願いの鏡

第一章:T県の午後と拾い物

関東平野の北部に位置するT県。国道沿いにはチェーン店が立ち並び、見渡す限りの平坦な景色が広がるこの地方都市に、国内有数の中堅工業製品メーカーの工場がある。

23歳の美咲は、そこの事務員として働いていた。

地元の商業高校を卒業して7年目。彼女の業務は、コピー取りや備品の補充、簡単なデータ入力といった、入社したての頃と変わらない雑用ばかりだ。キャリアアップとは無縁の生活だが、美咲に不満はなかった。

「難しいこと考えなくていいし、お給料もそこそこ貰えるしね」

彼女が入社できたのは、会社が地元採用枠を設けていたことと、彼女の持ち前の愛嬌が人事担当や地元の役人受けが良かったからに過ぎない。美咲自身、自分の頭が決して良くないことは自覚していたが、それを補って余りある「中の上」の容姿と愛想の良さが、彼女の最大の武器だった。

私生活もまた、平穏そのものだった。適度に男性から食事に誘われ、恋人がいない期間もそう長くはない。しかし、そろそろ結婚を意識し始めても、「この人だ」という決定的な相手には巡り合えずにいた。

ある秋の夕暮れ、美咲は部屋の模様替えを思い立ち、近所の巨大なリサイクルショップへ足を運んだ。

体育館ほどもある倉庫のような店内は、古着や家電、家具が雑然と積まれている。合コンのネタ作りや暇つぶしにはうってつけの場所だ。

ふと、インテリアコーナーの隅で足が止まった。

重厚な額縁に彩られた、西洋モダン風の壁掛け鏡。縁の装飾は凝っており、どこかアンティークな気品が漂っている。裏面には古びた文字で『Wunsch』と刻印されていた。メーカー名だろうか。

「へえ、なんかいい感じ」

値札を見ると『1,000円』。今の美咲でも迷わず買える金額だ。

「これなら私が映えるかも」

少し大きかったが、抱えられない重さではない。美咲は衝動的にその鏡を購入し、アパートへと持ち帰った。

第二章:魔女の真似事

帰宅後、リビングの一角に100円ショップで買った強力なピンを刺し、鏡をかけた。

少し離れて眺めてみる。殺風景な6畳間が、そこだけ切り取られたように華やいで見えた。

美咲は鏡の前に立ち、少しおどけてポーズを取った。一人暮らしが長いと、独り言が増えるのが悲しい習性だ。

「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのはだあれ?」

童話の魔女の真似事。当然、返事など期待していなかった。

しかし、一瞬の後、鏡面がぼんやりと白く発光し、部屋に低い男のような、しかしどこか無機質な声が響いた。

『美的感覚は人それぞれであり、現在は多様な価値観が存在するため、一番を決めることは困難です。しかし、多数意見を重んじるのであれば、本年のミス・ユニバース優勝者がそれに該当すると思われます。よろしければ、その人物を投影しましょうか』

美咲は悲鳴を上げることも忘れ、数秒間、口を半開きにして呆けてしまった。

幻聴か? いや、鏡は確かに光っている。

呆然とする美咲に、鏡は淡々と追撃する。

『特に不要のようですね。必要であればいつでもお声がけください。ご主人様に尽くすのが、私の使命ですので』

さらに数秒後、ようやく我に返った美咲は、慌てて叫んだ。

「そ、そのミスなんとかの人、映して!」

鏡の表面が波打ち、一人の黒人女性が映し出された。圧倒的なプロポーションと自信に満ちた笑顔。

「ふーん……思ったより可愛くないわね」

美咲は正直な感想を漏らした。自分の好みではない。

その瞬間、恐怖よりも好奇心と所有欲が勝った。これはとんでもない掘り出し物を手に入れたのかもしれない。

夕食のパスタを茹でながら、美咲は鏡の前に座り込んだ。まるで新しいSiriやAIスピーカーを手に入れた時のように、次々と質問を投げかける。そして、最も気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、私は日本で何番目に美しい?」

心臓が高鳴る。自分は可愛い。それは分かっている。クラスでも職場でも、常に上位にいたはずだ。

鏡は即答した。

『先ほどのご質問同様、明確な順位付けは困難ですが、客観的な顔面黄金比、肌質、体型データから推測しますと、およそ300万位から400万位前後かと思われます』

「はあ!?」

美咲は声を荒げた。300万位? そんなに低いわけがない。

しかし、しばらくして冷静さを取り戻すと、彼女の頭の中で都合の良い計算が始まった。

「待って。日本の人口って1億人以上いるでしょ? ってことは……300万位だとしても、上位3%から5%には入ってるってことじゃない!」

以前、バラエティ番組で「富裕層と呼ばれるのは上位5%」という話を聞いたことがある。

「私、容姿だけで言えば富裕層クラスってこと? つまり、玉の輿に乗れる器ってことよね!」

ショックは一転、強烈な優越感へと変わった。

美咲の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。この鏡は、真実を教えてくれる最高のパートナーだ。

第三章:蜜の味

それからというもの、美咲の日課は一変した。

仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、他人の不幸を覗き見るのだ。

「ねえ、いつもブランド自慢してる由美の預金残高教えて」

『……消費者金融を含め、現在200万円の負債があります。自転車操業状態です』

「やっぱり! あのバッグもリボ払いだったんだ!」

「マウント取ってくる既婚者の沙織は?」

『夫は現在、マッチングアプリで知り合った女性とホテルにいます』

「うわ、いい気味。幸せアピールなんてするからよ」

「会社のお局、高橋さんの家での様子は?」

『家族との会話は一日平均3分未満。自室で孤独にスマートフォンを操作しています』

「セクハラ課長の家庭は?」

『娘から生理的な嫌悪感を抱かれており、洗濯物は別にされています』

蜜の味だった。

自分より幸せそうに見える人間、自分を見下してくる人間。彼らの裏側にある惨めな真実を知るだけで、美咲の自尊心は満たされた。

質問はエスカレートし、過去の知人たちにも及んだ。

高校時代の元カレは、できちゃった婚をしたものの、生活感に溢れた冴えない奥さんと狭いアパートで暮らしていた。

クラスのマドンナだったあの子は、男に騙され、今は風俗店で働いているという。

いじめられていた地味な子は引きこもりに。私に告白してきた陰キャ男は、そこそこの企業に入ったものの、いまだに童貞のまま。

「ほら、やっぱり私が一番まとも。私が一番勝ち組に近い場所にいる」

一方で、面白くない事実もあった。

クラスで一番地味だったブスが、東京の大手商社マンと同棲していたり、自分より成績の悪かった子がベンチャー企業の社長夫人になっていたり。

「なんであんな奴らが」

嫉妬で胸が焼けそうになると、鏡は決まってこう言った。

『しかし、この状況が幸福であるか否かは、ご本人にしか分からないものです』

「うるさいわね、データだけ出しなさいよ」

美咲にとって、鏡はただの道具であり、教師のような説教は不要だった。

美咲の婚活にも、鏡はフル活用された。

合コンやデートの後、相手の品定めを鏡に依頼するのだ。

「今日の商社マン、預金いくら? 車は何?」

「趣味は? マザコンじゃない?」

鏡が告げる「真実」は、常に美咲を失望させた。貯金が少ない、隠れた借金がある、実家の母親と仲が良すぎる、変な性癖がある……。

『欠点のない人間など存在しませんが』

鏡の忠告も耳に入らず、美咲は次々と男たちを切り捨てていった。

「私には、上位5%の私には、もっと相応しい完璧な男がいるはず」

そんなある日、美咲はふと思いついた。

「ねえ、あなた、未来のことは分かるの?」

『未来は常に不確定です。この質問をした瞬間にも、無数の分岐が生まれています』

「じゃあ、私の一番可能性の高い未来を教えてよ。誰と結婚して、どんな生活をしてるの?」

鏡は、初めて長い沈黙を作った。

そして、低く重い声で告げた。

『その質問に答えた場合、”死”に繋がる可能性がありますが、それでも聞きますか?』

今まで即答していた鏡が、躊躇った。

「死」という言葉の響きに、美咲は背筋が凍る思いがした。

(私が死ぬってこと? それとも……)

得体の知れない恐怖を感じ、美咲は首を振った。

「……やめておくわ」

まだ20代。未来なんて聞かなくても、きっと明るいものが待っているはずだから。

第四章:残酷な数式

それから、20年の時が流れた。

美咲は43歳になっていた。

彼女の婚活は、失敗に終わっていた。

高卒で入社した会社では、40代になっても平社員のまま。後輩たちが役職につく中、簡単な雑用とお茶汲みを続ける彼女の存在は、もはや「愛嬌のある看板娘」ではなく、「扱いにくいお局」として疎まれていた。

それでも美咲は諦めきれず、週末ごとの婚活パーティーやマッチングアプリでの出会いを繰り返していた。

だが、現実は残酷だった。

20代の頃は選び放題だったはずが、今では選ばれることさえ稀になった。たまに言い寄ってくるのは、介護が必要な親を抱えた初老の男性や、再婚相手を探す子持ちの男性ばかり。

「私には相応しくない」

美咲は自分を慰め続けた。

「だって私は、日本の上位5%の美女なんだから。安売りしちゃダメ」

しかし、そこには致命的な数字のからくりがあった。

23歳のあの日、彼女は「人口1億人」を分母に計算して喜んでいた。

だが、恋愛市場における「価値」を測るなら、分母は「全人口」ではない。

「女性」であること。さらに「同世代(婚活対象年齢)」であること。

これらをフィルタリングすると、分母は1億人から数千万人、さらには数百万人にまで激減する。

その数百万人の同世代女性の中での「300万位から400万位」。

それは上位5%の選ばれし美女ではなく、上位30%から40%――つまり、「中の上」あるいは「ごく平凡」な順位でしかなかったのだ。

若さというゲタを履いていた20代ならともかく、40代になった今の彼女に、その順位を覆す武器は何も残されていなかった。

第五章:答え合わせ

ある孤独な夜、美咲は久しぶりに鏡の覆いを取った。

ここ数年、現実を見るのが怖くて封印していたのだ。

埃をかぶった鏡に映る自分は、目尻の小じわが目立ち、口元は不満でへの字に曲がっている。

「……ねえ、みんなはどうしてる?」

自分を慰めるために、かつて見下していた人々の「今」を聞くことにした。

「ブランド自慢の由美は?」

『借金返済のために夜も働き、その経験を活かしてファイナンシャルプランナーの資格を取得。現在は独立し、年収1000万を超えるキャリアウーマンです』

「……は?」

「不倫されて離婚した沙織は?」

『離婚後、苦労の末に誠実な男性と再婚。二人の連れ子と共に、穏やかな家庭を築いています』

「会社のお局だった高橋さんは?」

『定年退職後、長年の趣味だった陶芸教室を開き、そこで知り合った友人と良好な関係を築いています』

「セクハラ課長は?」

『娘の出産を機に和解し、現在は孫煩悩な祖父として慕われています』

美咲の手が震えだした。

「じゃあ、あの人たちは? 元カレは?」

『子供たちは独立し、夫婦二人で旅行を楽しんでいます』

「風俗で働いてたあの子は?」

『店に来た変わり者の資産家に見初められ結婚。現在は海外に移住し、慈善活動を行っています』

「引きこもりだった子は?」

『オンラインでの仕事を経て社会復帰し、地元のスーパーで店長を任されています。人望も厚いようです』

誰もかれもが、20年の時を進んでいた。

泥沼でもがいたり、失敗したり、傷ついたりしながらも、彼らは「変化」し、「積み重ね」ていた。

止まっていたのは、高みの見物を決め込み、他人を見下していた自分だけだった。

最終章:崩壊

絶望の果てに、美咲は震える声で問いかけた。

20年前に封印した、あの質問を。

「……私の未来は、どうなるの」

鏡は静かに、しかし冷徹に答えた。

『あなたは、他人と自分の幸せを比較し続け、自身の足元を見ることを疎かにしてきました。あなたが23歳の時に思い描いていた理想の未来は、もはや統計的に0%に等しいでしょう』

「そんな……」

『現在の行動パターンのまま推移した場合、今日の繰り返しが死ぬまで続きます。親の介護、自身の健康悪化、そして経済的困窮。誰にも看取られることのない、孤独な老後が待っています』

「やめて! 言わないで!」

『しかし、未来は不確定です。今日、今この瞬間から、他者への関心を捨て、自身の生活を改めれば……』

「うるさい、うるさい、うるさい!!」

美咲は叫び、近くにあった重い花瓶を振り上げた。

見たくない現実。聞きたくない正論。

「あんたなんかいなきゃ、私は幸せな夢を見られたのに!」

ガシャンッ!!

激しい破砕音が狭い部屋に響き渡った。

美しい西洋モダン風の鏡は粉々に砕け散り、床一面に銀色の破片を撒き散らした。

『Wunsch(願い)』と刻まれたプレートが、ひしゃげて転がる。

「はあ、はあ、はあ……」

肩で息をする美咲の耳に、もうあの声は届かない。

鏡の予言通り、未来を告げたことで、鏡はその「命」を終えたのだ。

後に残されたのは、散乱したガラス片と、それに映り込む無数に分割された、老いて歪んだ自分の顔だけ。

美咲はその場にへたり込み、喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

その泣き声は、薄い壁を隔てた隣人に「うるさいおばさんだな」と舌打ちされるだけで、誰の心にも届くことはなかった。

ラストエクスプレス

序章:始点、札幌

夜の帳が下りた札幌は、雪が微かに舞い始めていた。ネオンの光が湿ったアスファルトに反射し、未来的な円形をした「札幌・地下鉄(サブテレイン)中央駅」の巨大なドームを照らしている。

私、志摩(しま)アオイは、28歳。北海道大学で海洋地質学を研究する傍ら、今はある個人的なミッションのために、この駅のプラットフォームに立っていた。

目の前に広がるのは、単なる地下鉄ではない。それは、「弾丸地下鉄(サブテレイン・エクスプレス)」、通称「T-REX(ティーレックス)」。

20XX年に完成したこの国家プロジェクトは、宗谷岬近くの稚内から、遠く南の鹿児島・指宿まで、日本列島を縦断する巨大な地下トンネルである。全長約3,000キロメートル。そしてその移動時間を劇的に短縮しているのが、通路全体に敷き詰められた**「多段階加速型ムービング・ウォーク」**だ。

「内側(中央)から外側(壁側)へ、加速は徐々に、滑らかに速くなります。最も外側のレーンでは、時速約1,000キロメートルに到達。安全のため、レーン間の移動は指定されたスポットでのみ行ってください。」

駅のAI音声が、変わらぬ注意喚起を繰り返す。通常、北海道から鹿児島まで3時間。まさに、時間と距離の概念を破壊した奇跡のインフラだ。

アオイは、大きな旅行鞄を抱え、慣れた様子で最も内側の「ウォーミングアップ・レーン」に乗った。ゆっくりとした速度で体が押し出される。

「よし、3時間で着く。あの人に会うためなら、これしかない。」

アオイはポケットの中の、古びた手紙を握りしめた。手紙には、かすれた文字でこう書かれていた。

アオイ。私はもう、永くない。最後に、このトンネルのある秘密を、鹿児島で伝えたい。急いでくれ。

差出人は、アオイの祖父、志摩コウイチ。T-REXの建設を技術面で指揮した、天才的な土木工学者だ。

一章:加速する旅路

列車ではなく、ただの「動く歩道」で時速1,000キロメートルを体験するというのは、常識を超えた感覚だ。

アオイはまず二つ目の「リニア・レーン」(時速100キロメートル)へ移動した。体を包む透明なシールドが、風圧から守ってくれる。地下深く、地熱と地磁気が共振するトンネル内は、わずかな振動と低い唸り声に満ちている。

スマホのGPS表示は驚くべき速度で南下している。

  • 札幌 $\to$ 仙台:通過まで約30分
  • 仙台 $\to$ 東京:通過まで約45分
  • 東京 $\to$ 名古屋:通過まで約15分

アオイは、目を閉じ、最も速い「超音速レーン」に移る準備をした。そこでは、地上の景色は全く関係ない。ただの**「時間短縮」**という行為そのものと向き合うことになる。

その時、トンネル内部の特殊な照明が、不自然な赤色に点滅し始めた。そして、AI音声が緊急のアナウンスを流す。

緊急停止命令。全てのレーンで、ただちに速度を落とし、最寄りの緊急待避エリアへ移動してください。地下深部で地磁気異常を検知。繰り返します…」

アオイは反射的に、最も速度の遅いレーンへと戻り、緊急待避エリアのランプが点灯した壁側の扉を押し開けた。

二章:闇の中の囁き

待避エリアは、堅牢なコンクリートで囲まれた小さな空間だった。他にも数名の乗客が戸惑いながら集まっている。

アオイは地質学者としての知識から、すぐに違和感を覚えた。

「地磁気異常? このトンネルは、地磁気の影響を最小限に抑える特殊なシールド構造になっているはず…」

その時、アオイの祖父からの手紙を思い出した。彼は単なる工学者ではない。コウイチは、日本の地下深部に眠る**「あるエネルギー源」**の存在を研究していた。

彼はT-REXが、そのエネルギー源への「鍵」になることを知っていたのではないか?

アオイはスマホを取り出し、祖父が以前、冗談交じりに教えてくれたT-REXの緊急システムコードを入力した。すると、待避エリアの壁に隠されていた小型モニターが起動した。

モニターには、トンネルのリアルタイム地質データが表示された。

「やっぱり…!異常なデータだ。これは地磁気異常なんかじゃない。トンネルの真下、マントル近くで膨大なエネルギーが蓄積している…」

その時、待避エリアの扉が、外側から激しくノックされた。

「開けてください!私は警備局の者です。トンネルの緊急事態です!」

アオイは動かなかった。この情報が外部に漏れれば、混乱が起きる。祖父が言いたかった秘密は、この地下深部のエネルギーと関係しているに違いない。

アオイは緊急停止した動く歩道を避け、トンネルの壁に沿って設置された「点検通路」を走り始めた。南へ、鹿児島へ、祖父のいる場所へ。

三章:鹿児島、終点

約1時間半後。アオイは、どうにかトンネル内部の点検車両を乗り継ぎ、予定より大幅に遅れたが、鹿児島・指宿の地下駅にたどり着いた。

駅舎の構造は、札幌と対照的だ。未来的なドームではなく、古い石造りの重厚な建物。

アオイはすぐに駅の最深部にある、祖父の研究室へと急いだ。

志摩コウイチは、部屋の中央にある古い木製の椅子に座っていた。窓の外からは、薩摩富士・開聞岳の稜線が、朝焼けの中にぼんやりと見えている。

「…アオイ。よく来てくれた」祖父は弱々しく微笑んだ。

「おじいちゃん!あの地磁気異常は?T-REXの秘密って、何なの?」

コウイチは、テーブルの上に置かれた小さな、古ぼけた地図を指差した。

「アオイ。このT-REXは、ただの移動手段ではない。これは、日本列島の地下深くに眠る、巨大な**『地熱エネルギー網』**を起動させるための…導管なのだ。」

コウイチは続けた。「トンネルの掘削は、私が計画したものよりも深く進んだ。その結果、マントルの熱が、トンネル全体を**『超伝導体』のように機能させている。つまり、T-REXの『動く歩道』は、実は日本列島全体を循環させる巨大なエネルギー発電機**なのだ。」

アオイは息をのんだ。北海道から鹿児島まで3時間という短縮技術は、この巨大なエネルギーを隠すための、そして、利用するためのカモフラージュだったのだ。

「しかし、そのエネルギーの出力が、想定を超えて上昇している。トンネルが熱暴走すれば…日本列島全土に巨大地震を引き起こす。それが、さっきの『異常』の正体だ。」

コウイチは、アオイの手に、地図と古い起動キーを握らせた。

「あの鍵は、この指宿の地下にある、T-REXのエネルギー制御炉を停止させるためのマスターキーだ。しかし、停止させれば、日本はすべての電力を失う。…アオイ。お前は、人類の移動の自由列島の存続、どちらを選ぶ?」

朝の光が、地下の部屋に差し込み始めた。アオイは、手の中の鍵と、目の前の祖父、そして未来の日本の姿を交互に見つめた。

彼女に残された時間は、3時間という短縮された移動時間によってもたらされた、わずかな猶予だけだった。

四章:葛藤—3,000キロの愛と責任

指宿の地下研究室に、静寂が訪れた。朝焼けの光がコウイチの顔を微かに照らし、彼の衰弱を際立たせる。

アオイは震える手で、マスターキーを握りしめた。

「おじいちゃん…停止させたら、日本中の電力は…」

彼女の脳裏に、真っ先に一人の男の顔が浮かんだ。

タケシ

彼は東京の大手電力会社で、**「新エネルギー統合管理システム」**の責任者を務めている。そのシステムこそが、このT-REXが生み出す超伝導エネルギーを、日本全土の送電網に安定して流し込むための心臓部だ。

アオイとタケシは、札幌での学会で出会った。アオイが「地下の秘密」に夢中になる一方で、タケシは「未来の安定」を信じていた。

――「アオイ、君が研究しているのはロマンかもしれないが、俺たちが管理しているのは、人々の日常だ。このT-REXシステムは、エネルギーの革命なんだ。もう誰も、停電の恐怖におびえる必要はない」

タケシの言葉が蘇る。

もし今、アオイがこのキーを使えば、T-REXはただの「動く歩道」に戻るだけではない。日本列島を網の目状に覆う彼のシステムは、供給源を失い、一瞬で機能停止するだろう。病院、交通、通信…そして、タケシが全てをかけて作り上げた「日常」が崩壊する。

「おじいちゃん…タケシは、このシステムに人生を懸けている。もし電力網が崩壊したら…彼は、彼らの会社は、どうなるの?」アオイの声は掠れていた。

コウイチはゆっくりと目を開けた。「タケシ君か。あの真面目な青年なら、私がこのトンネルを掘る前に、彼の会社の幹部を説得すべきだったかもしれん…だがな、アオイ。『日常』とは、明日があるからこそ日常なのだ

コウイチは激しく咳き込んだ。「今、停止させねば、溜まりすぎたエネルギーは、プレートの歪みを限界まで押し上げる。3時間で東京に着く便利さと引き換えに、私たちは、この列島を失うのだぞ」

アオイは地図とキーをテーブルに叩きつけた。

「違う!何か別の方法があるはずよ!停止以外の方法で、エネルギーを逃がす方法が!」

彼女は研究室のモニターを睨みつけた。地質データが示すエネルギーの数値は、もはや待避命令を出した時の比ではない。グラフは垂直に上昇し、**「臨界点まで残り10分」**という赤文字が点滅していた。

「10分…」

タケシの声が、再びアオイの頭に響く。

――「アオイ。もし本当に緊急事態が起きたら、俺は現場から動けない。君は、自分の信念に従って動け。それが俺たち二人の、未来を守る唯一の方法だ」

タケシは、常に最悪の事態を想定していた。彼の会社がシステムの停止を外部から遠隔で試みても、このT-REXの中枢は地下深くにあり、物理的なキーでしか停止できないことを、彼は知っていたのかもしれない。

アオイは決断した。

「おじいちゃん…私は、タケシの日常を壊してでも、日本の明日を選ぶ。でも、完全に停止はしない。ギリギリまで、何かを探す」

アオイは研究室の隅に隠されていた、コウイチの自作の小型地磁気シールド発生装置を見つけた。

「このシールドを、制御炉に!停止させる前に、エネルギーを一時的に**『トンネル外へ』**逃がす方法を探す!」

彼女の持つ知識と、タケシへの愛と、列島への責任。その全てを賭けた最後の行動が始まった。臨界点まで、残り5分。アオイはキーを手に、制御炉のある最深部へと、駆け出した。

五章:マスターキーと、ゼロ秒の決断

地下研究室から続く、ひんやりとした金属の階段を駆け下りるアオイの足音が、静寂な地下施設に響き渡った。

「臨界点まで残り3分!」

彼女の心臓は警報の赤色点滅に合わせて激しく打ち鳴らされている。手には、日本列島の未来を握るマスターキー。目の前には、巨大な鋼鉄の扉。その奥に、T-REXの心臓、超伝導エネルギー制御炉がある。

扉には厳重なパスコードが求められたが、祖父のコウイチが残したヒント、「アオイ、君が生まれた日の緯度と経度だ」を思い出し、瞬時にコードを解除した。

重々しい扉が開き、アオイは制御炉の部屋へと入った。

部屋の中央には、巨大な球状のリアクターが鎮座していた。周囲の壁一面に張り巡らされたケーブルとコンデンサーが、地球内部からの膨大な地熱エネルギーを吸収し、それを3,000キロメートルのトンネルへと吐き出す。しかし今、そのリアクターは、赤熱した溶岩のように脈打ち、不安定な唸り声を上げている。

リアクターのメインパネルには、赤い文字で警告が表示されていた。

CRITICAL POINT: 00:01:30 緊急停止を推奨します。日本列島に構造的損傷のリスク。

「1分半…」

アオイは、最後の可能性を探るべく、祖父が残したシールド装置を起動させた。装置はかすかな光を放ったが、膨大なエネルギーの渦の前では、あまりにも非力だった。地熱エネルギーはシールドの限界を超え、部屋全体が震え始めた。

天井からパラパラとコンクリートの破片が落ちてくる。地震の前触れだ。

アオイは悟った。祖父が鍵を彼女に託したのは、他の選択肢がないことを知っていたからだ。タケシのシステムを救うことも、彼女の非力な技術でエネルギーを制御することも、許されない状況に来ていた。

彼女はタケシを想った。彼の誠実な瞳、システムの完成を喜んだあの日の笑顔、そして、いつも彼女の身を案じる温かい声。彼の努力が、一瞬で無に帰す。彼の仕事、彼の誇り、彼の築き上げた未来が。

「ごめんなさい、タケシ…」

アオイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

CRITICAL POINT: 00:00:10

彼女は迷いを振り払い、停止用スロットにマスターキーを挿し込んだ。

カチッ

リアクターの脈動が、一瞬だけ止まった。

CRITICAL POINT: 00:00:05

アオイは、キーを力いっぱい右へ回した。

ガチッ!

CRITICAL POINT: 00:00:00

次の瞬間、部屋全体を包んでいた灼熱の熱と、不安定な唸り声が、完全に消滅した

すべてが終わった。

巨大リアクターの赤熱は冷め、鈍い灰色に戻った。日本列島を貫いていたエネルギーの循環は停止し、T-REXの多段階加速型ムービング・ウォークは、その機能を完全に失った。

アオイは、その場にへたり込んだ。疲労と、途方もない喪失感に襲われた。

「…成功だよ、アオイ」

背後から、コウイチの弱々しい声が聞こえた。彼はいつの間にか、アオイのそばに立っていた。

「おじいちゃん…電力は?タケシのシステムは?」

「T-REXのエネルギーは、完全に遮断された。だが、タケシ君のシステムは優秀だ。供給停止を検知し、瞬時に旧来のバックアップ電源に切り替わったはずだ。一時の大混乱は免れないが、大規模な崩壊は起こらない」

コウイチは、アオイの頭を優しく撫でた。「君は、3時間の移動の便利さ、そして、彼の未来の仕事と引き換えに、この国そのものを救ったのだ」

アオイの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。安堵と、タケシへの申し訳なさの涙だった。

終章:新たな旅路

数日後。

T-REXトンネルは閉鎖され、地質学的調査が入っていた。日本中のニュースは「原因不明の全国的停電」とその後の大混乱、そしてT-REXという「夢のインフラ」の突然の停止を報じている。

アオイは札幌へ戻るために、鹿児島空港にいた。もう「3時間」で移動することはできない。

その時、彼女のスマホが鳴った。タケシからだった。

「…タケシ」

「アオイ、無事か。ニュースを見たよ。信じられない…あのT-REXのせいで、俺のシステムは地獄を見た。何日寝てないか分からないくらいだ」タケシの声は、疲れていたが、怒っている様子はなかった。

「ごめんなさい…」アオイは絞り出すように言った。

「…何が原因だったのかは、今は誰も知らない。でも、俺は一つだけ確信していることがあるんだ」

タケシは少し間を置いた。

「もし、あの時、もう少し対応が遅れていたら、本当に全国のインフラは破壊されていた。誰かが、ギリギリのタイミングで、この国の心臓を停止させた。そのおかげで、俺たちは最悪の事態を免れたんだ」

タケシは続けた。「俺は、またシステムを再構築する。今度は、もっと安全で、本物の未来を築く。アオイ、君が北海道から戻ったら、話したいことがある」

アオイは涙を拭った。「ええ。私も、話したいことがあるわ」

彼女はスマホを握りしめ、飛行機の搭乗口へ向かって歩き出した。北海道から鹿児島まで、3時間で移動できた時代は終わった。今、彼女とタケシの間には、飛行機でも数時間かかる、現実的な距離が横たわっている。

しかし、その距離は、アオイが守り抜いた「明日」の上にある。そして、その距離を埋めるための、新たな、ゆっくりとした、確かな旅が、今、始まろうとしていた。

エピローグ:次なる夢と、地下の深淵

数ヶ月後。冬の厳しい寒さが和らぎ、札幌にも春の兆しが見え始めた頃。

アオイは、北海道大学の研究室で、祖父コウイチの遺した膨大な地質データを整理していた。T-REXの件は、政府によって「未曾有の電力システム障害」として処理され、地下トンネルの真相は闇に葬られたままだ。

しかし、アオイの心は晴れていた。タケシとは、頻繁に連絡を取り合っている。彼はT-REX停止後、システム再建のヒーローとして奔走しており、二人の関係は、困難を乗り越えたことで、以前よりも強固なものになっていた。

研究室の小さなテレビで、夜のニュースが流れている。アオイは作業の手を止め、画面を見た。

ニュースキャスターは、輝かしい笑顔で原稿を読み上げている。

「…そして、次なる人類の偉業が、ついに実現へと近づいています。日本とアメリカ合衆国、サンフランシスコを結ぶ**『環太平洋海底トンネル』**の建設工事が、いよいよ最終段階に入ったとの報告です!」

アオイは息を飲んだ。その計画は知っていたが、完了が近づいているとは知らなかった。

「このトンネルも、日本のT-REXと同じく、超高速移動を可能とする**『多段階リニア加速システム』を採用。さらに、トンネルの運営には、安定した地熱エネルギーが必要不可欠であるとされています。しかし、一部の専門家からは、深海と地熱が複合する環境での工事、そして『未知なる地殻エネルギーの不安定性』**を指摘する声も上がっています」

画面には、太平洋の深海断面図のCGが表示される。T-REXの比ではない、途方もなく深い海底下のトンネルだ。

ニュースキャスターは、これらのリスクを「未来への挑戦」として軽くあしらい、海底トンネル開通の明るい展望を強調して話を終えた。

アオイは、テレビに向かって静かに呟いた。

「『未知なる地殻エネルギーの不安定性』…それは、T-REXで私が直面したものと、同じ深淵だわ」

彼女の祖父、コウイチは、T-REXが「導管」であると語った。もし、あの環太平洋トンネルも、同じように地球深部のエネルギーに手を出すための構造物だとしたら?

アオイは、机の引き出しから、コウイチが残した、T-REXの建設に使われた特殊な掘削技術に関する論文を取り出した。そこには、地熱の利用法だけでなく、その危険な制御法についても記されている。

「タケシの日常を、二度と危機に晒すわけにはいかない」

北海道から鹿児島までの3時間の旅路は、アオイに技術者としての知識だけでなく、危機に立ち向かう覚悟を与えた。もう、誰かの秘密に頼るのではない。

アオイは、タケシに電話をかけた。

「タケシ。私、東京に行くわ。そして、環太平洋海底トンネルの設計図を手に入れる。その『未知なる地殻エネルギー』と、徹底的に向き合う必要がある」

受話器の向こうで、タケシは少し驚いた後、力強く答えた。

「わかった。君が選んだ未来なら、俺が全力でサポートする。…だが、一つだけ約束してくれ。今度の旅は、3時間で終わらせるな。焦らず、ゆっくりと、確かなものにしてくれ」

アオイは微笑んだ。

「ええ。もう、あの弾丸地下鉄は使わないわ」

北海道の窓から差し込む、春の柔らかな光を浴びながら、アオイは未来へと続く、新たな長旅の準備を始めた。それは、太平洋を越えて、深海へと続く、科学と責任の旅だった。

裸の王様

佐々木健一(38歳)のデスクは、今日も書類の山で埋もれていた。 「佐々木さん、この資料、数字が合わないんですけど。何度言ったら分かるんですか?」 年下の上司が溜息交じりに書類を突き返す。その背後では、女子社員たちがランチの相談をしながら、健一の方を一瞥してクスクスと笑っていた。

(俺は、お前らとは違うんだ)

健一は心の中で毒づく。学生時代、偏差値は常にトップクラスだった。一流大学を出て、誰もが知る大企業のそのまた子会社に入社した。本当は親会社に行くはずだったが、面接官が俺の知性を理解しなかっただけだ。 勉強はできた。だが、悲しいことに彼は「仕事」ができなかった。マニュアルにない事態にはフリーズし、他人の感情の機微には驚くほど鈍感だった。

そんなある夜、帰宅後の缶ビール片手に眺めていたスマホ画面に、運命の広告が流れた。

『まだ会社に搾取されているのですか? 脱サラして、あなたらしい生き方を』

再生された動画では、成功した元サラリーマンが高級車を背に語っていた。「オーナーという自由」「自分だけの城」。 その甘美な響きは、健一の乾いた承認欲求に火をつけた。

「素晴らしい経歴ですね、佐々木さん! あなたのような聡明な方こそ、オーナーに向いている」

コンサルタントの言葉は、久しぶりに浴びる称賛のシャワーだった。説明会ですっかり気を良くした健一は、勧められるがままに開業を決意する。 商材は「メキシコ料理」。 学生時代、卒業旅行で数日滞在したカンクンでタコスを食べた。ただそれだけだ。料理への情熱も、メキシコ文化への造詣もない。しかし、彼にとってそれは「人とは違う特別な経験」という記号だった。

「場所は銀座にしましょう」 「銀座? 家賃が高いのでは?」 「佐々木さん、ブランドですよ。あなたのようなハイレベルな人間が店を出すなら、それに相応しい土地でなければ」

その言葉に、健一はニヤリと笑った。そうだ、俺には銀座が似合う。

店名は『エル・レイ(王様)』。 オープンから三ヶ月は、物珍しさとコンサルが手配したサクラ、そして開店景気で席は埋まった。

「いらっしゃいませ」とは言わない。「オラ」と言えと命じた。 水を持ってこいと言う客には、「当店はセルフです。本場では自分のことは自分でするのが常識です」と鼻で笑った。

「客と店は対等、50対50だ」 コンサルタントの言葉を、健一は「俺が王様だ」と解釈した。気に入らない客がいれば、聞こえよがしに舌打ちをし、味の好みを言われれば「素人は黙って食え」という態度を隠そうともしなかった。

しかし、蜜月は長くは続かない。 半年が過ぎる頃には、客足はパタリと止まった。残ったのは、銀座の作法を知らない観光客か、健一のこの独特な「高圧的な接客」を面白がる、一部の変わり者だけだった。

「雨のせいだ」「景気が悪い」「今の日本人は本物の味が分からない」 売り上げの低下を、健一はすべて外部のせいにした。自分が間違っているとは、夢にも思わなかった。

ある雨の平日、数少ない常連の一人である、皮肉屋の男がやってきた。連れがいるようだ。 「大将、今日は田舎から出てきたばかりの新人連れてきたよ。社会勉強させてやってくれ」

連れてこられたのは、サイズの合っていない吊るしのスーツを着た、若く大人しそうな男だった。キョロキョロと店内を見回す様子が、健一の神経を逆撫でした。

「……オーダーは?」 「あ、えっと、メニューがこれ、スペイン語だけで……」 「読めないの? 写真見れば分かるでしょ。今の若いのは想像力もないのか」

健一はわざとらしく溜息をついた。 若者は恐縮し、水をこぼしてしまった。 「あーあ。布巾そこにあるから。自分で拭いてね。うちはファミレスじゃないんだから」

「すみません、すみません」と頭を下げる若者を、健一は冷ややかな目で見下ろした。 「銀座で飯食うなら、最低限のマナーくらい勉強してから来なよ。これだから田舎者は」

最高の気分だった。無知な人間にマウントを取る瞬間こそ、彼が唯一「有能」になれる時間だった。

それから数日後。 店に一通の通知が届いた。メインバンクからの「融資打ち切り」の通達だった。 赤字続きの現状では厳しいことは分かっていたが、まさか打ち切られるとは。

「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」

健一は血相を変えて銀行の支店へと怒鳴り込んだ。 窓口のいつもの担当者は、健一の剣幕に青ざめ、「わ、私の一存では……審査部の担当者が判断したことでして……」と逃げ腰だ。

「じゃあその審査部の人間を出せ! 直接話をつける!」

応接室に通され、貧乏ゆすりをしながら待つ健一。 ドアが開き、一人の男が入ってきた。

「お待たせいたしました。審査部担当の……」

男が顔を上げ、健一と目が合う。 健一の動きが止まった。

サイズの合っていない吊るしのスーツ。気弱そうな表情。 そこにいたのは、数日前、店で健一が「田舎者」と罵り、雑巾がけをさせたあの若者だった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

男は静かに微笑んだが、その目は全く笑っていなかった。 手元の稟議書には、真っ赤な印鑑で【否決】と押されていた。

健一の背筋を、冷たい汗が伝い落ちていった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

審査部の若き担当者がそう言った瞬間、健一の脳内で何かが弾けた。恐怖ではない。猛烈な怒りだ。 彼はバンと机を叩き、立ち上がった。

「はっ! そういうことか。お前、私怨で審査を落としたな?」

若者は冷静に眉をひそめる。「いいえ、佐々木様。あくまで事業計画と現状のキャッシュフロー、そして将来性を鑑みての……」

「嘘をつくな! あの時、俺に恥をかかされたから、その復讐だろう! 公私混同も甚だしい! これだから三流大学出の銀行員は!」

健一は叫んだ。自分の経営手腕のなさ、接客の酷さ、数字の悪さ、それら全てを棚に上げ、「優秀な自分が、卑劣な田舎者の復讐によって足を引っ張られた」というストーリーを瞬時に構築したのだ。そう信じ込まなければ、彼の自我は崩壊してしまうからだ。

警備員に両脇を抱えられ、支店からつまみ出される最中も、彼は叫び続けていた。 「見てろよ! お前の名前、ネットに晒してやるからな!」

融資は下りず、運転資金は底をついた。 コンサルタントに電話をかけるが、「現在使われておりません」のアナウンスが流れるだけだ。

「あの詐欺師め……。俺のような才能ある人間に取り入りやがって」

従業員への給与も未払いになった。アルバイトたちが詰め寄ると、健一は逆ギレして怒鳴り散らした。 「お前らがもっと真面目に働かないからだ! 俺の指示通りに動けば、こんなことにはならなかった! 金が欲しけりゃ、売り上げを作ってから言え!」

結局、従業員たちは呆れ果て、労働基準監督署へ駆け込むこともせず、ただ静かに去っていった。「あんな可哀想な人に関わるだけ時間の無駄だ」という捨て台詞を残して。

銀座の店は、家賃滞納により強制退去となった。 看板が外される日、健一はそれを遠巻きに見ながら、缶チューハイを煽っていた。

「銀座は終わったな。俺という本物を理解できない街に、未来はない」

借金だけが残り、彼は安アパートへと転がり込んだ。

一年後。 健一は、都内某所の古いアパートの一室にいた。 定職には就いていない。「俺のスペックに見合う仕事がない」からだ。日銭は、倉庫内軽作業の日雇いバイトで稼いでいる。そこでも「効率が悪い」「リーダーの指示が論理的でない」と現場で揉め、あちこちの派遣会社を出禁になっていた。

しかし、今の彼には新しい「城」があった。 インターネットのグルメレビューサイトと、SNSだ。

ハンドルネームは『銀座の元帝王』。 プロフィールにはこうある。 『元銀座オーナーシェフ。経営コンサルタント。本物の味とサービスを知る男。辛口ですが、愛のある指導をします』

彼は夜な夜な、コンビニ弁当をつつきながら、自分が行ってもいない繁盛店のページに星一つの評価を書き込む。

『接客がなっていない。客と対等だという意識が欠如している』 『味はまあまあだが、経営者の哲学が感じられない。長くないだろう』 『かつて私が銀座で店を張っていた頃は……』

画面の中の彼は、誰よりも偉く、誰よりも正しい。 「いいね」が一つつくたびに、彼の乾いた自尊心が満たされる。

「やっぱり、俺の言うことは正しいんだ。世間が俺に追いついていないだけなんだ」

モニターの光に照らされたその顔は、薄汚れているが、恍惚とした笑みを浮かべていた。 現実の彼は、借金の督促状の山に埋もれ、明日食べる金にも困る中年男性だ。しかし、彼の頭の中では、彼は依然として「不運な天才」であり、世界は「愚かな大衆」で溢れているのだった。

彼は今日もキーボードを叩く。 反省など、するはずがない。なぜなら、彼は一度も間違ってなどいないのだから。

湯けむり殺人事件

序章:非日常の終わり
夜明け前の群馬の山奥は、濃い霧に包まれていた。旅館「山吹荘」の離れ、「岩清水」の部屋から漏れる灯りは、まるで異界に迷い込んだ船の舷窓のようだ。

4人は、この宿で最も人里離れた場所に位置するこの部屋で、昨夜、文字通り夜明けまで飲み明かした。

「いやー、やっぱたまにはこうやって集まらないとさ! 明日っつーか、もう今日だけど、朝風呂入って、美味いもん食って、また昼からやるぞー!」

46歳になった今も、その行動力と声の大きさがまるで変わらないダイは、熱燗の徳利を掲げて豪快に笑った。彼の正面で、51歳のヒロが眉間に深い皺を刻む。

「ダイさん、さすがにもう勘弁してくださいよ。私は朝5時には起きて、この宿の裏を走ってる上越線の旧線を……いや、もういいです。ダイさんは相変わらずタフですね」

ヒロの言葉に、マコはクッと笑ってグラスの焼酎を一気に呷る。41歳のマコは、世界を股にかける自由人の空気を纏っている。

「ヒロ、たまには諦めて流されろ。ダイの言う通り、ここではノーリミットだ。俺はこの非日常が最高に気に入ったね。この秘湯の熱さ、この山奥の静けさ。まるで遠征先のマイナーリーグの街みたいだ」

その様子を、49歳のエミは微笑みながら見ていた。彼女は手に持った特注のビールジョッキを揺らし、その熱狂的な空間の中心にいることに、密かな満足を覚えていた。

「もうみんなグダグダだね。でも、この歳になって、家族とか仕事とか関係なく、こんな風に集まれるのって、ほんと奇跡だと思わない? うちら、なんだかんだで10年以上だもんね」

熱い議論と、くだらない笑い話と、時に真面目な人生観のぶつけ合い。共通の「熱」を持つ4人だからこそ共有できる、濃密な時間だった。

そして、夜が明けた。

第一章:密室の朝
日の出を待たずして、ヒロは飛び起きた。山吹荘の温泉は朝5時から入れる。昨日、泥酔したダイに「朝イチで最高の湯を味わうぞ!」と誘われたことを思い出したのだ。

彼は重い頭を抱え、畳の上に敷かれた四組の布団を見渡した。

ダイ、マコ、エミ。皆、深く眠っている。

ヒロは静かに自分の浴衣を羽織り、部屋を出ようとした、その時。

「……ん?」

彼の足が止まった。

一番入り口側に寝ていたダイの布団から、右腕がだらりと床に投げ出されていた。その手のひらが、畳の上で異様に白い。

「ダイさん? ダイさーん、朝風呂ですよ」

ヒロは小声で呼びかけたが、返事はない。

彼はダイの布団の傍にしゃがみこみ、その顔を覗き込んだ。

ダイの目は、大きく見開かれていた。

口は半開きになり、その顔色には、生前の快活さの欠片もない。まるで、熱狂の最中で時間が凍り付いたような、虚ろな表情。

ヒロの脳裏に、冷たい、金属的な感触が走った。彼は思わず後ずさった。

「うそ……だろ……」

彼は震える指先で、ダイの首に触れた。体温がない。温かい夜の残り香を打ち消す、底冷えする冷たさ。

その瞬間、ヒロは絶叫した。

「おい! 起きろ! マコ! エミ!」

隣で寝ていたマコとエミが、跳ねるように起き上がる。彼らの眼は寝ぼけていたが、ヒロの異常な叫び声と、彼が指差す先の光景に、一気に覚醒した。

「なんだよ、ヒロ。うるさ……え?」

マコが最初に発した声は、すぐに喉の奥に引っ込んだ。エミは両手で口を押さえ、微かに嗚咽を漏らした。

彼らの目の前で、ダイは、横たわったまま、死んでいた。

第二章:途絶した生命線
混乱の中、三人はまず警察を呼ぼうと立ち上がった。

マコが自分のスマートフォンを取り出す。

「とにかく警察だ。110番……」

彼が画面をタップするが、通話は繋がらない。

「おかしい。圏外じゃないぞ、アンテナは立ってる。でも、通話が……」

次はエミが試みる。同じように、通話はすぐに切れてしまう。

「私もダメ。圏外マークは出てないのに。まるで、回線が意図的に遮断されてるみたい……」

ヒロは急いで部屋を飛び出し、母屋のフロントへ向かった。しかし、母屋は静まり返っており、誰もいない。

「おかしい、人がいすぎる……」

彼は公衆電話がないか探したが見つからず、唯一あった固定電話も、なぜかダイヤルしてもツー、ツーという音すらしない。回線が死んでいる。

「山吹荘の固定電話も、俺たちのスマホも、外に繋がらない……」

三人は離れに戻った。霧はさらに濃くなり、視界を覆い尽くしている。

「どういうことだよ……。まさか、誰かに邪魔されてるのか?」マコの目が鋭くなる。

ヒロは俯きながら言った。「ダイさんの死は、病気や事故に見えない……。布団の中だ。誰かが、この部屋で……」

エミが顔を上げる。その瞳には、恐怖と、明確な疑念が浮かんでいた。

「……じゃあ、犯人は、私たちの中にいるってこと?」

部屋の中に残された生存者は、三人。

10年来の友人。熱狂的な趣味を共有する仲間。

そして今、彼らの友情は、一人の死と、山奥の孤立という状況によって、脆くも崩れ去ろうとしていた。

疑心暗鬼の、密室殺人の幕が開いた。

第三章:遅れてきた朝食
三人がダイの遺体を囲んで、極度の緊張と絶望に囚われている中、襖がスッと開いた。

「お客様、朝食のお時間ですが、ご準備はよろしいでしょ――」

そこに立っていたのは、初老の女性従業員だった。彼女は白い割烹着姿で、手に湯気の立つ味噌汁とご飯の乗ったお盆を抱えている。彼女は部屋の中の異様な空気に気づき、言葉を途中で止めた。

彼女の視線が、中央に横たわるダイの布団に注がれる。

「あ、あの……どうなさいましたか?」

ヒロが慌てて状況を説明しようとする。

「すみません、女将さん。大変なことになりました。ダイさんが、死んでいます。私たちは今、警察に連絡しようとしているんですが、なぜか電話が繋がらなくて……」

従業員は、一瞬にして顔から血の気が引いた。彼女は手に持っていたお盆をそっと畳に置き、ダイの遺体に駆け寄る。

「まぁ……! こんな、こんな山奥で……。ご主人様! しっかりしてください!」

彼女はダイの冷たい手首に触れ、やがてその事実を理解すると、その場に座り込んでしまった。

「警察に、電話が……? そ、そんなはずは。ちょっと待ってください、本館の電話で私がもう一度……」

従業員は青ざめた顔で急いで部屋を飛び出していったが、数分後、さらに顔面蒼白になって戻ってきた。

「だ、駄目です! 本館の電話も全く通じません! 昨日から急に回線がおかしくなったみたいで……。携帯電話もですか?」

三人は無言で頷く。この孤立状態は、やはり事実だった。山吹荘と外界を結ぶ全ての通信手段が、なぜか断たれている。

マコは従業員に尋ねた。

「昨夜、この離れの部屋に、私たち以外に誰か出入りしましたか? 従業員の方も含めて」

従業員は震える声で答えた。「いいえ、絶対にございません。ここは秘湯が目的の、完全に隔離された離れでございます。昨夜はうちの主と二人きりで、もう寝ておりましたから……」

彼女は涙を浮かべ、「警察を呼ばなくては……」と何度も繰り返す。しかし、その術がない。

絶望が部屋を満たし、三人はダイの死体から目を離せずにいた。

第四章:三者三様のロジック
時間が過ぎ、警察が来ないことが確定すると、三人の態度は変化した。恐怖は疑念に変わり、やがて「犯人」を特定しなければならないという焦燥感に駆られていった。

ダイの死体の周りには、昨夜飲み散らかしたままの酒瓶、空になったビールジョッキ、そしてタバコの吸い殻が散乱している。

🍷 マコのロジック:海外仕込みの論理的思考

世界各国を旅し、修羅場を潜り抜けてきたマコは、冷静さを装いつつ、遺体と部屋の状況を観察し始めた。

「状況はシンプルだ。密室。生存者は俺たち三人。外からの侵入者は、宿の女将さんが否定した。つまり、ヒロか、エミか、俺の誰かだ」

彼は遺体のそばに落ちていた、ダイの愛用していたライターを手に取った。

「俺は昨夜、ここでダイと真剣な話をした。アイツはいつものように前向きで、次の計画に熱中していた。殺す動機がない。じゃあ、お前たちだ。特にヒロ。お前、いつもダイに比べて、自分のことを卑屈に言ってたろ。嫉妬か?」

🚂 ヒロのロジック:趣味から生まれたクリエイティブな視点

ネガティブな性格がゆえに、常に最悪の事態を想定して生きるヒロは、この状況を、まるで複雑な鉄道模型のジオラマを解き明かすかのように分析し始めた。

「待ってください、マコさん。私はダイさんのポジティブさが苦手でしたが、殺意なんてありません。むしろ、一番怪しいのは、場の空気を支配しようとしていたエミさんじゃないですか?」

ヒロはエミに顔を向けた。

「昨夜、ダイさんはエミさんに、『もう49歳なんだから、いつまでもオタサーの姫みたいな振る舞いはやめろ』って、冗談めかして言ってたのを聞きましたよ。あの時、エミさんの顔が一瞬凍り付いた。ダイさんのあの軽率な言葉が、エミさんのアイデンティティを深く傷つけたとしたら……それが動機になる」

👑 エミのロジック:オタクコミュニティで培った人間関係の分析

エミは涙を拭い、鋭い視線をヒロに向けた。オタクコミュニティという特殊な人間関係の中で、常に注目を集め、他者の感情を操作してきた彼女の観察眼は鋭い。

「ヒロさん、汚い。動機なんていくらでも作れるわよ。一番動機がありそうなのは、むしろヒロさんでしょ。あなたは、いつもダイさんの行動力や、家庭を持っている生活に、『どうせ私なんか』って言ってたじゃない。あの人の自由奔放さが、独身のヒロさんには憎かったんじゃない?」

彼女はダイの死体から少し離れた場所に、昨夜ヒロが使用していたらしい、使い捨ての古いフィルムカメラを見つけた。

「ヒロさん、あなた、昨日の夜中、トイレに立った後、このカメラを弄ってたわよね。もしかして、ダイさんが死んだ瞬間を、誰にも知られずに記録しようとしたの? 犯行の証拠隠滅や、アリバイ作りのための小道具なんて、趣味でクリエイティブなことやってる人の方が得意なんじゃないの?」

三人の視線が交錯する。

それぞれが、相手のパーソナリティの「闇」の部分、つまり「趣味への熱狂」や「人生への諦念」を動機として指摘し、友情は疑念の刃へと変わった。

山奥に響くのは、彼らの荒い息遣いと、静かに降る霧の音だけだった。

第五章:霧に潜むもの
三人の疑心暗鬼の推理合戦は、一進一退を続けていた。誰も決定的な証拠を出せず、会話は感情的な非難と自己防衛の泥沼に陥っていく。その時、遺体のそばで座り込んでいた従業員が、かすれた声で呟いた。

「もしかして……神様の、祟りかもしれん……」

三人は一斉に彼女に顔を向けた。

「祟り? 女将さん、何を言ってるんですか? これは殺人ですよ!」マコが苛立ちを込めて言った。

従業員は顔を上げず、震える声でこの山吹荘の、そしてこの土地の古くからの言い伝えを語り始めた。

🕯️ 山吹荘の伝説:秘湯に棲む「霧守」

「この宿はな、江戸時代から『隠し湯』として知られてきたんじゃ。しかし、この山奥は、ただの秘境ではない。『霧守(きりもり)』と呼ばれる、この山の神様が住んでいると……」

従業員によると、この秘湯は霊験あらたかだが、一方で非常に排他的な性質を持つという。

「霧守様は、この地を『非日常を楽しむための場所』としては許さない。特に、自堕落な振る舞いや、他者を侮辱するような熱狂的な欲望を嫌う。昔から、この地で夜通し宴を張り、明け方に理性を失った人間は、必ず朝を迎えられなかったと……」

彼女はダイの遺体に目をやり、さらに声を潜めた。

「そして、霧守様の怒りが深い時、この山は外界との繋がりを断つ。電話や道が、全て深い霧によって閉ざされてしまうんじゃ……。私たちは今、霧守様の怒りの中にいるのかもしれない」

ヒロは話を聞きながら、昨夜ダイが言っていた言葉を思い出した。

「ダイさん、昨夜言ってましたよね。『この旅館の温泉、ちょっと硫黄臭が強すぎる。俺の家の風呂の方がよっぽどいい』って……。もし、それが、この土地の神様を侮辱したことになって……」

「馬鹿げてるわ!」エミが強く否定した。「そんなオカルトで片付けられるわけないでしょ! これは物理的な犯行よ! ダイさんがどうやって殺されたかを見てよ!」

しかし、マコは静かに周囲を見渡した。プロのサッカーマニアとして世界中の辺境を渡り歩いた彼は、科学では説明できない現象や、地域の信仰が持つ力を知っている。

「いや、待て。これは完全にミスリードだ。だが、この状況、通信が断たれている現象を説明できるのは、この伝説だけだ……。女将さん、一つだけ聞かせてくれ。ダイの体には、外傷があるか?」

従業員は恐る恐るダイの遺体に近づき、確認する。

「いいえ……ありません。顔色はひどいですが、どこにも傷一つ……」

その言葉で、三人の間の緊張が一瞬緩む。外傷がない。それは、毒物、あるいは絞殺などの痕跡を残さない犯行であることを示唆していた。

「外傷がない……。つまり、犯行手口はまだ特定できていない」マコが呟く。

そして彼は、自分の持つライターを見つめ、再び理性的な疑念をヒロとエミに向けた。

「神の祟りだろうと、霧守の怒りだろうと、俺たちはこの部屋で、ダイが死んだ瞬間に一緒にいた。現実問題として、物理的に殺害が可能なのは、俺たち三人だけだ。この状況を、オカルトで逃げるな」

神の伝説は、彼らの現実的な恐怖を覆い隠す、濃い霧でしかなかった。三人は再び、相手の目を鋭く見つめ合った。

第六章:友情の崩壊
「神の祟り? 笑わせないでよ。ダイは、この世の誰かに殺された。そして、ここにいるのは三人だけだ!」

エミが叫ぶと、部屋の空気は再び凍り付いた。従業員は恐怖に縮こまり、部屋の隅で嗚咽を漏らしている。

マコは苛立ちを隠さず、ヒロに向かって詰め寄った。

「ヒロ、お前だ。お前が一番怪しい。ダイは家族も仕事もあるが、お前は鉄道と模型以外に何がある? 何もかもを斜に構えて見て、結局何も手に入れられない自分を、ダイのポジティブな生き方が嘲笑しているように感じたんじゃないのか?」

「何を言うんですか、マコさん!」ヒロは声を荒げた。「それはあなたも同じでしょう! 世界を飛び回ってるだぁ? ただの現実逃避じゃないですか! あなた、奥さんと子供二人いるダイさんに、『家族に縛られてる時点で、お前の人生は負けだ』って昨夜笑ってたの、私は聞いてますよ!」

ヒロはマコの持っていた焼酎の空き瓶を指差す。

「あなたこそ、ダイさんの生き方を否定することで、自分の自由気ままな、孤独な人生を正当化しようとしていた! ダイさんがあなたに、『そろそろ落ち着けよ。お前の遊びはもう虚しいぞ』って言ったら、あなたはすべてを失う! それが、殺人動機でしょう!」

「ふざけるな!」

マコは怒りに震え、テーブルを叩いた。海外の荒々しい現場で培われた彼の激情が露わになる。

「俺と違って、お前は常に『受け身』で、ダイの誘いを断れないくせに、いつも文句ばかり言っていた。殺すなら、衝動的な感情で動く俺より、ネチネチと計画的に動くお前の方が適任だ。お前は趣味で、緻密なジオラマを作る才能がある。そのクリエイティブな才能を、ダイを殺す計画に使ったんだろう!」

「私の話を聞いてよ!」

エミが二人の間に割って入った。彼女の目には、侮辱された女の怒りが宿っている。

「二人とも、私を無視しないで。ヒロさん、あなたは私を『オタサーの姫』って言ってたダイさんの言葉に私が怒った、って言ったわね? でも、あの言葉は、むしろあなたと私、二人に向けてダイさんが言ったのよ!」

彼女は指を震わせながらヒロを指差す。

「ヒロさん、あなた、ダイさんの奥さん……奥さんじゃなくて、ダイさんの奥さんの妹さんに、ずっと未練があったじゃない! だからダイさんを家族ごと憎んでいた! 昨夜もダイさんに、『妹さんを紹介してくれ』って粘着してたのを私は聞いたわ! ダイさんはそれを笑い飛ばした。あなたの、唯一のプライドを、ダイさんは踏みにじったのよ!」

ヒロは顔を真っ赤にし、言葉を失う。

「マコさんだって! マコさん、あなたが世界を飛び回っている間に、ダイさんがあなたの彼女に頻繁に連絡を取っていたことも、私は知ってるわよ! ダイさんは、『マコがいない間に、彼女の相談に乗ってやってる』って言ってたけど、あれは下心があったわ! あなたはそれに気づいていて、嫉妬で爆発したんじゃないの!?」

三人は、長年の友情の皮を剥ぎ取り、互いの人間関係における最も醜い秘密、最も深いコンプレックスを容赦なく暴き合った。

ダイの遺体は、彼らの10年の付き合いの「闇」が噴出する、この密室劇の静かな観客となっていた。

誰もが犯人に見える。誰もが動機を持っている。

「待てよ……」

マコが荒い息を整えながら、ダイの顔を覗き込んだ。

「動機は……動機は、俺たち全員にある。誰の動機が一番強いか、じゃない。誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

議論は再び、殺害方法と機会の特定へと移り始めた。この山奥で孤立した密室の朝は、誰かの過去と、誰かの未来を、同時に終わらせようとしていた。

第七章:毒と機会の深淵
「誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

マコが言い放ったその瞬間、ヒロとエミの視線が、一斉にマコに突き刺さった。

「待てよ、マコさん!」ヒロが声を尖らせる。「なぜ『飲み物』だと決めつけるんですか? 外傷がないからって、毒殺だと断定するのは早すぎる。何か知っているんじゃないですか?」

「そうだ、マコ」エミが畳みかける。「あなたこそ、今、自分の犯行手口を自白したようなものじゃない。あなたは世界中を飛び回って、色んな『薬』や『物』の知識があるはずよ。海外の裏ルートで、何か手に入れたんじゃないの?」

マコは、一瞬言葉に詰まった。

「ち、違う! 外傷がない以上、一番考えられるのは毒物だろうが! そして昨夜、酒の席だったんだから、飲み物に混ぜるのが最も簡単な方法だ! 俺は単なる推測を述べただけだ!」

「推測にしては具体的すぎる!」ヒロが叫ぶ。「あなた、昨夜、熱燗に混ぜるための『薬』を、自分の持ち込んだ焼酎の瓶の中に隠してたんじゃないですか? ダイさんが、熱燗から焼酎に切り替えた瞬間を狙って!」

「焼酎の瓶なんて、とっくの昔に空だ! 証拠もないことを言うな!」マコは否定するが、その動揺は隠せない。

「いいや、待ちなさい、マコさん」エミは静かに、しかし冷酷に言った。「あなたの推測が正しいなら、毒物を飲み物に混ぜたのなら……その毒物は、この部屋のどこかにあるはずね。あなたの持っていた『ライター』、海外の特殊な薬品をガスとして利用していたりしない?」

マコは反射的に手に持っていたライターを強く握りしめた。

「俺のライターはただのライターだ! それより、ヒロ! お前だ! お前は昨夜、トイレに立った! その時、誰にも見られずに自分のグラスに毒を入れ、その後、酔っ払ったダイのグラスとこっそり入れ替えたんじゃないか? 鉄道マニアのくせに、いつも冷たい飲み物を飲んでいたのは、ダイの熱燗と間違えないようにするためか!」

ヒロはカッと目を見開いた。

「バカなことを! 私の趣味を侮辱するな! トイレに立ったのが怪しいなら、部屋を出入りした人間全員が怪しい! エミさんだって、昨夜、何度もお菓子を取りに棚のところに行っていただろう! その『お菓子』に毒が仕込まれていて、ダイさんにだけ無理やり食べさせたんじゃないのか!? オタサーの姫は、周りの人間を自分の支配下に置くためなら、どんな手でも使う!」

「『オタサーの姫』と何度も言うな、この陰気なジオラマオタクが!」エミは遂に激昂した。

「あなたはいつも、私たちが楽しい話をしている時に、一人でスマホをいじって、『鉄道のデータ』だの『過去の路線図』だのに逃げていた! あなたは現実世界で人間と関わるのが怖い臆病者なのよ! その怯えと、ダイさんへの劣等感が、あなたを殺人鬼にしたのよ!」

「私は臆病じゃない! あなたは、永遠に若くてチヤホヤされる自分が、ダイさんの『家庭を持つ成功者』という現実に、年を取って崩されるのが怖かったんだろう! だからダイさんを排除したんだ! この古臭いサブカル女めが!」

マコは頭を抱え、荒れ狂う二人の罵倒を遮った。

「もうやめろ! みんな、ダイの飲み物に毒があるかどうかもわからないのに、ただの推測で殺人犯を決めつけようとしている! こんなことをしていても、誰も救われない!」

「じゃあ、あなたは何も知らないって言うのね!?」エミがマコを睨みつけた。

マコは、ぐっと唇を噛みしめる。確かに、外傷がないことから「毒」を連想したのは、彼自身が海外で見てきた様々な事例からの、あまりにも現実的な直感だった。しかし、それを指摘されたことで、彼自身が最も窮地に立たされてしまった。

三人の友情は完全に破壊され、残ったのは、相手の弱点や過去の秘密を突きつけ合う、むき出しの敵意だけだった。霧の立ち込める山奥で、彼らの疑心暗鬼は限界に達しようとしていた。

第八章:目覚める死体
「古臭いサブカル女めが!」

ヒロの怒鳴り声が、離れの部屋に木霊した。エミは涙と怒りで顔を歪め、マコは冷静さを失い、ライターを握りしめたまま動けなくなっている。三人の友情は完全に瓦解し、今にも殴り合いが始まりそうな、最悪の緊張状態にあった。

従業員は、恐ろしさのあまり、座り込んだまま目をつぶっている。

その時だった。

四組の布団が敷かれた中央。昨夜からの騒乱の中心で、虚ろな眼を見開き、冷たくなっていたはずのダイの体が、微かに動いた。

「……っ……」

微かなうめき声が、張り詰めた沈黙を破る。

三人は、その音を聞き間違えたのかと思い、一瞬動きを止めた。彼らの目は、同時にダイの遺体に注がれる。

ダイの半開きの口が、ゆっくりと動いた。そして、大きく見開かれていたその虚ろな瞳に、微かな光が戻ってきたかのように、ピントが合い始める。

彼は、まるで長い眠りから覚めたばかりのように、大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「ごほっ……ごほっ、ぅ……」

ダイは、布団の上で体を動かし、両手で自分の頭を抱え込んだ。

「うー……っ……頭痛ぇ……。なんだよ、もう朝かよ……」

彼は、昨夜と全く変わらない、46歳のマンガマニア特有の、底抜けに明るい声で呟いた。

「あれ? なんでみんな、俺の周りに集まってんだ? ……ヒロ、エミ、マコ。お前ら、そんなに青い顔してどうした?」

完全な沈黙が、部屋を支配した。

ヒロは息を呑み、指差していたマコを忘れて立ち尽くす。マコは握りしめていたライターを、ドサリ、と畳の上に落とした。エミは、口を開けたまま、声帯から何の音も出せない。

彼らが「死体」として、動機と殺害方法を議論し、互いの過去の汚点を罵り合っていた男は、極度の二日酔いで、ただ深く眠りすぎていただけだったのだ。

ヒロが最初に、震える声で尋ねた。

「ダ、ダイさん……? あ、あなた……生きて……」

ダイは、自分の顔を拭いながら、不機嫌そうに答えた。

「生きてるに決まってんだろ! なんだよ、寝起き早々、縁起でもねぇな。つーか、俺、昨日、相当飲んだろ? 熱燗の後に、マコが持ってきた焼酎を、チェイサー代わりに一気飲みしたのが効いたわ……。頭が割れそうだ」

マコが持ってきた焼酎。ヒロが指摘した、マコの「毒」の隠し場所。そして、マコが連想した「飲み物」への毒物混入。

それら全ての疑念は、ダイの豪快な飲みっぷり、そして彼の並外れたタフネスという、単純な現実によって吹き飛ばされてしまった。

ダイは布団から出て、畳の上に散乱した酒瓶と、青ざめた友人たちを見渡し、首を傾げる。

「なあ、みんな。昨日の俺、なんかやらかしたか? とにかく朝風呂だ。ヒロ、一緒に行こうぜ! この宿の秘湯で、完全に生き返るぞ!」

ダイの屈託のない笑顔が、この密室に差した。

三人の顔は、恐怖から、羞恥、そして、この上ない虚脱感へと変わっていった。彼らは、死体の周りで、10年来の友情を完全に破壊し尽くしたのだ。

その時、隅で目を閉じていた従業員が、そっと目を開け、安堵の息を漏らし、静かに呟いた。

「……よかった。霧守様の、いたずらでございました……」

第九章:戻る日常、そして終焉
ダイの「生きているに決まってるだろ!」という一言が、数時間続いた地獄のような密室劇を、一瞬で茶番に変えてしまった。

ヒロは口を開きかけたが、何も言えなかった。マコは拾い上げたライターをポケットにしまい、エミは顔を覆っていた手を静かに下ろした。彼らの顔は青ざめたままだが、それは殺人者への恐怖ではなく、自分たちが犯した友情破壊の愚かさに対する羞恥だった。

「なんだよ、みんな固まっちまって」

ダイは、まだ頭を抱えながらも、その場に散乱した酒の残骸を見つけると、すぐに切り替えた。

「よっしゃ、頭痛には迎え酒だ! 女将さん、すまねぇが、この味噌汁も飯もまだいい! 追加の熱燗持ってきてくれ!」

従業員は、信じられないものを見るかのようにダイを見つめていたが、「はい……はいぃ……」と細い声で答えると、小走りで部屋を出ていった。

ダイは、何事もなかったかのように立ち上がり、マコの肩を叩いた。

「おい、マコ! 昨日のお前、世界中のサッカーの話が熱すぎたぞ! おかげで完全に脳がフットボールになってるわ! もう一杯飲むぞ、もう一杯!」

ヒロとエミは、顔を見合わせた。

(俺たち、この男の死体(仮)の周りで、互いの過去の秘密と、人生のコンプレックスを、底の底まで暴き合ったのか……?)

その行為が、あまりにも馬鹿らしく、あまりにも虚無的だった。ダイの底抜けのポジティブさと適当なノリは、三人の激しい罵倒と疑心を、一瞬で「なかったこと」にしてしまう力を持っていた。

「……はぁ」

マコが最初に、大きなため息をついた。

「わかったよ、ダイ。お前には敵わないな。迎え酒だ。ヒロ、エミ。お前らも飲め。俺たちの友情を、昨夜の酒のせいにして、全部洗い流そうぜ」

マコが、そう『提案』することで、彼らは無言の了解を交わした。昨夜の罵倒合戦は、極度の泥酔と、ダイの深い眠りが引き起こした、単なる悪夢だったと、強制的に上書きすることにしたのだ。

四人は再び酒を飲み始めた。熱燗を呷り、味噌汁で胃を落ち着かせる。そして、ダイの提案で、皆で朝風呂へ向かうことになった。

秘湯の誘い

山吹荘の秘湯は、岩をくり抜いた野趣あふれる造りだった。濃い硫黄の匂いが立ち込め、体の芯から温まる熱い湯が、彼らの疲労と二日酔いを溶かしていく。

ダイは湯船の中で、力強く笑った。

「くぅ〜! 生き返るわ〜! ヒロ、お前ももっと肩まで浸かれよ! この非日常は最高だぜ! また来ようぜ、みんなでさ!」

「そうですね、ダイさん。もう、二度とこんな思いはしたくないですけど……」ヒロは苦笑いを浮かべながらも、どこか安堵していた。

マコも湯に浸かりながら、エミに視線を送った。エミは目線を逸らし、何も言わない。しかし、互いに一言も触れずとも、先ほどの出来事は深く、彼らの間に楔を打ち込んでいた。

湯が熱を帯び、彼らの体温を急激に上昇させる。昨夜の酒がまだ残っている体には、強すぎる熱さだったかもしれない。

ダイが、再び豪快な声で笑った。

「よーし、次は露天風呂だ! 夜明けの霧の中で、朝風呂なんてもう最高だろ!」

彼は湯船から立ち上がろうとした、その瞬間。

「……っぐ……」

ダイの顔から、一瞬で血の気が失せた。彼は胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。

「おい、ダイ! どうした!」マコが慌てて声をかける。

ダイは、何も答えることができない。そのまま、湯船の縁に手をかけようとしたが、力なく崩れ落ちた。その顔は、先ほどまで彼らが「死体」だと信じていた、あの青白い顔色と全く同じになっていた。

ヒロが慌ててダイの体を抱え起こそうとした、その時。

「うっ……うぅ……」

ヒロ自身も、胸に激しい痛みを覚えた。彼の視界が白く霞み、頭が締め付けられる。熱い湯が、心臓を強く打ち過ぎている。

「ヒロ、お前もか……?」マコは状況の異常さに気づき、顔色を変えた。

マコが二人を助けようと手を伸ばした、その瞬間。

激しい動悸と、全身の痺れが、マコを襲った。彼の体も、もはや自分の意思で動かせない。熱燗、焼酎、極度の睡眠不足、そして熱すぎる秘湯。全ての非日常の要素が、彼の心臓に牙を剥いた。

「……エ、ミ……にげ……ろ……」

マコは、最後に残った力を振り絞り、湯の外にいるエミに呼びかけた。

エミは、湯船の縁に座り、恐ろしい光景をただ見つめていた。

ダイ、ヒロ、マコの三人の男たちは、極限の熱と疲労に耐えきれず、次々に湯船の中で意識を失っていく。

残されたのは、ただ一人、サブカルくそ女のエミだけだった。

湯気が立ち上る静かな秘湯の中で、10年来の付き合いの男三人は、本当に朝を迎えられなかった。

最終章:姫の微笑み(修正版)
湯気が立ち込める秘湯の中で、三人の男の体が、動かなくなった。ダイ、ヒロ、マコ。彼らは、極度の疲労、酒、そして熱すぎる温泉の相乗効果によって、心臓発作を起こし、そのまま湯船に沈んでいった。

エミは湯船の縁に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。彼女は、もはや無関心だった。

湯から立ち上がった彼女は、タオルで体を拭きながら、冷え切った表情で三人の遺体を見下ろした。彼女の周りには、もう、彼女の存在を軽んじたり、彼女の居場所を否定したりする「男たち」はいない。

彼女は震える声で、悲嘆に暮れたフリを始めた。

「うそ……嘘よ……。ダイさん、マコ、ヒロ……なんで、こんなことに……」

彼女は両手で顔を覆い、激しく泣き崩れる演技をする。これは、オタサーの中で、常に自分の感情を最大限に表現し、注目を集めてきた彼女の、条件反射のような振る舞いだった。

その後、彼女はゆっくりと立ち上がった。

彼女は浴衣を羽織り、乱れた髪を整えた。そして、離れの部屋に戻り、そこで震えている従業員に、泣きはらした声で訴えた。

「女将さん! 大変です! 三人が、急に湯船で……!」

従業員が青ざめた顔で本館へ走っていくのを見送ると、エミは一人、静かに部屋の中を歩き始めた。

彼女は、自分が座っていた場所に戻り、冷たい畳の上に膝をついた。そして、口元に微かな笑みを浮かべた。

「ざまあないわね」

彼女は、まるで舞台のカーテンコールを前に立つかのように、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の顔には、先ほどの悲嘆の影は一切ない。あるのは、計画通りに全てが運んだことに対する、深い満足感と優越感だけだった。

ヒロが指摘した、「オタサーの姫」という言葉。マコが言及した、彼女の「サブカル女」という揶揄。そして、ダイが放った、彼女のアイデンティティを侮辱する言葉。彼らは、彼女の熱狂を、彼女自身を、常に軽んじてきた。

彼女は、浴衣の襟元を正しながら、窓の外の霧に、小さく囁いた。

「これで、私の邪魔をする男は、誰もいなくなったわ」

そして彼女は、はっきりと、自分自身に言い聞かせるように、その名を口にした。

「それにしても、みんな、最後まで間違ってたわね」

彼女は、自分の胸を指差す。

「『エミ』なんて、呼び捨てにするんじゃないよ」

彼女は、最後の勝利の言葉を、誰にも聞かれぬよう、冷たく呟いた。

「私の名前は、 『ミエ』 だよ。いつも間違えやがって」

女は、孤独な山の宿で、勝利の微笑みを浮かべた。誰も知らない、彼女だけの、完璧な「非日常」の結末だった。

神鳴くんはクールを装う 最終話

光に包まれ、元の世界に戻った俺は、一目散に葵の家へと向かった。

部屋に通されると、そこには、死の淵にいたことが嘘のように、元気いっぱいの笑顔を向ける葵の姿があった。

「響! 来てくれたんだ!」

その輝くような笑顔を見て、俺は確信した。俺の願いは叶ったのだ。そして、今こそ、俺のもう一つの決意を実行する時だ。

俺は、まっすぐに葵を見つめた。

「葵…。お前が好きだ」

一瞬、葵の時が止まった。理解できないというような間(ま)があった後、葵の表情が曇り、あからさまに不快な顔へと変わった。

「え…? ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

葵は、冷ややかな視線で俺を見た。

「響ちゃんのことはさ、友達として、幼馴染としては好きだけど…そういう対象じゃないんだよね。そもそも、私が今まで響ちゃんを構ってたのって、学校で友達がいない陰キャの響ちゃんを構ってあげてって、おばさんからお願いされてたからだし…」

「え…?」

「なんか勘違いさせちゃったかな? うわぁ…やっぱ陰キャの妄想って、ちょっとキモいね」

俺は、一瞬何を言われているのか分からず、きょとんとした。しかし、言葉の意味が脳に浸透するにつれて、猛烈な苦痛と、顔から火が出るほどの羞恥心が俺を襲った。

命を懸けて戦った。世界を救った。すべては、この子のために。 だが、現実は――「母親に頼まれて仕方なく構っていた陰キャ」という評価だった。

俺は、震える唇で、必死に強がった。

「…ば、バーカ! 冗談だよ! お前みたいなガサツな女、俺の方から願い下げだっつーの!」

精一杯のクールなふり。しかし、葵はそんな俺を、すべて見透かしたような、冷たい目で見つめていた。

その日の夜のことは、全く覚えていない。ただ、枕に顔を埋め、後悔と恥辱にまみれた一晩を過ごしたことだけは確かだ。

そして翌朝。 通学路で、葵がいつものように話しかけてきた。

「おはよー、響!」

ああ、やっぱり昨日のあれは悪い夢だったのかな。俺が一安心したのも束の間、葵はすれ違いざま、周囲には聞こえない声で、侮蔑の表情を浮かべて呟いた。

「…昨日みたいな冗談、もうやめてね。鳥肌立つから」

その言葉は、鋭利な刃物のように俺の心をえぐった。夢じゃなかった。俺の初恋は、完膚なきまでに砕け散ったのだ。

ショックですべて投げ出したくなったが、俺は気を取り直した。

(…ふん。まあいい。俺には、死ぬほど俺を愛してくれている茜がいる。あいつなら、俺のすべてを受け入れてくれるはずだ)

俺は開き直り、学校の校門付近で茜の姿を探した。いた。いつものように友達と話している。

「よう、茜」

俺は、少し恰好をつけて声をかけた。茜は振り返り、俺の顔を見て――きょとんとした。

「あの…どちら様ですか? 多分、先輩とはお話ししたことがないと思うんですが…」

「…え?」

俺は凍り付いた。そして、すぐに理解した。 妖精バトルに参加した人間は、優勝者以外、戦いの記憶が消去されるのだ。

茜にとって、俺は「命を懸けたパートナー」でも「愛するひびきちゃん」でもない。ただの、話したこともない先輩に戻っていた。

🕶 クールな俺の、新たなる戦い
俺はすべてを失った。 葵への想いも、茜からの愛も、妖精との絆も。

しばらくの間、俺は後悔の海に沈んだ。夜になれば、葵に言われた「キモい」という言葉と、茜の他人行儀な視線がフラッシュバックし、布団の中で身悶えする日々を過ごした。

しかし、数日後の朝。鏡の前で、俺は顔を上げた。

「…ふん。やせ我慢こそが、男の美学だ」

今回の戦いは、俺を成長させただろう。甘い幻想は捨てた。俺は、より強固で、より孤独で、よりクールな俺へと生まれ変わったのだ。

妖精バトルは終わった。だが、この残酷な現実世界(リアル)での、俺の戦いはこれからだ。

俺は、誰にも媚びない孤高の表情を作り、学校へと向かった。

場面は変わり、ここは異次元にある妖精国。

きらびやかな装飾が施された『妖精王の間』で、ピカリスが王座に向かって恭しく頭を下げていた。

「ピカリス、優勝おめでとう。今回の戦い、とても楽しませてもらったわ。次の大会もよろしくね」

王座から、鈴を転がすような、しかし絶対的な威厳を含んだ声が響く。

「畏まりました、女王様」

ピカリスがゆっくりと顔を上げる。 そこには、彼にとって見慣れた、絶対君主の顔があった。

妖精王の玉座に座り、頬杖をついて微笑んでいるのは――

紛れもない、星宮 葵の顔をした女性だった。

彼女は、モニターに映し出された、人間界で一人クールに振る舞う響の姿を眺め、妖艶に唇を歪めた。

「響は面白かったわ。あの必死な顔、勘違いした滑稽な告白…ふふっ」

女王は、新しい玩具を見つけた子供のように、目を輝かせた。

「まだまだ、響ちゃんで楽しめそうね…」

神鳴くんはクールを装う 10話

茜が嫉妬の炎に狂い、殺意にも似た愛憎を向けてきた。俺は、今の茜には何を言っても通じないことを悟ったが、それでも葵が生き延びる可能性に賭け、プライドを捨てて頭を下げた。

「わかった…! 俺は茜の好きにしていい。だから、優勝の願いは…葵の回復にしてくれないか!」

俺は床に額を擦り付ける勢いで頼んだ。しかし、俺が最後まで言い終わる前に、茜はヒステリックに叫んだ。

「ダメです!!」

茜の瞳から、理性が消え失せている。

「先輩の気持ちを侵すものは、誰一人生かしておきません! 先輩の心の中にいていいのは、私だけです! さあ、素直になりましょう…ひびきちゃん!」

説得は無理か…。ならば、力ずくでも止めるしかない。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は茜に向けて雷撃を放つ。しかし、電撃は茜の体をすり抜け、虚しく空を切った。

「残念、それは偽物です。私の『イリュージョン』の能力、忘れちゃいました?」

茜の声が、別の方向から響く。

「まだまだ、私のことを思う力が足りないですね…クリムゾンウィップ!」

背中から、焼けるような激痛が走る。

「ぐあっ…!」

「このクリムゾンウィップは、致命傷になるような威力はありませんわ。先輩…ううん、ひびきちゃんが私の言いなりになるまで、たっぷり『罰』を与えるための攻撃よ♡」

イリュージョンか…! すっかり忘れていた。しかし、破り方はわかっている。

「魔眼(マガン)!」

俺は茜の方を向き、幻覚を見せる電磁波を放つ。よし、これで…!

だが、次の瞬間、またしても別の方向から激痛が走った。

「がはっ…!」

見ると、本物の茜は、目を堅く閉じていた。

「魔眼は、視神経に幻覚を見せる攻撃。目をつぶれば、その攻撃は効かない。そして、クリムゾンウィップは威力が低い分、私の熱源探知で自動追尾するの。あなたに逃げ場はないわ」

(くそっ…! 魔眼の弱点まで対策済みかよ…!)

隙が見当たらない。真っ白で障害物のない空間。茜は目を閉じているため、こちらの動きを見ていないが、自動追尾の鞭が正確に俺を襲う。

俺は必死に走り回る。時間稼ぎはできるはずだ。しかし、幻覚とはいえ、複数の茜の分身から、四方八方へ鞭が飛んでくる。避ける隙間が見当たらない。

「ひびきちゃん、まだ諦めないの…? いい加減、私のものになって…。この空間に終わりなんてないのだから」

逃げ回りながら、俺は観察していた。茜の言葉に、ほんの僅かな油断が生まれたのを。

茜は「終わりなんてない」と言いながら、新しい分身を生み出すのを止め、今ある分身と鞭だけで俺を追い詰めようとしていた。

(…今だ。すべて、整った)

俺は足を止め、全方位に意識を集中した。

「魔雷牙(まらいが)!!」

俺を中心として、8方向へ同時に雷撃が走る。

「無駄よ! それは外れ…!!」

茜が嘲笑いかけた言葉は、最後まで続かなかった。

放たれた8本の雷撃は、本物の茜だけでなく、周囲に展開していたすべての分身(イリュージョン)を同時に貫いた。

「きゃあぁぁぁっ!!」

すべての分身が掻き消え、本物の茜が弾き飛ばされて倒れ込む。

「…ギリギリだったぜ」

俺は肩で息をしながら、倒れた茜を見下ろした。

「魔雷牙は、8方向へ同時に攻撃が走る技だ。俺は逃げ回りながら、お前の分身と本体が、ちょうど魔雷牙の射線上に並ぶ瞬間を待っていたんだ」

俺は、クールに髪をかき上げた。

「お前の敗因は、俺を追い詰めたと思って油断し、配置をズラすための新しいイリュージョンを追加しなかったミスだ」

茜が意識を失い、真っ白な空間が、温かい光に包まれ始めた。

そして、あの空からの声が聞こえる。

『おめでとうございます。あなたの優勝です。願いを心に浮かべなさい。叶えてあげましょう』

俺は目を閉じ、迷うことなく、たった一つの願いを心に描いた。

(葵の病気を治してくれ)

光が強くなり、視界のすべてが白く染まっていく。戦いの記憶、痛み、そしてこの非日常が、光の中に溶けていくようだ。

(やれやれ…。結局、最後までドタバタだったな)

俺は薄れゆく意識の中で、自問した。

(俺はこの戦いで…うまくクールにかっこつけられただろうか…?)

神鳴くんはクールを装う 9話

日本最強決定戦という厳しい戦いを終え、家に帰った翌日。 俺は、ピカリスから今後の展望を聞かされた。

「世界大会は、バトルロワイヤル形式で行われるよ。だから、次の戦いが実質的に最後だ。他の国での予選がひと段落するまでは始まらないから、しばらくはお休みだね」

「いきなり最終決戦か…。まあ、手っ取り早くていい」

俺はほっと一息つき、すぐに茜に連絡を取って情報を共有した。

「私は、優勝に興味はありませんから。二人で協力して戦いましょう! 愛するダーリンが優勝できるのが、私の喜びです!」

茜は相変わらずのハイテンションで、全面的に協力を申し出てくれた。バトルロワイヤルとはいえ、共闘できれば圧倒的に有利だ。俺の優勝は約束されたも同然だと、俺は楽観的に構えていた。

しかし、家に帰ると、母親が深刻そうな顔で俺を出迎えた。

「響…。葵ちゃんが、体調悪いみたいなの。お見舞いに行ってきてくれない? ほら、これ持っていって」

母親にケーキセットを押し付けられる。そういえば、修学旅行以来、葵と顔を合わせていなかった。俺は急いで葵の家に向かった。

葵の母親が、どこか悲しそうな顔で俺を葵の部屋に通してくれた。

「…よお。風邪か?」

ベッドに横たわる葵は、苦しそうな顔をしながらも、俺を見るとふわりと微笑んだ。

「響…。無理してこなくていいのに」

「ケーキ、余ったから持ってきただけだ」

いつものように憎まれ口を叩き、くだらない話を少しする。だが、葵の顔色は明らかに悪い。

「ごめん…ちょっと疲れちゃった。また、体が治ってからね」

少し寂しそうな顔をする葵を残し、俺は部屋を出た。

家に帰ると、母親が玄関で待っていた。そして、衝撃の事実を告げた。

「葵ちゃん…生死にかかわる病気なの。お医者様も、もう…。響、あなたも思い残さないように接してね」

頭に雷が落ちたような衝撃が走った。視界がぐるぐると回り、思考がまとまらない。あの元気で、鬱陶しいほど明るい葵が、死ぬ?

「なんとか…できないのか…」

俺の口から、震える声が漏れた。

すると、いつの間にいたのか、ピカリスが反応した。

「だったら、優勝の願いを葵の回復にしたらいいんじゃないか?」

「…願い?」

俺が不思議そうな顔をすると、ピカリスは涼しい顔で説明した。

「ああ、説明忘れていたよ。この妖精の戦いに優勝すると、パートナーはなんでも願いが一つ叶うんだ。普通、こんな危険なバトルに見返りなく挑まないでしょ? 君が何も聞かずに戦っていたから、言うの忘れてたよ」

「ふざけんな…! もっと早く言え!」

だが、俺の腹は決まった。 葵のために、絶対に優勝する。そして、この極限状態で気づかされた。俺は、葵のことが好きだ。

(優勝して、葵の病気を治して…そして、告白する)

俺の中で、最後の戦いに向けて、かつてないほど強い決意が固まった。

一か月後。

「世界の人数が揃ったみたいだ。明日の12:00にバトル・フィールドに転送されるから、コンディションを万全にね」

ピカリスの言葉を受け、その夜、茜が家に来た。

「ついに明日は最後の戦いですね。頑張りましょう、響先輩」

いつもの笑顔で言う茜に、俺は真剣な顔で向き合った。

「茜、聞いてくれ。俺には、どうしても叶えたい願いがある。幼馴染の葵が…死にかけているんだ。俺は、優勝してあいつを助けたい。そして、あいつに思いを伝えたい」

俺は、絶対に負けられない決意を伝えた。茜は一瞬、真顔になったが、すぐに静かに頷いた。

「…わかりました。先輩の覚悟、受け取りました」

茜はそう言って、真剣な顔で帰っていった。

そして翌日、12:00。 俺と茜は、見渡す限りの白一面の空間へと転送された。地面はコンクリートのように硬い。

円を描くように10人の人間が並んでいる。俺の隣には、茜がいる。

空から、中性的な声が響いた。

『皆さん、今まで半年間の戦いお疲れ様でした。いよいよ最後の戦いです。最後の一人になれば優勝です。悔いが残らないように頑張ってください。それではファイナルバトル、レディー・ゴー!』

ゴングが鳴り、俺がファイティングポーズを取ると、対面の金髪の青年が名乗りを上げた。

「私はアメリカ代表! 正義を操る『ジャスティススター』デース!」

続いて、黒髪のチャイナ服の女性。

「私、歴史を操る『千四年(センヨンネン)』アル」

さらに、大柄な白人の男。

「俺は気温を操る『試される大地』だ」

緊迫した最終決戦のはずが、俺は冷静にツッコミを入れた。

「…なんで皆、日本語なんだ?」

ピカリスが耳元で囁く。「言葉が通じないと不便だから、この空間では自動翻訳がされてるんだよ。翻訳が不自然なところは、君のステレオタイプに合わせてるんだよ」

「なるほどな…」

俺と茜も名乗りを上げ、最後に残った一人の男に注目が集まった。

最後の一人が口を開こうとした、その瞬間だった。

一呼吸置いたと思ったら、その男はすでに俺の目の前にいて、ナイフを振りかぶっていた。

「ッ!」

俺は間一髪で体を逸らした。頬に薄い切り傷ができる。

「ちっ…時間切れか」

男はそう呟き、瞬時に間合いを取った。

周囲を見ると、俺と茜以外のアメリカ代表、中国代表、ロシア代表…他全ての参加者が、喉を掻き切られて血を流し、倒れていた。

「名乗りとかくだらないよな。勝てばすべてだというのに。お前らもそう思うよな?」

男は、血のついたナイフを舐めた。

「俺はここまでこうやって勝ってきた。そしてこれからもな。そこのロシア野郎もあっけねぇ」

男が続けて喋ろうとするのを見て、俺は確信した。

(時を操る能力か…!)

この戦いが始まった時に、時を止める奴がいることは想像していた。対策は、徹夜で考えてある。

「魔雷光(まらいこう)!」

俺は男ではなく、足元の地面に向かって雷撃を放った。

地面が爆発し、大量のコンクリート片と粉塵が舞い上がり、辺り一面を包み込む。

「煙幕か? 無駄なことを…」

しばらくの静寂の後。 煙の中から、男のうめき声が聞こえてきた。

煙が晴れると、最後の敵が、全身を無数の穴だらけにして、血みどろで這いつくばっていた。

俺は、とどめを刺す前に余裕を持って語りかけた。

「お前の能力は、時を止めることだろう。だが、時を止めれば、空気中の塵や巻き上げた粉塵もその場に固定される。お前にとっては、空中に固定された無数の不可視の刃物が浮かんでいるようなものだ」

俺は冷ややかに見下ろした。

「その中に高速で突っ込めば、自分の速度で勝手に切り刻まれる。これが物理の法則だ。講釈はここまでだ…魔雷光!」

男は沈黙し、光の粒子となって消えた。

「はぁ…終わった…」

俺は安堵の息を漏らした。これで優勝だ。葵を助けられる。 俺は隣にいる茜に笑顔で声をかけようとした。

「茜、やったぞ! これで葵を…」

「ぐあぁっ!?」

背中に、熱湯をかけられたような激痛が走った。俺はその場に崩れ落ちる。

「…何の冗談だ?」

痛みをこらえて顔を上げると、そこには、今まで見たことのない、暗く濁った瞳をした茜が立っていた。手には、炎でできた鞭が握られている。

茜は、俺の問いかけには反応しない。ただ、うっとりとした表情で、恐ろしい言葉を口にした。

「響先輩…あなたは、私のもの」

「…は?」

「葵先輩のため? 告白する? …許しません」

茜の背後の炎が、激しく燃え上がる。

「先輩が優勝して、あの女と結ばれるくらいなら…ここで私が先輩を壊して、一生お世話してあげます」

「クリムゾンウィップ!」

先ほどの一撃よりもさらに太く、複数の炎の鞭が、波打つように俺に襲いかかってくる。

俺は痛む体で、必死に転がって避けた。

(共闘じゃなかったのかよ…!? まさか、俺が葵の話をしたことで…!?)

俺の楽観的な計画は崩れ去った。 世界最強の敵よりも恐ろしい、愛と嫉妬に狂ったパートナーとの、本当の最後の戦いが始まった。

神鳴くんはクールを装う 8話 

修学旅行から帰り、家でくつろいでいる俺に、ピカリスが興奮した様子で朗報を告げた。

「響! ついにここまで来たよ! 日本の中で生き残っている妖精のパートナーは、君と茜ちゃん、そしてもう一人の、計3人で最後らしい!」

「3人…か」

俺は、ソファに深く沈み込みながら、余裕の笑みを浮かべた。

「妖精ネットワークを通じて、残る一人から最後の戦いの提案が来た。どうする? 受ける?」

俺は、ここ最近の連戦連勝で、自分の強さを確信していた。ネプチューンを一撃で沈め、相性最悪のデスサイズすら支配下に置いた。今の俺に、死角はない。

「ふん。負けるわけがない。その提案、乗ってやる」

俺が即答すると、ピカリスは心配そうに提案した。

「響、最後の戦いの前に、互いの準備期間として1週間あるんだ。茜ちゃんと協力して、事前準備(トレーニング)でもしようよ。相手がどんな能力かわからないし…」

「必要ない」

俺は、ピカリスの言葉を遮った。

「茜と馴れ合うつもりはない。それに、準備などしなくても、今の俺ならどんな敵でも倒せる」

ピカリスはその後もしつこく食い下がったが、王者のごとき慢心に包まれていた俺は、その忠告を鼻で笑い、一切耳を貸さなかった。

そして、決戦当日。

今回は特別ルールらしく、相手と直接会わずとも、時間になると強制的にバトル・フィールドへと転送された。

転送された先は、人気のない、錆びついた遊園地だった。

広場の中央に、俺と同じくらいの年の、真面目そうな男子学生が立っていた。

俺は、いつものようにクールなポーズを決め、名乗りを上げた。

「…神鳴 響だ。俺の能力は、雷を自在に操る力。『ライトニングボルケーノ』を持つ」

すると、相手は驚いたように目を見開き、そして丁寧に一礼した。

「初めてお目にかかります。まさか、同じ属性とは…。俺も雷を操る能力『セイントライト』。正々堂々、戦いましょう」

「雷…だと?」

俺が驚いて肩の上のピカリスを見ると、ピカリスは冷ややかな目で俺を見た。

「何を驚いているんだい、響。雷、炎、水なんて、妖精界では珍しい力じゃない。今まで他の雷使いと当たらなかったのは、それがありふれた弱い能力(コモン・スキル)だからだよ。今まで勝てたのは、君の運が良かっただけさ」

「なっ…!」

ピカリスの衝撃的な事実に、俺のプライドにひびが入る。

だが、相手も同じ雷だ。俺には、魔雷光、魔神雷、魔眼という多彩な技がある。

「同じ雷なら、技の差で勝つだけだ!」

俺は、先手必勝とばかりに腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

紫色の電撃が走る。しかし、相手は動じることなく、掌をかざした。

「聖電(せいでん)」

相手の掌から放たれた白い電撃が、俺の魔雷光とぶつかり合い、完全に相殺された。

「弱い小技で牽制ですか。セオリーですね」

「こ、小技だと…!?」

俺の必殺技を「小技」とあしらわれ、俺は動揺した。悟られぬよう、即座に搦め手に出る。

「魔眼(マガン)!」

俺が叫んだ直後、相手も被せるように叫んだ。

「聖衣(せいい)!」

相手の前面に、光り輝く盾のようなエネルギー壁が出現した。魔眼の電磁波は盾に遮断され、幻覚効果が発揮されない。

「意外と、せこい手を使いますね」

相手は眼鏡の位置を直しながら、淡々と言った。

「こっちは、名乗りの前に『聖分析(セイントアナライズ)』を使っていましたので、あなたの攻撃パターンは事前に読めます。以前に戦った、闇を操る相手に対抗するために編み出しました」

(分析済み…だと!?)

「では、こちらからも攻撃させていただきます。聖雷電(せいらいでん)!」

さきほどの「聖電」より一回りも二回りも大きな、極太の白い雷撃が走る。

「ぐわっ!」

俺は地面を転がり、紙一重でかわした。アスファルトが黒く焦げ、爆ぜる。

「ほう、技も出さないで避けるとは、余裕ですね。追撃行きます」

相手の掌から、雷の連撃が放たれる。

(くそっ! 反撃だ! 魔神雷(マシンライ)!)

俺は周囲を見渡すが、遊園地の大型アトラクションは、バトル・フィールドのエリア外の背景扱いで、制御権を奪えない。それに、魔神雷は生きている人間には直接効かない。

「役に立たねぇ!!」

俺はプライドをかなぐり捨て、とりあえず思いっきり逃げることにした。目の前にあった、ミラーハウス(鏡の迷路)へと逃げ込む。

ミラーハウスの奥で、俺は肩で息をした。

「はぁ…はぁ…強すぎる…!」

すると、ピカリスが呆れたように言った。

「だから、事前準備をしろとあれだけ言ったのに! 相手は、強敵との戦いを想定して技を磨いてきたんだ。慢心していた響とは違う!」

「うるせぇ…! 今さら説教かよ!」

「でも…強い技は、限界の戦いの中でしか編み出せない。響、君の生存本能が、ギリギリだけど新しい技を生み出したよ」

ピカリスの言葉と共に、脳内に鋭いイメージが走る。それは、一発逆転の、攻撃特化の技。

「…これなら、いけるか」

俺は立ち上がった。

「新しい技の名前は…『魔雷牙(まらいが)』だ」

その時、ミラーハウスの外から、敵の声が響いた。

「追いかけっこは終わりだ。聖極電(せいごくでん)!」

轟音と共に、ミラーハウスの半分が消し飛んだ。ガラスの破片が雨のように降り注ぐ中、俺は広場へと飛び出した。

「出てきましたね」

相手は、余裕の表情で俺を見る。

俺は、最後の力を振り絞り、腕を振り上げた。

「これで終わりだ! 俺の最後の必殺技…魔雷牙(まらいが)!!」

反射的に、敵は防御態勢に入った。

「無駄です! 聖衣(せいい)!」

敵の前面に、鉄壁の光の盾が展開される。正面からの攻撃なら、どんな雷撃も防ぐ最強の盾だ。

しかし。この放った雷撃は、敵に向かって直進しなかった。空中で8つに分裂し、敵の頭上、背後、左右、あらゆる方向へと散開した。

そして、一斉に敵の中心へと襲い掛かる。

「なっ…!?」

「魔雷牙は、8方向から同時に魔雷光が走る、牙のような技だ! 前面だけの盾じゃ、防ぎきれねぇよ!」

ドォォォォン!!

全方位からの雷撃を受け、敵の聖衣は砕け散った。

「がはっ…!」

敵はその場に膝をつき、倒れ込んだ。

「…技に溺れたな。諦めなければ、勝利はいつだって微笑むんだ」

俺は、満身創痍でふらつきながら、なんとかクールな決め台詞を吐いた。

敵の体が光の粒子となって消え、バトル・フィールドが解除される。

「はぁ…勝った…。これで、戦いは終わりか…」

俺が一安心していると、ピカリスが肩に乗り、優しく声をかけてきた。

「おめでとう、響! ついに日本最後の敵を倒したね!」

「ああ…長かったな」

「うん! これで日本代表決定だ! あとは、世界の各国の代表を倒して、世界一を決めれば終わりだよ! さあ、最後の大バトル、頑張ろうね!」

俺の動きが止まった。

「……は?」

俺は、ピカリスをつまみ上げた。

「おい…まだ終わってないのかよ…? 世界だと…?」

「当たり前じゃないか! 妖精の王様だよ? 世界規模に決まってるでしょ!」

俺は、その場に崩れ落ちそうになった。

「やれやれ…。まだ終わってないのか…」

だが、今は考えるのをやめよう。俺は、夕暮れの遊園地(廃墟ではない現実の公園)のベンチに座り込んだ。

「ただ、今はゆっくり…勝利の余韻を噛みしめさせてくれ…」

俺は、遠くに見える一番星を見上げながら、これから始まるであろう過酷な世界戦と、まだ攻略できていない身近な恋の難問に、深い溜息をついた。

神鳴くんはクールを装う 6話

ロックマンを倒し、夏の訪れと共に、しばらくの平穏が訪れていた。

「ねぇ、響! 夏だし、海に行こうよ! 茜ちゃんと三人でさ!」

いつものようにベタベタと腕に絡みつく葵が、無邪気に提案してきた。

「えー、私も行きたいです、響先輩!」

俺の横では、茜が嬉しそうに同意する。

海…! 二人の水着…!?

俺の心臓は、警鐘を鳴らし始める。それは、戦闘の緊張感ではなく、思春期の健全なドキドキだ。

「…ふん。興味ねぇな。暑苦しいだけだろ」

俺は、精一杯乗り気でないふりをして、二人を突き放した。しかし、結局、二人の熱意に押され、翌週末、俺たちは北条海岸へと向かうことになった。

当日。砂浜に到着し、二人が水着に着替えて戻ってきた瞬間、俺のクールな装いは、内側から溶けそうになった。

葵は、健康的な肌に似合う、明るいブルーのビキニ。茜は、炎の能力者らしく、鮮やかなスカーレットのフリル付き水着。二人とも、あまりにもまぶしすぎる

「響、どうしたの? ぼーっとして!」

「べ、別に…。うるせぇな。太陽が眩しいだけだ」

俺は、動揺を悟られぬよう、すぐにサングラスをかけ、無愛想に答える。二人が海ではしゃぎ出すと、俺は「面倒くさい」とでも言いたげな顔で、少し離れた海の家前のパラソルに座り込んだ。

(…くそ、俺の平穏な日常に、こんな眩しい非日常は必要ないんだ…!)

そう思いながらも、俺の視線は、海ではしゃぐ二人の姿に釘付けになっていた。

俺が、ビーチパラソルの影から、二人の姿をみとれていると、背後から突然、低い声が呟かれた。

「…レッツダンス

俺は、慌てて振り返った。この声は…!

そこに立っていたのは、今しがた俺たちが飲み物を買ったばかりの、海の家で働いていた店員の女の子だった。白いTシャツにショートパンツというラフな格好だが、その瞳には明確な敵意が宿っている。

(このタイミングで仕掛けてきやがったか…!)

俺は一瞬ためらったが、ここで逃げれば二人に危険が及ぶ。

「上等だ」

俺は、来る敵は拒まずとばかりに、店員の女の子の拳に自分の拳を軽くぶつけた。

景色が一瞬で転換し、海水浴客の喧騒は消え、静寂が訪れる。

「私は、海を操る『ネプチューン』。海の力で、貴方を沈めてあげるわ」

店員の女の子は、名乗りを上げた。

その名を聞いて、俺の胸は最悪の予感で満たされた。

(ネプチューン…海を操る能力…そして、このバトル・フィールドは、一面の海水…!)

俺は、心の中で戦慄した。

「相性が…悪すぎる

俺は、そう思うしかなかった。能力者の戦いは、相性が全てだ。雷は水に通りやすいが、水の抵抗を受け、威力が激減する。そして何より、周囲全てが導体(海水)だ。

ネプチューンは、俺の表情を見て、勝ちを確信したように笑った。

「そうよ、私の戦場よ! ウォーター・ゴーレム!

ネプチューンが両手を広げた瞬間、眼前の海水が唸りを上げ、渦を巻き始めた。海面が盛り上がり、高さ100メートル近い、巨大な海水の巨人が形作られる。それは、まさに海そのものが立ち上がったような、圧倒的な存在感だった。

「さあ、お前の得意な雷を打ってみなさい! この海を全て敵に回して、感電死するのは貴方よ!」

ネプチューンは、巨大なゴーレムの足元に立ち、俺を嘲笑した。

(くそ…! この巨大な水の塊に、どう魔雷光を通せばいい!?)

俺は、一瞬冷静になり、思考を巡らせる。確かに、水は導体だが、この海水はあまりに巨大だ。通常なら、雷撃は広範囲に拡散し、敵の本体には届かない。

だが、俺には、**魔神雷(マシンライ)**がある。

俺は、巨大なゴーレムを前に、静かに腕を突き出した。

「ふん…。馬鹿なことを」

俺は、雷の原理を思い出す。電気は、抵抗の少ない方へと流れる。

俺は、海水のゴーレムの中心にいるネプチューンの本体を視線で捉えた。そして、魔神雷の精密な電力コントロールを応用し、雷撃の進路を操作した。

魔雷光(まらいこう)!

俺の腕から放たれた紫色の電撃は、巨大なゴーレムの表面に触れた瞬間、拡散することなく、ゴーレムを構成する海水の内部を、最も抵抗の少ない直線ルートで、ネプチューン本体まで貫いた。

ネプチューンの体から、一瞬で激しい火花が散った。ネプチューンが立っていた足元の海水が、一気に蒸発する。

巨大な海水のゴーレムは、制御を失い、轟音と共に海へと崩れ落ちていった。

ネプチューンは、一撃で戦闘不能となり、意識を失って砂浜に倒れていた。その体からは、小さな水色の妖精がピカリスに吸収される。

「…勝った」

俺は、あっけない勝利に、呆然とした。

「まさか、こんなに早く終わるとは…。俺の**魔神雷(マシンライ)**の精密な制御が、海水を避けるのではなく、最も抵抗の少ない最短距離を強制的に作り出すことに成功したのか…」

俺は、そのあっけない勝利に、安堵の息をつく。

(ここまで軽い勝利もあるものなのか…。これで、一旦は平和だ…)

バトル・フィールドが解除され、周囲には再び、賑やかな海水浴客の喧騒が戻ってきた。

俺は、クールな装いを崩さぬまま、静かにサングラスを直し、海の家で倒れている元店員に目もくれず、海で待つ二人のもとへと歩き出した。

(さあ…次は、水着の二人を前に、平静を保つという、もう一つの戦いだ…)

神鳴くんはクールを装う 5話 

コンビバトルでの勝利から、しばらく平穏な日常が続いていた。

俺、神鳴 響は、この近辺の能力者はすべて倒し尽くしたのではないかと、内心で少し安心し始めていた。もちろん、その油断をクールな装いで隠しながら、通学路を歩く。

その日の放課後、俺が一人で下校していると、ポストに一枚の粗雑な紙が投函されていた。

女は預かった。北関東○○採石場で待つ。

差出人の名前はない。

俺はすぐに、その「女」が誰なのかを考えた。まず、昨日の放課後に別れてから連絡が取れていない、俺のパートナー赤羽 茜の可能性が高い。しかし、俺の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、毎朝「邪魔だ、ベタベタすんな」と突き放している、星宮 葵の顔だった。

(…葵は、俺が能力者だと知らねぇ。能力者ではない人間を、なぜ狙う…? 俺を誘い出すためか?)

そして、俺は茜にも電話をかけるが、応答はない。茜がさらわれた可能性も、もちろんある。しかし、茜は能力者だ。容易に捕まるとは考えにくい。

(葵だ…! いつも俺が邪険にするから、神様が罰を与えようとしているんだ…!)

クールな装いの奥に隠された、多感で中学生的な倫理観と、幼馴染への密かな愛情が、響の判断を曇らせた。

「チッ…。行くしかねぇだろ」

差出人の名前はない。しかし、状況は理解できた。これは、次の能力者からの挑戦状だ。

(チッ…。ようやく近くの敵がいなくなったと思ったら、今度は遠征しなきゃいけないのか)

俺は舌打ちした。能力者バトルがローカルな抗争から、広域な戦いへとステージを上げたことを実感する。そして、何より――

(葵がピンチ…!)

脅迫状には、誰を預かったかは書いていない。だが、俺が真っ先に思い浮かべたのは、星宮 葵の顔だった。昨日、俺に抱きついてきた茜(スカーレットデザイア)の可能性もあるが、やはり最も親しい幼馴染を人質に取られたと考えると、血が沸騰する。

「お前には関係ないだろ」と強がりを言ったくせに、葵のピンチとあれば、駆けつけるのが男の義務だ。

その日のうちに、俺は電車を乗り継ぎ、北関東の○○採石場を目指した。

採石場に到着すると、そこは岩と砂利が広がる、荒涼とした場所だった。

巨大な岩壁の下で、タンクトップ姿の筋肉隆々とした大男が待ち構えている。

そして、その大男の足元には、布で顔を隠された、手足を縛られた女の子が一人、うずくまっていた。

「来たか、坊主。俺は岩を操る『ロックマン』。お前など、岩と砂利に変えて潰してくれるわ!」

ロックマンは、力強く名乗りを上げた。

(ロックマン…。また小学生が考えたみたいな名前だな…)

俺は、クールな表情を崩さず、内心で冷静に分析する。名乗りが終わった。あとは、戦闘開始の合図だ。しかし、「レッツダンス」をするには、相手と手を合わせられる距離まで近づかなければならない。これが、いつもひと手間なのだ。

俺は、挑発するように一歩前に出た。

「…面倒だ」

岩壁の鉄壁
ロックマンも、俺が近づいてくるのを待つ気はなかったらしい。

「レッツダンス!」

ロックマンは、俺の手を合わせる前に、地面を蹴りつけ、戦いの合図を成立させた。周囲の景色が一瞬でバトル・フィールドへと転送される。

俺は、先制で必殺技を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

紫色の雷撃がロックマンに向かって飛ぶ。しかし、ロックマンはその瞬間、体の周りの岩壁を体内に取り込むように変化させ、全身を厚い岩の装甲で覆った。

バチィン!

雷撃は、厚い岩の装甲に弾かれ、ロックマンには届かない。

「ハハッ! そんな電気ごとき、俺の岩装甲は通せんぜ! 今度は俺の番だ! 破砕(ハサイ)!」

ロックマンが叫ぶと同時に、地面から巨大な岩塊が生まれ、俺に向かって飛んできた。俺は、それを避けるのに精一杯で、まともに反撃する隙がない。

(硬すぎる! しかも、あいつの岩は遠隔操作できる! 逃げ回りながらじゃ、ジリ貧だ…!)

⚙️ 開眼、第三の必殺技
激しく岩を避け、物陰に隠れている最中、リュックの中のピカリスが声を上げた。

「響! 第三の必殺技のイメージが流れてきたよ! この能力は、電力を精密にコントロールする技だ! 技の名前を決めて!」

逃げ惑う最中、俺の頭の中に、電磁波ではなく、電気そのものを細かく制御する、新たな能力のイメージが流れ込む。

俺は、辺りを見回した。ここは採石場。巨大なドロップハンマーや、採掘用の重機、そして岩を砕くための金属製の機材が放置されている。

(精密な電力コントロール…! これなら…!)

俺は、心の中で、その技に名前を付けた。

「…魔神雷(マシンライ)だ」

ロックマンの挑発の声が、物陰まで届いてきた。

「どうした、ライトニングボルケーノ! 逃げ回ってばかりじゃ、俺は倒せんぜ! 卑怯者!」

🔨 魔神の制御
俺は、ロックマンの挑発を無視し、隠れたまま、新しい能力を発動した。

「魔神雷(マシンライ)!」

俺の体から放たれた電力は、ロックマンには向かわない。それは、近くに放置されていた、巨大なドロップハンマーへと流れ込んだ。

電力は、ドロップハンマーの複雑な制御回路を乗っ取り、俺の意のままにそれを動かす。

ギィン…ゴゴゴ…

誰も動かしていないはずのドロップハンマーが、唸り声を上げながら、ロックマンのいる場所へと移動し始めた。

ロックマンは、その異常に気づき、驚愕の声を上げた。

「な、なんだ!? ドロップハンマーが勝手に!?」

「逃げ回ってばかりじゃ、ないさ…」

俺は、陰から静かに、ドロップハンマーの巨大な鉄塊を操作し、ロックマンの頭上へと振り下ろさせた。

ガッシャアァァン!!

岩装甲を誇るロックマンの頭上に、ドロップハンマーが直撃し、彼の厚い岩を叩き割った。

そして、俺の魔神雷が通るライン、岩が砕け、金属の破片が散乱した道筋が見えた。雷の通過するラインだ。

「とどめだ!」

俺は、そのラインに沿って、渾身の雷撃を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

雷は、抵抗の少ない金属の破片を伝い、岩の装甲が砕けた隙間から、ロックマンの本体へと直撃した。ロックマンは、一瞬で戦闘不能となり、倒れ伏した。

「チッ…。手ごわい相手だった。生き残った能力者は、皆強敵になっている。俺は、いつまで生き残れるのだろうか…」

俺は、勝利の達成感とともに、この先の戦いへの不安を、クールな装いで押し殺した。

戦いが終わり、バトル・フィールドが解除される。

俺は、すぐに倒れている女の子のもとへ駆け寄り、顔を覆う布を剥がした。

「葵! 大丈夫か!?」

しかし、覆面の下から現れたのは、星宮 葵ではなく、俺の恋人――赤羽 茜(スカーレットデザイア)の顔だった。

「響先輩…! 助けに来てくれたんですね…!」

茜は、安堵の表情を浮かべ、すぐに俺に抱きついてきた。

(…葵じゃなかったのか)

俺は、少しだけ力が抜けるのを感じた。

しかし、すぐにその感情を打ち消す。葵が安全だったことへの安堵と、女の子に抱きつかれている喜びが、俺の心を埋め尽くす。

「ふん。まあ、当然だ。お前は俺のラブデザイアのパートナーなんだからな」

俺は、茜の頭を軽くポンと叩き、いつものクールな装いを崩さなかった。

(やれやれ…女の子から抱きつかれるのは、いつになっても慣れねぇな!)

神鳴くんはクールを装う 3話

二度目のバトルから一ヶ月が過ぎた。

不良の三年生は、奇声を上げてゴミ捨て場に突っ込んだ後、数日学校を休んだだけで、今は大人しく学校生活を送っている。彼の能力は消え、ピカリスのリュックには、もう一つ灰色の妖精が加わった。

敵が現れない平和な日々。響は内心で安堵しながらも、常に警戒を怠らなかった。

(いつ、どこで、次の能力者が現れるか分からねぇ…)

俺は、すれ違う生徒、街行く大人、そして最も身近な星宮 葵に対してさえ、微かな疑心暗鬼を抱きながら日常を送った。葵が急に腕を組んでくると、「レッツダンス」の誘いかと身構える始末だ。もちろん、それをクールな装いで隠す。

「響~、早く行かないと、クラスの出し物見れないよ!」

「うるせぇ。どうせつまらねぇだろ」

今日は文化祭だ。クラスの出し物である喫茶店をさぼり、一人で屋上を目指していた響を、葵が追ってきた。

そして、文化祭の最後を飾るイベント、フォークダンスの時間になった。

(フォークダンス…! 女の子と触れ合える、数少ない時間…!)

クールな俺は「めんどくさい」「つまらない」という空気を出しながらも、心の中ではドキドキが止まらない。女子と手を取り合うなど、普段の日常では絶対にありえないイベントだ。

つまらなそうな表情を貼り付け、他の男子生徒に紛れて輪の中に入る。手が触れるたびに心臓が跳ね上がり、顔が熱くなるのを、必死にクールな表情で抑制した。

そして、パートナーが変わるタイミングで、俺の前に一人の女子生徒が立った。

その女子生徒は、俺たちよりも一つ下の、一年生のようだった。大きな瞳で俺を見上げ、屈託のない笑顔を向けてくる。

「次、よろしくお願いします!」

そして、その指が俺の手に触れた瞬間――女子生徒は、普通のフォークダンスの作法を無視し、いきなり指を絡ませる『恋人つなぎ』でがっちりと俺の手を掴んだ。

あまりにも突然で、俺のクールな装いは一瞬で崩壊しそうになった。心臓は爆音で鳴り響き、全身の血が頭に上るのを感じる。

(な、なんだこの距離!? さすがにドキドキマックスだ…!)

女子生徒は、俺の硬直した顔を見つめ、満面の笑みを浮かべた。そして、耳元に顔を近づけ、ごく小さな声で呟いた。

「…レッツダンス」

その言葉に、俺のパニック状態の頭は一気に冷静な戦闘モードへと切り替わった。

淡い期待は打ち砕かれ、戦闘に頭を切り替える

内心はパニックだが、顔には「全てお見通しだ」という強がりを張り付ける。動揺を悟られぬよう、俺は先に名乗りを上げた。

「俺は神鳴 響。能力は雷、『ライトニングボルケーノ』だ」

女子生徒は、俺の名乗りを聞くと、面白そうに笑った。

「え、なんですかそれ! 中二病みたい! クスクス」

女子生徒は、俺の二つ名を小馬鹿にするように言い放った。だが、すぐに引き締まった顔で、少しお高くとまったように言い放つ。

「でもせっかくだから私も教えてあげますよ。私は炎を操る『スカーレットデザイア』。一緒に、熱いダンスを踊りましょ」

やはり、結局同じ穴のムジナ、大層な名前を考えるタイプの能力者だ。

女子生徒は、バトル・フィールドへの転送が完了したのを確認すると、高らかに叫んだ。

「イリュージョン!」

女子生徒の周囲から、赤い炎が螺旋を描いて舞い上がり、体育館の中に熱気が満ちた。炎の幻影がいくつも生み出され、視界を遮る。しかし、炎自体に大したダメージはなかった。

(炎をまき散らしても、大した威力じゃない…チャンスだ!)

響は、幻影に惑わされず、突っ立っているであろう女子生徒に向かって、昨日開発したばかりの必殺技を放とうとした。

「魔雷光(まらいこう)!」

しかし、雷撃は空を切り、手ごたえは全くない。その次の瞬間、響の背中に強い電撃の刺激が走った。

「ぐっ…!」

響は慌てて飛びのいた。背中には、何かが突き刺さったような痛みが残っている。

女子生徒は、高らかに勝利を確信したように叫んだ。

「もう術中にはまってしまっているわ! 何もわからずにあなたは倒れる!」

訳が分からず、響は一旦逃げ惑うことを選択した。能力の正体が不明な相手とは戦えない。文化祭が開催されている学校全体がバトル・フィールドと化しており、校内での追っかけっこが始まった。

階段を駆け上がり、響は「まさか女子トイレには入ってこないだろう」という中学生的な思考で、女子トイレへと逃げ込んだ。

息をひそめていると、リュックの中でピカリスが声を上げた。

「響、今だ! 逃げ回ってる間に、君の脳と僕の演算回路が繋がって、第二の必殺技のイメージができたよ! 今、君の頭の中に流れ込んでいるはず!」

言われた通り、響の頭の中に、電磁波を応用した新たな能力のイメージが流れ込んでくる。それは、敵の神経に直接作用するような、強力な幻覚操作の技だった。

響は、少し息を乱しながらも、静かに口元を吊り上げた。

「…わかった。第二の必殺技の名前は…『魔眼(マガン)』だ」

響は、再び女子生徒の前に現れるべく、体育館へと戻った。女子生徒は、響を見つけると余裕の笑みを浮かべた。

「馬鹿ね! また戻ってきたの!? だったら、今度こそ終わりよ!」

「イリュージョン!」

再び炎の幻覚が響を取り囲む。陽炎のように揺れる幻影に、響は一瞬惑わされかけた。

(炎の幻覚…そして背中の痛み…!)

響は、背中に走った刺激の正体を、一瞬で悟った。

(あの「イリュージョン」は、炎の幻覚で注意を引きつけている間に、裏口から物理的に回ってきて、スタンガンで背中を刺すための陽動技だ!)

女子生徒は、響が体育館に入ったのを見届けた後、裏口から回り込み、忍び足で響の背後へと近づいていた。今度こそ、とどめを刺そうと、手に握ったスタンガンを響の背中に突き立てる。

しかし、その手ごたえは空を切った。

「何…!?」

女子生徒が驚愕する中、響は振り返り、女子生徒の瞳を見つめた。

「これが魔眼の力だ」

響の瞳が、一瞬、雷光を帯びたように見えた。魔眼は、相手の視神経に強力な電磁波を送りつけ、幻覚を見せる技。女子生徒の目に映っていたのは、響がまだ幻覚に惑わされて突っ立っている姿だった。

「ひっ…!」

響は、女子生徒が驚きに固まった一瞬の隙を逃さない。

「くたばれ!」

響が魔眼で操作したのは、女子生徒の足元の地面だ。女子生徒の視覚に、地面が突如として大きくえぐれる幻覚を見せた。

「きゃっ!」

幻覚に驚いた女子生徒は、思わず足をもつれさせ、転倒した。手からスタンガンが離れ、体育館の床に転がる。

響は、仰向けに倒れ、恐怖で目をつぶった女子生徒の上に、静かに立ち尽くした。

「…とどめを刺せ」

女子生徒は、目を閉じたまま、震える声で呟いた。

その言葉を聞き、響は無言で腕を降ろした。

「…女の子に、手は出せないぜ」

響は、あくまでクールに、そう吐き捨てた。

能力者同士の戦闘は、どちらか一方が戦闘不能になるか、あるいは両者の戦闘意思が消失した場合に終了する。

女子生徒が目を開けると、体育館の風景は、文化祭のざわめきと共に、現実のものへと戻っていた。校庭の賑やかな騒音が耳に入り、自分が許されたことを理解した。

響は、倒れている女子生徒に目もくれず、静かにその場を去った。能力を二つも公開してしまった恐怖が、背中を冷たく突き刺す。

響の遠ざかる背中を、女子生徒は呆然と見つめた。自分を倒し、とどめを刺すこともできたのに、それをしなかった。その強さと、その裏にある優しさに、女子生徒の胸は高鳴る。

(…かっこいい…)

彼女は、自分が、たった今敗北した相手に恋に落ちたことを知った。

翌日の通学路。

いつものように、神鳴くんはクールを装って、隣にいる星宮 葵の世話焼きを鬱陶しがっていた。

「おい、べたべたすんなって…」

「もう! 響ったら、ほんとすぐ怒るんだから!」

その時、二人の目の前に、一人の女子生徒が飛び出してきた。昨日、響に敗北した一年生だ。

女子生徒は、迷いなく葵を押しのけ、響に抱き着いた。

「響先輩! 昨日からずっと、先輩のこと考えてました! 私と付き合ってください!」

突然の行動に、葵は「えっ!?」と固まり、響は一瞬、顔を真っ赤にしてフリーズした。

「や、やれやれだぜ…!」

心の中で、小躍りしながらも、響は精一杯クールな声を出す。

「…離せ。鬱陶しい」

女子生徒の熱烈なアプローチに、響の「クールな装い」は、また一層強化されていくのだった。

神鳴くんはクールを装う 2話

凄まじい爆発の後、静寂が訪れた。辺りに残るのは、焦げた土の匂いと、降り続いた雨の湿気だけだ。先ほどまでミュージシャン風の男がいた場所には、煙を上げる黒い跡が残っている。

「勝った…のか?」

俺が呟くと、肩に乗っていたピカリスが、小さな手を上げてガッツポーズをした。

「やったよ響! 圧勝だ! あの人、能力者としての活動ができなくなっちゃったよ!」

『バトル・フィールド』の終焉が近いことを、俺は肌で感じていた。景色が揺らぎ始め、元の野原の風景に戻っていく。

「ふん。まあ、当然だ」

内心の興奮を抑え込み、俺はクールに言い放つ。だが、勝利の達成感はとてつもない。初めての戦い、初めての能力、初めての勝利。

ピカリスは震える声で言った。「あ、あの人、たぶん『アクア』系の能力者だったんだ。水を操ってバリアを作ったり、雨を降らせたり。でも、響の『魔雷光』に、まさか電気分解で爆発させられるなんて…」

「相手の能力を、そのまま利用させてもらっただけだ」

再び元の野原に戻ると、太陽はすでに西の空に傾き、夕焼けが広がり始めていた。

「とりあえず、このことは誰にも話すな。特に…」

俺がピカリスに口止めしている、ちょうどその時だった。

「響ー! どこにいるのよ!」

聞き慣れた、騒がしい声。それは、まさに俺が「特に」と口にしようとした人物のものだった。

「やっべ、葵だ…」

俺は慌ててピカリスを掴み、リュックの中に押し込んだ。ピカリスは「むぎゅっ」と小さな声を上げた。

「響、遅いよ! 委員会って言ってたけど、もうこんな時間だよ! 早く帰らないと暗くなっちゃうじゃん!」

野原の入り口から、星宮 葵が少し怒ったような、しかし心底心配しているような顔で走ってきた。体操服姿。どうやら、俺を待っている間に部活でもしていたらしい。

「うるせぇな。別に一人で帰れるだろ」

いつものように、つっけんどんに返す。さっきまで水素爆発を起こしていた男とは思えない、普通の中学生の顔に戻る。

「うるさくない! ほら、この野原の向こう、ちょっと暗くて怖いじゃんか! ねぇ、響、なんでこんなところで突っ立ってたの? 変なものとか見てない?」

葵は警戒するように野原を見回し、少し焦げた地面に気が付いた。

「うわ、なにこれ、焚き火でもしたの? 響、まさか野焼きとかしたんじゃないでしょーね!?」

「してねぇよ! 早く帰るぞ!」

俺は、焦げ跡から葵の意識を逸らすように、足早に歩き出した。リュックの中で、ピカリスが小さく震えているのがわかる。

葵は、俺の背中を見て、不満そうに口を尖らせた。

「全くもう! しっかし、響っていつもそうなんだから! 心配してるんだってば!」

そう言いながら、葵はすぐに俺の横に並び、再び、あのうっとうしい距離感で歩き始めた。歩く振動で、葵のリュックが俺の腕に触れる。

(うっ、うぜぇ…!)

俺は心の中で、強めに毒づく。しかし、リュックの中にいるピカリスに気付かれないよう、少しだけ体が硬くなるのを感じた。

「ねぇ、響。今日の給食のカレーパン、ちゃんと野菜残さず食べた? また残したんでしょ!」

「食ったよ!」

「嘘だ! 目が泳いでる! もう! 響は私がいないと、ほんとダメなんだから!」

葵はそう言って、まるで確認するように、俺の背中を、ポンポンと軽く叩いた。

家に帰り、自室のドアを閉めると、俺はすぐにリュックからピカリスを出した。

「ふぅ…危なかったよ、響。あの子、君の彼女?」

「ちげーよ! ただの幼馴染だ。余計なお世話でベタベタしてくる、鬱陶しいやつだ」

俺はソファーに座り込み、ピカリスを机の上に置いた。

「それよりも、さっきの戦いのことだ。ああいうのが、これから次々と来るのか?」

「そうだよ。妖精の王様を決める大会は、世界中で非公式に行われているんだ。能力者が君一人じゃないってことは、あのミュージシャンみたいな人が、他にもたくさんいるってこと」

ピカリスは、先ほどの興奮とは打って変わって、真剣な顔になった。

「そして、この大会のルールは一つだけ。『レッツダンス』の合意が成立すれば、そこで戦う。勝てば相手の妖精を奪うか、相手を大会から強制的にリタイアさせられる。負ければ、君の能力は消え、僕も他の能力者のものになるか、消滅する」

俺は腕を組み、冷静に考えるふりをした。

「つまり、俺たちは、常に周囲の人間を警戒しなきゃいけないってことか。誰が能力者かわからないからな」

「その通り! でもね、響。さっきの女の子…星宮 葵だっけ?」

ピカリスの言葉に、俺はビクッとした。

「なんだよ」

「彼女、君が戦いを終えて、異空間から戻った直後に現れたよね。もしかしたら、能力者は、戦いが終わった場所の近くに引き寄せられる性質があるのかもしれない…。あるいは、彼女も…」

「馬鹿なことを言うな。葵はただのドジで、余計なお世話な幼馴染だ。能力者なんて、ありえない」

俺はすぐにピカリスの言葉を否定したが、葵に背中を叩かれた時の、あの胸の微かな動揺が、まだ残っているのを感じていた。
翌日。

「響ー! 遅刻するよ、早く早く!」

今日も隣には、葵がいる。俺は、リュックの中のピカリスの存在を意識しながら、いつもより少しクールな装いを強める。

「うるせぇ。離れろ」

「もう! ほんと響は冷たいんだから!」

葵はそう言いながらも、楽しそうに笑っている。その時、俺たちの前を、一人の生徒が通り過ぎた。学年一の不良として知られる、図体の大きな三年生だ。

その不良が、俺と葵の前を通り過ぎる時、立ち止まり、葵に向かって声をかけた。

「よぉ、星宮。今日も可愛いな。俺とレッツダンスしねぇか?」

葵は怯えて、俺の背中に隠れた。俺は反射的に、不良に向かって睨みを効かせた。

(レッツダンス? こいつ、能力者…!?)

次の瞬間、俺は不良の腕を払い、ピカリスがいるリュックを庇うように、不良の前に立ちはだかった。

「何のつもりだ、てめぇ」

不良はニヤリと笑った。その笑みは、昨日戦ったミュージシャンと同じ、獲物を見つけた者の笑みだった。

目の前で不良がニヤリと笑うのを見て、神鳴 響は悟った。

(逃げても、無意味だ。こいつは戦う気だ。それに、この「レッツダンス」は、俺の能力を試すには絶好の機会だ…)

昨日逃げたのは、情報不足だったからだ。今は能力も技も、ある。

「ちっ。上等だ」

響は、不良の突き出された腕を払いのけず、むしろ自ら掌を叩きつけた。

パシッ!

響の手のひらが、不良の大きな手のひらに触れた瞬間、周囲の景色がブツリと途切れた。隣に立っていた葵が、驚いた表情のまま、一瞬で掻き消える。

そして、いつもの通学路が、瞬時にバトル・フィールドへと転送された。風景は同じだが、空気は張り詰めている。

「へっ、やるじゃねぇか、子猫ちゃん!」

不良は、響の同意を得たことに満足げに笑い、間髪入れずに突っ込んできた。

「死ね!」

響は、その巨体を受け流すように、反射的に横へ跳んだ。

不良の拳が叩きつけられたアスファルトが、深々と抉られる。響が身をかわした場所には、直径一メートルほどのクレーターができていた。

「なっ…!」

響が不良の腕を見ると、その腕は肩から先が巨大な、鈍く光る鋼鉄の斧へと変形していた。

不良は、響の驚きを察して、得意げに語りだした。

「へへ、驚いたか? 俺の能力は鉄(アイアン)だ。身体を好きなように鋼鉄化し、好きな形状に変形させることができる。『アイアンメイデン』の能力者だ、坊主!」

ほぼ同い年であろう相手の、能力名と二つ名を聞いて、響の心に中学生的な感性が沸き上がった。

(徹夜で考えた名前だろうな…! 名乗りに対して名乗らないのは、選ばれた者としての礼儀に反する!)

響は、昨日まで適当に決めたふりをしていた、とっておきの二つ名を引っ提げ、不良に向き直った。

「…神鳴 響(かみなり ひびき)だ。俺の能力は、雷を自在に操る力。『ライトニングボルケーノ』を持つ」

リュックの中で、ピカリスが小さく「ボルケーノって火山…響、ちょっと厨二病すぎない?」と呟いた気がしたが、響はそれを無視した。クールな装いは、こういった派手な名乗りで完成するのだ。

不良――アイアンメイデンは、響の能力名を聞いても、鼻で笑った。

「雷か。昨日も一人、雷使いを倒してやったぜ。鉄は電気を通すが、俺の鋼鉄化した肉体は、雷撃ごときじゃびくともしねぇ! むしろ、ただのショック療法だ!」

そう叫ぶと、アイアンメイデンは再び鋼鉄の斧腕を振りかざし、響に向かって突進してきた。

響は、その攻撃を紙一重でかわし続ける。アスファルトが砕け、街路樹が倒される。

(硬い…硬すぎる。昨日の水のバリアとはレベルが違う。真正面からの魔雷光では、バリアを吹き飛ばすのが精一杯だった。これを完全に貫通させるには、一瞬で核融合でも起こすレベルの熱量が必要だ…)

響は、逃げているふりをして、アイアンメイデンをある場所へと誘導していた。

「逃げてばかりじゃねぇか! やる気あんのか、ライトニングボルケーノ!」

アイアンメイデンが苛立ちを募らせた頃、響はちょうど、学校の裏手にある集積ゴミ捨て場へとたどり着いた。周りには、回収前の大量の金属ゴミや、錆びた自転車、空き缶などが山積みになっている。

響は、ここで足を止め、アイアンメイデンを振り返った。

「逃げていたんじゃない。準備を整えていたんだ」

「なんだと?」

アイアンメイデンが怪訝な顔をした瞬間、響は両手を前に突き出し、ゴミの山に向けた。

「残念ながら、俺のライトニングボルケーノは、単に雷を放つだけじゃねぇ」

響の体から、昨日よりも強力な紫色の電気が放たれる。しかし、それはアイアンメイデンには向かわない。電撃は、ゴミ捨て場一帯を包み込み、一瞬で磁界へと変えた。

「お前の能力は鉄だと言ったな。鉄は、電気をよく通し、そして、強力な磁力に引き寄せられる」

ギュルルルル…

響が、磁界の極を反転させた瞬間、ゴミ捨て場に山積みになっていた鉄くずや空き缶、自転車の残骸などが、一斉にアイアンメイデンに向かって襲いかかった。

「な、なんだこれ!? やめろ!?」

アイアンメイデンは、鋼鉄化した肉体を持っていたがゆえに、この超強力な電磁石の力から逃れられない。大量の金属ゴミが、轟音と共にアイアンメイデンの巨大な体を覆い尽くし、締め付け、動きを封じた。

「チェックメイトだ、アイアンメイデン」

響は、追い詰めた相手に、最後の雷撃を叩き込む。

「魔雷光(まらいこう)!」

ゴミの山に覆われたアイアンメイデンに、紫色の雷撃が直撃し、金属の山の中で、凄まじい放電と爆音が響き渡った。

激しい放電の数秒後、電磁場の効果が切れ、金属ゴミが地面に散らばる。その中心には、元の制服姿に戻った不良が、意識を失って倒れていた。彼に宿っていた妖精は、小さな灰色の塊となって、ピカリスの手に吸収された。

「勝ったよ! 響! すごいよ、雷の力で磁場まで操れるなんて!」

ピカリスが興奮してリュックの中で騒いでいると、バトル・フィールドが解除された。

景色が元に戻り、見慣れた通学路へ戻る。そして、目の前には、目を丸くして立ち尽くす、星宮 葵の姿があった。

葵は、不良が消えた方向と、響の顔を交互に見る。

「ひ、響…! 今、あのタカハシ先輩が、いきなり『うにゃー!』って叫びながら、ゴミ捨て場の方に突っ込んでいったけど…なにしたの!? 響、まさか、先輩に何か呪いでもかけた!?」

葵の頭の中では、響が不良をゴミ捨て場に誘導し、爆発的な力で倒したという現実は一切認識できていない。ただ、不良が奇声を上げて突っ込み、そして意識を失って倒れた、という絵面だけを見ているらしい。

(そうか、バトル・フィールドの外から見ると、能力者の行動は不自然な動きに見えるのか…)

俺は、一気に疲労を感じながらも、いつものクールな装いを崩さない。

「うるせぇ。勝手に転んだんだろ」

俺は倒れている不良には目もくれず、そっけなく答える。

「さっさと帰るぞ。べたべたするなよ」

「もう! 響ったら、またそんな! でも…なんか今日、響、ちょっと汗かいてるね? もしかして、先輩から逃げたんでしょ! ほら、ハンカチ!」

葵はそう言って、俺の額の汗を拭おうと、勢いよく手を伸ばしてきた。その余計なお世話と、手のひらから伝わる体温に、俺の心臓は再び、さっきの戦闘よりも激しく跳ねた。

(ああ、うぜぇ! でも、この緊張と弛緩の繰り返しが、もう日常になりつつあるのか…)

神鳴くんはクールを装う 1話

「おい、邪魔だって言ってんだろ! ベタベタすんな!」

俺、神鳴(かみなり) 響(ひびき)は、いつものように隣に立つ幼馴染に、精一杯の不機嫌をぶつけた。

「え~? 別にいいじゃん、響! ほら、今日の給食、カレーパン出るんだって! 残しちゃダメだよ、響はすぐ野菜残すんだから!」

星宮(ほしみや) 葵(あおい)は、まるで俺の悪態など聞こえていないかのように、俺の腕に自分のリュックをちょこんと当ててくる。その余計なお世話と、距離の近さが、今日の朝もまた鬱陶しい。

「うるせぇ。俺の勝手だろ」

そう、つっけんどんに返す。中学二年生、14歳。クールな俺を演出するには、こんな時こそぶっきらぼうに振る舞うべきだ。だけど、心臓がやけにうるさいのは、隣にいる体温のせいだ。本当は、葵の世話焼きが嬉しくて仕方ない。このベタベタした感じが、嫌じゃないどころか、むしろ…。そんなことは、絶対に顔に出さない。俺は、周りから一歩引いた、冷静沈着な男、というキャラで通しているのだ。多感な中身を、必死にクールな装甲で隠しながら、今日も学校への道を歩く。

その日の放課後、俺は一人、近所の野原を通りかかっていた。いつもなら葵が横でピーチクパーチク騒いでいる時間だが、今日はたまたま委員会で遅くなったため、久しぶりの単独行動だ。

ふと、草むらの中に、鮮やかな水色の物体が落ちているのを見つけた。ファンシーショップにありそうな、丸っこいキャラクターのぬいぐるみだ。

「なんだ、これ」

俺は足先で、そのぬいぐるみを軽くつついた。

その瞬間、水色の物体が「痛いよ!」と甲高い声で叫び、プイッと顔を上げた。それは、紛れもなく生き物だった。

「お、お前…!」

俺が驚いて一歩下がると、ぬいぐるみはピョコピョコと飛び跳ね、俺の膝の高さまで来た。

「やっと見つけたー! 僕の名前はピカリス! 君が僕のパートナーだよ!」

「は、パートナー?」

俺は平静を装おうと、無表情を貼り付ける。内心では、選ばれた民(エリート)のような高揚感が胸を突き上げていた。まるで、非日常の扉が開いた音を聞いたようだ。

「詳しく、説明しろ」

クールな声で促すと、ピカリスは得意げに胸を張った。

「実はね、僕らは妖精の王様を決めるための大会『フェアリー・クライシス』の参加者なんだ! 僕は、君みたいな人間(パートナー)に特別な能力を授けて、他のパートナー同士を戦わせる。最後に勝ち残った人間が、僕らと一緒に次の王様を決めるんだ!」

「能力…」

俺は、クールなふりをしながらも、前のめりになって質問した。

「その能力とやらは、一体どんなものだ?」

その時、背後から突然、チャラチャラとした陽気な声が割り込んできた。

「おや、新しい参加者かな?」

振り返ると、そこに立っていたのは、20代前半に見える、細身で長髪、いかにもミュージシャンといった風貌の男だった。黒のスキニーに、だらしないシャツを着ている。

「レッツダンス!」

男は、ニヤリと笑い、手のひらをこちらに向けてきた。反射的に、俺はその腕を払いのけた。

「触んな、うぜぇ」

男は、腕を払われたにもかかわらず、その笑みを深めた。

「勝負成立だな」

その直後、まるで殴られたような強い衝撃が、俺の腹部に走った。

ドォン!

見ると、さっきまで男が腕を向けていた空間から、透明な水の塊が飛んできていたのだ。男の目的は、俺ではなく、ピカリスだったらしい。水の塊は、俺をかすめて、ピカリスに直撃しようとしていた。

「うわぁ!やばいよ響!」

「ちっ!」

考えるより早く、俺はピカリスを抱きかかえ、その場から全力で逃げ出した。

全力で野原を突っ切りながら、ピカリスは震える声で状況を説明した。

「レッツダンスって言われて、相手と手を合わせたり、お互いが合意したりすると、戦いが始まるの! あの人、別の能力者だよ! 僕は、妖精が倒されちゃうと大会失格になっちゃうんだ!」

「逃げても、いつかは捕まるだろ。戦うしかないんだな」

俺は、冷静に状況を判断した。このまま逃げ続けても、状況は変わらない。

「そうだよ! さっきのレッツダンスって、君が腕を払ったから、拒否の合意として戦いが始まっちゃったんだ!」

「逃げてる途中で、戦いが始まっただと…?」

「そうだよ! でも安心して! この野原は、実際の場所をコピーした、戦い用の異空間(バトル・フィールド)になっているんだ! 僕と君、それからあの能力者以外はいない! どんなに周りを壊しても、誰も傷つかないから、好きに戦っていいんだ!」

その説明を聞き、俺の口元はわずかに緩んだ。内心では、「最高かよ…!」と叫びたい気分だったが、もちろんクールな表情を保つ。

「で、俺に授けられた能力とやらは、何だ?」

「えっとね、君の能力は雷(いかずち)だよ!」

雷。俺の名字、神鳴(かみなり)にぴったりの能力。やはり、俺は選ばれた男だ。

「発動には、技の名前が必要なんだ。かっこいい名前、決めてね!」

「技の名前、だと?」

俺は適当に考えたふりをしながら、心の中で、小学生の時から妄想で決めていた、とっておきの名を口にした。

「…魔雷光(まらいこう)だ」

俺たちが逃げ込んだ先の、茂みに隠れていたところへ、例のミュージシャンの男が追いかけてきた。

「見つけたぜ、子猫ちゃん。さっさと妖精を渡してもらうぞ」

男が踏み込んできたその瞬間、俺は茂みから飛び出し、腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

叫びと同時に、俺の腕から、まるで本物の稲妻のような、紫色の雷撃が弾け飛んだ。

しかし、男はたじろいだものの、すぐにニヤリと笑った。雷撃は男に当たったが、男の全身には水でできた薄い膜のようなバリアが張られており、男は無傷のようだ。

「へぇ、雷か。いいね、なかなか派手な能力だ」

男は状況を見て、さらに笑みを深くした。

「だったら、こいつで終わりだ! コールレイン!」

男がそう叫ぶと、バトル・フィールドの空に、急に厚い雲が現れ、ザーッと激しい雨が降り出した。

「なんだ…? ただの雨か?」

俺が意識を集中するが、ただ雨が降っているだけだ。

男は確信したように、勝ち誇って笑い出した。

「これでチェックメイトだ、坊主! お前の技は雷だと見た。このびしょ濡れで、また雷を打ってみろ。感電するのは、お前自身だ!」

男の判断は、もっともらしかった。濡れた体で雷を扱えば、確かに自分自身にもダメージがくるはずだ。

しかし、俺は動じない。

「やれやれ…。お前の浅知恵には、付き合ってられない」

俺はわざとらしく溜息をつき、再び腕を突き出した。

「魔雷光(まらいこう)!」

再びの電撃が、男に向かって飛ぶ。

バチィッ!

男のバリアは吹き飛ばされ、男は地面に叩きつけられた。だが、俺は無傷だ。

「ぐっ…な、なんで…!?」

男が驚愕する中、俺は淡々と言い放った。

「小学生でも知っているだろ。水が高いところから低いところに流れるように、電撃は発電場所から流れ戻ることはない。俺が能力の発動源である以上、電気は俺から相手へ流れる一方だ。お前の言うような感電は、この能力ではありえない」

男は、自分の誤算に顔を歪ませたが、すぐに立ち上がり、再度水のバリアを張り直した。

「くそ…! またバリアを張ればいい! お前の雷じゃ、これを貫通することはできないだろ!」

男は、バリアを貫通できなかったことを思い出し、安堵の表情を見せた。

だが、俺は静かに首を横に振った。

「残念ながら、これで準備は整った。チェックメイトだ」

俺は、一歩踏み出し、冷たい声で続けた。

「確かに、バリアを貫通はできない。だが、さっきの攻撃で、俺はお前の周りの水を電気分解した。今、お前のバリアの内側、そして足元には、酸素と水素が高濃度で充満している」

男の顔から、血の気が引いていくのがわかった。

「そこに、熱源が発生すると、どうなる?」

そして、俺はとどめの一撃を放った。

「魔雷光(まらいこう)!」

今度の雷撃は、男自身ではなく、男の足元の水たまりめがけて放たれた。

雷撃が水たまりに当たり、その火花が高濃度の水素と酸素の混合気体に引火した。凄まじい爆発音と共に、水と土が舞い上がり、男は黒焦げの躯となって吹き飛ばされた。

俺は、崩れ落ちる男の躯を、クールな表情で見下ろした。

(よっしゃああああ! 大勝利!!)

内心では、雄たけびを上げ、ガッツポーズを何十回も繰り返していた。俺のクールな装甲の下で、中学生の魂は、初めての異能バトルに興奮しきっていた。

ピカリスは、俺の肩で「すごいよ、響!」と喜んでいる。

「ふん、まあ、こんなものだろ」

俺は、誰にともなくそう呟き、何食わぬ顔でピカリスを抱きしめ直した。まだ戦いは始まったばかりだ。

六つのたいざい VerM

ケンは倒れ、その意識は闇に沈んだ。

マリは、サトウを振り返った。サトウの顔は、安堵と、マリへの絶対的な献身で輝いている。彼は、ケンを襲ったことで、マリの愛を勝ち取ったと信じて疑わない。

「サトウさん……ありがとう。あなたは、本当に私の唯一の騎士だわ。あなたの愛は、私をこの街で最も安全な存在にしてくれた」

マリの言葉は、サトウにとって、世界のすべてだった。彼の愛は、すでにマリの意志と一体化していた。

「マリさん! 私は、君の愛に応えるためなら、どんなことでもする! あなたの心が望むすべてを、私がこの手で実現する!」

マリは、サトウの頬を優しく撫でた。

「私の騎士サトウ。あなたは、私に完全な支配をもたらしてくれたわ。しかし、まだ最後の汚物が残っている」

マリは、路地の影を指差した。ヤマモトが、意識を失って倒れている。

「あのヤマモト。彼は、あなたの献身的な愛に値しない、不純な論理の持ち主よ。あなたは、私のために、この街を純粋な二人だけの世界にする必要があるわ」

サトウは、マリの言葉を、神聖な使命として受け止めた。彼は、マリの完璧な愛の前に、ヤマモトの存在が不純物であると心から信じた。

「もちろんだ、マリさん! あなたの愛の純粋さを脅かすものは、私がすべて排除する!」

サトウは、ケンを殴りつけた鉄パイプを拾い上げ、歓喜の表情を浮かべながら、路地の奥へと向かった。

数秒後、物陰から鈍い衝撃音が響き、静寂が戻る。

サトウは、達成感に満ちた笑顔で戻ってきた。彼は、ヤマモトの排除を、マリへの究極の捧げものだと信じている。

「マリ! 完了したぞ!これで、君を脅かすものは誰もいない!」

サトウは、マリを抱きしめようと近づいた。彼の全身は、マリの愛の実現という幻想で満たされている。

マリは、彼が完全に愛の陶酔に浸っていることを確認した。彼女は、最後の、そして最も残酷な自己排除の命令を下すため、サトウの胸にそっと手を置いた。

「サトウさん。あなたの愛は、確かに強烈な狂気だったわ」マリは、涙を浮かべているかのような表情で囁いた。「私の愛は、純粋でなければならないの。そして、その愛を受け取るあなたも、永遠に穢れなき存在でなければならない」

サトウの表情は、深い感動で歪んだ。彼の愛は、すでにマリの自己犠牲の要求をも受け入れていた。

「マリさん……君は、私の魂の安寧まで考えてくれるのか……!」

マリは、最後の決定的な言葉を、静かに、そして甘く囁いた。

「ええ。サトウ。あなたは、私に完全な支配をもたらした。もう、この汚れた街で苦しむ必要はないわ。あなたが永遠に穢れなき存在として、私の記憶の中に残ることが、最高の愛の証明なのよ」

マリは、サトウの頬にキスをした。

「さあ、サトウ。最高の愛の儀式を、あなた自身で完遂して。そうすれば、あなたは永遠に、私の完璧な騎士として記憶されるわ」

サトウは、マリの言葉を、絶対的な愛の啓示として受け止めた。彼は、マリの愛の言葉に完全に陶酔し、自分から命を絶つことが、マリへの究極の愛の贈り物だと信じ込んだ。

彼は、マリが手渡した鉄パイプを、その首元に自ら突き立てた。

ズブッ!

サトウの顔からは、苦痛ではなく、至福の笑みが消えることはなかった。彼は、マリに騙され、利用され、そして自ら命を絶ったことを、最期の瞬間まで知ることはなかった。彼は、マリの完全なマインドコントロールの下で、愛の殉教者となったのだ。

マリは、サトウの冷たくなった遺体を見下ろした。彼女の顔には、一切の感情がない。

「これで、完全な支配が完成したわ」

ゴトウ、タケダ、ケン、ヤマモト、サトウ。五つの遺体が、マリが手を汚すことなく、彼女の冷酷な知恵と、愛という名の完全な支配力の前に横たわった。

その瞬間、路地の廃墟全体が、信じられないほどの強い光に包まれた。

次に目を覚ましたのは、冷たいコンクリートの上だった。

マリは、優雅に身体を起こした。頭痛は消え、喉の渇きも和らいでいる。ここは、六畳ほどの汚い部屋。

彼女の目の前には、見覚えのある五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっている。彼らは、全員が極度の混乱と恐怖に顔を歪ませながら、次々と覚醒し始めている。

マリは、彼らの顔を冷徹に見つめた。過去の男たちが、形を変えて再びそこにいる。

一人の男が、ポケットから白い紙切れを取り出した。そして、混乱した目で、マリに話しかけた。

「あ、あんた何か知らないか? 目を覚ましたらここにいて……ポケットによくわからない紙切れが入ってるんだが」

マリは、その紙切れに書かれているメッセージを知っている。そして、この部屋の構造、この街の広さ、男たちの心理的な弱さも、すべて知っている。

マリは、その男を見つめ、口元に冷たい笑みを浮かべた。彼女は、このゲームの絶対的な勝者であり、この状況の真の支配者として、この第二ラウンドの始まりを歓迎した。

「最後の一人に、救済を」。

マリは、心の中で呟いた。

「…………あと、五人いるのね」

彼女の瞳は、もう二度と裏切られることのない、完全な勝利を確信していた。

六つのたいざい

目を覚ました瞬間、激しい頭痛と吐き気が俺を襲った。喉が張り付いたように乾ききっていて、全身が冷たい。ここはどこだ?

俺は冷たいコンクリートの上で跳ね起きた。六畳ほどの汚い部屋。天井にはシミがあり、カビと埃が混ざったような悪臭が鼻につく。

俺以外にも、五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっていた。

「おい、アンタら! 大丈夫か!?」

俺の声に、五人は次々と意識を取り戻し始めた。彼らの表情は、俺と全く同じ、極度の混乱と怯えで満ちている。

「な、何が起こったのよ……」

30代くらいの女が、震える声で呻いた。彼女の化粧は少し崩れており、状況への不安でパニック寸前だ。

「わからん……最後に何をしていたかも、思い出せん……」

60代の男が、額を押さえながら呻いた。彼は身なりこそ粗末だが、どこか裕福そうな雰囲気を残している。

俺はすぐにドアに駆け寄り、力を込めて押し開けた。

視界に飛び込んできたのは、荒廃しきった街。窓が割れ、壁が剥がれた廃墟が延々と並んでいる。アスファルトは消え、路上は茶色い砂で覆い尽くされていた。風が吹くたびに砂塵が舞い上がる。

「うそ……だろ……」

呆然と立ち尽くす俺の後ろから、他の五人が顔を出す。彼らの息を呑む音だけが、砂風の音に混じって響いた。

「まるで、映画のセットみたいだ……」20代後半の神経質な男が、眼鏡を押し上げながら呟いた。

「何かのドッキリか? 誘拐か!?」50代の強面の男が、苛立ちを露わにして、壁を蹴った。

その時、30代の女が、ポケットから白い紙切れを取り出した。

「皆さんも、これ……」

俺は自分のポケットを探った。同じ白い紙片。広げる。

「最後の一人に、救済を」

「最後の一人……? これは、どういう意味だ?」60代の男が、恐怖に顔を歪ませる。

「救済……? 何から、救われるっていうのよ?」女の声は、泣き出しそうだった。

誰もが、目の前の光景と、この不気味なメッセージの意味を理解できずに混乱している。ここはどこだ? 何が目的なのか?

俺は壁際まで走った。コンクリートの高い壁が、この街を取り囲んでいる。外は、見渡す限りの砂漠だ。脱出は不可能。

俺たちは、この50平方キロメートルの檻に閉じ込められている。そして、この状況は、俺たち六人のうち、一人だけが生き残ることを示唆している。

極度の混乱から、一段落して、誰もが冷静さを取り戻そうと必死だった。最初に口を開いたのは、比較的冷静であろうと努めている20代後半の男だ。

「このままでは、状況は悪化する一方です。私たちは……何らかの理由で、ここに集められた。そして、生き残りを競わされている可能性が高い」

「何を当たり前のことを!」50代の男が威圧的な声を出す。「それよりも、まず誰が一番偉いか、誰が一番役に立つのか、はっきりさせるべきだろう」

誰もが自分の不安を隠すように、相手を警戒し、探りを入れている。

「いや、まずは情報共有でしょう」俺は言った。「お互い、どこの誰かも知らない。協力するにせよ、敵対するにせよ、最低限のことは知っておくべきだ」

「本名なんて明かせないわ」30代の女が、強い口調で反論した。「もしこれが、私たちを試すためのゲームなら、本名なんて、弱みになるだけよ」

「では、仮名で」20代後半の男が提案した。「職業や、過去の経験を交えながら、最低限の自己紹介をしましょう」

誰もが納得した。誰もが不安を抱えながら、相手の「正体」を探るために、しぶしぶと口を開く。

俺は立ち位置を決め、彼らの顔を見た。

「俺は、ケンだ。二十歳。これ以上は、言わない」俺はあえて若さだけを伝えた。

次に、神経質な20代後半の男が、少しお辞儀をするような仕草をした。

「僕は、ヤマモト。28歳です。元は、研究職をしていました。論理的な思考が得意です」彼は「知性」をアピールした。

「俺はゴトウだ」50代の男が、腕を組みながら威圧的に言った。「俺は昔から組織を束ねてきた。人を動かす経験は、お前らとは桁が違う」彼は「暴力と経験」をマウントに使うつもりだ。

60代のサトウは、顔を青くしながらも、自分の過去の地位に縋りついた。

「わ、私はサトウと呼んでくれ。60代だ。会社を経営していた。物資の管理や、リスクの計算なら誰にも負けん」彼は「金と経営術」を武器にした。

そして、30代の女。彼女は、目を伏せて、まるで助けを求めるように、わざと弱々しく振る舞った。

「私は……マリです、32歳。事務職しかしたことがない、何の役にも立たない女です。だから、危険なことは男性の皆さんにお願いしたいわ。皆さんの指示には従います」彼女は、「無力さ」を装って、男性陣の警戒心を解こうとしている。

最後に、30代のタケダは、怯えと不安に満ちた目で、小さな声で言った。

「俺は、タケダ。33歳だ。運送業を……やってた」

運送業。肉体労働。そして、その表情からは、極度の不安と動揺が伝わってくる。

誰もが、自分の最も優れていると思われる部分を誇示し、逆に、最も触れられたくない過去や、この場所に集められた「理由」については、徹底して口を閉ざした。

この中で、誰が最も危険で、誰が最も利用できるのか。

ゴトウが、その沈黙を破った。

「いいだろう。自己紹介は終わりだ。ならば、次は行動だ。この街は広すぎる。まずは、食料と水の有無だ。タケダ」

ゴトウは、最も怯えているタケダに、有無を言わさず命令した。

「お前は、体力があるんだろう。先行して、あの生ゴミの山を調べてこい。この街で、何が食えるか、何が使えるか、見つけてくるんだ」

タケダの顔は引きつった。生ゴミには、カラスやゴキブリ、野良犬が群がっている。危険な偵察だ。

「ゴトウさん!」ヤマモトが声を上げる。「危険すぎます! せめて二人で……」

「黙れ!」ゴトウが怒鳴った。「俺がこの場を仕切る。逆らう奴は、救済される前に、この場で処理させてもらう」

ゴトウの暴力的なマウントが、他のメンバーを黙らせた。タケダは拒否できず、絶望的な顔で、生ゴミの山の方へと向かっていった。

俺は、ゴトウの横暴を冷めた目で見つめた。この街の探索は、始まったばかりだ。

タケダが、怯えきった背中を見せながら、生ゴミの山の方へと歩き出した。ゴトウの暴力的な命令に誰も逆らえなかった。ゴトウは腕を組み、満足そうにタケダの後ろ姿を見送っている。

「ゴトウさん」

俺は、一歩踏み出し、あえて強い口調で言った。

ゴトウは苛立たしげに振り向く。

「なんだ、ケン。文句があるのか」

「文句じゃない。疑問だ」

俺は、さっきのゴトウの言葉を反芻する。ゴトウは、タケダに命令する際、こう言った。

「この街は広すぎる。まずは、食料と水の有無だ」

俺はゴトウの目をまっすぐに見つめ、指摘した。

「ゴトウさん。俺たちは全員、たった今、あの部屋で目を覚ましたばかりだ。外の状況を見たのも、全員が初めてのはずだ」

「それがどうした」

「どうして、ゴトウさんは、この街が『広すぎる』と断言できたんですか?」

俺の言葉に、周囲の空気が凍り付いた。ヤマモト、サトウ、マリの三人が、一斉にゴトウに視線を集中させる。

誰もが、この不気味な場所の「広さ」や「構造」を、俺が壁際まで走って「外は砂漠だ」と報告するまで知らなかったはずだ。だが、ゴトウは、その事実を知っていたかのように振る舞った。

ゴトウの顔が、一瞬、引きつった。彼の威圧的な態度が、ほんのわずかだが揺らぐ。

「……何が言いたい。見たままを言っただけだろうが」

「いいや、違う」マリが、すかさず口を開いた。彼女は、先ほどの「か弱い女」の仮面を外し、鋭い眼光を向けている。「ゴトウさん。この街のエリアは、約50平方キロメートル。私たちが目を覚ました部屋から外を見ただけでは、その広さまでは断言できないわ。あなたは、どこかで、その情報を得たんじゃないの?」

サトウが、動揺を抑えきれない声で付け加える。

「そうだ。ゴトウさんは、私たちよりも先に、この街にいたのではないか? それとも、このゲームの主催者側の人間なのか!」

疑心暗鬼は、一気に燃え広がった。この中で誰か一人が裏切り者、あるいは主催者側のスパイかもしれないという恐怖は、全員が抱えている。

ゴトウは顔を紅潮させ、激昂した。彼にとって、この疑惑は、せっかく暴力で掴んだリーダーシップを崩壊させる致命傷だ。

「ふざけるな! 俺がお前らみたいな雑魚の主催者なんかやってられるか! 俺だって、お前らと同じ、被害者だろうが!」

「被害者にしては、随分と余裕がありそうに見えるわよ」マリは冷ややかに言い放つ。「そして、あのタケダへの命令。あれは、誰かを先行させて、様子を見させるという、この街の隠されたルールを、あなたが知っていたからではないの?」

ヤマモトが、震えながらも、論理的に畳みかける。

「ケンさんの指摘は正しい。我々が知る情報は、この部屋と、壁と、砂漠、そして『救済』のメッセージだけ。ゴトウさんの『広すぎる』という発言は、既知の事実を前提とした表現です。説明してください、ゴトウさん。あなたが、私たちに隠している情報は何ですか?」

俺は、ゴトウと他のメンバーの間で、状況が一気に緊迫していくのを冷静に見つめていた。目的はゴトウの追放ではない。彼の持っている情報を引き出すことだ。

ゴトウは、俺たち四人の鋭い視線に囲まれ、明らかに追い詰められていた。彼は、感情的な怒りを爆発させるしかなかった。

「ちくしょう……! 知るか! 俺はただ、直感で言っただけだ! こんな廃墟が、一日で歩ききれるわけがない、と思っただけだ!」

ゴトウは怒鳴り散らし、地面に唾を吐いた。彼の言葉に、説得力はない。しかし、証拠もない。

俺は、ゴトウを追い詰めるのをやめ、一歩引いた。

「直感、ですか。わかりました。でも、次に不自然な発言があった場合、俺たちはゴトウさんの言葉を信用しない。リーダーシップは、信用の上に成り立つものだ。そうでしょう、サトウさん」

サトウは、俺に組まれたことで、いくらか安心したように頷いた。

「その通りだ、ケンさん。信用を失った人間に、この命を預けることはできない」

マリも口元を緩めた。「女性は、特に信用を重んじる生き物よ。私たちを騙そうとするなら、あなたも『最後の一人』にはなれないわ」

ゴトウは、屈辱に顔を歪ませながら、何も言い返せなかった。タケダを命令したことで一時的に得たはずの主導権は、俺のたった一つの指摘によって、あっという間に崩壊した。

そして、グループは二つに分断された。

ゴトウ:暴力と経験に頼る、今や信用を失った孤立者。 ケン、マリ、サトウ、ヤマモト:知恵と論理で結びついた、表面的な協力関係。

タケダは、そのどちらにも属さない、ただの斥候だ。

その時、遠くの生ゴミの山の方から、タケダの甲高い叫び声が聞こえてきた。

「あ、あああああああ!」

俺たち五人は、顔を見合わせた。タケダが、何かに遭遇した。

タケダの甲高い悲鳴が、砂風に乗って遠くから響いた。俺たち五人は、一瞬にして硬直する。しかし、その場で動ける人間はいなかった。誰もが、目の前で繰り広げられたゴトウへの追及で、精神的に消耗していた。

ゴトウは顔を真っ赤にしたまま、俺たち四人を睨みつけている。俺が指摘した「広すぎる」という発言の不自然さが、彼をリーダーの座から引きずり下ろした。

俺は、一歩引いて、ゴトウの言った言葉をもう一度考えた。

「ゴトウさん」俺はあえて、冷静な口調に戻した。「あなたを疑ったことは謝ります。ですが、情報を持っているなら出してほしい」

ゴトウは鼻で笑った。

「謝罪だと? 誰も謝罪なんかいらねぇんだよ、ケン。俺が『広すぎる』と言ったのは、そこに転がってる腐った標識を見ればわかるだろうが」

彼は、部屋のすぐ外に倒れている、半分砂に埋もれた巨大な案内標識を指差した。

俺たちは一斉にそちらを見た。風化して字はほとんど読めないが、その大きさは異常だ。通常の高速道路の標識の数倍はある。そして、その巨大な矢印が指し示している文字の一部が、かすかに読み取れた。

『…トリア 距離:42km』

42km。

誰もが息を呑んだ。この廃墟の街が、その外壁までの距離も含めて、最低でも数十キロメートル四方の広大なエリアを持っていることを、その標識は示していた。

ゴトウは、俺たち全員に突きつけるように言った。

「どうだ、クソガキ。お前らが寝てた間に、俺は立ち上がって、この標識を見た。こんな巨大な街が、一日や二日で端から端まで歩ききれると思うか? 見たままを、言っただけだ。それを、お前らは主催者の陰謀だの、隠された情報だのと騒ぎ立てた。お前らの『知恵』と『論理』は、その程度のもんだ」

その瞬間、俺たち四人を結びつけていた「ゴトウへの優位性」という名の連携は、脆くも崩れ去った。ゴトウは何も隠していなかった。彼はただ、目を覚ましてすぐに「生存に必要な情報」を、俺たちより早く察知し、行動に移しただけだった。

俺たちは、この異常な環境下では、過去の常識や地位が全く通用しないことを、思い知らされた。そして、ゴトウがリーダーの座を奪ったのは、単なる暴力ではなく、最も早くサバイバルの常識に切り替えたからだ。

「……くそ」俺は歯を食いしばった。

「42km……」60代のサトウが、呆然と呟いた。「都市一つ分じゃないか。しかもこの有様では、どこに水や食料が残っているか……」

マリは、一瞬の動揺を隠し、すぐに詐欺師の顔に戻った。

「ふざけてるわね。これだけの広さ、しかも砂漠に囲まれてる。私たちにまともに探せっていうの? これじゃあ、一人でなんて到底無理よ」

マリは、すぐさまゴトウに擦り寄るのではなく、チームによる協力の必然性を説き始めた。

「ゴトウさん。あなたの経験は確かに凄い。でも、あなたは今、私たち四人の信頼を失った。この街を探索し、生き残るには、あなたの体力と、サトウさんの管理能力、ヤマモトさんの分析力、そして私の交渉術。全てが必要よ。一人じゃ無理。この広大な街で、誰が一番長く生き残れるか、その生活基盤から考え直さないと」

彼女の言葉は、最も現実的だった。

ヤマモトは、眼鏡を直しながら、すぐにその現実を受け入れた。

「そうですね。この広さなら、無闇に動けば体力を消耗するだけだ。まず、私たちの生存リソースを計算し、目標地点を決める必要があります。サトウさん、元経営者としての知識で、この街の物資のありかを予測できませんか?」

サトウも、先ほどの屈辱を忘れ、頭を切り替えた。

「うむ。街の構造と、物資の残り方には、必ず法則性がある。もしこの街が、かつて鉱山か何かで栄えたなら、生活物資は中央の商業地区か、あるいは労働者宿舎の跡に残されているはずだ。最優先は水だ。水の貯水施設か、廃墟の地下室を狙うべきだ」

誰もが、自分の過去の経験を、この極限状況下での知恵として絞り出し始めた。

俺は、マリとヤマモト、サトウの三人を束ねるように言った。

「よし。ゴトウさん、タケダが帰ってくるまでは、あなたの指示に従いましょう。ただし、情報共有は絶対です。サトウさん、ヤマモトさん、タケダが戻ったら、まずあの場所から見える廃墟で、一番大きな建物の位置を確認してください。そこを当面の『拠点』候補として、物資の集約先とします」

俺は、ゴトウを完全に排除するのではなく、彼の実力を認めつつも、自分たち四人の「知性」と「協力」で牽制し、新たなバランスを作ろうとした。

その時、遠くで、再びタケダの悲鳴が聞こえた。今度は、悲鳴というよりは、何かを引きずるような音と、激しい咳が混ざっている。

タケダが、何かを見つけて、戻ってきている。あるいは、何かに追われている。

「タケダが戻ってくる!」ゴトウが叫んだ。「全員、警戒しろ! 何か、街の住人に遭遇したかもしれん!」

俺たちは、全員、一斉に生ゴミの山の方へと視線を向けた。砂塵が舞う中、タケダの姿が、かすかに見え始めた。彼の手に、何か黒いものが握られているのがわかる。そして、彼は、明らかに何かから逃げていた。
タケダの甲高い悲鳴と、何かを引きずるような音が近づいてくる。俺たちは全員、身構えた。ゴトウの「街の住人」という言葉が、俺たちの恐怖を煽る。

砂塵の向こうから、タケダの姿がはっきりと見えてきた。彼は息を切らし、激しく咳き込んでいる。逃げるように走るタケダの手には、巨大な黒いビニール袋が握られていた。

タケダは、俺たちのいる場所まで辿り着くと、その場に倒れ込み、激しい呼吸を繰り返した。

「タケダ! 何があった! 追われているのか!?」ゴトウがタケダの襟首を掴み、問いただす。

タケダは顔面蒼白で、震える指先で生ゴミの山の方を指した。

「あ、あれ……カラスだ……カラスと、野良犬が、袋を取り合ってて……。そいつらに、襲われた……」

俺たちは脱力した。タケダが逃げていたのは、この街にいる大量の動物たちだった。この街にいるのは、人間ではなく、腐臭とゴミに集まる生物たちだ。

しかし、ゴトウはタケダの掴んでいた黒い袋に注目した。

「お前のその袋の中身は何だ!?」

タケダは、その袋をまるで宝物のように抱きしめていたが、ゴトウに促され、おずおずと口を開けた。

袋の中には、濡れないように厳重にビニールに包まれた、いくつかの物体が入っていた。そして、それは、俺たちが最も求めていたものだった。

「これは……炭?」俺は、袋の中の真っ黒な塊を見て、声を上げた。

「それに、これ、着火剤だ!」ヤマモトが、興奮して前に出る。小さな缶に入ったジェル状のものだ。「誰かが使っていたのか、それともゴミとして捨てられていたのか……」

タケダは、喘ぎながら説明した。

「生ゴミの山の下……廃材と一緒に埋まってた。カラスが、しきりにこの袋を突っついてたから……中身が、大事なものだと思って……」

黒いゴミ袋に入っていたのは、水没を免れた少量の炭、固形燃料、着火剤、そして数本のライターだ。火を安定的に準備するための道具一式だった。

この発見は、俺たちに一筋の光を与えた。

「火があれば……水が作れる!」マリが、喜びで声を上げた。「この街のどこかに、雨水が溜まっているかもしれない。それを煮沸消毒すれば、飲める!」

サトウは、興奮して手を叩いた。

「そうだ! そして、食料だ! この街には、カラス、鳩、野良犬、野良猫……それに、ああ、ゴキブリも大量にいる! 煮たり、焼いたりできれば、一か八かだが、これらを非常食にできる!」

ゴトウの顔も、勝利の笑みで歪んでいた。

「よくやった、タケダ! お前のおかげで、生存の可能性が上がったぞ」

ゴトウは、タケダの肩を叩いた。彼にとって、タケダは恐怖で支配すべき駒から、今や命の恩人へと変わった。そして、ゴトウはすぐに主導権を取り戻す。

「いいか、これで生き残る基盤ができた。次は、拠点だ。ケン、お前が見つけた『一番大きな建物』を目指すぞ。火を失うな。ヤマモト、お前がその火の道具を管理しろ」

ヤマモトは頷いた。彼は火の道具を慎重に受け取り、胸元に抱きしめた。

「わかりました。水の確保を最優先にします。サトウさん、この炭の量から見て、何日分の燃料になるか、概算できますか? 無駄遣いはできません」

サトウは、すぐに経営者の顔に戻った。

「うむ。固形燃料と着火剤を最大限温存し、炭を少しずつ使えば……初期探索の移動時間を考慮して、最低でも三日間は持つはずだ。その間に、次の水と燃料を見つけねばならない」

俺たち五人の間に、一時的な「協力」と「希望」が生まれた。火という絶対的な資源が、互いの罪や疑惑を一時的に忘れさせたのだ。

しかし、俺は冷静に考えた。火は強力な武器であり、同時に強力な争いの種になる。この火の管理権を誰が持つか。そして、この火を使って、俺たちは本当に生き物を殺して食べるのか。

俺は、タケダの隣にしゃがみこみ、彼に水を少し与えながら尋ねた。

「タケダ。何にそんなに怯えていたんだ? カラスや犬に襲われただけか?」

タケダは、目をキョロキョロとさせ、震える声で囁いた。

「いや……カラスと犬だけじゃない……。あの生ゴミの山……あそこに、何かが埋まってる。俺が袋を掘り出したとき、土の下で、何か……人間に近いものが、動いた気がしたんだ……」

タケダのその言葉は、俺たちを包んでいた一瞬の希望を、再び、深い疑心暗鬼と恐怖へと引きずり戻した。

「人間? 生ゴミの中に?」ゴトウが、顔色を変えて尋ねた。

タケダは首を横に振る。「わからない。だが、この街は、俺たちだけじゃない。他にも誰かがいる。そう、強く感じたんだ……」

俺たちは、火の道具を手に入れた安堵と、この新たな恐怖に挟まれながら、とりあえず生存のための拠点を目指して、動き出すしかなかった。
タケダの「誰かが埋まっている」という言葉は、俺たち全員の背筋を凍らせた。だが、確認する術はない。そして、火という資源を手に入れた今、立ち止まるわけにはいかない。

「タケダの言うことは気にするな。興奮して見間違いをしただけだ」ゴトウが強引に結論づけた。「火の道具を最優先し、拠点に向かうぞ!」

俺たちは、サトウとヤマモトが遠望して定めた、この街でひときわ大きく見える廃墟のビルを目指して歩き始めた。荒涼とした砂の路上を、警戒しながら進む。

俺たちは、効率を上げるために、二手に分かれて探索を始めた。ゴトウとタケダが前方を警戒しながら進み、俺(ケン)とマリ、サトウ、ヤマモトが後方で火の道具を守り、周囲の建物に立ち寄りながら物資を探す。

いくつかの小さな家を覗いたが、見つかるのは、腐敗した家具、カビだらけの衣服、そして大量のゴキブリだけだった。希望はすぐに削られていく。

「こんな場所、何を探しても無駄だわ」マリが苛立ちを隠せない。「この街は、何もかもが腐りきっている」

「待て」サトウが、一つの廃屋の前で立ち止まった。「この辺りは、他の家よりも少し造りがしっかりしている。生活感が濃い。この区画は、特定の職種の人間が住んでいた場所ではないか?」

元経営者としての彼の視点は鋭かった。その廃屋は、他の家よりも窓が小さく、壁も厚い。倉庫か、作業員宿舎のようだ。

俺は躊躇なく、割れた窓から中を覗いた。中は暗く、埃が酷い。

「入るぞ。ヤマモト、火の道具は持っておけ」

俺とヤマモト、サトウ、マリの四人は、その廃屋に足を踏み入れた。悪臭がひどい。だが、腐敗臭だけでなく、微かに、乾燥した植物のような匂いが混ざっている気がした。

奥の部屋へ進むと、そこは調理場のような場所だった。錆びついた業務用コンロがあり、その横の壁には、金属製の棚が備え付けられていた。

棚の上には、数多くのネズミの糞が散乱していたが、その奥に、目を凝らすと、ネズミがかじりついた痕跡のない、いくつかの麻袋が積み重ねられているのが見えた。

「まさか……」サトウが、震える手で麻袋の一つに触れた。

俺は袋の口を掴み、一気に引き裂いた。

中から、白い粒が、埃と共に流れ落ちた。

「……米だ!」俺は思わず叫んだ。

袋は完全に密閉されてはいなかったが、砂漠の乾燥した空気と、建物の頑丈さのおかげで、中の米は、表面が少し汚れているものの、中まで腐敗してはいなかった。数カ所ネズミにかじられた穴もあったが、使える部分の方が圧倒的に多い。

「嘘でしょう、こんな物が……!」マリが駆け寄り、米粒を手のひらに載せて見た。

ヤマモトがすぐに他の袋を確認する。全部で六袋。そして、その米袋の隅に、ビニールで包まれた段ボール箱が置かれていた。

「こっちにも!これ……乾麺です!」

段ボールの中には、インスタントラーメンのような乾麺が、数十食分、丁寧にビニールで再包装されて入っていた。米と同様に、乾燥状態のおかげで、水分を吸うことなく残っていたのだ。

歓喜が、俺たち四人を包んだ。

「これで……飢えることはない!」サトウが興奮で声を震わせる。「火と水さえあれば、当面、カラスを食う必要もない!」

俺はすぐにゴトウたちに報告するために外へ出ようとしたが、マリに腕を掴まれた。

「ケン。待って!」マリの目は真剣だった。「このことは、すぐにゴトウに言うべきじゃないわ」

「なぜだ?」

「ゴトウは今、タケダの火の発見で主導権を握ったばかり。私たちがこれだけの食料を見つけたと知れば、彼はこれを独占し、私たちを自分の奴隷のように扱うわ。彼は暴力で支配しようとする人間よ。この食料は、私たち四人がゴトウに対抗し、対等な交渉をするための、唯一の武器なの」

マリの言葉は、詐欺師としての冷徹な計算に基づいていたが、この状況では理にかなっていた。ゴトウは、すぐに食料を配給制にして、自分の命令に従わない者には与えないだろう。

ヤマモトも同調する。「はい。サトウさんとマリさんの言う通り、これは私たちの生存権を守るための切り札です。ゴトウとタケダには、少量の物資しか見つからなかったと報告すべきです」

サトウは頷いた。「私も、元経営者として、資源をオープンにすることの危険性は理解している。食料は、私とマリさんで管理しよう。ケンさん、ゴトウへの報告は頼んだ」

食料という命綱を見つけた瞬間、俺たちの間の疑心と生存本能は、ゴトウの暴力支配に対抗するための秘密の同盟へと形を変えた。

俺は米と乾麺を棚の奥深くに隠し、入り口の割れた窓を、瓦礫で目立たないように塞いだ。

「わかった。俺は、何も見つからなかったと報告する。だが、この秘密は、絶対に誰にも漏らすな。もし裏切ったら、俺がお前らを、この街の生ゴミとして処分する」

俺は低い声で脅しをかけ、ゴトウとタケダの元へと走り出した。俺の心臓は、食料を見つけた喜びと、ゴトウを騙す緊張感で、激しく鳴り響いていた。

俺は、食料が隠された廃屋の窓を瓦礫で塞ぎ、ゴトウとタケダの元へ走り出した。心臓がうるさい。米と乾麺。それは、この街で生き残るための命綱だ。

ゴトウとタケダは、遠くの廃ビルの前で、不安そうに俺たちを待っていた。

「おい、ケン! 何か見つかったのか!」ゴトウが焦ったように尋ねる。

俺は、意図的にため息をついた。

「いや、駄目だ。めぼしいものは何もない。ほとんどがゴミと腐った木材だけだ。ただ、マリが、小さな缶詰を一つだけ見つけた。中身は……たぶん、ツナ缶だ。サトウさんが、皆で分ければ一食分にはなるだろうと」

俺は「小さな希望」を提示することで、ゴトウの警戒心を緩ませた。マリの言う「下手に出る」詐欺師のやり方だ。

ゴトウは舌打ちした。「ちっ。缶詰一つか。まあ、何もないよりはマシだが。くそ、この広さで本当に何もないのか」

タケダは、その「小さな缶詰」という言葉にすら、安堵の表情を見せていた。

これで、最初の嘘は通った。俺たち四人が米と乾麺という強力な秘密を共有し、ゴトウとタケダを欺いている。

俺は、マリ、サトウ、ヤマモトの顔を振り返った。

マリは、口元に薄い笑みを浮かべている。彼女の目は、「これで勝った」と確信しているようだ。サトウは、元経営者らしく、この「隠匿」という名の資源管理に、静かな満足を覚えている。ヤマモトは、不安と高揚が混じった表情で、この秘密を「論理的戦略」として受け入れていた。

俺たち四人は、この食料の秘密を共有した瞬間、口には出さないが、全員が同じ冷酷な言葉を思い出していた。

「最後の一人に、救済を」
食料は、全員を助けるためのものではない。この食料は、俺たち四人が、ゴトウとタケダという二人の協力者を、いつ、どうやって切り捨てるかを決めるための、強力な武器だ。

マリは、ゴトウとタケダに聞こえないように、俺に囁いた。

「ケン。あの缶詰は、私たち四人で分けましょう。もちろん、ゴトウとタケダには、少し多めに。彼らを働かせるための餌よ。彼らが体力を消耗して、無防備になった瞬間が……私たちのチャンスよ」

マリの提案は、すでに殺意を含んでいた。彼女は、生存競争において、躊躇なく誰かの命を切り捨てる覚悟を決めている。

ヤマモトが、理詰めで付け加える。

「あの米と乾麺は、私たち四人が自活するための時間稼ぎです。ゴトウとタケダが、私たち四人の秘密に気付かず、体力を消耗し尽くした時点で、私たちの生存率は格段に向上する。彼らを利用することが、現時点での最善の論理です」

サトウは、静かに頷いた。「経営判断だ。不要なコストは、早期に削減すべきだ。だが、今はまだ、彼らの労働力が必要だ。慎重に、そして計画的に進めよう」

俺は、口の中で砂を噛むような感覚を覚えた。俺たちの会話は、すでに『殺人計画』の立案になっている。誰もが、自分の罪の根幹にある冷酷さを、この街で呼び起こしていた。

俺は、マリとヤマモトの提案を受け入れた。

「わかった。当面、ゴトウをリーダーとして泳がせる。タケダには、引き続き危険な斥候役をさせる。火の管理は、ヤマモトとサトウさんが。食料は、マリが適当な場所に移して隠せ。俺は、ゴトウの動きを監視する」

俺たちは、表面上は協力し合う「生存グループ」を装いながら、裏では、誰を犠牲にして生き残るかという冷たい策略を始動させた。

俺たちは、この廃墟の街が、単なるサバイバルゲームではなく、断罪の場であることを、改めて理解し始めていた。

俺たちは、拠点とする廃ビルへ向かって砂の路上を進んでいた。ゴトウは先頭を歩き、暴力的な態度で「リーダー」を気取っている。タケダは、その横で怯えながらも、ツナ缶の油で少しだけ生気を取り戻した顔で、周囲を警戒していた。

俺たち四人、ケン(俺)、マリ、サトウ、ヤマモトは、彼らの数歩後ろを歩く。見た目の上では「協力」だが、俺たちの胸の内には、米と乾麺の秘密、そして冷たい計算が渦巻いていた。

このサバイバルゲームで、最初に脱落するのは誰か。答えは二つだ。

一つは、「弱い者」。体力、精神力、知恵のどれもが欠け、他の者に利用価値がないと判断された者。現時点では、怯えきったタケダがその最有力候補だ。

そしてもう一つは、「憎悪の対象」。その存在がグループの和を乱し、排除することで、他のメンバーに利益や安心感がもたらされる者。

その憎悪を一手に引き受けているのは、間違いなくゴトウだった。

彼の威圧的な態度、タケダへの冷酷な命令、そして、俺の指摘を暴力でねじ伏せようとした傲慢さ。これらはすべて、グループの協力体制を築く上で、最も邪魔な要素だった。マリの言葉が頭の中で響く。

「不要なコストは、早期に削減すべき」

ゴトウは、もはやコストではない。彼は、いつか必ずグループを裏切るリスクであり、何より、俺たち四人にとって感情的な障害だった。

マリが、俺の隣にそっと寄ってきた。彼女の視線は、ゴトウの広い背中を射抜いている。

「ケン」マリが囁いた。「あの男、いつまでもあんな態度でいられると思っているのかしら。彼は自分の暴力で、私たち全員を敵に回した。それに気づいていない」

サトウも、神経質そうに周囲を見ながら、低い声で続けた。

「彼の様な人間は、組織を管理する上では即効性があるが、危機管理においては致命的だ。彼が食料のありかを知れば、たちまち独占に走るだろう。私たちの秘密がバレる前に、彼の主導権を完全に崩す必要がある」

ヤマモトは、論理的な観点から意見を述べた。

「ゴトウさんは、現在のグループ内で最も非論理的で感情的です。私たちの生存計画にとって、最大の不安定要素と言えます。彼の排除は、戦術的に見て、優先順位が高いと考えられます」

誰もが、ゴトウを「切り捨てるべき駒」として見ていた。

だが、ゴトウを排除するとなると、彼が持つ「組織を束ねてきた」という暴力的な実力と経験、そして何より彼の体力が、俺たち四人にとって大きな脅威となる。正面からやり合えば、俺たちが勝てる保証はない。

俺は静かに指示を出した。

「正面衝突は避ける。マリ、サトウさん。この後の拠点での生活で、ゴトウが持つ火の道具の管理権を、徐々に奪う方法を考えてくれ。彼が火を失えば、タケダを支配下に置く手段もなくなる」

「わかったわ」マリが微笑んだ。「男なんて、手のひらで転がすのは慣れている。彼が一番信用している『力』を、別の形で失わせる」

ゴトウは、一歩一歩、その背中に俺たち四人からの憎悪と殺意を集めながら、拠点へと進んでいた。彼が気づいているのか、気づいていないのか。彼がこのゲームの「憎悪の対象」として、最も早い排除リストのトップに躍り出たことは、紛れもない事実だった。

俺は、再び心の中で、あの言葉を繰り返した。

「最後の一人に、救済を」

そして、俺たちの最初の策略が、静かに、そして冷酷に幕を開けた。
俺たちは、拠点とする廃ビルから数百メートル離れた場所に立っていた。ゴトウは今も「リーダー」を気取り、火の道具の管理や今後の探索ルートについて、大声で指示を出している。

「いいか、食料はツナ缶一つだ。これでは動けない。ケン、お前とタケダは、すぐに次の食料を探せ!」

ゴトウは、最も体力がある俺と、最も従順なタケダを、リスクの高い斥候に送り出そうとしていた。

俺は、この瞬間を待っていた。

「ゴトウさん、待ってください」俺は一歩前に出て、あえて低い姿勢で言った。「俺とタケダを出すのは非効率です。タケダはまだ動揺している。それに、私たち全員の安全を確保するには、まずこの街全体の構造を把握しなければならない」

ゴトウが苛立たしげに俺を睨む。「それがどうした。貴様、俺の指示に逆らうのか?」

「逆らっているのではありません。提案です」俺は続けた。「この街で一番高いのは、あの廃ビルでしょう。まずはあそこを拠点にしますが、その前に、隣の廃ビルに登って、街の全体像を把握すべきです」

俺は、数十メートル先にある、もう一つの高さのある廃墟を指差した。

「火の道具と食料がある以上、残りの四人は動くべきではありません。襲撃から守るためにも、この場に残るべきです。タケダはまだパニック寸前だ。ですが、俺とゴトウさんなら、二人だけで、短時間で登頂できます」

俺は、言葉を選んだ。

「ゴトウさん、あなたは組織を束ねる経験がある。この街の広さ、建物の配置、危険なエリアを上空から確認し、戦略を立てる。これは、あなたにしかできない、真のリーダーの仕事です。俺が、あなたの護衛をします」

俺の提案は、ゴトウの傲慢さと支配欲をくすぐるものだった。「戦略を立てる真のリーダー」という言葉が、ゴトウの自尊心を満たしたのがわかった。彼は、俺が自分にすり寄ってきた、忠実な若者だと解釈したはずだ。

ゴトウは、マリ、サトウ、ヤマモトを一瞥した。彼らは皆、無言で、ゴトウの判断を待っているように見えた。実際は、俺の提案に内心で舌打ちしつつも、これが罠の始まりであることを理解し、演技をしているのだ。

「フン。わかった」ゴトウは俺に顎を突き出した。「確かに、この街の全体像を把握するのは、俺の仕事だ。ガキ、お前が護衛しろ。他の奴らは、ここで火の道具とタケダを守っていろ。いいか、勝手な行動は許さんぞ!」

ゴトウは、誰もが「憎悪の対象」として彼を排除しようとしていることに、全く気付いていなかった。俺の提案は、彼にとっての自己肯定の機会でしかなかった。

俺たちは、すぐにその隣の廃ビルへと向かった。

ビルの中は、砂と埃がひどい。階段は崩壊しかけており、慎重に登らなければならない。ゴトウは体格はいいが、60代近く。息切れしているのがわかった。

五階まで登ったところで、俺は声をかけた。

「ゴトウさん、ここがちょうどいい。この高さなら、街の半分は見渡せます」

窓は割れており、廃墟の街並みが一望できた。無数の廃屋、生ゴミの山、そして遠くに、俺たちの拠点候補の廃ビルが見える。

ゴトウは息を整えながら、街を見下ろした。その時、俺はゴトウの死角に入り、マリから託されていたものを、素早く取り出した。

「どうだ、ゴトウさん。何か見えますか?」俺は、まだゴトウをリーダーとして扱うように声をかける。

ゴトウは、警戒心を解き、俺に背を向けたまま、腕を組んで言った。

「見ろ、ケン。この街の構造は……」

その瞬間、俺はゴトウの足元に、油を勢いよくぶちまけた。それは、タケダが見つけた着火剤だ。マリとヤマモトが、ゴトウの火の管理から、事前に抜き取っておいたものだ。

「てめぇ!」ゴトウが、足元に広がる着火剤の匂いに気づき、叫んだ。

彼は振り向いたが、もう遅い。俺は、最後の仕上げとして、小さなライターで、その油へと火を放った。

ボッ!

火は瞬時に燃え上がり、ゴトウの足元を包んだ。彼は驚愕し、バランスを崩してよろめく。床は埃と砂で滑りやすくなっている。

「ちくしょう! 貴様、何しやがる!」

ゴトウは火を避けるため、必死に後ずさった。そして、俺たちが予め崩しておいた、窓際の脆い手すりに、彼の背中が激しくぶつかった。

ガシャン!

手すりは粉砕され、ゴトウは、叫び声を上げる間もなく、そのまま五階の窓の割れ目から、下の瓦礫の山へと真っ逆さまに落下していった。

俺は、燃え盛る火と、ゴトウの落下音を背に、息を荒くした。この一連の動作は、すべて俺たち四人の綿密な計画通りだ。

マリは、ゴトウが最も信用している「力」を別の形で失わせると言った。その力とは、体力と威圧であり、それを失わせるために、俺は卑劣な裏切りを選んだ。

俺は、ゴトウの残した火の道具を拾い上げ、急いで階段を駆け下りた。

「最後の一人に、救済を」

俺は、もう二度と口に出さない、この言葉を胸に、拠点を目指して走り出した。グループから最も憎まれる者、ゴトウの排除は、完了した。
俺は五階の廃ビルから飛び出し、全速力で拠点候補の廃ビルへと戻った。手には、ゴトウが持っていた火の道具一式。

俺が、マリ、サトウ、ヤマモト、そしてタケダの待つ場所にたどり着いたとき、彼らは不安と緊張の入り混じった表情で俺を見ていた。

「ケン! ゴトウさんはどうしたの!?」マリが一番先に俺に駆け寄ってきた。その目は、心配ではなく、確認を求めていた。

俺は呼吸を整え、冷静に答えた。

「ゴトウさんは、街の構造に気を取られて、足元を滑らせた。五階の窓から……落下した」

その言葉を聞いた瞬間、タケダが崩れ落ちた。

「そ、そんな……! ゴトウさんが……」

タケダはただゴトウの威圧に屈していただけだが、彼にとってはゴトウが唯一の強大な庇護者だった。その庇護者が消えた今、彼の動揺は隠しようがない。

一方、マリ、サトウ、ヤマモトの三人の間には、一瞬の安堵と、それ以上の冷たい高揚が走った。彼らは、俺が仕掛けた裏切りが成功したことを理解したのだ。これで、憎悪の対象は消えた。

しかし、その安堵はすぐに、新たな殺意へと変わった。

ゴトウがいなくなったことで、俺たちの間にあった「殺し合いのタガ」は完全に外れた。ゴトウを排除するまで、それはあくまで「防御的」な策略だったが、今は違う。「最後の一人」になるための、純粋な攻撃に切り替わる。

そして、グループ内で最も利用価値が低く、ゴトウの派閥に属していたタケダが、次のターゲットになるのは、必然だった。

マリが、俺に耳打ちする。

「タケダはもう必要ないわ。彼はゴトウの命令で動いていた。今、彼は極度の動揺状態よ。彼が私たちの秘密を誰かに話す前に……」

マリは、言葉の代わりに、冷酷な視線をタケダに向けた。

サトウも、経営者らしく冷静に判断を下した。

「タケダくんは、心理的に脆すぎる。このままでは、食料の隠し場所に気づかれたり、私たちに不利な情報を漏らしたりするリスクが高すぎる。彼を排除することで、私たちはより安定した四人体制を確立できる」

ヤマモトは、眼鏡の奥で冷たい光を宿していた。

「論理的に、タケダさんの体力は魅力ですが、彼の精神的な不安定さは、我々の生存戦略全体のマイナス要素です。それに、五人体制よりも四人体制の方が、一人あたりの食料配分量が増えます」

俺たち三人は、言葉を交わさずとも、タケダの排除という結論で一致した。

タケダは、床に座り込み、うつろな目で周囲を見ていた。その目は、俺たちの間に流れる冷たい空気に、気づき始めていた。

「き、君たち……ゴトウさんは、本当に事故だったのか?」タケダが、震える声で尋ねた。

マリは、一瞬優しく微笑んだ。その顔が、最も恐ろしい。

「ええ、タケダさん。でも、こんな危険な街で、いつ誰が事故にあってもおかしくないわ。だからこそ、私たちで支え合わないと」

マリはそう言いながら、タケダの傍に座り込み、水を飲ませようとした。優しさという名の油断を誘っている。

俺は、マリに合図を送った。今だ。

その瞬間、俺とヤマモトが、同時に動いた。

ヤマモトは、タケダの背後から、手早く彼の首に腕を回し、窒息させる体勢に入った。

「うぐっ……!?」タケダは、何が起こったのか理解できず、もがいた。

タケダは運送業で体力があったはずだが、極度の動揺と、ヤマモトの研究職らしからぬ正確な絞め方に、抵抗する間もなかった。

サトウは、冷静に周囲を警戒している。マリは、依然としてタケダの顔の前で、心配そうに見つめる演技を続けていた。

「ごめんなさいね、タケダさん。でも、私たちも生き残らないといけないのよ。あなたは、ちょっと脆すぎるわ」マリは、心から楽しんでいるかのように、優雅な言葉でタケダに引導を渡した。

数秒後、タケダの身体は痙攣を止め、意識を失った。ヤマモトは、静かにタケダの身体を地面に横たえた。

俺たちは、たった数分で、二人を排除した。

マリが、タケダのポケットから、何かないかを確認する。

「よし。誰も見てないわ。これで、五人から三人になった」マリは、その言葉を、勝利の合図のように響かせた。

俺は、冷たい現実を突きつけた。

「違う。俺たちは今、四人だ」

マリ、サトウ、ヤマモトの三人が、一斉に俺を見た。その目は、すでに次の疑念に満ちている。

「何を言っているの、ケン。ゴトウとタケダを排除したんだから、残りは私たち四人でしょう?」マリが、警戒心を取り戻して尋ねた。

俺は、タケダの動かない身体を指差した。

「この街のルールを忘れるな。『最後の一人に、救済を』だ。ゴトウを殺した瞬間から、俺たち全員、共犯者になった。タケダを排除した今、俺たち四人の間には、明確な優位性も、明確な協力体制もない」

俺は、一歩後ずさった。

「つまり、俺たちが今からするのは、四人での協力体制の維持じゃない。三対一、あるいは二対二、あるいは全員が敵となる、新たな殺し合いの準備だ」

俺の言葉は、マリ、サトウ、ヤマモトの間の、一時的な信頼を、木っ端微塵に打ち砕いた。俺は、食料の秘密を共有するこの三人を、全員が敵として認識し直すよう仕向けたのだ。

俺たちの目の前には、タケダの遺体が横たわっている。それは、俺たちの殺意の証であり、これから始まる本物の殺し合いの、最初の犠牲者だった。

残された四人の間で、極限の緊張感が走り抜けた。

タケダの遺体が、俺たちの足元に横たわっていた。わずか数分前まで、怯えながらも生きていた人間だ。俺たち四人の間には、もはや隠しようのない殺意の残滓が漂っている。

俺は、全員が警戒し合うこの空気を、一度断ち切る必要があった。このままでは、次の殺し合いが、この場で始まってしまう。そして、それは、俺の望む形ではない。

「……落ち着け」俺は、低い声で言った。

マリ、サトウ、ヤマモトは、全員が微動だにせず、俺に警戒の目を向けている。特にマリは、タケダへの裏切りの成功に貢献したはずなのに、その目は鋭く、俺の次の行動を読もうとしていた。

「俺たちがここで殺し合ったって、誰も得しない」俺は続けた。「食料はあそこだ。火の道具はここにある。この資源を失えば、残った一人も、結局は飢え死にする」

ヤマモトが、慎重に言葉を選ぶ。

「ケンさんの言うことは、論理的です。我々は、この廃墟の街の生存可能エリアを見つけるという共通の目標を、まだ達成していません」

「そうだ」サトウが頷く。彼は、すでにタケダの遺体から視線を外し、次の戦略へと頭を切り替えていた。「この街の端、壁際まで行く必要がある。砂漠しかないのか、それとも壁の近くには別の施設や水源があるのか。情報こそが、今の私たちに残された唯一の武器だ」

俺は、まさに彼らが望む提案を口にした。

「では、そうしよう。この廃ビルを一時的な拠点候補とする。火の道具と、さっきのツナ缶はここに残す。そして、俺たち四人で、街の端を目指して探索に出る。今の俺たちに、これ以上の殺し合いの準備をする時間はない。動くことで、逆に警戒を解く」

マリは、俺の顔をじっと見つめ、俺の意図を探ろうとしていた。彼女はすぐに、この提案が「殺意を隠すための口実」であり、「移動中に裏切りを仕掛けるための機会」でもあることを察しただろう。

「いいわ、賛成よ」マリは微笑んだ。その微笑みは、油断ではなく、むしろ覚悟を示していた。「ただし、行くのは四人全員よ。誰か一人でも残れば、その者が隠された食料を独占する可能性がある」

誰もが、この提案に賛成した。誰もが、他の誰かの裏切りを警戒し、誰もが、裏切りの機会を求めていたからだ。

俺たちは、再び荒涼とした街を歩き始めた。目指すは、見渡す限り続く砂漠の壁、その一番近くの廃屋群だ。

四人の間隔は、絶妙に不自然だ。誰もが、いつでも動ける距離を保ちながら、同時に、誰か一人が襲われたときに、助けに入れない距離を維持している。

俺は、一歩前に出る。すぐに、ヤマモトが、俺の斜め後ろに位置取った。彼は、俺の背後から襲いかかることを最も容易にするポジションを選んだのだ。

「ヤマモト」俺は声をかけた。「そんな近くにいると、砂塵で目がやられるぞ」

「いえ、大丈夫です、ケンさん。私は、皆さんの周囲の警戒をしています」ヤマモトは冷静に答えたが、その声には、微かな殺意が混じっていた。

俺は、警戒をマリとサトウに向ける。

マリは、サトウの隣にいる。マリは、サトウの弱さを利用して、彼を盾にするつもりだろう。そしてサトウも、マリの冷徹な計算力を、一時的な庇護として利用している。

三人(マリ、サトウ、ヤマモト)対 一人(俺)。

この構図は、タケダ排除の瞬間から、既に固まっていた。マリの知恵、サトウの経営的な判断、ヤマモトの論理的な実行力。彼らが組めば、俺を排除することは容易だと考えているはずだ。

歩き始めて、十数分。俺たちは、特に荒廃した住宅街の路地に入り込んだ。

その瞬間、攻防が始まった。

「ケン、後ろ!」マリが突然、大声で叫んだ。

マリの視線は俺の背後ではなく、俺の足元を指していた。

反射的に足元を見ると、路地の影から、巨大な野良犬が唸り声を上げて飛び出してきた。ゴトウを排除する際にも、彼らが発見したと言った、この街に大量にいる危険な動物だ。

俺はとっさに身を翻し、犬の牙を避けた。

「くそっ!」

その時、マリが叫んだのは野良犬の存在ではない。それは、合図だった。

俺が野良犬に気を取られた瞬間、ヤマモトが背後から、硬い瓦礫の塊を俺の頭めがけて投げつけてきた。

ガッ!という鈍い音。瓦礫は俺の頭をわずかに掠めたが、直撃は免れた。

「裏切り者!」俺は叫び、野良犬とヤマモト、二つの脅威に挟まれた。

マリは、サトウの腕を掴み、彼を俺と野良犬の間に押し出すように誘導した。

「サトウさん! 野良犬を食料にするチャンスよ! 撃退して!」

サトウは悲鳴を上げた。「やめろ! マリ!」

マリは、サトウを野良犬への囮にし、俺の動きを封じようとしたのだ。

三人対一の攻防は、野良犬という第三者を巻き込み、卑劣な形で始まった。俺は、まずどちらの敵を排除すべきか、瞬時に判断しなければならなかった。俺の脳裏には、「最後の一人に、救済を」という言葉と共に、俺自身の罪の根幹にある冷酷さが甦っていた。

マリの裏切りを合図に、攻防は一瞬で地獄と化した。

野良犬が唸り声を上げて俺に飛びかかってくる。同時に、ヤマモトが投げつけた瓦礫が、耳元を掠めていった。そして何より卑劣だったのは、マリがサトウを盾として、野良犬の前に押し出したことだ。

「サトウさん! 野良犬を食料にするチャンスよ! 撃退して!」マリの甲高い声が響く。彼女は、サトウの恐怖を利用して、俺の動きを封じようとしている。

「やめろ! マリ!」サトウの悲鳴が路地に響く。野良犬は、目の前に現れたサトウの怯えた姿に標的を変え、その足首に牙を剥いた。

状況は最悪だ。

野良犬を相手にすれば、ヤマモトとマリの連携攻撃を受ける。ヤマモトは頭脳派だが、瓦礫を正確に投げる実行力がある。マリは狡猾で、サトウを囮にした。

俺は瞬時に判断した。一番の脅威は、野良犬でも、サトウでもない。冷静に状況を操り、俺の命を狙っているヤマモトとマリの連携だ。

「サトウさん、伏せろ!」俺は全力で叫んだ。

サトウがパニックのあまり、反射的に地面にうずくまった。野良犬の牙は、サトウの頭上を通過する。

その一瞬の隙に、俺は野良犬に向かって走った。サトウを助けるためではない。野良犬を利用するためだ。

俺は野良犬の横をすり抜け、瓦礫で汚れた腕を、そのままヤマモトがいた方向へ振り抜いた。

「てめえ!」

俺の拳は、ヤマモトの顔面を捉えた。ヤマモトは眼鏡を吹き飛ばされ、呻きながら壁に激突した。彼は、俺がサトウと野良犬の相手をしている間に、冷静に次の攻撃を準備するつもりだったはずだ。予想外の反撃に、彼の論理的思考は一瞬で崩れた。

「ヤマモト!」マリが叫び、動揺した。

その隙を見逃さず、俺はヤマモトの近くに落ちていた鉄パイプの残骸を拾い上げた。

同時に、背後から野良犬が再び俺に飛びかかってくる。

「グアァ!」

「マリ!」サトウが、野良犬の攻撃を避けて、悲鳴を上げながら立ち上がった。野良犬は再びターゲットをサトウに向け、彼の腕に食らいつこうとする。

「クソ!」

俺は、ヤマモトを追い詰めるのを止め、野良犬に鉄パイプを叩きつけた。

ガン!

野良犬はけたたましい鳴き声を上げ、足を折られたようにキャンキャン吠えながら、路地の奥へと逃げ去った。

俺は鉄パイプを握りしめたまま、残りの二人に振り向いた。

ヤマモトは眼鏡を失い、顔面を抑えてうずくまっている。彼は今、知性という武器を失い、最も無力な状態だ。

マリは、サトウを盾にしようとして失敗し、完全に孤立していた。彼女の顔からは、先ほどの優雅な笑みが消え、恐怖が浮かんでいる。

そしてサトウ。彼は腕を擦りむいただけで済んだが、俺が自分を助け、マリが自分を囮にしたという事実に、完全にパニックに陥っていた。

「マ、マリさん……なんで……俺を……」サトウはマリを指差し、怒りと恐怖で声が震えている。

「サトウさん、落ち着いて!あれはケンが野良犬を誘導したのよ!私はあなたを……」マリは必死に言い訳をしようとする。

俺は鉄パイプの先端を、ヤマモトの首筋に向けた。

「嘘をつくな、マリ。あんたがサトウさんを盾にしたのは、俺たち全員が見ていた。そして、ヤマモト。あんたの論理的な計算は、俺の拳で狂ったようだな」

俺は、一気にこの場の主導権を取り返した。ゴトウを排除したことで生まれた殺し合いのタガは、今、俺の力によって、一時的に制御された。

この瞬間、三対一の構図は崩壊した。

俺は、鉄パイプを地面に突き刺した。そして、サトウに静かに言った。

「サトウさん。ゴトウを排除したのは、私たち四人の合意だ。だが、あんたを野良犬の餌にしようとしたのは、マリだ。この街で誰を信用するか、自分で決めろ」

サトウは、俺とマリを交互に見つめる。彼の表情は、すでにマリへの憎悪に満ちていた。

「最後の一人に、救済を」。

俺は、知っている。このサバイバルで最も危険なのは、マリのような計算高い裏切り者だ。そして、サトウは、今やマリを排除するための、最も感情的な武器になる。

俺は、次のターゲットを、静かにマリに定めた。

俺の言葉が、サトウの心に火をつけた。彼の目は、自分を囮にしたマリへの憎悪で、らんらんと輝いている。

マリは、サトウが自分を裏切り、俺に味方する決断を下したことを瞬時に察した。彼女の顔は、これまでの冷静な詐欺師の仮面を剥がされ、醜い恐怖に歪んでいた。

「くそっ……!」

マリは、羞恥心も外聞もかなぐり捨てた。彼女は、俺たち三人に背を向け、絶叫にも似た悲鳴を上げながら、路地の奥へと走り出した。

「待て、マリ!」サトウが叫ぶ。その声には、追いついて彼女を罰したいという感情が込められていた。

俺は、マリが逃げ出すのを、黙って見送った。鉄パイプを握る手に力を込める。

マリはいつでも殺せる。

彼女は、食料の隠し場所を知っているというアドバンテージを失い、武器もない。単独で逃げ出したマリは、この広大な廃墟の中で、ただの怯えた獲物に過ぎない。飢えか、野良犬か、あるいはまた別の何かに、いずれ処理されるだろう。

それよりも、俺の目の前に残っている二人の処理が優先だ。

俺は、走り去るマリではなく、うずくまるヤマモトと、憎悪に燃えるサトウに意識を集中した。

ヤマモトは、眼鏡を失い、頭を抑えたまま動けない。彼は論理的な判断を奪われ、今やグループ内で最も無力な「弱者」だ。

サトウは、マリへの怒りで興奮状態にあるが、体力も戦闘能力も低い。しかし、この怒りは、俺にとって利用価値のある爆薬だ。

俺の脳裏で、冷たい計算が働いた。

ヤマモト:負傷しており、いつでも処分できる。しかし、彼の知性はまだ利用できるかもしれない。

サトウ:感情的になっており、俺の指示に従う可能性が高い。彼にマリを追わせれば、俺は彼らの両方を消耗させられる。

「追うな、サトウさん」 俺は静かに命じた。

サトウは立ち止まり、俺を振り返った。

「な、なんでだ、ケン! あいつは俺を殺そうとしたんだぞ! このまま逃がして……」

「わかっています」俺は言った。「ですが、彼女はもう脅威じゃない。体力を無駄にするな。それよりも、今、一番危険なのは誰か、考えろ」

俺は、鉄パイプを握りしめ、うずくまるヤマモトを指差した。

「マリは逃げた。だが、ヤマモトはここにいる。彼は、俺たち全員の秘密、特に食料の隠し場所を知っている。そして、俺の顔と、俺がゴトウを殺した瞬間を、覚えている」

サトウの顔から、マリへの怒りが薄れ、代わりにヤマモトへの恐怖が浮かんだ。そうだ、マリは遠くへ行ったが、ヤマモトは、秘密を握ったまま、すぐそこにいる。

俺はヤマモトに近づいた。彼は、視線を合わせようとしない。

「ヤマモト。あんたの論理は、俺たちが先に動くことを推奨した。その結果がこれだ。あんたの知性は、もはや俺たちを助けるツールではない。危険因子だ」

ヤマモトは、震える声で懇願した。

「待ってくれ、ケンさん……! 僕は、協力する。食料の配分管理、街の探索ルート……僕は、まだ役に立てる! 殺さないでくれ!」

俺は、鉄パイプを振り上げ、ヤマモトの頭上に掲げた。

「サトウさん」俺は、鉄パイプ越しにサトウに視線を送り、冷酷な目で囁いた。「この街のルールを忘れるな。弱者と、憎悪の対象。そして、利用価値のない情報源は、即座に排除される。あんたは、どうする」

サトウの顔は、恐怖と、再びの生存本能でぐちゃぐちゃになっていた。彼は、今、俺に逆らえば、自分がヤマモトの隣に並ぶことを理解している。そして、ヤマモトを排除すれば、食料は俺と彼、そして逃げたマリの三人で分け合うことになる。

「……ヤマモトくん」サトウは、うめくように言った。「すまないが……君は、あまりに不安定だ。私たちは生き残らなければならないんだ」

サトウは、自らの手で、ヤマモトを排除する意思を示した。俺の策略は成功した。

俺は、鉄パイプを静かに下ろした。

「待て。サトウさん、手は汚すな」俺は言った。

俺は、ヤマモトの抵抗を許さぬよう、彼の腹部に強烈な蹴りを入れた。ヤマモトは呻き声を上げて倒れ伏す。

「マリを追うのは、その後だ。まずは、この街の端を見つける。情報だ、サトウさん。あんたの言った通りだ」

俺は、倒れたヤマモトの身体を見下ろした。いつでも殺せる。だが、彼の知識は、俺がマリと戦う上で、最後の切り札になるかもしれない。

俺は、ヤマモトを気絶させるだけに留め、サトウと共に、再び街の端を目指して歩き始めた。サトウは、俺の隣で、自分の手が血に染まらなかったことに安堵しつつ、マリへの怒りを燻らせている。

この時点で、俺は二人を手の内に入れた。残りはマリ。俺の「最後の一人」への道は、まだ続く。

俺は、意識を失ったヤマモトを路地の影に横たえ、サトウと共に再び歩き始めた。サトウはマリへの憎悪で頭が一杯だ。

「ケンさん、マリを追わないんですか!? あいつは必ず、食料の隠し場所に戻るぞ!」サトウが焦れたように言った。

「落ち着いてください、サトウさん」俺は冷静に答える。「マリはもう、食料の場所に戻るほどの勇気はない。彼女は逃げた。野良犬か、飢えが彼女を処理するのを待つだけでいい。それよりも、俺たちの目の前の敵を優先するべきだ」

俺はあえてそう言ったが、心の中では、マリの排除が急務だと理解していた。

マリは、俺たちが米と乾麺を見つけた隠し場所を正確に知っている。そして、俺がゴトウとタケダを排除したことで、彼女は俺の冷酷さを理解した。彼女が食料を独占し、新たな協力者を見つける前に、俺が彼女を仕留めなければならない。

俺は、サトウの顔を覗き込んだ。

「サトウさん。あんたの言いたいことはわかる。マリを放置するのは危険だ。では、先にマリを倒す。それでどうです? 食料の秘密を知る裏切り者は、全員排除する。ヤマモトは動けない。残るはマリだ」

サトウの顔が、期待と安堵で輝いた。「そ、そうか! ケンさんがそう言ってくれるなら、心強い! マリさえいなくなれば、我々二人の勝ちだ!」

二人の勝ち。

俺はサトウのこの言葉を心の中で嘲笑った。サトウはマリへの復讐心と、俺への依存心で、自分が俺の次の排除リストの二番目にいることに気づいていない。

「では、あの廃ビルの方へ戻りましょう。マリは、必ずあの辺りを徘徊しているはずだ」

俺は、警戒を怠らず、サトウと共に廃墟の中を移動した。俺は、サトウの動きを常に視界に入れ、彼がいつでも俺に攻撃を仕掛けられない距離を保つように注意を払っていた。

マリは、俺がゴトウにしたように、俺の死角から不意打ちを仕掛けてくるだろう。だが、俺は鉄パイプを握りしめ、常に背後を警戒している。

路地を曲がり、瓦礫が堆積した広い空間に出た。

「マリ! いるなら出てこい! 無駄な体力を使うな!」俺は敢えて大声で叫んだ。これは、マリを誘い出すための罠だ。

「ケンさん、後ろは……」

サトウの声が、異常に近かった。

俺は反射的に振り向いたが、もう遅い。

ゴトウ、タケダ、ヤマモトを排除し、俺が優位に立ったと慢心していた、その一瞬の隙。

「すまない、ケンさん」

サトウが、絶叫にも似た謝罪を口にした瞬間、俺の視界は、閃光に包まれた。

ゴトウを殴りつけるために使った、あの鉄パイプ。それが、俺の頭部に、凄まじい勢いで叩きつけられたのだ。

俺の全身から力が抜け、鉄パイプと頭蓋骨がぶつかった鈍い衝撃音だけが、世界を満たした。激しい頭痛と、意識が遠ざかる感覚。

俺は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

裏切り。

俺が警戒すべきは、逃げたマリでも、無力なヤマモトでもなく、最も頼りにしてきたサトウだった。

薄れゆく視界の中で、俺の顔のすぐ隣に、マリの顔が見えた。彼女は、先ほどの恐怖の表情ではなく、冷酷な笑みを浮かべていた。

「バカな男ね、ケン」マリの声が、遠くで聞こえる。「あなたは、私が弱い女を演じたことしか見ていなかった。そして、サトウさんが私を裏切ったと思った?」

マリは、倒れた俺の鉄パイプを拾い上げ、サトウに渡した。

「サトウさんと私は、あなたがゴトウを排除するずっと前から、協力関係にあったのよ。サトウさんの『元経営者』の肩書きは嘘。彼はただのサクラ。私に、論理的な言い訳と隠蔽の協力をする役割だった」

マリの真実の言葉が、俺の脳裏を貫いた。サトウは、最初からマリと組んでいた。マリが「か弱い女」を演じ、サトウが「管理能力」をアピールしたのも、すべては俺たちを欺くための役割分担だったのだ。

俺がゴトウへの追及を仕掛けた時、マリがすぐに乗ってきたのも、俺たち四人を「協力体制」という形で、彼女の掌で踊らせるためだった。

そして、俺を裏切ったように見せかけた、あの野良犬の攻防。

「あの時、私がサトウさんを盾にしたように見えた? 違うわ。あれは、サトウさんが私に近づく俺の警戒心を解くための、私たち二人の芝居よ。そして、あなたが私を助け、サトウさんへの信頼を失うよう仕向けたの」

マリは俺を見下ろし、勝利を確信した声で言った。

「あなたは、暴力と裏切りで支配しようとした。でも、私は信頼の構築と、心理的な操作で支配したのよ。最後の一人になるのは、私よ、ケン」

俺の意識は、暗闇に飲み込まれていった。ゴトウを排除し、タケダを殺し、ヤマモトを無力化した俺の冷酷な戦略は、最も危険な裏切り者、マリの用意した筋書きの中で踊らされた、滑稽な道化師の結末だった。

俺の意識は、暗闇に飲み込まれていく。頭部に叩きつけられた鉄パイプの衝撃が、全身の感覚を奪っていた。

薄れゆく視界の中で、マリの冷酷な笑みが、俺の顔のすぐ隣にあった。彼女は勝利を確信している。

「あなたは、暴力と裏切りで支配しようとした。でも、私は信頼の構築と、心理的な操作で支配したのよ。最後の一人になるのは、私よ、ケン」

その横に立つサトウが、鉄パイプを握りしめている。彼は元経営者としての仮面を剥がされ、その顔は、マリへの絶対的な服従と、何かに怯えるような安堵で入り混じっていた。

「サトウさん……あんたも……」俺は、かろうじて掠れた声を出した。

マリは、俺の最後の問いかけを、憐れむように受け止めた。彼女は、サトウの隣に立ち、親愛の情を示すように、彼の腕にそっと手を添えた。

「サトウさんの目的はね、ケン。彼が長年経営者として失ってきた、もっとも甘くて、もっとも愚かなものよ」

マリは、冷たい目でサトウを見つめながら、その真実を暴いた。

「サトウさんはね、私の愛が欲しかったの。彼は、この街で生き残ることで、私という若くて美しい女性の隣に立つ、ただ一人の男になりたかった。彼の過去の地位や金じゃ買えなかった、絶対的な愛情を、この極限状況下で手に入れようとしたのよ」

サトウの顔が、一気に赤く染まった。羞恥、そしてマリにすべてを暴かれた絶望。だが、彼の瞳は、それでもマリへの執着を捨てていない。

「マリさん……俺は、俺は君のためなら……!」サトウは、マリの手に頬を擦り寄せようとした。

マリは、さっと手を引き、冷笑した。

「バカね。彼の管理欲も、彼の愛情も、私にとってはただのツールよ。彼は、ゴトウやあなたのような危険な牡馬を排除し、私に絶対的な安全と食料の管理をもたらすための、忠実な老犬に過ぎないわ」

「そう、サトウさん。あなたの目的は達成されたわ。あなたは、私という『資源』の隣に立つことを許された。ただし、私の支配下でね」

サトウは、その残酷な言葉に打ちのめされながらも、マリに一言も反論できない。彼は、愛という名の鎖で、マリに完全に支配されていた。

俺の意識は、遠のいていく。

ゴトウは暴力に溺れ、タケダは恐怖に怯え、ヤマモトは知性に固執し、そしてサトウは愛という幻想に縋った。そして、俺は、傲慢と裏切りに酔いしれた。

この街で、最も危険なのは、他人の欲望を利用する人間だ。

マリは、俺たち全員の罪と弱さを、自分の生存のための完璧な筋書きに組み込んでいた。

「最後の一人に、救済を」。

その救済は、マリに与えられるだろう。彼女は、愛という最も美しい嘘で、この断罪の街を制圧したのだ。俺の視界は、ついに暗闇に閉ざされた。

ケンは、倒れたまま動かなくなった。彼の若くて傲慢な目が、光を失っていくのをマリは確認した。

マリは鉄パイプを瓦礫の上に置き、サトウを振り返った。勝利の陶酔感が全身を巡る。ゴトウ、タケダ、ケン。最も危険な男たちを、彼女はすべて愛という名のロープで縛り、排除させた。残るは無力なヤマモトと、この忠実な老犬、サトウだけだ。

「さあ、サトウさん。終わったわ」マリは優雅に微笑んだ。「これで、私たちの計画通りよ。食料を確保し、ヤマモトを利用すれば、この街は私たち二人のもの。あなたは、私に最高の安全性をもたらしてくれたわ」

サトウは、俺たちに背を向け、ケンを殴りつけた鉄パイプを静かに地面に置いた。彼は、汚れた手で、マリの顔にそっと触れようとした。

「ああ、マリさん。すべては君のためだ」サトウの声は、かすれ、そして異常に熱を帯びていた。「私は、君にふさわしい唯一の男になった。ゴトウもケンも、君の価値を理解できなかった。だが、私だけは、君の純粋さと美しさを、この汚れた世界から守り抜いた」

マリは、一瞬たじろいだ。彼の言葉は、彼女が仕組んだ「愛の幻想」を、遥かに超える倒錯的な熱量を帯びていた。

「ええ、サトウさん。ありがとう」マリは距離を取り、あくまで支配者として話した。「では、早くここを離れましょう。ケンやタケダの遺体は、すぐにカラスの餌になるわ。食料の隠し場所に戻って……」

その時、サトウがマリの腕を力任せに掴んだ。

「待て、マリ」

彼の握力は、元経営者とはかけ離れた、強い狂気に満ちていた。マリは、今まで欺いてきた相手と同じレベルだと油断していたが、このサトウは、ゴトウやケンとは全く異なる、本物の倒錯者だった。

「何を、サトウさん……」

サトウは、マリを逃がさないように掴んだまま、マリの頬に顔を近づけた。彼の目は、獲物を前にした飢えた獣のように、ぎらついていた。

「もう終わりだ、マリ。私の献身的な愛によって、すべてが終わったんだ」

「私たち二人が生き残る。それは、マリ、君のすべてが、私のものになるということだ」サトウの顔が歪む。

「君の肌も、髪も、その冷酷な頭脳すらも、私という唯一の庇護者がいなければ、一瞬でゴミになる。マリ、君のその美しい爪の先まで、すべてが私の所有物になる。君はもう、私に嘘をついたり、私を支配しようとしたりする必要はないんだよ」

マリの背中に、冷たい汗が流れた。彼女は、愛を演じた。だが、サトウは、その演技を真実として捉え、彼女の存在すべてを自分の理想の所有物として完成させようとしていたのだ。

彼女がゴトウやケンに抱いた警戒心よりも、遥かに恐ろしいものが、この老人の胸の中にあった。彼は、彼女の肉体的な愛だけでなく、彼女の自由意志そのものを、永遠に奪おうとしている。

「サトウさん、何を言ってるの。私たちは対等なパートナーよ。冷静になりなさい!」マリは、いつもの支配的な口調で彼を宥めようとした。

しかし、サトウは微動だにしない。

「対等? マリ、君はまだ、私に嘘をつこうとしているのか? 君は私の『理想の妻』だ。妻と夫は対等ではない。妻は夫の庇護を受け、夫に従う。私の手によって、君の純粋さは守られたんだ。これからは、私がお前を管理する。食料だけでなく、お前の呼吸、お前の行動、すべてをだ」

サトウの顔には、恍惚とした支配欲が浮かんでいた。彼にとって、このサバイバルは、彼女を完璧な所有物にするための、結婚の儀式だったのだ。

マリは、自分の武器が、完全にサトウによって奪い取られたことを悟った。彼女が彼に与えた「愛」は、彼にとって永久的な支配権の証書になってしまった。

「最後の一人に、救済を」。

その救済は、マリにとって、永遠の奴隷となることだった。彼女の冷酷な知性は、このサトウの倒錯した愛という、最も非論理的で予測不可能な脅威の前で、完全に凍り付いた。

マリの顔から、一瞬で血の気が引いた。彼女が仕組んだ「愛の幻想」が、彼女自身の命を脅かす狂気の鎖となったことを悟ったのだ。

「サトウさん、正気に戻って! 私たちには、まだ食料があるわ。ヤマモトも生かしておく必要がある。私を殺したら、あなたは孤独になり、すぐに飢え死にするのよ!」マリは必死に理性を訴えかけた。

しかし、サトウの倒錯した支配欲は、理性などでは止められなかった。

「違う、マリ。私は君を殺さない。私の理想は、君の自由な意志を永遠に停止させることだ」

サトウは、マリを掴んだ腕にさらに力を込めた。彼の顔は、愛と狂気の混ざった歪んだ表情をしていた。

「私に従わないマリは、欠陥品だ。だが、死んだ君は、永遠に私の所有物として、美しいままでいられる。君の魂は、この街で永遠に私に縛られるんだ!」

サトウは、狂気に満ちた眼差しで、瓦礫の上に落ちていた鉄パイプに手を伸ばした。

マリは、これが最後の瞬間だと悟った。彼女の計算は、すべてこの男の病的な執着によって崩壊した。

「ふざけないで!」

マリは、か弱さを装うことをやめた。彼女は本能的な抵抗を開始した。腕を掴むサトウの手を、爪を立てて全力で引っ掻いた。サトウの老いた皮膚が破れ、鮮血が滲む。

「ぐっ!」サトウが怯んだ一瞬、マリは鉄パイプを掴もうとする彼の手を避け、地面に転がっていた鋭利なガラス片を素早く掴み取った。

サトウは怒鳴った。「裏切り者め! 永遠に私のものになれ!」

サトウは鉄パイプを振り上げ、マリの頭部めがけて振り下ろそうとした。マリは身をよじってそれを避け、鉄パイプは瓦礫に激しい音を立てて叩きつけられた。

その隙に、マリは獣のような目でサトウに飛びついた。彼女は、彼の首元ではなく、彼の腹部の柔らかい皮膚に、手にしたガラス片を躊躇なく突き立てた。

ズブッ!

ガラス片が、サトウの腹部に深く食い込んだ。サトウは苦悶の表情を浮かべ、喉の奥から呻き声を上げた。

「マ、マリ……! お前……」

サトウの力は急激に失われ、マリを掴んでいた手も緩んだ。しかし、死の直前の本能的な力は、驚くほど強かった。

サトウは、ガラス片が刺さった腹部を気にせず、手にしていた鉄パイプを最後の力で、マリの胸元に突いた。

ゴツン!という、鈍い、しかし致命的な音。

マリは口から血を吐き出し、目を見開いた。彼女の冷酷な知性は、この結末を計算できなかった。彼女の視線は、倒れたケンの遺体と、ガラス片が刺さったサトウの腹部をさまよった。

サトウは、腹部の激痛に耐えながら、マリの身体を強く抱きしめた。

「これで……永遠に……私のものだ……」彼の声は、歓喜と苦痛で震えていた。

マリは、自分の胸元に食い込んだ鉄パイプの感触を感じながら、抵抗する力を失った。彼女の目から、光が消える。

マリとサトウは、互いに深く傷つけ合ったまま、瓦礫の上に抱き合うように倒れ込んだ。

彼らが最後に残したのは、血だまり、鉄パイプ、ガラス片、そして、二人分の遺体。

路地の影では、頭を打って気絶していたヤマモトが、その激しい争いの音と、絶叫を聞きながら、ゆっくりと意識を取り戻しつつあった。

彼は、眼鏡のないぼやけた視界で、二つの動かない人影を見つめた。

この廃墟の街に、生き残っているのは、ヤマモト、ただ一人となった。

「最後の一人に、救済を」。

ヤマモトは、死と裏切りが支配する地獄の中で、救済を手に入れた。

ヤマモトは、茫然自失のまま、目の前の光景を認識していた。

冷たくなったマリと、腹部から血を流して絶命したサトウ。自分の周りに横たわる三つの動かない人影。眼鏡がないため、すべてがぼやけているが、それが紛れもない勝利の証拠だと理解した。

彼は、荒い呼吸を繰り返す。この街で、生き残ったのは自分だけ。マリの冷酷な知性、サトウの倒錯した愛、ケンの傲慢な暴力。すべてが自滅した結果、彼は「救済」を手に入れたのだ。

「……救済」彼は掠れた声で呟いた。その声には、歓喜も、悲しみもなかった。ただ、空虚な勝利感だけが残った。

その瞬間、路地の廃墟全体が、信じられないほどの強い光に包まれた。

それは、太陽光ではない。上空から降り注ぐ、部屋全体を白く塗り潰すような、轟音と共に現れた人工的な光だ。頭上から圧力がかかり、地面全体が激しく揺れ動く。

山本は再び激しい吐き気と頭痛に襲われた。身体は光の中に溶けていくような感覚に囚われる。

「う、あ……!」

彼は光に抗えず、その白い閃光の中で、再び意識を失った。

次に目を覚ましたのは、冷たいコンクリートの上だった。

頭痛は消えていた。喉の渇きと、全身の冷たさ。天井にはシミがあり、カビと埃が混ざったような悪臭が鼻につく。

ここは、六畳ほどの汚い部屋。

ヤマモトは、身体を起こした。彼の目の前には、見覚えのある五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっている。

彼らは、全員が混乱と恐怖に顔を歪ませながら、次々と覚醒し始めている。

「な、何が起こったのよ……」一人の女が、怯えた声で呻いた。

「わからん……最後に何をしていたかも、思い出せん……」老けた男が、額を押さえながら呻く。

ヤマモトは、その光景を、奇妙な既視感と共に見ていた。彼はもう、戸惑うことはない。すべてを経験した、ただ一人の生存者として。

その時、一人の男が、ポケットから白い紙切れを取り出した。そして、混乱した目で、山本に話しかけた。

「あ、あんた何か知らないか? 目を覚ましたらここにいて……ポケットによくわからない紙切れが入ってるんだが」

男の手に握られた白い紙片。山本は、その紙がどんなに多くの血と裏切りを伴うかを知っていた。

ヤマモトは、虚ろな目で、床に転がる五人の顔を見つめた。彼らは皆、ゴトウであり、ケンであり、マリであり、サトウだ。そして、タケダであり、過去のヤマモト自身でもある。

「最後の一人に、救済を」

ヤマモトは、冷たい床に手をつき、掠れた声で呟いた。

「…………あと、何人いるというのだ」