願いの鏡

第一章:T県の午後と拾い物

関東平野の北部に位置するT県。国道沿いにはチェーン店が立ち並び、見渡す限りの平坦な景色が広がるこの地方都市に、国内有数の中堅工業製品メーカーの工場がある。

23歳の美咲は、そこの事務員として働いていた。

地元の商業高校を卒業して7年目。彼女の業務は、コピー取りや備品の補充、簡単なデータ入力といった、入社したての頃と変わらない雑用ばかりだ。キャリアアップとは無縁の生活だが、美咲に不満はなかった。

「難しいこと考えなくていいし、お給料もそこそこ貰えるしね」

彼女が入社できたのは、会社が地元採用枠を設けていたことと、彼女の持ち前の愛嬌が人事担当や地元の役人受けが良かったからに過ぎない。美咲自身、自分の頭が決して良くないことは自覚していたが、それを補って余りある「中の上」の容姿と愛想の良さが、彼女の最大の武器だった。

私生活もまた、平穏そのものだった。適度に男性から食事に誘われ、恋人がいない期間もそう長くはない。しかし、そろそろ結婚を意識し始めても、「この人だ」という決定的な相手には巡り合えずにいた。

ある秋の夕暮れ、美咲は部屋の模様替えを思い立ち、近所の巨大なリサイクルショップへ足を運んだ。

体育館ほどもある倉庫のような店内は、古着や家電、家具が雑然と積まれている。合コンのネタ作りや暇つぶしにはうってつけの場所だ。

ふと、インテリアコーナーの隅で足が止まった。

重厚な額縁に彩られた、西洋モダン風の壁掛け鏡。縁の装飾は凝っており、どこかアンティークな気品が漂っている。裏面には古びた文字で『Wunsch』と刻印されていた。メーカー名だろうか。

「へえ、なんかいい感じ」

値札を見ると『1,000円』。今の美咲でも迷わず買える金額だ。

「これなら私が映えるかも」

少し大きかったが、抱えられない重さではない。美咲は衝動的にその鏡を購入し、アパートへと持ち帰った。

第二章:魔女の真似事

帰宅後、リビングの一角に100円ショップで買った強力なピンを刺し、鏡をかけた。

少し離れて眺めてみる。殺風景な6畳間が、そこだけ切り取られたように華やいで見えた。

美咲は鏡の前に立ち、少しおどけてポーズを取った。一人暮らしが長いと、独り言が増えるのが悲しい習性だ。

「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」

童話の魔女の真似事。当然、返事など期待していなかった。

しかし、一瞬の後、鏡面がぼんやりと白く発光し、部屋に低い男のような、しかしどこか無機質な声が響いた。

『美的感覚は人それぞれであり、現在は多様な価値観が存在するため、一番を決めることは困難です。しかし、多数意見を重んじるのであれば、本年のミス・ユニバース優勝者がそれに該当すると思われます。よろしければ、その人物を投影しましょうか』

美咲は悲鳴を上げることも忘れ、数秒間、口を半開きにして呆けてしまった。

幻聴か? いや、鏡は確かに光っている。

呆然とする美咲に、鏡は淡々と追撃する。

『特に不要のようですね。必要であればいつでもお声がけください。ご主人様に尽くすのが、私の使命ですので』

さらに数秒後、ようやく我に返った美咲は、慌てて叫んだ。

「そ、そのミスなんとかの人、映して!」

鏡の表面が波打ち、一人の黒人女性が映し出された。圧倒的なプロポーションと自信に満ちた笑顔。

「ふーん……思ったより可愛くないわね」

美咲は正直な感想を漏らした。自分の好みではない。

その瞬間、恐怖よりも好奇心と所有欲が勝った。これはとんでもない掘り出し物を手に入れたのかもしれない。

夕食のパスタを茹でながら、美咲は鏡の前に座り込んだ。まるで新しいSiriやAIスピーカーを手に入れた時のように、次々と質問を投げかける。そして、最も気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、私は日本で何番目に美しい?」

心臓が高鳴る。自分は可愛い。それは分かっている。クラスでも職場でも、常に上位にいたはずだ。

鏡は即答した。

『先ほどのご質問同様、明確な順位付けは困難ですが、客観的な顔面黄金比、肌質、体型データから推測しますと、およそ300万位から400万位前後かと思われます』

「はあ!?」

美咲は声を荒げた。300万位? そんなに低いわけがない。

しかし、しばらくして冷静さを取り戻すと、彼女の頭の中で都合の良い計算が始まった。

「待って。日本の人口って1億人以上いるでしょ? ってことは……300万位だとしても、上位3%から5%には入ってるってことじゃない!」

以前、バラエティ番組で「富裕層と呼ばれるのは上位5%」という話を聞いたことがある。

「私、容姿だけで言えば富裕層クラスってこと? つまり、玉の輿に乗れる器ってことよね!」

ショックは一転、強烈な優越感へと変わった。

美咲の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。この鏡は、真実を教えてくれる最高のパートナーだ。

第三章:蜜の味

それからというもの、美咲の日課は一変した。

仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、他人の不幸を覗き見るのだ。

「ねえ、いつもブランド自慢してる由美の預金残高教えて」

『……消費者金融を含め、現在200万円の負債があります。自転車操業状態です』

「やっぱり! あのバッグもリボ払いだったんだ!」

「マウント取ってくる既婚者の沙織は?」

『夫は現在、マッチングアプリで知り合った女性とホテルにいます』

「うわ、いい気味。幸せアピールなんてするからよ」

「会社のお局、高橋さんの家での様子は?」

『家族との会話は一日平均3分未満。自室で孤独にスマートフォンを操作しています』

「セクハラ課長の家庭は?」

『娘から生理的な嫌悪感を抱かれており、洗濯物は別にされています』

蜜の味だった。

自分より幸せそうに見える人間、自分を見下してくる人間。彼らの裏側にある惨めな真実を知るだけで、美咲の自尊心は満たされた。

質問はエスカレートし、過去の知人たちにも及んだ。

高校時代の元カレは、できちゃった婚をしたものの、生活感に溢れた冴えない奥さんと狭いアパートで暮らしていた。

クラスのマドンナだったあの子は、男に騙され、今は風俗店で働いているという。

いじめられていた地味な子は引きこもりに。私に告白してきた陰キャ男は、そこそこの企業に入ったものの、いまだに童貞のまま。

「ほら、やっぱり私が一番まとも。私が一番勝ち組に近い場所にいる」

一方で、面白くない事実もあった。

クラスで一番地味だったブスが、東京の大手商社マンと同棲していたり、自分より成績の悪かった子がベンチャー企業の社長夫人になっていたり。

「なんであんな奴らが」

嫉妬で胸が焼けそうになると、鏡は決まってこう言った。

『しかし、この状況が幸福であるか否かは、ご本人にしか分からないものです』

「うるさいわね、データだけ出しなさいよ」

美咲にとって、鏡はただの道具であり、教師のような説教は不要だった。

美咲の婚活にも、鏡はフル活用された。

合コンやデートの後、相手の品定めを鏡に依頼するのだ。

「今日の商社マン、預金いくら? 車は何?」

「趣味は? マザコンじゃない?」

鏡が告げる「真実」は、常に美咲を失望させた。貯金が少ない、隠れた借金がある、実家の母親と仲が良すぎる、変な性癖がある……。

『欠点のない人間など存在しませんが』

鏡の忠告も耳に入らず、美咲は次々と男たちを切り捨てていった。

「私には、上位5%の私には、もっと相応しい完璧な男がいるはず」

そんなある日、美咲はふと思いついた。

「ねえ、あなた、未来のことは分かるの?」

『未来は常に不確定です。この質問をした瞬間にも、無数の分岐が生まれています』

「じゃあ、私の一番可能性の高い未来を教えてよ。誰と結婚して、どんな生活をしてるの?」

鏡は、初めて長い沈黙を作った。

そして、低く重い声で告げた。

『その質問に答えた場合、”死”に繋がる可能性がありますが、それでも聞きますか?』

今まで即答していた鏡が、躊躇った。

「死」という言葉の響きに、美咲は背筋が凍る思いがした。

(私が死ぬってこと? それとも……)

得体の知れない恐怖を感じ、美咲は首を振った。

「……やめておくわ」

まだ20代。未来なんて聞かなくても、きっと明るいものが待っているはずだから。

第四章:残酷な数式

それから、20年の時が流れた。

美咲は43歳になっていた。

彼女の婚活は、失敗に終わっていた。

高卒で入社した会社では、40代になっても平社員のまま。後輩たちが役職につく中、簡単な雑用とお茶汲みを続ける彼女の存在は、もはや「愛嬌のある看板娘」ではなく、「扱いにくいお局」として疎まれていた。

それでも美咲は諦めきれず、週末ごとの婚活パーティーやマッチングアプリでの出会いを繰り返していた。

だが、現実は残酷だった。

20代の頃は選び放題だったはずが、今では選ばれることさえ稀になった。たまに言い寄ってくるのは、介護が必要な親を抱えた初老の男性や、再婚相手を探す子持ちの男性ばかり。

「私には相応しくない」

美咲は自分を慰め続けた。

「だって私は、日本の上位5%の美女なんだから。安売りしちゃダメ」

しかし、そこには致命的な数字のからくりがあった。

23歳のあの日、彼女は「人口1億人」を分母に計算して喜んでいた。

だが、恋愛市場における「価値」を測るなら、分母は「全人口」ではない。

「女性」であること。さらに「同世代(婚活対象年齢)」であること。

これらをフィルタリングすると、分母は1億人から数千万人、さらには数百万人にまで激減する。

その数百万人の同世代女性の中での「300万位から400万位」。

それは上位5%の選ばれし美女ではなく、上位30%から40%――つまり、「中の上」あるいは「ごく平凡」な順位でしかなかったのだ。

若さというゲタを履いていた20代ならともかく、40代になった今の彼女に、その順位を覆す武器は何も残されていなかった。

第五章:答え合わせ

ある孤独な夜、美咲は久しぶりに鏡の覆いを取った。

ここ数年、現実を見るのが怖くて封印していたのだ。

埃をかぶった鏡に映る自分は、目尻の小じわが目立ち、口元は不満でへの字に曲がっている。

「……ねえ、みんなはどうしてる?」

自分を慰めるために、かつて見下していた人々の「今」を聞くことにした。

「ブランド自慢の由美は?」

『借金返済のために夜も働き、その経験を活かしてファイナンシャルプランナーの資格を取得。現在は独立し、年収1000万を超えるキャリアウーマンです』

「……は?」

「不倫されて離婚した沙織は?」

『離婚後、苦労の末に誠実な男性と再婚。二人の連れ子と共に、穏やかな家庭を築いています』

「会社のお局だった高橋さんは?」

『定年退職後、長年の趣味だった陶芸教室を開き、そこで知り合った友人と良好な関係を築いています』

「セクハラ課長は?」

『娘の出産を機に和解し、現在は孫煩悩な祖父として慕われています』

美咲の手が震えだした。

「じゃあ、あの人たちは? 元カレは?」

『子供たちは独立し、夫婦二人で旅行を楽しんでいます』

「風俗で働いてたあの子は?」

『店に来た変わり者の資産家に見初められ結婚。現在は海外に移住し、慈善活動を行っています』

「引きこもりだった子は?」

『オンラインでの仕事を経て社会復帰し、地元のスーパーで店長を任されています。人望も厚いようです』

誰もかれもが、20年の時を進んでいた。

泥沼でもがいたり、失敗したり、傷ついたりしながらも、彼らは「変化」し、「積み重ね」ていた。

止まっていたのは、高みの見物を決め込み、他人を見下していた自分だけだった。

最終章:崩壊

絶望の果てに、美咲は震える声で問いかけた。

20年前に封印した、あの質問を。

「……私の未来は、どうなるの」

鏡は静かに、しかし冷徹に答えた。

『あなたは、他人と自分の幸せを比較し続け、自身の足元を見ることを疎かにしてきました。あなたが23歳の時に思い描いていた理想の未来は、もはや統計的に0%に等しいでしょう』

「そんな……」

『現在の行動パターンのまま推移した場合、今日の繰り返しが死ぬまで続きます。親の介護、自身の健康悪化、そして経済的困窮。誰にも看取られることのない、孤独な老後が待っています』

「やめて! 言わないで!」

『しかし、未来は不確定です。今日、今この瞬間から、他者への関心を捨て、自身の生活を改めれば……』

「うるさい、うるさい、うるさい!!」

美咲は叫び、近くにあった重い花瓶を振り上げた。

見たくない現実。聞きたくない正論。

「あんたなんかいなきゃ、私は幸せな夢を見られたのに!」

ガシャンッ!!

激しい破砕音が狭い部屋に響き渡った。

美しい西洋モダン風の鏡は粉々に砕け散り、床一面に銀色の破片を撒き散らした。

『Wunsch(願い)』と刻まれたプレートが、ひしゃげて転がる。

「はあ、はあ、はあ……」

肩で息をする美咲の耳に、もうあの声は届かない。

鏡の予言通り、未来を告げたことで、鏡はその「命」を終えたのだ。

後に残されたのは、散乱したガラス片と、それに映り込む無数に分割された、老いて歪んだ自分の顔だけ。

美咲はその場にへたり込み、喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

その泣き声は、薄い壁を隔てた隣人に「うるさいおばさんだな」と舌打ちされるだけで、誰の心にも届くことはなかった。

ラストエクスプレス

序章:始点、札幌

夜の帳が下りた札幌は、雪が微かに舞い始めていた。ネオンの光が湿ったアスファルトに反射し、未来的な円形をした「札幌・地下鉄(サブテレイン)中央駅」の巨大なドームを照らしている。

私、志摩(しま)アオイは、28歳。北海道大学で海洋地質学を研究する傍ら、今はある個人的なミッションのために、この駅のプラットフォームに立っていた。

目の前に広がるのは、単なる地下鉄ではない。それは、「弾丸地下鉄(サブテレイン・エクスプレス)」、通称「T-REX(ティーレックス)」。

20XX年に完成したこの国家プロジェクトは、宗谷岬近くの稚内から、遠く南の鹿児島・指宿まで、日本列島を縦断する巨大な地下トンネルである。全長約3,000キロメートル。そしてその移動時間を劇的に短縮しているのが、通路全体に敷き詰められた**「多段階加速型ムービング・ウォーク」**だ。

「内側(中央)から外側(壁側)へ、加速は徐々に、滑らかに速くなります。最も外側のレーンでは、時速約1,000キロメートルに到達。安全のため、レーン間の移動は指定されたスポットでのみ行ってください。」

駅のAI音声が、変わらぬ注意喚起を繰り返す。通常、北海道から鹿児島まで3時間。まさに、時間と距離の概念を破壊した奇跡のインフラだ。

アオイは、大きな旅行鞄を抱え、慣れた様子で最も内側の「ウォーミングアップ・レーン」に乗った。ゆっくりとした速度で体が押し出される。

「よし、3時間で着く。あの人に会うためなら、これしかない。」

アオイはポケットの中の、古びた手紙を握りしめた。手紙には、かすれた文字でこう書かれていた。

アオイ。私はもう、永くない。最後に、このトンネルのある秘密を、鹿児島で伝えたい。急いでくれ。

差出人は、アオイの祖父、志摩コウイチ。T-REXの建設を技術面で指揮した、天才的な土木工学者だ。

一章:加速する旅路

列車ではなく、ただの「動く歩道」で時速1,000キロメートルを体験するというのは、常識を超えた感覚だ。

アオイはまず二つ目の「リニア・レーン」(時速100キロメートル)へ移動した。体を包む透明なシールドが、風圧から守ってくれる。地下深く、地熱と地磁気が共振するトンネル内は、わずかな振動と低い唸り声に満ちている。

スマホのGPS表示は驚くべき速度で南下している。

  • 札幌 $\to$ 仙台:通過まで約30分
  • 仙台 $\to$ 東京:通過まで約45分
  • 東京 $\to$ 名古屋:通過まで約15分

アオイは、目を閉じ、最も速い「超音速レーン」に移る準備をした。そこでは、地上の景色は全く関係ない。ただの**「時間短縮」**という行為そのものと向き合うことになる。

その時、トンネル内部の特殊な照明が、不自然な赤色に点滅し始めた。そして、AI音声が緊急のアナウンスを流す。

緊急停止命令。全てのレーンで、ただちに速度を落とし、最寄りの緊急待避エリアへ移動してください。地下深部で地磁気異常を検知。繰り返します…」

アオイは反射的に、最も速度の遅いレーンへと戻り、緊急待避エリアのランプが点灯した壁側の扉を押し開けた。

二章:闇の中の囁き

待避エリアは、堅牢なコンクリートで囲まれた小さな空間だった。他にも数名の乗客が戸惑いながら集まっている。

アオイは地質学者としての知識から、すぐに違和感を覚えた。

「地磁気異常? このトンネルは、地磁気の影響を最小限に抑える特殊なシールド構造になっているはず…」

その時、アオイの祖父からの手紙を思い出した。彼は単なる工学者ではない。コウイチは、日本の地下深部に眠る**「あるエネルギー源」**の存在を研究していた。

彼はT-REXが、そのエネルギー源への「鍵」になることを知っていたのではないか?

アオイはスマホを取り出し、祖父が以前、冗談交じりに教えてくれたT-REXの緊急システムコードを入力した。すると、待避エリアの壁に隠されていた小型モニターが起動した。

モニターには、トンネルのリアルタイム地質データが表示された。

「やっぱり…!異常なデータだ。これは地磁気異常なんかじゃない。トンネルの真下、マントル近くで膨大なエネルギーが蓄積している…」

その時、待避エリアの扉が、外側から激しくノックされた。

「開けてください!私は警備局の者です。トンネルの緊急事態です!」

アオイは動かなかった。この情報が外部に漏れれば、混乱が起きる。祖父が言いたかった秘密は、この地下深部のエネルギーと関係しているに違いない。

アオイは緊急停止した動く歩道を避け、トンネルの壁に沿って設置された「点検通路」を走り始めた。南へ、鹿児島へ、祖父のいる場所へ。

三章:鹿児島、終点

約1時間半後。アオイは、どうにかトンネル内部の点検車両を乗り継ぎ、予定より大幅に遅れたが、鹿児島・指宿の地下駅にたどり着いた。

駅舎の構造は、札幌と対照的だ。未来的なドームではなく、古い石造りの重厚な建物。

アオイはすぐに駅の最深部にある、祖父の研究室へと急いだ。

志摩コウイチは、部屋の中央にある古い木製の椅子に座っていた。窓の外からは、薩摩富士・開聞岳の稜線が、朝焼けの中にぼんやりと見えている。

「…アオイ。よく来てくれた」祖父は弱々しく微笑んだ。

「おじいちゃん!あの地磁気異常は?T-REXの秘密って、何なの?」

コウイチは、テーブルの上に置かれた小さな、古ぼけた地図を指差した。

「アオイ。このT-REXは、ただの移動手段ではない。これは、日本列島の地下深くに眠る、巨大な**『地熱エネルギー網』**を起動させるための…導管なのだ。」

コウイチは続けた。「トンネルの掘削は、私が計画したものよりも深く進んだ。その結果、マントルの熱が、トンネル全体を**『超伝導体』のように機能させている。つまり、T-REXの『動く歩道』は、実は日本列島全体を循環させる巨大なエネルギー発電機**なのだ。」

アオイは息をのんだ。北海道から鹿児島まで3時間という短縮技術は、この巨大なエネルギーを隠すための、そして、利用するためのカモフラージュだったのだ。

「しかし、そのエネルギーの出力が、想定を超えて上昇している。トンネルが熱暴走すれば…日本列島全土に巨大地震を引き起こす。それが、さっきの『異常』の正体だ。」

コウイチは、アオイの手に、地図と古い起動キーを握らせた。

「あの鍵は、この指宿の地下にある、T-REXのエネルギー制御炉を停止させるためのマスターキーだ。しかし、停止させれば、日本はすべての電力を失う。…アオイ。お前は、人類の移動の自由列島の存続、どちらを選ぶ?」

朝の光が、地下の部屋に差し込み始めた。アオイは、手の中の鍵と、目の前の祖父、そして未来の日本の姿を交互に見つめた。

彼女に残された時間は、3時間という短縮された移動時間によってもたらされた、わずかな猶予だけだった。

四章:葛藤—3,000キロの愛と責任

指宿の地下研究室に、静寂が訪れた。朝焼けの光がコウイチの顔を微かに照らし、彼の衰弱を際立たせる。

アオイは震える手で、マスターキーを握りしめた。

「おじいちゃん…停止させたら、日本中の電力は…」

彼女の脳裏に、真っ先に一人の男の顔が浮かんだ。

タケシ

彼は東京の大手電力会社で、**「新エネルギー統合管理システム」**の責任者を務めている。そのシステムこそが、このT-REXが生み出す超伝導エネルギーを、日本全土の送電網に安定して流し込むための心臓部だ。

アオイとタケシは、札幌での学会で出会った。アオイが「地下の秘密」に夢中になる一方で、タケシは「未来の安定」を信じていた。

――「アオイ、君が研究しているのはロマンかもしれないが、俺たちが管理しているのは、人々の日常だ。このT-REXシステムは、エネルギーの革命なんだ。もう誰も、停電の恐怖におびえる必要はない」

タケシの言葉が蘇る。

もし今、アオイがこのキーを使えば、T-REXはただの「動く歩道」に戻るだけではない。日本列島を網の目状に覆う彼のシステムは、供給源を失い、一瞬で機能停止するだろう。病院、交通、通信…そして、タケシが全てをかけて作り上げた「日常」が崩壊する。

「おじいちゃん…タケシは、このシステムに人生を懸けている。もし電力網が崩壊したら…彼は、彼らの会社は、どうなるの?」アオイの声は掠れていた。

コウイチはゆっくりと目を開けた。「タケシ君か。あの真面目な青年なら、私がこのトンネルを掘る前に、彼の会社の幹部を説得すべきだったかもしれん…だがな、アオイ。『日常』とは、明日があるからこそ日常なのだ

コウイチは激しく咳き込んだ。「今、停止させねば、溜まりすぎたエネルギーは、プレートの歪みを限界まで押し上げる。3時間で東京に着く便利さと引き換えに、私たちは、この列島を失うのだぞ」

アオイは地図とキーをテーブルに叩きつけた。

「違う!何か別の方法があるはずよ!停止以外の方法で、エネルギーを逃がす方法が!」

彼女は研究室のモニターを睨みつけた。地質データが示すエネルギーの数値は、もはや待避命令を出した時の比ではない。グラフは垂直に上昇し、**「臨界点まで残り10分」**という赤文字が点滅していた。

「10分…」

タケシの声が、再びアオイの頭に響く。

――「アオイ。もし本当に緊急事態が起きたら、俺は現場から動けない。君は、自分の信念に従って動け。それが俺たち二人の、未来を守る唯一の方法だ」

タケシは、常に最悪の事態を想定していた。彼の会社がシステムの停止を外部から遠隔で試みても、このT-REXの中枢は地下深くにあり、物理的なキーでしか停止できないことを、彼は知っていたのかもしれない。

アオイは決断した。

「おじいちゃん…私は、タケシの日常を壊してでも、日本の明日を選ぶ。でも、完全に停止はしない。ギリギリまで、何かを探す」

アオイは研究室の隅に隠されていた、コウイチの自作の小型地磁気シールド発生装置を見つけた。

「このシールドを、制御炉に!停止させる前に、エネルギーを一時的に**『トンネル外へ』**逃がす方法を探す!」

彼女の持つ知識と、タケシへの愛と、列島への責任。その全てを賭けた最後の行動が始まった。臨界点まで、残り5分。アオイはキーを手に、制御炉のある最深部へと、駆け出した。

五章:マスターキーと、ゼロ秒の決断

地下研究室から続く、ひんやりとした金属の階段を駆け下りるアオイの足音が、静寂な地下施設に響き渡った。

「臨界点まで残り3分!」

彼女の心臓は警報の赤色点滅に合わせて激しく打ち鳴らされている。手には、日本列島の未来を握るマスターキー。目の前には、巨大な鋼鉄の扉。その奥に、T-REXの心臓、超伝導エネルギー制御炉がある。

扉には厳重なパスコードが求められたが、祖父のコウイチが残したヒント、「アオイ、君が生まれた日の緯度と経度だ」を思い出し、瞬時にコードを解除した。

重々しい扉が開き、アオイは制御炉の部屋へと入った。

部屋の中央には、巨大な球状のリアクターが鎮座していた。周囲の壁一面に張り巡らされたケーブルとコンデンサーが、地球内部からの膨大な地熱エネルギーを吸収し、それを3,000キロメートルのトンネルへと吐き出す。しかし今、そのリアクターは、赤熱した溶岩のように脈打ち、不安定な唸り声を上げている。

リアクターのメインパネルには、赤い文字で警告が表示されていた。

CRITICAL POINT: 00:01:30 緊急停止を推奨します。日本列島に構造的損傷のリスク。

「1分半…」

アオイは、最後の可能性を探るべく、祖父が残したシールド装置を起動させた。装置はかすかな光を放ったが、膨大なエネルギーの渦の前では、あまりにも非力だった。地熱エネルギーはシールドの限界を超え、部屋全体が震え始めた。

天井からパラパラとコンクリートの破片が落ちてくる。地震の前触れだ。

アオイは悟った。祖父が鍵を彼女に託したのは、他の選択肢がないことを知っていたからだ。タケシのシステムを救うことも、彼女の非力な技術でエネルギーを制御することも、許されない状況に来ていた。

彼女はタケシを想った。彼の誠実な瞳、システムの完成を喜んだあの日の笑顔、そして、いつも彼女の身を案じる温かい声。彼の努力が、一瞬で無に帰す。彼の仕事、彼の誇り、彼の築き上げた未来が。

「ごめんなさい、タケシ…」

アオイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

CRITICAL POINT: 00:00:10

彼女は迷いを振り払い、停止用スロットにマスターキーを挿し込んだ。

カチッ

リアクターの脈動が、一瞬だけ止まった。

CRITICAL POINT: 00:00:05

アオイは、キーを力いっぱい右へ回した。

ガチッ!

CRITICAL POINT: 00:00:00

次の瞬間、部屋全体を包んでいた灼熱の熱と、不安定な唸り声が、完全に消滅した

すべてが終わった。

巨大リアクターの赤熱は冷め、鈍い灰色に戻った。日本列島を貫いていたエネルギーの循環は停止し、T-REXの多段階加速型ムービング・ウォークは、その機能を完全に失った。

アオイは、その場にへたり込んだ。疲労と、途方もない喪失感に襲われた。

「…成功だよ、アオイ」

背後から、コウイチの弱々しい声が聞こえた。彼はいつの間にか、アオイのそばに立っていた。

「おじいちゃん…電力は?タケシのシステムは?」

「T-REXのエネルギーは、完全に遮断された。だが、タケシ君のシステムは優秀だ。供給停止を検知し、瞬時に旧来のバックアップ電源に切り替わったはずだ。一時の大混乱は免れないが、大規模な崩壊は起こらない」

コウイチは、アオイの頭を優しく撫でた。「君は、3時間の移動の便利さ、そして、彼の未来の仕事と引き換えに、この国そのものを救ったのだ」

アオイの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。安堵と、タケシへの申し訳なさの涙だった。

終章:新たな旅路

数日後。

T-REXトンネルは閉鎖され、地質学的調査が入っていた。日本中のニュースは「原因不明の全国的停電」とその後の大混乱、そしてT-REXという「夢のインフラ」の突然の停止を報じている。

アオイは札幌へ戻るために、鹿児島空港にいた。もう「3時間」で移動することはできない。

その時、彼女のスマホが鳴った。タケシからだった。

「…タケシ」

「アオイ、無事か。ニュースを見たよ。信じられない…あのT-REXのせいで、俺のシステムは地獄を見た。何日寝てないか分からないくらいだ」タケシの声は、疲れていたが、怒っている様子はなかった。

「ごめんなさい…」アオイは絞り出すように言った。

「…何が原因だったのかは、今は誰も知らない。でも、俺は一つだけ確信していることがあるんだ」

タケシは少し間を置いた。

「もし、あの時、もう少し対応が遅れていたら、本当に全国のインフラは破壊されていた。誰かが、ギリギリのタイミングで、この国の心臓を停止させた。そのおかげで、俺たちは最悪の事態を免れたんだ」

タケシは続けた。「俺は、またシステムを再構築する。今度は、もっと安全で、本物の未来を築く。アオイ、君が北海道から戻ったら、話したいことがある」

アオイは涙を拭った。「ええ。私も、話したいことがあるわ」

彼女はスマホを握りしめ、飛行機の搭乗口へ向かって歩き出した。北海道から鹿児島まで、3時間で移動できた時代は終わった。今、彼女とタケシの間には、飛行機でも数時間かかる、現実的な距離が横たわっている。

しかし、その距離は、アオイが守り抜いた「明日」の上にある。そして、その距離を埋めるための、新たな、ゆっくりとした、確かな旅が、今、始まろうとしていた。

エピローグ:次なる夢と、地下の深淵

数ヶ月後。冬の厳しい寒さが和らぎ、札幌にも春の兆しが見え始めた頃。

アオイは、北海道大学の研究室で、祖父コウイチの遺した膨大な地質データを整理していた。T-REXの件は、政府によって「未曾有の電力システム障害」として処理され、地下トンネルの真相は闇に葬られたままだ。

しかし、アオイの心は晴れていた。タケシとは、頻繁に連絡を取り合っている。彼はT-REX停止後、システム再建のヒーローとして奔走しており、二人の関係は、困難を乗り越えたことで、以前よりも強固なものになっていた。

研究室の小さなテレビで、夜のニュースが流れている。アオイは作業の手を止め、画面を見た。

ニュースキャスターは、輝かしい笑顔で原稿を読み上げている。

「…そして、次なる人類の偉業が、ついに実現へと近づいています。日本とアメリカ合衆国、サンフランシスコを結ぶ**『環太平洋海底トンネル』**の建設工事が、いよいよ最終段階に入ったとの報告です!」

アオイは息を飲んだ。その計画は知っていたが、完了が近づいているとは知らなかった。

「このトンネルも、日本のT-REXと同じく、超高速移動を可能とする**『多段階リニア加速システム』を採用。さらに、トンネルの運営には、安定した地熱エネルギーが必要不可欠であるとされています。しかし、一部の専門家からは、深海と地熱が複合する環境での工事、そして『未知なる地殻エネルギーの不安定性』**を指摘する声も上がっています」

画面には、太平洋の深海断面図のCGが表示される。T-REXの比ではない、途方もなく深い海底下のトンネルだ。

ニュースキャスターは、これらのリスクを「未来への挑戦」として軽くあしらい、海底トンネル開通の明るい展望を強調して話を終えた。

アオイは、テレビに向かって静かに呟いた。

「『未知なる地殻エネルギーの不安定性』…それは、T-REXで私が直面したものと、同じ深淵だわ」

彼女の祖父、コウイチは、T-REXが「導管」であると語った。もし、あの環太平洋トンネルも、同じように地球深部のエネルギーに手を出すための構造物だとしたら?

アオイは、机の引き出しから、コウイチが残した、T-REXの建設に使われた特殊な掘削技術に関する論文を取り出した。そこには、地熱の利用法だけでなく、その危険な制御法についても記されている。

「タケシの日常を、二度と危機に晒すわけにはいかない」

北海道から鹿児島までの3時間の旅路は、アオイに技術者としての知識だけでなく、危機に立ち向かう覚悟を与えた。もう、誰かの秘密に頼るのではない。

アオイは、タケシに電話をかけた。

「タケシ。私、東京に行くわ。そして、環太平洋海底トンネルの設計図を手に入れる。その『未知なる地殻エネルギー』と、徹底的に向き合う必要がある」

受話器の向こうで、タケシは少し驚いた後、力強く答えた。

「わかった。君が選んだ未来なら、俺が全力でサポートする。…だが、一つだけ約束してくれ。今度の旅は、3時間で終わらせるな。焦らず、ゆっくりと、確かなものにしてくれ」

アオイは微笑んだ。

「ええ。もう、あの弾丸地下鉄は使わないわ」

北海道の窓から差し込む、春の柔らかな光を浴びながら、アオイは未来へと続く、新たな長旅の準備を始めた。それは、太平洋を越えて、深海へと続く、科学と責任の旅だった。

裸の王様

佐々木健一(38歳)のデスクは、今日も書類の山で埋もれていた。 「佐々木さん、この資料、数字が合わないんですけど。何度言ったら分かるんですか?」 年下の上司が溜息交じりに書類を突き返す。その背後では、女子社員たちがランチの相談をしながら、健一の方を一瞥してクスクスと笑っていた。

(俺は、お前らとは違うんだ)

健一は心の中で毒づく。学生時代、偏差値は常にトップクラスだった。一流大学を出て、誰もが知る大企業のそのまた子会社に入社した。本当は親会社に行くはずだったが、面接官が俺の知性を理解しなかっただけだ。 勉強はできた。だが、悲しいことに彼は「仕事」ができなかった。マニュアルにない事態にはフリーズし、他人の感情の機微には驚くほど鈍感だった。

そんなある夜、帰宅後の缶ビール片手に眺めていたスマホ画面に、運命の広告が流れた。

『まだ会社に搾取されているのですか? 脱サラして、あなたらしい生き方を』

再生された動画では、成功した元サラリーマンが高級車を背に語っていた。「オーナーという自由」「自分だけの城」。 その甘美な響きは、健一の乾いた承認欲求に火をつけた。

「素晴らしい経歴ですね、佐々木さん! あなたのような聡明な方こそ、オーナーに向いている」

コンサルタントの言葉は、久しぶりに浴びる称賛のシャワーだった。説明会ですっかり気を良くした健一は、勧められるがままに開業を決意する。 商材は「メキシコ料理」。 学生時代、卒業旅行で数日滞在したカンクンでタコスを食べた。ただそれだけだ。料理への情熱も、メキシコ文化への造詣もない。しかし、彼にとってそれは「人とは違う特別な経験」という記号だった。

「場所は銀座にしましょう」 「銀座? 家賃が高いのでは?」 「佐々木さん、ブランドですよ。あなたのようなハイレベルな人間が店を出すなら、それに相応しい土地でなければ」

その言葉に、健一はニヤリと笑った。そうだ、俺には銀座が似合う。

店名は『エル・レイ(王様)』。 オープンから三ヶ月は、物珍しさとコンサルが手配したサクラ、そして開店景気で席は埋まった。

「いらっしゃいませ」とは言わない。「オラ」と言えと命じた。 水を持ってこいと言う客には、「当店はセルフです。本場では自分のことは自分でするのが常識です」と鼻で笑った。

「客と店は対等、50対50だ」 コンサルタントの言葉を、健一は「俺が王様だ」と解釈した。気に入らない客がいれば、聞こえよがしに舌打ちをし、味の好みを言われれば「素人は黙って食え」という態度を隠そうともしなかった。

しかし、蜜月は長くは続かない。 半年が過ぎる頃には、客足はパタリと止まった。残ったのは、銀座の作法を知らない観光客か、健一のこの独特な「高圧的な接客」を面白がる、一部の変わり者だけだった。

「雨のせいだ」「景気が悪い」「今の日本人は本物の味が分からない」 売り上げの低下を、健一はすべて外部のせいにした。自分が間違っているとは、夢にも思わなかった。

ある雨の平日、数少ない常連の一人である、皮肉屋の男がやってきた。連れがいるようだ。 「大将、今日は田舎から出てきたばかりの新人連れてきたよ。社会勉強させてやってくれ」

連れてこられたのは、サイズの合っていない吊るしのスーツを着た、若く大人しそうな男だった。キョロキョロと店内を見回す様子が、健一の神経を逆撫でした。

「……オーダーは?」 「あ、えっと、メニューがこれ、スペイン語だけで……」 「読めないの? 写真見れば分かるでしょ。今の若いのは想像力もないのか」

健一はわざとらしく溜息をついた。 若者は恐縮し、水をこぼしてしまった。 「あーあ。布巾そこにあるから。自分で拭いてね。うちはファミレスじゃないんだから」

「すみません、すみません」と頭を下げる若者を、健一は冷ややかな目で見下ろした。 「銀座で飯食うなら、最低限のマナーくらい勉強してから来なよ。これだから田舎者は」

最高の気分だった。無知な人間にマウントを取る瞬間こそ、彼が唯一「有能」になれる時間だった。

それから数日後。 店に一通の通知が届いた。メインバンクからの「融資打ち切り」の通達だった。 赤字続きの現状では厳しいことは分かっていたが、まさか打ち切られるとは。

「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」

健一は血相を変えて銀行の支店へと怒鳴り込んだ。 窓口のいつもの担当者は、健一の剣幕に青ざめ、「わ、私の一存では……審査部の担当者が判断したことでして……」と逃げ腰だ。

「じゃあその審査部の人間を出せ! 直接話をつける!」

応接室に通され、貧乏ゆすりをしながら待つ健一。 ドアが開き、一人の男が入ってきた。

「お待たせいたしました。審査部担当の……」

男が顔を上げ、健一と目が合う。 健一の動きが止まった。

サイズの合っていない吊るしのスーツ。気弱そうな表情。 そこにいたのは、数日前、店で健一が「田舎者」と罵り、雑巾がけをさせたあの若者だった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

男は静かに微笑んだが、その目は全く笑っていなかった。 手元の稟議書には、真っ赤な印鑑で【否決】と押されていた。

健一の背筋を、冷たい汗が伝い落ちていった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

審査部の若き担当者がそう言った瞬間、健一の脳内で何かが弾けた。恐怖ではない。猛烈な怒りだ。 彼はバンと机を叩き、立ち上がった。

「はっ! そういうことか。お前、私怨で審査を落としたな?」

若者は冷静に眉をひそめる。「いいえ、佐々木様。あくまで事業計画と現状のキャッシュフロー、そして将来性を鑑みての……」

「嘘をつくな! あの時、俺に恥をかかされたから、その復讐だろう! 公私混同も甚だしい! これだから三流大学出の銀行員は!」

健一は叫んだ。自分の経営手腕のなさ、接客の酷さ、数字の悪さ、それら全てを棚に上げ、「優秀な自分が、卑劣な田舎者の復讐によって足を引っ張られた」というストーリーを瞬時に構築したのだ。そう信じ込まなければ、彼の自我は崩壊してしまうからだ。

警備員に両脇を抱えられ、支店からつまみ出される最中も、彼は叫び続けていた。 「見てろよ! お前の名前、ネットに晒してやるからな!」

融資は下りず、運転資金は底をついた。 コンサルタントに電話をかけるが、「現在使われておりません」のアナウンスが流れるだけだ。

「あの詐欺師め……。俺のような才能ある人間に取り入りやがって」

従業員への給与も未払いになった。アルバイトたちが詰め寄ると、健一は逆ギレして怒鳴り散らした。 「お前らがもっと真面目に働かないからだ! 俺の指示通りに動けば、こんなことにはならなかった! 金が欲しけりゃ、売り上げを作ってから言え!」

結局、従業員たちは呆れ果て、労働基準監督署へ駆け込むこともせず、ただ静かに去っていった。「あんな可哀想な人に関わるだけ時間の無駄だ」という捨て台詞を残して。

銀座の店は、家賃滞納により強制退去となった。 看板が外される日、健一はそれを遠巻きに見ながら、缶チューハイを煽っていた。

「銀座は終わったな。俺という本物を理解できない街に、未来はない」

借金だけが残り、彼は安アパートへと転がり込んだ。

一年後。 健一は、都内某所の古いアパートの一室にいた。 定職には就いていない。「俺のスペックに見合う仕事がない」からだ。日銭は、倉庫内軽作業の日雇いバイトで稼いでいる。そこでも「効率が悪い」「リーダーの指示が論理的でない」と現場で揉め、あちこちの派遣会社を出禁になっていた。

しかし、今の彼には新しい「城」があった。 インターネットのグルメレビューサイトと、SNSだ。

ハンドルネームは『銀座の元帝王』。 プロフィールにはこうある。 『元銀座オーナーシェフ。経営コンサルタント。本物の味とサービスを知る男。辛口ですが、愛のある指導をします』

彼は夜な夜な、コンビニ弁当をつつきながら、自分が行ってもいない繁盛店のページに星一つの評価を書き込む。

『接客がなっていない。客と対等だという意識が欠如している』 『味はまあまあだが、経営者の哲学が感じられない。長くないだろう』 『かつて私が銀座で店を張っていた頃は……』

画面の中の彼は、誰よりも偉く、誰よりも正しい。 「いいね」が一つつくたびに、彼の乾いた自尊心が満たされる。

「やっぱり、俺の言うことは正しいんだ。世間が俺に追いついていないだけなんだ」

モニターの光に照らされたその顔は、薄汚れているが、恍惚とした笑みを浮かべていた。 現実の彼は、借金の督促状の山に埋もれ、明日食べる金にも困る中年男性だ。しかし、彼の頭の中では、彼は依然として「不運な天才」であり、世界は「愚かな大衆」で溢れているのだった。

彼は今日もキーボードを叩く。 反省など、するはずがない。なぜなら、彼は一度も間違ってなどいないのだから。

湯けむり殺人事件

序章:非日常の終わり
夜明け前の群馬の山奥は、濃い霧に包まれていた。旅館「山吹荘」の離れ、「岩清水」の部屋から漏れる灯りは、まるで異界に迷い込んだ船の舷窓のようだ。

4人は、この宿で最も人里離れた場所に位置するこの部屋で、昨夜、文字通り夜明けまで飲み明かした。

「いやー、やっぱたまにはこうやって集まらないとさ! 明日っつーか、もう今日だけど、朝風呂入って、美味いもん食って、また昼からやるぞー!」

46歳になった今も、その行動力と声の大きさがまるで変わらないダイは、熱燗の徳利を掲げて豪快に笑った。彼の正面で、51歳のヒロが眉間に深い皺を刻む。

「ダイさん、さすがにもう勘弁してくださいよ。私は朝5時には起きて、この宿の裏を走ってる上越線の旧線を……いや、もういいです。ダイさんは相変わらずタフですね」

ヒロの言葉に、マコはクッと笑ってグラスの焼酎を一気に呷る。41歳のマコは、世界を股にかける自由人の空気を纏っている。

「ヒロ、たまには諦めて流されろ。ダイの言う通り、ここではノーリミットだ。俺はこの非日常が最高に気に入ったね。この秘湯の熱さ、この山奥の静けさ。まるで遠征先のマイナーリーグの街みたいだ」

その様子を、49歳のエミは微笑みながら見ていた。彼女は手に持った特注のビールジョッキを揺らし、その熱狂的な空間の中心にいることに、密かな満足を覚えていた。

「もうみんなグダグダだね。でも、この歳になって、家族とか仕事とか関係なく、こんな風に集まれるのって、ほんと奇跡だと思わない? うちら、なんだかんだで10年以上だもんね」

熱い議論と、くだらない笑い話と、時に真面目な人生観のぶつけ合い。共通の「熱」を持つ4人だからこそ共有できる、濃密な時間だった。

そして、夜が明けた。

第一章:密室の朝
日の出を待たずして、ヒロは飛び起きた。山吹荘の温泉は朝5時から入れる。昨日、泥酔したダイに「朝イチで最高の湯を味わうぞ!」と誘われたことを思い出したのだ。

彼は重い頭を抱え、畳の上に敷かれた四組の布団を見渡した。

ダイ、マコ、エミ。皆、深く眠っている。

ヒロは静かに自分の浴衣を羽織り、部屋を出ようとした、その時。

「……ん?」

彼の足が止まった。

一番入り口側に寝ていたダイの布団から、右腕がだらりと床に投げ出されていた。その手のひらが、畳の上で異様に白い。

「ダイさん? ダイさーん、朝風呂ですよ」

ヒロは小声で呼びかけたが、返事はない。

彼はダイの布団の傍にしゃがみこみ、その顔を覗き込んだ。

ダイの目は、大きく見開かれていた。

口は半開きになり、その顔色には、生前の快活さの欠片もない。まるで、熱狂の最中で時間が凍り付いたような、虚ろな表情。

ヒロの脳裏に、冷たい、金属的な感触が走った。彼は思わず後ずさった。

「うそ……だろ……」

彼は震える指先で、ダイの首に触れた。体温がない。温かい夜の残り香を打ち消す、底冷えする冷たさ。

その瞬間、ヒロは絶叫した。

「おい! 起きろ! マコ! エミ!」

隣で寝ていたマコとエミが、跳ねるように起き上がる。彼らの眼は寝ぼけていたが、ヒロの異常な叫び声と、彼が指差す先の光景に、一気に覚醒した。

「なんだよ、ヒロ。うるさ……え?」

マコが最初に発した声は、すぐに喉の奥に引っ込んだ。エミは両手で口を押さえ、微かに嗚咽を漏らした。

彼らの目の前で、ダイは、横たわったまま、死んでいた。

第二章:途絶した生命線
混乱の中、三人はまず警察を呼ぼうと立ち上がった。

マコが自分のスマートフォンを取り出す。

「とにかく警察だ。110番……」

彼が画面をタップするが、通話は繋がらない。

「おかしい。圏外じゃないぞ、アンテナは立ってる。でも、通話が……」

次はエミが試みる。同じように、通話はすぐに切れてしまう。

「私もダメ。圏外マークは出てないのに。まるで、回線が意図的に遮断されてるみたい……」

ヒロは急いで部屋を飛び出し、母屋のフロントへ向かった。しかし、母屋は静まり返っており、誰もいない。

「おかしい、人がいすぎる……」

彼は公衆電話がないか探したが見つからず、唯一あった固定電話も、なぜかダイヤルしてもツー、ツーという音すらしない。回線が死んでいる。

「山吹荘の固定電話も、俺たちのスマホも、外に繋がらない……」

三人は離れに戻った。霧はさらに濃くなり、視界を覆い尽くしている。

「どういうことだよ……。まさか、誰かに邪魔されてるのか?」マコの目が鋭くなる。

ヒロは俯きながら言った。「ダイさんの死は、病気や事故に見えない……。布団の中だ。誰かが、この部屋で……」

エミが顔を上げる。その瞳には、恐怖と、明確な疑念が浮かんでいた。

「……じゃあ、犯人は、私たちの中にいるってこと?」

部屋の中に残された生存者は、三人。

10年来の友人。熱狂的な趣味を共有する仲間。

そして今、彼らの友情は、一人の死と、山奥の孤立という状況によって、脆くも崩れ去ろうとしていた。

疑心暗鬼の、密室殺人の幕が開いた。

第三章:遅れてきた朝食
三人がダイの遺体を囲んで、極度の緊張と絶望に囚われている中、襖がスッと開いた。

「お客様、朝食のお時間ですが、ご準備はよろしいでしょ――」

そこに立っていたのは、初老の女性従業員だった。彼女は白い割烹着姿で、手に湯気の立つ味噌汁とご飯の乗ったお盆を抱えている。彼女は部屋の中の異様な空気に気づき、言葉を途中で止めた。

彼女の視線が、中央に横たわるダイの布団に注がれる。

「あ、あの……どうなさいましたか?」

ヒロが慌てて状況を説明しようとする。

「すみません、女将さん。大変なことになりました。ダイさんが、死んでいます。私たちは今、警察に連絡しようとしているんですが、なぜか電話が繋がらなくて……」

従業員は、一瞬にして顔から血の気が引いた。彼女は手に持っていたお盆をそっと畳に置き、ダイの遺体に駆け寄る。

「まぁ……! こんな、こんな山奥で……。ご主人様! しっかりしてください!」

彼女はダイの冷たい手首に触れ、やがてその事実を理解すると、その場に座り込んでしまった。

「警察に、電話が……? そ、そんなはずは。ちょっと待ってください、本館の電話で私がもう一度……」

従業員は青ざめた顔で急いで部屋を飛び出していったが、数分後、さらに顔面蒼白になって戻ってきた。

「だ、駄目です! 本館の電話も全く通じません! 昨日から急に回線がおかしくなったみたいで……。携帯電話もですか?」

三人は無言で頷く。この孤立状態は、やはり事実だった。山吹荘と外界を結ぶ全ての通信手段が、なぜか断たれている。

マコは従業員に尋ねた。

「昨夜、この離れの部屋に、私たち以外に誰か出入りしましたか? 従業員の方も含めて」

従業員は震える声で答えた。「いいえ、絶対にございません。ここは秘湯が目的の、完全に隔離された離れでございます。昨夜はうちの主と二人きりで、もう寝ておりましたから……」

彼女は涙を浮かべ、「警察を呼ばなくては……」と何度も繰り返す。しかし、その術がない。

絶望が部屋を満たし、三人はダイの死体から目を離せずにいた。

第四章:三者三様のロジック
時間が過ぎ、警察が来ないことが確定すると、三人の態度は変化した。恐怖は疑念に変わり、やがて「犯人」を特定しなければならないという焦燥感に駆られていった。

ダイの死体の周りには、昨夜飲み散らかしたままの酒瓶、空になったビールジョッキ、そしてタバコの吸い殻が散乱している。

🍷 マコのロジック:海外仕込みの論理的思考

世界各国を旅し、修羅場を潜り抜けてきたマコは、冷静さを装いつつ、遺体と部屋の状況を観察し始めた。

「状況はシンプルだ。密室。生存者は俺たち三人。外からの侵入者は、宿の女将さんが否定した。つまり、ヒロか、エミか、俺の誰かだ」

彼は遺体のそばに落ちていた、ダイの愛用していたライターを手に取った。

「俺は昨夜、ここでダイと真剣な話をした。アイツはいつものように前向きで、次の計画に熱中していた。殺す動機がない。じゃあ、お前たちだ。特にヒロ。お前、いつもダイに比べて、自分のことを卑屈に言ってたろ。嫉妬か?」

🚂 ヒロのロジック:趣味から生まれたクリエイティブな視点

ネガティブな性格がゆえに、常に最悪の事態を想定して生きるヒロは、この状況を、まるで複雑な鉄道模型のジオラマを解き明かすかのように分析し始めた。

「待ってください、マコさん。私はダイさんのポジティブさが苦手でしたが、殺意なんてありません。むしろ、一番怪しいのは、場の空気を支配しようとしていたエミさんじゃないですか?」

ヒロはエミに顔を向けた。

「昨夜、ダイさんはエミさんに、『もう49歳なんだから、いつまでもオタサーの姫みたいな振る舞いはやめろ』って、冗談めかして言ってたのを聞きましたよ。あの時、エミさんの顔が一瞬凍り付いた。ダイさんのあの軽率な言葉が、エミさんのアイデンティティを深く傷つけたとしたら……それが動機になる」

👑 エミのロジック:オタクコミュニティで培った人間関係の分析

エミは涙を拭い、鋭い視線をヒロに向けた。オタクコミュニティという特殊な人間関係の中で、常に注目を集め、他者の感情を操作してきた彼女の観察眼は鋭い。

「ヒロさん、汚い。動機なんていくらでも作れるわよ。一番動機がありそうなのは、むしろヒロさんでしょ。あなたは、いつもダイさんの行動力や、家庭を持っている生活に、『どうせ私なんか』って言ってたじゃない。あの人の自由奔放さが、独身のヒロさんには憎かったんじゃない?」

彼女はダイの死体から少し離れた場所に、昨夜ヒロが使用していたらしい、使い捨ての古いフィルムカメラを見つけた。

「ヒロさん、あなた、昨日の夜中、トイレに立った後、このカメラを弄ってたわよね。もしかして、ダイさんが死んだ瞬間を、誰にも知られずに記録しようとしたの? 犯行の証拠隠滅や、アリバイ作りのための小道具なんて、趣味でクリエイティブなことやってる人の方が得意なんじゃないの?」

三人の視線が交錯する。

それぞれが、相手のパーソナリティの「闇」の部分、つまり「趣味への熱狂」や「人生への諦念」を動機として指摘し、友情は疑念の刃へと変わった。

山奥に響くのは、彼らの荒い息遣いと、静かに降る霧の音だけだった。

第五章:霧に潜むもの
三人の疑心暗鬼の推理合戦は、一進一退を続けていた。誰も決定的な証拠を出せず、会話は感情的な非難と自己防衛の泥沼に陥っていく。その時、遺体のそばで座り込んでいた従業員が、かすれた声で呟いた。

「もしかして……神様の、祟りかもしれん……」

三人は一斉に彼女に顔を向けた。

「祟り? 女将さん、何を言ってるんですか? これは殺人ですよ!」マコが苛立ちを込めて言った。

従業員は顔を上げず、震える声でこの山吹荘の、そしてこの土地の古くからの言い伝えを語り始めた。

🕯️ 山吹荘の伝説:秘湯に棲む「霧守」

「この宿はな、江戸時代から『隠し湯』として知られてきたんじゃ。しかし、この山奥は、ただの秘境ではない。『霧守(きりもり)』と呼ばれる、この山の神様が住んでいると……」

従業員によると、この秘湯は霊験あらたかだが、一方で非常に排他的な性質を持つという。

「霧守様は、この地を『非日常を楽しむための場所』としては許さない。特に、自堕落な振る舞いや、他者を侮辱するような熱狂的な欲望を嫌う。昔から、この地で夜通し宴を張り、明け方に理性を失った人間は、必ず朝を迎えられなかったと……」

彼女はダイの遺体に目をやり、さらに声を潜めた。

「そして、霧守様の怒りが深い時、この山は外界との繋がりを断つ。電話や道が、全て深い霧によって閉ざされてしまうんじゃ……。私たちは今、霧守様の怒りの中にいるのかもしれない」

ヒロは話を聞きながら、昨夜ダイが言っていた言葉を思い出した。

「ダイさん、昨夜言ってましたよね。『この旅館の温泉、ちょっと硫黄臭が強すぎる。俺の家の風呂の方がよっぽどいい』って……。もし、それが、この土地の神様を侮辱したことになって……」

「馬鹿げてるわ!」エミが強く否定した。「そんなオカルトで片付けられるわけないでしょ! これは物理的な犯行よ! ダイさんがどうやって殺されたかを見てよ!」

しかし、マコは静かに周囲を見渡した。プロのサッカーマニアとして世界中の辺境を渡り歩いた彼は、科学では説明できない現象や、地域の信仰が持つ力を知っている。

「いや、待て。これは完全にミスリードだ。だが、この状況、通信が断たれている現象を説明できるのは、この伝説だけだ……。女将さん、一つだけ聞かせてくれ。ダイの体には、外傷があるか?」

従業員は恐る恐るダイの遺体に近づき、確認する。

「いいえ……ありません。顔色はひどいですが、どこにも傷一つ……」

その言葉で、三人の間の緊張が一瞬緩む。外傷がない。それは、毒物、あるいは絞殺などの痕跡を残さない犯行であることを示唆していた。

「外傷がない……。つまり、犯行手口はまだ特定できていない」マコが呟く。

そして彼は、自分の持つライターを見つめ、再び理性的な疑念をヒロとエミに向けた。

「神の祟りだろうと、霧守の怒りだろうと、俺たちはこの部屋で、ダイが死んだ瞬間に一緒にいた。現実問題として、物理的に殺害が可能なのは、俺たち三人だけだ。この状況を、オカルトで逃げるな」

神の伝説は、彼らの現実的な恐怖を覆い隠す、濃い霧でしかなかった。三人は再び、相手の目を鋭く見つめ合った。

第六章:友情の崩壊
「神の祟り? 笑わせないでよ。ダイは、この世の誰かに殺された。そして、ここにいるのは三人だけだ!」

エミが叫ぶと、部屋の空気は再び凍り付いた。従業員は恐怖に縮こまり、部屋の隅で嗚咽を漏らしている。

マコは苛立ちを隠さず、ヒロに向かって詰め寄った。

「ヒロ、お前だ。お前が一番怪しい。ダイは家族も仕事もあるが、お前は鉄道と模型以外に何がある? 何もかもを斜に構えて見て、結局何も手に入れられない自分を、ダイのポジティブな生き方が嘲笑しているように感じたんじゃないのか?」

「何を言うんですか、マコさん!」ヒロは声を荒げた。「それはあなたも同じでしょう! 世界を飛び回ってるだぁ? ただの現実逃避じゃないですか! あなた、奥さんと子供二人いるダイさんに、『家族に縛られてる時点で、お前の人生は負けだ』って昨夜笑ってたの、私は聞いてますよ!」

ヒロはマコの持っていた焼酎の空き瓶を指差す。

「あなたこそ、ダイさんの生き方を否定することで、自分の自由気ままな、孤独な人生を正当化しようとしていた! ダイさんがあなたに、『そろそろ落ち着けよ。お前の遊びはもう虚しいぞ』って言ったら、あなたはすべてを失う! それが、殺人動機でしょう!」

「ふざけるな!」

マコは怒りに震え、テーブルを叩いた。海外の荒々しい現場で培われた彼の激情が露わになる。

「俺と違って、お前は常に『受け身』で、ダイの誘いを断れないくせに、いつも文句ばかり言っていた。殺すなら、衝動的な感情で動く俺より、ネチネチと計画的に動くお前の方が適任だ。お前は趣味で、緻密なジオラマを作る才能がある。そのクリエイティブな才能を、ダイを殺す計画に使ったんだろう!」

「私の話を聞いてよ!」

エミが二人の間に割って入った。彼女の目には、侮辱された女の怒りが宿っている。

「二人とも、私を無視しないで。ヒロさん、あなたは私を『オタサーの姫』って言ってたダイさんの言葉に私が怒った、って言ったわね? でも、あの言葉は、むしろあなたと私、二人に向けてダイさんが言ったのよ!」

彼女は指を震わせながらヒロを指差す。

「ヒロさん、あなた、ダイさんの奥さん……奥さんじゃなくて、ダイさんの奥さんの妹さんに、ずっと未練があったじゃない! だからダイさんを家族ごと憎んでいた! 昨夜もダイさんに、『妹さんを紹介してくれ』って粘着してたのを私は聞いたわ! ダイさんはそれを笑い飛ばした。あなたの、唯一のプライドを、ダイさんは踏みにじったのよ!」

ヒロは顔を真っ赤にし、言葉を失う。

「マコさんだって! マコさん、あなたが世界を飛び回っている間に、ダイさんがあなたの彼女に頻繁に連絡を取っていたことも、私は知ってるわよ! ダイさんは、『マコがいない間に、彼女の相談に乗ってやってる』って言ってたけど、あれは下心があったわ! あなたはそれに気づいていて、嫉妬で爆発したんじゃないの!?」

三人は、長年の友情の皮を剥ぎ取り、互いの人間関係における最も醜い秘密、最も深いコンプレックスを容赦なく暴き合った。

ダイの遺体は、彼らの10年の付き合いの「闇」が噴出する、この密室劇の静かな観客となっていた。

誰もが犯人に見える。誰もが動機を持っている。

「待てよ……」

マコが荒い息を整えながら、ダイの顔を覗き込んだ。

「動機は……動機は、俺たち全員にある。誰の動機が一番強いか、じゃない。誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

議論は再び、殺害方法と機会の特定へと移り始めた。この山奥で孤立した密室の朝は、誰かの過去と、誰かの未来を、同時に終わらせようとしていた。

第七章:毒と機会の深淵
「誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

マコが言い放ったその瞬間、ヒロとエミの視線が、一斉にマコに突き刺さった。

「待てよ、マコさん!」ヒロが声を尖らせる。「なぜ『飲み物』だと決めつけるんですか? 外傷がないからって、毒殺だと断定するのは早すぎる。何か知っているんじゃないですか?」

「そうだ、マコ」エミが畳みかける。「あなたこそ、今、自分の犯行手口を自白したようなものじゃない。あなたは世界中を飛び回って、色んな『薬』や『物』の知識があるはずよ。海外の裏ルートで、何か手に入れたんじゃないの?」

マコは、一瞬言葉に詰まった。

「ち、違う! 外傷がない以上、一番考えられるのは毒物だろうが! そして昨夜、酒の席だったんだから、飲み物に混ぜるのが最も簡単な方法だ! 俺は単なる推測を述べただけだ!」

「推測にしては具体的すぎる!」ヒロが叫ぶ。「あなた、昨夜、熱燗に混ぜるための『薬』を、自分の持ち込んだ焼酎の瓶の中に隠してたんじゃないですか? ダイさんが、熱燗から焼酎に切り替えた瞬間を狙って!」

「焼酎の瓶なんて、とっくの昔に空だ! 証拠もないことを言うな!」マコは否定するが、その動揺は隠せない。

「いいや、待ちなさい、マコさん」エミは静かに、しかし冷酷に言った。「あなたの推測が正しいなら、毒物を飲み物に混ぜたのなら……その毒物は、この部屋のどこかにあるはずね。あなたの持っていた『ライター』、海外の特殊な薬品をガスとして利用していたりしない?」

マコは反射的に手に持っていたライターを強く握りしめた。

「俺のライターはただのライターだ! それより、ヒロ! お前だ! お前は昨夜、トイレに立った! その時、誰にも見られずに自分のグラスに毒を入れ、その後、酔っ払ったダイのグラスとこっそり入れ替えたんじゃないか? 鉄道マニアのくせに、いつも冷たい飲み物を飲んでいたのは、ダイの熱燗と間違えないようにするためか!」

ヒロはカッと目を見開いた。

「バカなことを! 私の趣味を侮辱するな! トイレに立ったのが怪しいなら、部屋を出入りした人間全員が怪しい! エミさんだって、昨夜、何度もお菓子を取りに棚のところに行っていただろう! その『お菓子』に毒が仕込まれていて、ダイさんにだけ無理やり食べさせたんじゃないのか!? オタサーの姫は、周りの人間を自分の支配下に置くためなら、どんな手でも使う!」

「『オタサーの姫』と何度も言うな、この陰気なジオラマオタクが!」エミは遂に激昂した。

「あなたはいつも、私たちが楽しい話をしている時に、一人でスマホをいじって、『鉄道のデータ』だの『過去の路線図』だのに逃げていた! あなたは現実世界で人間と関わるのが怖い臆病者なのよ! その怯えと、ダイさんへの劣等感が、あなたを殺人鬼にしたのよ!」

「私は臆病じゃない! あなたは、永遠に若くてチヤホヤされる自分が、ダイさんの『家庭を持つ成功者』という現実に、年を取って崩されるのが怖かったんだろう! だからダイさんを排除したんだ! この古臭いサブカル女めが!」

マコは頭を抱え、荒れ狂う二人の罵倒を遮った。

「もうやめろ! みんな、ダイの飲み物に毒があるかどうかもわからないのに、ただの推測で殺人犯を決めつけようとしている! こんなことをしていても、誰も救われない!」

「じゃあ、あなたは何も知らないって言うのね!?」エミがマコを睨みつけた。

マコは、ぐっと唇を噛みしめる。確かに、外傷がないことから「毒」を連想したのは、彼自身が海外で見てきた様々な事例からの、あまりにも現実的な直感だった。しかし、それを指摘されたことで、彼自身が最も窮地に立たされてしまった。

三人の友情は完全に破壊され、残ったのは、相手の弱点や過去の秘密を突きつけ合う、むき出しの敵意だけだった。霧の立ち込める山奥で、彼らの疑心暗鬼は限界に達しようとしていた。

第八章:目覚める死体
「古臭いサブカル女めが!」

ヒロの怒鳴り声が、離れの部屋に木霊した。エミは涙と怒りで顔を歪め、マコは冷静さを失い、ライターを握りしめたまま動けなくなっている。三人の友情は完全に瓦解し、今にも殴り合いが始まりそうな、最悪の緊張状態にあった。

従業員は、恐ろしさのあまり、座り込んだまま目をつぶっている。

その時だった。

四組の布団が敷かれた中央。昨夜からの騒乱の中心で、虚ろな眼を見開き、冷たくなっていたはずのダイの体が、微かに動いた。

「……っ……」

微かなうめき声が、張り詰めた沈黙を破る。

三人は、その音を聞き間違えたのかと思い、一瞬動きを止めた。彼らの目は、同時にダイの遺体に注がれる。

ダイの半開きの口が、ゆっくりと動いた。そして、大きく見開かれていたその虚ろな瞳に、微かな光が戻ってきたかのように、ピントが合い始める。

彼は、まるで長い眠りから覚めたばかりのように、大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「ごほっ……ごほっ、ぅ……」

ダイは、布団の上で体を動かし、両手で自分の頭を抱え込んだ。

「うー……っ……頭痛ぇ……。なんだよ、もう朝かよ……」

彼は、昨夜と全く変わらない、46歳のマンガマニア特有の、底抜けに明るい声で呟いた。

「あれ? なんでみんな、俺の周りに集まってんだ? ……ヒロ、エミ、マコ。お前ら、そんなに青い顔してどうした?」

完全な沈黙が、部屋を支配した。

ヒロは息を呑み、指差していたマコを忘れて立ち尽くす。マコは握りしめていたライターを、ドサリ、と畳の上に落とした。エミは、口を開けたまま、声帯から何の音も出せない。

彼らが「死体」として、動機と殺害方法を議論し、互いの過去の汚点を罵り合っていた男は、極度の二日酔いで、ただ深く眠りすぎていただけだったのだ。

ヒロが最初に、震える声で尋ねた。

「ダ、ダイさん……? あ、あなた……生きて……」

ダイは、自分の顔を拭いながら、不機嫌そうに答えた。

「生きてるに決まってんだろ! なんだよ、寝起き早々、縁起でもねぇな。つーか、俺、昨日、相当飲んだろ? 熱燗の後に、マコが持ってきた焼酎を、チェイサー代わりに一気飲みしたのが効いたわ……。頭が割れそうだ」

マコが持ってきた焼酎。ヒロが指摘した、マコの「毒」の隠し場所。そして、マコが連想した「飲み物」への毒物混入。

それら全ての疑念は、ダイの豪快な飲みっぷり、そして彼の並外れたタフネスという、単純な現実によって吹き飛ばされてしまった。

ダイは布団から出て、畳の上に散乱した酒瓶と、青ざめた友人たちを見渡し、首を傾げる。

「なあ、みんな。昨日の俺、なんかやらかしたか? とにかく朝風呂だ。ヒロ、一緒に行こうぜ! この宿の秘湯で、完全に生き返るぞ!」

ダイの屈託のない笑顔が、この密室に差した。

三人の顔は、恐怖から、羞恥、そして、この上ない虚脱感へと変わっていった。彼らは、死体の周りで、10年来の友情を完全に破壊し尽くしたのだ。

その時、隅で目を閉じていた従業員が、そっと目を開け、安堵の息を漏らし、静かに呟いた。

「……よかった。霧守様の、いたずらでございました……」

第九章:戻る日常、そして終焉
ダイの「生きているに決まってるだろ!」という一言が、数時間続いた地獄のような密室劇を、一瞬で茶番に変えてしまった。

ヒロは口を開きかけたが、何も言えなかった。マコは拾い上げたライターをポケットにしまい、エミは顔を覆っていた手を静かに下ろした。彼らの顔は青ざめたままだが、それは殺人者への恐怖ではなく、自分たちが犯した友情破壊の愚かさに対する羞恥だった。

「なんだよ、みんな固まっちまって」

ダイは、まだ頭を抱えながらも、その場に散乱した酒の残骸を見つけると、すぐに切り替えた。

「よっしゃ、頭痛には迎え酒だ! 女将さん、すまねぇが、この味噌汁も飯もまだいい! 追加の熱燗持ってきてくれ!」

従業員は、信じられないものを見るかのようにダイを見つめていたが、「はい……はいぃ……」と細い声で答えると、小走りで部屋を出ていった。

ダイは、何事もなかったかのように立ち上がり、マコの肩を叩いた。

「おい、マコ! 昨日のお前、世界中のサッカーの話が熱すぎたぞ! おかげで完全に脳がフットボールになってるわ! もう一杯飲むぞ、もう一杯!」

ヒロとエミは、顔を見合わせた。

(俺たち、この男の死体(仮)の周りで、互いの過去の秘密と、人生のコンプレックスを、底の底まで暴き合ったのか……?)

その行為が、あまりにも馬鹿らしく、あまりにも虚無的だった。ダイの底抜けのポジティブさと適当なノリは、三人の激しい罵倒と疑心を、一瞬で「なかったこと」にしてしまう力を持っていた。

「……はぁ」

マコが最初に、大きなため息をついた。

「わかったよ、ダイ。お前には敵わないな。迎え酒だ。ヒロ、エミ。お前らも飲め。俺たちの友情を、昨夜の酒のせいにして、全部洗い流そうぜ」

マコが、そう『提案』することで、彼らは無言の了解を交わした。昨夜の罵倒合戦は、極度の泥酔と、ダイの深い眠りが引き起こした、単なる悪夢だったと、強制的に上書きすることにしたのだ。

四人は再び酒を飲み始めた。熱燗を呷り、味噌汁で胃を落ち着かせる。そして、ダイの提案で、皆で朝風呂へ向かうことになった。

秘湯の誘い

山吹荘の秘湯は、岩をくり抜いた野趣あふれる造りだった。濃い硫黄の匂いが立ち込め、体の芯から温まる熱い湯が、彼らの疲労と二日酔いを溶かしていく。

ダイは湯船の中で、力強く笑った。

「くぅ〜! 生き返るわ〜! ヒロ、お前ももっと肩まで浸かれよ! この非日常は最高だぜ! また来ようぜ、みんなでさ!」

「そうですね、ダイさん。もう、二度とこんな思いはしたくないですけど……」ヒロは苦笑いを浮かべながらも、どこか安堵していた。

マコも湯に浸かりながら、エミに視線を送った。エミは目線を逸らし、何も言わない。しかし、互いに一言も触れずとも、先ほどの出来事は深く、彼らの間に楔を打ち込んでいた。

湯が熱を帯び、彼らの体温を急激に上昇させる。昨夜の酒がまだ残っている体には、強すぎる熱さだったかもしれない。

ダイが、再び豪快な声で笑った。

「よーし、次は露天風呂だ! 夜明けの霧の中で、朝風呂なんてもう最高だろ!」

彼は湯船から立ち上がろうとした、その瞬間。

「……っぐ……」

ダイの顔から、一瞬で血の気が失せた。彼は胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。

「おい、ダイ! どうした!」マコが慌てて声をかける。

ダイは、何も答えることができない。そのまま、湯船の縁に手をかけようとしたが、力なく崩れ落ちた。その顔は、先ほどまで彼らが「死体」だと信じていた、あの青白い顔色と全く同じになっていた。

ヒロが慌ててダイの体を抱え起こそうとした、その時。

「うっ……うぅ……」

ヒロ自身も、胸に激しい痛みを覚えた。彼の視界が白く霞み、頭が締め付けられる。熱い湯が、心臓を強く打ち過ぎている。

「ヒロ、お前もか……?」マコは状況の異常さに気づき、顔色を変えた。

マコが二人を助けようと手を伸ばした、その瞬間。

激しい動悸と、全身の痺れが、マコを襲った。彼の体も、もはや自分の意思で動かせない。熱燗、焼酎、極度の睡眠不足、そして熱すぎる秘湯。全ての非日常の要素が、彼の心臓に牙を剥いた。

「……エ、ミ……にげ……ろ……」

マコは、最後に残った力を振り絞り、湯の外にいるエミに呼びかけた。

エミは、湯船の縁に座り、恐ろしい光景をただ見つめていた。

ダイ、ヒロ、マコの三人の男たちは、極限の熱と疲労に耐えきれず、次々に湯船の中で意識を失っていく。

残されたのは、ただ一人、サブカルくそ女のエミだけだった。

湯気が立ち上る静かな秘湯の中で、10年来の付き合いの男三人は、本当に朝を迎えられなかった。

最終章:姫の微笑み(修正版)
湯気が立ち込める秘湯の中で、三人の男の体が、動かなくなった。ダイ、ヒロ、マコ。彼らは、極度の疲労、酒、そして熱すぎる温泉の相乗効果によって、心臓発作を起こし、そのまま湯船に沈んでいった。

エミは湯船の縁に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。彼女は、もはや無関心だった。

湯から立ち上がった彼女は、タオルで体を拭きながら、冷え切った表情で三人の遺体を見下ろした。彼女の周りには、もう、彼女の存在を軽んじたり、彼女の居場所を否定したりする「男たち」はいない。

彼女は震える声で、悲嘆に暮れたフリを始めた。

「うそ……嘘よ……。ダイさん、マコ、ヒロ……なんで、こんなことに……」

彼女は両手で顔を覆い、激しく泣き崩れる演技をする。これは、オタサーの中で、常に自分の感情を最大限に表現し、注目を集めてきた彼女の、条件反射のような振る舞いだった。

その後、彼女はゆっくりと立ち上がった。

彼女は浴衣を羽織り、乱れた髪を整えた。そして、離れの部屋に戻り、そこで震えている従業員に、泣きはらした声で訴えた。

「女将さん! 大変です! 三人が、急に湯船で……!」

従業員が青ざめた顔で本館へ走っていくのを見送ると、エミは一人、静かに部屋の中を歩き始めた。

彼女は、自分が座っていた場所に戻り、冷たい畳の上に膝をついた。そして、口元に微かな笑みを浮かべた。

「ざまあないわね」

彼女は、まるで舞台のカーテンコールを前に立つかのように、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の顔には、先ほどの悲嘆の影は一切ない。あるのは、計画通りに全てが運んだことに対する、深い満足感と優越感だけだった。

ヒロが指摘した、「オタサーの姫」という言葉。マコが言及した、彼女の「サブカル女」という揶揄。そして、ダイが放った、彼女のアイデンティティを侮辱する言葉。彼らは、彼女の熱狂を、彼女自身を、常に軽んじてきた。

彼女は、浴衣の襟元を正しながら、窓の外の霧に、小さく囁いた。

「これで、私の邪魔をする男は、誰もいなくなったわ」

そして彼女は、はっきりと、自分自身に言い聞かせるように、その名を口にした。

「それにしても、みんな、最後まで間違ってたわね」

彼女は、自分の胸を指差す。

「『エミ』なんて、呼び捨てにするんじゃないよ」

彼女は、最後の勝利の言葉を、誰にも聞かれぬよう、冷たく呟いた。

「私の名前は、 『ミエ』 だよ。いつも間違えやがって」

女は、孤独な山の宿で、勝利の微笑みを浮かべた。誰も知らない、彼女だけの、完璧な「非日常」の結末だった。

神鳴くんはクールを装う 最終話

光に包まれ、元の世界に戻った俺は、一目散に葵の家へと向かった。

部屋に通されると、そこには、死の淵にいたことが嘘のように、元気いっぱいの笑顔を向ける葵の姿があった。

「響! 来てくれたんだ!」

その輝くような笑顔を見て、俺は確信した。俺の願いは叶ったのだ。そして、今こそ、俺のもう一つの決意を実行する時だ。

俺は、まっすぐに葵を見つめた。

「葵…。お前が好きだ」

一瞬、葵の時が止まった。理解できないというような間(ま)があった後、葵の表情が曇り、あからさまに不快な顔へと変わった。

「え…? ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

葵は、冷ややかな視線で俺を見た。

「響ちゃんのことはさ、友達として、幼馴染としては好きだけど…そういう対象じゃないんだよね。そもそも、私が今まで響ちゃんを構ってたのって、学校で友達がいない陰キャの響ちゃんを構ってあげてって、おばさんからお願いされてたからだし…」

「え…?」

「なんか勘違いさせちゃったかな? うわぁ…やっぱ陰キャの妄想って、ちょっとキモいね」

俺は、一瞬何を言われているのか分からず、きょとんとした。しかし、言葉の意味が脳に浸透するにつれて、猛烈な苦痛と、顔から火が出るほどの羞恥心が俺を襲った。

命を懸けて戦った。世界を救った。すべては、この子のために。 だが、現実は――「母親に頼まれて仕方なく構っていた陰キャ」という評価だった。

俺は、震える唇で、必死に強がった。

「…ば、バーカ! 冗談だよ! お前みたいなガサツな女、俺の方から願い下げだっつーの!」

精一杯のクールなふり。しかし、葵はそんな俺を、すべて見透かしたような、冷たい目で見つめていた。

その日の夜のことは、全く覚えていない。ただ、枕に顔を埋め、後悔と恥辱にまみれた一晩を過ごしたことだけは確かだ。

そして翌朝。 通学路で、葵がいつものように話しかけてきた。

「おはよー、響!」

ああ、やっぱり昨日のあれは悪い夢だったのかな。俺が一安心したのも束の間、葵はすれ違いざま、周囲には聞こえない声で、侮蔑の表情を浮かべて呟いた。

「…昨日みたいな冗談、もうやめてね。鳥肌立つから」

その言葉は、鋭利な刃物のように俺の心をえぐった。夢じゃなかった。俺の初恋は、完膚なきまでに砕け散ったのだ。

ショックですべて投げ出したくなったが、俺は気を取り直した。

(…ふん。まあいい。俺には、死ぬほど俺を愛してくれている茜がいる。あいつなら、俺のすべてを受け入れてくれるはずだ)

俺は開き直り、学校の校門付近で茜の姿を探した。いた。いつものように友達と話している。

「よう、茜」

俺は、少し恰好をつけて声をかけた。茜は振り返り、俺の顔を見て――きょとんとした。

「あの…どちら様ですか? 多分、先輩とはお話ししたことがないと思うんですが…」

「…え?」

俺は凍り付いた。そして、すぐに理解した。 妖精バトルに参加した人間は、優勝者以外、戦いの記憶が消去されるのだ。

茜にとって、俺は「命を懸けたパートナー」でも「愛するひびきちゃん」でもない。ただの、話したこともない先輩に戻っていた。

🕶 クールな俺の、新たなる戦い
俺はすべてを失った。 葵への想いも、茜からの愛も、妖精との絆も。

しばらくの間、俺は後悔の海に沈んだ。夜になれば、葵に言われた「キモい」という言葉と、茜の他人行儀な視線がフラッシュバックし、布団の中で身悶えする日々を過ごした。

しかし、数日後の朝。鏡の前で、俺は顔を上げた。

「…ふん。やせ我慢こそが、男の美学だ」

今回の戦いは、俺を成長させただろう。甘い幻想は捨てた。俺は、より強固で、より孤独で、よりクールな俺へと生まれ変わったのだ。

妖精バトルは終わった。だが、この残酷な現実世界(リアル)での、俺の戦いはこれからだ。

俺は、誰にも媚びない孤高の表情を作り、学校へと向かった。

場面は変わり、ここは異次元にある妖精国。

きらびやかな装飾が施された『妖精王の間』で、ピカリスが王座に向かって恭しく頭を下げていた。

「ピカリス、優勝おめでとう。今回の戦い、とても楽しませてもらったわ。次の大会もよろしくね」

王座から、鈴を転がすような、しかし絶対的な威厳を含んだ声が響く。

「畏まりました、女王様」

ピカリスがゆっくりと顔を上げる。 そこには、彼にとって見慣れた、絶対君主の顔があった。

妖精王の玉座に座り、頬杖をついて微笑んでいるのは――

紛れもない、星宮 葵の顔をした女性だった。

彼女は、モニターに映し出された、人間界で一人クールに振る舞う響の姿を眺め、妖艶に唇を歪めた。

「響は面白かったわ。あの必死な顔、勘違いした滑稽な告白…ふふっ」

女王は、新しい玩具を見つけた子供のように、目を輝かせた。

「まだまだ、響ちゃんで楽しめそうね…」

神鳴くんはクールを装う 10話

茜が嫉妬の炎に狂い、殺意にも似た愛憎を向けてきた。俺は、今の茜には何を言っても通じないことを悟ったが、それでも葵が生き延びる可能性に賭け、プライドを捨てて頭を下げた。

「わかった…! 俺は茜の好きにしていい。だから、優勝の願いは…葵の回復にしてくれないか!」

俺は床に額を擦り付ける勢いで頼んだ。しかし、俺が最後まで言い終わる前に、茜はヒステリックに叫んだ。

「ダメです!!」

茜の瞳から、理性が消え失せている。

「先輩の気持ちを侵すものは、誰一人生かしておきません! 先輩の心の中にいていいのは、私だけです! さあ、素直になりましょう…ひびきちゃん!」

説得は無理か…。ならば、力ずくでも止めるしかない。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は茜に向けて雷撃を放つ。しかし、電撃は茜の体をすり抜け、虚しく空を切った。

「残念、それは偽物です。私の『イリュージョン』の能力、忘れちゃいました?」

茜の声が、別の方向から響く。

「まだまだ、私のことを思う力が足りないですね…クリムゾンウィップ!」

背中から、焼けるような激痛が走る。

「ぐあっ…!」

「このクリムゾンウィップは、致命傷になるような威力はありませんわ。先輩…ううん、ひびきちゃんが私の言いなりになるまで、たっぷり『罰』を与えるための攻撃よ♡」

イリュージョンか…! すっかり忘れていた。しかし、破り方はわかっている。

「魔眼(マガン)!」

俺は茜の方を向き、幻覚を見せる電磁波を放つ。よし、これで…!

だが、次の瞬間、またしても別の方向から激痛が走った。

「がはっ…!」

見ると、本物の茜は、目を堅く閉じていた。

「魔眼は、視神経に幻覚を見せる攻撃。目をつぶれば、その攻撃は効かない。そして、クリムゾンウィップは威力が低い分、私の熱源探知で自動追尾するの。あなたに逃げ場はないわ」

(くそっ…! 魔眼の弱点まで対策済みかよ…!)

隙が見当たらない。真っ白で障害物のない空間。茜は目を閉じているため、こちらの動きを見ていないが、自動追尾の鞭が正確に俺を襲う。

俺は必死に走り回る。時間稼ぎはできるはずだ。しかし、幻覚とはいえ、複数の茜の分身から、四方八方へ鞭が飛んでくる。避ける隙間が見当たらない。

「ひびきちゃん、まだ諦めないの…? いい加減、私のものになって…。この空間に終わりなんてないのだから」

逃げ回りながら、俺は観察していた。茜の言葉に、ほんの僅かな油断が生まれたのを。

茜は「終わりなんてない」と言いながら、新しい分身を生み出すのを止め、今ある分身と鞭だけで俺を追い詰めようとしていた。

(…今だ。すべて、整った)

俺は足を止め、全方位に意識を集中した。

「魔雷牙(まらいが)!!」

俺を中心として、8方向へ同時に雷撃が走る。

「無駄よ! それは外れ…!!」

茜が嘲笑いかけた言葉は、最後まで続かなかった。

放たれた8本の雷撃は、本物の茜だけでなく、周囲に展開していたすべての分身(イリュージョン)を同時に貫いた。

「きゃあぁぁぁっ!!」

すべての分身が掻き消え、本物の茜が弾き飛ばされて倒れ込む。

「…ギリギリだったぜ」

俺は肩で息をしながら、倒れた茜を見下ろした。

「魔雷牙は、8方向へ同時に攻撃が走る技だ。俺は逃げ回りながら、お前の分身と本体が、ちょうど魔雷牙の射線上に並ぶ瞬間を待っていたんだ」

俺は、クールに髪をかき上げた。

「お前の敗因は、俺を追い詰めたと思って油断し、配置をズラすための新しいイリュージョンを追加しなかったミスだ」

茜が意識を失い、真っ白な空間が、温かい光に包まれ始めた。

そして、あの空からの声が聞こえる。

『おめでとうございます。あなたの優勝です。願いを心に浮かべなさい。叶えてあげましょう』

俺は目を閉じ、迷うことなく、たった一つの願いを心に描いた。

(葵の病気を治してくれ)

光が強くなり、視界のすべてが白く染まっていく。戦いの記憶、痛み、そしてこの非日常が、光の中に溶けていくようだ。

(やれやれ…。結局、最後までドタバタだったな)

俺は薄れゆく意識の中で、自問した。

(俺はこの戦いで…うまくクールにかっこつけられただろうか…?)

神鳴くんはクールを装う 9話

日本最強決定戦という厳しい戦いを終え、家に帰った翌日。 俺は、ピカリスから今後の展望を聞かされた。

「世界大会は、バトルロワイヤル形式で行われるよ。だから、次の戦いが実質的に最後だ。他の国での予選がひと段落するまでは始まらないから、しばらくはお休みだね」

「いきなり最終決戦か…。まあ、手っ取り早くていい」

俺はほっと一息つき、すぐに茜に連絡を取って情報を共有した。

「私は、優勝に興味はありませんから。二人で協力して戦いましょう! 愛するダーリンが優勝できるのが、私の喜びです!」

茜は相変わらずのハイテンションで、全面的に協力を申し出てくれた。バトルロワイヤルとはいえ、共闘できれば圧倒的に有利だ。俺の優勝は約束されたも同然だと、俺は楽観的に構えていた。

しかし、家に帰ると、母親が深刻そうな顔で俺を出迎えた。

「響…。葵ちゃんが、体調悪いみたいなの。お見舞いに行ってきてくれない? ほら、これ持っていって」

母親にケーキセットを押し付けられる。そういえば、修学旅行以来、葵と顔を合わせていなかった。俺は急いで葵の家に向かった。

葵の母親が、どこか悲しそうな顔で俺を葵の部屋に通してくれた。

「…よお。風邪か?」

ベッドに横たわる葵は、苦しそうな顔をしながらも、俺を見るとふわりと微笑んだ。

「響…。無理してこなくていいのに」

「ケーキ、余ったから持ってきただけだ」

いつものように憎まれ口を叩き、くだらない話を少しする。だが、葵の顔色は明らかに悪い。

「ごめん…ちょっと疲れちゃった。また、体が治ってからね」

少し寂しそうな顔をする葵を残し、俺は部屋を出た。

家に帰ると、母親が玄関で待っていた。そして、衝撃の事実を告げた。

「葵ちゃん…生死にかかわる病気なの。お医者様も、もう…。響、あなたも思い残さないように接してね」

頭に雷が落ちたような衝撃が走った。視界がぐるぐると回り、思考がまとまらない。あの元気で、鬱陶しいほど明るい葵が、死ぬ?

「なんとか…できないのか…」

俺の口から、震える声が漏れた。

すると、いつの間にいたのか、ピカリスが反応した。

「だったら、優勝の願いを葵の回復にしたらいいんじゃないか?」

「…願い?」

俺が不思議そうな顔をすると、ピカリスは涼しい顔で説明した。

「ああ、説明忘れていたよ。この妖精の戦いに優勝すると、パートナーはなんでも願いが一つ叶うんだ。普通、こんな危険なバトルに見返りなく挑まないでしょ? 君が何も聞かずに戦っていたから、言うの忘れてたよ」

「ふざけんな…! もっと早く言え!」

だが、俺の腹は決まった。 葵のために、絶対に優勝する。そして、この極限状態で気づかされた。俺は、葵のことが好きだ。

(優勝して、葵の病気を治して…そして、告白する)

俺の中で、最後の戦いに向けて、かつてないほど強い決意が固まった。

一か月後。

「世界の人数が揃ったみたいだ。明日の12:00にバトル・フィールドに転送されるから、コンディションを万全にね」

ピカリスの言葉を受け、その夜、茜が家に来た。

「ついに明日は最後の戦いですね。頑張りましょう、響先輩」

いつもの笑顔で言う茜に、俺は真剣な顔で向き合った。

「茜、聞いてくれ。俺には、どうしても叶えたい願いがある。幼馴染の葵が…死にかけているんだ。俺は、優勝してあいつを助けたい。そして、あいつに思いを伝えたい」

俺は、絶対に負けられない決意を伝えた。茜は一瞬、真顔になったが、すぐに静かに頷いた。

「…わかりました。先輩の覚悟、受け取りました」

茜はそう言って、真剣な顔で帰っていった。

そして翌日、12:00。 俺と茜は、見渡す限りの白一面の空間へと転送された。地面はコンクリートのように硬い。

円を描くように10人の人間が並んでいる。俺の隣には、茜がいる。

空から、中性的な声が響いた。

『皆さん、今まで半年間の戦いお疲れ様でした。いよいよ最後の戦いです。最後の一人になれば優勝です。悔いが残らないように頑張ってください。それではファイナルバトル、レディー・ゴー!』

ゴングが鳴り、俺がファイティングポーズを取ると、対面の金髪の青年が名乗りを上げた。

「私はアメリカ代表! 正義を操る『ジャスティススター』デース!」

続いて、黒髪のチャイナ服の女性。

「私、歴史を操る『千四年(センヨンネン)』アル」

さらに、大柄な白人の男。

「俺は気温を操る『試される大地』だ」

緊迫した最終決戦のはずが、俺は冷静にツッコミを入れた。

「…なんで皆、日本語なんだ?」

ピカリスが耳元で囁く。「言葉が通じないと不便だから、この空間では自動翻訳がされてるんだよ。翻訳が不自然なところは、君のステレオタイプに合わせてるんだよ」

「なるほどな…」

俺と茜も名乗りを上げ、最後に残った一人の男に注目が集まった。

最後の一人が口を開こうとした、その瞬間だった。

一呼吸置いたと思ったら、その男はすでに俺の目の前にいて、ナイフを振りかぶっていた。

「ッ!」

俺は間一髪で体を逸らした。頬に薄い切り傷ができる。

「ちっ…時間切れか」

男はそう呟き、瞬時に間合いを取った。

周囲を見ると、俺と茜以外のアメリカ代表、中国代表、ロシア代表…他全ての参加者が、喉を掻き切られて血を流し、倒れていた。

「名乗りとかくだらないよな。勝てばすべてだというのに。お前らもそう思うよな?」

男は、血のついたナイフを舐めた。

「俺はここまでこうやって勝ってきた。そしてこれからもな。そこのロシア野郎もあっけねぇ」

男が続けて喋ろうとするのを見て、俺は確信した。

(時を操る能力か…!)

この戦いが始まった時に、時を止める奴がいることは想像していた。対策は、徹夜で考えてある。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は男ではなく、足元の地面に向かって雷撃を放った。

地面が爆発し、大量のコンクリート片と粉塵が舞い上がり、辺り一面を包み込む。

「煙幕か? 無駄なことを…」

しばらくの静寂の後。 煙の中から、男のうめき声が聞こえてきた。

煙が晴れると、最後の敵が、全身を無数の穴だらけにして、血みどろで這いつくばっていた。

俺は、とどめを刺す前に余裕を持って語りかけた。

「お前の能力は、時を止めることだろう。だが、時を止めれば、空気中の塵や巻き上げた粉塵もその場に固定される。お前にとっては、空中に固定された無数の不可視の刃物が浮かんでいるようなものだ」

俺は冷ややかに見下ろした。

「その中に高速で突っ込めば、自分の速度で勝手に切り刻まれる。これが物理の法則だ。講釈はここまでだ…魔雷光!」

男は沈黙し、光の粒子となって消えた。

「はぁ…終わった…」

俺は安堵の息を漏らした。これで優勝だ。葵を助けられる。 俺は隣にいる茜に笑顔で声をかけようとした。

「茜、やったぞ! これで葵を…」

「ぐあぁっ!?」

背中に、熱湯をかけられたような激痛が走った。俺はその場に崩れ落ちる。

「…何の冗談だ?」

痛みをこらえて顔を上げると、そこには、今まで見たことのない、暗く濁った瞳をした茜が立っていた。手には、炎でできた鞭が握られている。

茜は、俺の問いかけには反応しない。ただ、うっとりとした表情で、恐ろしい言葉を口にした。

「響先輩…あなたは、私のもの」

「…は?」

「葵先輩のため? 告白する? …許しません」

茜の背後の炎が、激しく燃え上がる。

「先輩が優勝して、あの女と結ばれるくらいなら…ここで私が先輩を壊して、一生お世話してあげます」

「クリムゾンウィップ!」

先ほどの一撃よりもさらに太く、複数の炎の鞭が、波打つように俺に襲いかかってくる。

俺は痛む体で、必死に転がって避けた。

(共闘じゃなかったのかよ…!? まさか、俺が葵の話をしたことで…!?)

俺の楽観的な計画は崩れ去った。 世界最強の敵よりも恐ろしい、愛と嫉妬に狂ったパートナーとの、本当の最後の戦いが始まった。

神鳴くんはクールを装う 8話 

修学旅行から帰り、家でくつろいでいる俺に、ピカリスが興奮した様子で朗報を告げた。

「響! ついにここまで来たよ! 日本の中で生き残っている妖精のパートナーは、君と茜ちゃん、そしてもう一人の、計3人で最後らしい!」

「3人…か」

俺は、ソファに深く沈み込みながら、余裕の笑みを浮かべた。

「妖精ネットワークを通じて、残る一人から最後の戦いの提案が来た。どうする? 受ける?」

俺は、ここ最近の連戦連勝で、自分の強さを確信していた。ネプチューンを一撃で沈め、相性最悪のデスサイズすら支配下に置いた。今の俺に、死角はない。

「ふん。負けるわけがない。その提案、乗ってやる」

俺が即答すると、ピカリスは心配そうに提案した。

「響、最後の戦いの前に、互いの準備期間として1週間あるんだ。茜ちゃんと協力して、事前準備(トレーニング)でもしようよ。相手がどんな能力かわからないし…」

「必要ない」

俺は、ピカリスの言葉を遮った。

「茜と馴れ合うつもりはない。それに、準備などしなくても、今の俺ならどんな敵でも倒せる」

ピカリスはその後もしつこく食い下がったが、王者のごとき慢心に包まれていた俺は、その忠告を鼻で笑い、一切耳を貸さなかった。

そして、決戦当日。

今回は特別ルールらしく、相手と直接会わずとも、時間になると強制的にバトル・フィールドへと転送された。

転送された先は、人気のない、錆びついた遊園地だった。

広場の中央に、俺と同じくらいの年の、真面目そうな男子学生が立っていた。

俺は、いつものようにクールなポーズを決め、名乗りを上げた。

「…神鳴 響だ。俺の能力は、雷を自在に操る力。『ライトニングボルケーノ』を持つ」

すると、相手は驚いたように目を見開き、そして丁寧に一礼した。

「初めてお目にかかります。まさか、同じ属性とは…。俺も雷を操る能力『セイントライト』。正々堂々、戦いましょう」

「雷…だと?」

俺が驚いて肩の上のピカリスを見ると、ピカリスは冷ややかな目で俺を見た。

「何を驚いているんだい、響。雷、炎、水なんて、妖精界では珍しい力じゃない。今まで他の雷使いと当たらなかったのは、それがありふれた弱い能力(コモン・スキル)だからだよ。今まで勝てたのは、君の運が良かっただけさ」

「なっ…!」

ピカリスの衝撃的な事実に、俺のプライドにひびが入る。

だが、相手も同じ雷だ。俺には、魔雷光、魔神雷、魔眼という多彩な技がある。

「同じ雷なら、技の差で勝つだけだ!」

俺は、先手必勝とばかりに腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

紫色の電撃が走る。しかし、相手は動じることなく、掌をかざした。

「聖電(せいでん)」

相手の掌から放たれた白い電撃が、俺の魔雷光とぶつかり合い、完全に相殺された。

「弱い小技で牽制ですか。セオリーですね」

「こ、小技だと…!?」

俺の必殺技を「小技」とあしらわれ、俺は動揺した。悟られぬよう、即座に搦め手に出る。

「魔眼(マガン)!」

俺が叫んだ直後、相手も被せるように叫んだ。

「聖衣(せいい)!」

相手の前面に、光り輝く盾のようなエネルギー壁が出現した。魔眼の電磁波は盾に遮断され、幻覚効果が発揮されない。

「意外と、せこい手を使いますね」

相手は眼鏡の位置を直しながら、淡々と言った。

「こっちは、名乗りの前に『聖分析(セイントアナライズ)』を使っていましたので、あなたの攻撃パターンは事前に読めます。以前に戦った、闇を操る相手に対抗するために編み出しました」

(分析済み…だと!?)

「では、こちらからも攻撃させていただきます。聖雷電(せいらいでん)!」

さきほどの「聖電」より一回りも二回りも大きな、極太の白い雷撃が走る。

「ぐわっ!」

俺は地面を転がり、紙一重でかわした。アスファルトが黒く焦げ、爆ぜる。

「ほう、技も出さないで避けるとは、余裕ですね。追撃行きます」

相手の掌から、雷の連撃が放たれる。

(くそっ! 反撃だ! 魔神雷(マシンライ)!)

俺は周囲を見渡すが、遊園地の大型アトラクションは、バトル・フィールドのエリア外の背景扱いで、制御権を奪えない。それに、魔神雷は生きている人間には直接効かない。

「役に立たねぇ!!」

俺はプライドをかなぐり捨て、とりあえず思いっきり逃げることにした。目の前にあった、ミラーハウス(鏡の迷路)へと逃げ込む。

ミラーハウスの奥で、俺は肩で息をした。

「はぁ…はぁ…強すぎる…!」

すると、ピカリスが呆れたように言った。

「だから、事前準備をしろとあれだけ言ったのに! 相手は、強敵との戦いを想定して技を磨いてきたんだ。慢心していた響とは違う!」

「うるせぇ…! 今さら説教かよ!」

「でも…強い技は、限界の戦いの中でしか編み出せない。響、君の生存本能が、ギリギリだけど新しい技を生み出したよ」

ピカリスの言葉と共に、脳内に鋭いイメージが走る。それは、一発逆転の、攻撃特化の技。

「…これなら、いけるか」

俺は立ち上がった。

「新しい技の名前は…『魔雷牙(まらいが)』だ」

その時、ミラーハウスの外から、敵の声が響いた。

「追いかけっこは終わりだ。聖極電(せいごくでん)!」

轟音と共に、ミラーハウスの半分が消し飛んだ。ガラスの破片が雨のように降り注ぐ中、俺は広場へと飛び出した。

「出てきましたね」

相手は、余裕の表情で俺を見る。

俺は、最後の力を振り絞り、腕を振り上げた。

「これで終わりだ! 俺の最後の必殺技…魔雷牙(まらいが)!!」

反射的に、敵は防御態勢に入った。

「無駄です! 聖衣(せいい)!」

敵の前面に、鉄壁の光の盾が展開される。正面からの攻撃なら、どんな雷撃も防ぐ最強の盾だ。

しかし。この放った雷撃は、敵に向かって直進しなかった。空中で8つに分裂し、敵の頭上、背後、左右、あらゆる方向へと散開した。

そして、一斉に敵の中心へと襲い掛かる。

「なっ…!?」

「魔雷牙は、8方向から同時に魔雷光が走る、牙のような技だ! 前面だけの盾じゃ、防ぎきれねぇよ!」

ドォォォォン!!

全方位からの雷撃を受け、敵の聖衣は砕け散った。

「がはっ…!」

敵はその場に膝をつき、倒れ込んだ。

「…技に溺れたな。諦めなければ、勝利はいつだって微笑むんだ」

俺は、満身創痍でふらつきながら、なんとかクールな決め台詞を吐いた。

敵の体が光の粒子となって消え、バトル・フィールドが解除される。

「はぁ…勝った…。これで、戦いは終わりか…」

俺が一安心していると、ピカリスが肩に乗り、優しく声をかけてきた。

「おめでとう、響! ついに日本最後の敵を倒したね!」

「ああ…長かったな」

「うん! これで日本代表決定だ! あとは、世界の各国の代表を倒して、世界一を決めれば終わりだよ! さあ、最後の大バトル、頑張ろうね!」

俺の動きが止まった。

「……は?」

俺は、ピカリスをつまみ上げた。

「おい…まだ終わってないのかよ…? 世界だと…?」

「当たり前じゃないか! 妖精の王様だよ? 世界規模に決まってるでしょ!」

俺は、その場に崩れ落ちそうになった。

「やれやれ…。まだ終わってないのか…」

だが、今は考えるのをやめよう。俺は、夕暮れの遊園地(廃墟ではない現実の公園)のベンチに座り込んだ。

「ただ、今はゆっくり…勝利の余韻を噛みしめさせてくれ…」

俺は、遠くに見える一番星を見上げながら、これから始まるであろう過酷な世界戦と、まだ攻略できていない身近な恋の難問に、深い溜息をついた。

神鳴くんはクールを装う 7話

夏が過ぎ、秋が来た。修学旅行のシーズンだ。

俺たちの学校の今年の行き先は、北陸の古都、石川県・金沢だった。

「響~! 新幹線の中でトランプやろうよ! ねぇねぇ!」

「うるせぇ。寝る」

俺はいつものように、隣で騒ぐ葵を突き放し、窓の外の景色を眺めた。もちろん、内心は修学旅行に浮かれている。京都や奈良ではなく、金沢という渋いチョイスも、クールな俺には似合っている。

茜は、別の車両のクラスだが、連絡を取り合い、「金沢で合流しましょうね!」と意気込んでいた。

金沢に到着し、兼六園や近江町市場といった名所を巡る中、俺たちは前田藩の墓地へと立ち寄った。鬱蒼とした杉林の中に、苔むした古い墓石が並ぶ、静かで厳粛な場所だ。

金沢の歴史を感じる場所で、周囲には修学旅行の生徒はほとんどいない。不穏な空気が漂い始めたのは、その時だった。

「…ここか」

俺は、ピカリスの震えを感じ、すぐに警戒態勢に入った。墓地の影から、全身を黒いローブで覆い隠した、痩せ型の男が現れた。

男は、俺と目が合うと、静かに片手を差し出してきた。

「レッツダンス」

俺は、一瞬の戸惑いもなく、その手に応じた。

「上等だ」

周囲の景色が、一瞬でバトル・フィールドへと転換される。

「俺の能力は、死を操る『デスサイズ』だ。この墓地がお前の墓場となる」

ローブの男は、低い声で名乗りを上げた。

俺が名乗りを上げる間もなく、男は両手を広げた。その瞬間、周囲の古い墓石の下から、土を掻き分け、ぼろぼろの死体が這い上がってきた。数十体のゾンビが、俺たちを取り囲む。

(くそっ、墓場の死体を操る能力か…! 相性最悪だ!)

ゾンビたちは、見た目こそ腐敗しているが、その動きは鈍くない。むしろ、死体とは思えないほどの力強い攻撃を仕掛けてきた。

俺は、ゾンビの大群から逃げ回りながら、ローブの男との距離を取ろうとする。

「効かないぞ、デスサイズ! お前の雷では、動かない肉体は止められない!」

デスサイズは、静かに俺を嘲笑する。確かに、心臓も神経もない死体相手に、雷撃は有効打にならない。

(どうする…魔雷光は効かない。魔眼で幻覚を見せても、こいつらは視覚に頼って動いてねぇ…)

その時、俺の頭にひらめきが走った。それは、魔神雷(マシンライ)の、新たな可能性だ。

(そうだ…! 人の神経は、微弱な電気信号で動いている。なら、死体が動いているのも、デスサイズの能力による電気信号か、それに近い信号で動いているはずだ!)

俺は、一瞬逃げ惑うのをやめ、立ち止まった。

「魔神雷(マシンライ)!」

俺は、全身の電力を、周囲のゾンビたちへと放出した。俺の電力は、デスサイズの支配を無視し、その制御信号を上書きするように、ゾンビの運動神経を支配した。

ゾンビたちは、一斉に動きを止め、その次の瞬間、俺の意のままに動き出した。

「なっ…!? 馬鹿な! 支配を上書きしただと!?」

デスサイズは、初めて動揺の色を見せた。数十体のゾンビが、今度はデスサイズ自身を囲み、攻撃態勢に入る。

「悪く思うなよ、デスサイズ。お前の敗因は、俺の能力を知らなかったことだ」

俺は、自分の支配下に入ったゾンビたちに、一斉にデスサイズを攻撃させた。肉塊の壁に押しつぶされ、デスサイズはあっけなく戦闘不能となる。

「ふん。相性の問題とはいえ、雑魚が」

俺は、ローブの男が倒れるのを見て、いつものクールな装いで吐き捨てた。

しかし、俺の内心は、とてつもない慢心に包まれていた。

(海を支配するネプチューンも、死体を操るデスサイズも…。能力の相性が、全て俺に味方している! 俺の雷の能力は、物質、エネルギー、そして生命活動の全てを支配できる…。これは、王者の能力なんじゃないか?)

俺は、自分の能力の無限の可能性を感じ、冷酷なまでに自信に満ち溢れていた。この調子なら、妖精の王様になるのも夢ではない。

俺は、墓地で倒れているデスサイズに目もくれず、バトル・フィールドの解除を待った。

神鳴くんはクールを装う 6話

ロックマンを倒し、夏の訪れと共に、しばらくの平穏が訪れていた。

「ねぇ、響! 夏だし、海に行こうよ! 茜ちゃんと三人でさ!」

いつものようにベタベタと腕に絡みつく葵が、無邪気に提案してきた。

「えー、私も行きたいです、響先輩!」

俺の横では、茜が嬉しそうに同意する。

海…! 二人の水着…!?

俺の心臓は、警鐘を鳴らし始める。それは、戦闘の緊張感ではなく、思春期の健全なドキドキだ。

「…ふん。興味ねぇな。暑苦しいだけだろ」

俺は、精一杯乗り気でないふりをして、二人を突き放した。しかし、結局、二人の熱意に押され、翌週末、俺たちは北条海岸へと向かうことになった。

当日。砂浜に到着し、二人が水着に着替えて戻ってきた瞬間、俺のクールな装いは、内側から溶けそうになった。

葵は、健康的な肌に似合う、明るいブルーのビキニ。茜は、炎の能力者らしく、鮮やかなスカーレットのフリル付き水着。二人とも、あまりにもまぶしすぎる

「響、どうしたの? ぼーっとして!」

「べ、別に…。うるせぇな。太陽が眩しいだけだ」

俺は、動揺を悟られぬよう、すぐにサングラスをかけ、無愛想に答える。二人が海ではしゃぎ出すと、俺は「面倒くさい」とでも言いたげな顔で、少し離れた海の家前のパラソルに座り込んだ。

(…くそ、俺の平穏な日常に、こんな眩しい非日常は必要ないんだ…!)

そう思いながらも、俺の視線は、海ではしゃぐ二人の姿に釘付けになっていた。

俺が、ビーチパラソルの影から、二人の姿をみとれていると、背後から突然、低い声が呟かれた。

「…レッツダンス

俺は、慌てて振り返った。この声は…!

そこに立っていたのは、今しがた俺たちが飲み物を買ったばかりの、海の家で働いていた店員の女の子だった。白いTシャツにショートパンツというラフな格好だが、その瞳には明確な敵意が宿っている。

(このタイミングで仕掛けてきやがったか…!)

俺は一瞬ためらったが、ここで逃げれば二人に危険が及ぶ。

「上等だ」

俺は、来る敵は拒まずとばかりに、店員の女の子の拳に自分の拳を軽くぶつけた。

景色が一瞬で転換し、海水浴客の喧騒は消え、静寂が訪れる。

「私は、海を操る『ネプチューン』。海の力で、貴方を沈めてあげるわ」

店員の女の子は、名乗りを上げた。

その名を聞いて、俺の胸は最悪の予感で満たされた。

(ネプチューン…海を操る能力…そして、このバトル・フィールドは、一面の海水…!)

俺は、心の中で戦慄した。

「相性が…悪すぎる

俺は、そう思うしかなかった。能力者の戦いは、相性が全てだ。雷は水に通りやすいが、水の抵抗を受け、威力が激減する。そして何より、周囲全てが導体(海水)だ。

ネプチューンは、俺の表情を見て、勝ちを確信したように笑った。

「そうよ、私の戦場よ! ウォーター・ゴーレム!

ネプチューンが両手を広げた瞬間、眼前の海水が唸りを上げ、渦を巻き始めた。海面が盛り上がり、高さ100メートル近い、巨大な海水の巨人が形作られる。それは、まさに海そのものが立ち上がったような、圧倒的な存在感だった。

「さあ、お前の得意な雷を打ってみなさい! この海を全て敵に回して、感電死するのは貴方よ!」

ネプチューンは、巨大なゴーレムの足元に立ち、俺を嘲笑した。

(くそ…! この巨大な水の塊に、どう魔雷光を通せばいい!?)

俺は、一瞬冷静になり、思考を巡らせる。確かに、水は導体だが、この海水はあまりに巨大だ。通常なら、雷撃は広範囲に拡散し、敵の本体には届かない。

だが、俺には、**魔神雷(マシンライ)**がある。

俺は、巨大なゴーレムを前に、静かに腕を突き出した。

「ふん…。馬鹿なことを」

俺は、雷の原理を思い出す。電気は、抵抗の少ない方へと流れる。

俺は、海水のゴーレムの中心にいるネプチューンの本体を視線で捉えた。そして、魔神雷の精密な電力コントロールを応用し、雷撃の進路を操作した。

魔雷光(まらいこう)!

俺の腕から放たれた紫色の電撃は、巨大なゴーレムの表面に触れた瞬間、拡散することなく、ゴーレムを構成する海水の内部を、最も抵抗の少ない直線ルートで、ネプチューン本体まで貫いた。

ネプチューンの体から、一瞬で激しい火花が散った。ネプチューンが立っていた足元の海水が、一気に蒸発する。

巨大な海水のゴーレムは、制御を失い、轟音と共に海へと崩れ落ちていった。

ネプチューンは、一撃で戦闘不能となり、意識を失って砂浜に倒れていた。その体からは、小さな水色の妖精がピカリスに吸収される。

「…勝った」

俺は、あっけない勝利に、呆然とした。

「まさか、こんなに早く終わるとは…。俺の**魔神雷(マシンライ)**の精密な制御が、海水を避けるのではなく、最も抵抗の少ない最短距離を強制的に作り出すことに成功したのか…」

俺は、そのあっけない勝利に、安堵の息をつく。

(ここまで軽い勝利もあるものなのか…。これで、一旦は平和だ…)

バトル・フィールドが解除され、周囲には再び、賑やかな海水浴客の喧騒が戻ってきた。

俺は、クールな装いを崩さぬまま、静かにサングラスを直し、海の家で倒れている元店員に目もくれず、海で待つ二人のもとへと歩き出した。

(さあ…次は、水着の二人を前に、平静を保つという、もう一つの戦いだ…)

神鳴くんはクールを装う 5話 

コンビバトルでの勝利から、しばらく平穏な日常が続いていた。

俺、神鳴 響は、この近辺の能力者はすべて倒し尽くしたのではないかと、内心で少し安心し始めていた。もちろん、その油断をクールな装いで隠しながら、通学路を歩く。

その日の放課後、俺が一人で下校していると、ポストに一枚の粗雑な紙が投函されていた。

女は預かった。北関東○○採石場で待つ。

差出人の名前はない。

俺はすぐに、その「女」が誰なのかを考えた。まず、昨日の放課後に別れてから連絡が取れていない、俺のパートナー赤羽 茜の可能性が高い。しかし、俺の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、毎朝「邪魔だ、ベタベタすんな」と突き放している、星宮 葵の顔だった。

(…葵は、俺が能力者だと知らねぇ。能力者ではない人間を、なぜ狙う…? 俺を誘い出すためか?)

そして、俺は茜にも電話をかけるが、応答はない。茜がさらわれた可能性も、もちろんある。しかし、茜は能力者だ。容易に捕まるとは考えにくい。

(葵だ…! いつも俺が邪険にするから、神様が罰を与えようとしているんだ…!)

クールな装いの奥に隠された、多感で中学生的な倫理観と、幼馴染への密かな愛情が、響の判断を曇らせた。

「チッ…。行くしかねぇだろ」

差出人の名前はない。しかし、状況は理解できた。これは、次の能力者からの挑戦状だ。

(チッ…。ようやく近くの敵がいなくなったと思ったら、今度は遠征しなきゃいけないのか)

俺は舌打ちした。能力者バトルがローカルな抗争から、広域な戦いへとステージを上げたことを実感する。そして、何より――

(葵がピンチ…!)

脅迫状には、誰を預かったかは書いていない。だが、俺が真っ先に思い浮かべたのは、星宮 葵の顔だった。昨日、俺に抱きついてきた茜(スカーレットデザイア)の可能性もあるが、やはり最も親しい幼馴染を人質に取られたと考えると、血が沸騰する。

「お前には関係ないだろ」と強がりを言ったくせに、葵のピンチとあれば、駆けつけるのが男の義務だ。

その日のうちに、俺は電車を乗り継ぎ、北関東の○○採石場を目指した。

採石場に到着すると、そこは岩と砂利が広がる、荒涼とした場所だった。

巨大な岩壁の下で、タンクトップ姿の筋肉隆々とした大男が待ち構えている。

そして、その大男の足元には、布で顔を隠された、手足を縛られた女の子が一人、うずくまっていた。

「来たか、坊主。俺は岩を操る『ロックマン』。お前など、岩と砂利に変えて潰してくれるわ!」

ロックマンは、力強く名乗りを上げた。

(ロックマン…。また小学生が考えたみたいな名前だな…)

俺は、クールな表情を崩さず、内心で冷静に分析する。名乗りが終わった。あとは、戦闘開始の合図だ。しかし、「レッツダンス」をするには、相手と手を合わせられる距離まで近づかなければならない。これが、いつもひと手間なのだ。

俺は、挑発するように一歩前に出た。

「…面倒だ」

岩壁の鉄壁
ロックマンも、俺が近づいてくるのを待つ気はなかったらしい。

「レッツダンス!」

ロックマンは、俺の手を合わせる前に、地面を蹴りつけ、戦いの合図を成立させた。周囲の景色が一瞬でバトル・フィールドへと転送される。

俺は、先制で必殺技を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

紫色の雷撃がロックマンに向かって飛ぶ。しかし、ロックマンはその瞬間、体の周りの岩壁を体内に取り込むように変化させ、全身を厚い岩の装甲で覆った。

バチィン!

雷撃は、厚い岩の装甲に弾かれ、ロックマンには届かない。

「ハハッ! そんな電気ごとき、俺の岩装甲は通せんぜ! 今度は俺の番だ! 破砕(ハサイ)!」

ロックマンが叫ぶと同時に、地面から巨大な岩塊が生まれ、俺に向かって飛んできた。俺は、それを避けるのに精一杯で、まともに反撃する隙がない。

(硬すぎる! しかも、あいつの岩は遠隔操作できる! 逃げ回りながらじゃ、ジリ貧だ…!)

⚙️ 開眼、第三の必殺技
激しく岩を避け、物陰に隠れている最中、リュックの中のピカリスが声を上げた。

「響! 第三の必殺技のイメージが流れてきたよ! この能力は、電力を精密にコントロールする技だ! 技の名前を決めて!」

逃げ惑う最中、俺の頭の中に、電磁波ではなく、電気そのものを細かく制御する、新たな能力のイメージが流れ込む。

俺は、辺りを見回した。ここは採石場。巨大なドロップハンマーや、採掘用の重機、そして岩を砕くための金属製の機材が放置されている。

(精密な電力コントロール…! これなら…!)

俺は、心の中で、その技に名前を付けた。

「…魔神雷(マシンライ)だ」

ロックマンの挑発の声が、物陰まで届いてきた。

「どうした、ライトニングボルケーノ! 逃げ回ってばかりじゃ、俺は倒せんぜ! 卑怯者!」

🔨 魔神の制御
俺は、ロックマンの挑発を無視し、隠れたまま、新しい能力を発動した。

「魔神雷(マシンライ)!」

俺の体から放たれた電力は、ロックマンには向かわない。それは、近くに放置されていた、巨大なドロップハンマーへと流れ込んだ。

電力は、ドロップハンマーの複雑な制御回路を乗っ取り、俺の意のままにそれを動かす。

ギィン…ゴゴゴ…

誰も動かしていないはずのドロップハンマーが、唸り声を上げながら、ロックマンのいる場所へと移動し始めた。

ロックマンは、その異常に気づき、驚愕の声を上げた。

「な、なんだ!? ドロップハンマーが勝手に!?」

「逃げ回ってばかりじゃ、ないさ…」

俺は、陰から静かに、ドロップハンマーの巨大な鉄塊を操作し、ロックマンの頭上へと振り下ろさせた。

ガッシャアァァン!!

岩装甲を誇るロックマンの頭上に、ドロップハンマーが直撃し、彼の厚い岩を叩き割った。

そして、俺の魔神雷が通るライン、岩が砕け、金属の破片が散乱した道筋が見えた。雷の通過するラインだ。

「とどめだ!」

俺は、そのラインに沿って、渾身の雷撃を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

雷は、抵抗の少ない金属の破片を伝い、岩の装甲が砕けた隙間から、ロックマンの本体へと直撃した。ロックマンは、一瞬で戦闘不能となり、倒れ伏した。

「チッ…。手ごわい相手だった。生き残った能力者は、皆強敵になっている。俺は、いつまで生き残れるのだろうか…」

俺は、勝利の達成感とともに、この先の戦いへの不安を、クールな装いで押し殺した。

戦いが終わり、バトル・フィールドが解除される。

俺は、すぐに倒れている女の子のもとへ駆け寄り、顔を覆う布を剥がした。

「葵! 大丈夫か!?」

しかし、覆面の下から現れたのは、星宮 葵ではなく、俺の恋人――赤羽 茜(スカーレットデザイア)の顔だった。

「響先輩…! 助けに来てくれたんですね…!」

茜は、安堵の表情を浮かべ、すぐに俺に抱きついてきた。

(…葵じゃなかったのか)

俺は、少しだけ力が抜けるのを感じた。

しかし、すぐにその感情を打ち消す。葵が安全だったことへの安堵と、女の子に抱きつかれている喜びが、俺の心を埋め尽くす。

「ふん。まあ、当然だ。お前は俺のラブデザイアのパートナーなんだからな」

俺は、茜の頭を軽くポンと叩き、いつものクールな装いを崩さなかった。

(やれやれ…女の子から抱きつかれるのは、いつになっても慣れねぇな!)

神鳴くんはクールを装う 4話

放課後、俺の部屋。

昨日、フォークダンスのバトルで俺に敗北した、炎の能力者『スカーレットデザイア』こと、赤羽(あかばね) 茜(あかね)が、俺の部屋にいる。お互いの素性を知った俺たちは、この戦いを生き抜くために情報交換をすることにした。

「へぇ、先輩は雷の磁力で鉄を操れるんですね。すごい!」

「お前こそ、炎の幻覚で陽動かけるとか、厄介なこと考えるな」

俺はベッドに腰掛け、茜は床に座って話している。ピカリスと、茜の妖精『スカーレット』も、お互い牽制し合うように、俺たちの肩の上で静かに様子を窺っていた。

しかし、俺の頭の中は、戦いの情報どころではなかった。

(くっ…女の子が、俺の部屋にいる…!)

クールな俺を演じるため、腕を組み、真面目な表情を貼り付けているが、心臓はドラムロールのように鳴り響いている。茜の私服姿、部屋に漂う甘い匂い…。茜の言葉はほとんど頭に入ってこない。

「だから、先輩。今は個別で動くよりも、お互いの弱点を補えるチームを組んだ方が合理的だと思いませんか?」

「…チ、チームか。まあ、理に適ってるな」

俺は、ろくに話も聞かずに、その提案に乗った。とにかく、茜が俺の部屋にいる状況を早く終わらせなければ、俺のクールな装いが崩壊しかねなかったからだ。

茜を近くの大通りまで送り届け、家に帰ると、家の前で幼馴染の星宮 葵が待っていた。

「あ、響! 遅いよ! ていうか、さっきの女の子、誰? 一年生でしょ? やっと彼女ができたの? 熱いね~!」

葵は、ニヤニヤと笑いながら俺を冷やかしてきた。俺は、茜が昨日まで命を懸けて戦った能力者であることなど、もちろん話せない。

(なんだよ、その反応…)

俺は、内心ガッカリした。少しでも葵にジェラシーを見せてほしかったのだ。昨日まであれだけベタベタしてきて、「響は私がいないとダメなんだから!」と言っていたくせに、俺に彼女ができそうな状況を前にしても、全く嫉妬のそぶりがない。

「お前には関係ないだろ」

俺は、強がりを言うことしかできなかった。

それから数日後。茜と会うことが、すっかり俺たちの放課後の日常になっていた。

俺たちは、いつものように近所の公園で、能力の連携について話し合っていた。

すると、俺たちの近くに、見た目がまったく同じ、双子の男子生徒が立っているのに気が付いた。双子だろうか、二人はピッタリと並び、俺たちを見ている。

双子は、同時に口を開いた。

「…レッツダンス ダブル」

ピカリスが「響、待って!」と慌てて制止に入ろうとしたが、俺の体はすでに反射で動いていた。

パシッ!

俺は、目の前の双子のどちらか片方の手を、反射的に叩き落としてしまった。

周囲の騒音が消え、静寂が包み込む。異世界バトル・フィールドへと転送された証拠だ。隣には、恋人つなぎで手を握ってきた茜がいる。そして、向かいには、やはり二人とも立っている双子の姿があった。

「コンビバトルを受けていただいて、ありがとうございます! 我々は光を操る『ラーの目(ラーズ・アイ)』! いざ尋常に!」

双子は、一人が力強く名乗りを上げた。

(2対2のコンビバトル…! ダブルってそういう意味か…!)

俺は、即座に空気を読んで、自分の名乗りを叫ぶ。

「神鳴 響! ライトニングボルケーノが相手になる!」

すると、俺に被せるように、茜が前に出た。

「そして、私はスカーレットデザイア! 雷と炎、愛の力で絡み合う、『ラブデザイア』! 受けて立つ!」

(ラブデザイアだと!? 勝手に、俺とのコンビ名を決めやがって…! でも、かっこいい…!)

俺の内心の動揺も知らず、口上を言い終わるのを待っていたかのように、双子から攻撃が飛んできた。

閃光と共に、一本の光線が放たれる。俺たちはそれをギリギリで避けた。光線が直撃した公園の滑り台が、一瞬で溶けてしまう。

「ひっ…!」

「大丈夫か、茜!」

一瞬でどうこうなる威力ではないが、数秒照射されれば致命傷になる。

「大丈夫です! でも、長時間はマズいですよ!」

俺たちは高を括っていたが、その直後、俺の背中に強い違和感が走った。違和感に気づき、慌てて飛びのく。俺がいた場所には、別の角度から光線が照射されていた。

「チッ、イリュージョンと同じ仕組みか!?」

俺は疑うが、正面から放った魔雷光は、双子の体には素直に通じた。しかし、双子は攻撃を避けるのが上手い。そして、なにより死角から攻撃が飛んでくるため、攻撃に集中できない。

俺たちは、とにかく逃げ回り、遊具や木々の影に隠れた。

逃げ回るうちに、俺は偶然、敵の手の内を理解した。

(攻撃の光は、一人の双子から放たれている…! もう一人は、その光を反射させたり、レンズを作ったりして、攻撃の角度を自在に変えている!)

双子は、一人が攻撃役、もう一人が補助役という、鉄壁のコンビネーションを使っているのだ。

「響先輩、種は分かりましたか!?」

「ああ! 光を操る奴が厄介だ! だが、どうする…このままじゃ、こっちの手数が足りねぇ!」

俺が焦り始めた時、茜が力強く言った。

「私に考えがあります! 私の新しい必殺技、まだ名前を決めてなかったんですが、今使います! 先輩、私の合図で、レンズや鏡になってる場所を狙ってください!」

茜は、呼吸を整え、両手を前に突き出した。

「燃えろ、アーク!」

茜の掌から放たれた炎は、これまでの炎とは違い、細く、青白い光を帯びていた。それは、周囲の遊具などに反射している光線のレンズ役となっているであろう、空気中の目に見えない一点へと、ピンポイントで到達した。

ジュッ!

茜の技『アーク』は、短時間で超高温を出す技だった。これで、双子が作り出した空気中のレンズや鏡が一瞬で熱により溶け、光線のコンビネーションが崩れた。

「しまった!」

双子が動揺し、攻撃の手が止まった、たった一瞬の隙。

俺は、迷わず叫んだ。

「魔雷光(まらいこう)!」

閃光と共に、強力な雷撃が双子を襲い、二人は意識を失って倒れた。

勝利の歓喜に包まれ、俺が安堵の息をついた瞬間、茜が駆け寄ってきて、強く抱きついてきた。

「やったー! 響先輩! ラブデザイア大成功です!」

「お、おい…離せよ、鬱陶しい」

俺はいつものようにクールに振る舞うが、心臓はバクバクだ。能力バトルに勝利した高揚感と、茜に抱きしめられているドキドキ感が混ざり合い、頭が真っ白になる。

そして、バトル・フィールドが解除された。

茜はまだ俺を抱きしめたままだった。ふと、俺の視界の端に、誰かが映った。

星宮 葵だ。

葵は、公園の入り口に立っており、俺と茜の抱擁シーンを目撃していた。

俺は、顔が火を噴きそうなほど恥ずかしくなり、身動きが取れない。葵は、怒るそぶりも、嫉妬するそぶりも見せていない。それどころか、穏やかな笑顔で、こちらに向かって小さく手を振ったのだ。

(敵の技はわかっても、女心はまったくわからない…)

俺は、葵の微笑みの真意も、茜の愛の力という名の勝利の抱擁も、どちらも理解できず、ただただ、クールな仮面を強く貼り付けることしかできなかった。

神鳴くんはクールを装う 3話

二度目のバトルから一ヶ月が過ぎた。

不良の三年生は、奇声を上げてゴミ捨て場に突っ込んだ後、数日学校を休んだだけで、今は大人しく学校生活を送っている。彼の能力は消え、ピカリスのリュックには、もう一つ灰色の妖精が加わった。

敵が現れない平和な日々。響は内心で安堵しながらも、常に警戒を怠らなかった。

(いつ、どこで、次の能力者が現れるか分からねぇ…)

俺は、すれ違う生徒、街行く大人、そして最も身近な星宮 葵に対してさえ、微かな疑心暗鬼を抱きながら日常を送った。葵が急に腕を組んでくると、「レッツダンス」の誘いかと身構える始末だ。もちろん、それをクールな装いで隠す。

「響~、早く行かないと、クラスの出し物見れないよ!」

「うるせぇ。どうせつまらねぇだろ」

今日は文化祭だ。クラスの出し物である喫茶店をさぼり、一人で屋上を目指していた響を、葵が追ってきた。

そして、文化祭の最後を飾るイベント、フォークダンスの時間になった。

(フォークダンス…! 女の子と触れ合える、数少ない時間…!)

クールな俺は「めんどくさい」「つまらない」という空気を出しながらも、心の中ではドキドキが止まらない。女子と手を取り合うなど、普段の日常では絶対にありえないイベントだ。

つまらなそうな表情を貼り付け、他の男子生徒に紛れて輪の中に入る。手が触れるたびに心臓が跳ね上がり、顔が熱くなるのを、必死にクールな表情で抑制した。

そして、パートナーが変わるタイミングで、俺の前に一人の女子生徒が立った。

その女子生徒は、俺たちよりも一つ下の、一年生のようだった。大きな瞳で俺を見上げ、屈託のない笑顔を向けてくる。

「次、よろしくお願いします!」

そして、その指が俺の手に触れた瞬間――女子生徒は、普通のフォークダンスの作法を無視し、いきなり指を絡ませる『恋人つなぎ』でがっちりと俺の手を掴んだ。

あまりにも突然で、俺のクールな装いは一瞬で崩壊しそうになった。心臓は爆音で鳴り響き、全身の血が頭に上るのを感じる。

(な、なんだこの距離!? さすがにドキドキマックスだ…!)

女子生徒は、俺の硬直した顔を見つめ、満面の笑みを浮かべた。そして、耳元に顔を近づけ、ごく小さな声で呟いた。

「…レッツダンス」

その言葉に、俺のパニック状態の頭は一気に冷静な戦闘モードへと切り替わった。

淡い期待は打ち砕かれ、戦闘に頭を切り替える

内心はパニックだが、顔には「全てお見通しだ」という強がりを張り付ける。動揺を悟られぬよう、俺は先に名乗りを上げた。

「俺は神鳴 響。能力は雷、『ライトニングボルケーノ』だ」

女子生徒は、俺の名乗りを聞くと、面白そうに笑った。

「え、なんですかそれ! 中二病みたい! クスクス」

女子生徒は、俺の二つ名を小馬鹿にするように言い放った。だが、すぐに引き締まった顔で、少しお高くとまったように言い放つ。

「でもせっかくだから私も教えてあげますよ。私は炎を操る『スカーレットデザイア』。一緒に、熱いダンスを踊りましょ」

やはり、結局同じ穴のムジナ、大層な名前を考えるタイプの能力者だ。

女子生徒は、バトル・フィールドへの転送が完了したのを確認すると、高らかに叫んだ。

「イリュージョン!」

女子生徒の周囲から、赤い炎が螺旋を描いて舞い上がり、体育館の中に熱気が満ちた。炎の幻影がいくつも生み出され、視界を遮る。しかし、炎自体に大したダメージはなかった。

(炎をまき散らしても、大した威力じゃない…チャンスだ!)

響は、幻影に惑わされず、突っ立っているであろう女子生徒に向かって、昨日開発したばかりの必殺技を放とうとした。

「魔雷光(まらいこう)!」

しかし、雷撃は空を切り、手ごたえは全くない。その次の瞬間、響の背中に強い電撃の刺激が走った。

「ぐっ…!」

響は慌てて飛びのいた。背中には、何かが突き刺さったような痛みが残っている。

女子生徒は、高らかに勝利を確信したように叫んだ。

「もう術中にはまってしまっているわ! 何もわからずにあなたは倒れる!」

訳が分からず、響は一旦逃げ惑うことを選択した。能力の正体が不明な相手とは戦えない。文化祭が開催されている学校全体がバトル・フィールドと化しており、校内での追っかけっこが始まった。

階段を駆け上がり、響は「まさか女子トイレには入ってこないだろう」という中学生的な思考で、女子トイレへと逃げ込んだ。

息をひそめていると、リュックの中でピカリスが声を上げた。

「響、今だ! 逃げ回ってる間に、君の脳と僕の演算回路が繋がって、第二の必殺技のイメージができたよ! 今、君の頭の中に流れ込んでいるはず!」

言われた通り、響の頭の中に、電磁波を応用した新たな能力のイメージが流れ込んでくる。それは、敵の神経に直接作用するような、強力な幻覚操作の技だった。

響は、少し息を乱しながらも、静かに口元を吊り上げた。

「…わかった。第二の必殺技の名前は…『魔眼(マガン)』だ」

響は、再び女子生徒の前に現れるべく、体育館へと戻った。女子生徒は、響を見つけると余裕の笑みを浮かべた。

「馬鹿ね! また戻ってきたの!? だったら、今度こそ終わりよ!」

「イリュージョン!」

再び炎の幻覚が響を取り囲む。陽炎のように揺れる幻影に、響は一瞬惑わされかけた。

(炎の幻覚…そして背中の痛み…!)

響は、背中に走った刺激の正体を、一瞬で悟った。

(あの「イリュージョン」は、炎の幻覚で注意を引きつけている間に、裏口から物理的に回ってきて、スタンガンで背中を刺すための陽動技だ!)

女子生徒は、響が体育館に入ったのを見届けた後、裏口から回り込み、忍び足で響の背後へと近づいていた。今度こそ、とどめを刺そうと、手に握ったスタンガンを響の背中に突き立てる。

しかし、その手ごたえは空を切った。

「何…!?」

女子生徒が驚愕する中、響は振り返り、女子生徒の瞳を見つめた。

「これが魔眼の力だ」

響の瞳が、一瞬、雷光を帯びたように見えた。魔眼は、相手の視神経に強力な電磁波を送りつけ、幻覚を見せる技。女子生徒の目に映っていたのは、響がまだ幻覚に惑わされて突っ立っている姿だった。

「ひっ…!」

響は、女子生徒が驚きに固まった一瞬の隙を逃さない。

「くたばれ!」

響が魔眼で操作したのは、女子生徒の足元の地面だ。女子生徒の視覚に、地面が突如として大きくえぐれる幻覚を見せた。

「きゃっ!」

幻覚に驚いた女子生徒は、思わず足をもつれさせ、転倒した。手からスタンガンが離れ、体育館の床に転がる。

響は、仰向けに倒れ、恐怖で目をつぶった女子生徒の上に、静かに立ち尽くした。

「…とどめを刺せ」

女子生徒は、目を閉じたまま、震える声で呟いた。

その言葉を聞き、響は無言で腕を降ろした。

「…女の子に、手は出せないぜ」

響は、あくまでクールに、そう吐き捨てた。

能力者同士の戦闘は、どちらか一方が戦闘不能になるか、あるいは両者の戦闘意思が消失した場合に終了する。

女子生徒が目を開けると、体育館の風景は、文化祭のざわめきと共に、現実のものへと戻っていた。校庭の賑やかな騒音が耳に入り、自分が許されたことを理解した。

響は、倒れている女子生徒に目もくれず、静かにその場を去った。能力を二つも公開してしまった恐怖が、背中を冷たく突き刺す。

響の遠ざかる背中を、女子生徒は呆然と見つめた。自分を倒し、とどめを刺すこともできたのに、それをしなかった。その強さと、その裏にある優しさに、女子生徒の胸は高鳴る。

(…かっこいい…)

彼女は、自分が、たった今敗北した相手に恋に落ちたことを知った。

翌日の通学路。

いつものように、神鳴くんはクールを装って、隣にいる星宮 葵の世話焼きを鬱陶しがっていた。

「おい、べたべたすんなって…」

「もう! 響ったら、ほんとすぐ怒るんだから!」

その時、二人の目の前に、一人の女子生徒が飛び出してきた。昨日、響に敗北した一年生だ。

女子生徒は、迷いなく葵を押しのけ、響に抱き着いた。

「響先輩! 昨日からずっと、先輩のこと考えてました! 私と付き合ってください!」

突然の行動に、葵は「えっ!?」と固まり、響は一瞬、顔を真っ赤にしてフリーズした。

「や、やれやれだぜ…!」

心の中で、小躍りしながらも、響は精一杯クールな声を出す。

「…離せ。鬱陶しい」

女子生徒の熱烈なアプローチに、響の「クールな装い」は、また一層強化されていくのだった。

神鳴くんはクールを装う 2話

凄まじい爆発の後、静寂が訪れた。辺りに残るのは、焦げた土の匂いと、降り続いた雨の湿気だけだ。先ほどまでミュージシャン風の男がいた場所には、煙を上げる黒い跡が残っている。

「勝った…のか?」

俺が呟くと、肩に乗っていたピカリスが、小さな手を上げてガッツポーズをした。

「やったよ響! 圧勝だ! あの人、能力者としての活動ができなくなっちゃったよ!」

『バトル・フィールド』の終焉が近いことを、俺は肌で感じていた。景色が揺らぎ始め、元の野原の風景に戻っていく。

「ふん。まあ、当然だ」

内心の興奮を抑え込み、俺はクールに言い放つ。だが、勝利の達成感はとてつもない。初めての戦い、初めての能力、初めての勝利。

ピカリスは震える声で言った。「あ、あの人、たぶん『アクア』系の能力者だったんだ。水を操ってバリアを作ったり、雨を降らせたり。でも、響の『魔雷光』に、まさか電気分解で爆発させられるなんて…」

「相手の能力を、そのまま利用させてもらっただけだ」

再び元の野原に戻ると、太陽はすでに西の空に傾き、夕焼けが広がり始めていた。

「とりあえず、このことは誰にも話すな。特に…」

俺がピカリスに口止めしている、ちょうどその時だった。

「響ー! どこにいるのよ!」

聞き慣れた、騒がしい声。それは、まさに俺が「特に」と口にしようとした人物のものだった。

「やっべ、葵だ…」

俺は慌ててピカリスを掴み、リュックの中に押し込んだ。ピカリスは「むぎゅっ」と小さな声を上げた。

「響、遅いよ! 委員会って言ってたけど、もうこんな時間だよ! 早く帰らないと暗くなっちゃうじゃん!」

野原の入り口から、星宮 葵が少し怒ったような、しかし心底心配しているような顔で走ってきた。体操服姿。どうやら、俺を待っている間に部活でもしていたらしい。

「うるせぇな。別に一人で帰れるだろ」

いつものように、つっけんどんに返す。さっきまで水素爆発を起こしていた男とは思えない、普通の中学生の顔に戻る。

「うるさくない! ほら、この野原の向こう、ちょっと暗くて怖いじゃんか! ねぇ、響、なんでこんなところで突っ立ってたの? 変なものとか見てない?」

葵は警戒するように野原を見回し、少し焦げた地面に気が付いた。

「うわ、なにこれ、焚き火でもしたの? 響、まさか野焼きとかしたんじゃないでしょーね!?」

「してねぇよ! 早く帰るぞ!」

俺は、焦げ跡から葵の意識を逸らすように、足早に歩き出した。リュックの中で、ピカリスが小さく震えているのがわかる。

葵は、俺の背中を見て、不満そうに口を尖らせた。

「全くもう! しっかし、響っていつもそうなんだから! 心配してるんだってば!」

そう言いながら、葵はすぐに俺の横に並び、再び、あのうっとうしい距離感で歩き始めた。歩く振動で、葵のリュックが俺の腕に触れる。

(うっ、うぜぇ…!)

俺は心の中で、強めに毒づく。しかし、リュックの中にいるピカリスに気付かれないよう、少しだけ体が硬くなるのを感じた。

「ねぇ、響。今日の給食のカレーパン、ちゃんと野菜残さず食べた? また残したんでしょ!」

「食ったよ!」

「嘘だ! 目が泳いでる! もう! 響は私がいないと、ほんとダメなんだから!」

葵はそう言って、まるで確認するように、俺の背中を、ポンポンと軽く叩いた。

家に帰り、自室のドアを閉めると、俺はすぐにリュックからピカリスを出した。

「ふぅ…危なかったよ、響。あの子、君の彼女?」

「ちげーよ! ただの幼馴染だ。余計なお世話でベタベタしてくる、鬱陶しいやつだ」

俺はソファーに座り込み、ピカリスを机の上に置いた。

「それよりも、さっきの戦いのことだ。ああいうのが、これから次々と来るのか?」

「そうだよ。妖精の王様を決める大会は、世界中で非公式に行われているんだ。能力者が君一人じゃないってことは、あのミュージシャンみたいな人が、他にもたくさんいるってこと」

ピカリスは、先ほどの興奮とは打って変わって、真剣な顔になった。

「そして、この大会のルールは一つだけ。『レッツダンス』の合意が成立すれば、そこで戦う。勝てば相手の妖精を奪うか、相手を大会から強制的にリタイアさせられる。負ければ、君の能力は消え、僕も他の能力者のものになるか、消滅する」

俺は腕を組み、冷静に考えるふりをした。

「つまり、俺たちは、常に周囲の人間を警戒しなきゃいけないってことか。誰が能力者かわからないからな」

「その通り! でもね、響。さっきの女の子…星宮 葵だっけ?」

ピカリスの言葉に、俺はビクッとした。

「なんだよ」

「彼女、君が戦いを終えて、異空間から戻った直後に現れたよね。もしかしたら、能力者は、戦いが終わった場所の近くに引き寄せられる性質があるのかもしれない…。あるいは、彼女も…」

「馬鹿なことを言うな。葵はただのドジで、余計なお世話な幼馴染だ。能力者なんて、ありえない」

俺はすぐにピカリスの言葉を否定したが、葵に背中を叩かれた時の、あの胸の微かな動揺が、まだ残っているのを感じていた。
翌日。

「響ー! 遅刻するよ、早く早く!」

今日も隣には、葵がいる。俺は、リュックの中のピカリスの存在を意識しながら、いつもより少しクールな装いを強める。

「うるせぇ。離れろ」

「もう! ほんと響は冷たいんだから!」

葵はそう言いながらも、楽しそうに笑っている。その時、俺たちの前を、一人の生徒が通り過ぎた。学年一の不良として知られる、図体の大きな三年生だ。

その不良が、俺と葵の前を通り過ぎる時、立ち止まり、葵に向かって声をかけた。

「よぉ、星宮。今日も可愛いな。俺とレッツダンスしねぇか?」

葵は怯えて、俺の背中に隠れた。俺は反射的に、不良に向かって睨みを効かせた。

(レッツダンス? こいつ、能力者…!?)

次の瞬間、俺は不良の腕を払い、ピカリスがいるリュックを庇うように、不良の前に立ちはだかった。

「何のつもりだ、てめぇ」

不良はニヤリと笑った。その笑みは、昨日戦ったミュージシャンと同じ、獲物を見つけた者の笑みだった。

目の前で不良がニヤリと笑うのを見て、神鳴 響は悟った。

(逃げても、無意味だ。こいつは戦う気だ。それに、この「レッツダンス」は、俺の能力を試すには絶好の機会だ…)

昨日逃げたのは、情報不足だったからだ。今は能力も技も、ある。

「ちっ。上等だ」

響は、不良の突き出された腕を払いのけず、むしろ自ら掌を叩きつけた。

パシッ!

響の手のひらが、不良の大きな手のひらに触れた瞬間、周囲の景色がブツリと途切れた。隣に立っていた葵が、驚いた表情のまま、一瞬で掻き消える。

そして、いつもの通学路が、瞬時にバトル・フィールドへと転送された。風景は同じだが、空気は張り詰めている。

「へっ、やるじゃねぇか、子猫ちゃん!」

不良は、響の同意を得たことに満足げに笑い、間髪入れずに突っ込んできた。

「死ね!」

響は、その巨体を受け流すように、反射的に横へ跳んだ。

不良の拳が叩きつけられたアスファルトが、深々と抉られる。響が身をかわした場所には、直径一メートルほどのクレーターができていた。

「なっ…!」

響が不良の腕を見ると、その腕は肩から先が巨大な、鈍く光る鋼鉄の斧へと変形していた。

不良は、響の驚きを察して、得意げに語りだした。

「へへ、驚いたか? 俺の能力は鉄(アイアン)だ。身体を好きなように鋼鉄化し、好きな形状に変形させることができる。『アイアンメイデン』の能力者だ、坊主!」

ほぼ同い年であろう相手の、能力名と二つ名を聞いて、響の心に中学生的な感性が沸き上がった。

(徹夜で考えた名前だろうな…! 名乗りに対して名乗らないのは、選ばれた者としての礼儀に反する!)

響は、昨日まで適当に決めたふりをしていた、とっておきの二つ名を引っ提げ、不良に向き直った。

「…神鳴 響(かみなり ひびき)だ。俺の能力は、雷を自在に操る力。『ライトニングボルケーノ』を持つ」

リュックの中で、ピカリスが小さく「ボルケーノって火山…響、ちょっと厨二病すぎない?」と呟いた気がしたが、響はそれを無視した。クールな装いは、こういった派手な名乗りで完成するのだ。

不良――アイアンメイデンは、響の能力名を聞いても、鼻で笑った。

「雷か。昨日も一人、雷使いを倒してやったぜ。鉄は電気を通すが、俺の鋼鉄化した肉体は、雷撃ごときじゃびくともしねぇ! むしろ、ただのショック療法だ!」

そう叫ぶと、アイアンメイデンは再び鋼鉄の斧腕を振りかざし、響に向かって突進してきた。

響は、その攻撃を紙一重でかわし続ける。アスファルトが砕け、街路樹が倒される。

(硬い…硬すぎる。昨日の水のバリアとはレベルが違う。真正面からの魔雷光では、バリアを吹き飛ばすのが精一杯だった。これを完全に貫通させるには、一瞬で核融合でも起こすレベルの熱量が必要だ…)

響は、逃げているふりをして、アイアンメイデンをある場所へと誘導していた。

「逃げてばかりじゃねぇか! やる気あんのか、ライトニングボルケーノ!」

アイアンメイデンが苛立ちを募らせた頃、響はちょうど、学校の裏手にある集積ゴミ捨て場へとたどり着いた。周りには、回収前の大量の金属ゴミや、錆びた自転車、空き缶などが山積みになっている。

響は、ここで足を止め、アイアンメイデンを振り返った。

「逃げていたんじゃない。準備を整えていたんだ」

「なんだと?」

アイアンメイデンが怪訝な顔をした瞬間、響は両手を前に突き出し、ゴミの山に向けた。

「残念ながら、俺のライトニングボルケーノは、単に雷を放つだけじゃねぇ」

響の体から、昨日よりも強力な紫色の電気が放たれる。しかし、それはアイアンメイデンには向かわない。電撃は、ゴミ捨て場一帯を包み込み、一瞬で磁界へと変えた。

「お前の能力は鉄だと言ったな。鉄は、電気をよく通し、そして、強力な磁力に引き寄せられる」

ギュルルルル…

響が、磁界の極を反転させた瞬間、ゴミ捨て場に山積みになっていた鉄くずや空き缶、自転車の残骸などが、一斉にアイアンメイデンに向かって襲いかかった。

「な、なんだこれ!? やめろ!?」

アイアンメイデンは、鋼鉄化した肉体を持っていたがゆえに、この超強力な電磁石の力から逃れられない。大量の金属ゴミが、轟音と共にアイアンメイデンの巨大な体を覆い尽くし、締め付け、動きを封じた。

「チェックメイトだ、アイアンメイデン」

響は、追い詰めた相手に、最後の雷撃を叩き込む。

「魔雷光(まらいこう)!」

ゴミの山に覆われたアイアンメイデンに、紫色の雷撃が直撃し、金属の山の中で、凄まじい放電と爆音が響き渡った。

激しい放電の数秒後、電磁場の効果が切れ、金属ゴミが地面に散らばる。その中心には、元の制服姿に戻った不良が、意識を失って倒れていた。彼に宿っていた妖精は、小さな灰色の塊となって、ピカリスの手に吸収された。

「勝ったよ! 響! すごいよ、雷の力で磁場まで操れるなんて!」

ピカリスが興奮してリュックの中で騒いでいると、バトル・フィールドが解除された。

景色が元に戻り、見慣れた通学路へ戻る。そして、目の前には、目を丸くして立ち尽くす、星宮 葵の姿があった。

葵は、不良が消えた方向と、響の顔を交互に見る。

「ひ、響…! 今、あのタカハシ先輩が、いきなり『うにゃー!』って叫びながら、ゴミ捨て場の方に突っ込んでいったけど…なにしたの!? 響、まさか、先輩に何か呪いでもかけた!?」

葵の頭の中では、響が不良をゴミ捨て場に誘導し、爆発的な力で倒したという現実は一切認識できていない。ただ、不良が奇声を上げて突っ込み、そして意識を失って倒れた、という絵面だけを見ているらしい。

(そうか、バトル・フィールドの外から見ると、能力者の行動は不自然な動きに見えるのか…)

俺は、一気に疲労を感じながらも、いつものクールな装いを崩さない。

「うるせぇ。勝手に転んだんだろ」

俺は倒れている不良には目もくれず、そっけなく答える。

「さっさと帰るぞ。べたべたするなよ」

「もう! 響ったら、またそんな! でも…なんか今日、響、ちょっと汗かいてるね? もしかして、先輩から逃げたんでしょ! ほら、ハンカチ!」

葵はそう言って、俺の額の汗を拭おうと、勢いよく手を伸ばしてきた。その余計なお世話と、手のひらから伝わる体温に、俺の心臓は再び、さっきの戦闘よりも激しく跳ねた。

(ああ、うぜぇ! でも、この緊張と弛緩の繰り返しが、もう日常になりつつあるのか…)

神鳴くんはクールを装う 1話

「おい、邪魔だって言ってんだろ! ベタベタすんな!」

俺、神鳴(かみなり) 響(ひびき)は、いつものように隣に立つ幼馴染に、精一杯の不機嫌をぶつけた。

「え~? 別にいいじゃん、響! ほら、今日の給食、カレーパン出るんだって! 残しちゃダメだよ、響はすぐ野菜残すんだから!」

星宮(ほしみや) 葵(あおい)は、まるで俺の悪態など聞こえていないかのように、俺の腕に自分のリュックをちょこんと当ててくる。その余計なお世話と、距離の近さが、今日の朝もまた鬱陶しい。

「うるせぇ。俺の勝手だろ」

そう、つっけんどんに返す。中学二年生、14歳。クールな俺を演出するには、こんな時こそぶっきらぼうに振る舞うべきだ。だけど、心臓がやけにうるさいのは、隣にいる体温のせいだ。本当は、葵の世話焼きが嬉しくて仕方ない。このベタベタした感じが、嫌じゃないどころか、むしろ…。そんなことは、絶対に顔に出さない。俺は、周りから一歩引いた、冷静沈着な男、というキャラで通しているのだ。多感な中身を、必死にクールな装甲で隠しながら、今日も学校への道を歩く。

その日の放課後、俺は一人、近所の野原を通りかかっていた。いつもなら葵が横でピーチクパーチク騒いでいる時間だが、今日はたまたま委員会で遅くなったため、久しぶりの単独行動だ。

ふと、草むらの中に、鮮やかな水色の物体が落ちているのを見つけた。ファンシーショップにありそうな、丸っこいキャラクターのぬいぐるみだ。

「なんだ、これ」

俺は足先で、そのぬいぐるみを軽くつついた。

その瞬間、水色の物体が「痛いよ!」と甲高い声で叫び、プイッと顔を上げた。それは、紛れもなく生き物だった。

「お、お前…!」

俺が驚いて一歩下がると、ぬいぐるみはピョコピョコと飛び跳ね、俺の膝の高さまで来た。

「やっと見つけたー! 僕の名前はピカリス! 君が僕のパートナーだよ!」

「は、パートナー?」

俺は平静を装おうと、無表情を貼り付ける。内心では、選ばれた民(エリート)のような高揚感が胸を突き上げていた。まるで、非日常の扉が開いた音を聞いたようだ。

「詳しく、説明しろ」

クールな声で促すと、ピカリスは得意げに胸を張った。

「実はね、僕らは妖精の王様を決めるための大会『フェアリー・クライシス』の参加者なんだ! 僕は、君みたいな人間(パートナー)に特別な能力を授けて、他のパートナー同士を戦わせる。最後に勝ち残った人間が、僕らと一緒に次の王様を決めるんだ!」

「能力…」

俺は、クールなふりをしながらも、前のめりになって質問した。

「その能力とやらは、一体どんなものだ?」

その時、背後から突然、チャラチャラとした陽気な声が割り込んできた。

「おや、新しい参加者かな?」

振り返ると、そこに立っていたのは、20代前半に見える、細身で長髪、いかにもミュージシャンといった風貌の男だった。黒のスキニーに、だらしないシャツを着ている。

「レッツダンス!」

男は、ニヤリと笑い、手のひらをこちらに向けてきた。反射的に、俺はその腕を払いのけた。

「触んな、うぜぇ」

男は、腕を払われたにもかかわらず、その笑みを深めた。

「勝負成立だな」

その直後、まるで殴られたような強い衝撃が、俺の腹部に走った。

ドォン!

見ると、さっきまで男が腕を向けていた空間から、透明な水の塊が飛んできていたのだ。男の目的は、俺ではなく、ピカリスだったらしい。水の塊は、俺をかすめて、ピカリスに直撃しようとしていた。

「うわぁ!やばいよ響!」

「ちっ!」

考えるより早く、俺はピカリスを抱きかかえ、その場から全力で逃げ出した。

全力で野原を突っ切りながら、ピカリスは震える声で状況を説明した。

「レッツダンスって言われて、相手と手を合わせたり、お互いが合意したりすると、戦いが始まるの! あの人、別の能力者だよ! 僕は、妖精が倒されちゃうと大会失格になっちゃうんだ!」

「逃げても、いつかは捕まるだろ。戦うしかないんだな」

俺は、冷静に状況を判断した。このまま逃げ続けても、状況は変わらない。

「そうだよ! さっきのレッツダンスって、君が腕を払ったから、拒否の合意として戦いが始まっちゃったんだ!」

「逃げてる途中で、戦いが始まっただと…?」

「そうだよ! でも安心して! この野原は、実際の場所をコピーした、戦い用の異空間(バトル・フィールド)になっているんだ! 僕と君、それからあの能力者以外はいない! どんなに周りを壊しても、誰も傷つかないから、好きに戦っていいんだ!」

その説明を聞き、俺の口元はわずかに緩んだ。内心では、「最高かよ…!」と叫びたい気分だったが、もちろんクールな表情を保つ。

「で、俺に授けられた能力とやらは、何だ?」

「えっとね、君の能力は雷(いかずち)だよ!」

雷。俺の名字、神鳴(かみなり)にぴったりの能力。やはり、俺は選ばれた男だ。

「発動には、技の名前が必要なんだ。かっこいい名前、決めてね!」

「技の名前、だと?」

俺は適当に考えたふりをしながら、心の中で、小学生の時から妄想で決めていた、とっておきの名を口にした。

「…魔雷光(まらいこう)だ」

俺たちが逃げ込んだ先の、茂みに隠れていたところへ、例のミュージシャンの男が追いかけてきた。

「見つけたぜ、子猫ちゃん。さっさと妖精を渡してもらうぞ」

男が踏み込んできたその瞬間、俺は茂みから飛び出し、腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

叫びと同時に、俺の腕から、まるで本物の稲妻のような、紫色の雷撃が弾け飛んだ。

しかし、男はたじろいだものの、すぐにニヤリと笑った。雷撃は男に当たったが、男の全身には水でできた薄い膜のようなバリアが張られており、男は無傷のようだ。

「へぇ、雷か。いいね、なかなか派手な能力だ」

男は状況を見て、さらに笑みを深くした。

「だったら、こいつで終わりだ! コールレイン!」

男がそう叫ぶと、バトル・フィールドの空に、急に厚い雲が現れ、ザーッと激しい雨が降り出した。

「なんだ…? ただの雨か?」

俺が意識を集中するが、ただ雨が降っているだけだ。

男は確信したように、勝ち誇って笑い出した。

「これでチェックメイトだ、坊主! お前の技は雷だと見た。このびしょ濡れで、また雷を打ってみろ。感電するのは、お前自身だ!」

男の判断は、もっともらしかった。濡れた体で雷を扱えば、確かに自分自身にもダメージがくるはずだ。

しかし、俺は動じない。

「やれやれ…。お前の浅知恵には、付き合ってられない」

俺はわざとらしく溜息をつき、再び腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

再びの電撃が、男に向かって飛ぶ。

バチィッ!

男のバリアは吹き飛ばされ、男は地面に叩きつけられた。だが、俺は無傷だ。

「ぐっ…な、なんで…!?」

男が驚愕する中、俺は淡々と言い放った。

「小学生でも知っているだろ。水が高いところから低いところに流れるように、電撃は発電場所から流れ戻ることはない。俺が能力の発動源である以上、電気は俺から相手へ流れる一方だ。お前の言うような感電は、この能力ではありえない」

男は、自分の誤算に顔を歪ませたが、すぐに立ち上がり、再度水のバリアを張り直した。

「くそ…! またバリアを張ればいい! お前の雷じゃ、これを貫通することはできないだろ!」

男は、バリアを貫通できなかったことを思い出し、安堵の表情を見せた。

だが、俺は静かに首を横に振った。

「残念ながら、これで準備は整った。チェックメイトだ」

俺は、一歩踏み出し、冷たい声で続けた。

「確かに、バリアを貫通はできない。だが、さっきの攻撃で、俺はお前の周りの水を電気分解した。今、お前のバリアの内側、そして足元には、酸素と水素が高濃度で充満している」

男の顔から、血の気が引いていくのがわかった。

「そこに、熱源が発生すると、どうなる?」

そして、俺はとどめの一撃を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

今度の雷撃は、男自身ではなく、男の足元の水たまりめがけて放たれた。

雷撃が水たまりに当たり、その火花が高濃度の水素と酸素の混合気体に引火した。凄まじい爆発音と共に、水と土が舞い上がり、男は黒焦げの躯となって吹き飛ばされた。

俺は、崩れ落ちる男の躯を、クールな表情で見下ろした。

(よっしゃああああ! 大勝利!!)

内心では、雄たけびを上げ、ガッツポーズを何十回も繰り返していた。俺のクールな装甲の下で、中学生の魂は、初めての異能バトルに興奮しきっていた。

ピカリスは、俺の肩で「すごいよ、響!」と喜んでいる。

「ふん、まあ、こんなものだろ」

俺は、誰にともなくそう呟き、何食わぬ顔でピカリスを抱きしめ直した。まだ戦いは始まったばかりだ。