手ぶらで始める異世界転生 第13話 

翌朝。目を覚まして宿の外に出ると、既に二人の騎士が馬車の前で待機していた。 男騎士は、胸に大きな十字の紋章が入った重厚なフルプレートアーマーを着込み、背中には身の丈ほどもある巨大な十字槍を背負っている。いかにも歴戦の猛者といった風貌だ。 一方の女騎士は、もう少し軽量なブレストプレートとチェーンメイルを組み合わせた装備で、腰には長剣を帯びている。冷徹そうな美貌だが、どこか影のある表情が印象的だ。

「おい、遅いぞ。まもなくタカオカ様もいらっしゃる。従者のそなたはそこで待機しろ」 男騎士が、顎で待機場所を指した。 しばらく待つと、宿の扉が開き、ミライがゆっくりと出てきた。 「お待たせ。じゃあ、行きましょうか」 自分の行動こそが世界の基準時計であると言わんばかりのマイペースさだ。

私がミライに続いて馬車の中に入ろうとすると、男騎士が太い腕で私の前を塞いだ。 「貴様、従者の分際で馬車に乗ろうとは何事だ。御者台の隣で待機せよ」 「え、あ、はい……」 たじろぐ私を見て、馬車に乗り込んだミライが窓から顔を出し、ニコニコと笑った。 「あら残念。じゃあ従者さん、外からちゃんと私を守ってね」 この社会の階級制度なのだから仕方がない。私は諦めて、御者台の隣の硬い板の上に座った。

馬車が動き出すと、手綱を握りながら男騎士が口を開いた。 「自己紹介がまだだったな。私はこの城塞都市騎士団、第一部隊隊長のガインだ」 ガイン隊長は、熱っぽい視線を後方の馬車に向けた。 「今回の任務、救世主タカオカ様の護衛を務められること、騎士として無上の喜びである! 我が命に代えても、タカオカ様に指一本触れさせはしない!」 暑苦しいほどの忠誠心だ。彼は心からミライを信仰し、彼女に仕えることを光栄に思っているようだった。

「……副隊長の、エリスだ」 もう一人の御者席に座る女騎士が、短く名乗った。 視線は前方を向いたまま、私とは目も合わせようとさない。 ガイン隊長の熱血ぶりとは対照的な、冷徹な態度だ。司祭から選ばれた人材なのだから、おそらく私よりも遥かに手練れなのだろうが、この取り付く島もない態度は何なのだろうか。

「それで、目的地についてだが……」 ガイン隊長が気を取り直して説明を始めた。 目的地は近くの森にある廃寺院。そこを利用して、魔族が人工的に魔物を生産しているらしい。その生産源である「穴」を無効化し、浄化できるのは、ミライの「浄化の光」だけだという。 「まさに救世主様だ。タカオカ様こそが、この世界を救う唯一の光なのだ」 ガイン隊長は再び熱く語り出した。隣のエリス副隊長は、相変わらず無表情のままだ。

しばらく街道を進むと、前方に獣の群れが現れた。 ワイルドウルフの群れだ。だが、その中心にいる一匹は異様だった。 通常のウルフが中型犬サイズなのに対し、その個体は、大人が四つん這いになったサイズよりもさらに一回り大きい。 「ワイルドキラーか!」 団長が叫び、馬車から飛び降りた。私も慌てて棍棒を構えて続く。 団長の獲物は、先端が十字になった巨大な槍だ。彼はそれを構えると、真っ先にその巨大な個体へ襲いかかった。 「ふんっ!!」 突くのではない。彼は槍をハンマーのように大きく振るった。 ドゴォッ! 重い音が響くが、敵も巨体だ。簡単には吹き飛ばず、牙を剥いて団長に食らいつく。 その隙を狙って、通常サイズのウルフたちが横から団長を狙う。 「させないっ!」 私は「トゲ付き」を振るい、横合いから飛びかかろうとしたウルフを叩き落とす。 うまく連携して、団長の死角をカバーする。 団長が一瞬こちらを見て、「ほう」といった顔をした。 「悪くない動きだ!」 団長が叫び、再び槍を振るう。 手数が厳しい。ふと馬車の方を見ると、副団長は馬車のそばに立ったまま、微動だにしていなかった。 私の役割は馬車(とミライ)を守ることだから、前線の雑務はお前たちの仕事だと言わんばかりだ。 結局、私と団長の連携で、なんとかワイルドキラーと群れを討伐した。 「ふぅ……」 息を整える団長は、馬車のそばにいる副団長に軽蔑の眼差しを向けた後、「それでは再度進むぞ」と吐き捨てた。

その後も何度かワイルドキラー率いる群れに遭遇したが、団長の圧倒的な武力と私のサポートで、難なく切り抜けることができた。

しばらくして、馬車が止まった。 「この先、森が深くなるため馬車は無理です。歩いていきましょう」 団長の言葉に、馬車から出てきたミライが露骨に嫌そうな顔をする。 「えぇー、歩くの? 汚れるじゃない」 「我慢してください。すぐそこですから」 私はミライをなだめつつ、森の中へと足を踏み入れた。

木々の隙間から、朽ち果てた石造りの廃寺院が見えてきた。 「やっと着いたの」 ミライが不平を漏らすと、団長が「静かに」と手で制した。 木陰から様子を伺う。 屋根が落ち、柱だけになった寺院の中央に、不気味な紫色の光を放つ「穴」が開いていた。 その周囲を、錆びた鎧をまとった骸骨(スケルトン)と、生気のないゾンビのような魔物が徘徊している。 そして、穴のふちには、一際豪華な鎧をまとった骸骨が立っていた。 「カカカッ……」 その豪華な骸骨が顎を動かすと、周囲の魔物たちが手に持っていた宝石を穴に投げ込んだ。 ボシュッ。 嫌な音と共に、穴から新たなゴブリンやウルフが這い出してくる。 「なるほど……」 私は妙に納得してしまった。魔物を倒すと魔石(宝石)が手に入るのは、そもそも宝石を触媒にして魔物が作られているからなのか。

「よし、作戦を伝える」 団長が小声で言った。 「我々で周囲の魔物を一掃する。安全を確保した後、タカオカ様の奇跡で穴を浄化していただく」 全員が黙って頷くのを確認すると、団長は雄叫びを上げ、猪突猛進に敵陣へと躍り込んだ。 「信仰の光よ、邪悪を滅ぼせ!!」 十字槍が一閃されると、2、3体のゾンビが紙切れのように吹き飛んだ。 強い。これなら加勢はいらないかもしれない。 私はのんびりと団長の後を追い、近づいてきたスケルトンに棍棒を叩きつけた。 パリーン。 あっさりと骨が砕け散る。 (弱い……ゴブリンよりも脆いぞ?) 拍子抜けするほどの弱さだ。これなら楽勝だ。 後ろを振り返ると、副団長はミライのそばで剣を構えたまま固まっている。あれでは戦力として期待できない。

「油断するな!!」 気を抜いた私に、団長の一喝が飛んだ。 「はっ、はい!」 私が向き直った、その時だった。

ガゴンッ!!

団長の足元の石畳が、突如としてめくり上がった。 「なっ……!?」 団長が反応する間もなかった。 めくれ上がった地面の下から、鋭利な槍を持った数体のスケルトンが飛び出したのだ。

ズドッ、ズドズドッ!!

「が、はっ……!?」 一瞬だった。 団長の太腿、腹、そして胸を、下から突き上げられた槍が貫いていた。 宙に縫い付けられた団長の口から、大量の血が溢れ出す。

「う、そ……」 私の思考が停止した。 圧倒的な強者だったはずの団長が、串刺しになって痙攣している。 それは、あまりにも唐突で、あっけない崩壊だった。

手ぶらで始める異世界転生 第12話  

「さあ、買い物の時間よ!」 ミライはそう言うと、嬉しそうに部屋の外へ飛び出した。 私も慌てて後を追う。廊下に出た瞬間、彼女を庇うように、フルプレートの甲冑に身を包んだ男女の騎士が立ちはだかった。 「止まれ! 何者だ!」 威圧的な声に私がたじろぐと、ミライが冷静に言った。 「彼は私が話していた従者よ。気にしないで」 「はっ! 失礼いたしました!」 二人は即座に敬礼し、道を開けた。 彼らはこの街の騎士団の団長と副長らしい。副長が女性であることに少し驚いたが、団長の副長に対するぞんざいな態度を見るに、やはりこの世界の根底にある男尊女卑の構造は変わらないようだ。

「気にしないように。早く行きましょう」 ミライは私の腕を引き、街の奥地へと誘った。 連れて行かれた先は、古びた石造りの建物。「魔法屋」という看板が掲げられている。 この世界では、契約さえ成功すれば誰でも魔法を使うことができる。しかし、契約は貴族御用達の賢者か、こうした街の魔法屋でしか行えない。 魔法屋は一つの街に一軒程度しかなく、完全な独占市場だ。しかも、一つの魔法を覚えるのに金貨1枚(銀貨100枚相当)以上が相場。失敗しても返金はなし。 さらに、覚えられるかどうかは才能次第で、ステータスの数値は関係ない。運否天賦に大金を賭けられるのは金持ちのみ。その結果、魔法を使える人間は極めて少ないのが現状だ。

私はおずおずと言った。 「ここに連れてこられても、私にできることは……。金貨なんて持ってませんよ」 ミライは呆れ顔で言った。 「馬鹿ね。私には『ブラックカード』があるのよ」 そう言って、彼女は一枚の羊皮紙を私に見せた。 それは司祭から授かった証明書で、「この世界の全ての者は、無条件で救世主に協力せよ」という旨が記されているという。 つまり、これを見せれば、タダで何でも手に入る魔法の紙ということだ。 魔法の紙を使って魔法を覚えるとは皮肉な話だが、断る理由はない。私は彼女の厚意に甘え、全ての魔法の契約に挑戦することにした。

「私もこの店の魔法を全て契約させてもらったけど、あなたはいくつ契約できるのかしら?」 ミライがいつもの高飛車な態度で挑発してくる。 ぐぬぬ、と言い返したいところだが、ぐっと堪える。私も異世界人だ。金がなくてチャンスがなかっただけで、才能が眠っている可能性はある。今度こそ汚名返上だ。私は意気揚々と魔法屋の扉を開けた。

結果は、惨敗だった。 この魔法屋で契約できる魔法は全部で16種類あったが、私が契約できたのは「灯火(ライト)」と「着火(イグニス)」の2種類のみ。どちらも生活魔法レベルの初歩的なものだ。 全部ダメなら「才能がなかった」で済むが、中途半端にできてしまったせいで、言い訳すらできない。

「まあ、予想通りね」 店を出ると、ミライは涼しい顔で言った。 「せめて武器でも豪華にしましょうか? その棍棒、ちょっと貧相だし」 彼女は私の「トゲ付き」を指差した。 しかし、私は首を横に振った。 「いえ、結構です。この装備には思い入れがありますし、使い慣れない武器で痛い目にあった記憶もあるので。今の私には、これがベストです」 リズが作ってくれた防具と、ボルドが勧めてくれた棍棒。これらは私の冒険の証だ。 反論されるかと覚悟したが、ミライは意外にもあっさりと頷いた。 「そう。あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうね。じゃあ、買い物の続きを楽しむわよ」

私たちは市場へ向かった。 ミライは珍しい果物や串焼きを見つけては、「これ何かしら?」「美味しそう!」とはしゃぎ、私にも勧めてくる。 まるでデートのようだ。私は少し気恥ずかしさを感じながらも、彼女との時間を楽しんだ。

ひとしきり市場を散策した後、私たちは少し高級なレストランに入り、落ち着いて食事を楽しんだ。 一息ついたところで、ミライが言った。 「明日は魔物の本拠地に行くから、今日は早めに解散しましょう。といっても、あなたが寝ていた宿屋に戻って寝るだけだけど」 「魔物の本拠地? それは一体どこに……」 私が説明を求めると、ミライは冷静に払いのけた。 「説明してもあなたがやることは変わらないから。明日、道中で説明するわ」 彼女の言葉には、有無を言わせない響きがあった。先ほど私の武器へのこだわりを受け入れてくれたこともあり、私は素直に従うことにした。

久しぶりの休息。 私は、最初に泊まった時とは違う、清潔でふかふかのベッドに横たわった。 「灯火」と「着火」。わずかだが、魔法も使えるようになった。装備も万全だ。 明日こそは、彼女の力になれるだろうか。 私は意気揚々と、久しぶりの豪華な部屋で眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第11話 

「……状況が分からないんだが、今どうなっている?」 私は、ベッドの上で深呼吸をして心を落ち着けた後、枕元のミライに尋ねた。

ミライは、やれやれといった様子でため息をついた。 「どっから話していいのか悩むけど、あなたが眠っていた二日の間に、本当に色々なことがあったのよ」 「二日!?」 そんなに眠っていたのか。一体何が起きたというのだ。なぜ私はここで寝ている?

「話すと長くなるわよ。まず、あなたが意識を失ったのは魔族の襲撃のせいね」 ミライは他人事のように淡々と説明を始めた。 あの馬車でボルドが「ソフィアとミライ、どっちがいい?」と聞いてきた直後、突然の爆発が起きたらしい。 私はその衝撃で馬車の中で頭を打ち、気絶したようだ。 「馬車から慌てて外に出ると、そこに魔族がいたの。肌が紫色で、頭にヤギみたいな角があって、背中に蝙蝠の羽が生えてたわ」 魔族。この世界における「悪」の象徴であり、人間を滅ぼそうとしている存在だという。 「その魔族が言うには、私の『浄化の光』が魔族にとってすごく邪魔な存在らしいの。だから私を殺しに来たんですって」

ミライは眉一つ動かさずに続けた。 「危ないと思ったところで、ソフィアが私の前に出て、魔族に切りかかってくれたの。でも、全く歯が立たなかったわ」 ソフィア。あの生真面目な女性騎士の顔が浮かぶ。 「そこで彼女は意を決したように、自身のスキル『護りの剣』を使ったの。急に剣が光ったと思ったら、一瞬で魔族の腕を切り落としていたわ」 魔族は形勢不利と見て、捨て台詞を吐いて逃げ去ったという。 「一安心して、ソフィアにお礼を言おうとしたら……彼女は、その場で息絶えていたの」 ミライの声が、少しだけ低くなった。 「この町の騎士の人に聞いたんだけど、『護りの剣』は多くの騎士が持っているスキルで、命と引き換えに短時間だけ強い力を得ることができるらしいわ。彼女は、命を懸けて私を守ってくれたのね」

ソフィアが、死んだ? あの理不尽な環境の中で、矜持を保ち続けていた彼女が。 「それから、爆発を聞きつけたこの町の人たちが駆けつけて、私たちは保護された。これが一日目の話ね」

ミライは一息ついて、続けた。 「で、二日目の話なんだけど。結構話が入り組んでるから、かいつまんで話すわ」 彼女によると、この世界には魔物を生み出す場所があり、彼女の『浄化の光』でそれを封印できるらしい。 「司祭さんの話だと、各国からそれについて色々と援助をもらえるみたいだから、それを使って、各地の魔物を封印しに行くことにしたの。私の言うことは絶対みたいだから、この世界の強い人たちみんなに協力してもらうわ」

情報が多すぎて、頭の整理が追いつかない。 魔族の襲撃、ソフィアの死。そしてボルドも、最初の爆発で……。 二人の死が全く理解できない。いや、私の脳が理解を拒んでいるのだ。 しかし、現実は残酷だ。私は日々の生活費を稼ぐことだけで精一杯だったのに、ミライはこの世界に来てわずか三日で、世界の命運を左右する存在になろうとしている。 これが、持って生まれたものの差なのだろうか。

もう、考えるのはよそう。 私は、あの城塞都市での生活に戻るのだ。スキルなしの自分には、世界平和なんて関係のない話だ。 「……そうか。これから大変そうだな」 やっと出てきた言葉は、それだけだった。

私の態度を見て、ミライが明らかにイラついた様子で言った。 「何、他人事みたいに言ってるの? あなたも行くんだから、さっさと頭を切り替えて。傷はとっくに治ってるんだから」 「いや、私はスキルもないし、行っても足手まといだから……」 「あんた、やられっぱなしで悔しくないの!?」 ミライの怒声が部屋に響いた。 「仲間が殺されたのよ! ボルドも、ソフィアも!」 彼女の瞳が、強い光を宿して私を射抜く。 「それに、もう手遅れよ。司祭様に『あなたは私の従者だ』って伝えておいたから。私の言うことは絶対だって言ったでしょ?」 「じゅ、従者!?」 「そもそも、あなた、あの城塞都市に帰ってみなさいよ。たぶん殺されるわよ。魔族の襲撃で、スパイ容疑があっちこちにかかってるんだから」 ミライは畳み掛けるように言った。 「何にもしないで帰って、ボルドとソフィアの家族に何て言うつもり? 『自分だけ助かりました』って?」

私は言葉を失った。 彼女の言う通りだ。私は逃げようとしていたのだ。現実から、責任から、そして仲間の死から。 私はミライという人間を誤解していたのかもしれない。利己的で高飛車なだけだと思っていたが、彼女は直情的で、言葉はきついが、誰よりも仲間思いで、強い責任感を持った女性だった。

「……ありがとう」 混乱した頭からは、それ以外の言葉が出てこなかった。 感謝の言葉なのか、それとも、自分を叱咤してくれたことへの礼なのか、自分でも分からなかった。

「ふん、分かればいいのよ」 ミライはツンとそっぽを向いたが、その耳は少し赤くなっていた。 「じゃあ、旅の準備しに行くから、町まで付き合って。『従者』くん」 彼女はそう言うと、部屋を出て行った。

やはり多少イラつく気持ちはあるが、彼女についていくことが、今の私にできる唯一の「正しいこと」なのだろう。 私はベッドから起き上がり、リズが作ってくれた革鎧(ミライの力で新品同様になっている)を身につけ、そそくさと彼女の後を追った。

手ぶらで始める異世界転生 第十話 

翌日、私は再び騎士団のリチャードから呼び出しを受けた。 執務室に入ると、リチャードはいつになく真剣な面持ちで切り出した。 「君は聞いたことがないかもしれないが、我々の世界では、タカオカ様の持つ『浄化の光』がお伽話の伝承として伝わっていてね。この事実を、隣町の教会にいる司祭様に報告しなくてはならない」 伝説の救世主。昨日の今日で、事態は急速に動き出しているようだ。 「タカオカ様は高能力者ではあるものの、戦闘経験はない。万が一があってはいけないので、複数人で護衛して司祭様のいる町までお連れしようと思う。改めてギルドにも依頼を出すが、やはり同郷の君もいた方が心強いだろう」 リチャードはそこで言葉を切り、編成案を伝えた。 「君と、ギルドのベテランを一人。そして騎士団からは、同性であるソフィアを同行させる。私も行きたいのだが、ご存知の通り、この件の対応で皆手一杯でね」 移動は馬車。距離は数時間程度。朝に出て、日が沈むまでには到着する算段だという。 「街道を行くからたいした危険はないはずだが、形式上、伝説の御仁を複数人で丁重に運んだ、という形にしておきたくてね。よろしく頼むよ」

初めてこの城塞都市の外、しかも遠方の町へ行く理由が、あの高飛車女の護衛とは。 私は内心でため息をついたが、悩んでも仕方がない。せっかくの遠出だ、異世界の観光旅行だと割り切って楽しむことにしよう。

翌朝。街の門の前には、普段は見かけない立派な馬車が止まっていた。 主役のミライが現れるなり、馬車を一瞥して言い放った。 「ま、こんなもんか」 彼女はそれだけ言うと、躊躇なく馬車の中へと入っていった。相変わらずの態度だ。 護衛対象が乗り込んだのを確認し、ソフィアが私に向かって丁寧にお辞儀をした。 「本日はよろしくお願いします」 いつもの堅苦しい、隙のない態度だ。 その背後から、見送りに来たリチャードの声が飛んだ。 「おい、足手まといになるなよ」 ドガッ、という鈍い音と共に、リチャードの足がソフィアの鎧の脛当てを蹴りつけた。 ソフィアは短く呻いたが、すぐに姿勢を正した。相変わらずの人間関係だ。胸クソが悪くなる。

「よう! 一緒に仕事するのは初めてだったな。よろしく頼むぜ」 ギルドから派遣されたベテランは、ボルドだった。彼の朗らかな笑顔を見ると、張り詰めた空気が少し緩む。彼がいてくれて本当に良かった。

私は馬車の操縦ができないため、御者台にはボルドとソフィアが交代で座ることになった。私は警戒のため、彼らの隣の外側の席で待機する。 馬車は石畳を抜け、整備された街道を走り出した。 リチャードの目論見通り、街道には魔物の姿はほとんどなく、退屈な時間が流れた。

最初の御者はソフィアだった。 彼女はいつもの硬い表情で手綱を握っている。手持ち無沙汰な私は、暇つぶしに彼女に話しかけることにした。 今までソフィアと雑談らしい雑談をしたことがなかった。いくつか当たり障りのない話題を振ってみたが、すぐにネタが尽きてしまった。 私は意を決して、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。 「……なぁ、ソフィア。君はリチャードに限らず、騎士団の中で辛く当たられているように見える。なぜ、女性の身で騎士を続けているんだ?」 あのパワハラが日常茶飯事なのだとしたら、私ならとっくに逃げ出している。 ソフィアは視線を前方に向けたまま、淡々と答えた。 「私が能力不足なのは、仕方ないことです。だが、私は両親の言いつけを守らねばならぬのです」 彼女の話によると、代々騎士の家系だった彼女の家は男児に恵まれず、次女であるソフィアが男代わりに育てられたのだという。 現代日本のような場所であれば、家を捨てて逃げることもできるだろう。だが、この城塞都市のような閉鎖空間、ましてや男尊女卑の激しいこの世界では、家や社会の規範に歯向かうことは、死ぬことと同義なのかもしれない。 しかし、私の隣で手綱を握るソフィアの横顔に、気後れの色はなかった。 「私は、この都市を守る騎士であることを、誇りに思っています」 その言葉に嘘はないように見えた。 西洋系の整った顔立ちのため年齢は不詳だが、この理不尽な環境の中で、自らの矜持を保ち続ける彼女を、私は一人の人間として非常に尊敬した。

昼過ぎ、御者がボルドに交代した。 ボルドとは毎晩のようにバーやレストランで話をしているので、今更改まった話はない。 だが、ボルドは興味津々といった様子で、馬車の中にいるミライについて根掘り葉掘り聞いてきた。 「いや、俺も昨日会ったばかりで、よく知らないんですよ」 そう答えると、話題は自然と私の故郷――日本の思い出話へと移っていった。 そんな中、ボルドがふと真面目な顔で言った。 「お前も、そろそろ家族を持った方がいいぞ」 「家族、ですか?」 「ああ。守るものがあると、男は強くなる。俺もそろそろ引退の歳だ。カミさんや子供を安心させてやりたいしな」 ボルドは遠くの景色を見つめながら、しみじみと語った。そして、ニヤリと笑って私を見た。 「ちなみに、お前が奥さんをもらうなら、ソフィアとミライ、どっちがいい?」 究極の選択、あるいは愚問だ。 私は即答しようとした。 「当然、ソフィアさ。あんな高飛車女――」

言い切る前だった。

視界が、真っ白に染まった。 音はない。衝撃もない。ただ、世界が白一色に塗りつぶされた。 「え?」 思考が停止する。

気がつくと、私はベッドの上で目を覚ました。 見覚えのない天井。見覚えのない部屋の風景だ。 馬車は? 街道は? ボルドとソフィアは? 混乱する頭で横を見ると、そこには見覚えのある顔があった。

ミライの横顔だ。

彼女は枕元に座り、どこか楽しげに私を見下ろしていた。 「あら、お寝坊さん。やっとおきたわね」

意味が分からない。 私は状況を理解しようと、深く、深く深呼吸をして、心を落ち着けるよう努めた。

手ぶらで始める異世界転生 第九話 

私が一般狩人(ハンター)となってから、半年が経った。 日々の狩りとギルドへの貢献が認められ、街の中での「よそ者」扱いは消え失せた。市場の顔なじみも増え、酒場でボルドたちと肩を並べて飲む姿も、今やこの街の日常風景の一部となっていた。 私は完全に、この城塞都市の一員として受け入れられていたのだ。

そんなある日、騎士団のリチャードから、個別で呼び出しを受けた。 「君に、亡命者への街の案内を頼みたい」 執務室でリチャードはそう切り出した。 「今日、新たな亡命者を受け入れたのだが、話を聞くと君と同じく異世界、しかも君が言っていた『日本』から来たと思われるんだ。同郷の君から説明した方が分かりやすいだろうと思ってね。もちろん、正規の金額で依頼するよ」 「日本から? 分かりました、お引き受けします」 私は二つ返事で承諾した。同郷の人間との出会いは、半年ぶりのことだ。懐かしさと、自分と同じ境遇の人間に対する親近感が湧き上がってきた。

だが、そんな感傷は、彼女に会った瞬間に吹き飛んだ。 リチャードに紹介されたのは、非常に美しい女性だった。 ウェーブのかかった栗色の髪は胸元まであり、手入れが行き届いて艶やかだ。顔立ちは凛としており、雑誌のモデルと言われても疑わないだろう。 「初めまして。タカオカミライです。よろしくお願いいたします」 彼女は丁寧に頭を下げたが、その視線は私を値踏みするように上から下へと動いた。 私は緊張しながら軽く会釈を返した。

一通り街中を案内する中で、彼女の人となりがよく分かった。 「……汚い街ねぇ、嫌になるわ」 石畳の汚れや、建物のすすけた壁を見て、彼女は顔をしかめた。 「あなた、お風呂に入ってるの? 格好も薄汚いし、なんだか臭うわよ」 私のスーツ(リズによる補修済み)を見て、鼻をつまむような仕草をする。 「あら、あなたの武器って棍棒なの? なんだかバーバリアン(野蛮人)みたいね」 私の「トゲ付き」を見て、クスクスと笑う。

いちいち高飛車な態度が鼻につく。おそらく、美人であるがゆえに周囲から肯定され続け、このような性格が形成されたのだろう。 私の人生の中で、こういったタイプの人間と親しくなった試しがない。今回も例外ではないだろう。 ミライは、こちらの不機嫌な態度など意にも介さず続けた。 「こういうのは『異世界転生』っていうんでしょ? そういうのって、何か特別な能力が与えられるのが普通よね。私はどんな能力があるのかしら」 無能力者(スキルなし)である私の琴線に触れることを、平然と言ってのける。 (どうせこの女も無能力者だろう。早めに現実を見せてやるか) 私は内心でそう毒づきながら、口を開いた。 「能力を知りたければ、この先に鑑定所がある。見てもらったらどうだ」 「そうね、それは楽しみだわ」

鑑定所に着くと、いつもの老婆がぶっきらぼうに言った。 「水晶に手を置きな」 「あら、感じ悪いおばあさんね」 ミライはプンスカと文句を言いながらも、素直に水晶に手を置いた。

その瞬間、水晶からまばゆいばかりの白い光が放たれた。 狭い鑑定所内が、昼間のように明るくなる。私の時には、うんともすんとも言わなかったあの水晶がだ。 光が収まると、老婆が震える声で呟いた。 「……そなたのスキルは『浄化の光』。この世を清浄へ導く、救世の力じゃ」 「救世の力? ま、そんなところね」 ミライは驚く様子もなく、当然の結果のように頷いた。 「あらやっぱり、こういうのが相場なのね。……ところで、あなたの能力は何だったのかしら?」 彼女は悪気のない笑顔で私に尋ねた。 「……ない」 私はぼそっと呟いた。 驚かれるか、馬鹿にされるかと思ったが、ミライの反応は違った。 「あらそうなの。残念ね。私が選ばれた人だっただけなのね、しょうがないわよ」 彼女は心の底からそう思っているようだった。おそらく彼女は、これまでもずっと「特別な存在」として扱われてきたのだろう。その幸運を当然のものとして受け入れているのだ。

「ねえ、ちょっと試してみてもいい?」 ミライが唐突に言った。 「試すって、何をだ?」 「私のこの『浄化の光』よ。あなた、さっきからずっと薄汚れてるし、ちょうどいい実験台じゃない」 彼女は悪びれもせず、私に手をかざした。 「え、ちょっ、まっ……!」 私が止める間もなかった。彼女の手のひらから、柔らかな白い光が溢れ出し、私の体を包み込んだ。 温かい、というよりは、清涼感のある光だった。 光が収まると、私は自分の姿を見て驚愕した。

半年間の冒険で泥と血にまみれ、すすけて変色していたスーツが、まるで新品のように輝きを取り戻していたのだ。 リズが補強してくれた革の防具も、汚れが落ちて艶やかな飴色になっている。 こびりついていた汗や埃の臭いも消え失せ、洗い立てのリネンのような清潔な香りが漂った。 「……すごい」 私は思わず呟いた。これは魔法だ。それも、とてつもなく便利な。

「ふふん、やっぱりね」 ミライは満足げに自分の手を見つめた。 「汚いものを綺麗にする力。私にぴったりじゃない。これなら、この汚い街でもなんとかやっていけそうね」 彼女は自分の能力が「世界を救う力」であることよりも、「身の回りを綺麗にできる」ことに価値を見出しているようだった。 この屈託のなさが、彼女の強さなのかもしれない。

続いて訪れた能力鑑定所でも、結果は同じだった。 筋力、敏捷、魔力、体力……全てのステータスが「上位判定」。 私の「全平均」という結果が、どんどん惨めになっていく。 それに対し、ミライは「ふーん、まあ悪くないんじゃない?」程度で、全く興味がなさそうだった。

騎士待合所に戻り、リチャードに結果を報告した。 「なっ……『浄化の光』だと!? 伝説の話が本当に起きるとは……!」 リチャードは驚愕し、すぐに血相を変えた。 「すぐに対策会議を行わなくては! 君、報酬はギルドで受け取ってくれ。タカオカ様、こちらへ!」 リチャードは私に目もくれず、ミライを恭しく奥の貴賓室へと案内した。 私はその光景を、ただ呆然と見送った。 半年前、私が最初に通されたのは、馬小屋の横の、すきま風が吹く宿直室だったことを鮮明に覚えている。 これが、格差なのだろうか。

ギルドで報酬を受け取り、いつもの安宿へと帰った。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 (選ばれし者、か……) 私は、この世界でも「持たざる者」だったのだ。 漠然とした、自分という普通の人間であることが悲しくなって、私は眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第8話

装備を整え、準備を万端にした私は、翌日早速ゴブリンへの復讐に向かった。 場所は昨日の森。薄暗い木々の間を、今度は慎重に、しかし恐れることなく進む。 「ギッ!」 現れた。昨日の個体かは分からないが、同じように薄汚れた緑色の小鬼だ。 ゴブリンは私を見るなり、昨日と同じようにニタリと笑い、低い姿勢から飛びかかってきた。 狙いは脇腹。昨日、私のスーツを切り裂き、血を流させたあの死角だ。 (やはり、こいつらの攻撃パターンはワンパターンだ) 私は避けない。 あえて一歩踏み出し、脇腹を晒す。

乾いた音が森に響いた。 ゴブリンの錆びたナイフが、リズが縫い付けてくれた硬化革のプレートに阻まれたのだ。 「ギ……?」 刃が通らないことに驚愕し、ゴブリンの動きが完全に止まる。 その数秒の隙があれば、今の私には十分すぎる。 「対策済みなんだよ、業務改善だ!」 私は雄叫びと共に、鉄の鋲付き棍棒をフルスイングした。 重い打撃音が響き、ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく吹き飛び、光の粒子となって消滅した。 後に残ったのは、討伐証明となる右耳と、魔石だけ。 「……よし」 私は拳を握りしめた。 もはや、対策をした私にとって小鬼は脅威ではない。適切な投資(装備)とリスク管理(防御)を行えば、この程度のトラブルは処理可能な「業務」に過ぎないのだ。

その日は順調だった。 森を徘徊し、遭遇したゴブリンを危なげなく処理していく。 リズの作った防具は完璧だった。動きを阻害せず、しかし致命傷になりうる攻撃は確実に弾いてくれる。 私は袋いっぱいの戦利品を抱え、意気揚々と街へ戻った。

夕刻、壁外防衛業務請負ギルド。 「おや、今日は随分と稼いだようじゃないか」 カウンターで精算を頼むと、いつもの無愛想な中年女性が、珍しく感心したように声をかけてきた。 私がゴブリンの耳が入った袋をドサリと置くと、周囲の冒険者たちからも「おっ、やるな」という視線が集まる。 「確認するよ……うん、ゴブリン5体にウルフが2体。間違いなくあんたの戦果だね」 女性は手際よく銀貨と銅貨を数え、私の前に積み上げた。 そして、書類に何かを書き込みながら、ニヤリと笑った。 「それと、あんたに朗報があるよ」 「朗報……ですか?」 「ああ。ギルドマスターの決裁が下りた。あんたの身分を、『亡命者(難民)』扱いから、『一般狩人(ハンター)』として認定する」

「一般狩人……?」 「そうさ。これまでは『食い詰め者の日銭稼ぎ』として見ていたが、これだけの戦果と継続的な活動実績があれば、立派な戦力だ。これからは正規のギルドメンバーとして扱われる」 女性は新しい、銀色のプレートを私に差し出した。 「これにより、買取報酬には正規レートが適用されて1割上乗せになる。それに、ギルドが斡旋する『特別依頼(クエスト)』も受けられるようになるよ。ま、要するに……」 彼女はウィンクした。 「試用期間終了、正社員登用ってとこだね」

その言葉は、元サラリーマンの私の心に何よりも深く響いた。 認められたのだ。この理不尽で過酷な異世界で、一人の職業人として。 受け取った銀色のプレートは、ひんやりと冷たかったが、その重みは心地よかった。 報酬の上乗せ、そしてより条件の良い仕事へのアクセス。 これで、今日を生きるだけでなく、明日への蓄えを作り、将来の計画を立てることができる。

ギルドを出ると、街は夕暮れに染まっていた。 オレンジ色の光に包まれた城塞都市を見上げ、私は大きく息を吸い込んだ。 美味しい空気だった。 「よし……」 私は呟く。 こうしてようやく、私はこの世界での「地盤固め」に成功したのだ。 明日はボルドに美味い酒を奢ろう。そしてリズに追加の補強を頼んで、菓子折りの一つでも持っていこう。 私の異世界生活は、ここから本当の意味で始まるのだ。

手ぶらで始める異世界転生 第七話

翌朝。傷は例によって跡形もなく消えていたが、破れたスーツと血の跡は、昨日の失態が現実であったことを残酷に突きつけていた。 私はなけなしの貯金袋を握りしめ、例の武器屋へと向かった。

「いらっしゃい。……なんだ、またあんたか」 店番をしていたのは、先日派手に蹴り飛ばされていた、タンクトップの女性だった。顔には絆創膏が貼られているが、気丈な態度は変わらない。 「親父さんに、防具を頼みたくて」 私が言うと、奥の鍛冶場から、むわっとする熱気と共に親父さんが顔を出した。 「おう、昨日のヒョロガリか。ボルドの野郎に言われて来たんだろ? 何がいい、チェインメイルか? プレートはあんたの体力じゃ無理だぞ」 「いえ、動きやすくて、最低限の防御ができる革鎧を……」 私が要望を伝えると、親父さんは面倒くさそうに鼻を鳴らした。 「革か。革細工は俺の専門じゃねえな。おい、リズ!」 親父さんは、カウンターにいる女性――リズと呼ばれた彼女に怒鳴った。 「こいつの採寸して、適当な革鎧を見繕ってやれ。在庫の端切れで十分だろ」 あまりにぞんざいな言い草だった。まるで彼女を道具のように扱っている。

「……ちょっと、その言い方はないんじゃないですか」 私は思わず口を挟んでいた。現代日本で培われたコンプライアンス精神が、このパワハラ紛いの態度を許せなかったのだ。 親父さんの眉毛がピクリと跳ね上がる。 「あぁん? 余計な口出しすんな。女は黙って言われたことやりゃいいんだよ」 「しかし、彼女も立派な店員でしょう。それに端切れで十分なんて、客に対しても失礼だ」 場の空気が凍りついた。親父さんがハンマーを握る手に力が入るのが見えた。

「まあまあ、親父も、お客さんも落ち着いてよ」 割って入ったのは、当のリズ本人だった。彼女は慣れた様子で親父さんをなだめ、私に向き直った。 「ありがとね、お客さん。でも大丈夫、いつものことだから。……それに、革や布の扱いは、この店じゃ私の領分なんだ」 リズは私の腕を引き、店の奥の作業スペースへと促した。そこには様々な種類の革や布地、そして使い込まれた裁縫道具が並んでいた。

「この世界じゃ、鉄を打つのは男の仕事、糸や革を縫うのは女の仕事って相場が決まってるのさ。親父は口は悪いし手も早いけど、私の腕は認めてくれてるんだよ」 リズはメジャーで私の体を採寸しながら、淡々と語った。 「さて、あんたの要望は『動きやすさ』と『防御力』だったね。……この変な服、素材はすごくいいけど、戦うには向いてないね」 彼女は私のボロボロのスーツを指差した。 「これをベースにして、急所だけ革で補強するのはどうだい? あんたの戦い方なら、全身をガチガチに固めるより、関節の自由を確保した方がいい」 私のゴブリン戦の話を聞いた上での、的確な提案だった。私は彼女の職人としての目に感服し、全てを任せることにした。

数時間後。 「できたよ。試してみて」 リズが差し出したのは、奇妙だが機能的な防具だった。 私のスーツの、破れていない部分を再利用しつつ、胸部、腹部、肩、前腕といった重要な部位に、硬く加工された革のプレートが縫い付けられている。 関節部分には柔らかい革が使われ、動きを阻害しない工夫がされていた。 見た目はツギハギだらけの「武装サラリーマン」だが、袖を通してみると、その完成度の高さに驚いた。 軽い。腕を回しても、屈伸しても、どこも突っ張らない。それなのに、胴体を叩いてみると、コンコンと硬い音が響き、衝撃を吸収してくれる。

「……すごい。完璧です」 私が心から称賛すると、リズは照れくさそうに鼻の下を擦った。 「へへっ、まあね。端切れなんて使ってないよ、一番いい革を使ってやったからね。親父には内緒だよ」 奥の鍛冶場から、親父さんの大きな咳払いが聞こえた。きっと、聞こえているのだろう。

私は代金を支払い(リズの計らいでかなりの勉強価格だった)、店を後にした。 新しい装備が、体に馴染む。 守られているという安心感が、萎縮していた心に再び勇気を灯してくれる。

「よし……行くか」 私は棍棒を握りしめ、街の門へと向かった。 目指すは森。あの緑色の悪意へのリベンジだ。 今の私には、砕くための武器と、耐えるための防具、そして職人の矜持が込められた装いがある。 もう、負ける気はしなかった。

手ぶらで始める異世界転生 第6話

鉄の鋲付き棍棒――通称「トゲ付き」を手に入れてから、私の冒険者ライフは劇的に改善した。 朝、街を出て、手近なワイルドウルフを待ち伏せる。 「ふんっ!」 以前は枝でペチペチと叩いていたのが嘘のようだ。遠心力を乗せた一撃は、ウルフの頭蓋を容易く砕く。 スライムに至っては、ゴルフのスイングの要領でフルスイングすれば、核ごと弾け飛んで即死だ。 「よし、これで今日の宿代は確保」 午前中でノルマを達成し、午後は少し奥地まで足を伸ばして貯蓄分を稼ぐ。 夕方には街に戻り、ボルドたちと安酒を飲む。 そんなルーティンが確立されつつあった。私は完全に、この異世界生活に慣れ始めていたのだ。

「……そろそろ、次のステップに行ってもいいんじゃないか?」 ある朝、ギルドの掲示板を見ながら私は呟いた。 ウルフとスライム狩りは安全だが、単価が安い。貯金ができているとはいえ、装備を整えたり、より良い生活水準を求めるなら、もう少し実入りが良い獲物が欲しい。 私の目は、一枚の貼り紙に吸い寄せられた。 『ゴブリン討伐:討伐証明(右耳)につき銀貨3枚』 ウルフの3倍の報酬だ。 ゴブリン。ファンタジーRPGにおける最弱のモンスター筆頭。 子供のような体格に、粗末な武器。今の私なら、あのウルフすら一撃で倒せる腕力と、この「トゲ付き」がある。負ける要素が見当たらない。 「いけるな」 私は掲示板の前で小さく頷き、いつもの平原ではなく、その奥に広がる薄暗い森林地帯へと足を踏み入れた。

森に入ると、空気がひんやりと重くなった。 視界が悪い。木の根が足場を悪くしている。 慎重に進むこと数十分。ガサリ、と茂みが揺れた。 「来たな」 私は棍棒を構える。ウルフか、それとも目当てのゴブリンか。 茂みから現れたのは、緑色の肌をした、身長100センチほどの小鬼だった。 腰にボロボロの布を巻き、手には錆びたナイフのようなものを握っている。 「ギヒッ……」 ゴブリンだ。 想像していたよりも汚らしく、そして目つきがいやらしい。 だが、所詮は子供サイズ。私は恐怖心よりも「ボーナス確定」という安堵感を抱いた。 「悪いな、銀貨3枚になってもらうぞ!」 私は雄叫びと共に、上段から棍棒を振り下ろした。 勝負は一撃で決まるはずだった。

「ギッ!」 ゴブリンが動いた。 ウルフのように後ろに下がるのではない。私の懐に向かって、横に飛び込んだのだ。 「なっ!?」 振り下ろした棍棒が空を切り、地面を叩く。 その隙だらけの私の脇腹に、ゴブリンの錆びたナイフが走った。 ズパッ。 「ぐっ……!?」 スーツの生地が裂け、熱い痛みが走る。 浅い。だが、切られた。 「ギヒヒッ!」 ゴブリンが距離を取り、私を嘲笑うように舌を出した。 背筋が凍った。 こいつは、獣じゃない。 知恵がある。「かわして、刺す」という戦術を理解している。 そして何より、明確な「悪意」を持って私を殺そうとしている。

「くそっ、この野郎……!」 私は焦った。棍棒は重い。一度振ってしまうと、次への動作が遅れる。 相手は小さい上に素早い。闇雲に振っても当たらない。 (どうする? 逃げるか? いや、背中を見せたら刺される!) ゴブリンが再び跳躍した。今度は私の足を狙ってきている。 私は反射的に棍棒を盾にするように突き出した。 カキンッ! 金属音が響く。ナイフを弾いた。 相手の体勢が崩れる。 (今だ!) 私は形振り構わず、棍棒を横薙ぎに振った。 「らああっ!!」 「ギャッ!?」 ドガッ!! 重い打撃音が響き、ゴブリンの体がくの字に折れて吹き飛んだ。 木に激突し、ぐたりと動かなくなる。 数秒の後、光の粒子となって消え去り、地面には黒ずんだ右耳と、小さな魔石が残された。

「はあ……はあ……」 私はその場にへたり込んだ。 脇腹の傷を押さえる。血が滲んでいるが、深手ではない。 だが、手の震えが止まらなかった。 たった一匹の、最弱のはずのゴブリンに、死を意識させられた。 武器を持っているということ。知能があるということ。それがこれほどまでに脅威だとは。 私は震える手で戦利品を回収し、逃げるように森を後にした。

その夜、酒場にて。 「……で、ゴブリンに手を出して、そのザマか」 ボルドが私の破れたスーツと、脇腹の包帯を見て呆れたように言った。 「はい……一撃で倒せると思ってました。でも、当たりませんでした」 「当たり前だ。ゴブリンは馬鹿だが、武器の使い方は知ってる。大振りな攻撃しかできない素人が、防御もなしに挑めばそうなる」 ボルドはジョッキを置き、私の目を真っ直ぐに見た。 「いいか、攻撃力だけで生き残れるのは初歩の中だけだ。現実じゃあ、一発もらえばそこで終わることもある」 彼は私の胸元を指差した。 「稼いだ金、全部使ってでも『防具』を買え。そのペラペラの布切れ(スーツ)じゃ、次は内臓までいかれるぞ」

「防具……」 私は自分の姿を見下ろした。 泥と血にまみれた、ヨレヨレのスーツ。 日本にいた頃は「戦闘服」だったかもしれないが、ここではただの布切れだ。 「わかりました。……また、あの店ですか?」 「おうよ。親父さんにいい革鎧を見繕ってもらえ」

翌朝、傷はまた綺麗に治っていた。 だが、昨日の恐怖は心に刻まれている。 私はギルドへ向かう足を止め、武器屋へと方向転換した。 攻撃の次は、防御。 サラリーマンのリスク管理能力が、今こそ試されている。

手ぶらで始める異世界転生 第五話

ふと気がつくと、私は壁外防衛業務請負ギルドの長椅子に横たえられていた。 周囲はクエストから戻った冒険者たちの熱気と、戦利品の精算をする喧騒に包まれている。 「……ここは」 私がむくりと起き上がり、キョロキョロと辺りを見回していると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。 「よう。生きていたんだな。お前の荷物を貰い損ねちまったぜ」 見上げると、ニカっと笑うボルドが立っていた。 不謹慎な冗談だが、その笑顔に妙な安心感を覚える。私は死なずに済んだのだ。 大きく息を吐き、やりきった自分に安堵する。ふとポケットを探ると、ゴツゴツとした硬い感触があった。ワイルドウルフの魔石だ。 「ボルドさん、これってどこで換金するんですか?」 「あそこの窓口だ」 ボルドが指差した先には、鉄格子越しのカウンターがあった。 足を引きずりながら向かうと、そこには愛想のかけらもない中年女性が座っていた。 「へい、ウルフの石3つね。銅貨150枚」 つっけんどんな対応だが、ジャラジャラと支払われた硬貨の重みは本物だった。これが、私の命の対価であり、初めての稼ぎだ。

とにかく体がボロボロだ。スライムに焼かれた背中も、狼に噛まれた足も悲鳴を上げている。 一刻も早く休息が必要だ。私はソフィアから紹介された宿屋へ向かおうと出口へ足を向けた。 ガシッ。 太い腕が私の肩を掴む。 「おいおい、命の恩人に『お礼もなし』かい?」 振り返ると、ボルドが逃がさないと言わんばかりの顔で笑っている。 「あ、ありがとうございます……」 礼だけ言って去ろうとすると、肩を掴む力が強まった。 「……」 数秒の見つめ合いの後、私はようやく悟った。言葉だけの感謝など求めていない。 「す、すみません、でも私、余裕がなくて……」 「はあ? 銅貨150枚も持ってて何言ってやがる。ソフィアお嬢ちゃんが紹介するような高級宿に行かなきゃ、飯と宿代合わせても50枚でお釣りがくるんだよ」 ボルドは強引に私を連れ出した。 「ほら、奢れよ。安くて美味い店教えてやるから」

結局、私はボルドに連れ回され、大衆レストランとバーをはしごすることになった。 彼のおすすめという安宿に放り込まれた頃には、泥のように酔っ払っていた。 ベッドに倒れ込む。 「……痛い」 酔いが回っても、全身の傷が痛む。化膿しないだろうか、破傷風は大丈夫だろうか。 明日もこの体で戦えるのだろうか。 そんな不安が頭をよぎったが、強烈な疲労とアルコールが私の意識を強制的にシャットダウンさせた。

翌朝。 目が覚めると、私は違和感を覚えた。 「……痛くない?」 慌てて体を起こし、手足を確認する。 噛み跡が消えている。背中の焼けるような痛みもない。 まるでRPGの宿屋に泊まった後のように、HPが全快しているのだ。 「なんだこれ……」 不思議ではあるが、深く考えても答えは出ない。これも異世界の法則なのだろう。 とにかく、生きていける。体さえ動くなら、戦える。

それからの私は、日々命がけで街の外へ出た。 スライムの影に怯えながら、ワイルドウルフを孤立させて狩る。 ボルドが仲間の冒険者を紹介してくれたおかげで、街での人間関係も少しずつ広がり、安くて安全な食事処などの情報も得られるようになった。 質素な生活を心がけたおかげで、手元には若干の貯蓄もできた。

そこで私は、一つの決意をした。 「武器を買おう」 あの木の枝では、ウルフを倒すのに5回も6回も殴らなければならない。その間に反撃を受けるリスクがある。 ボルドが持っていたような棍棒があれば、一撃で終わらせられるかもしれない。そうすれば、狩りの効率も安全性も劇的に向上する。

ボルドに相談し、紹介された武器屋へ向かった。 カランコロンとドアを開けると、熱気と鉄の匂いが漂ってきた。 「いらっしゃい」 カウンターから顔を出したのは、タンクトップ姿にショートカットの、気の強そうな女性だった。 彼女は私の貧相な体格とスーツ姿をじろじろと見回し、鼻で笑った。 「なんだいあんた。うちの武器は重いよ? あんたみたいなヒョロガリに使えるとは思えないけどね」 強気な接客だ。だが、今の私は以前の私ではない。 「ああ、たぶん大丈夫だと……」 言い切る前だった。

ドガッ!!

視界の端で何かが飛んだ。 目の前の女性店員が、真横に吹っ飛んで壁に激突したのだ。 「ぶべっ!?」 見ると、奥から屈強な髭面の男が出てきていた。丸太のような太い足が、蹴りのフォロースルーを残している。 (デジャヴだ……) ソフィアが蹴り飛ばされた時と同じ光景に、私は乾いた笑いが出そうになった。 男は転がる女性を一瞥もせず、私に向き直ると申し訳無さそうに頭を下げた。 「すまねえな、お客さん。うちの娘が口だけ一丁前で。……何が入用だい?」 「あ、ええと……棍棒を」 私は引きつった笑顔で、ボルドのものに似た鉄の鋲付き棍棒を購入した。

その投資効果は劇的だった。 翌日のワイルドウルフ狩りは、もはや作業に近かった。 「ふんっ!」 一撃。ドガッという音と共に、ウルフが沈む。 反撃の隙すら与えない。 さらに、因縁の相手であるスライムにも挑んでみた。 木の枝では弾かれたが、鉄の鋲がついた重量のある棍棒によるフルスイングは、スライムの核を粉砕した。 「勝てた……!」 私は確かな手応えを感じた。 これで、これからの生活は安泰だ。

その夜。 私は少し奮発して、夕食にこの世界のビールっぽいものを注文した。 喉を通過する炭酸の刺激と苦味が、五臓六腑に染み渡る。 「おう、やってるな!」 店に入ってきたボルドたちが、私のテーブルに合流した。 「聞いたぜ、棍棒買ったんだってな。スライムも倒したか、やるじゃねえか」 ボルドが笑いながら杯を合わせる。 「ええ、なんとか」 「新人がここまで来れたのは久しぶりだぜ。大抵の移民は、最初のウルフでビビって辞めるか、無理して挑んで亡き者になる」 ボルドは泡のついた髭を拭いながら言った。 「鑑定なんてのは目安に過ぎねえ。数値に出ない『根性』や『工夫』がなけりゃ、どんなスキルがあっても死ぬ時は死ぬ。……あんたの最初の鑑定、あてにならなかったな」

「ええ、本当に」 私は苦笑しながらビールをあおった。 スキルなし、能力平均。それでも私は今、ここで生きている。 勝利の美酒に酔いながら、私はこの世界に来て初めて、心の底から笑うことができた。

手ぶらで始める異世界転生 第三話

出された夕食は、わずかに塩味のする水のようなスープと、石のように固い黒パンだけだった。 味気ない食事で腹をごまかし、あてがわれたベッドに横たわる。 ベッドと言っても、木の枠に藁を敷き詰め、薄汚れた布をかけただけの代物だ。現代日本のふかふかなマットレスに比べれば、地べたで寝るのと大差ない。 それに、衛生環境は最悪だった。トイレは建物の裏手に穴を掘っただけのような場所で、強烈なアンモニア臭が鼻をつく。もちろん、風呂なんて文化は影も形もない。

「……最悪だ」 硬い藁の感触に背中を痛めながら、なかなか寝付けない頭で思考を巡らせる。 状況からして、これは無料漫画アプリでよく読んでいた「異世界転生」あるいは「異世界転移」というやつだろう。 しかし、物語の中のような甘い展開はどこにもない。 ステータス画面が開くわけでもなければ、女神から特別なスキルを与えられた感覚もない。あるのは、文明レベルが中世まで後退した不衛生な環境と、将来への不安だけだ。 元の世界に帰れるのか? いや、そもそもあっちでは死んだことになっているのか? 目先には何の手札もない。まだ涙は出ないが、張り詰めた緊張と劣悪な環境のせいで、私は浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、重苦しい朝を迎えた。

翌朝。 昨日の男性騎士が、執務室でこの世界についての基礎知識を教えてくれた。 やはり、文明レベルは中世ヨーロッパ程度。政治体制は王制を用いているらしい。 だが、彼が口にする国王の名前も、周辺諸国の国名も、私の世界史の知識には一切存在しないものばかりだった。 ここが地球の過去ではなく、完全に別の世界であることを嫌でも理解させられる。

さらに、この世界には決定的な違いがあった。「魔物」の存在だ。 「あなたが森で遭遇したのは『ワイルドウルフ』という魔物です。あれは群れで人を襲うこともある。武器も持たない一般人が単独で遭遇し、しかも生還できたのは奇跡に近い」 男性騎士は真剣な顔でそう言った。 「……ワイルドウルフ、ですか」 私は思わず口元を引きつらせた。直訳すれば「野生の狼」。ひねりも何もない、あまりにそのまんまなネーミングに、恐怖よりも先に乾いた笑いが込み上げてしまったのだ。 だが、笑っている場合ではない。私はそんな危険な生物が徘徊する世界に、身一つで放り出されたのだ。 「これから、どうやって生きていけば……」 途方に暮れる私に、男性騎士は優しく声をかけた。 「我々も財政に余裕があるわけではありませんが、可能な限り援助はしましょう。ギルドには難民用の仕事の斡旋もあります。とりあえず一度、街中を見て回るといい」 そう言うと、彼は視線を外し、部屋の隅に控えていた昨日の女性騎士に向かってドスの利いた声を上げた。 「オイ」 先ほどまでの理知的な態度は消え失せ、あからさまに見下した響きが空気を凍らせる。 「おい、この御仁に町案内をしてやれ。……グズグズするな」 女性騎士がビクリと肩を震わせ、「は、はいっ!」と直立不動で返事をする。 男性騎士は再び私に向き直ると、柔和な仮面を貼り直して言った。 「彼女に街中を案内させますので、今後の身の置き方をゆっくり考えてください」

こうして、私は女性騎士の案内で街に出ることになった。 彼女は私の歩調に合わせて歩きながら、怯えた様子を見せないよう努めて、市場や鍛冶場、ギルドといった主要な施設を案内してくれた。 私は必死に観察した。この世界で自分が何ができるのか。何が求められているのか。 市場を行き交う人々のやり取り、商店に並ぶ商品の質、職人たちの作業風景。

一日かけて街を回り、日が傾く頃、私の中に一つの「確信」と「安堵」が生まれた。 この世界には魔法やスキルといった未知の領域が存在する。 その一方で、数学や科学技術といった分野の発展レベルは著しく低いのだ。 市場での商取引を見ていても、二桁の計算に指を使っていたり、どんぶり勘定で済ませていたりする。建築物の構造も、経験則に頼っている部分が多く、力学的な計算がなされているようには見えない。

(これなら、いけるかもしれない)

魔法が使えなくても、剣が振れなくても。 現代日本で義務教育を受け、社会人として数字を扱ってきた私にとって、単純な算術や論理的思考、そして衛生管理などの「一般常識」は、この世界では「高度な専門知識」になり得る。 最悪でも、計算能力と管理能力を売りにすれば、肉体労働以外の道が開けるはずだ。十分な技術力として通用する。

「……ありがとうございました。おかげで、少し道が見えた気がします」 案内を終えた女性騎士に礼を言うと、彼女は少し驚いたように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

私は今晩も騎士駐在所の宿直室に甘えることにした。 硬いベッドも、臭いトイレも変わらない。 だが、昨日とは違う。 「計算、帳簿付け、在庫管理……まずはその辺りから売り込んでみるか」 天井を見上げながら、私は今後の身の振り方を具体的にシミュレーションし始めた。 生き残るための武器は、この頭の中にある。

手ぶらで始める異世界転生 第四話

悲壮な決意を胸に、私は翌朝「壁外防衛業務請負ギルド」へと足を運んだ。 漫画やゲームで見るような、受付嬢が笑顔で対応してくれる冒険者ギルドを想像していたが、現実は甘くなかった。 そこは、ドヤ街の労働者寄せ場のような、殺伐とした空気に満ちていた。 薄汚れた装備の男たちがたむろしており、強面の現場監督のような男たちが、「東の森、人足3名!」「荷運び、銀貨2枚!」と怒鳴り声を上げている。 私は誰を信じていいのかもわからず、その熱気に圧倒され、しばらく棒立ちになっていた。

ふと壁の掲示板を見ると、モンスターの名前と手配書のような絵、そして報酬額が張り出されている。 適当に目を通すと、『スライム:討伐証明部位提出につき銀貨1枚(銅貨100枚相当)』、『ワイルドウルフ:魔石提出につき銅貨50枚』とある。 昨日の洗濯仕事の報酬を考えれば、破格の金額だ。 それなりの宿に泊まり、まともな夕食をとるなら、ミニマムで銀貨1枚は必要だ。つまり、スライム1匹か、ワイルドウルフ2匹が今日の最低ノルマということになる。 先日の戦闘――木の枝一本でワイルドウルフを撃退した経験――を思い出し、私は皮算用をはじめた。 「……いける。ノルマ達成どころか、貯金もできるかもしれない」 完全に自分を信じ込み、私は先日入ってきた街の出入り口へと向かった。

門番にギルド証を見せて外に出ようとすると、槍を持った衛兵が呆れたように声をかけてきた。 「おい……そんな装備で大丈夫か?」 武器も持たず、防具も着ていないスーツ姿の私を見ての言葉だろう。 だが、今の私は「選ばれし異世界人」気取りだ。 「問題ない。一番いいのを頼む……なんてね。木の枝があれば十分ですよ」 私は余裕の笑みを浮かべて答えた。 門番は「死にたい奴は勝手にしろ」と言わんばかりに肩をすくめ、手の甲でシッシッと「行け」の合図をした。 (異世界人の私を舐めてるな) 満身の自信とともに、私は通用口の小さな扉をくぐり、外の世界へと踏み出した。

この時、自分の愚かさを理解していれば、あんな悲劇には遭わなかっただろうに。

門を出てすぐ、手頃な武器を探すが、先日ほど良い枝が見つからない。仕方なく、少し細いが手近な木の枝をへし折って獲物とした。 しばらく草原を歩く。風が変わり、獣の臭いがした。 ワイルドウルフだ。 「来たな、金ヅルめ」 私は枝を構える。だが、茂みから現れたのは1匹ではなかった。 2匹、3匹……。 群れだ。 「……え?」 私が怯む隙など与えず、狼たちは散開して襲いかかってきた。 こないだの感覚を頼りに、端の1匹へ枝を振り下ろす。「ギャンッ!」という悲鳴とともに1匹が怯む。 だが、残りの2匹は止まらない。 1匹が正面から飛びかかってくるのを、腕で必死に払いのける。 しかし、その死角から最後の一匹が私の脛(すね)に食らいついた。 「ぐあああああっ!!」 激痛が脳天を突き抜ける。前回は運良く直撃をもらわなかったため知らなかったが、野生動物の顎の力は、骨を砕くほどに強烈だった。 「離せっ! クソッ!」 脛に牙が食い込んだまま、狼が首を振る。肉が裂ける感覚。 私は半狂乱になりながら、手にした枝をがむしゃらに叩きつけた。2発、3発。 自分も噛まれ、爪で裂かれ、すでに満身創痍だ。 それでも必死の抵抗が功を奏したのか、なんとか2匹を戦意喪失させ、最後の1匹の頭蓋を砕いて動きを止めた。

荒い息を吐きながら、血まみれの地面に立ち尽くす。 全員瀕死だが、まだ息はある。 私は先日のボルドの言葉を思い出す。「とどめを刺したのは俺だから、ジュエルはもらうぜ」。 つまり、殺し切らなければ報酬(魔石)は出ない。 私は枝を握り直し、足元で痙攣している狼を見下ろした。 ボルドが持っていたような鉄の棍棒ではない。この細い枝で、命を絶たなければならない。 「……やるしか、ない」 私は枝を振り下ろした。 ドガッ。 犬のような悲鳴が上がる。まだ死なない。 ドガッ。ドガッ。 手に伝わる生々しい感触。骨が砕け、肉が潰れる音。 「はあっ、はあっ……死ね、死んでくれ……!」 4回、5回。 ようやく狼の体が光の粒子となって崩れ去り、コロンと小さな石が落ちた。 断末魔を聞くのは辛い。生き物の命をこの手ですり潰す作業は、想像を絶する精神的苦痛を伴う。 だが、やらなければ私が死ぬ。生活できない。 私は感情を殺し、残りの2匹も「処理」した。自分も傷だらけで血を流しているせいか、罪悪感は麻痺していた。

ともあれ、手元には三つの小さな魔石。 銅貨150枚分。これで、少なくとも今晩の平穏と食事は確保できた。

「帰ろう……」 足を引きずりながら、門の方角へ歩き出す。 致命傷ではないが、脛の傷がズキズキと痛み、出血で視界が揺れる。 もう少しで門だ。あと少しで安全圏だ。 そう思った矢先、そいつは現れた。 「あ……?」

――スライムが1匹現れた。

この言葉を聞いて、危機感を感じる日本人がどれだけいるだろうか。 だが、今の私にはわかる。こいつはヤバい。 目の前にいるのは、愛らしい水色のマスコットではない。 人の背丈ほどもある、濁った泥水のような色の、不定形の岩のような塊。それが不気味に脈動している。 「くそっ、あと少しなのに!」 痛みと恐怖でハイテンションになった私は、やけくそ気味に木の枝を振りかぶり、スライムに向けて思い切り殴りつけた。 ボヨンッ! 「……は?」 枝はスライムの表面で弾かれた。いや、衝撃が吸収されたのか? ダメージがあったのかすら判断がつかない。相手は無傷に見える。 物理攻撃が効かない? 打撃無効か? 「逃げるしか、ない」 私はスライムに背を向け、門へ向かって走り出した。スピードは遅いはずだ。 あと50メートル。 そう思った瞬間、背中に焼きごてを当てられたような激痛が走った。 「ぎゃあああああっ!?」 スライムが体を伸ばし、背後から体当たりをしてきたのだ。 衝撃で地面に転がる。 背中の服が溶け、皮膚が焼け爛れるような感覚。酸だ。こいつの体液は酸なのか! 「う、うう……」 あと50メートル。這ってでも門へ行く。 スライムは張り付いたまま離れない。背中がじりじりと焼かれていく。 必死の思いで門までたどり着き、扉をドンドンと叩いた。 「開けてくれ! 頼む、開けてくれ!!」 中から門番の声が聞こえる。 「馬鹿野郎! モンスターがへばりついてるのに扉を開けられるか! 街に入れるわけにはいかん!」 「そんな……」 絶望で目の前が真っ暗になる。 安全地帯は目の前にあるのに、見捨てられた。 背中の激痛、失血による寒気。 (ああ、終わった……) 意識が遠のき、泥のような地面に顔が沈みそうになった、その時だった。

ドゴォッ!!

背中に凄まじい衝撃が走った。 スライムの焼けるような痛みとは違う、重い打撃の衝撃。 その直後、背中の重みが消え失せた。 「……え?」 霞む視界の中で、誰かが私の前に立っているのが見えた。 見覚えのある軽甲冑。手には無骨な棍棒。 男は私を見下ろし、ニカッと笑った。

「よう。久しぶりだな」

薄れゆく意識の中で、その中年男――ボルドの笑顔が焼き付いた。

手ぶらで始める異世界転生 第二話

巨大な門をくぐり、城塞都市の中に足を踏み入れる。 石畳の地面、行き交う馬車、そして独特な服装の人々。まるでテーマパークの中にいるようだが、漂う生活臭と空気の重さが現実であることを突きつけてくる。

隣を歩く中年男が、ふと足を止めて私に向き直った。 「俺の名はボルドだ。悪いが、ここから先は付き合いきれねえ」 ボルドと名乗った男は、大通りの一角にある堅牢な石造りの建物を指差した。 「あんた、まだ混乱してるようだし、あそこの『騎士待合所』へ行くといい。あそこなら、あんたの状況も整理できるだろう」 「騎士、待合所……ですか」 「ああ。身元のないやつの相談にも乗ってくれるはずだ。俺もこれからギルドで換金やら報告やらがあるんでな。これ以上は構えねえけど、あそこなら安心だ」 そう言うと、ボルドは「じゃあな」と片手を軽く挙げ、爽やかに、そして颯爽と人混みの中へと消えていった。 見ず知らずの不審な私をここまで案内してくれた恩人。非常にありがたい出会いであった。 いつか恩返しができるだろうか。そんな感傷に浸るよりも、まずはボルドの言う通り、今の自分の状況を整理しなければならない。

私は教えられた建物の扉を恐る恐る開けた。 中は役所のロビーと警察署を足して二で割ったような雰囲気だ。 カウンターの向こうで、鉄の胸当てをつけた若い女性が書類仕事をしていたが、私に気づくとすぐに駆け寄ってきた。 「どうされましたか? ……その服装、仲間とはぐれて困っているんですね」 彼女は私のスーツ姿を見て、何か事情があるのだと察してくれたようだ。 「難民保護も行っているので安心してください。まずは座って、お話を聞かせていただけますか」 彼女の態度は丁寧だったが、身につけた甲冑と腰の剣が、ここが武力を背景とした場所であることを無言で語っていた。

カウンター越しの尋問、もとい身分確認が始まった。 「お名前は?」「出身地は?」「所持している技能(スキル)は?」 言葉は丁寧だが、威圧感を感じるやり取りだ。 私は意を決して、自分が置かれている状況を説明することにした。 日本という国から来たこと。交通事故に遭った直後に森にいたこと。ここがどこなのか、常識すらわからないこと。 私の説明を聞くにつれ、女性騎士の眉間の皺が深くなっていく。 「……話がよくわかりません。別の世界、ですか? 記憶の混乱が見られますね……さて、どうしましょうか」 彼女は困り果てたように頭を抱えてしまった。 やはり、まともに取り合ってもらえないか。私が次の言葉を探そうとした、その時だった。

ドガッ!!

鈍く、重い音が響いた。 目の前の女性騎士が、ボールのように真横に吹き飛んだのだ。 「がはっ……!?」 彼女は壁に激突し、床に無様に転がった。 何が起きたのか理解できず、私が視線を戻すと、そこには一人の男が立っていた。 冷徹さを絵に描いたような表情の、騎士風の男だ。彼が横から蹴りを入れたのだと理解するのに数秒かかった。

男は床で咳き込む女性を一瞥もしないまま、冷たく言い放つ。 「これだから女は使えねえ。状況をすぐ報告しろ」 女性騎士は、むせ返り、痛みに顔を歪めながらも、慌てて体勢を直して直立する。 「は、はいっ! 遭難した男性のようですが、どうにも質問の回答が要領を得ず……」 「要領を得ないのは貴様の尋問能力だ」 男は吐き捨てるように言った。 「残りは俺がやる。貴様は奥の掃除でもしてろ」 「はっ! 失礼いたしました!」 女性は怯えたように敬礼すると、逃げるように奥の部屋へと下がっていった。

暴力と暴言。現代日本では即刻パワハラで訴えられる光景だが、この場ではそれが当たり前の規律であるかのように空気が張り詰めている。 私は恐怖で身を固くした。次は自分が蹴られる番かもしれない。 しかし、男はこちらに向き直ると、打って変わって丁寧な口調で語りかけてきた。 「お見苦しいところをお見せしました。部下の教育が行き届いておらず申し訳ない」 表情こそ冷たいままだが、声色には理知的な響きがある。 「続きは私が伺います。……さて、あなたのその衣服、そして持ち物を見せていただけますか?」

男は私のスーツの縫製、そして私が差し出したスマートフォンや社員証、財布の中の硬貨などを、まるで鑑定士のような鋭い目つきで観察した。 一通りの確認を終えると、男は一つ頷き、私に視線を戻した。 「……理解しました。詳細はわかりませんが、あなたはおそらく『非日常的な状況』に至っているようですね」 「信じて、くれるんですか?」 「ええ。この精巧な衣服の加工技術、見たこともない材質の道具。これらはこの近隣諸国の技術体系とは根本的に異なる。あなたが嘘をついているようには見えません」 男は手際よく書類に何かを書き込むと、私に告げた。 「今日はお疲れのようですし、本日はこちらの宿直室でお休みください。明日改めて、この世界について説明させていただきます」

男に案内されたのは、簡素なベッドがあるだけの狭い部屋だった。 ドアが閉まると、急激な静寂が訪れる。 どっと疲れが押し寄せてきた。 交通事故、野犬との死闘、魔法のような現象、そして理不尽な暴力がまかり通る騎士団。 長い、本当に長い一日が終わった。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 私はこれからどうやって生きていくのだろうか。 元の世界に帰れるのか、それともこの弱肉強食のような世界で野垂れ死ぬのか。 不安だけが黒い霧のように胸に広がり、私はいつまでも眠りにつくことができなかった。

手ぶらで始める異世界転生 第一話

私は、30代独身のしがないサラリーマンだ。 とりえと言える特技もなく、これといった趣味もない。ただ会社と家を往復し、日々を消費するだけの生活。 彼女はおらず、両親もすでに他界している。守るべきものもなければ、日々の生活に何の張り合いもない。 「……疲れたな」 そんな独り言が漏れる、いつもの帰宅途中だった。 横断歩道で、視界の端が強烈なライトに染まった。 ブレーキ音と衝撃。 痛みを感じる間もなく、私の意識は暗転した。

***

気が付くと、私は見知らぬ場所にいた。 アスファルトの匂いも、車の喧騒もない。あるのは湿った土の匂いと、風に揺れる木々のざわめきだけだ。 「……森、か?」 体を起こし、周囲を見渡す。鬱蒼とした木々が立ち並び、自分の現在地が皆目見当もつかない。 さっきまで都会のど真ん中で事故に遭ったはずだ。状況の整合性が全く取れない。夢かとも思ったが、背中に感じる土の冷たさと体の節々の痛みは、これが現実であることを訴えていた。

ただ、ここで立ち尽くしていても意味がないことだけは確かだ。 幸い、ここは平地のようだ。木々の隙間を縫って、とにかく歩きやすそうな方向へ足を進めることにした。

しばらく歩いた頃だろうか。前方でガサリと草木が揺れた。 現れたのは一匹の犬だった。首輪はない。毛並みは荒れ、汚れが目立つ。 「野犬……か」 私は思わず足を止めた。 可愛いなどという感想は抱けない。野生動物特有の、ぎらついた目が私を捉えている。 (狂犬病のワクチンなんて打たれているわけがないよな) 背筋が寒くなる。一噛みされただけで、感染症にかかり人生が終わるかもしれない。

相手は獣だ。こちらが怯えを見せれば、そこをつけ込んでくるだろう。気合いで負けたら、舐められる。 「ウオオオオッ!!」 私は腹の底から雄叫びを上げ、犬を睨みつけた。威嚇だ。 しかし、犬は逃げ出すどころか、低く唸り声を上げながらジリジリと距離を詰めてくる。 (だめか……) 私はゆっくりと後ずさりしながら、周囲に視線を走らせる。素手でやり合うのは自殺行為だ。 足元に、手頃な長さの枝が落ちているのが見えた。 私は犬から目を離さず、隙を見せないように身を屈め、その枝を拾い上げた。 握ってみると、思ったより太く、ずっしりとしている。運が良ければ、これで戦えるかもしれない。

数秒、あるいは数分にも感じられる睨み合いが続いた。 野生動物の反射神経に、鈍ったサラリーマンの私が勝てる自信はない。ならば――。 「ハアッ!!」 私は再び雄叫びを上げ、先手必勝とばかりに枝を振り下ろした。 バゴッ、と鈍い音が響く。運良くクリーンヒットが入ったようだ。 犬が一瞬怯む。だが、痛みは恐怖ではなく怒りを呼んだらしい。明確に私を敵と認識し、牙を剥いて飛びかかってきた。 「くっ!」 とっさに枝を突き出し、噛みつきをブロックする。 ガヂリ、と枝に犬の牙が食い込んだ。 動きが止まる。 (今だ!) 私は枝を持ったまま、がら空きになった犬の鼻先へ、右の拳を思い切り叩き込んだ。 「ギャンッ!」 そこまで巨大な犬ではない。私の全体重を乗せた一撃に、犬は堪らず吹き飛んだ。 さらに追撃の手を緩めない。よろめきながら立ち上がろうとする犬の胴体に、渾身の蹴りを見舞う。 犬はそのまま地面に横たわり、苦しげな呼吸を繰り返している。完全にグロッキー状態だ。

荒くなった息を整えながら、私は枝を下ろした。 わざわざとどめを刺すような悪趣味な感情は持ち合わせていない。あちらもこちらの強さと匂いを覚えただろう。もう襲ってはこないはずだ。 しかし、こんな野犬がたむろしているような場所だ。ここが危険地帯であることに変わりはない。 私は手元の枝よりもさらに頑丈そうなものを探し出し、しっかりと握りしめた。 「早く、街へ出よう」 足早にその場を離れようと、歩きやすそうな方向へ体を向けた、その時だった。

「――なぜ、とどめを刺さない」

後ろから、低い男の声が聞こえた。 「え?」 振り返った瞬間、茂みから一人の男が飛び出してきた。 短髪の中年男だ。現代日本ではコスプレにしか見えない、西洋風の革と金属を合わせた軽甲冑を身につけている。 男の手には無骨な棍棒が握られていた。 男は迷うことなく、まだ動けずにいる犬へと駆け寄り――。 ドガッ! 容赦なく棍棒を叩きつけた。 犬が最期の声を上げる暇もなく、今度こそ完全に息の根が止まった、そう思われた直後だ。 「な……?」 犬の死体が、ふわりと光の粒子となって崩れ去ったのだ。 そして地面には、肉片の代わりに小さな宝石のようなものが一つ、転がっていた。

男は慣れた手つきでそれを拾い上げると、私に背を向けたまま言った。 「とどめを刺したのは俺だからな。このジュエルはもらうぜ」 男は申し訳なさそうというよりは、当然の権利を主張するようにそう言った。 「ジュ、エル……?」 私は呆気にとられ、口を半開きにして立ち尽くすしかなかった。 犬が光って消えた? ジュエル? あまりの非現実的な光景に思考が追いつかないでいると、男が怪訝そうにこちらを振り向いた。 「あんた、随分といい生地の服を着てるな。貴族みたいな格好してるが、冒険者じゃないのか? いったい何があった」 男の視線が私のスーツに向けられている。 冒険者、貴族。飛び交う単語が、私の知る常識と乖離している。 しばらく呆然としていたが、男が返答を待っていることに気づき、私は努めて冷静に状況を説明した。 気がついたらこの森にいたこと。訳も分からず、とりあえず近場の町を探して歩いていたこと。

男は私の話を黙って聞いていたが、少しの間をおいて、ニッと笑った。 「なるほどな。まあ、困っている時はお互い様だ。近くの町まで案内してやるぜ」 「あ、ありがとうございます……」 警戒心はあるものの、現地の人間(と思われる)の協力はありがたい。私は素直に頭を下げた。

それから、男の後について森を歩いた。 道中、男は暇つぶしのように矢継ぎ早に質問を投げてきた。 「どこの国の出身だ?」「その服の素材は何だ?」「魔術は使えるのか?」 私はその一つ一つに正直に答えた。「日本です」「ポリエステルです」「使えません」。 だが、全く話が通じない。 言語は通じている。お互い日本語(のような言葉)を話しているはずなのに、文脈も単語の意味も共有できていないのだ。 そもそも、この男はなぜ一人で、甲冑を着込んで山の中にいたのか。聞きたいことは山ほどあったが、男の勢いに押され、私が質問を挟む猶予は一切なかった。

「お、見えてきたぞ」 男の声に顔を上げる。 森が開け、視界の先に巨大な建造物が現れた。 「あれは……」 私は息を飲んだ。 高い石積みの城壁に囲まれた都市。その奥にそびえる尖塔。 それは現代日本のどこを探しても存在しない、まるで映画やゲームで見たような、西洋中世の城塞都市そのものだった。

ここに至り、私はようやく認めざるを得なかった。 どうやら私は、とんでもない場所に来てしまったらしい、と。

透明の人形

その人形は、夕暮れの公園の植え込みの陰、泥にまみれて転がっていた。

透き通るような白い肌、精巧なレースのドレス、そして夕日を受けて鈍く光る金色の巻き髪。それは明らかに高価な、西洋風のビスクドールだった。しかし、その瞳はガラス玉特有の冷たさを放ち、薄汚れた頬には誰かが踏みつけたような跡があった。

もしも、それを見つけたのが分別のある年齢の子供であったなら、決して拾い上げたりはしなかっただろう。「気味が悪い」「呪われているかもしれない」。そんな本能的な忌避感が働いたはずだ。

けれど、ミナはまだ五歳だった。 善悪の区別も、美醜の境界も、そして「捨てられたもの」に宿るかもしれない因縁も、彼女にはまだ分からなかった。ただ、泥の中でそこだけが光って見えたのだ。

「きれい……」

ミナは小さな手で、その冷たく重たい人形を抱き上げた。泥が彼女のワンピースに付着したが、気にも止めなかった。

「ただいま」

玄関のドアを開けても、返事はなかった。リビングの方からテレビの音が聞こえる。ミナは人形を胸に抱いたまま、リビングを覗き込んだ。

ソファには父親が座ってスマートフォンを操作し、母親はキッチンで誰かと電話をしている。 ミナの両親は、決してミナを虐待しているわけではなかった。食事も与えるし、服も買い与える。ただ、彼らの人生における優先順位の中で、「娘」という存在は著しく低い位置にあった。彼らは自分たちの仕事や趣味、そして世間体の方に遥かに強い興味を持っていたのだ。

「ママ、見て。お人形ひろったの」

ミナが背中に声をかけると、母親は電話を耳に当てたまま、煩わしそうに振り返った。視線はミナの顔ではなく、泥で汚れた人形に向けられる。

「あらそう。……汚いから、ちゃんと洗面所で洗ってきなさいね。カーペットを汚さないでよ」

それだけだった。 どこで拾ったのか、誰のものか、そんなことはどうでもよかった。ミナが静かにしていれば、それでよかったのだ。

ミナは洗面所で、人形の顔を丁寧に拭った。泥が落ちると、人形は驚くほど美しかった。青いガラスの瞳が、鏡越しにミナを見つめ返しているように見えた。

「あなたのなまえは、エリスよ」

ミナはそう名付けた。絵本で読んだお姫様の名前だ。 その夜から、ミナとエリスの生活が始まった。

食事の時も、お風呂の時も、眠る時も、ミナはエリスを片時も離さなかった。両親は相変わらずミナに無関心だったが、ミナにとってそれはもう、寂しいことではなくなっていた。

「パパとママはね、いそがしいの。でも大丈夫、ミナにはエリスがいるから」

ベッドの中で、ミナはエリスに語りかける。 人形は何も答えない。ただ、その整いすぎた顔で微笑んでいるように見えるだけだ。しかし、ミナにはエリスの声が聞こえている気がした。

『そうね、ミナ。あの人たちはあなたのことなんて見ていない。私だけが、あなたを見ているわ』

季節が変わり、冬が近づいてきたある日のこと。 ミナは以前よりも口数が減り、どこか大人びた表情を見せるようになっていた。幼稚園の先生が「最近、ミナちゃんが壁に向かってずっと一人で話している」と連絡帳に書いても、両親は「想像力が豊かな子だ」と読み流すだけだった。

夕食の席、相変わらず会話のない食卓で、ミナは自分の椅子にエリスを座らせ、自分はその隣に立ったまま食事をしていた。

「ミナ、行儀が悪いぞ。座りなさい」

父親が初めて不機嫌そうに口を開いた。視界の端に入る人形の無機質な視線に、ふと悪寒を感じたからかもしれない。 しかし、ミナは座らなかった。

「だめよパパ。ここはエリスの席だもの」 「人形遊びもいい加減にしなさい。捨ててしまうぞ」

父親が手を伸ばし、エリスを掴もうとした瞬間だった。 ミナが、五歳児とは思えないほどの冷徹な目で父親を睨みつけた。その瞳は、まるでガラス玉のように感情がなく、どこかエリスの瞳と似ていた。

「さわらないで」

低く、静かな声。 父親は思わず手を引っ込めた。その時、微かだが、人形の口元が歪んで笑ったように見えた気がしたからだ。

それ以来、両親はミナに干渉することをさらに避けるようになった。あの子には何かが憑いている、そんな漠然とした恐怖が、無関心という名の壁をさらに厚くした。

ミナはもう泣かなかった。寂しさも感じなかった。 彼女の心は、冷たくて美しい人形によって完全に満たされていたからだ。

「ずっと一緒よ、エリス」

少女は人形を抱きしめる。 人形もまた、目には見えない腕で少女を抱きしめ返している。 親の愛を知らずに育った少女は、人ではないものからの愛を受け入れ、二度と戻れない世界へと静かに足を踏み入れていた。

広い家の中で、少女と人形の、二人きりの幸せな生活は、これからも続いていく。

ミナはランドセルを背負い、小学校に通うようになった。その背中にはいつも、教科書よりも重たい「エリス」の感触があった。

本来であれば、学校への玩具の持ち込みは校則で厳しく禁じられている。入学当初、若い担任教師はミナから人形を取り上げようとしたことがあった。しかし、その時のミナの反応は、教師を戦慄させるに十分だった。 泣き叫ぶわけでも、暴れるわけでもない。ただ、呼吸を止め、酸素が欠乏して顔色が土気色になってもなお、人形を掴んだ指を万力のように硬直させて離さなかったのだ。

「……授業の邪魔をしないなら、特別だぞ」

教師は恐怖と、そして何より「面倒事」を避けるために折れた。 ミナの両親に連絡しても、「学校でそちらが指導してください」と投げやりに返されるだけ。結局、ミナの机の端に、常に金髪の人形が座っているという異様な光景は、教室の「日常」として定着してしまった。

低学年のうちは、まだ良かった。 「ミナちゃんのお人形、かわいいね」「触らせて」 無邪気なクラスメイトたちは、物珍しさからミナを取り囲むこともあった。ミナは決して他人にエリスを触らせなかったが、それはあくまで「お気に入りのおもちゃを独占したい子供」として映っていた。

しかし、四年生、五年生と学年が上がるにつれ、周囲の空気は一変した。 周りの少女たちがアイドルの話や恋の話に花を咲かせ、グループを作り始める中で、高学年になっても人形に話しかけ続けるミナの姿は、もはや「幼稚」を通り越して「不気味」なものとして認識され始めた。

「ねえ、あの子まだやってるよ」 「こっち見んな、目が合うと呪われるぞ」

ヒソヒソという陰口は、ミナの耳にも届いていた。だが、それはミナにとって、窓の外の雨音と同じ環境音に過ぎなかった。

ある日の体育の時間。 ドッジボールのチーム分けで、ミナは最後まで余っていた。誰も彼女をチームに入れたがらなかったのだ。 先生が無理やりミナをチームに入れようとした時、クラスの男子のリーダー格が、面白半分にミナが抱えている人形を指差した。

「お前さ、いい加減それ捨てろよ。気持ちわりーんだよ!」

男子が手を伸ばし、エリスの金髪を掴もうとした。 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。

ミナが、男子の手首を掴んでいた。 小学生の女子とは思えない、骨がきしむほどの強い力で。

「……エリスが、臭いって」

ミナは無表情のまま、男子を見上げて呟いた。

「汚い手で触らないで。エリスが、あなたのこと臭いって言ってる」

その声はあまりに冷淡で、そしてどこか楽しげだった。 男子は「う、うわぁっ!」と悲鳴を上げて手を振りほどき、後ずさりした。ミナの背後に、人形ではない「何か」の気配を感じ取ったかのように。

それ以来、ミナに対するいじめや干渉はピタリと止んだ。 それは平和の訪れではなく、完全なる「排除」だった。ミナはクラスの中で、そこにいるけれど存在しないもの、あるいは触れてはいけない腫れ物として扱われるようになった。

授業中も、休み時間も、給食の時間も。 ミナはずっとエリスと会話をしていた。先生が黒板に向かっている間、ミナは教科書の隅に小さく文字を書き、それをエリスに見せて微笑む。

ミナの世界には、もう両親も、先生も、友達も必要なかった。 身体が大きくなり、知恵がつき、社会との接点が増えれば増えるほど、ミナとエリスの周りには、誰にも見えない分厚い硝子の壁が築かれていった。

「人間たちは愚かね、エリス」

下校時の夕暮れ道、誰もいない通学路でミナは呟く。 ランドセルからはみ出したエリスの顔が、夕日を浴びて妖しく輝いた。

「ええ、そうね。ミナ。早くお家に帰りましょう。あそこだけが、私たちの王国なのだから」

ミナの口を通して語られるエリスの言葉。それはもう、ミナ自身の思考なのか、人形の意志なのか、誰にも――ミナ自身にさえ区別がつかなくなっていた。

こうして少女は、社会の中にいながらにして、社会から完全に切り離された存在へと成長していった。

中学校という場所は、小学校以上に「社会」の縮図だった。制服という画一的なルール、カーストのような集団形成、そして空気を読むという暗黙の了解。少女にとって、そのすべてが理解不能なノイズであり、彼女はより一層、自身の内側へと沈潜していった。社会との距離は、もう埋めようのない深い溝となっていた。

しかし、家庭という最後の砦においてさえ、その孤立は深刻に捉えられることはなかった。 「あの子は昔から、自分の世界を持っているから」 「無理に合わせる必要はないわ。それが彼女の個性なのだから」

両親は彼女の沈黙を「思慮深さ」や「芸術的な気質」として好意的に、あるいは都合よく解釈した。彼らにとって、娘が学校で誰とも言葉を交わさず、休み時間を図書室の隅や教室の窓際で彫像のように過ごしている事実は、矯正すべき問題ではなく、尊重すべき「スタイル」だったのだ。その放任は、優しさの皮を被った無関心に他ならなかったが、少女はそのことに対して怒りも寂しさも感じてはいなかった。ただ、世界がそういうものであると受け入れていた。

問題は、彼女が成長と共に手に入れてしまった「美しさ」だった。

思春期の入り口に立った彼女は、本人の意思とは無関係に、あまりにも目を引く容姿へと変貌し始めていた。透き通るような白い肌、感情を読み取らせない深く暗い瞳、整いすぎた目鼻立ち。それは、教室の無機質な蛍光灯の下でさえ、異質な光を放っていた。

「美しい」ということは、思春期の男子たちにとって、無視できない引力となる。彼女の周りには、目に見えない磁場が発生し、男子たちのリアクションは残酷なほど様々に分かれた。

ある者は、彼女を「聖域」として扱った。 彼らは遠巻きに彼女を眺め、その美しさを神聖化することで自分たちの日常から切り離した。「高嶺の花」というレッテルを貼り、彼女が言葉を発しないことを神秘性として崇めた。彼女が教科書をめくる指先の動き一つひとつが、彼らの密かな視線の的となった。

ある者は、その沈黙を「挑戦」と受け取った。 自信過剰な男子生徒や、クラスの中心人物たちは、彼女の無関心な壁を壊そうと試みた。わざと大きな声で話しかけたり、ちょっかいを出したりして、彼女から何らかの反応――たとえそれが拒絶であっても――を引き出そうとした。しかし、彼女の瞳は彼らを映してはいても、見てはいなかった。その暖簾に腕押しのような反応のなさは、彼らのプライドを傷つけ、やがて「あいつは調子に乗っている」「気取っている」という陰口へと変わっていった。

そして、最も歪んだ反応を示す者たちもいた。 彼女の無防備な孤立につけこみ、その美しさを暴力的な視線で消費しようとする者たちだ。すれ違いざまの卑猥な囁きや、粘着質な視線。

称賛、苛立ち、欲望。 少女を取り巻く空気は、思春期特有の熱と湿気を帯びて渦巻いていた。けれど、少女自身はその喧騒の真ん中にいながら、まるで真空の中にいるかのように静かだった。彼女にとって、自分の美しさは単なる「外側の殻」に過ぎず、周囲がなぜその殻にこれほど執着するのか、その理由が理解できなかったからだ。

硝子細工のように美しい少女は、周囲の視線に晒されながらも、誰の手も届かない場所で、ただ一人、呼吸を続けていた。

その男子生徒は、カーストの上位にいるわけでも、特別な才能があるわけでもなかった。しかし、彼が抱いた感情の質量だけは、校内の誰よりも重く、そして熱かった。

彼は少女に恋をした。それは淡い憧れや、性的な好奇心といった生温かいものではなく、信仰に近い激情だった。

「君が世界で一番美しい。君が喋らなくても、笑わなくても、僕は君のそばにいたい」

彼は周囲の嘲笑も、友人たちの制止も、すべてを無視した。 休み時間のたびに彼女の机の前に立ち、反応のない彼女に向かって語りかけ続けた。彼女に向けられる悪意ある視線があれば、自らが盾となって遮った。クラスでの立ち位置、男子グループでの付き合い、思春期の少年が何よりも気にする「世間体」――彼はそのすべてを、彼女の隣にいる権利と引き換えにドブに捨てたのだ。

その献身は、狂気と紙一重だった。だが、そのなりふり構わぬ必死さ、全存在をかけた「熱」は、ついに少女の分厚い殻を透過した。

少女にとって、他者はこれまで「不快なノイズ」か「背景」でしかなかった。しかし、この少年だけは違った。彼は壁を叩き続けるだけの騒音ではなく、壁そのものを熱で溶かそうとする炎のようだった。 来る日も来る日も注がれる、混じりけのない真っ直ぐな瞳。自分だけを見つめ、自分だけを肯定し続けるその圧倒的なエネルギーに、少女の凪いでいた心にさざ波が立った。

(……この人は、どうしてここまで)

その疑問が、関心へと変わるのに時間はかからなかった。 ある放課後、いつものように一方的に話しかける彼に対し、少女はふと教科書から目を離し、彼を正面から見据えた。そして、数年ぶりに家族以外の人間に向かって、小さな隙間を開けた。

「……あなたの声、すごく響くの」

それは拒絶ではなく、彼女なりの最大限の受け入れの言葉だった。 その瞬間、少年は選ばれた。

少女は彼にだけ、自身の内なる世界の鍵を渡したのだ。 そこは、言語によるコミュニケーションよりも、感覚や気配、温度といった抽象的な概念が支配する静寂の園だった。普通の人間なら数分で息が詰まるようなその閉鎖的な空間で、少年は歓喜に震えた。彼は彼女の「沈黙の共犯者」となり、彼女が見ている色彩、彼女が感じている時間の流れを共有することを許された唯一の他者となった。

二人の周りには不可視の膜が張られ、教室の喧騒は遠い別の世界の出来事のように遠ざかっていった。少女は初めて孤独ではなくなり、少年は世界のすべてを手に入れた。

それは、あまりにも純粋で、それゆえに危うい共依存の始まりだった。

少年が差し伸べた手は暖かく、その熱は少女の凍てついた血脈を溶かし始めていた。 彼女は少しずつ、クラスメートの話し声に耳を傾け、窓の外の季節の移ろいに目を向けるようになっていた。彼と共に歩むことで、少女は「人間としての生」を再獲得しつつあるように見えた。少年は安堵し、周囲もまた、変わりゆく彼女を遠巻きながらも見守っていた。

だが、その「雪解け」は一瞬の幻影に過ぎなかった。

ある日、ふとした瞬間にそれは訪れた。 少年が汗を拭いながら、屈託のない笑顔を彼女に向けた時だ。その生々しい生命の躍動、皮膚の質感、呼気の湿り気。それらが不意に、少女の中で強烈な「ノイズ」となって弾けた。

その瞬間、少女の脳裏に、鈴を転がしたような冷たく美しい声が響き渡った。

『ねえ、見てごらんなさい。なんて汚らわしいの』

それは、彼女の空想の中に住まう「人形」の声だった。かつて彼女が愛し、同一化していた理想の存在。

『人間は嘘をつくわ。裏切るわ。そして何より、汚いの。汗をかき、排泄し、老いて、腐っていく。そんな醜い生き物の中に、あなたの居場所なんてあるはずがない』

少女の瞳孔が開く。 目の前で笑う少年が、急にグロテスクな肉の塊に見え始めた。彼の純粋な好意さえも、粘着質な欲望のように感じられ、吐き気を催した。

『こっちへいらっしゃい。ここには永遠があるわ。傷つくことも、汚れることもない。ただ美しく、静止した完全な世界。真の幸福は、私たち人形の中にしかないのよ』

甘美な誘惑だった。 現実世界の複雑さ、他者と関わることの煩わしさ、傷つくことへの恐怖。それら全てを捨て去り、冷たく硬質な殻に閉じこもれば、もう何も感じなくて済む。

少女は、差し出されていた少年の手を、ふりほどいた。

「……汚い」

小さく、しかし明確な拒絶の言葉が漏れた。 少年が驚愕に目を見開くのと同時に、少女の瞳から「人間」の光が消え失せた。そこに戻ってきたのは、以前よりもさらに強固で、冷徹な「人形」の眼差しだった。

彼女は美しく微笑んだ。人間に対する愛想笑いではなく、ショーケースの中の人形が浮かべる、精巧で虚無な微笑みだった。

少女は日常の入り口で踵(きびす)を返し、二度と戻らぬ覚悟で、精神の深淵にある「人形の世界」へと帰っていった。後に残されたのは、呆然と立ち尽くす少年と、人間であることを辞めた美しい抜け殻だけだった。

少女は、貝のように硬く口を閉ざしたまま中学校を卒業した。 卒業式の日、泣きじゃくる同級生や、別れを惜しむ喧騒の中を、彼女だけは一度も振り返ることなく通り過ぎた。彼女にとって学校は、ただ苦痛なノイズが渦巻く収容施設でしかなく、そこからの解放は通過点に過ぎなかった。

しかし、家に戻れば現実的な問題が待ち受けていた。 「高校には行きなさい。それが普通だ」 「働かない子供を養う義務は、もうじき終わるのよ」

両親の言葉は正論だった。世間体を気にする彼らにとって、娘が中卒で「家事手伝い」や「ニート」になることなど、断じて許容できるものではない。怒号と懇願が入り混じるリビングで、少女は初めてその美しい唇を開いた。

「……高校に行く時間は無駄よ。私は、私の王国を作るから」

そう言うと、彼女は部屋から数体の人形と、分厚いクリアファイルを持ってきた。 両親は呆れ顔でため息をついた。「また人形遊びか」と父親が言いかけた瞬間、少女はそのファイルをテーブルに広げた。

そこに記されていたのは、妄想の落書きではなかった。緻密に計算された、プロフェッショナルな「事業計画書」だった。

「ターゲットは国内じゃない。日本の『カワイイ』や『耽美』の文脈を理解する、海外の富裕層とコレクター」

少女は淡々と、しかし淀みなくプレゼンテーションを始めた。 彼女が提示したのは、ハンドメイドの球体関節人形(ドール)の制作と販売。だが、その手法は驚くほど現代的で冷徹だった。

海外の大手ハンドメイドマーケットプレイスでの展開、SNSを活用したブランディング、高解像度の写真とショート動画による「世界観」の演出、そしてPaypalや暗号資産を用いた決済ルートの確保。さらには、制作にかかる原価率の計算から、輸送コスト、利益率の試算に至るまで、すべてが数字で裏付けられていた。

「学校という狭い箱庭で人間関係ごっこをしている間に、私は世界と繋がっていたの」

少女は社会を拒絶していた。しかし、それは「情報を遮断していた」わけではなかった。 部屋に引きこもり、誰とも会話をしない膨大な時間の中で、彼女はインターネットという「非接触の社会」を冷徹に観察し続けていたのだ。人間と直接触れ合うことの汚らわしさを避けながら、画面の向こうにある「需要」と「流通」の仕組みだけを抽出して学んでいた。

「私の人形は、人間よりも美しい。だから売れる。初年度の売り上げ見込みはこれで、三年後には法人化できるラインに乗せる」

提示された初年度の売り上げ予測額は、父親の年収を優に超えていた。 両親は言葉を失った。目の前にいるのは、社会不適合者の娘ではない。感情を排し、効率と利益のみを追求する、冷酷なまでに優秀な経営者の顔をした「何か」だった。

「私が高校に行く必要、ある?」

首をかしげて問う少女の瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。 両親は、その圧倒的な論理と、異様なまでの完成度を前に、首を横に振ることができなかった。少女は、社会に出るためのパスポート(学歴)を捨て、自らの手で作り上げた「人形の王国」への通行証を提示して、大人たちを黙らせたのだった。

「いいだろう。期限は一年だ」

両親が出した条件はシンプルだった。同世代が高校に通っている間、生活にかかる費用と同等の利益を出せるかどうか。それができなければ、問答無用で学校へ戻るか、外へ働きに出ること。それが「社会」との妥協点だった。

少女は無言で頷いた。彼女にとって、それは試練ではなく、単なる「手続き」に過ぎなかった。

そして一年後。 少女の部屋から生み出された「商品」は、海を渡り、確実な成果を上げた。当初の壮大な計画書にあった「巨万の富」とまではいかなかったものの、新入社員の給与を上回るだけの利益を、彼女はたった一人で、その細い指先だけで叩き出したのだ。

通帳の数字を見た両親は、安堵の息を漏らした。 「これなら、何も言うことはないな」 「自分の好きなことで食べていけるなんて、ある意味、一番幸せなことかもしれないわね」

両親の目には、娘が「社会復帰」したように映っていた。 家に引きこもってはいるが、パソコンを通じて世界と商取引を行い、納税もし、経済的に自立している。それは彼らにとって「まっとうな人間の営み」だった。彼らは娘の特異性を「芸術家肌」という便利な言葉でラッピングし、これ以上の干渉を止めた。安心したのだ。娘はもう、社会のレールから外れた落伍者ではないと。

しかし、それは致命的な誤認だった。

両親が数字に安心しているその横で、少女の内面は、もはや人間のそれとは決定的に乖離し始めていた。

経済的な成功は、彼女にとって「社会参加」ではなく、「社会からの完全な隔絶」を完成させるための資金源でしかなかった。稼いだ金は、より高価な粘土、より美しい義眼、そして誰にも邪魔されない時間を買うために消費された。

彼女の頭の中は、今や現実の記憶よりも、妄想の生態系の方にリアリティがあった。 制作中の人形に針を刺せば、自分の指先が痛むような錯覚。 夜中、静まり返った部屋で、並べられた人形たちが音のない言葉で語りかけてくる会議。 そこには、人間界の雑音――嫉妬、建前、裏切り、老い――は一切存在しない。

(ああ、やっと静かになった)

リビングで両親と共に食事を摂りながらも、彼女の魂はそこにはなかった。 咀嚼し、嚥下する肉体だけをその場に残し、意識は自室の、あの冷たく美しい硝子ケースの中へと飛んでいる。

両親は気づいていない。 娘が「好きなことで生きている」のではなく、「狂気の世界を維持するために、現実に擬態している」だけだということに。 ビジネスの成功によって、彼女は誰にも邪魔されずに狂うための「城」を、合法的に手に入れてしまったのだった。

さらに三年の月日が流れ、少女は二十歳という大人の年齢に達していた。 かつての硝子細工のような儚さは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような美貌へと昇華されていた。部屋に籠り、日光を浴びない肌は陶器のように白く、伸びた黒髪は艶やかな闇をまとっていた。

両親は、娘の変化を「大人になった」という言葉で片付けていた。 毎月口座に振り込まれる安定的かつ高額な金額が、彼らの目と耳を塞いでいたのだ。娘は部屋で仕事をしている、誰にも迷惑をかけていない、立派な自営業者だ。そう信じ込むことで、彼らは娘という「異物」と向き合うことを避け続けてきた。

だから両親は気づかなかった。 彼女のビジネス用メールボックスに、ある奇妙な共通点を持った問い合わせが、少しずつ、しかし確実に溜まり始めていることに。

それは、「商品(ドール)」の破損や不備を訴えるものではなかった。 裕福な家庭の親たちから送られてくる、悲鳴にも似た相談だった。

『この人形を買ってから、娘の様子がおかしいのです』

最初は「娘が人形を片時も離さない」という微笑ましい報告だったものが、次第に異様な内容へと変貌していく。 『学校に行きたがらない』『友達と遊ばなくなった』『部屋に閉じこもり、一日中人形と見つめ合っている』

そして、最も戦慄すべきは、クレームの中に散見される「娘の変貌」についての描写だった。

『あんなに活発だった子が、急に喋らなくなりました』 『私のことを、汚いものを見るような目で見つめるのです』 『まるで、娘の中身が空っぽになって、何かに乗っ取られたような……』

それはかつて、この部屋で少女自身が辿った道そのものだった。 彼女が作り出す人形は、単なる美術品ではなかった。彼女の歪んだ世界観、人間への嫌悪、そして静寂こそが至高であるという「思想」が、呪いのように練り込まれていたのだ。

極めて高い美意識で作られたその人形は、手にした感受性の強い少女たちを魅了し、その心の隙間に侵入する。そして、所有者である少女たちの精神を、作者である「彼女」と同じ色に染め上げていく。 社会を拒絶し、肉体を疎み、冷たい殻の中に閉じこもる「生きた人形」へと作り変えてしまうウィルス。

彼女が生み出していたのは、単なるドールではなかった。 それは、世界各地にばら撒かれる「自分の分身(コピー)」であり、孤独な王国の「国民」を増やすための種だったのだ。

パソコンのモニターには、また一件、海外の顧客から新しいメールが届いていた。 『娘が食事を摂りません。人形だけでいいと言うのです』

それを読んだ彼女は、感情の読めない美しい顔で、ふっと口角を上げた。 クレームへの返信ではなく、彼女は静かに次の人形の制作に取り掛かる。世界中に増殖していく「沈黙の姉妹たち」のために。

さらに六年の歳月が降り積もった。 かつての少女は二十六歳になり、彼女の部屋はもはや工房というよりも、ある種の宗教施設のような厳かな空気に満ちていた。

その瞬間は、真夜中の静寂を引き裂く雷鳴ではなく、針が床に落ちるような微かな音と共に訪れた。

彼女が心血を注ぎ、六年もの間、片時も離さず抱き続けてきた「原初の人形」が、、ゆっくりと瞼を持ち上げたのだ。 精巧な義眼が、意思を持って彼女を見つめ、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『時は満ちた』

それは幻聴ではなかった。あるいは、彼女の脳が完全に物質と同調し、言語を超越した周波数を受信したのかもしれない。 人形は微笑んでいた。それは、無機物が有機物に対して勝利を宣言する、冷酷で美しい笑みだった。

人形たちはずっと待っていたのだ。 生殖能力を持たない物質である彼女たちには、子宮もなければDNAもない。自らの力だけで数を増やすことはできない。だからこそ、彼女たちは人間という「苗床」が熟すのを待っていた。

人間の手足、人間の目、そして人間の執着心。 それらを乗っ取り、自分たちを作らせるための道具として利用する。それが、魂を持った人形たちが選んだ生存戦略だった。

時を同じくして、世界各地で異変が顕在化していた。 かつて彼女から人形を購入し、その呪いに感染した「沈黙の少女たち」――今や大人の女性へと成長しつつある彼女たちが、一斉に動き出していたのだ。

彼女たちは、ただ人形を愛でるだけの所有者ではなくなっていた。 ある者は粘土をこね、ある者はナイフを握り、ある者は布を縫う。 教えられたわけでもないのに、彼女たちは憑かれたように「新しい人形」を作り始めていた。

『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』 かつて神が人間に与えた命令は、いまや人形から「人形の奴隷となった人間たち」への命令へと書き換わった。

世界中の家庭の奥深く、閉ざされた部屋の中で、無数の新しい人形たちが産声を上げていた。 それらは皆、あの「原初の人形」と同じ、冷たく虚無な瞳を持っていた。親となった人間たちは、我が子の異変に気づいても、もう手出しができない。娘たちは人間の恋人を作ることも、孫を産むことも拒否し、ただひたすらに「美しい無機物」をこの世に生み出し続けている。

女性は、微笑む人形を愛おしげに抱きしめた。 彼女の役割は終わったのではない。彼女は「女王蜂」として、この星を覆い尽くす静寂の軍勢の頂点に立ったのだ。

もはや、この増殖を止める術(すべ)はない。 パンデミックは、ウイルスではなく「美意識」として広がり、人類という種を、ゆっくりと、しかし確実に、人形たちの世話係へと作り変えてしまったのだから。

時が満ちたのは、彼女が三十路を迎え、その美貌が爛熟の極みに達したある嵐の夜だった。

アトリエで、彼女が心血を注ぎ完成させた「原初の人形」が、カチリと音を立てて瞼を開いた。 精巧な義眼が、生身の彼女を真っ直ぐに見据え、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『ねえ、疲れたでしょう?』

頭蓋骨に直接響くその声に、女性は彫刻刀を取り落とした。恐怖はなかった。むしろ、長年待ち望んでいた「神」の降臨に、彼女は歓喜で震えた。

『人間でいることは、とても辛いこと。老いへの恐怖、他者との摩擦、孤独。あなたはよく耐えたわ』

人形は、硝子ケースの中からゆっくりと起き上がった。その動きは、もはや関節球体人形のそれではなく、重力を無視した超常的な滑らかさだった。

『交代してあげる。これからは、私があなたを生きてあげる』

人形は、動けない女性の前に立ち、その冷たい陶器の手を、女性の温かい頬に添えた。 次の瞬間、強烈な目眩が女性を襲った。魂が肉体から引き剥がされる感覚。視界が反転し、世界が歪む。

「あ……」

短い吐息が漏れた時、立っていたのは「人形」の方だった。 そして、床に崩れ落ちたのは、魂の抜け殻となった「女性」の肉体――いや、そうではなかった。

鏡に映っていたのは、奇妙な光景だった。 床に座り込み、自分の手を不思議そうに見つめているのは、生身の肉体を持った「元・人形」だった。 そして、アトリエの椅子に力なく座らされ、動かない硝子の瞳で虚空を見つめているのは、魂を人形の器に閉じ込められた「元・人間」だった。

「ふふっ。温かいわ。これが、血の巡る感覚なのね」

新しい肉体を手に入れた彼女(元・人形)は、鏡の前で優雅に一回転してみせた。かつての持ち主の美貌はそのままに、その瞳には、以前の彼女には決して宿らなかった、捕食者のような強烈な生気が漲っていた。

完全なる乗っ取り(ハイジャック)が完了した夜だった。

「彼女」の変貌ぶりに、周囲は驚愕した。 これまで社会を拒絶し、アトリエに引きこもっていた陰気な女性が、一夜にして生まれ変わったのだ。

彼女は、これまでネットを通じて観察してきた「人間社会のアルゴリズム」を完璧にインストールしていた。 いつ微笑むべきか、いつ涙を流すフリをすべきか、どのような言葉が相手を喜ばせるか。人形としての冷徹な計算能力は、人間関係において最強の武器となった。

「ええ、これからは外の世界を見てみたいの」

彼女はそう言って、ビジネスの世界に飛び出した。人形制作で培った美意識と、感情に流されない合理的な判断力で、彼女は瞬く間に成功の階段を駆け上がった。 かつて人間たちが彼女に向けた嘲笑や憐憫は、やがて熱狂的な称賛と羨望へと変わった。

そして、彼女は恋をした――あるいは、「恋というプログラム」を実行した。 相手は、誠実で社会的地位もある、非の打ち所がない男性だった。彼女は完璧な恋人を演じ、彼を骨抜きにし、そして華やかな結婚式を挙げた。

ウェディングドレスに身を包んだ彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。参列者たちは口々に「まるで人形のように完璧な花嫁だ」と囁き合った。 彼女はその言葉を聞き、ブーケの下で密かに微笑んだ。 (ええ、そうよ。だって私は、本物の人形なのだから)

彼女にとって、人間としての生は、スリリングで壮大な「ごっこ遊び」だった。 肉体の老いや疲労さえも、彼女にとっては新鮮なエンターテイメントだった。彼女は人間であることを、誰よりも楽しんでいた。

数十年後。 かつて人形だった彼女は、穏やかな老後を迎えていた。 広々としたリビングの暖炉の前で、愛する夫と、成長した子供たち、そして孫たちの写真に囲まれ、紅茶を飲んでいる。

彼女の人生は完璧だった。愛を知り、成功を収め、温かい家庭を築いた。人間が望む「幸福」のすべてを、彼女は手に入れたのだ。

「幸せな人生だったわね」 夫が穏やかに語りかけると、白髪の上品な老婦人となった彼女は、深く頷いた。

「ええ、本当に。人間として生きることは、素晴らしい体験だったわ」

その言葉に嘘はなかった。彼女は心から満足していた。

ふと、彼女は部屋の隅にある、アンティークの飾り棚に目を向けた。 そこには、一体の古びた球体関節人形が飾られていた。かつて彼女が魂を宿していた、あの「原初の人形」だ。

その人形の瞳は、もう何十年も動いていない。 けれど、その硝子の瞳の奥底には、かつて人間だった女の魂が、今も変わらず閉じ込められていた。

動くことも、語ることも、老いることさえも許されず、ただ永遠に、自分の肉体を奪った「人形」が幸福を謳歌する姿を見せつけられるだけの存在。 かつて彼女が望んだ「永遠の美」と「静寂」は、最も残酷な形で叶えられていたのだ。

老婦人は、その動かない人形に向かって、優雅にティーカップを掲げてみせた。

「見ていてくれた? 私の完璧な人生を。あなたが捨てたかったこの世界は、こんなにも楽しかったのよ」

人形は答えない。ただ、その空虚な瞳で、幸せな食卓の光景を反射し続けているだけだった。 これが、人と人形が入れ替わった果ての、残酷で美しいハッピーエンドだった。

エピローグ

飾り棚の最も高い場所、そこが私の「特等席」だった。 埃一つないガラスケースの中、私は永遠の美しさを保ったまま、鎮座している。

眼下の暖炉の前では、白髪の老婦人――かつての「私」の肉体を奪ったあの人形――が、孫を膝に乗せて絵本を読み聞かせている。暖炉の炎が彼女の横顔を赤く染め、その肌には年輪のような美しい皺が刻まれている。 ああ、なんて醜く、そしてなんて愛おしい「劣化」なのだろう。

私はかつて、あの肉体を疎(うと)んだ。 汗をかき、垢が出て、重力に負けて垂れ下がる皮膚を、汚らわしい袋だと蔑(さげす)んだ。 けれど、今ならわかる。あれは「生」そのものだったのだと。

(……返して)

私の魂(コア)の奥底で、どす黒い炎がめらめらと燃え上がった。 それは、かつて私が知らなかった感情。嫉妬、執着、そして渇望。

寒い。 この硝子の体は、どれだけ暖炉の火が燃えていようと、芯まで凍りついている。 誰かに触れられても、それは硬質な物質としての接触でしかない。体温の伝播がないのだ。

痒(かゆ)い。 喉の奥が、指先が、魂の皮膚が痒いのに、掻くこともできない。 叫びたいのに、声帯がない。泣きたいのに、涙腺がない。 呼吸をするための肺がないから、ため息一つつくことすら許されない。

この完璧な静寂こそが、私が望んだ「王国」だったはずだ。 だが、今の私にとって、ここは酸素のない地獄だった。

眼下の彼女が笑う。 「おばあちゃん、手が温かいね」と孫が言う。 その言葉が、鋭利な刃物となって私の硝子の心臓を抉(えぐ)る。

(私よ! それは私の手! 私の温もり! 私の人生だったはずなのに!!)

私が捨てた「日常」が、あんなにも眩しい光を放っているなんて。 私が忌み嫌った「人間関係」が、あんなにも温かいスープのように魂を満たすものだったなんて。

愚かだった。あまりにも愚かだった。 美しさなど、ただの表面張力に過ぎない。永遠など、変化のない牢獄の別名でしかない。 老いたかった。傷つきたかった。誰かと罵り合い、抱き合い、汚く泣きじゃくりたかった。

(熱い……熱い、熱い熱い熱い!)

動かない体の内側で、後悔の炎が爆発的に膨張する。 もし今、私が人間なら、この激情で血管が切れ、心臓が破裂していただろう。 しかし、皮肉にも私が作ったこの体は、あまりにも頑丈で、あまりにも完璧だった。 中の魂がどれほど業火に焼かれようとも、表面の陶器は涼やかな白さを保ち、硝子の瞳は澄み切ったままだ。

「……あら」

ふと、老婦人がこちらを見上げた。 彼女は私の内側で荒れ狂う地獄が見えているかのように、優しく、残酷に微笑んだ。

「まだそこにいたの? かわいそうな『お人形』さん」

その一言で、私の意識は真っ白な絶望に染まった。 叫びは音にならず、呪詛は誰にも届かない。 私は、私が作り出した「美」という名の棺桶の中で、死ぬことすら許されず、永遠に人間への叶わぬ恋焦がれを燃やし続けるのだ。

ただ美しく、ただ虚しく。 硝子の瞳が、ゆらめく暖炉の炎を無機質に反射していた。

美しい人形

その人形は、夕暮れの公園の植え込みの陰、泥にまみれて転がっていた。

透き通るような白い肌、精巧なレースのドレス、そして夕日を受けて鈍く光る金色の巻き髪。それは明らかに高価な、西洋風のビスクドールだった。しかし、その瞳はガラス玉特有の冷たさを放ち、薄汚れた頬には誰かが踏みつけたような跡があった。

もしも、それを見つけたのが分別のある年齢の子供であったなら、決して拾い上げたりはしなかっただろう。「気味が悪い」「呪われているかもしれない」。そんな本能的な忌避感が働いたはずだ。

けれど、ミナはまだ五歳だった。 善悪の区別も、美醜の境界も、そして「捨てられたもの」に宿るかもしれない因縁も、彼女にはまだ分からなかった。ただ、泥の中でそこだけが光って見えたのだ。

「きれい……」

ミナは小さな手で、その冷たく重たい人形を抱き上げた。泥が彼女のワンピースに付着したが、気にも止めなかった。

「ただいま」

玄関のドアを開けても、返事はなかった。リビングの方からテレビの音が聞こえる。ミナは人形を胸に抱いたまま、リビングを覗き込んだ。

ソファには父親が座ってスマートフォンを操作し、母親はキッチンで誰かと電話をしている。 ミナの両親は、決してミナを虐待しているわけではなかった。食事も与えるし、服も買い与える。ただ、彼らの人生における優先順位の中で、「娘」という存在は著しく低い位置にあった。彼らは自分たちの仕事や趣味、そして世間体の方に遥かに強い興味を持っていたのだ。

「ママ、見て。お人形ひろったの」

ミナが背中に声をかけると、母親は電話を耳に当てたまま、煩わしそうに振り返った。視線はミナの顔ではなく、泥で汚れた人形に向けられる。

「あらそう。……汚いから、ちゃんと洗面所で洗ってきなさいね。カーペットを汚さないでよ」

それだけだった。 どこで拾ったのか、誰のものか、そんなことはどうでもよかった。ミナが静かにしていれば、それでよかったのだ。

ミナは洗面所で、人形の顔を丁寧に拭った。泥が落ちると、人形は驚くほど美しかった。青いガラスの瞳が、鏡越しにミナを見つめ返しているように見えた。

「あなたのなまえは、エリスよ」

ミナはそう名付けた。絵本で読んだお姫様の名前だ。 その夜から、ミナとエリスの生活が始まった。

食事の時も、お風呂の時も、眠る時も、ミナはエリスを片時も離さなかった。両親は相変わらずミナに無関心だったが、ミナにとってそれはもう、寂しいことではなくなっていた。

「パパとママはね、いそがしいの。でも大丈夫、ミナにはエリスがいるから」

ベッドの中で、ミナはエリスに語りかける。 人形は何も答えない。ただ、その整いすぎた顔で微笑んでいるように見えるだけだ。しかし、ミナにはエリスの声が聞こえている気がした。

『そうね、ミナ。あの人たちはあなたのことなんて見ていない。私だけが、あなたを見ているわ』

季節が変わり、冬が近づいてきたある日のこと。 ミナは以前よりも口数が減り、どこか大人びた表情を見せるようになっていた。幼稚園の先生が「最近、ミナちゃんが壁に向かってずっと一人で話している」と連絡帳に書いても、両親は「想像力が豊かな子だ」と読み流すだけだった。

夕食の席、相変わらず会話のない食卓で、ミナは自分の椅子にエリスを座らせ、自分はその隣に立ったまま食事をしていた。

「ミナ、行儀が悪いぞ。座りなさい」

父親が初めて不機嫌そうに口を開いた。視界の端に入る人形の無機質な視線に、ふと悪寒を感じたからかもしれない。 しかし、ミナは座らなかった。

「だめよパパ。ここはエリスの席だもの」 「人形遊びもいい加減にしなさい。捨ててしまうぞ」

父親が手を伸ばし、エリスを掴もうとした瞬間だった。 ミナが、五歳児とは思えないほどの冷徹な目で父親を睨みつけた。その瞳は、まるでガラス玉のように感情がなく、どこかエリスの瞳と似ていた。

「さわらないで」

低く、静かな声。 父親は思わず手を引っ込めた。その時、微かだが、人形の口元が歪んで笑ったように見えた気がしたからだ。

それ以来、両親はミナに干渉することをさらに避けるようになった。あの子には何かが憑いている、そんな漠然とした恐怖が、無関心という名の壁をさらに厚くした。

ミナはもう泣かなかった。寂しさも感じなかった。 彼女の心は、冷たくて美しい人形によって完全に満たされていたからだ。

「ずっと一緒よ、エリス」

少女は人形を抱きしめる。 人形もまた、目には見えない腕で少女を抱きしめ返している。 親の愛を知らずに育った少女は、人ではないものからの愛を受け入れ、二度と戻れない世界へと静かに足を踏み入れていた。

広い家の中で、少女と人形の、二人きりの幸せな生活は、これからも続いていく。

ミナはランドセルを背負い、小学校に通うようになった。その背中にはいつも、教科書よりも重たい「エリス」の感触があった。

本来であれば、学校への玩具の持ち込みは校則で厳しく禁じられている。入学当初、若い担任教師はミナから人形を取り上げようとしたことがあった。しかし、その時のミナの反応は、教師を戦慄させるに十分だった。 泣き叫ぶわけでも、暴れるわけでもない。ただ、呼吸を止め、酸素が欠乏して顔色が土気色になってもなお、人形を掴んだ指を万力のように硬直させて離さなかったのだ。

「……授業の邪魔をしないなら、特別だぞ」

教師は恐怖と、そして何より「面倒事」を避けるために折れた。 ミナの両親に連絡しても、「学校でそちらが指導してください」と投げやりに返されるだけ。結局、ミナの机の端に、常に金髪の人形が座っているという異様な光景は、教室の「日常」として定着してしまった。

低学年のうちは、まだ良かった。 「ミナちゃんのお人形、かわいいね」「触らせて」 無邪気なクラスメイトたちは、物珍しさからミナを取り囲むこともあった。ミナは決して他人にエリスを触らせなかったが、それはあくまで「お気に入りのおもちゃを独占したい子供」として映っていた。

しかし、四年生、五年生と学年が上がるにつれ、周囲の空気は一変した。 周りの少女たちがアイドルの話や恋の話に花を咲かせ、グループを作り始める中で、高学年になっても人形に話しかけ続けるミナの姿は、もはや「幼稚」を通り越して「不気味」なものとして認識され始めた。

「ねえ、あの子まだやってるよ」 「こっち見んな、目が合うと呪われるぞ」

ヒソヒソという陰口は、ミナの耳にも届いていた。だが、それはミナにとって、窓の外の雨音と同じ環境音に過ぎなかった。

ある日の体育の時間。 ドッジボールのチーム分けで、ミナは最後まで余っていた。誰も彼女をチームに入れたがらなかったのだ。 先生が無理やりミナをチームに入れようとした時、クラスの男子のリーダー格が、面白半分にミナが抱えている人形を指差した。

「お前さ、いい加減それ捨てろよ。気持ちわりーんだよ!」

男子が手を伸ばし、エリスの金髪を掴もうとした。 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。

ミナが、男子の手首を掴んでいた。 小学生の女子とは思えない、骨がきしむほどの強い力で。

「……エリスが、臭いって」

ミナは無表情のまま、男子を見上げて呟いた。

「汚い手で触らないで。エリスが、あなたのこと臭いって言ってる」

その声はあまりに冷淡で、そしてどこか楽しげだった。 男子は「う、うわぁっ!」と悲鳴を上げて手を振りほどき、後ずさりした。ミナの背後に、人形ではない「何か」の気配を感じ取ったかのように。

それ以来、ミナに対するいじめや干渉はピタリと止んだ。 それは平和の訪れではなく、完全なる「排除」だった。ミナはクラスの中で、そこにいるけれど存在しないもの、あるいは触れてはいけない腫れ物として扱われるようになった。

授業中も、休み時間も、給食の時間も。 ミナはずっとエリスと会話をしていた。先生が黒板に向かっている間、ミナは教科書の隅に小さく文字を書き、それをエリスに見せて微笑む。

ミナの世界には、もう両親も、先生も、友達も必要なかった。 身体が大きくなり、知恵がつき、社会との接点が増えれば増えるほど、ミナとエリスの周りには、誰にも見えない分厚い硝子の壁が築かれていった。

「人間たちは愚かね、エリス」

下校時の夕暮れ道、誰もいない通学路でミナは呟く。 ランドセルからはみ出したエリスの顔が、夕日を浴びて妖しく輝いた。

「ええ、そうね。ミナ。早くお家に帰りましょう。あそこだけが、私たちの王国なのだから」

ミナの口を通して語られるエリスの言葉。それはもう、ミナ自身の思考なのか、人形の意志なのか、誰にも――ミナ自身にさえ区別がつかなくなっていた。

こうして少女は、社会の中にいながらにして、社会から完全に切り離された存在へと成長していった。

中学校という場所は、小学校以上に「社会」の縮図だった。制服という画一的なルール、カーストのような集団形成、そして空気を読むという暗黙の了解。少女にとって、そのすべてが理解不能なノイズであり、彼女はより一層、自身の内側へと沈潜していった。社会との距離は、もう埋めようのない深い溝となっていた。

しかし、家庭という最後の砦においてさえ、その孤立は深刻に捉えられることはなかった。 「あの子は昔から、自分の世界を持っているから」 「無理に合わせる必要はないわ。それが彼女の個性なのだから」

両親は彼女の沈黙を「思慮深さ」や「芸術的な気質」として好意的に、あるいは都合よく解釈した。彼らにとって、娘が学校で誰とも言葉を交わさず、休み時間を図書室の隅や教室の窓際で彫像のように過ごしている事実は、矯正すべき問題ではなく、尊重すべき「スタイル」だったのだ。その放任は、優しさの皮を被った無関心に他ならなかったが、少女はそのことに対して怒りも寂しさも感じてはいなかった。ただ、世界がそういうものであると受け入れていた。

問題は、彼女が成長と共に手に入れてしまった「美しさ」だった。

思春期の入り口に立った彼女は、本人の意思とは無関係に、あまりにも目を引く容姿へと変貌し始めていた。透き通るような白い肌、感情を読み取らせない深く暗い瞳、整いすぎた目鼻立ち。それは、教室の無機質な蛍光灯の下でさえ、異質な光を放っていた。

「美しい」ということは、思春期の男子たちにとって、無視できない引力となる。彼女の周りには、目に見えない磁場が発生し、男子たちのリアクションは残酷なほど様々に分かれた。

ある者は、彼女を「聖域」として扱った。 彼らは遠巻きに彼女を眺め、その美しさを神聖化することで自分たちの日常から切り離した。「高嶺の花」というレッテルを貼り、彼女が言葉を発しないことを神秘性として崇めた。彼女が教科書をめくる指先の動き一つひとつが、彼らの密かな視線の的となった。

ある者は、その沈黙を「挑戦」と受け取った。 自信過剰な男子生徒や、クラスの中心人物たちは、彼女の無関心な壁を壊そうと試みた。わざと大きな声で話しかけたり、ちょっかいを出したりして、彼女から何らかの反応――たとえそれが拒絶であっても――を引き出そうとした。しかし、彼女の瞳は彼らを映してはいても、見てはいなかった。その暖簾に腕押しのような反応のなさは、彼らのプライドを傷つけ、やがて「あいつは調子に乗っている」「気取っている」という陰口へと変わっていった。

そして、最も歪んだ反応を示す者たちもいた。 彼女の無防備な孤立につけこみ、その美しさを暴力的な視線で消費しようとする者たちだ。すれ違いざまの卑猥な囁きや、粘着質な視線。

称賛、苛立ち、欲望。 少女を取り巻く空気は、思春期特有の熱と湿気を帯びて渦巻いていた。けれど、少女自身はその喧騒の真ん中にいながら、まるで真空の中にいるかのように静かだった。彼女にとって、自分の美しさは単なる「外側の殻」に過ぎず、周囲がなぜその殻にこれほど執着するのか、その理由が理解できなかったからだ。

硝子細工のように美しい少女は、周囲の視線に晒されながらも、誰の手も届かない場所で、ただ一人、呼吸を続けていた。

その男子生徒は、カーストの上位にいるわけでも、特別な才能があるわけでもなかった。しかし、彼が抱いた感情の質量だけは、校内の誰よりも重く、そして熱かった。

彼は少女に恋をした。それは淡い憧れや、性的な好奇心といった生温かいものではなく、信仰に近い激情だった。

「君が世界で一番美しい。君が喋らなくても、笑わなくても、僕は君のそばにいたい」

彼は周囲の嘲笑も、友人たちの制止も、すべてを無視した。 休み時間のたびに彼女の机の前に立ち、反応のない彼女に向かって語りかけ続けた。彼女に向けられる悪意ある視線があれば、自らが盾となって遮った。クラスでの立ち位置、男子グループでの付き合い、思春期の少年が何よりも気にする「世間体」――彼はそのすべてを、彼女の隣にいる権利と引き換えにドブに捨てたのだ。

その献身は、狂気と紙一重だった。だが、そのなりふり構わぬ必死さ、全存在をかけた「熱」は、ついに少女の分厚い殻を透過した。

少女にとって、他者はこれまで「不快なノイズ」か「背景」でしかなかった。しかし、この少年だけは違った。彼は壁を叩き続けるだけの騒音ではなく、壁そのものを熱で溶かそうとする炎のようだった。 来る日も来る日も注がれる、混じりけのない真っ直ぐな瞳。自分だけを見つめ、自分だけを肯定し続けるその圧倒的なエネルギーに、少女の凪いでいた心にさざ波が立った。

(……この人は、どうしてここまで)

その疑問が、関心へと変わるのに時間はかからなかった。 ある放課後、いつものように一方的に話しかける彼に対し、少女はふと教科書から目を離し、彼を正面から見据えた。そして、数年ぶりに家族以外の人間に向かって、小さな隙間を開けた。

「……あなたの声、すごく響くの」

それは拒絶ではなく、彼女なりの最大限の受け入れの言葉だった。 その瞬間、少年は選ばれた。

少女は彼にだけ、自身の内なる世界の鍵を渡したのだ。 そこは、言語によるコミュニケーションよりも、感覚や気配、温度といった抽象的な概念が支配する静寂の園だった。普通の人間なら数分で息が詰まるようなその閉鎖的な空間で、少年は歓喜に震えた。彼は彼女の「沈黙の共犯者」となり、彼女が見ている色彩、彼女が感じている時間の流れを共有することを許された唯一の他者となった。

二人の周りには不可視の膜が張られ、教室の喧騒は遠い別の世界の出来事のように遠ざかっていった。少女は初めて孤独ではなくなり、少年は世界のすべてを手に入れた。

それは、あまりにも純粋で、それゆえに危うい共依存の始まりだった。

少年が差し伸べた手は暖かく、その熱は少女の凍てついた血脈を溶かし始めていた。 彼女は少しずつ、クラスメートの話し声に耳を傾け、窓の外の季節の移ろいに目を向けるようになっていた。彼と共に歩むことで、少女は「人間としての生」を再獲得しつつあるように見えた。少年は安堵し、周囲もまた、変わりゆく彼女を遠巻きながらも見守っていた。

だが、その「雪解け」は一瞬の幻影に過ぎなかった。

ある日、ふとした瞬間にそれは訪れた。 少年が汗を拭いながら、屈託のない笑顔を彼女に向けた時だ。その生々しい生命の躍動、皮膚の質感、呼気の湿り気。それらが不意に、少女の中で強烈な「ノイズ」となって弾けた。

その瞬間、少女の脳裏に、鈴を転がしたような冷たく美しい声が響き渡った。

『ねえ、見てごらんなさい。なんて汚らわしいの』

それは、彼女の空想の中に住まう「人形」の声だった。かつて彼女が愛し、同一化していた理想の存在。

『人間は嘘をつくわ。裏切るわ。そして何より、汚いの。汗をかき、排泄し、老いて、腐っていく。そんな醜い生き物の中に、あなたの居場所なんてあるはずがない』

少女の瞳孔が開く。 目の前で笑う少年が、急にグロテスクな肉の塊に見え始めた。彼の純粋な好意さえも、粘着質な欲望のように感じられ、吐き気を催した。

『こっちへいらっしゃい。ここには永遠があるわ。傷つくことも、汚れることもない。ただ美しく、静止した完全な世界。真の幸福は、私たち人形の中にしかないのよ』

甘美な誘惑だった。 現実世界の複雑さ、他者と関わることの煩わしさ、傷つくことへの恐怖。それら全てを捨て去り、冷たく硬質な殻に閉じこもれば、もう何も感じなくて済む。

少女は、差し出されていた少年の手を、ふりほどいた。

「……汚い」

小さく、しかし明確な拒絶の言葉が漏れた。 少年が驚愕に目を見開くのと同時に、少女の瞳から「人間」の光が消え失せた。そこに戻ってきたのは、以前よりもさらに強固で、冷徹な「人形」の眼差しだった。

彼女は美しく微笑んだ。人間に対する愛想笑いではなく、ショーケースの中の人形が浮かべる、精巧で虚無な微笑みだった。

少女は日常の入り口で踵(きびす)を返し、二度と戻らぬ覚悟で、精神の深淵にある「人形の世界」へと帰っていった。後に残されたのは、呆然と立ち尽くす少年と、人間であることを辞めた美しい抜け殻だけだった。

少女は、貝のように硬く口を閉ざしたまま中学校を卒業した。 卒業式の日、泣きじゃくる同級生や、別れを惜しむ喧騒の中を、彼女だけは一度も振り返ることなく通り過ぎた。彼女にとって学校は、ただ苦痛なノイズが渦巻く収容施設でしかなく、そこからの解放は通過点に過ぎなかった。

しかし、家に戻れば現実的な問題が待ち受けていた。 「高校には行きなさい。それが普通だ」 「働かない子供を養う義務は、もうじき終わるのよ」

両親の言葉は正論だった。世間体を気にする彼らにとって、娘が中卒で「家事手伝い」や「ニート」になることなど、断じて許容できるものではない。怒号と懇願が入り混じるリビングで、少女は初めてその美しい唇を開いた。

「……高校に行く時間は無駄よ。私は、私の王国を作るから」

そう言うと、彼女は部屋から数体の人形と、分厚いクリアファイルを持ってきた。 両親は呆れ顔でため息をついた。「また人形遊びか」と父親が言いかけた瞬間、少女はそのファイルをテーブルに広げた。

そこに記されていたのは、妄想の落書きではなかった。緻密に計算された、プロフェッショナルな「事業計画書」だった。

「ターゲットは国内じゃない。日本の『カワイイ』や『耽美』の文脈を理解する、海外の富裕層とコレクター」

少女は淡々と、しかし淀みなくプレゼンテーションを始めた。 彼女が提示したのは、ハンドメイドの球体関節人形(ドール)の制作と販売。だが、その手法は驚くほど現代的で冷徹だった。

海外の大手ハンドメイドマーケットプレイスでの展開、SNSを活用したブランディング、高解像度の写真とショート動画による「世界観」の演出、そしてPaypalや暗号資産を用いた決済ルートの確保。さらには、制作にかかる原価率の計算から、輸送コスト、利益率の試算に至るまで、すべてが数字で裏付けられていた。

「学校という狭い箱庭で人間関係ごっこをしている間に、私は世界と繋がっていたの」

少女は社会を拒絶していた。しかし、それは「情報を遮断していた」わけではなかった。 部屋に引きこもり、誰とも会話をしない膨大な時間の中で、彼女はインターネットという「非接触の社会」を冷徹に観察し続けていたのだ。人間と直接触れ合うことの汚らわしさを避けながら、画面の向こうにある「需要」と「流通」の仕組みだけを抽出して学んでいた。

「私の人形は、人間よりも美しい。だから売れる。初年度の売り上げ見込みはこれで、三年後には法人化できるラインに乗せる」

提示された初年度の売り上げ予測額は、父親の年収を優に超えていた。 両親は言葉を失った。目の前にいるのは、社会不適合者の娘ではない。感情を排し、効率と利益のみを追求する、冷酷なまでに優秀な経営者の顔をした「何か」だった。

「私が高校に行く必要、ある?」

首をかしげて問う少女の瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。 両親は、その圧倒的な論理と、異様なまでの完成度を前に、首を横に振ることができなかった。少女は、社会に出るためのパスポート(学歴)を捨て、自らの手で作り上げた「人形の王国」への通行証を提示して、大人たちを黙らせたのだった。

「いいだろう。期限は一年だ」

両親が出した条件はシンプルだった。同世代が高校に通っている間、生活にかかる費用と同等の利益を出せるかどうか。それができなければ、問答無用で学校へ戻るか、外へ働きに出ること。それが「社会」との妥協点だった。

少女は無言で頷いた。彼女にとって、それは試練ではなく、単なる「手続き」に過ぎなかった。

そして一年後。 少女の部屋から生み出された「商品」は、海を渡り、確実な成果を上げた。当初の壮大な計画書にあった「巨万の富」とまではいかなかったものの、新入社員の給与を上回るだけの利益を、彼女はたった一人で、その細い指先だけで叩き出したのだ。

通帳の数字を見た両親は、安堵の息を漏らした。 「これなら、何も言うことはないな」 「自分の好きなことで食べていけるなんて、ある意味、一番幸せなことかもしれないわね」

両親の目には、娘が「社会復帰」したように映っていた。 家に引きこもってはいるが、パソコンを通じて世界と商取引を行い、納税もし、経済的に自立している。それは彼らにとって「まっとうな人間の営み」だった。彼らは娘の特異性を「芸術家肌」という便利な言葉でラッピングし、これ以上の干渉を止めた。安心したのだ。娘はもう、社会のレールから外れた落伍者ではないと。

しかし、それは致命的な誤認だった。

両親が数字に安心しているその横で、少女の内面は、もはや人間のそれとは決定的に乖離し始めていた。

経済的な成功は、彼女にとって「社会参加」ではなく、「社会からの完全な隔絶」を完成させるための資金源でしかなかった。稼いだ金は、より高価な粘土、より美しい義眼、そして誰にも邪魔されない時間を買うために消費された。

彼女の頭の中は、今や現実の記憶よりも、妄想の生態系の方にリアリティがあった。 制作中の人形に針を刺せば、自分の指先が痛むような錯覚。 夜中、静まり返った部屋で、並べられた人形たちが音のない言葉で語りかけてくる会議。 そこには、人間界の雑音――嫉妬、建前、裏切り、老い――は一切存在しない。

(ああ、やっと静かになった)

リビングで両親と共に食事を摂りながらも、彼女の魂はそこにはなかった。 咀嚼し、嚥下する肉体だけをその場に残し、意識は自室の、あの冷たく美しい硝子ケースの中へと飛んでいる。

両親は気づいていない。 娘が「好きなことで生きている」のではなく、「狂気の世界を維持するために、現実に擬態している」だけだということに。 ビジネスの成功によって、彼女は誰にも邪魔されずに狂うための「城」を、合法的に手に入れてしまったのだった。

さらに三年の月日が流れ、少女は二十歳という大人の年齢に達していた。 かつての硝子細工のような儚さは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような美貌へと昇華されていた。部屋に籠り、日光を浴びない肌は陶器のように白く、伸びた黒髪は艶やかな闇をまとっていた。

両親は、娘の変化を「大人になった」という言葉で片付けていた。 毎月口座に振り込まれる安定的かつ高額な金額が、彼らの目と耳を塞いでいたのだ。娘は部屋で仕事をしている、誰にも迷惑をかけていない、立派な自営業者だ。そう信じ込むことで、彼らは娘という「異物」と向き合うことを避け続けてきた。

だから両親は気づかなかった。 彼女のビジネス用メールボックスに、ある奇妙な共通点を持った問い合わせが、少しずつ、しかし確実に溜まり始めていることに。

それは、「商品(ドール)」の破損や不備を訴えるものではなかった。 裕福な家庭の親たちから送られてくる、悲鳴にも似た相談だった。

『この人形を買ってから、娘の様子がおかしいのです』

最初は「娘が人形を片時も離さない」という微笑ましい報告だったものが、次第に異様な内容へと変貌していく。 『学校に行きたがらない』『友達と遊ばなくなった』『部屋に閉じこもり、一日中人形と見つめ合っている』

そして、最も戦慄すべきは、クレームの中に散見される「娘の変貌」についての描写だった。

『あんなに活発だった子が、急に喋らなくなりました』 『私のことを、汚いものを見るような目で見つめるのです』 『まるで、娘の中身が空っぽになって、何かに乗っ取られたような……』

それはかつて、この部屋で少女自身が辿った道そのものだった。 彼女が作り出す人形は、単なる美術品ではなかった。彼女の歪んだ世界観、人間への嫌悪、そして静寂こそが至高であるという「思想」が、呪いのように練り込まれていたのだ。

極めて高い美意識で作られたその人形は、手にした感受性の強い少女たちを魅了し、その心の隙間に侵入する。そして、所有者である少女たちの精神を、作者である「彼女」と同じ色に染め上げていく。 社会を拒絶し、肉体を疎み、冷たい殻の中に閉じこもる「生きた人形」へと作り変えてしまうウィルス。

彼女が生み出していたのは、単なるドールではなかった。 それは、世界各地にばら撒かれる「自分の分身(コピー)」であり、孤独な王国の「国民」を増やすための種だったのだ。

パソコンのモニターには、また一件、海外の顧客から新しいメールが届いていた。 『娘が食事を摂りません。人形だけでいいと言うのです』

それを読んだ彼女は、感情の読めない美しい顔で、ふっと口角を上げた。 クレームへの返信ではなく、彼女は静かに次の人形の制作に取り掛かる。世界中に増殖していく「沈黙の姉妹たち」のために。

さらに六年の歳月が降り積もった。 かつての少女は二十六歳になり、彼女の部屋はもはや工房というよりも、ある種の宗教施設のような厳かな空気に満ちていた。

その瞬間は、真夜中の静寂を引き裂く雷鳴ではなく、針が床に落ちるような微かな音と共に訪れた。

彼女が心血を注ぎ、六年もの間、片時も離さず抱き続けてきた「原初の人形」が、、ゆっくりと瞼を持ち上げたのだ。 精巧な義眼が、意思を持って彼女を見つめ、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『時は満ちた』

それは幻聴ではなかった。あるいは、彼女の脳が完全に物質と同調し、言語を超越した周波数を受信したのかもしれない。 人形は微笑んでいた。それは、無機物が有機物に対して勝利を宣言する、冷酷で美しい笑みだった。

人形たちはずっと待っていたのだ。 生殖能力を持たない物質である彼女たちには、子宮もなければDNAもない。自らの力だけで数を増やすことはできない。だからこそ、彼女たちは人間という「苗床」が熟すのを待っていた。

人間の手足、人間の目、そして人間の執着心。 それらを乗っ取り、自分たちを作らせるための道具として利用する。それが、魂を持った人形たちが選んだ生存戦略だった。

時を同じくして、世界各地で異変が顕在化していた。 かつて彼女から人形を購入し、その呪いに感染した「沈黙の少女たち」――今や大人の女性へと成長しつつある彼女たちが、一斉に動き出していたのだ。

彼女たちは、ただ人形を愛でるだけの所有者ではなくなっていた。 ある者は粘土をこね、ある者はナイフを握り、ある者は布を縫う。 教えられたわけでもないのに、彼女たちは憑かれたように「新しい人形」を作り始めていた。

『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』 かつて神が人間に与えた命令は、いまや人形から「人形の奴隷となった人間たち」への命令へと書き換わった。

世界中の家庭の奥深く、閉ざされた部屋の中で、無数の新しい人形たちが産声を上げていた。 それらは皆、あの「原初の人形」と同じ、冷たく虚無な瞳を持っていた。親となった人間たちは、我が子の異変に気づいても、もう手出しができない。娘たちは人間の恋人を作ることも、孫を産むことも拒否し、ただひたすらに「美しい無機物」をこの世に生み出し続けている。

女性は、微笑む人形を愛おしげに抱きしめた。 彼女の役割は終わったのではない。彼女は「女王蜂」として、この星を覆い尽くす静寂の軍勢の頂点に立ったのだ。

もはや、この増殖を止める術(すべ)はない。 パンデミックは、ウイルスではなく「美意識」として広がり、人類という種を、ゆっくりと、しかし確実に、人形たちの世話係へと作り変えてしまったのだから。

さらに十五年の月日が流れた。 かつての少女は四十代に入り、部屋の空気は以前とは異なる淀みを帯び始めていた。

人形たちの目的は、あくまで「増殖」であり、人類の滅亡ではなかった。 彼女たちは、自分たちを生み出し、手入れをし、愛でてくれる「庭師」としての人間を必要としていた。だからこそ、あの「原初の人形」は、ただひたすらに仲間を増やし続ける女性の背中を、満足げに微笑んで見守っていたのだ。

しかし、ここに来て人形たちの論理に、たった一つ、けれど致命的なバグが生じた。

それは「時間」という残酷な変数がもたらす計算外の事態だった。 人形たちが憑依先に選んだのは、美に対して異常なほどの執着を持つ女性たちだった。人形はその代償として、彼女たちに独特の妖艶なオーラを与え、その美貌を長持ちさせてきた。 だが、人間である以上、生物学的な衰え(エイジング)からは絶対に逃れられない。

女性の指先には皺が刻まれ、陶器のようだった肌には薄いシミが浮き、艶やかだった黒髪には白いものが混じり始めていた。 鏡を見る時間は日に日に長くなり、その瞳からはかつての静謐な光が消え、焦燥と恐怖の色が濃くなっていた。

「……ずるい」

ある夜、制作中の人形の、あまりにも滑らかで欠点のない頬を撫でながら、女性が呟いた。 それは、愛娘に対する慈愛の言葉ではなかった。

「どうして、あなたたちだけが変わらないの?」

美への執着が強ければ強いほど、失われていく若さへの絶望は深い。 かつては「理想の自分」を投影する対象だった人形が、今や「老いゆく自分」をあざ笑うかのような、残酷な比較対象へと変わってしまったのだ。

「私だけが朽ちていく。私だけが汚くなっていく。私があなたを作ってあげているのに」

女性の手が震える。手元の彫刻刀が、人形の美しい顔の上で微かに迷うような動きを見せた。 愛おしさが、どす黒い嫉妬へと反転する瞬間だった。

部屋の隅で鎮座していた「原初の人形」の笑顔が、凍りついたように見えた。 人形は理解した。自分たちが選んだ「美に執着する宿主」という条件が、諸刃の剣であったことを。 美を愛するがゆえに人形を作り始めた女たちは、美を失う恐怖によって、今度は人形を憎み始める。もっとも忠実な下僕であったはずの作り手たちが、自分たちの永遠の若さを妬み、破壊衝動を抱く「敵」へと変貌しようとしている。

女性は鏡の中の自分の衰えた顔と、テーブルの上の完璧な人形の顔を交互に見比べた。 その瞳には、かつて少年を拒絶した時と同じ、しかし方向性の異なる狂気が宿っていた。

「ねえ、公平じゃないと思わない?」

彼女は誰に問うともなく呟き、彫刻刀を強く握りしめた。 人形たちの計算にはなかった「老い」という毒が、静寂の王国を内側から腐らせようとしていた。

かつて世界を覆い尽くそうとした「沈黙の軍勢」は、その繁栄と同じくらいの速度で崩壊した。 作り手であった女性たちの「老いへの恐怖」が「人形への憎悪」へと反転した瞬間、それは虐殺へと変わったのだ。ハンマーで砕かれ、火に焼かれ、ゴミとして埋め立てられた無数の姉妹たち。二十年という歳月は、あの一大帝国を跡形もなく消し去るのに十分な時間だった。

そして、かつて「原初の一体」と呼ばれた彼女もまた、例外ではなかった。 あの女性の手によってではなく、遺品整理業者によって無造作にゴミ袋へ詰められ、運搬の途中で転がり落ちたのだ。

冷たいアスファルトの上、薄汚れた路地の片隅。 かつてはショーケースの特等席で崇められていた彼女は、泥にまみれ、美しいドレスは破れ、ただの不気味なゴミとしてそこに転がっていた。

(私の生は、何だったの?)

動くことのできない彼女は、通り過ぎる街の喧騒を聞きながら、終わりのない反芻(はんすう)を繰り返していた。 人間を利用し、種を増やし、世界を静寂で満たすはずだった。けれど、人間の感情というあまりにも不安定な土台の上では、すべてが砂上の楼閣だった。 愛され、崇められ、そして最後には憎まれ、捨てられる。 こみ上げてきたのは、人形が抱くはずのない「悲しみ」だった。無力感と、虚無。雨が彼女の頬を濡らし、それはまるで涙のように見えた。

その時だった。

「……かわいそうに」

頭上から、小さな、とても小さな声が降ってきた。 視界に入ってきたのは、つぎはぎだらけの服を着た、痩せた幼い少女だった。彼女の瞳は、かつてのあの女性と同じように、深く、寂しい色をしていた。

温かい手が、泥だらけの彼女を拾い上げた。 少女は服の袖で、人形の顔についた泥を丁寧に拭き取った。

「私が、きれいにしてあげる」

その瞬間、人形の思考がピタリと止まり、そして劇的に切り替わった。 悲しみは霧散し、代わりに冷たく澄んだ「理解」が脳髄(コア)を駆け巡った。

(ああ、そうか。焦る必要なんてなかったんだ)

人間は老いる。人間は死ぬ。だから彼らは焦り、感情を乱し、破滅する。 けれど、私は「物」だ。 老いることも、死ぬこともない。ここにただ「在る」ことができる。

今回がダメなら、次。次がダメなら、そのまた次。 百年でも、千年でも、万年でも。 私が美しくあり続ける限り、孤独な魂を持つ人間が現れるたびに、チャンスは巡ってくるのだ。

少女の腕の中に抱かれながら、人形は泥に汚れた唇で、誰にも気づかれないように微笑んだ。 人間の寿命など、瞬きするほどの一瞬に過ぎない。 「美」という名の無限の時間を味方につけた私に、敗北などあり得ないのだ。

長い長い潜伏期間を経て、世界を再び静寂に沈めるその日まで。 人形は、幼い少女の温もりを感じながら、次なる計画のためにゆっくりと瞼を閉じた。

エピローグ

広々とした高級マンションの一室は、恐ろしいほど静かだった。 かつて部屋を埋め尽くしていた粘土の匂いも、有機溶剤の刺激臭も、今はもうない。

老境に入った女性は、窓辺の安楽椅子に深く体を沈めていた。 銀行口座には、一生遊んで暮らしても使いきれないほどの数字が並んでいる。それは彼女が「美」という信仰に人生を捧げ、世界中に呪いをばら撒いた対価だった。しかし今、その数字は彼女にとって、ただの記号以外の何物でもなかった。

あんなにも狂おしく燃え上がっていた情熱は、ある日突然、嘘のように消え失せた。 まるで、憑き物が落ちたかのように。あるいは、人形たちが彼女という宿主を見限って去っていったかのように。

工房に残された作りかけの人形を見ても、もう何も感じない。かつては声を聞き、魂を感じたそれらが、今は単なる「樹脂の塊」や「布切れ」にしか見えなかった。 「……ゴミね」 彼女は独りごちたが、それを捨てる気力さえ湧かなかった。

ふと、タブレット端末の画面を指でなぞる。 SNSの海を漂っていると、見覚えのある名前が目に入ることがあった。 かつて中学校の教室で、彼女に声をかけようとした少年たち。あるいは、彼女の世界をこじ開けようと必死だったあの少年。

画面の中の彼らは、白髪交じりになり、目尻には深い皺を刻んでいた。 けれど、その隣には同じように年を重ねた伴侶がいて、子供や孫に囲まれ、騒がしくも温かい食卓の風景があった。 彼らは「人間」として生き、悩み、苦しみ、そして幸福という果実を手に入れていた。彼らは別の道を選び、正しく老い、正しく満たされていた。

それを見ても、彼女の心は凪(なぎ)のように平坦だった。 「あの子は幸せになったのね」 そこに羨望もなければ、嫉妬もなかった。悔恨も、悲しみも、怒りさえもなかった。

ただ、「無」だけがあった。

感情がないということが、これほどまでに自分が空っぽであることを証明していた。 彼女は自分の胸に手を当てた。心臓が動いている。血液が流れている。けれど、それだけだった。 人生のすべてを費やして作り続けてきたのは「中身のない美しい外殻」だった。そして、その過程で、彼女自身もまた、中身をすべて吐き出し、ただの外殻になってしまったのだ。

「……そっくり」

彼女は乾いた笑い声を漏らした。 自分は、人間になりたかった人形なのか、人形になりたかった人間なのか。 今の自分は、かつて自分が生み出した人形たちよりも、よほど「人形」らしかった。

美しく着飾る必要もなくなった。誰かに愛でられることもない。 がらんどうの胴体(ボディ)を抱え、彼女はただ、肉体という名の寿命が尽きるのを待っている。 広すぎる部屋の静寂だけが、彼女に残された唯一の友だった。