関係を築いています』

「セクハラ課長は?」

『娘の出産を機に和解し、現在は孫煩悩な祖父として慕われています』

美咲の手が震えだした。

「じゃあ、あの人たちは? 元カレは?」

『子供たちは独立し、夫婦二人で旅行を楽しんでいます』

「風俗で働いてたあの子は?」

『店に来た変わり者の資産家に見初められ結婚。現在は海外に移住し、慈善活動を行っています』

「引きこもりだった子は?」

『オンラインでの仕事を経て社会復帰し、地元のスーパーで店長を任されています。人望も厚いようです』

誰もかれもが、20年の時を進んでいた。

泥沼でもがいたり、失敗したり、傷ついたりしながらも、彼らは「変化」し、「積み重ね」ていた。

止まっていたのは、高みの見物を決め込み、他人を見下していた自分だけだった。

最終章:崩壊

絶望の果てに、美咲は震える声で問いかけた。

20年前に封印した、あの質問を。

「……私の未来は、どうなるの」

鏡は静かに、しかし冷徹に答えた。

『あなたは、他人と自分の幸せを比較し続け、自身の足元を見ることを疎かにしてきました。あなたが23歳の時に思い描いていた理想の未来は、もはや統計的に0%に等しいでしょう』

「そんな……」

『現在の行動パターンのまま推移した場合、今日の繰り返しが死ぬまで続きます。親の介護、自身の健康悪化、そして経済的困窮。誰にも看取られることのない、孤独な老後が待っています』

「やめて! 言わないで!」

『しかし、未来は不確定です。今日、今この瞬間から、他者への関心を捨て、自身の生活を改めれば……』

「うるさい、うるさい、うるさい!!」

美咲は叫び、近くにあった重い花瓶を振り上げた。

見たくない現実。聞きたくない正論。

「あんたなんかいなきゃ、私は幸せな夢を見られたのに!」

ガシャンッ!!

激しい破砕音が狭い部屋に響き渡った。

美しい西洋モダン風の鏡は粉々に砕け散り、床一面に銀色の破片を撒き散らした。

『Wunsch(願い)』と刻まれたプレートが、ひしゃげて転がる。

「はあ、はあ、はあ……」

肩で息をする美咲の耳に、もうあの声は届かない。

鏡の予言通り、未来を告げたことで、鏡はその「命」を終えたのだ。

後に残されたのは、散乱したガラス片と、それに映り込む無数に分割された、老いて歪んだ自分の顔だけ。

美咲はその場にへたり込み、喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

その泣き声は、薄い壁を隔てた隣人に「うるさいおばさんだな」と舌打ちされるだけで、誰の心にも届くことはなかった。

ラストエクスプレス

序章:始点、札幌

夜の帳が下りた札幌は、雪が微かに舞い始めていた。ネオンの光が湿ったアスファルトに反射し、未来的な円形をした「札幌・地下鉄(サブテレイン)中央駅」の巨大なドームを照らしている。

私、志摩(しま)アオイは、28歳。北海道大学で海洋地質学を研究する傍ら、今はある個人的なミッションのために、この駅のプラットフォームに立っていた。

目の前に広がるのは、単なる地下鉄ではない。それは、「弾丸地下鉄(サブテレイン・エクスプレス)」、通称「T-REX(ティーレックス)」。

20XX年に完成したこの国家プロジェクトは、宗谷岬近くの稚内から、遠く南の鹿児島・指宿まで、日本列島を縦断する巨大な地下トンネルである。全長約3,000キロメートル。そしてその移動時間を劇的に短縮しているのが、通路全体に敷き詰められた**「多段階加速型ムービング・ウォーク」**だ。

「内側(中央)から外側(壁側)へ、加速は徐々に、滑らかに速くなります。最も外側のレーンでは、時速約1,000キロメートルに到達。安全のため、レーン間の移動は指定されたスポットでのみ行ってください。」

駅のAI音声が、変わらぬ注意喚起を繰り返す。通常、北海道から鹿児島まで3時間。まさに、時間と距離の概念を破壊した奇跡のインフラだ。

アオイは、大きな旅行鞄を抱え、慣れた様子で最も内側の「ウォーミングアップ・レーン」に乗った。ゆっくりとした速度で体が押し出される。

「よし、3時間で着く。あの人に会うためなら、これしかない。」

アオイはポケットの中の、古びた手紙を握りしめた。手紙には、かすれた文字でこう書かれていた。

アオイ。私はもう、永くない。最後に、このトンネルのある秘密を、鹿児島で伝えたい。急いでくれ。

差出人は、アオイの祖父、志摩コウイチ。T-REXの建設を技術面で指揮した、天才的な土木工学者だ。

一章:加速する旅路

列車ではなく、ただの「動く歩道」で時速1,000キロメートルを体験するというのは、常識を超えた感覚だ。

アオイはまず二つ目の「リニア・レーン」(時速100キロメートル)へ移動した。体を包む透明なシールドが、風圧から守ってくれる。地下深く、地熱と地磁気が共振するトンネル内は、わずかな振動と低い唸り声に満ちている。

スマホのGPS表示は驚くべき速度で南下している。

  • 札幌 $\to$ 仙台:通過まで約30分
  • 仙台 $\to$ 東京:通過まで約45分
  • 東京 $\to$ 名古屋:通過まで約15分

アオイは、目を閉じ、最も速い「超音速レーン」に移る準備をした。そこでは、地上の景色は全く関係ない。ただの**「時間短縮」**という行為そのものと向き合うことになる。

その時、トンネル内部の特殊な照明が、不自然な赤色に点滅し始めた。そして、AI音声が緊急のアナウンスを流す。

緊急停止命令。全てのレーンで、ただちに速度を落とし、最寄りの緊急待避エリアへ移動してください。地下深部で地磁気異常を検知。繰り返します…」

アオイは反射的に、最も速度の遅いレーンへと戻り、緊急待避エリアのランプが点灯した壁側の扉を押し開けた。

二章:闇の中の囁き

待避エリアは、堅牢なコンクリートで囲まれた小さな空間だった。他にも数名の乗客が戸惑いながら集まっている。

アオイは地質学者としての知識から、すぐに違和感を覚えた。

「地磁気異常? このトンネルは、地磁気の影響を最小限に抑える特殊なシールド構造になっているはず…」

その時、アオイの祖父からの手紙を思い出した。彼は単なる工学者ではない。コウイチは、日本の地下深部に眠る**「あるエネルギー源」**の存在を研究していた。

彼はT-REXが、そのエネルギー源への「鍵」になることを知っていたのではないか?

アオイはスマホを取り出し、祖父が以前、冗談交じりに教えてくれたT-REXの緊急システムコードを入力した。すると、待避エリアの壁に隠されていた小型モニターが起動した。

モニターには、トンネルのリアルタイム地質データが表示された。

「やっぱり…!異常なデータだ。これは地磁気異常なんかじゃない。トンネルの真下、マントル近くで膨大なエネルギーが蓄積している…」

その時、待避エリアの扉が、外側から激しくノックされた。

「開けてください!私は警備局の者です。トンネルの緊急事態です!」

アオイは動かなかった。この情報が外部に漏れれば、混乱が起きる。祖父が言いたかった秘密は、この地下深部のエネルギーと関係しているに違いない。

アオイは緊急停止した動く歩道を避け、トンネルの壁に沿って設置された「点検通路」を走り始めた。南へ、鹿児島へ、祖父のいる場所へ。

三章:鹿児島、終点

約1時間半後。アオイは、どうにかトンネル内部の点検車両を乗り継ぎ、予定より大幅に遅れたが、鹿児島・指宿の地下駅にたどり着いた。

駅舎の構造は、札幌と対照的だ。未来的なドームではなく、古い石造りの重厚な建物。

アオイはすぐに駅の最深部にある、祖父の研究室へと急いだ。

志摩コウイチは、部屋の中央にある古い木製の椅子に座っていた。窓の外からは、薩摩富士・開聞岳の稜線が、朝焼けの中にぼんやりと見えている。

「…アオイ。よく来てくれた」祖父は弱々しく微笑んだ。

「おじいちゃん!あの地磁気異常は?T-REXの秘密って、何なの?」

コウイチは、テーブルの上に置かれた小さな、古ぼけた地図を指差した。

「アオイ。このT-REXは、ただの移動手段ではない。これは、日本列島の地下深くに眠る、巨大な**『地熱エネルギー網』**を起動させるための…導管なのだ。」

コウイチは続けた。「トンネルの掘削は、私が計画したものよりも深く進んだ。その結果、マントルの熱が、トンネル全体を**『超伝導体』のように機能させている。つまり、T-REXの『動く歩道』は、実は日本列島全体を循環させる巨大なエネルギー発電機**なのだ。」

アオイは息をのんだ。北海道から鹿児島まで3時間という短縮技術は、この巨大なエネルギーを隠すための、そして、利用するためのカモフラージュだったのだ。

「しかし、そのエネルギーの出力が、想定を超えて上昇している。トンネルが熱暴走すれば…日本列島全土に巨大地震を引き起こす。それが、さっきの『異常』の正体だ。」

コウイチは、アオイの手に、地図と古い起動キーを握らせた。

「あの鍵は、この指宿の地下にある、T-REXのエネルギー制御炉を停止させるためのマスターキーだ。しかし、停止させれば、日本はすべての電力を失う。…アオイ。お前は、人類の移動の自由列島の存続、どちらを選ぶ?」

朝の光が、地下の部屋に差し込み始めた。アオイは、手の中の鍵と、目の前の祖父、そして未来の日本の姿を交互に見つめた。

彼女に残された時間は、3時間という短縮された移動時間によってもたらされた、わずかな猶予だけだった。

四章:葛藤—3,000キロの愛と責任

指宿の地下研究室に、静寂が訪れた。朝焼けの光がコウイチの顔を微かに照らし、彼の衰弱を際立たせる。

アオイは震える手で、マスターキーを握りしめた。

「おじいちゃん…停止させたら、日本中の電力は…」

彼女の脳裏に、真っ先に一人の男の顔が浮かんだ。

タケシ

彼は東京の大手電力会社で、**「新エネルギー統合管理システム」**の責任者を務めている。そのシステムこそが、このT-REXが生み出す超伝導エネルギーを、日本全土の送電網に安定して流し込むための心臓部だ。

アオイとタケシは、札幌での学会で出会った。アオイが「地下の秘密」に夢中になる一方で、タケシは「未来の安定」を信じていた。

――「アオイ、君が研究しているのはロマンかもしれないが、俺たちが管理しているのは、人々の日常だ。このT-REXシステムは、エネルギーの革命なんだ。もう誰も、停電の恐怖におびえる必要はない」

タケシの言葉が蘇る。

もし今、アオイがこのキーを使えば、T-REXはただの「動く歩道」に戻るだけではない。日本列島を網の目状に覆う彼のシステムは、供給源を失い、一瞬で機能停止するだろう。病院、交通、通信…そして、タケシが全てをかけて作り上げた「日常」が崩壊する。

「おじいちゃん…タケシは、このシステムに人生を懸けている。もし電力網が崩壊したら…彼は、彼らの会社は、どうなるの?」アオイの声は掠れていた。

コウイチはゆっくりと目を開けた。「タケシ君か。あの真面目な青年なら、私がこのトンネルを掘る前に、彼の会社の幹部を説得すべきだったかもしれん…だがな、アオイ。『日常』とは、明日があるからこそ日常なのだ

コウイチは激しく咳き込んだ。「今、停止させねば、溜まりすぎたエネルギーは、プレートの歪みを限界まで押し上げる。3時間で東京に着く便利さと引き換えに、私たちは、この列島を失うのだぞ」

アオイは地図とキーをテーブルに叩きつけた。

「違う!何か別の方法があるはずよ!停止以外の方法で、エネルギーを逃がす方法が!」

彼女は研究室のモニターを睨みつけた。地質データが示すエネルギーの数値は、もはや待避命令を出した時の比ではない。グラフは垂直に上昇し、**「臨界点まで残り10分」**という赤文字が点滅していた。

「10分…」

タケシの声が、再びアオイの頭に響く。

――「アオイ。もし本当に緊急事態が起きたら、俺は現場から動けない。君は、自分の信念に従って動け。それが俺たち二人の、未来を守る唯一の方法だ」

タケシは、常に最悪の事態を想定していた。彼の会社がシステムの停止を外部から遠隔で試みても、このT-REXの中枢は地下深くにあり、物理的なキーでしか停止できないことを、彼は知っていたのかもしれない。

アオイは決断した。

「おじいちゃん…私は、タケシの日常を壊してでも、日本の明日を選ぶ。でも、完全に停止はしない。ギリギリまで、何かを探す」

アオイは研究室の隅に隠されていた、コウイチの自作の小型地磁気シールド発生装置を見つけた。

「このシールドを、制御炉に!停止させる前に、エネルギーを一時的に**『トンネル外へ』**逃がす方法を探す!」

彼女の持つ知識と、タケシへの愛と、列島への責任。その全てを賭けた最後の行動が始まった。臨界点まで、残り5分。アオイはキーを手に、制御炉のある最深部へと、駆け出した。

五章:マスターキーと、ゼロ秒の決断

地下研究室から続く、ひんやりとした金属の階段を駆け下りるアオイの足音が、静寂な地下施設に響き渡った。

「臨界点まで残り3分!」

彼女の心臓は警報の赤色点滅に合わせて激しく打ち鳴らされている。手には、日本列島の未来を握るマスターキー。目の前には、巨大な鋼鉄の扉。その奥に、T-REXの心臓、超伝導エネルギー制御炉がある。

扉には厳重なパスコードが求められたが、祖父のコウイチが残したヒント、「アオイ、君が生まれた日の緯度と経度だ」を思い出し、瞬時にコードを解除した。

重々しい扉が開き、アオイは制御炉の部屋へと入った。

部屋の中央には、巨大な球状のリアクターが鎮座していた。周囲の壁一面に張り巡らされたケーブルとコンデンサーが、地球内部からの膨大な地熱エネルギーを吸収し、それを3,000キロメートルのトンネルへと吐き出す。しかし今、そのリアクターは、赤熱した溶岩のように脈打ち、不安定な唸り声を上げている。

リアクターのメインパネルには、赤い文字で警告が表示されていた。

CRITICAL POINT: 00:01:30 緊急停止を推奨します。日本列島に構造的損傷のリスク。

「1分半…」

アオイは、最後の可能性を探るべく、祖父が残したシールド装置を起動させた。装置はかすかな光を放ったが、膨大なエネルギーの渦の前では、あまりにも非力だった。地熱エネルギーはシールドの限界を超え、部屋全体が震え始めた。

天井からパラパラとコンクリートの破片が落ちてくる。地震の前触れだ。

アオイは悟った。祖父が鍵を彼女に託したのは、他の選択肢がないことを知っていたからだ。タケシのシステムを救うことも、彼女の非力な技術でエネルギーを制御することも、許されない状況に来ていた。

彼女はタケシを想った。彼の誠実な瞳、システムの完成を喜んだあの日の笑顔、そして、いつも彼女の身を案じる温かい声。彼の努力が、一瞬で無に帰す。彼の仕事、彼の誇り、彼の築き上げた未来が。

「ごめんなさい、タケシ…」

アオイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

CRITICAL POINT: 00:00:10

彼女は迷いを振り払い、停止用スロットにマスターキーを挿し込んだ。

カチッ

リアクターの脈動が、一瞬だけ止まった。

CRITICAL POINT: 00:00:05

アオイは、キーを力いっぱい右へ回した。

ガチッ!

CRITICAL POINT: 00:00:00

次の瞬間、部屋全体を包んでいた灼熱の熱と、不安定な唸り声が、完全に消滅した

すべてが終わった。

巨大リアクターの赤熱は冷め、鈍い灰色に戻った。日本列島を貫いていたエネルギーの循環は停止し、T-REXの多段階加速型ムービング・ウォークは、その機能を完全に失った。

アオイは、その場にへたり込んだ。疲労と、途方もない喪失感に襲われた。

「…成功だよ、アオイ」

背後から、コウイチの弱々しい声が聞こえた。彼はいつの間にか、アオイのそばに立っていた。

「おじいちゃん…電力は?タケシのシステムは?」

「T-REXのエネルギーは、完全に遮断された。だが、タケシ君のシステムは優秀だ。供給停止を検知し、瞬時に旧来のバックアップ電源に切り替わったはずだ。一時の大混乱は免れないが、大規模な崩壊は起こらない」

コウイチは、アオイの頭を優しく撫でた。「君は、3時間の移動の便利さ、そして、彼の未来の仕事と引き換えに、この国そのものを救ったのだ」

アオイの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。安堵と、タケシへの申し訳なさの涙だった。

終章:新たな旅路

数日後。

T-REXトンネルは閉鎖され、地質学的調査が入っていた。日本中のニュースは「原因不明の全国的停電」とその後の大混乱、そしてT-REXという「夢のインフラ」の突然の停止を報じている。

アオイは札幌へ戻るために、鹿児島空港にいた。もう「3時間」で移動することはできない。

その時、彼女のスマホが鳴った。タケシからだった。

「…タケシ」

「アオイ、無事か。ニュースを見たよ。信じられない…あのT-REXのせいで、俺のシステムは地獄を見た。何日寝てないか分からないくらいだ」タケシの声は、疲れていたが、怒っている様子はなかった。

「ごめんなさい…」アオイは絞り出すように言った。

「…何が原因だったのかは、今は誰も知らない。でも、俺は一つだけ確信していることがあるんだ」

タケシは少し間を置いた。

「もし、あの時、もう少し対応が遅れていたら、本当に全国のインフラは破壊されていた。誰かが、ギリギリのタイミングで、この国の心臓を停止させた。そのおかげで、俺たちは最悪の事態を免れたんだ」

タケシは続けた。「俺は、またシステムを再構築する。今度は、もっと安全で、本物の未来を築く。アオイ、君が北海道から戻ったら、話したいことがある」

アオイは涙を拭った。「ええ。私も、話したいことがあるわ」

彼女はスマホを握りしめ、飛行機の搭乗口へ向かって歩き出した。北海道から鹿児島まで、3時間で移動できた時代は終わった。今、彼女とタケシの間には、飛行機でも数時間かかる、現実的な距離が横たわっている。

しかし、その距離は、アオイが守り抜いた「明日」の上にある。そして、その距離を埋めるための、新たな、ゆっくりとした、確かな旅が、今、始まろうとしていた。

エピローグ:次なる夢と、地下の深淵

数ヶ月後。冬の厳しい寒さが和らぎ、札幌にも春の兆しが見え始めた頃。

アオイは、北海道大学の研究室で、祖父コウイチの遺した膨大な地質データを整理していた。T-REXの件は、政府によって「未曾有の電力システム障害」として処理され、地下トンネルの真相は闇に葬られたままだ。

しかし、アオイの心は晴れていた。タケシとは、頻繁に連絡を取り合っている。彼はT-REX停止後、システム再建のヒーローとして奔走しており、二人の関係は、困難を乗り越えたことで、以前よりも強固なものになっていた。

研究室の小さなテレビで、夜のニュースが流れている。アオイは作業の手を止め、画面を見た。

ニュースキャスターは、輝かしい笑顔で原稿を読み上げている。

「…そして、次なる人類の偉業が、ついに実現へと近づいています。日本とアメリカ合衆国、サンフランシスコを結ぶ**『環太平洋海底トンネル』**の建設工事が、いよいよ最終段階に入ったとの報告です!」

アオイは息を飲んだ。その計画は知っていたが、完了が近づいているとは知らなかった。

「このトンネルも、日本のT-REXと同じく、超高速移動を可能とする**『多段階リニア加速システム』を採用。さらに、トンネルの運営には、安定した地熱エネルギーが必要不可欠であるとされています。しかし、一部の専門家からは、深海と地熱が複合する環境での工事、そして『未知なる地殻エネルギーの不安定性』**を指摘する声も上がっています」

画面には、太平洋の深海断面図のCGが表示される。T-REXの比ではない、途方もなく深い海底下のトンネルだ。

ニュースキャスターは、これらのリスクを「未来への挑戦」として軽くあしらい、海底トンネル開通の明るい展望を強調して話を終えた。

アオイは、テレビに向かって静かに呟いた。

「『未知なる地殻エネルギーの不安定性』…それは、T-REXで私が直面したものと、同じ深淵だわ」

彼女の祖父、コウイチは、T-REXが「導管」であると語った。もし、あの環太平洋トンネルも、同じように地球深部のエネルギーに手を出すための構造物だとしたら?

アオイは、机の引き出しから、コウイチが残した、T-REXの建設に使われた特殊な掘削技術に関する論文を取り出した。そこには、地熱の利用法だけでなく、その危険な制御法についても記されている。

「タケシの日常を、二度と危機に晒すわけにはいかない」

北海道から鹿児島までの3時間の旅路は、アオイに技術者としての知識だけでなく、危機に立ち向かう覚悟を与えた。もう、誰かの秘密に頼るのではない。

アオイは、タケシに電話をかけた。

「タケシ。私、東京に行くわ。そして、環太平洋海底トンネルの設計図を手に入れる。その『未知なる地殻エネルギー』と、徹底的に向き合う必要がある」

受話器の向こうで、タケシは少し驚いた後、力強く答えた。

「わかった。君が選んだ未来なら、俺が全力でサポートする。…だが、一つだけ約束してくれ。今度の旅は、3時間で終わらせるな。焦らず、ゆっくりと、確かなものにしてくれ」

アオイは微笑んだ。

「ええ。もう、あの弾丸地下鉄は使わないわ」

北海道の窓から差し込む、春の柔らかな光を浴びながら、アオイは未来へと続く、新たな長旅の準備を始めた。それは、太平洋を越えて、深海へと続く、科学と責任の旅だった。

裸の王様

佐々木健一(38歳)のデスクは、今日も書類の山で埋もれていた。 「佐々木さん、この資料、数字が合わないんですけど。何度言ったら分かるんですか?」 年下の上司が溜息交じりに書類を突き返す。その背後では、女子社員たちがランチの相談をしながら、健一の方を一瞥してクスクスと笑っていた。

(俺は、お前らとは違うんだ)

健一は心の中で毒づく。学生時代、偏差値は常にトップクラスだった。一流大学を出て、誰もが知る大企業のそのまた子会社に入社した。本当は親会社に行くはずだったが、面接官が俺の知性を理解しなかっただけだ。 勉強はできた。だが、悲しいことに彼は「仕事」ができなかった。マニュアルにない事態にはフリーズし、他人の感情の機微には驚くほど鈍感だった。

そんなある夜、帰宅後の缶ビール片手に眺めていたスマホ画面に、運命の広告が流れた。

『まだ会社に搾取されているのですか? 脱サラして、あなたらしい生き方を』

再生された動画では、成功した元サラリーマンが高級車を背に語っていた。「オーナーという自由」「自分だけの城」。 その甘美な響きは、健一の乾いた承認欲求に火をつけた。

「素晴らしい経歴ですね、佐々木さん! あなたのような聡明な方こそ、オーナーに向いている」

コンサルタントの言葉は、久しぶりに浴びる称賛のシャワーだった。説明会ですっかり気を良くした健一は、勧められるがままに開業を決意する。 商材は「メキシコ料理」。 学生時代、卒業旅行で数日滞在したカンクンでタコスを食べた。ただそれだけだ。料理への情熱も、メキシコ文化への造詣もない。しかし、彼にとってそれは「人とは違う特別な経験」という記号だった。

「場所は銀座にしましょう」 「銀座? 家賃が高いのでは?」 「佐々木さん、ブランドですよ。あなたのようなハイレベルな人間が店を出すなら、それに相応しい土地でなければ」

その言葉に、健一はニヤリと笑った。そうだ、俺には銀座が似合う。

店名は『エル・レイ(王様)』。 オープンから三ヶ月は、物珍しさとコンサルが手配したサクラ、そして開店景気で席は埋まった。

「いらっしゃいませ」とは言わない。「オラ」と言えと命じた。 水を持ってこいと言う客には、「当店はセルフです。本場では自分のことは自分でするのが常識です」と鼻で笑った。

「客と店は対等、50対50だ」 コンサルタントの言葉を、健一は「俺が王様だ」と解釈した。気に入らない客がいれば、聞こえよがしに舌打ちをし、味の好みを言われれば「素人は黙って食え」という態度を隠そうともしなかった。

しかし、蜜月は長くは続かない。 半年が過ぎる頃には、客足はパタリと止まった。残ったのは、銀座の作法を知らない観光客か、健一のこの独特な「高圧的な接客」を面白がる、一部の変わり者だけだった。

「雨のせいだ」「景気が悪い」「今の日本人は本物の味が分からない」 売り上げの低下を、健一はすべて外部のせいにした。自分が間違っているとは、夢にも思わなかった。

ある雨の平日、数少ない常連の一人である、皮肉屋の男がやってきた。連れがいるようだ。 「大将、今日は田舎から出てきたばかりの新人連れてきたよ。社会勉強させてやってくれ」

連れてこられたのは、サイズの合っていない吊るしのスーツを着た、若く大人しそうな男だった。キョロキョロと店内を見回す様子が、健一の神経を逆撫でした。

「……オーダーは?」 「あ、えっと、メニューがこれ、スペイン語だけで……」 「読めないの? 写真見れば分かるでしょ。今の若いのは想像力もないのか」

健一はわざとらしく溜息をついた。 若者は恐縮し、水をこぼしてしまった。 「あーあ。布巾そこにあるから。自分で拭いてね。うちはファミレスじゃないんだから」

「すみません、すみません」と頭を下げる若者を、健一は冷ややかな目で見下ろした。 「銀座で飯食うなら、最低限のマナーくらい勉強してから来なよ。これだから田舎者は」

最高の気分だった。無知な人間にマウントを取る瞬間こそ、彼が唯一「有能」になれる時間だった。

それから数日後。 店に一通の通知が届いた。メインバンクからの「融資打ち切り」の通達だった。 赤字続きの現状では厳しいことは分かっていたが、まさか打ち切られるとは。

「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」

健一は血相を変えて銀行の支店へと怒鳴り込んだ。 窓口のいつもの担当者は、健一の剣幕に青ざめ、「わ、私の一存では……審査部の担当者が判断したことでして……」と逃げ腰だ。

「じゃあその審査部の人間を出せ! 直接話をつける!」

応接室に通され、貧乏ゆすりをしながら待つ健一。 ドアが開き、一人の男が入ってきた。

「お待たせいたしました。審査部担当の……」

男が顔を上げ、健一と目が合う。 健一の動きが止まった。

サイズの合っていない吊るしのスーツ。気弱そうな表情。 そこにいたのは、数日前、店で健一が「田舎者」と罵り、雑巾がけをさせたあの若者だった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

男は静かに微笑んだが、その目は全く笑っていなかった。 手元の稟議書には、真っ赤な印鑑で【否決】と押されていた。

健一の背筋を、冷たい汗が伝い落ちていった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

審査部の若き担当者がそう言った瞬間、健一の脳内で何かが弾けた。恐怖ではない。猛烈な怒りだ。 彼はバンと机を叩き、立ち上がった。

「はっ! そういうことか。お前、私怨で審査を落としたな?」

若者は冷静に眉をひそめる。「いいえ、佐々木様。あくまで事業計画と現状のキャッシュフロー、そして将来性を鑑みての……」

「嘘をつくな! あの時、俺に恥をかかされたから、その復讐だろう! 公私混同も甚だしい! これだから三流大学出の銀行員は!」

健一は叫んだ。自分の経営手腕のなさ、接客の酷さ、数字の悪さ、それら全てを棚に上げ、「優秀な自分が、卑劣な田舎者の復讐によって足を引っ張られた」というストーリーを瞬時に構築したのだ。そう信じ込まなければ、彼の自我は崩壊してしまうからだ。

警備員に両脇を抱えられ、支店からつまみ出される最中も、彼は叫び続けていた。 「見てろよ! お前の名前、ネットに晒してやるからな!」

融資は下りず、運転資金は底をついた。 コンサルタントに電話をかけるが、「現在使われておりません」のアナウンスが流れるだけだ。

「あの詐欺師め……。俺のような才能ある人間に取り入りやがって」

従業員への給与も未払いになった。アルバイトたちが詰め寄ると、健一は逆ギレして怒鳴り散らした。 「お前らがもっと真面目に働かないからだ! 俺の指示通りに動けば、こんなことにはならなかった! 金が欲しけりゃ、売り上げを作ってから言え!」

結局、従業員たちは呆れ果て、労働基準監督署へ駆け込むこともせず、ただ静かに去っていった。「あんな可哀想な人に関わるだけ時間の無駄だ」という捨て台詞を残して。

銀座の店は、家賃滞納により強制退去となった。 看板が外される日、健一はそれを遠巻きに見ながら、缶チューハイを煽っていた。

「銀座は終わったな。俺という本物を理解できない街に、未来はない」

借金だけが残り、彼は安アパートへと転がり込んだ。

一年後。 健一は、都内某所の古いアパートの一室にいた。 定職には就いていない。「俺のスペックに見合う仕事がない」からだ。日銭は、倉庫内軽作業の日雇いバイトで稼いでいる。そこでも「効率が悪い」「リーダーの指示が論理的でない」と現場で揉め、あちこちの派遣会社を出禁になっていた。

しかし、今の彼には新しい「城」があった。 インターネットのグルメレビューサイトと、SNSだ。

ハンドルネームは『銀座の元帝王』。 プロフィールにはこうある。 『元銀座オーナーシェフ。経営コンサルタント。本物の味とサービスを知る男。辛口ですが、愛のある指導をします』

彼は夜な夜な、コンビニ弁当をつつきながら、自分が行ってもいない繁盛店のページに星一つの評価を書き込む。

『接客がなっていない。客と対等だという意識が欠如している』 『味はまあまあだが、経営者の哲学が感じられない。長くないだろう』 『かつて私が銀座で店を張っていた頃は……』

画面の中の彼は、誰よりも偉く、誰よりも正しい。 「いいね」が一つつくたびに、彼の乾いた自尊心が満たされる。

「やっぱり、俺の言うことは正しいんだ。世間が俺に追いついていないだけなんだ」

モニターの光に照らされたその顔は、薄汚れているが、恍惚とした笑みを浮かべていた。 現実の彼は、借金の督促状の山に埋もれ、明日食べる金にも困る中年男性だ。しかし、彼の頭の中では、彼は依然として「不運な天才」であり、世界は「愚かな大衆」で溢れているのだった。

彼は今日もキーボードを叩く。 反省など、するはずがない。なぜなら、彼は一度も間違ってなどいないのだから。

湯けむり殺人事件

序章:非日常の終わり
夜明け前の群馬の山奥は、濃い霧に包まれていた。旅館「山吹荘」の離れ、「岩清水」の部屋から漏れる灯りは、まるで異界に迷い込んだ船の舷窓のようだ。

4人は、この宿で最も人里離れた場所に位置するこの部屋で、昨夜、文字通り夜明けまで飲み明かした。

「いやー、やっぱたまにはこうやって集まらないとさ! 明日っつーか、もう今日だけど、朝風呂入って、美味いもん食って、また昼からやるぞー!」

46歳になった今も、その行動力と声の大きさがまるで変わらないダイは、熱燗の徳利を掲げて豪快に笑った。彼の正面で、51歳のヒロが眉間に深い皺を刻む。

「ダイさん、さすがにもう勘弁してくださいよ。私は朝5時には起きて、この宿の裏を走ってる上越線の旧線を……いや、もういいです。ダイさんは相変わらずタフですね」

ヒロの言葉に、マコはクッと笑ってグラスの焼酎を一気に呷る。41歳のマコは、世界を股にかける自由人の空気を纏っている。

「ヒロ、たまには諦めて流されろ。ダイの言う通り、ここではノーリミットだ。俺はこの非日常が最高に気に入ったね。この秘湯の熱さ、この山奥の静けさ。まるで遠征先のマイナーリーグの街みたいだ」

その様子を、49歳のエミは微笑みながら見ていた。彼女は手に持った特注のビールジョッキを揺らし、その熱狂的な空間の中心にいることに、密かな満足を覚えていた。

「もうみんなグダグダだね。でも、この歳になって、家族とか仕事とか関係なく、こんな風に集まれるのって、ほんと奇跡だと思わない? うちら、なんだかんだで10年以上だもんね」

熱い議論と、くだらない笑い話と、時に真面目な人生観のぶつけ合い。共通の「熱」を持つ4人だからこそ共有できる、濃密な時間だった。

そして、夜が明けた。

第一章:密室の朝
日の出を待たずして、ヒロは飛び起きた。山吹荘の温泉は朝5時から入れる。昨日、泥酔したダイに「朝イチで最高の湯を味わうぞ!」と誘われたことを思い出したのだ。

彼は重い頭を抱え、畳の上に敷かれた四組の布団を見渡した。

ダイ、マコ、エミ。皆、深く眠っている。

ヒロは静かに自分の浴衣を羽織り、部屋を出ようとした、その時。

「……ん?」

彼の足が止まった。

一番入り口側に寝ていたダイの布団から、右腕がだらりと床に投げ出されていた。その手のひらが、畳の上で異様に白い。

「ダイさん? ダイさーん、朝風呂ですよ」

ヒロは小声で呼びかけたが、返事はない。

彼はダイの布団の傍にしゃがみこみ、その顔を覗き込んだ。

ダイの目は、大きく見開かれていた。

口は半開きになり、その顔色には、生前の快活さの欠片もない。まるで、熱狂の最中で時間が凍り付いたような、虚ろな表情。

ヒロの脳裏に、冷たい、金属的な感触が走った。彼は思わず後ずさった。

「うそ……だろ……」

彼は震える指先で、ダイの首に触れた。体温がない。温かい夜の残り香を打ち消す、底冷えする冷たさ。

その瞬間、ヒロは絶叫した。

「おい! 起きろ! マコ! エミ!」

隣で寝ていたマコとエミが、跳ねるように起き上がる。彼らの眼は寝ぼけていたが、ヒロの異常な叫び声と、彼が指差す先の光景に、一気に覚醒した。

「なんだよ、ヒロ。うるさ……え?」

マコが最初に発した声は、すぐに喉の奥に引っ込んだ。エミは両手で口を押さえ、微かに嗚咽を漏らした。

彼らの目の前で、ダイは、横たわったまま、死んでいた。

第二章:途絶した生命線
混乱の中、三人はまず警察を呼ぼうと立ち上がった。

マコが自分のスマートフォンを取り出す。

「とにかく警察だ。110番……」

彼が画面をタップするが、通話は繋がらない。

「おかしい。圏外じゃないぞ、アンテナは立ってる。でも、通話が……」

次はエミが試みる。同じように、通話はすぐに切れてしまう。

「私もダメ。圏外マークは出てないのに。まるで、回線が意図的に遮断されてるみたい……」

ヒロは急いで部屋を飛び出し、母屋のフロントへ向かった。しかし、母屋は静まり返っており、誰もいない。

「おかしい、人がいすぎる……」

彼は公衆電話がないか探したが見つからず、唯一あった固定電話も、なぜかダイヤルしてもツー、ツーという音すらしない。回線が死んでいる。

「山吹荘の固定電話も、俺たちのスマホも、外に繋がらない……」

三人は離れに戻った。霧はさらに濃くなり、視界を覆い尽くしている。

「どういうことだよ……。まさか、誰かに邪魔されてるのか?」マコの目が鋭くなる。

ヒロは俯きながら言った。「ダイさんの死は、病気や事故に見えない……。布団の中だ。誰かが、この部屋で……」

エミが顔を上げる。その瞳には、恐怖と、明確な疑念が浮かんでいた。

「……じゃあ、犯人は、私たちの中にいるってこと?」

部屋の中に残された生存者は、三人。

10年来の友人。熱狂的な趣味を共有する仲間。

そして今、彼らの友情は、一人の死と、山奥の孤立という状況によって、脆くも崩れ去ろうとしていた。

疑心暗鬼の、密室殺人の幕が開いた。

第三章:遅れてきた朝食
三人がダイの遺体を囲んで、極度の緊張と絶望に囚われている中、襖がスッと開いた。

「お客様、朝食のお時間ですが、ご準備はよろしいでしょ――」

そこに立っていたのは、初老の女性従業員だった。彼女は白い割烹着姿で、手に湯気の立つ味噌汁とご飯の乗ったお盆を抱えている。彼女は部屋の中の異様な空気に気づき、言葉を途中で止めた。

彼女の視線が、中央に横たわるダイの布団に注がれる。

「あ、あの……どうなさいましたか?」

ヒロが慌てて状況を説明しようとする。

「すみません、女将さん。大変なことになりました。ダイさんが、死んでいます。私たちは今、警察に連絡しようとしているんですが、なぜか電話が繋がらなくて……」

従業員は、一瞬にして顔から血の気が引いた。彼女は手に持っていたお盆をそっと畳に置き、ダイの遺体に駆け寄る。

「まぁ……! こんな、こんな山奥で……。ご主人様! しっかりしてください!」

彼女はダイの冷たい手首に触れ、やがてその事実を理解すると、その場に座り込んでしまった。

「警察に、電話が……? そ、そんなはずは。ちょっと待ってください、本館の電話で私がもう一度……」

従業員は青ざめた顔で急いで部屋を飛び出していったが、数分後、さらに顔面蒼白になって戻ってきた。

「だ、駄目です! 本館の電話も全く通じません! 昨日から急に回線がおかしくなったみたいで……。携帯電話もですか?」

三人は無言で頷く。この孤立状態は、やはり事実だった。山吹荘と外界を結ぶ全ての通信手段が、なぜか断たれている。

マコは従業員に尋ねた。

「昨夜、この離れの部屋に、私たち以外に誰か出入りしましたか? 従業員の方も含めて」

従業員は震える声で答えた。「いいえ、絶対にございません。ここは秘湯が目的の、完全に隔離された離れでございます。昨夜はうちの主と二人きりで、もう寝ておりましたから……」

彼女は涙を浮かべ、「警察を呼ばなくては……」と何度も繰り返す。しかし、その術がない。

絶望が部屋を満たし、三人はダイの死体から目を離せずにいた。

第四章:三者三様のロジック
時間が過ぎ、警察が来ないことが確定すると、三人の態度は変化した。恐怖は疑念に変わり、やがて「犯人」を特定しなければならないという焦燥感に駆られていった。

ダイの死体の周りには、昨夜飲み散らかしたままの酒瓶、空になったビールジョッキ、そしてタバコの吸い殻が散乱している。

🍷 マコのロジック:海外仕込みの論理的思考

世界各国を旅し、修羅場を潜り抜けてきたマコは、冷静さを装いつつ、遺体と部屋の状況を観察し始めた。

「状況はシンプルだ。密室。生存者は俺たち三人。外からの侵入者は、宿の女将さんが否定した。つまり、ヒロか、エミか、俺の誰かだ」

彼は遺体のそばに落ちていた、ダイの愛用していたライターを手に取った。

「俺は昨夜、ここでダイと真剣な話をした。アイツはいつものように前向きで、次の計画に熱中していた。殺す動機がない。じゃあ、お前たちだ。特にヒロ。お前、いつもダイに比べて、自分のことを卑屈に言ってたろ。嫉妬か?」

🚂 ヒロのロジック:趣味から生まれたクリエイティブな視点

ネガティブな性格がゆえに、常に最悪の事態を想定して生きるヒロは、この状況を、まるで複雑な鉄道模型のジオラマを解き明かすかのように分析し始めた。

「待ってください、マコさん。私はダイさんのポジティブさが苦手でしたが、殺意なんてありません。むしろ、一番怪しいのは、場の空気を支配しようとしていたエミさんじゃないですか?」

ヒロはエミに顔を向けた。

「昨夜、ダイさんはエミさんに、『もう49歳なんだから、いつまでもオタサーの姫みたいな振る舞いはやめろ』って、冗談めかして言ってたのを聞きましたよ。あの時、エミさんの顔が一瞬凍り付いた。ダイさんのあの軽率な言葉が、エミさんのアイデンティティを深く傷つけたとしたら……それが動機になる」

👑 エミのロジック:オタクコミュニティで培った人間関係の分析

エミは涙を拭い、鋭い視線をヒロに向けた。オタクコミュニティという特殊な人間関係の中で、常に注目を集め、他者の感情を操作してきた彼女の観察眼は鋭い。

「ヒロさん、汚い。動機なんていくらでも作れるわよ。一番動機がありそうなのは、むしろヒロさんでしょ。あなたは、いつもダイさんの行動力や、家庭を持っている生活に、『どうせ私なんか』って言ってたじゃない。あの人の自由奔放さが、独身のヒロさんには憎かったんじゃない?」

彼女はダイの死体から少し離れた場所に、昨夜ヒロが使用していたらしい、使い捨ての古いフィルムカメラを見つけた。

「ヒロさん、あなた、昨日の夜中、トイレに立った後、このカメラを弄ってたわよね。もしかして、ダイさんが死んだ瞬間を、誰にも知られずに記録しようとしたの? 犯行の証拠隠滅や、アリバイ作りのための小道具なんて、趣味でクリエイティブなことやってる人の方が得意なんじゃないの?」

三人の視線が交錯する。

それぞれが、相手のパーソナリティの「闇」の部分、つまり「趣味への熱狂」や「人生への諦念」を動機として指摘し、友情は疑念の刃へと変わった。

山奥に響くのは、彼らの荒い息遣いと、静かに降る霧の音だけだった。

第五章:霧に潜むもの
三人の疑心暗鬼の推理合戦は、一進一退を続けていた。誰も決定的な証拠を出せず、会話は感情的な非難と自己防衛の泥沼に陥っていく。その時、遺体のそばで座り込んでいた従業員が、かすれた声で呟いた。

「もしかして……神様の、祟りかもしれん……」

三人は一斉に彼女に顔を向けた。

「祟り? 女将さん、何を言ってるんですか? これは殺人ですよ!」マコが苛立ちを込めて言った。

従業員は顔を上げず、震える声でこの山吹荘の、そしてこの土地の古くからの言い伝えを語り始めた。

🕯️ 山吹荘の伝説:秘湯に棲む「霧守」

「この宿はな、江戸時代から『隠し湯』として知られてきたんじゃ。しかし、この山奥は、ただの秘境ではない。『霧守(きりもり)』と呼ばれる、この山の神様が住んでいると……」

従業員によると、この秘湯は霊験あらたかだが、一方で非常に排他的な性質を持つという。

「霧守様は、この地を『非日常を楽しむための場所』としては許さない。特に、自堕落な振る舞いや、他者を侮辱するような熱狂的な欲望を嫌う。昔から、この地で夜通し宴を張り、明け方に理性を失った人間は、必ず朝を迎えられなかったと……」

彼女はダイの遺体に目をやり、さらに声を潜めた。

「そして、霧守様の怒りが深い時、この山は外界との繋がりを断つ。電話や道が、全て深い霧によって閉ざされてしまうんじゃ……。私たちは今、霧守様の怒りの中にいるのかもしれない」

ヒロは話を聞きながら、昨夜ダイが言っていた言葉を思い出した。

「ダイさん、昨夜言ってましたよね。『この旅館の温泉、ちょっと硫黄臭が強すぎる。俺の家の風呂の方がよっぽどいい』って……。もし、それが、この土地の神様を侮辱したことになって……」

「馬鹿げてるわ!」エミが強く否定した。「そんなオカルトで片付けられるわけないでしょ! これは物理的な犯行よ! ダイさんがどうやって殺されたかを見てよ!」

しかし、マコは静かに周囲を見渡した。プロのサッカーマニアとして世界中の辺境を渡り歩いた彼は、科学では説明できない現象や、地域の信仰が持つ力を知っている。

「いや、待て。これは完全にミスリードだ。だが、この状況、通信が断たれている現象を説明できるのは、この伝説だけだ……。女将さん、一つだけ聞かせてくれ。ダイの体には、外傷があるか?」

従業員は恐る恐るダイの遺体に近づき、確認する。

「いいえ……ありません。顔色はひどいですが、どこにも傷一つ……」

その言葉で、三人の間の緊張が一瞬緩む。外傷がない。それは、毒物、あるいは絞殺などの痕跡を残さない犯行であることを示唆していた。

「外傷がない……。つまり、犯行手口はまだ特定できていない」マコが呟く。

そして彼は、自分の持つライターを見つめ、再び理性的な疑念をヒロとエミに向けた。

「神の祟りだろうと、霧守の怒りだろうと、俺たちはこの部屋で、ダイが死んだ瞬間に一緒にいた。現実問題として、物理的に殺害が可能なのは、俺たち三人だけだ。この状況を、オカルトで逃げるな」

神の伝説は、彼らの現実的な恐怖を覆い隠す、濃い霧でしかなかった。三人は再び、相手の目を鋭く見つめ合った。

第六章:友情の崩壊
「神の祟り? 笑わせないでよ。ダイは、この世の誰かに殺された。そして、ここにいるのは三人だけだ!」

エミが叫ぶと、部屋の空気は再び凍り付いた。従業員は恐怖に縮こまり、部屋の隅で嗚咽を漏らしている。

マコは苛立ちを隠さず、ヒロに向かって詰め寄った。

「ヒロ、お前だ。お前が一番怪しい。ダイは家族も仕事もあるが、お前は鉄道と模型以外に何がある? 何もかもを斜に構えて見て、結局何も手に入れられない自分を、ダイのポジティブな生き方が嘲笑しているように感じたんじゃないのか?」

「何を言うんですか、マコさん!」ヒロは声を荒げた。「それはあなたも同じでしょう! 世界を飛び回ってるだぁ? ただの現実逃避じゃないですか! あなた、奥さんと子供二人いるダイさんに、『家族に縛られてる時点で、お前の人生は負けだ』って昨夜笑ってたの、私は聞いてますよ!」

ヒロはマコの持っていた焼酎の空き瓶を指差す。

「あなたこそ、ダイさんの生き方を否定することで、自分の自由気ままな、孤独な人生を正当化しようとしていた! ダイさんがあなたに、『そろそろ落ち着けよ。お前の遊びはもう虚しいぞ』って言ったら、あなたはすべてを失う! それが、殺人動機でしょう!」

「ふざけるな!」

マコは怒りに震え、テーブルを叩いた。海外の荒々しい現場で培われた彼の激情が露わになる。

「俺と違って、お前は常に『受け身』で、ダイの誘いを断れないくせに、いつも文句ばかり言っていた。殺すなら、衝動的な感情で動く俺より、ネチネチと計画的に動くお前の方が適任だ。お前は趣味で、緻密なジオラマを作る才能がある。そのクリエイティブな才能を、ダイを殺す計画に使ったんだろう!」

「私の話を聞いてよ!」

エミが二人の間に割って入った。彼女の目には、侮辱された女の怒りが宿っている。

「二人とも、私を無視しないで。ヒロさん、あなたは私を『オタサーの姫』って言ってたダイさんの言葉に私が怒った、って言ったわね? でも、あの言葉は、むしろあなたと私、二人に向けてダイさんが言ったのよ!」

彼女は指を震わせながらヒロを指差す。

「ヒロさん、あなた、ダイさんの奥さん……奥さんじゃなくて、ダイさんの奥さんの妹さんに、ずっと未練があったじゃない! だからダイさんを家族ごと憎んでいた! 昨夜もダイさんに、『妹さんを紹介してくれ』って粘着してたのを私は聞いたわ! ダイさんはそれを笑い飛ばした。あなたの、唯一のプライドを、ダイさんは踏みにじったのよ!」

ヒロは顔を真っ赤にし、言葉を失う。

「マコさんだって! マコさん、あなたが世界を飛び回っている間に、ダイさんがあなたの彼女に頻繁に連絡を取っていたことも、私は知ってるわよ! ダイさんは、『マコがいない間に、彼女の相談に乗ってやってる』って言ってたけど、あれは下心があったわ! あなたはそれに気づいていて、嫉妬で爆発したんじゃないの!?」

三人は、長年の友情の皮を剥ぎ取り、互いの人間関係における最も醜い秘密、最も深いコンプレックスを容赦なく暴き合った。

ダイの遺体は、彼らの10年の付き合いの「闇」が噴出する、この密室劇の静かな観客となっていた。

誰もが犯人に見える。誰もが動機を持っている。

「待てよ……」

マコが荒い息を整えながら、ダイの顔を覗き込んだ。

「動機は……動機は、俺たち全員にある。誰の動機が一番強いか、じゃない。誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

議論は再び、殺害方法と機会の特定へと移り始めた。この山奥で孤立した密室の朝は、誰かの過去と、誰かの未来を、同時に終わらせようとしていた。

第七章:毒と機会の深淵
「誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

マコが言い放ったその瞬間、ヒロとエミの視線が、一斉にマコに突き刺さった。

「待てよ、マコさん!」ヒロが声を尖らせる。「なぜ『飲み物』だと決めつけるんですか? 外傷がないからって、毒殺だと断定するのは早すぎる。何か知っているんじゃないですか?」

「そうだ、マコ」エミが畳みかける。「あなたこそ、今、自分の犯行手口を自白したようなものじゃない。あなたは世界中を飛び回って、色んな『薬』や『物』の知識があるはずよ。海外の裏ルートで、何か手に入れたんじゃないの?」

マコは、一瞬言葉に詰まった。

「ち、違う! 外傷がない以上、一番考えられるのは毒物だろうが! そして昨夜、酒の席だったんだから、飲み物に混ぜるのが最も簡単な方法だ! 俺は単なる推測を述べただけだ!」

「推測にしては具体的すぎる!」ヒロが叫ぶ。「あなた、昨夜、熱燗に混ぜるための『薬』を、自分の持ち込んだ焼酎の瓶の中に隠してたんじゃないですか? ダイさんが、熱燗から焼酎に切り替えた瞬間を狙って!」

「焼酎の瓶なんて、とっくの昔に空だ! 証拠もないことを言うな!」マコは否定するが、その動揺は隠せない。

「いいや、待ちなさい、マコさん」エミは静かに、しかし冷酷に言った。「あなたの推測が正しいなら、毒物を飲み物に混ぜたのなら……その毒物は、この部屋のどこかにあるはずね。あなたの持っていた『ライター』、海外の特殊な薬品をガスとして利用していたりしない?」

マコは反射的に手に持っていたライターを強く握りしめた。

「俺のライターはただのライターだ! それより、ヒロ! お前だ! お前は昨夜、トイレに立った! その時、誰にも見られずに自分のグラスに毒を入れ、その後、酔っ払ったダイのグラスとこっそり入れ替えたんじゃないか? 鉄道マニアのくせに、いつも冷たい飲み物を飲んでいたのは、ダイの熱燗と間違えないようにするためか!」

ヒロはカッと目を見開いた。

「バカなことを! 私の趣味を侮辱するな! トイレに立ったのが怪しいなら、部屋を出入りした人間全員が怪しい! エミさんだって、昨夜、何度もお菓子を取りに棚のところに行っていただろう! その『お菓子』に毒が仕込まれていて、ダイさんにだけ無理やり食べさせたんじゃないのか!? オタサーの姫は、周りの人間を自分の支配下に置くためなら、どんな手でも使う!」

「『オタサーの姫』と何度も言うな、この陰気なジオラマオタクが!」エミは遂に激昂した。

「あなたはいつも、私たちが楽しい話をしている時に、一人でスマホをいじって、『鉄道のデータ』だの『過去の路線図』だのに逃げていた! あなたは現実世界で人間と関わるのが怖い臆病者なのよ! その怯えと、ダイさんへの劣等感が、あなたを殺人鬼にしたのよ!」

「私は臆病じゃない! あなたは、永遠に若くてチヤホヤされる自分が、ダイさんの『家庭を持つ成功者』という現実に、年を取って崩されるのが怖かったんだろう! だからダイさんを排除したんだ! この古臭いサブカル女めが!」

マコは頭を抱え、荒れ狂う二人の罵倒を遮った。

「もうやめろ! みんな、ダイの飲み物に毒があるかどうかもわからないのに、ただの推測で殺人犯を決めつけようとしている! こんなことをしていても、誰も救われない!」

「じゃあ、あなたは何も知らないって言うのね!?」エミがマコを睨みつけた。

マコは、ぐっと唇を噛みしめる。確かに、外傷がないことから「毒」を連想したのは、彼自身が海外で見てきた様々な事例からの、あまりにも現実的な直感だった。しかし、それを指摘されたことで、彼自身が最も窮地に立たされてしまった。

三人の友情は完全に破壊され、残ったのは、相手の弱点や過去の秘密を突きつけ合う、むき出しの敵意だけだった。霧の立ち込める山奥で、彼らの疑心暗鬼は限界に達しようとしていた。

第八章:目覚める死体
「古臭いサブカル女めが!」

ヒロの怒鳴り声が、離れの部屋に木霊した。エミは涙と怒りで顔を歪め、マコは冷静さを失い、ライターを握りしめたまま動けなくなっている。三人の友情は完全に瓦解し、今にも殴り合いが始まりそうな、最悪の緊張状態にあった。

従業員は、恐ろしさのあまり、座り込んだまま目をつぶっている。

その時だった。

四組の布団が敷かれた中央。昨夜からの騒乱の中心で、虚ろな眼を見開き、冷たくなっていたはずのダイの体が、微かに動いた。

「……っ……」

微かなうめき声が、張り詰めた沈黙を破る。

三人は、その音を聞き間違えたのかと思い、一瞬動きを止めた。彼らの目は、同時にダイの遺体に注がれる。

ダイの半開きの口が、ゆっくりと動いた。そして、大きく見開かれていたその虚ろな瞳に、微かな光が戻ってきたかのように、ピントが合い始める。

彼は、まるで長い眠りから覚めたばかりのように、大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「ごほっ……ごほっ、ぅ……」

ダイは、布団の上で体を動かし、両手で自分の頭を抱え込んだ。

「うー……っ……頭痛ぇ……。なんだよ、もう朝かよ……」

彼は、昨夜と全く変わらない、46歳のマンガマニア特有の、底抜けに明るい声で呟いた。

「あれ? なんでみんな、俺の周りに集まってんだ? ……ヒロ、エミ、マコ。お前ら、そんなに青い顔してどうした?」

完全な沈黙が、部屋を支配した。

ヒロは息を呑み、指差していたマコを忘れて立ち尽くす。マコは握りしめていたライターを、ドサリ、と畳の上に落とした。エミは、口を開けたまま、声帯から何の音も出せない。

彼らが「死体」として、動機と殺害方法を議論し、互いの過去の汚点を罵り合っていた男は、極度の二日酔いで、ただ深く眠りすぎていただけだったのだ。

ヒロが最初に、震える声で尋ねた。

「ダ、ダイさん……? あ、あなた……生きて……」

ダイは、自分の顔を拭いながら、不機嫌そうに答えた。

「生きてるに決まってんだろ! なんだよ、寝起き早々、縁起でもねぇな。つーか、俺、昨日、相当飲んだろ? 熱燗の後に、マコが持ってきた焼酎を、チェイサー代わりに一気飲みしたのが効いたわ……。頭が割れそうだ」

マコが持ってきた焼酎。ヒロが指摘した、マコの「毒」の隠し場所。そして、マコが連想した「飲み物」への毒物混入。

それら全ての疑念は、ダイの豪快な飲みっぷり、そして彼の並外れたタフネスという、単純な現実によって吹き飛ばされてしまった。

ダイは布団から出て、畳の上に散乱した酒瓶と、青ざめた友人たちを見渡し、首を傾げる。

「なあ、みんな。昨日の俺、なんかやらかしたか? とにかく朝風呂だ。ヒロ、一緒に行こうぜ! この宿の秘湯で、完全に生き返るぞ!」

ダイの屈託のない笑顔が、この密室に差した。

三人の顔は、恐怖から、羞恥、そして、この上ない虚脱感へと変わっていった。彼らは、死体の周りで、10年来の友情を完全に破壊し尽くしたのだ。

その時、隅で目を閉じていた従業員が、そっと目を開け、安堵の息を漏らし、静かに呟いた。

「……よかった。霧守様の、いたずらでございました……」

第九章:戻る日常、そして終焉
ダイの「生きているに決まってるだろ!」という一言が、数時間続いた地獄のような密室劇を、一瞬で茶番に変えてしまった。

ヒロは口を開きかけたが、何も言えなかった。マコは拾い上げたライターをポケットにしまい、エミは顔を覆っていた手を静かに下ろした。彼らの顔は青ざめたままだが、それは殺人者への恐怖ではなく、自分たちが犯した友情破壊の愚かさに対する羞恥だった。

「なんだよ、みんな固まっちまって」

ダイは、まだ頭を抱えながらも、その場に散乱した酒の残骸を見つけると、すぐに切り替えた。

「よっしゃ、頭痛には迎え酒だ! 女将さん、すまねぇが、この味噌汁も飯もまだいい! 追加の熱燗持ってきてくれ!」

従業員は、信じられないものを見るかのようにダイを見つめていたが、「はい……はいぃ……」と細い声で答えると、小走りで部屋を出ていった。

ダイは、何事もなかったかのように立ち上がり、マコの肩を叩いた。

「おい、マコ! 昨日のお前、世界中のサッカーの話が熱すぎたぞ! おかげで完全に脳がフットボールになってるわ! もう一杯飲むぞ、もう一杯!」

ヒロとエミは、顔を見合わせた。

(俺たち、この男の死体(仮)の周りで、互いの過去の秘密と、人生のコンプレックスを、底の底まで暴き合ったのか……?)

その行為が、あまりにも馬鹿らしく、あまりにも虚無的だった。ダイの底抜けのポジティブさと適当なノリは、三人の激しい罵倒と疑心を、一瞬で「なかったこと」にしてしまう力を持っていた。

「……はぁ」

マコが最初に、大きなため息をついた。

「わかったよ、ダイ。お前には敵わないな。迎え酒だ。ヒロ、エミ。お前らも飲め。俺たちの友情を、昨夜の酒のせいにして、全部洗い流そうぜ」

マコが、そう『提案』することで、彼らは無言の了解を交わした。昨夜の罵倒合戦は、極度の泥酔と、ダイの深い眠りが引き起こした、単なる悪夢だったと、強制的に上書きすることにしたのだ。

四人は再び酒を飲み始めた。熱燗を呷り、味噌汁で胃を落ち着かせる。そして、ダイの提案で、皆で朝風呂へ向かうことになった。

秘湯の誘い

山吹荘の秘湯は、岩をくり抜いた野趣あふれる造りだった。濃い硫黄の匂いが立ち込め、体の芯から温まる熱い湯が、彼らの疲労と二日酔いを溶かしていく。

ダイは湯船の中で、力強く笑った。

「くぅ〜! 生き返るわ〜! ヒロ、お前ももっと肩まで浸かれよ! この非日常は最高だぜ! また来ようぜ、みんなでさ!」

「そうですね、ダイさん。もう、二度とこんな思いはしたくないですけど……」ヒロは苦笑いを浮かべながらも、どこか安堵していた。

マコも湯に浸かりながら、エミに視線を送った。エミは目線を逸らし、何も言わない。しかし、互いに一言も触れずとも、先ほどの出来事は深く、彼らの間に楔を打ち込んでいた。

湯が熱を帯び、彼らの体温を急激に上昇させる。昨夜の酒がまだ残っている体には、強すぎる熱さだったかもしれない。

ダイが、再び豪快な声で笑った。

「よーし、次は露天風呂だ! 夜明けの霧の中で、朝風呂なんてもう最高だろ!」

彼は湯船から立ち上がろうとした、その瞬間。

「……っぐ……」

ダイの顔から、一瞬で血の気が失せた。彼は胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。

「おい、ダイ! どうした!」マコが慌てて声をかける。

ダイは、何も答えることができない。そのまま、湯船の縁に手をかけようとしたが、力なく崩れ落ちた。その顔は、先ほどまで彼らが「死体」だと信じていた、あの青白い顔色と全く同じになっていた。

ヒロが慌ててダイの体を抱え起こそうとした、その時。

「うっ……うぅ……」

ヒロ自身も、胸に激しい痛みを覚えた。彼の視界が白く霞み、頭が締め付けられる。熱い湯が、心臓を強く打ち過ぎている。

「ヒロ、お前もか……?」マコは状況の異常さに気づき、顔色を変えた。

マコが二人を助けようと手を伸ばした、その瞬間。

激しい動悸と、全身の痺れが、マコを襲った。彼の体も、もはや自分の意思で動かせない。熱燗、焼酎、極度の睡眠不足、そして熱すぎる秘湯。全ての非日常の要素が、彼の心臓に牙を剥いた。

「……エ、ミ……にげ……ろ……」

マコは、最後に残った力を振り絞り、湯の外にいるエミに呼びかけた。

エミは、湯船の縁に座り、恐ろしい光景をただ見つめていた。

ダイ、ヒロ、マコの三人の男たちは、極限の熱と疲労に耐えきれず、次々に湯船の中で意識を失っていく。

残されたのは、ただ一人、サブカルくそ女のエミだけだった。

湯気が立ち上る静かな秘湯の中で、10年来の付き合いの男三人は、本当に朝を迎えられなかった。

最終章:姫の微笑み(修正版)
湯気が立ち込める秘湯の中で、三人の男の体が、動かなくなった。ダイ、ヒロ、マコ。彼らは、極度の疲労、酒、そして熱すぎる温泉の相乗効果によって、心臓発作を起こし、そのまま湯船に沈んでいった。

エミは湯船の縁に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。彼女は、もはや無関心だった。

湯から立ち上がった彼女は、タオルで体を拭きながら、冷え切った表情で三人の遺体を見下ろした。彼女の周りには、もう、彼女の存在を軽んじたり、彼女の居場所を否定したりする「男たち」はいない。

彼女は震える声で、悲嘆に暮れたフリを始めた。

「うそ……嘘よ……。ダイさん、マコ、ヒロ……なんで、こんなことに……」

彼女は両手で顔を覆い、激しく泣き崩れる演技をする。これは、オタサーの中で、常に自分の感情を最大限に表現し、注目を集めてきた彼女の、条件反射のような振る舞いだった。

その後、彼女はゆっくりと立ち上がった。

彼女は浴衣を羽織り、乱れた髪を整えた。そして、離れの部屋に戻り、そこで震えている従業員に、泣きはらした声で訴えた。

「女将さん! 大変です! 三人が、急に湯船で……!」

従業員が青ざめた顔で本館へ走っていくのを見送ると、エミは一人、静かに部屋の中を歩き始めた。

彼女は、自分が座っていた場所に戻り、冷たい畳の上に膝をついた。そして、口元に微かな笑みを浮かべた。

「ざまあないわね」

彼女は、まるで舞台のカーテンコールを前に立つかのように、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の顔には、先ほどの悲嘆の影は一切ない。あるのは、計画通りに全てが運んだことに対する、深い満足感と優越感だけだった。

ヒロが指摘した、「オタサーの姫」という言葉。マコが言及した、彼女の「サブカル女」という揶揄。そして、ダイが放った、彼女のアイデンティティを侮辱する言葉。彼らは、彼女の熱狂を、彼女自身を、常に軽んじてきた。

彼女は、浴衣の襟元を正しながら、窓の外の霧に、小さく囁いた。

「これで、私の邪魔をする男は、誰もいなくなったわ」

そして彼女は、はっきりと、自分自身に言い聞かせるように、その名を口にした。

「それにしても、みんな、最後まで間違ってたわね」

彼女は、自分の胸を指差す。

「『エミ』なんて、呼び捨てにするんじゃないよ」

彼女は、最後の勝利の言葉を、誰にも聞かれぬよう、冷たく呟いた。

「私の名前は、 『ミエ』 だよ。いつも間違えやがって」

女は、孤独な山の宿で、勝利の微笑みを浮かべた。誰も知らない、彼女だけの、完璧な「非日常」の結末だった。

神鳴くんはクールを装う 最終話

光に包まれ、元の世界に戻った俺は、一目散に葵の家へと向かった。

部屋に通されると、そこには、死の淵にいたことが嘘のように、元気いっぱいの笑顔を向ける葵の姿があった。

「響! 来てくれたんだ!」

その輝くような笑顔を見て、俺は確信した。俺の願いは叶ったのだ。そして、今こそ、俺のもう一つの決意を実行する時だ。

俺は、まっすぐに葵を見つめた。

「葵…。お前が好きだ」

一瞬、葵の時が止まった。理解できないというような間(ま)があった後、葵の表情が曇り、あからさまに不快な顔へと変わった。

「え…? ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

葵は、冷ややかな視線で俺を見た。

「響ちゃんのことはさ、友達として、幼馴染としては好きだけど…そういう対象じゃないんだよね。そもそも、私が今まで響ちゃんを構ってたのって、学校で友達がいない陰キャの響ちゃんを構ってあげてって、おばさんからお願いされてたからだし…」

「え…?」

「なんか勘違いさせちゃったかな? うわぁ…やっぱ陰キャの妄想って、ちょっとキモいね」

俺は、一瞬何を言われているのか分からず、きょとんとした。しかし、言葉の意味が脳に浸透するにつれて、猛烈な苦痛と、顔から火が出るほどの羞恥心が俺を襲った。

命を懸けて戦った。世界を救った。すべては、この子のために。 だが、現実は――「母親に頼まれて仕方なく構っていた陰キャ」という評価だった。

俺は、震える唇で、必死に強がった。

「…ば、バーカ! 冗談だよ! お前みたいなガサツな女、俺の方から願い下げだっつーの!」

精一杯のクールなふり。しかし、葵はそんな俺を、すべて見透かしたような、冷たい目で見つめていた。

その日の夜のことは、全く覚えていない。ただ、枕に顔を埋め、後悔と恥辱にまみれた一晩を過ごしたことだけは確かだ。

そして翌朝。 通学路で、葵がいつものように話しかけてきた。

「おはよー、響!」

ああ、やっぱり昨日のあれは悪い夢だったのかな。俺が一安心したのも束の間、葵はすれ違いざま、周囲には聞こえない声で、侮蔑の表情を浮かべて呟いた。

「…昨日みたいな冗談、もうやめてね。鳥肌立つから」

その言葉は、鋭利な刃物のように俺の心をえぐった。夢じゃなかった。俺の初恋は、完膚なきまでに砕け散ったのだ。

ショックですべて投げ出したくなったが、俺は気を取り直した。

(…ふん。まあいい。俺には、死ぬほど俺を愛してくれている茜がいる。あいつなら、俺のすべてを受け入れてくれるはずだ)

俺は開き直り、学校の校門付近で茜の姿を探した。いた。いつものように友達と話している。

「よう、茜」

俺は、少し恰好をつけて声をかけた。茜は振り返り、俺の顔を見て――きょとんとした。

「あの…どちら様ですか? 多分、先輩とはお話ししたことがないと思うんですが…」

「…え?」

俺は凍り付いた。そして、すぐに理解した。 妖精バトルに参加した人間は、優勝者以外、戦いの記憶が消去されるのだ。

茜にとって、俺は「命を懸けたパートナー」でも「愛するひびきちゃん」でもない。ただの、話したこともない先輩に戻っていた。

🕶 クールな俺の、新たなる戦い
俺はすべてを失った。 葵への想いも、茜からの愛も、妖精との絆も。

しばらくの間、俺は後悔の海に沈んだ。夜になれば、葵に言われた「キモい」という言葉と、茜の他人行儀な視線がフラッシュバックし、布団の中で身悶えする日々を過ごした。

しかし、数日後の朝。鏡の前で、俺は顔を上げた。

「…ふん。やせ我慢こそが、男の美学だ」

今回の戦いは、俺を成長させただろう。甘い幻想は捨てた。俺は、より強固で、より孤独で、よりクールな俺へと生まれ変わったのだ。

妖精バトルは終わった。だが、この残酷な現実世界(リアル)での、俺の戦いはこれからだ。

俺は、誰にも媚びない孤高の表情を作り、学校へと向かった。

場面は変わり、ここは異次元にある妖精国。

きらびやかな装飾が施された『妖精王の間』で、ピカリスが王座に向かって恭しく頭を下げていた。

「ピカリス、優勝おめでとう。今回の戦い、とても楽しませてもらったわ。次の大会もよろしくね」

王座から、鈴を転がすような、しかし絶対的な威厳を含んだ声が響く。

「畏まりました、女王様」

ピカリスがゆっくりと顔を上げる。 そこには、彼にとって見慣れた、絶対君主の顔があった。

妖精王の玉座に座り、頬杖をついて微笑んでいるのは――

紛れもない、星宮 葵の顔をした女性だった。

彼女は、モニターに映し出された、人間界で一人クールに振る舞う響の姿を眺め、妖艶に唇を歪めた。

「響は面白かったわ。あの必死な顔、勘違いした滑稽な告白…ふふっ」

女王は、新しい玩具を見つけた子供のように、目を輝かせた。

「まだまだ、響ちゃんで楽しめそうね…」

神鳴くんはクールを装う 10話

茜が嫉妬の炎に狂い、殺意にも似た愛憎を向けてきた。俺は、今の茜には何を言っても通じないことを悟ったが、それでも葵が生き延びる可能性に賭け、プライドを捨てて頭を下げた。

「わかった…! 俺は茜の好きにしていい。だから、優勝の願いは…葵の回復にしてくれないか!」

俺は床に額を擦り付ける勢いで頼んだ。しかし、俺が最後まで言い終わる前に、茜はヒステリックに叫んだ。

「ダメです!!」

茜の瞳から、理性が消え失せている。

「先輩の気持ちを侵すものは、誰一人生かしておきません! 先輩の心の中にいていいのは、私だけです! さあ、素直になりましょう…ひびきちゃん!」

説得は無理か…。ならば、力ずくでも止めるしかない。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は茜に向けて雷撃を放つ。しかし、電撃は茜の体をすり抜け、虚しく空を切った。

「残念、それは偽物です。私の『イリュージョン』の能力、忘れちゃいました?」

茜の声が、別の方向から響く。

「まだまだ、私のことを思う力が足りないですね…クリムゾンウィップ!」

背中から、焼けるような激痛が走る。

「ぐあっ…!」

「このクリムゾンウィップは、致命傷になるような威力はありませんわ。先輩…ううん、ひびきちゃんが私の言いなりになるまで、たっぷり『罰』を与えるための攻撃よ♡」

イリュージョンか…! すっかり忘れていた。しかし、破り方はわかっている。

「魔眼(マガン)!」

俺は茜の方を向き、幻覚を見せる電磁波を放つ。よし、これで…!

だが、次の瞬間、またしても別の方向から激痛が走った。

「がはっ…!」

見ると、本物の茜は、目を堅く閉じていた。

「魔眼は、視神経に幻覚を見せる攻撃。目をつぶれば、その攻撃は効かない。そして、クリムゾンウィップは威力が低い分、私の熱源探知で自動追尾するの。あなたに逃げ場はないわ」

(くそっ…! 魔眼の弱点まで対策済みかよ…!)

隙が見当たらない。真っ白で障害物のない空間。茜は目を閉じているため、こちらの動きを見ていないが、自動追尾の鞭が正確に俺を襲う。

俺は必死に走り回る。時間稼ぎはできるはずだ。しかし、幻覚とはいえ、複数の茜の分身から、四方八方へ鞭が飛んでくる。避ける隙間が見当たらない。

「ひびきちゃん、まだ諦めないの…? いい加減、私のものになって…。この空間に終わりなんてないのだから」

逃げ回りながら、俺は観察していた。茜の言葉に、ほんの僅かな油断が生まれたのを。

茜は「終わりなんてない」と言いながら、新しい分身を生み出すのを止め、今ある分身と鞭だけで俺を追い詰めようとしていた。

(…今だ。すべて、整った)

俺は足を止め、全方位に意識を集中した。

「魔雷牙(まらいが)!!」

俺を中心として、8方向へ同時に雷撃が走る。

「無駄よ! それは外れ…!!」

茜が嘲笑いかけた言葉は、最後まで続かなかった。

放たれた8本の雷撃は、本物の茜だけでなく、周囲に展開していたすべての分身(イリュージョン)を同時に貫いた。

「きゃあぁぁぁっ!!」

すべての分身が掻き消え、本物の茜が弾き飛ばされて倒れ込む。

「…ギリギリだったぜ」

俺は肩で息をしながら、倒れた茜を見下ろした。

「魔雷牙は、8方向へ同時に攻撃が走る技だ。俺は逃げ回りながら、お前の分身と本体が、ちょうど魔雷牙の射線上に並ぶ瞬間を待っていたんだ」

俺は、クールに髪をかき上げた。

「お前の敗因は、俺を追い詰めたと思って油断し、配置をズラすための新しいイリュージョンを追加しなかったミスだ」

茜が意識を失い、真っ白な空間が、温かい光に包まれ始めた。

そして、あの空からの声が聞こえる。

『おめでとうございます。あなたの優勝です。願いを心に浮かべなさい。叶えてあげましょう』

俺は目を閉じ、迷うことなく、たった一つの願いを心に描いた。

(葵の病気を治してくれ)

光が強くなり、視界のすべてが白く染まっていく。戦いの記憶、痛み、そしてこの非日常が、光の中に溶けていくようだ。

(やれやれ…。結局、最後までドタバタだったな)

俺は薄れゆく意識の中で、自問した。

(俺はこの戦いで…うまくクールにかっこつけられただろうか…?)

神鳴くんはクールを装う 9話

日本最強決定戦という厳しい戦いを終え、家に帰った翌日。 俺は、ピカリスから今後の展望を聞かされた。

「世界大会は、バトルロワイヤル形式で行われるよ。だから、次の戦いが実質的に最後だ。他の国での予選がひと段落するまでは始まらないから、しばらくはお休みだね」

「いきなり最終決戦か…。まあ、手っ取り早くていい」

俺はほっと一息つき、すぐに茜に連絡を取って情報を共有した。

「私は、優勝に興味はありませんから。二人で協力して戦いましょう! 愛するダーリンが優勝できるのが、私の喜びです!」

茜は相変わらずのハイテンションで、全面的に協力を申し出てくれた。バトルロワイヤルとはいえ、共闘できれば圧倒的に有利だ。俺の優勝は約束されたも同然だと、俺は楽観的に構えていた。

しかし、家に帰ると、母親が深刻そうな顔で俺を出迎えた。

「響…。葵ちゃんが、体調悪いみたいなの。お見舞いに行ってきてくれない? ほら、これ持っていって」

母親にケーキセットを押し付けられる。そういえば、修学旅行以来、葵と顔を合わせていなかった。俺は急いで葵の家に向かった。

葵の母親が、どこか悲しそうな顔で俺を葵の部屋に通してくれた。

「…よお。風邪か?」

ベッドに横たわる葵は、苦しそうな顔をしながらも、俺を見るとふわりと微笑んだ。

「響…。無理してこなくていいのに」

「ケーキ、余ったから持ってきただけだ」

いつものように憎まれ口を叩き、くだらない話を少しする。だが、葵の顔色は明らかに悪い。

「ごめん…ちょっと疲れちゃった。また、体が治ってからね」

少し寂しそうな顔をする葵を残し、俺は部屋を出た。

家に帰ると、母親が玄関で待っていた。そして、衝撃の事実を告げた。

「葵ちゃん…生死にかかわる病気なの。お医者様も、もう…。響、あなたも思い残さないように接してね」

頭に雷が落ちたような衝撃が走った。視界がぐるぐると回り、思考がまとまらない。あの元気で、鬱陶しいほど明るい葵が、死ぬ?

「なんとか…できないのか…」

俺の口から、震える声が漏れた。

すると、いつの間にいたのか、ピカリスが反応した。

「だったら、優勝の願いを葵の回復にしたらいいんじゃないか?」

「…願い?」

俺が不思議そうな顔をすると、ピカリスは涼しい顔で説明した。

「ああ、説明忘れていたよ。この妖精の戦いに優勝すると、パートナーはなんでも願いが一つ叶うんだ。普通、こんな危険なバトルに見返りなく挑まないでしょ? 君が何も聞かずに戦っていたから、言うの忘れてたよ」

「ふざけんな…! もっと早く言え!」

だが、俺の腹は決まった。 葵のために、絶対に優勝する。そして、この極限状態で気づかされた。俺は、葵のことが好きだ。

(優勝して、葵の病気を治して…そして、告白する)

俺の中で、最後の戦いに向けて、かつてないほど強い決意が固まった。

一か月後。

「世界の人数が揃ったみたいだ。明日の12:00にバトル・フィールドに転送されるから、コンディションを万全にね」

ピカリスの言葉を受け、その夜、茜が家に来た。

「ついに明日は最後の戦いですね。頑張りましょう、響先輩」

いつもの笑顔で言う茜に、俺は真剣な顔で向き合った。

「茜、聞いてくれ。俺には、どうしても叶えたい願いがある。幼馴染の葵が…死にかけているんだ。俺は、優勝してあいつを助けたい。そして、あいつに思いを伝えたい」

俺は、絶対に負けられない決意を伝えた。茜は一瞬、真顔になったが、すぐに静かに頷いた。

「…わかりました。先輩の覚悟、受け取りました」

茜はそう言って、真剣な顔で帰っていった。

そして翌日、12:00。 俺と茜は、見渡す限りの白一面の空間へと転送された。地面はコンクリートのように硬い。

円を描くように10人の人間が並んでいる。俺の隣には、茜がいる。

空から、中性的な声が響いた。

『皆さん、今まで半年間の戦いお疲れ様でした。いよいよ最後の戦いです。最後の一人になれば優勝です。悔いが残らないように頑張ってください。それではファイナルバトル、レディー・ゴー!』

ゴングが鳴り、俺がファイティングポーズを取ると、対面の金髪の青年が名乗りを上げた。

「私はアメリカ代表! 正義を操る『ジャスティススター』デース!」

続いて、黒髪のチャイナ服の女性。

「私、歴史を操る『千四年(センヨンネン)』アル」

さらに、大柄な白人の男。

「俺は気温を操る『試される大地』だ」

緊迫した最終決戦のはずが、俺は冷静にツッコミを入れた。

「…なんで皆、日本語なんだ?」

ピカリスが耳元で囁く。「言葉が通じないと不便だから、この空間では自動翻訳がされてるんだよ。翻訳が不自然なところは、君のステレオタイプに合わせてるんだよ」

「なるほどな…」

俺と茜も名乗りを上げ、最後に残った一人の男に注目が集まった。

最後の一人が口を開こうとした、その瞬間だった。

一呼吸置いたと思ったら、その男はすでに俺の目の前にいて、ナイフを振りかぶっていた。

「ッ!」

俺は間一髪で体を逸らした。頬に薄い切り傷ができる。

「ちっ…時間切れか」

男はそう呟き、瞬時に間合いを取った。

周囲を見ると、俺と茜以外のアメリカ代表、中国代表、ロシア代表…他全ての参加者が、喉を掻き切られて血を流し、倒れていた。

「名乗りとかくだらないよな。勝てばすべてだというのに。お前らもそう思うよな?」

男は、血のついたナイフを舐めた。

「俺はここまでこうやって勝ってきた。そしてこれからもな。そこのロシア野郎もあっけねぇ」

男が続けて喋ろうとするのを見て、俺は確信した。

(時を操る能力か…!)

この戦いが始まった時に、時を止める奴がいることは想像していた。対策は、徹夜で考えてある。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は男ではなく、足元の地面に向かって雷撃を放った。

地面が爆発し、大量のコンクリート片と粉塵が舞い上がり、辺り一面を包み込む。

「煙幕か? 無駄なことを…」

しばらくの静寂の後。 煙の中から、男のうめき声が聞こえてきた。

煙が晴れると、最後の敵が、全身を無数の穴だらけにして、血みどろで這いつくばっていた。

俺は、とどめを刺す前に余裕を持って語りかけた。

「お前の能力は、時を止めることだろう。だが、時を止めれば、空気中の塵や巻き上げた粉塵もその場に固定される。お前にとっては、空中に固定された無数の不可視の刃物が浮かんでいるようなものだ」

俺は冷ややかに見下ろした。

「その中に高速で突っ込めば、自分の速度で勝手に切り刻まれる。これが物理の法則だ。講釈はここまでだ…魔雷光!」

男は沈黙し、光の粒子となって消えた。

「はぁ…終わった…」

俺は安堵の息を漏らした。これで優勝だ。葵を助けられる。 俺は隣にいる茜に笑顔で声をかけようとした。

「茜、やったぞ! これで葵を…」

「ぐあぁっ!?」

背中に、熱湯をかけられたような激痛が走った。俺はその場に崩れ落ちる。

「…何の冗談だ?」

痛みをこらえて顔を上げると、そこには、今まで見たことのない、暗く濁った瞳をした茜が立っていた。手には、炎でできた鞭が握られている。

茜は、俺の問いかけには反応しない。ただ、うっとりとした表情で、恐ろしい言葉を口にした。

「響先輩…あなたは、私のもの」

「…は?」

「葵先輩のため? 告白する? …許しません」

茜の背後の炎が、激しく燃え上がる。

「先輩が優勝して、あの女と結ばれるくらいなら…ここで私が先輩を壊して、一生お世話してあげます」

「クリムゾンウィップ!」

先ほどの一撃よりもさらに太く、複数の炎の鞭が、波打つように俺に襲いかかってくる。

俺は痛む体で、必死に転がって避けた。

(共闘じゃなかったのかよ…!? まさか、俺が葵の話をしたことで…!?)

俺の楽観的な計画は崩れ去った。 世界最強の敵よりも恐ろしい、愛と嫉妬に狂ったパートナーとの、本当の最後の戦いが始まった。