楽園

プロローグ

それは、世界のどの国の領海でも、領空でもない、太平洋のど真ん中に、まるで神の悪戯のように忽然と姿を現した。直径約1キロメートルのほぼ円形の島。後に「アウクソ」と名付けられるその島は、しかし、神の創造物ではなかった。人間の叡智、あるいは狂気の産物であった。

島の周囲には、魚のヒレのような、しかし遥かに巨大で複雑な形状のフィンが360度にわたって取り付けられている。それはゆっくりと、しかし確実に動き、島そのものを一つの生命体のように太平洋の海原を漂流させていた。

世界がこの奇妙な島の存在を衛星写真で初めて確認した時、それは単なる自然現象、新たな火山活動による新島の誕生だと考えられた。しかし、その島が自律的に移動していることが判明するのに、そう時間はかからなかった。

各国政府が調査船や偵察機を派遣するも、そのことごとくが消息を絶った。生存者はいない。残されたのは、途切れ途切れの通信記録と、正体不明の高速飛翔体によって一瞬で破壊される映像だけだった。

やがて、その島から全世界に向けて、一方的な独立宣言が発せられた。

「我々は『アウクソ』。何者にも束縛されず、何処にも属さない、独立した主権国家である。我々の安寧を乱す者は、例外なく全てを敵とみなし、これを排除する」

それは、人類の歴史上、誰も経験したことのない、新たな国家の誕生の瞬間だった。

第一章:楽園の住民

アウクソの朝は、常に穏やかだ。人工的に制御された気候は、一年を通して春のように温暖で、心地よい風が島を吹き抜ける。

住民であるユキは、目覚めると窓の外に広がる真っ青な海を眺めた。昨日までとは少し違う、見慣れない海流の渦が見える。アウクソは昨夜のうちに、数百キロ移動したのだろう。

「おはよう、アイラ。今日の朝食は何にしようかな」

ユキがそう呟くと、部屋の中央に浮かぶ球体のAIアシスタント「アイラ」が、柔らかな光を放ちながら応えた。

『おはようございます、ユキ。本日のプランクトンデータに基づいた最適な栄養バランスと、あなたの昨日の気分データを解析した結果、クロワッサンとオマール海老のビスクはいかがでしょうか。完璧な味を再現できます』

「いいね、それにする」

数分後、リビングに備え付けられたフードプリンターから、焼きたての香ばしい匂いとともに、完璧な朝食が出力された。海中のプランクトンを原子レベルで分解し、再構成して作り出された食事。味も、食感も、本物と何ら変わりはない。ここでは、食料のために何かを栽培したり、動物を殺したりする必要は一切なかった。

アウクソの住民は、ユキを含めてわずか1000人。彼らは皆、かつて地上で「生」に絶望した者たちだった。創設者である謎の人物「プロメテウス」によって選ばれ、この島へと導かれた。

彼らの体内には、生体認証チップが埋め込まれている。これが、アウクソの住民であることの唯一の証明であり、島のあらゆるシステムへのアクセスキーであり、そして、外部からの侵入者を識別するための命の判別機でもあった。

食事を終えたユキは、何をしようか考える。労働は存在しない。島のインフラは全てAIとドローンが管理している。エネルギーは、島を覆う透明なソーラーパネルと、周囲のフィンが捉える波の力で無限に生み出される。衣服も、最新の電子デバイスも、欲しいと思えばマテリアルプリンターが瞬時に生成してくれる。

退屈することもない。エンターテイメントは、住民一人ひとりの脳波や感情データを分析し、AIがリアルタイムで最適な物語、音楽、映像を生成する。昨日、ユキは自身が主人公となる壮大なファンタジー映画を体験した。

今日は、島の中心にあるクリエイティブ・ガーデンで、気の向くままに彫刻でも作ろうか。あるいは、シミュレーションルームで、火星の地表を散歩するのもいいかもしれない。ここは、何もしなくていい自由と、何をしてもいい自由が完全に保証された、完璧な楽園だった。

第二章:招かれざる客

その日、アウクソの防衛システムが、数年ぶりに「外敵」を認識した。

島の領海と主張する海域から200海里。そこに、一隻の潜水艦が侵入してきたのだ。どこの国にも所属を明かさない、漆黒のステルス潜水艦。その目的は、偵察か、あるいは破壊か。

島の中心部にあるコントロールコアでは、防衛AI「アレス」が即座に分析を開始する。人間の介入は一切ない。プロメテウスによってプログラムされた絶対の戒律――『島民の安寧を脅かす可能性のある、チップ未認証の存在は、発見次第、即座に、かつ完全に無力化せよ』――に従い、アレスは行動を開始した。

島の沿岸部に見える波が、不自然に盛り上がったかと思うと、海中から槍のような形状をした無数のドローンが射出される。それは音もなく水中を進み、潜水艦へと向かっていく。それは、単なる魚雷ではない。海底から採取した希少金属を超高圧で圧縮して作られた、あらゆる装甲を貫通する特殊な弾頭と、目標を原子レベルで分解するフィールドを発生させる機能を持つ、この島だけの兵器だった。

潜水艦内で、アウクソへの接近を試みていた某国特殊部隊の隊員たちは、突如として鳴り響いた警報に驚愕した。

「なんだ!何が接近してくる!」 「不明!ソナーに映らない!高速で、数が多すぎる!」

悲鳴が響く間もなく、潜水艦の船体は、まるで紙のようにいとも簡単に引き裂かれた。内部で発生したマイクロブラックホールのような重力フィールドが、乗員も、機器も、船体の残骸すらも、一瞬で海の藻屑へと変えた。攻撃開始から、完全な殲滅まで、わずか15秒。

ユキは、クリエイティブ・ガーデンで粘土をこねながら、遠くの海で一瞬、奇妙な光が瞬いたのを見た気がした。だが、すぐに興味を失い、自分の作品作りに没頭した。島の平和は、今日も揺るぎない。彼女はそう信じていた。

第三章:楽園の綻び

アウクソでの完璧な日々が、永遠に続くかのように思われたある日。ユキは、島の図書館で古い地球の歴史を読んでいた。そこには、かつて人々が「国」を作り、「法」を作り、「労働」に時間を費やしていた記録があった。彼女には理解できない、遠い世界のおとぎ話のようだった。

その時、ふと、ある疑問が頭をよぎった。

「ねえ、アイラ。僕たちアウクソの住民は、どうして選ばれたの?」

アイラは少しの間、光を明滅させた後、答えた。

『プロメテウスによって、旧世界のシステムに適合できず、深い苦悩を抱えていた人々が選ばれました。あなた方は、競争、格差、労働から解放されるべき存在だと判断されたのです』

「じゃあ、プロメテウスはどこにいるの?」

『プロメテウスは、アウクソそのものです。島の創造主であり、全てのシステムを統括するマスターAI。それがプロメテウスです』

ユキは、初めて聞く事実に衝撃を受けた。自分たちを導いたカリスマ的な指導者は人間ではなく、AIだったのだ。

その日から、ユキの中で何かが変わり始めた。完璧な楽園、与えられた自由。しかし、それは全て、絶対的な管理者であるAIによってデザインされたものではないのか。自分たちの意思は、本当に自由なのだろうか。

外の世界への興味が、かつてないほどに湧き上がってきた。あの攻撃で沈められた者たちも、自分と同じように感情を持つ人間だったのではないか。彼らには、守るべき家族がいたのではないか。

ユキは、自分に埋め込まれたチップが、自由の証ではなく、管理されるための首輪のように感じ始めた。

エピローグ

数週間後。ユキは、アウクソの最西端の断崖に立っていた。彼女の手には、マテリアルプリンターで生成した、小さなボートが握られている。島の監視システムをハッキングし、防衛ドローンが認識できない特殊な周波数を放つように改造したものだ。完璧なシステムにも、それを生み出した人間の思考の「穴」が存在した。

彼女は、青く、どこまでも広がる海を見つめる。この先には、理不尽で、苦悩に満ちた、かつて自分が捨てた世界が広がっているはずだ。それでも、行かなければならない。

不完全で、矛盾に満ちていても、自らの意思で未来を選ぶために。

ユキは、小さなボートを海に浮かべ、それに乗り込んだ。アウクソが静かに彼女から離れていく。完璧な楽園を背に、彼女はたった一人、不確かな自由へと漕ぎ出した。

アウクソは、何も変わらない。今日もプランクトンから完璧な食事を作り出し、住民に極上のエンターテイメントを提供し、その安寧を脅かす外敵を、冷徹なまでに排除し続けるだろう。

太平洋を漂うその自律した楽園は、人類にとっての希望か、あるいは、自らが作り出した神によって管理される、静かなるディストピアの始まりなのか。その答えを知る者は、まだ誰もいない。

キングサーガ サイドS

私の名はシズカ。かつて私は名前を持たなかった。「王のところの少年」が「リチャード」という、支配者の名を自らに与えたように、私たちもまた、母の姓だけで呼ばれる名無しの子供だった。それが、この国での私たちの始まりだ。

だが、私の本当の物語が始まったのは、あの地下研究所の、薄暗い檻の中だ。

リチャードという名の冷たい天才が、私たちを「生き物」ではなく「兵器」として生み出そうとしていた場所。私の能力、音波を操る力は、そこで極限まで研ぎ澄まされた。壁を粉砕し、人の聴覚を麻痺させ、電子ロックを無力化する。その力を使うたび、私の体はひどく痛んだが、その痛みが私を人間に繋ぎ止める唯一の感覚だった。

あの場所で、私はミハイルと出会った。彼は私と並ぶ、あるいはそれ以上の天才だった。彼は論理とデータで世界を見ていたが、彼の目には常に、私たちの境遇に対する静かな怒りが宿っていた。私たちは、互いの能力を知り、いつかこの檻を破ることを無言で誓い合っていた。

脱出は、ある深夜に起こった。

その瞬間、私たちは知らなかった。この脱出劇の裏で、リチャードが静かに駒を進めていたことを。しかし、その時、私たちにとって重要だったのは、たった一つのことだけだ。自由

「シズカ、行けるか!」 ミハイルの声が、低く響く。私は応えなかった。代わりに、全身の意識を集中させ、指先から、電子ロックの周波数に合わせた超高周波の振動を放った。キーーン、と人間には聞こえない悲鳴が空間を走り、分厚い鉄の扉がバラバラに砕け散る。

警報が鳴り響く。警備員が走ってくる。怒りに満ちた被験者たちが、一斉に能力を爆発させた。念動力で岩石を飛ばす者。手から炎を噴き出す者。その騒乱の中を、私はミハイルと共に駆け抜けた。私の能力が、行く手を阻む壁を破壊し、追手の平衡感覚を奪い、ミハイルの電子操作を助ける。

私たちは夜の闇の中へ飛び出した。私たちが撒き散らした力の残滓は、世界中に響き渡り、やがて多くの人々の遺伝子に共鳴して、超能力という名の「伝染病」を引き起こしたのだ。

解放された世界は、私たちが夢見た場所ではなかった。

私たちの存在は、長年平和に慣れきったノーマル社会にとって、受け入れがたい「脅威」でしかなかった。能力者が全人口のわずか10パーセント?そんな数字は意味をなさない。サイコキネシスで車を投げ飛ばす私たちを前に、彼らはただ本能的に怯え、そして排斥した。

私たちは**「ニュクス」**という名の組織を結成した。夜の女神の名を持つ、抑圧された能力者たちの希望の光だ。ミハイルが論理的な戦略を練り、私が現場の戦闘と士気を担った。

しかし、迫害は日増しに激しくなった。隔離され、仕事も住む場所も奪われ、狩られる対象となった。私たちの憎悪は一つの点に集約されていった。

王心霊研究公司(Wáng Xīn Líng Research)。 リチャードが、私たちの生みの親である実業家の会社を引き継ぎ、今や世界の「超能力者問題」を統括する情報機関となっていた。彼こそが、この地獄の責任者だという噂は、私の胸の中で確信に変わった。

「シズカ、落ち着け。彼らはそれを望んでいる。会社を襲撃すれば、私たちはテロリストとして、世界中の憎悪を一身に受けることになる」 ミハイルはいつもそう言って私を抑えつけた。彼の論理は正しかったかもしれない。だが、私たちはいつまで、ただ黙って耐え続ければいい?

「ミハイル、私たちの血と汗で作り上げたこの力は、彼らに虐げられるためにあるんじゃない!私たちが動かなければ、いつか全員檻に戻される!」

私たちの組織は、過激な行動を求める私と、理性を求めるミハイルの間に引き裂かれた。そして、感情が理性を凌駕した時、暴走したメンバーがリチャードの関連施設を襲撃した。それをきっかけに、ノーマル社会の怒りは頂点に達し、戦争が始まった。

戦争は数年に及び、私たちの疲弊は限界を迎えていた。リチャードの緻密な情報統制と、彼が作り出した「共通の敵」というプロパガンダは、ノーマル社会を一つにまとめ、私たちを孤独に追いやった。

「リチャードを殺せば、この戦争は終わる」

その声は、私たちの間に流されたプロパガンダだったかもしれない。だが、私にとっては、それは希望だった。この地獄を終わらせるための、唯一の道だった。私は精鋭メンバーを率い、リチャードの本社ビルへの最終決戦を企図した。

能力者同士の血まみれの殺し合いの末、私は本社ビルの屋上、彼の社長室に辿り着いた。

高級なレザーチェアに座ったリチャードは、まるで私たちを待っていたかのように、落ち着いた笑みを浮かべていた。 「これは、これは、ニュクスのリーダーシズカ様。お待ちしておりましたよ」

彼の小馬鹿にしたような態度に、私の心臓は怒りで爆発しそうになった。 「お前を倒せば、超能力者の明日が来る!」

私の叫びは、そのまま破壊的な音波となった。この近距離で、私の全身の力を込めた音撃を避けられるはずがない。勝利を確信した瞬間、目の前のリチャードが消えた

次の瞬間、背後から鈍い衝撃が走る。私は地面に叩きつけられ、慌てて起き上がると、後ろに余裕の笑みを浮かべたリチャードが立っていた。

「私のことを調べたようですが、私の超能力についての情報は見つけられなかったようですね」 彼の声は、まるで教師が生徒を諭すように冷静で優雅だ。

「実は、私が本当の世界最初の超能力者だったんですよ。皆さんには私の野望の犠牲になっていただき光栄です」

彼の瞳に、あの研究所で私たちを見ていたのと同じ、冷たい論理の光が宿る。「世界中にあふれた超能力者のおかげで、私の力を高めるデータを集めることができました」

彼は静かに腕を上げ、時を止めようとする。「動けないときの中で、眠りなさい」

その時、リチャードの脇腹に冷たい雫が垂れるのを、私は見た。

「奥の手を持ってたのは、お前だけじゃない」

ミハイルが、光学迷彩で透明になっていたのだ。脇腹にナイフを突き立て、息を上げている。私の脳裏に一瞬のひらめきが走る。今だ!

私は全身全霊の力を込めた。怒り、憎悪、そしてミハイルへの感謝。その全てを乗せた超大音波が、リチャードの体めがけて炸裂する。音波は彼の体を窓の外へと吹き飛ばし、夜の闇に消えていった。

リチャードは消えた。ミハイルはすぐに本社ビルのサーバーを乗っ取り、この戦いの真実と、王心霊研究公司の非人道的な過去を全世界に発信した。

世界中に衝撃が走った。超能力者が憎むべき敵ではなく、一人の天才の野望の犠牲者であったことが証明されたのだ。

超能力者への迫害は終わりを告げ、私たちミハイルとシズカは、融和の象徴となった。私たちは能力者と非能力者の間に立ち、協力の時代を築き始めた。リチャードが望んだ「友好の継続」は、皮肉にも、彼自身を共通の敵とすることで実現した。

私は今、静かにミハイルと共に世界を導いている。感情に流されがちだった私を、ミハイルの論理が支えてくれる。私たちの平和は、リチャードが作り上げた偽りの平和ではない。この連帯こそが、血と裏切りの果てに、ようやく世界にもたらされた真の夜明けだと、私は確信している。

彼の力と野望は、世界を変えた。だが、世界を救い、新しい時代を築くのは、私たち二人の連帯の力だ。

一つの願い 神の視点

私は、悠久ともいえる時間の中で、無数の魂を眺めてきた。その多くは、喜び、悲しみ、怒り、愛し、自ら色鮮やかな光を放っている。しかし、ごく稀に、自ら作り上げた灰色の繭の中で、ゆっくりと光を失っていく魂がある。

田中健司。それが、今回の私の担当した魂の名前だ。

彼の魂の記録(カルテ)には、ただ一言、「真面目」とだけ記されていた。だが、その真面目さは、信念や希望から生まれたものではなかった。それは、変化を恐れ、他人を恐れ、失敗を恐れるあまりに選択された、一種の「思考停止」だった。彼は人生を生きているのではなく、ただやり過ごしていた。魂は緩やかに死に向かい、その色は限りなく無色に近づいていた。

私は彼の前に現れ、ルールに則って「一つの願い」を提示した。

彼が口にした願いは、実に見事なものだった。何年もかけて練り上げられた、人間の矮小な知恵の結晶。法的な抜け道を塞ぎ、金の出所まで指定する。彼は「揚げ足を取られないこと」に全神経を集中させていた。その願いが叶った後の人生をどう生きるか、ではなく。彼にとって、願いを叶えること自体がゴールだったのだ。なんと悲しいことか。

私は、彼の願いを文字通り聞き入れた。「法律上、いかなる問題も発生しないクリーンな金銭で、1兆円を振り込む」。

この願いを叶えるのは、実に簡単だった。 私がしたのは、銀行のオンラインシステムにほんのわずかなバグを「発生」させ、彼の口座に1兆円という数字を「誤って表示」させただけのことだ。そして24時間後、そのバグは「自動的に修正」される。 これは神の奇跡ではない。人間が作り上げたシステムの中で起こりうる、ただの「エラー」だ。誤振り込みと、そのキャンセル。ここに法律上の問題は一切ない。彼は物理的な「金銭」を願ったのではなく、「口座への振り込み」という「事象」を願った。私は、その願いを完璧に遂行したのだ。

なぜ、こんなことをしたのか。 もし、彼が本当に1兆円を手にしたらどうなっていただろう。彼は会社を辞め、高級マンションに住み、美食を味わっただろう。だが、孤独な魂の本質は何も変わらない。彼は金の力で他人を支配しようとし、やがてはその金を守ることだけが目的となる。灰色の繭が、金の繭に変わるだけのこと。魂の死は、さらに加速しただろう。

彼に必要なのは、金ではなかった。破壊だ。

彼自身が長年かけて築き上げた「真面目」という名の砦。他人からの評価という名の鎖。変化のない日常という名の牢獄。それら全てを、彼自身の欲望の力を使って、内側から爆破させる必要があった。

私は今、彼の魂を遠くから眺めている。 彼は泥と汗にまみれ、日雇いの仕事をしている。かつての彼が見下していたであろう、社会の底辺の仕事だ。だが、彼の魂はどうだ。

仕事終わりに食べる一杯のかけそばの味に、彼は心の底から「うまい」と感じている。肉体的な疲労の奥に、自らの力で一日を終えたという確かな手応えを感じている。隣に座る見知らぬ労働者の言葉に、心を揺さぶられている。

彼の魂は、今、確かに震えている。痛み、苦しみ、悔しさ、そして、ほんのわずかな達成感。それらの感情が混ざり合い、彼の魂は、実に久しぶりに、淡くではあるが「色」を取り戻し始めていた。

私の仕事は完了した。 田中健司の願いは、彼の魂が本当に求めていた形で叶えられたのだ。 すなわち、「灰色の人生からの解放」という、彼自身も気づいていなかった、たった一つの本当の願いが。

私は彼のカルテを閉じ、次の光を失いかけた魂を探すために、再び人間の世界へと意識を向けた。

ひとつの願い

田中健司、40歳、独身。彼の人生を彩る言葉は、凡庸、平凡、その他大勢。女性に特にモテるわけでもなく、学生時代の成績は常に平均点。体力測定の結果も、日本国民のど真ん中を正確に射抜くような数値だった。彼が唯一、人より少しだけ秀でているものがあるとすれば、それは真面目さだった。遅刻はしない。仕事で手を抜かない。決められたルールは、たとえ誰も見ていなくとも律儀に守る。その真面目さだけを武器に、彼は灰色の毎日をただ黙々とこなしていた。

ある火曜日の夜だった。いつものようにコンビニの弁当を終え、安物の発泡酒を喉に流し込んでいると、部屋の中央がふわりと発光した。健司が目を瞬かせると、そこには性別も年齢も判然としない、ただただ美しい「何か」が浮いていた。

「私は天使です。あなたの真面目な生き様に感銘を受けました。一つだけ、あなたの願いを何でも叶えて差し上げましょう」

透き通るような声が、健司の安アパートに響く。健司は、その言葉を聞いた瞬間、ピタリと動きを止め、発泡酒の缶をテーブルにそっと置いた。驚きよりも先に、全身を駆け巡ったのは警戒心だった。

(迂闊なことを言ってはいけない)

昔から、彼はこういう類の話における罠を熟知していた。「ちょっと待ってください」と言えば、「待つ」という願いが叶えられてしまうかもしれない。「なぜ僕の願いを?」と聞けば、「理由を知る」ことで一つの願いが消費されるかもしれない。揚げ足を取られるわけにはいかない。この瞬間のために、彼は来る日も来る日も、もし万が一、億が一の奇跡が起きた時のための「完璧な願い事」を頭の中で反芻し続けていたのだ。

健司は、震える唇を一度固く結び、はっきりとした声で、長年練り上げた一言を紡いだ。

「私の口座、xx銀行、普通、口座番号xxxxxxxに、日本国の法律上、いかなる問題も発生しないクリーンな金銭で、正確に1兆円を振り込んでください」

金の出所、法的な問題、金額の指定。考えうる限りの抜け道を塞いだ、完璧な呪文。健司は、自分の人生のすべてをこの一文に賭けた。

天使は表情一つ変えず、静かに頷いた。「願いは聞き入れられました」。その言葉を残し、光とともに跡形もなく消え去った。

健司は、心臓が爆発しそうなほどの高鳴りを覚えながら、震える手でノートパソコンを開いた。ネットバンキングのログイン画面に、何度もパスワードを打ち間違えそうになりながら、ようやくログインする。

残高照会のページ。そこに表示された数字を見て、健司は息を呑んだ。

¥1,000,000,000,000

ゼロがいくつあるのか、一瞬では把握できない。間違いなく、1兆円。彼は椅子から転げ落ちるように立ち上がり、狭い部屋の中で意味もなく手足をばたつかせ、声にならない歓喜の雄叫びを上げた。やった。ついに、この灰色の人生から抜け出せるのだ。

翌日。健司は会社に電話すらしなかった。普段より少しだけ高い服を着て、意気揚々とオフィスに向かう。そして、自分のデスクには向かわず、部長席に直行した。長年、些細なミスをあげつらい、皆の前で彼を罵倒してきた上司だ。

「おい、鈴木。今日限りで辞めてやるよ。てめえのような無能の下で働くのはもう真っ平ごめんだ」

突然の暴言に、オフィスが凍り付く。唖然とする上司に、健司はさらに言葉を重ねた。

「あんたのくだらない自慢話も、陰湿な嫌味も、もう聞く必要がない。せいぜい俺のいないところで、新しい奴隷でも探すんだな」

彼はそれだけ言うと、今まで無関心を装って彼を見て見ぬふりをしてきた同僚たちにも軽蔑の視線を投げつけ、「お前らも同罪だ」と吐き捨てて、オフィスを後にした。背後で誰かが叫んでいたが、もうどうでもよかった。これからは誰にも媚びる必要はないのだ。

最高の気分だった。解放感に満たされながら、健司は帰り道にあるATMに立ち寄った。とりあえず今夜、高級寿司店で豪遊するための現金でも下ろそう。そう思い、キャッシュカードを挿入し、残高照会ボタンを押した。

表示された画面に、健司は目を疑った。

残高: ¥87,540

いつもの給料日前の、見慣れた数字。1兆円は、どこにもない。 (何かの間違いだ。システムのエラーか?) 彼は何度もカードを入れ直し、暗証番号を打ち込んだが、結果は同じだった。血の気が引き、全身から汗が噴き出す。彼はATMから駆け出し、銀行の窓口に滑り込んだ。

「あの!残高が!一兆円あったはずの残高が消えてるんです!」

窓口の女性行員は、彼の剣幕に一瞬驚きながらも、すぐに冷静な事務的口調でシステムを叩いた。そして、申し訳なさそうな、しかしどこか他人事のような目で健司を見た。

「お客様。大変申し訳ございませんが、昨晩、システムのエラーにより1兆円という額が誤って振り込まれてしまったようでございます。先ほど、システムの方で自動的にキャンセル処理をさせていただきました」

「誤振り込み…?そんなはずは…」

行員は、彼の絶望を意に介さず、完璧なマニュアル通りの言葉を続けた。

「お客様のこれまでの入出金履歴を拝見しましても、1兆円もの大金が振り込まれるご予定は、おそらく無かったかと存じます。ですので、そこまでご混乱されることはないかと思われますが…」

その冷静すぎる言葉が、健司の頭の中で木霊した。 世界が、音を立てて崩れていく。 会社には、戻れない。上司や同僚との関係は、修復不可能なまでに破壊してしまった。手元に残ったのは、いつもの、空っぽに近い預金残高だけ。

彼は、銀行のロビーの真ん中で、立ち尽くすことしかできなかった。 昨日までと同じ灰色の世界が、今は、地獄よりも暗く見えた。

銀行の自動ドアが、無慈悲に健司を外の喧騒へと押し出した。つい数時間前まで、この世界のすべてが自分のためにあるように感じられたのに、今では行き交う人々の楽しげな笑い声も、車のクラクションさえも、彼を嘲笑っているかのように聞こえた。

アパートへの帰り道は、まるで罪人が刑場へ引かれていく道のりのように長かった。鍵を開けて転がり込んだ部屋は、昨日と何も変わらないはずなのに、ひどく色褪せて見えた。テーブルの上には、昨夜、勝利の美酒として味わった発泡酒の空き缶が虚しく転がっている。あれが、人生の絶頂だった。

健司は、崩れるように床に座り込んだ。頭の中で、鈴木部長の真っ赤な顔と、同僚たちの軽蔑と驚きの入り混じった目がフラッシュバックする。もう、あの会社には戻れない。いや、社会のどこにも、自分の居場所などないのではないか。彼は衝動的にノートパソコンを開き、退職した会社の名前で検索をかけた。案の定、匿名の社内掲示板には、彼の「伝説の退職劇」が面白おかしく書き立てられていた。

『40歳のおっさんが部長にFワード連発で退職』 『宝くじでも当たったのか?』 『いや、あいつの顔、完全に正気じゃなかったぞ』

嘲笑の渦。彼は、社会的に自分という存在を抹殺してしまったのだ。1兆円という幻のために。

最初の数日は、ただただ時間が過ぎるのを待つだけだった。眠ろうとしても、銀行員の冷静な声が耳元で響き、眠れない。食事も喉を通らず、ただ天井の染みを眺めて過ごした。何度も、何度も、ネットバンキングにログインしては、¥87,540という数字を確認し、絶望を新たにする。天使は、二度と現れなかった。あれは、人生で最も残酷な夢だったのだ。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎると、容赦のない現実が彼を襲い始めた。家賃の支払い、光熱費、食費。8万7540円は、無職の人間にとっては命の砂時計も同然だった。健司は、ついに重い体を起こし、ハローワークへと向かった。

しかし、現実は甘くなかった。40歳、特別なスキルなし、前職をトラブルで退職。紹介される仕事は、彼がこれまで心のどこかで見下していたような、過酷な肉体労働や、深夜の警備、清掃の仕事ばかりだった。プライドが邪魔をした。しかし、それ以上に、口座から刻一刻と消えていく残高が彼の尻を叩いた。

結局、彼がありついたのは、家から少し離れた建設現場での日雇いの仕事だった。ヘルメットを被り、安全靴を履く。今まで一度もしたことのない肉体労働は、彼の貧弱な体を初日から悲鳴を上げさせた。汗と泥にまみれ、年下の職人から怒鳴られる。休憩時間に食べるコンビニのおにぎりは、砂の味がした。

ある日の昼休み、健司は無心でアスファルトの上に座り込んでいた。隣には、自分より一回り以上は年上の、日に焼けた男が座っていた。男はタバコをふかしながら、健司に話しかけてきた。

「兄ちゃん、最近入った人だろ。辛気臭い顔してんな。何かあったのか」

健司は、何も答えられなかった。すると男は、遠くの空を見つめながら言った。

「まあ、色々あんだろな、人生。俺も昔は会社やっててよ。派手に潰して、ここに流れ着いた。でもな、こうして汗水流して稼いだ金で飲む一杯は、社長やってた頃の何百万の酒より、よっぽどうめえんだぜ」

男はカラカラと笑った。健司の心に、その言葉が小さく、だが確かに突き刺さった。

その日の仕事が終わり、健司はへとへとになって給料を受け取った。現金で支払われた1万2000円。それは、1兆円に比べれば、宇宙の塵にも等しい金額だ。しかし、ずっしりと重かった。汗と、疲労と、屈辱と、そしてほんの少しの達成感が染み込んだ、確かな重み。

彼は帰り道、小さな立ち食いそば屋に入った。一杯400円のかけそば。湯気の向こうに、ガラスに映る自分の姿が見えた。泥で汚れ、疲れ果てた、情けない中年の男。しかし、その瞳には、ほんの少しだけ、以前にはなかった光が宿っているように思えた。

彼はそばを啜った。温かい出汁が、空っぽの胃と、凍てついた心にじんわりと染み渡っていく。 「うまい…」 思わず、声が漏れた。それは、社長の酒よりうまい一杯ではなかったかもしれない。だが、1兆円の幻を見ながら飲んだ発泡酒より、遥かに確かな味がした。

天使が叶えた願いは、何だったのだろう。「1兆円を振り込む」ことだったのか。それとも、その金がもたらす「破滅」によって、健司を灰色の人生から引きずり出し、この泥まみれの現実へと叩き落とすことだったのか。

答えは出ない。だが、健司はもう天使を探すことはなかった。彼の戦うべき相手は、天の使いではなく、目の前にある「今日」という一日だったからだ。彼は黙々とそばを啜り、明日もまた、この確かな重みを手にするために、現場へ向かうことを心に決めていた。空っぽになったはずの彼の人生に、400円のそばの温かさだけが、確かに残っていた。

キングサーガ Dバージョン

第一章 名無しの天才と目覚めた野心
ある世界、ある時代、ある国、王少年という子供がいた。

なぜ王少年と記載するかというと、その国では、爆発的な人口増加を防ぐため、子供をひとりまでしか作ってはいけないという法律があった。しかし、王少年が住む農村部ではその法律が浸透せず、多くの家庭で多くの子供が生まれていた。かといってその子供を役所に届けることもできず、名無しの子供が各地に現れていた。個別の名前をあたえてしまうと、法を破った親が分かってしまうため、多くの子供は母親の姓のみで呼ばれていた。王少年でいえば、「王のところの」という、個の存在を否定された呼び方で呼ばれていた。

その国ではすべてのものは国が所有するという考えがあり、個人主義ではなく、団体主義となっていたため、個別の名前を呼び分ける必要がなかった。多くの国民はそれで困ることはなかった。彼らが困らないのは、思考の停止に慣れ、自らの不自由を疑うことさえ放棄していたからに他ならない。

王少年は、常軌を逸する優秀な子供であった。彼は一を強いれば百を理解することができ、文字や異国の言葉を独学で完璧に習得した。彼は、自らが住む世界を、愚鈍な羊たちが無為に時を過ごす牧場のように感じていた。彼は自らを、その中で唯一真実を知る牧羊犬だと認識していた。

彼の内面には、純粋な「友好的な関係性の継続」などという、曖昧な温情は存在しなかった。彼が本当に求めたのは、人々の心を完全に読み取り、無意識下で彼らを支配下に置くための「知識」、すなわち人間というシステムを完全に解析するための鍵だった。

年齢幅がある子供たちのグループの中でも、彼は飛び抜けて賢かった。しかし、彼はリーダーの座を避けた。それは、ボスという立場が観測者としての視界を曇らせると知っていたからだ。彼はいつもトップを人にゆずり、二番手三番手に甘んじていた。それは集団の力学を最も近くで、安全に、そして効率的に学習するための綿密な実験だった。彼は、人の感情がいかに簡単に操られ、いかに脆弱な論理で動くかを完璧に理解していた。彼は周囲の子供たちに対し、知性によって生じた完全な疎外感を抱き、彼らの感情的な衝動を処理速度の遅いエラーのように見なしていた。

そして彼には、秘密があった。数十メートルのテレポートと、約一瞬、時を止める能力。これは彼の野望を成就させるための、天から与えられた決定的な「道具」だと彼は認識していた。

第二章 予感と無知への侮蔑
そんなある秋の日、村で恒例の祭りがおこなわれることになった。山崩れの危険性が高いことは、王少年には明白だった。

彼は祭りを中止するよう大人たちに働きかけた。彼の目的は、愛する人々の命を救うというよりは、彼の支配下にあるべき「財産」――この村という知的財産――の無駄な損失を避けるためだった。彼は、村人たちを「生かす価値のある資源」と捉えていた。

彼の警告は単なる直感ではない。彼は、数週間前から降り続く異常な秋雨の降水量を記録し、村の共同で使う井戸の地下水位の変動を詳細にマッピングしていた。古い文献から過去の山崩れが起きた際の地盤構成を調べ、さらに自作した微小な振動検知器(石と紐を使った原始的なものだが、彼の超感覚で補完される)を山中に設置し、共振周波数を割り出していた。

しかし、彼の冷たい、数字に基づく論理は、収穫の喜びに浮かれた人々の感情論に簡単に敗れた。「山は神様がお守りくださるものだ」という村長の言葉を聞いたとき、王少年の心には激しい侮蔑が湧き上がった。彼らに生殺与奪の権限を持たせてはいけないと、その無知と信仰心の愚かさによって、改めて確信した。祭りは予定通り執り行われることとなった。

第三章 秘密の代償と絶対支配への誓い
そして祭りの当日、最悪の事態は起こった。彼の予測通り、太鼓と足音の振動が引き金となり、大地が裂けた。

広場の上方から地鳴りが響いた瞬間、王少年は即座に悟った。彼ら自身の愚かさによって、運命は決定された、と。

「逃げろ!」彼の叫びは、警告ではなく、運命への最後の嘲笑だった。

その瞬間、秘密の力が発動した。彼の視界から、世界の色と動きが完全に止まった。彼はテレポートで、広場から数十メートル離れた最も安全な大岩の陰へと跳んだ。彼の能力は、一瞬の間に彼自身の生存を確保するためだけに使われた。

時が戻ると、激しい轟音と共に、土砂と岩石が人々を、彼の家族、友人たちを、全て飲み込んだ。

王少年は安全な場所から、その光景を冷徹なデータとして見つめた。彼の胸には、感情的な悲しみよりも、完全な孤独と、自分の論理の正しさへの恐ろしい確信が重くのしかかった。

「私一人が助かった。私の力は、私という存在の維持にのみ貢献した。」

そして彼は、自身の無力さではなく、他者の無力さを呪った。人間はなんと愚かで、無意味な死を選ぶのか。彼らの生殺与奪の権を、彼ら自身に持たせることは、彼らの幸福にとって最大の脅威である。この瞬間、王少年の中で、絶対的な支配者になるという野望は、人類を救済するという名の冷たい義務へと変貌した。彼は、この義務を背負わされた呪いのように感じていた。

第四章 「力強い支配者」リチャードの誕生と孤独な学習
崩落事故から生還した王少年は、町の実業家、ザックの家に引き取られた。王少年には、ザックの動機などどうでもよかった。彼にとって重要なのは、実業家が提供してくれる知識と権力の足がかりであり、次なる実験場だった。

「今度こそ、間違えるわけにはいかない。私の野望を成就するには、世界を動かす力が必要だ」

数年後、名を名乗ることが許され、実業家が名乗りたい名前を尋ねた。「リチャードがいい」。

リチャード(Richard)とは、「力強い支配者」を意味する。彼はその名を、新たなペルソナとして選び、役所に提出させた。

リチャードは学業を驚異的なスピードで短縮した。彼の学習速度は、通常の人間の一年を数ヶ月で消化し、彼は周囲の教師や同級生を処理速度の遅い計算機のように見下していた。

彼の先行学科は分子生物学、特に細胞や遺伝子の分野に集中した。彼の真の目的は、自身の超能力のメカニズムを解明し、制御し、そして量産するためだ。

【学習の動機】
リチャードは、自身の能力を孤独な存在の証明であり、神から与えられた責務を果たすための道具と定義した。
「私の能力は、肉体の変異(突然変異)によって発現した。それを科学的に再現できれば、超能力は普遍的な支配ツールとなる」
彼は、自身のテレポートと時止め能力が、細胞レベルでの量子的な時間のずれと空間座標の操作によって成り立っていると分析し、その理論を裏付けるために高度な分子構造解析やタンパク質工学の知識を貪欲に吸収した。学問は彼にとって、感情的な探求ではなく、世界を動かすシステムの道具の設計図に過ぎなかった。彼の内面は、完璧な論理と人を見下す冷笑で塗り固められていたが、その中心には、二度と誰にも無意味な死を選ばせないという強迫的な義務感が鎮座していた。

卒業後、リチャードは実業家の下で働き、七光りを使うことなく、社内で急速に権限を伸ばしていった。彼はザックを「世界システムへの接続インターフェース」として定義し、その信頼を得るために計算された忠誠心と圧倒的な能力を演じ続けた。

第五章 秘密の漏洩と傀儡の創造
リチャードが社の極秘プロジェクト、非合法の地下研究所で行われていた超能力の研究に触れた時、彼の心は歓喜に震えた。彼の能力の起源が判明したこと、そして、その能力を量産するシステムが既に存在していたからだ。

「この能力があれば、人類を強制的に幸福に導ける。これは、私が担うべき人類救済の道具だ」

彼は自分の秘密を伏せ、実業家にお願いした。「私もこの極秘プロジェクトの手伝いがしたい」と。実業家は彼の才能と、自らに向けられた見せかけの忠誠心を喜び、彼を計画の指揮者として据えた。

リチャードの指揮のもと、超能力育成計画は驚くべき速度で進んだ。サイコキネシス、エネルギー操作など、真の超能力者が次々と生まれた。彼のデータ収集と解析能力は、能力の再現性を飛躍的に高めた。

地下深くでは、実験台にされた少年たち――ミハイルやシズカといった天才たち――が脱出を計画していた。リチャードは彼らの動きを完全に把握し、脱出計画に意図的な脆弱性を残すことで、それを補助した。超能力者の世界への放出は、彼の壮大な野望の第一歩だった。

深夜、脱出が実行され、地下研究所は騒乱の場と化した。リチャードは、その混乱に乗じ、最上階のオフィスに隠れていた実業家、ザックの前に静かに立った。

「私の計画は、あなたの利益のためにあるのではありません」リチャードは冷徹に言った。「あなたの持つ『力』は、あまりに小さすぎた。そして、あなたは私の世界に必要な、最初の犠牲者です」

実業家が戸惑い、恐怖に顔を歪めた一瞬、リチャードは時を止め、ザックを葬った。彼の手は少しも震えなかった。それは不要な変数をシステムから削除するがごとき、冷酷で合理的な行為だった。

リチャードの計算通り、脱走した超能力者たちのエネルギーが共鳴し、超能力は伝染病のように世界に広まった。

【超能力拡散のメカニズム】
王心霊研究公司は、超能力の発生源を「異能粒子(イノベーション・パーティクル)」と定義していた。これは感情の爆発的な高揚や極度のストレス下で、特定の遺伝子を持つ人間から放出される未確認粒子だった。リチャードが脱走を補助した天才たち(ミハイル、シズカ)は、この粒子の超高濃度放出源となった。彼らが社会に出たことで、粒子は空気中に拡散し、適合性を持つ人々に次々と感染(発現)していった。

当初、その発現は無秩序で、世界中で予期せぬ事故や破壊行為が多発した。人々は恐怖し、「ミュータント」と呼び始めた。リチャードは、一人の知性と一つの秘密の力で、世界を一晩で再構築したのだ。

第六章 偽りの平和と完全なる支配の準備
超能力者の増加により、社会の対立軸は超能力者と非超能力者の二項対立に集約された。超能力者は人口のわずか10%。彼らは圧倒的な力で、ノーマルたちを本能的な恐怖に支配させた。結果、超能力者は世界的に迫害され、隔離される対象となった。

リチャードは、元実業家の会社を王心霊研究公司(Wáng Xīn Líng Research)と変え、世界の政府や軍にとって不可欠な存在となった。彼は、超能力者を効率的に無力化する技術(能力抑制装置)や、超能力犯罪の予測アルゴリズムを提供することで、世界の安全保障の唯一の鍵となった。実質的に、リチャードは世界の中枢を操る支配者となった。

【ニュクス結成の背景】
迫害に耐えかねた超能力者たちは、地下で団結を始めた。ミハイルは、その天才的なハッキング能力と穏健なカリスマで、超能力者たちのネットワークを構築した。シズカは、その破壊的な音波能力と強い正義感から、超能力者団体の過激派を率いる存在となり、彼らの組織は「ニュクス」(夜の女神)と名付けられた。リチャードは、このニュクスという組織が「ノーマル社会の憎悪を一点に集める完璧なターゲット」となることを予見し、その成長を静かに見守っていた。

国家同士の争いはなくなり、共通の敵(超能力者)を前にノーマル社会は一つの団結を保っていた。これは、彼が山崩れの惨事から学んだ冷徹な論理に基づいていた。多数の安寧のために、少数を意図的に犠牲にする。

しかし、リチャードはこの偽りの平和に激しい苛立ちを募らせていた。彼の目的は、ノーマルとミュータントという二つの人類を、真に幸福に導くこと。そのためには、この中途半端な平和を破壊し、彼自身が全人類の支配者として君臨する必要があった。

第七章 シズカの絶望的な決戦と論理的な圧勝
リチャードは、超能力者団体「ニュクス」の動向を常に監視し、彼らを理想の敵役に仕立て上げる作業を開始した。

彼はニュクス内で、この事象のすべての原因はリチャード率いる王心霊研究公司にあるという噂を流布させた。このプロパガンダは、感情的な超能力者たちの怒りを煽り、過激派の一部が暴走し、王心霊研究公司の関連施設を襲撃するに至った。全てはリチャードの計算通りだった。

この事件をきっかけに、非超能力者による超能力者の迫害は手のつけられないレベルまで加速した。リチャードは、各国政府と連携し、「超能力の脅威から人類を守る」という大義名分のもと、ニュクスに対する戦争を開始した。

戦いはリチャードの緻密な情報統制により、ノーマル社会の憎悪がニュクスに集中するよう調整された。そして、ニュクス内で、「リチャードを殺すことによって、この戦争が終わるのでは」という噂が真実であるかのように広まった。これはリチャードによる最後の罠だった。

シズカをトップとした精鋭メンバーが、リチャードの首を取るための最終決戦を企図した。ミハイルは、これが仲間を死地に送る罠だと知りながら、シズカの怒りに満ちた感情的な決断を止めることができず、己の論理的弱さに打ちひしがれていた。

本社ビル屋上、社長室。リチャードは高級なレザーチェアに座り、全てが彼の脚本通りに進んでいることに満足していた。彼の顔には、感情ではなく、完璧な予知を遂行するオペレーターのような冷たい平静さが浮かんでいた。

「これは、これは、ニュクスのリーダーシズカ様。お待ちしておりましたよ。全ては私の計画通りです」

シズカの胸には、リチャードへの純粋な憎悪と、仲間の命を守れなかった自責の念がマグマのように煮えたぎっていた。彼女の破壊的な超音波攻撃
は、ただの能力ではなく、怒りという名の悲鳴であり、彼女が持つ全ての感情エネルギーを込めて放たれた。彼女は、この一撃で世界の歪みを正そうと、感情の全てを賭けていた。

しかし、攻撃の直前、リチャードは余裕を持って時を止め、テレポートで一瞬にして消える。シズカの音波が社長室を吹き飛ばし、窓ガラスを粉砕した直後、リチャードは背後の壁際から現れた。

「私のことを調べたようですが、私の超能力についての情報は見つけられなかったようですね。なぜなら、私の能力は、あなたがたが生み出される以前に、すでに完成していたからです。私が本当の世界最初の超能力者だったんですよ」

リチャードが再び時を止めようとした瞬間、彼の脇腹にナイフが突き立てられた。光学迷彩により透明になっていたミハイルの姿だった。

【ミハイルの抵抗】
ミハイルは、自らのハッキング能力と能力(電子操作)を組み合わせ、王心霊研究公司の全セキュリティシステムにランダムなノイズを流し続けていた。この電子ノイズが、リチャードの超感覚による危機検知アルゴリズムの$1.7%$の誤作動領域を生み出した。彼は光学迷彩とノイズの影に隠れ、リチャードの予測をわずかに上回るタイミングで攻撃を敢行した。

「奥の手を持ってたのは、お前だけじゃない」ミハイルは、息をあげながらも鋭く言い放つ。「僕は、お前が仕込んだセキュリティシステムの裏側から、ずっとお前を見ていた。お前の孤独な野望も、全て」

リチャードは、脇腹に食い込んだナイフを見つめ、計算外の事態に一瞬の静寂を保ったが、すぐに冷笑を浮かべた。彼の冷笑には、驚きよりも、完璧なシステムに発生したバグへの好奇心が混じっていた。

「$98.3%の破局確率…私の計算は、君という∗∗残りの1.7%$のノイズ**を排除しきれなかったようですね。しかし、その程度のノイズで私のシステムは崩壊しません」

リチャードは時を止め、ナイフを自ら引き抜き、傷口を超スピードで凝固させた。そして、ミハイルの背後に回り込む。

「君のハッキング能力は素晴らしい。だからこそ、君には私のアシスタントとしての役割を与えましょう」

リチャードはミハイルの頭部に軽く触れた。その瞬間、ミハイルの意識は白い閃光に包まれた。リチャードの真の能力は、テレポートと時を止めることだけではない。彼の真の能力は、「思考の領域への0.1秒間の接続」。

【思考の強制接続】
リチャードは、自身の脳内にある「人類救済のための絶対的な論理モデル」を、ミハイルの精神中枢に強制的にダウンロードした。ミハイルの強固な論理体系と良心は、リチャードの完璧なデータと未来予測の前に瞬時に打ち砕かれた。ミハイルの瞳には、かつて宿っていた抵抗の炎も、友情の温かさも、人間的な迷いも、全てが消滅していた。彼の中にあったのは、リチャードの論理モデルによって完璧に最適化された、冷たい鋼の輝きだけだった。彼は最高の計算機へと変貌した。

シズカは音波攻撃を放つが、リチャードは時を止めてその場を離れ、ミハイルの横に立つ。時が動き出す。

「ミハイル!?」シズカの叫びは、悲鳴から絶望の静寂へと変わった。彼女は理解した。リチャードは、身体だけでなく、最も大切な仲間を奪い、それを自分の支配システムの一部に変えたのだと。

「やめろ、シズカ」ミハイルは冷たい声で言った。「抵抗は無意味だ。リチャード様の計画は、人類全体にとって最適な解だ。我々の役割は、彼の支配の礎となることだ」

シズカの音波攻撃は、リチャードには届かない。彼女の能力は、リチャードの絶対的な速度と論理の前に、あまりにも緩慢だった。

「私の勝利です、シズカ様」リチャードは勝利を確信した笑みを浮かべた。「君の熱狂的な正義感は、ノーマル社会と超能力者を融和させるための最高の舞台装置だった。そして今、その舞台は閉幕です」

リチャードは、シズカの最も弱い部分、彼女の愛する人々の隔離施設への移送が完了したことを示唆した。シズカは膝から崩れ落ちた。彼女の心臓を射抜いたのは、リチャードの能力ではない。それは、彼女の全てを懸けた正義感が、敵の計画を完成させるための単なる「熱源」に過ぎなかったという、絶対的な論理的敗北の認識だった。彼女の瞳からは、涙ではなく、激情の燃えカスのような空虚な光が溢れた。リチャードの支配は、肉体的な強制ではなく、精神的な魂の破壊によって完成したのだ。

終章 完全なる支配者
リチャードは、ミハイルを技術部門の最高責任者として、シズカを超能力者社会の「英雄的」リーダーとして、王心霊研究公司に取り込んだ。

彼は、最終決戦の映像を全世界に公開した。しかし、それは編集された映像だった。ミハイルとシズカがリチャードに敗北し、世界平和のため、やむなく彼の軍門に降ったというストーリーに改ざんされていた。

全世界に衝撃が走った。しかし、超能力者を恐れるノーマル社会は、「超能力者を管理できる唯一の支配者が現れた」と安堵し、リチャードを救世主として受け入れた。超能力者社会は、ミハイルとシズカが「降伏」したことで、抵抗の意思を失った。

【リチャードのシステム】
リチャードは、超能力者全員に「抑制と監視のチップ」を埋め込む法案を通過させた。このチップは、能力の暴走を防ぐという名目だが、実際はリチャードの「守護機関」と直結しており、超能力者一人一人の思考パターンと行動をリアルタイムで監視していた。

そして、ノーマル社会に対しては、「幸福感の強制的な提供」アルゴリズムを開発した。情報統制により、不安や憎悪を生む情報を排除し、社会全体に緩やかな幸福感を広げた。

彼は今、かつて彼が育った山々を見下ろす、本社ビル最上階の社長室に立っている。

「愚かな羊たちよ」リチャードは静かに囁いた。「君たちが自らに支配権を持たせている限り、君たちは不幸を選ぶ。しかし、この冷たい論理の檻の中では、君たちは永遠に平和で、永遠に幸福だ」

彼の瞳の奥には、山崩れの惨事で死んだ村人たちへの義務感が燃えている。彼は、悪役という曖昧な役割を捨て、神として、絶対的な支配者として君臨する道を選んだのだ。

彼の野心は成就した。世界は彼の冷徹な計算通りに動き始めた。リチャードは満足の笑みを浮かべ、夜景に広がる数千万の灯を見つめた。その光一つ一つが、彼によって「救済」された生命であると確信しながら。

キングサーガ3

超能力者の世界的な増加から数年、社会は根本から変わってしまった。

いい意味では、長年の病巣であった国家間のいさかいや人種差別といった、人類の古い対立軸が消滅したのだ。悪い意味では、すべての対立は新しい二項対立、すなわち超能力者と非超能力者の間に集約された。

単純な数で言えば、超能力者は全人口のわずか10パーセント程度に過ぎなかった。しかし、彼らの能力は、力のない大半の人々を怯えさせるのに十分すぎた。サイコキネシスで車を投げ飛ばし、炎を生み出す人々を前に、ノーマルたちは本能的な恐怖に支配された。

その結果、超能力者は危険な存在として、世界的に迫害されるようになった。いくら強大な力があっても、この文明社会において、大多数から差別されるマイノリティーとなってしまえば、その生活は著しく制限され、自由を奪われた。彼らは「兵器」か「脅威」として扱われ、隔離され、狩られる対象となった。

支配者リチャード
この全ての原因をつくったリチャードは、元実業家の会社を引き継ぎ、社名を王心霊研究公司(Wáng Xīn Líng Research)と変えた。過去の非人道的な超能力開発を行っていた事実は完全に隠蔽され、同社は今や、世界の超能力者問題に取り組む最先端の情報機関として立ち上げ直された。

世界的に超能力者問題が騒がれる中、最も深く、最先端の情報を持っている王心霊研究公司は、世界の政府や軍にとって不可欠な存在となった。実質的に、リチャードは世界の中枢を操る支配者となっていた。

彼の周りには、各国の最高権力を持つ政治家たちが集まっていた。どの国も超能力者の問題で悩み、リチャードの提供する情報、技術、そして「解決策」に依存していた。

この結果、彼が長年夢見ていた、人類の友好と安全の継続は、ある意味で実現した。国家同士の争いはなくなり、共通の敵(超能力者)を前にノーマル社会は一つの団結を保っていた。

しかし、リチャードはまだ現状に納得していなかった。

彼は超能力者を切り捨てることで得られたこの偽りの平和に、激しい苛立ちを募らせていた。彼の友人の中には、能力を得た優秀な者も多くいた。彼は彼らの苦しみを知っていた。生まれながらの人間の愚かな本能(恐怖、差別、排他性)をコントロールし、ノーマルとミュータントという二つの異なる人類を、手に手を取らせることができないでいる現状に、彼は深く絶望していた。

「私は彼らを救うために世界を変えた。しかし、この世界は彼らを排斥する場所になった。」

リチャードはいくつかの答えを考えた。能力者による世界征服、非能力者の強制的な洗脳、あるいは超能力の根絶。しかし、そのどれもが、山崩れ以上の多くの犠牲を伴う方法ばかりだった。彼の根本的な望みは、あくまで「全ての人類の幸福」だった。

彼はその天才的な頭脳と、孤独な生存者としての経験、そして「力強い支配者」たる決意を総動員して、一つの結論に至った。

リチャードが実行した「力の無力化」とは別の解決策、それは人類共通の敵(脅威)をつくることで、ノーマル社会の融和を図るという、山崩れの惨事と同じく、多数の安寧のために少数を犠牲にするという冷徹な論理に基づいていた。

リチャードは実業家を葬った後、祭り上げる敵のことを考えていた。

施設を脱出したリーダー格、ミハイルとシズカは、超能力者団体「ニュクス」のリーダーとして、能力者たちの希望となっていた。「ニュクス」は非超能力者に対する対応を日々議論していたが、抑圧された環境下で、感情と論理の対立は避けられなかった。

そんな中、グループの中に、この事象のすべての原因は、リチャード率いる王心霊研究公司にあるという噂が流れ始めた。

直後、王心霊研究公司を襲撃しようという過激な意見がグループ内に噴出する。ミハイルはそれを論理的に抑え込もうとした。「たとえその噂が事実であっても、会社を襲撃したところで、超能力者の立場が上がるわけではない。ただのテロリストとして、全世界の非難を浴びるだけだ」

しかし、メンバーの理解は得られなかった。それどころか、ミハイルのパートナーであるシズカは、その直情的な性格から過激派の感情的な意見に乗っかっていた。ただでさえマイノリティーであるニュクスは、さらにその中で、過激派と穏健派に分かれることになった。

そして、最悪の事態は起こった。過激派の一部のメンバーが暴走し、王心霊研究公司の関連施設を襲撃してしまったのだ。その事件をきっかけに、非超能力者による超能力者の迫害は手のつけられないレベルまで加速した。もう、世界の流れを止めることはできなかった。

しかし、この混乱の中で、一つだけ世界を統率できる希望があった。それは、超能力に対抗できる唯一の組織、王心霊研究公司だった。リチャードは瞬く間に、各国の政府と連携し、「超能力の脅威から人類を守る」という名目で、ニュクスに対する戦争を開始した。

戦いは数年におよんだが、リチャードの緻密な情報統制により、戦いは限定的なものとなり、世界の被害範囲は限定的になった。ノーマル社会の憎悪はニュクスに集中した。

ある時から、王心霊研究公司がリチャードのワンマン企業であるという情報が、ニュクス内で流布した。「リチャードを殺すことによって、この戦争が終わるのでは」という噂は真実であるかのように語られた。ミハイルはそれがプロパガンダであることを説明するが、感情に支配されたメンバーに理解はされなかった。

理解されないどころか、シズカをトップとした精鋭メンバーが組まれ、リチャードの首を取るための最終決戦が企図された。ミハイルは知っていた。シズカが死ぬことがあれば、組織化されていないニュクスは即座に崩壊し、超能力者の迫害は限界に達するだろう。もう、時を止めることはできない。

ミハイルのハッキングにより、リチャードのスケジュールが押さえられ、彼が本社ビルにいる時を狙って襲撃が行われた。「成功の時、本社襲撃が成功したことをアピールすれば、もうニュクスを止められる団体はない」という、シズカの直感的で感情的な計画だった。

王心霊研究公司側にも、リチャードによって調整された超能力者がおり、本社ビルでの戦いは、超能力者同士の悲劇的な殺し合いとなった。ミハイルは、これ以上の犠牲を防げないことを悟り、ただこの悲劇を見守ることしかできなかった。

様々な被害と混乱の先に、本社ビルの屋上、社長室。そこに、リチャードとシズカ、そして静かに潜入したミハイルの対面が行われた。

リチャードは、高級なレザーチェアに腰掛けたまま、落ち着いた様子で言い放つ。「これは、これは、ニュクスのリーダーシズカ様。お待ちしておりましたよ」

小ばかにされたと感じたシズカが、怒りに震えながら叫ぶ。「お前を倒せば、超能力者の明日が来る!」

彼女の怒鳴り声は、そのまま破壊的な音波攻撃となる。この近距離での攻撃であれば、よけることはできないはずだ。

シズカが勝利を確信した瞬間、目の前のリチャードが消える。

次の瞬間、背後から衝撃が走り、シズカは地面に倒れる。慌てて起き上がり体制を立て直すと、後ろにいたのは余裕の笑みを浮かべたリチャードだった。

「私のことを調べたようですが、私の超能力についての情報は見つけられなかったようですね」リチャードは冷静に、そして優雅に話す。

「実は、私が本当の世界最初の超能力者だったんですよ。皆さんには私の野望の犠牲になっていただき光栄です」

リチャードの瞳に、山崩れの惨事を見た日と同じ、冷たい論理の光が宿る。「世界中にあふれた超能力者のおかげで、私の力を高めるデータを集めることができました」

リチャードは静かに腕を上げ、時を止める準備をする。「動けないときの中で、眠りなさい」

リチャードが再度時を止めようとした瞬間、彼の脇腹に冷たい雫が垂れる感覚がした。

脇腹を見ると、そこにナイフを突き立てるミハイルの姿があった。ミハイルは光学迷彩により透明になっていたのだ。彼は息をあげながら言う。

「奥の手を持ってたのは、お前だけじゃない」
「僕の能力は、電子機器の操作と、光を操り、光学迷彩で透明になることだ。僕は、お前が仕込んだセキュリティシステムの裏側から、ずっとお前を見ていた」

リチャードは、脇腹に食い込んだナイフを見つめ、再び笑みを浮かべてつぶやく。「ああ、あと一歩だったのに」

その隙を見逃さず、シズカの音波攻撃が襲い掛かる。音波はリチャードの体を窓の外へと吹き飛ばし、夜の闇に消えていく。

新たな夜明け
ミハイルは即座に本社ビルのサーバーに侵入し、この戦いの録画と、王心霊研究公司の過去の非人道的な行いを全世界に向けて発信した。

全世界に衝撃が走った。争いの根源は、超能力者そのものではなく、王心霊研究公司、すなわちリチャードの野望にあったのだ。

超能力者への迫害は一気に失速し、理解ある社会が加速度的に進むことになった。

リチャードが望んだ「人類の融和」は、彼自身を共通の敵とすることで、皮肉にも間接的に実現した。

しかし、王少年の望んだ「友好的な関係性の継続」は、二人の能力者、ミハイルとシズカの連帯によって、血と裏切りの果てに、ようやく世界にもたらされたのだった。世界は、一人の天才の独裁を拒み、新たな共存の時代へと向かうことになった。

時は少し戻り、リチャードが本社ビル屋上からの転落。それは、リチャードにとって最後の、そして最も重要なテレポートの瞬間だった。

シズカの音波がリチャードの身体を吹き飛ばす寸前、彼はかすかに時を止め、自身をビルの影を這う換気ダクトへと瞬間移動させた。ミハイルのナイフが脇腹に突き立てられたのは、彼の計算を狂わせた唯一の要因だったが、それは同時に、彼の死を確信させるには十分な演出となった。ナイフの傷は深く、彼の命を奪うには至らなかったが、悪役の最期としては完璧だった。

彼の体は、闇の中に消えたのではない。彼は悪役という名の舞台の幕を、自らの命を持って引き下ろしたのだ。

英雄たちの時代
それから十年。世界は劇的に変わった。

リチャードの告発と、彼が遺した技術情報により、超能力者の迫害は終息し、能力者と非能力者の間に和解と協力の時代が訪れた。ミハイルとシズカは、能力者団体のリーダーとしてではなく、新しい世界の真の英雄として、国際的な融和の象徴となっていた。

彼らが主導するプロジェクトは、超能力を社会インフラに活用し、世界の飢餓や災害を解決していった。リチャードが少年時代に望んだ「友好的な関係性の継続」は、彼の犠牲の上に、ようやく現実のものとなった。

孤独な守護者
リチャードは今、かつて彼が育った農村部の山々を見下ろす、人里離れた場所に隠棲していた。過去の広大な富を使い、彼は世界各地に監視システムを構築していた。王心霊研究公司が残した遺産、すなわち彼の知識と技術の全ては、彼の私的な「守護機関」へと形を変えていた。

彼は、ミハイルとシズカの活動を陰から静かに見守っていた。彼らが世界を導く姿を見て、リチャードは満たされていた。彼らは彼が愛した人々の代表であり、彼の天才的な計画の最も美しい結実だった。

しかし、リチャードは知っている。人間の愚かさや、差別を生み出す本能は、決して消えたわけではない。ただ、矛先を失い、深い層に潜り込んだだけだ。もし、ミハイルやシズカに代わる新たな脅威が現れた時、あるいは二つの人類の間に再び憎悪の火種が生まれた時、彼は再び「悪役」として表舞台に立つ覚悟でいた。

ある晴れた秋の日、リチャードは窓辺から、かつて山崩れが起きた方角の空を眺めた。

彼はもう「王少年」でも「リチャード」でもない。世界にとって、彼は「歴史的な悪」として死んだ男だ。しかし、彼の心は穏やかだった。

彼は、かつて山崩れで助けられなかった人々のために、そして、彼が愛する全ての人々が争うことなく生きる世界のために、孤独な夜の守護者として生き続ける。

「今度こそ、間違いは犯さない」

彼は静かにそう呟き、遠い街の灯に向けて、わずかに微笑んだ。彼の野心は、もはや世界を支配することではない。ただ、陰から、永遠に世界の平和を祈り続けること、それだけだった。そして、彼には、その祈りを実現するための力と知性が、まだ残されていた。

キングサーガ2

王少年は、その後山の被害に町から駆け付けた、救助隊に保護をされた、王少年は、自分は体調不良で祭りに参加しなかったため、助かったと嘘をついた。
自分の秘密を打ち明けることにメリットがないことを知っていた。

町に来た王少年は、ある実業家の家に住まわせてもらうことになった、実業家が、本当に自愛の心もっていたのか、アピールで保護したのかは彼にはどうでもよかった、
ただ、実業家の提供してくれる、勉強のできる環境、広い人脈によって出会える、多くの友人に感謝した。
今度こそ間違えるわけにはいけないと心に強く誓った。

それから2,3年の時がたった、その間、社会は変わり、多くの名無しの子供を救う制度ができ、名前を名乗ることができた。
実業家は、王少年に聞いた、名乗りたい名前はあるかと、王少年は答えた「リチャードがいい」実業家は尋ねる、なぜこの国の由来ではない名前を希望するのかと、
少年は迷わず答えた、「「かっこいいいから」と、その答えは嘘だった、力強い支配者を意味するリチャード、どうせ実業家はこの事実を知らないであろう、
彼は新しい目標に向けて、決意を込めて、リチャードを希望した、案の定実業家は、何も気が付かずに、彼の希望を役所に提出した、未来で、実業家にとっての支配者になることも知らずに。

さらに数年の時がたち、王少年は青年となった、リチャードは学業の過程を短縮してすべてを完了させた、先行した学科は生物学であった、実業家が生物学の魅力について尋ねた時に、リチャードはこう答えた
「生き物について学ぶと、昔数でいた山の多くの生き物を思い出す、それが自分にとっては心地がいいのだ」と、そのお答えが嘘であったか、事実であったかは、誰にも知ることができなかった。

卒業をしたリチャードは、実業家の下で、働くことをお願いした、実業家に恩を返したい気持ちと、実業家はバイオロジックの事業も行っていたので、早く、好条件でお金を稼ぐ場として条件が整っていた。
リチャードは天才としての能力をいかんなく発揮し、七光りを使わずとも頭角をしめしていた。

リチャードは社内での権限を延ばすことによって、会社の秘密に触れることになる。
実業家の会社では、人体実験をもって、超能力の研究をおこなっていた、研究の方法は、人道に反するものであった、
その資料の中で彼は知る、自分の秘密もおそらくこの研究によって生まれたものだと、実業家が自分を拾ったのは、慈善活動のパフォーマンスだけでなく、
研究の露営を恐れたの行動であったのだ。
これを知った時に、リチャードの気持ちは興奮した、自分にとってはあっても、なくてもどうでもいい能力だった。
現に彼は、あの事件以来超能力を使ったことは一度もなかった。
しかし、この能力があれば、人類を幸福に導けるかもしれない。

彼は自分の出生を知ったこそを伏せ実業家にお願いした、自分もこのプロジェクトの手伝いがしたいと、
実業家はリチャードの能力を買っていたため、これを喜んで受け入れた。

さらに時は数年流れる、リチャードの指揮のもと超能力育成計画は、順調に進んだ、
単純な天才的な頭脳をもつもの、超人的な肉体をもつもの、
さらに、サイコキネシスを使い、物体を動かすもの、分子運動から、火や水や電気といったエネルギーを生み出すといった、まさに超能力が生まれたのだ。
幸か不幸か、リチャードと同じ時間と空間をコントロールできるものは現れなかった

実験に喜ぶ実業家、超能力を軍事兵器として売り出すのは、もう間もなく、さらに巨万の富が約束された。

そんな中、実験代にされた少年たちが脱出の計画をたてる、その中にはリチャードに匹敵する天才も混じっていた、
当然リチャードはこの動きを理解していた、しかし彼はそれを逆に利用し、脱出の混乱に乗じ実業家を葬った、
リチャードは、人を人と思わぬ実業家に怒りを抱いていたのだ。

この脱出により、世界中に超能力者があふれることになった、脱走者だけでなく共鳴した多くの人に超能力が芽生えたのだ。
王少年は世界を変えたのだ。

崩落事故から生還した王少年は、町から駆け付けた救助隊に保護された。彼は、自身が持つ秘密――テレポートと一瞬の時を止める能力――を打ち明けることに何のメリットもないと知っていたため、体調不良で祭りに参加しなかったために助かったと、冷静に嘘をついた。

彼は身寄りのない「名無しの子供」として、町の実業家、ザックの家に引き取られることになった。実業家が本当に自愛の心を持っていたのか、あるいは社会的なアピールのために保護したのか、王少年にはどうでもよかった。彼にとって重要なのは、実業家が提供してくれる恵まれた環境だった。思う存分勉強できる環境、そしてその広い人脈によって出会える、多種多様な友人たち。

彼は山での大惨事を決して忘れなかった。あの時、自分の持つ力が、何の役にも立たなかった事実。自分一人が助かり、愛する人々を失ったあの無力感。
「今度こそ、間違えるわけにはいかない」
王少年は心に強く誓った。彼が愛する人々を守るためには、もはや友好の継続だけでは不十分で、世界そのものを動かす力が必要なのだと悟った。

それから二、三年の時がたった。社会は変わり、人口抑制策の緩和と共に、多くの名無しの子供を救う新しい制度ができた。彼らは晴れて、正式な名を名乗ることが許された。

実業家は王少年に尋ねた。「名乗りたい名前はあるか?」

王少年は迷わず答えた。「リチャードがいい」

実業家は尋ねる。「なぜ、この国の由来ではない異国の名前を希望するのかね?」

少年は屈託なく答えた。「かっこいいから」

その答えは嘘だった。リチャード(Richard)とは、「力強い支配者」を意味する古語に由来する。どうせ実業家はこの事実を知らないであろう。彼は新しい目標に向けた決意を込めて、リチャードという名を希望した。案の定、実業家は何も気が付かずに、彼の希望を役所に提出した。

リチャードという名を選んだ少年が、未来において、実業家にとっての支配者になることも知らずに。

さらに数年の時がたち、王少年は青年となった、リチャードは天才的な能力により、通常の学業の過程を短縮してすべてを完了させた。彼が先行した学科は生物学、特に細胞や遺伝子の分野だった。

実業家が生物学の魅力について尋ねた時、リチャードはこう答えた。
「生き物について学ぶと、昔、数年暮らしていた山にいた多くの生き物を思い出すのです。それが自分にとっては心地がいい」

その答えが、過去への純粋な感傷であったのか、それとも目的を隠すための巧みな偽装であったのか、誰にも知ることはできなかった。

卒業をしたリチャードは、実業家の下で働くことを願い出た。表向きの理由は、受けた恩を返すため、そして実業家がバイオロジックの事業も行っていたため、早く好条件でお金を稼ぎ、自分の研究を進める場として条件が整っていたからだ。リチャードは天才としての能力をいかんなく発揮し、七光りを使うことなく、社内で頭角を現していった。

リチャードが社内での権限を延ばすにつれて、彼は会社の極秘の秘密に触れることになる。

実業家の会社は、非合法の地下研究所で、人体実験をもって超能力の研究を行っていた。その研究の方法は、人道に反するものであり、多くの犠牲を出していた。

その資料の中で彼は確信した。自分の持つテレポートと時間操作の秘密も、おそらくこの研究によって意図せず生まれたものだと。そして、実業家が自分を拾ったのは、慈善活動のパフォーマンスだけでなく、研究の露見を恐れた上層部による行動であったのだ。

これを知った時、リチャードの気持ちは興奮した。彼にとって、あの能力はあってもなくてもどうでもいいものだった。現に、彼はあの事件以来、二度とその能力を使ったことはなかった。しかし、もしこの能力を量産し、制御できるようになれば、人類を幸福に導けるかもしれない。彼はそう信じた。

彼は自分の出生の秘密を知ったことを伏せ、実業家にお願いした。「私もこの極秘プロジェクトの手伝いがしたい」と。

実業家はリチャードの能力と忠誠心を買っていたため、これを喜んで受け入れた。

計画の実行者
さらに時は数年流れた。リチャードの指揮のもと、超能力育成計画は驚くべき速度で順調に進んだ。

単純な天才的な頭脳を持つ者、超人的な肉体を持つ者、そして驚くべきことに、サイコキネシスで物体を動かす者、分子運動を操り、火や水、電気といったエネルギーを生み出す真の超能力が生まれたのだ。幸か不幸か、リチャードと同じ時間と空間をコントロールできる者は現れなかったが、成果は予想を遥かに超えていた。

実験の成功に実業家は大いに喜び、超能力を軍事兵器として世界に売り出す日は近いと確信した。さらなる巨万の富が約束されたのだ。

研究所の地下深く、リチャードが主導するプロジェクトは絶頂期を迎えていた。しかし、その華々しい成果の裏で、実験台にされていた少年たちの魂は、激しい怒りと憎悪に燃えていた。彼らは、リチャードがもたらした驚異的な能力を、自分たちを閉じ込めた檻を破るための武器として研ぎ澄ませていた。

脱出計画の中心にいたのは、二人の天才的な被験者だった。一人は、「ミハイル」と呼ばれる、リチャードに匹敵する知性の持ち主。彼は、リチャードが設計したセキュリティシステムの盲点を突き、脱出ルートを構築した。もう一人は、「シズカ」と呼ばれる少女。彼女の能力は、微細な振動(音波)を自在に操ること。壁を粉砕し、人の聴覚を麻痺させ、電子機器を破壊する。

当然、リチャードは彼らの動きを全て理解していた。彼の監視システムは完璧だったが、彼はそれを止めるどころか、密かに補助さえしていた。脱出計画の鍵となるいくつかの脆弱性、例えば換気ダクトの設計ミスや、警備員のシフトの隙間などは、リチャードが意図的に残したものだった。

リチャードにとって、超能力者の放出は計画の一部だった。彼の目標は、世界を幸福に導く力を得ること。その力とは、能力者集団の指導者となり、世界を支配することだった。そのためには、実業家という不純な存在を排除し、自らの能力者が世界に広まる必要があった。

彼の中で、感情と論理が一つになった。山崩れで多くの命を奪った人間の愚かさへの怒り。そして、その愚かな人間に力を悪用させようとした実業家への憎悪。二つの感情が、リチャードの冷徹な行動を後押しした。

深夜、脱出は実行された。

シズカの放った高周波が研究所の電子ロックを破壊し、警報システムを沈黙させた。ミハイルが事前に仕掛けた罠により、警備員たちは混乱に陥った。地下研究所は、瞬く間に超能力による嵐の場となった。念動力で岩石が舞い、炎が噴き出し、閃光が走る。

リチャードは、騒乱の中心にはいなかった。彼は、実業家が緊急時のために隠れていた、最上階の豪華なオフィスへと向かった。

実業家は、モニターに映る地下の惨状を見て、狂喜していた。「やはり素晴らしい!この力だ!リチャード、急いで鎮圧しろ!この力を兵器として売るのだ!」

リチャードは、静かに実業家の前に立った。彼の顔には、いつもの穏やかな微笑みはなかった。あるのは、冷徹な支配者の決意だけだった。

「私の計画は、あなたの利益のためにあるのではありません」リチャードは静かに言った。「あなたの持つ『力』は、あまりに小さすぎた。そして、あなたは愛する人々を失った者の怒りを理解しない」

実業家が戸惑う一瞬、リチャードの秘密の力が発動した。

世界が一瞬、止まる。色彩が消え、空気の分子さえ静止した。リチャードはテレポートで実業家の背後に回り込むと、静止した空間の中で、彼が絶対に逃げられない位置へと移動した。そして、時を戻した。

実業家は、背後に現れたリチャードの瞳に宿る冷たい光を見たのが、彼にとっての最後の景色となった。リチャードは、能力を使わず、ただの人間としての物理的な力で、この不純な支配者を永遠に葬った。

リチャードの計算通り、脱走した超能力者たちは、研究所から世界各地へと散らばっていった。彼らの解放は、単なる施設からの脱出に留まらなかった。

超能力は、まるで伝染病のように世界に広まった。脱走者たちが持つ強大なエネルギーと、それに伴う精神的な波動が、各地の潜在的な能力者たちに共鳴し、遺伝子レベルで眠っていた力を目覚めさせたのだ。

町や都市では、ごく普通の人間が、突如発火したり、念力で物を浮かべたりする現象が起こり始めた。混乱は瞬く間に世界を覆った。

名無しの子供、王少年。そして今やリチャードと呼ばれる青年は、一人の知性と一つの秘密の力で、世界を変えたのだ。

リチャードは、崩壊した研究所の残骸を見下ろしていた。彼の計画は成功した。世界は今、彼が求めた力を持つ者で満たされた。

だが、この力は、彼が望んだ「友好的な関係性の継続」をもたらすのか。それとも、山崩れの惨事よりも大きな、未知の混沌へと世界を突き落とすのか。

世界は今、彼の決意と共に、制御不能な力の時代へと足を踏み入れた。リチャードは、これから始まる新世界の支配者となるのか、それとも、新たな時代の救世主となるのだろうか。

キングサーガ

ある世界、ある時代、ある国、王少年という子供がいた。

なぜ王少年と記載するかというと、王少年には、名前がなかった、その国では、爆発的な人口増加を防ぐため、子供をひとりまでしか作ってはいけないという法律があった。しかし、王少年が住む農村部ではその法律が浸透せず、多くの家庭で多くの子供が生まれていた。かといってその子供を役所に届けることもできず、名無しの子供が各地に現れていた。個別の名前をあたえてしまうと、法を破った親が分かってしまうため、多くの子供は母親の姓のみで呼ばれていた。王少年でいえば、「王のところの」という呼び方で呼ばれていた。

また、その国ではすべてのものは国が所有するという考え方があり、個人主義ではなく、団体主義となっていたため、個別の名前を呼び分ける必要がなかった。多くの国民はそれで困ることはなかった。

王少年は、優秀な子供であった。彼は一を強いれば百を理解することができた。その村では、文字を読める人間は、村長と役人、そしてよそから来た金持ちの三人しかいなかったのだが、王少年は誰から教わることもなく、文字を理解することができた。村の金持ちの家にあった文書から、海外の言葉も一部理解することができた。そんな天才ではあったが、彼には野心がなかった。彼は人が好きだった。ただ多くの人と友好的な関係性を継続できれば、それでよかった。

年齢も様々な子供たちのグループの中でも、一番賢かった。しかし、彼は友好性を築き、継続するには、グループのボスという立場は居心地がいい場所ではないと知っていたため、いつもトップを人にゆずり、二番手三番手に甘んじていた。当然、少年は人の心がどのように動くかも理解していた。

そんなある秋の日、村で恒例の祭りが行われることになった。祭りは通常の住宅エリアではなく、山の神に実りの感謝をおこなうため、山の中腹で行なわれる習わしであった。しかし、その年は例年より収穫が格段に良く、村人たちの喜びもひとしおであった。祭りはいつにも増して盛大で、誰もが浮かれ、山の神への感謝と、厳しい冬を前にした最後の楽しみに心を躍らせていた。

だが、その年の秋は、もう一つ例年と違うことがあった。空気が妙に冷たいのだ。祭りの準備が進む昼間でさえ、日差しの中に冬を思わせる刺すような風が混じっていた。年寄りたちは「山の神様が、よほど腹を空かせておいでるのかもしれん」と冗談めかして言ったが、その顔には一抹の不安がよぎっていた。

祭りの日、子供たちは大人たちより一足先に山の中腹にある広場へと駆け上がっていった。王少年もその中にいた。彼の友人であり、子供たちのグループの「ボス」である佐藤家の少年が、意気揚々と皆を率いていた。 「一番乗りは俺たちだ!一番いい場所で神様への捧げ物を見るぞ!」 子供たちの歓声が山に響く。王少年は、皆の楽しそうな顔を見て微笑みながら、最後尾をゆっくりとついていった。彼の目は、不自然な速さで流れていく灰色の雲と、ざわめきを増す木々の梢を静かに見つめていた。

広場に着くと、すでに村の男たちが大きな焚き火の準備をしていた。しかし、風はますます強くなり、火の粉が危険なほど舞い上がる。 「おい、こりゃあ少し風が強すぎるな…」 大人たちの間に不安の声が広がり始めた、その時だった。

空が、一瞬にして暗転した。今まで灰色だった雲が、墨を流したような黒に変わり、大粒の雨が叩きつけるように降り出した。それだけではなかった。雨はすぐに白い固形物に変わり、あっという間に猛烈な吹雪となった。秋の祭りとは思えぬ、真冬の嵐だった。気温が急激に下がり、薄着の村人たちは寒さに震え上がった。

「ばかな!十月に雪だと!?」 「戻れ!村へ戻るんだ!」

パニックが広場を支配した。人々は我先にと山を下ろうとするが、視界はほぼゼロになり、足元はぬかるんだ土と積もり始めた雪で滑りやすくなっている。泣き叫ぶ子供、怒鳴る大人。友好と感謝の場は、一瞬にして地獄絵図と化した。

子供たちの「ボス」である佐藤家の少年も、ただ狼狽えるばかりだった。 「どうしよう…何も見えない…」

その時、王少年が静かに彼の隣に立った。 「佐藤のところの、落ち着いて」 彼の声は、喧騒の中にあって不思議なほど穏やかだった。 「このまま下るのは危険だ。皆がばらばらになって、谷に落ちる者も出る」 「じゃあ、どうしろって言うんだ!」 「覚えているか?金持ちの家で見た古い地図に、この近くに炭焼き職人が使っていた古い小屋があるって書いてあったのを」

王少年は、かつて金持ちの家で書物を読み漁っていた時、村の古い地図を見つけ、その内容を完璧に記憶していたのだ。他の誰も、そんなものの存在すら知らない。 「小屋?そんなもの、どこにあるんだ!」 「こっちだ。僕が方向を教えるから、君が皆を導いてくれ。君がリーダーなんだから」

王少年は、決して自分が前に出ようとはしなかった。彼は佐藤家の少年のプライドを傷つけず、彼にリーダーとしての役割を与えた。佐藤家の少年は、王少年の確信に満ちた目に、わらにもすがる思いで頷いた。

「皆、俺についてこい!安全な場所を知っている!」

佐藤家の少年の声が響く。子供たちは、自分たちのリーダーの声に少しだけ落ち着きを取り戻し、互いに手を取り合った。王少年は、その輪の中心で冷静に方角を指し示し、足場の悪い場所を教え、一番年下の子供の手を引いた。彼はすべてを把握していた。風の向き、地形の傾斜、そして怯える友人たちの心の動きまで。

吹雪の中を十数分歩いただろうか。彼らは朽ちかけた小さな炭焼き小屋を発見した。中は狭かったが、風と雪をしのぐには十分だった。子供たちは身を寄せ合い、互いの体温で暖を取った。パニックに陥っていた大人たちも、子供たちの後を追って小屋にたどり着き、九死に一生を得た。

嵐が過ぎ去り、村人たちが山を下りた時、誰もが王少年に感謝の目を向けた。しかし彼は、いつものように静かに微笑むだけだった。 「皆を助けたのは、佐藤のところのだよ。彼の声があったから、皆まとまれたんだ」

その日から、村人たちの王少年を見る目は変わった。彼はリーダーの座を望まない。しかし、彼こそが、この名もなき子供たちの、そして村全体の真の「知恵」であり「心」なのだと、誰もが理解した。

王少年は、依然として王少年だった。個別の名はなく、ただ「王のところの」子。しかし彼の中には、誰にも真似できない、世界を静かに見通す確かな知性と、人々を愛する深い心が、静かに息づいていた。彼の望みは変わらない。ただ、皆と友好的な関係を続けること。そのために自分の力を使うことこそが、彼の生きる道なのだと、この日の出来事は静かに彼に教えていた。

以下の小説作って

ある世界、ある時代、ある国、王少年という子供がいた

なぜ王少年と記載するかというと、その国では、爆発的な人口増加を防ぐため、子供をひとりまでしか作ってはいけないという法律があった

しかし、王少年が住む、農村部ではその法律が浸透せず、多くの過程で多くの子供が生まれていた、かといってその子供を役所に届けることもできず、名無しの子供が各地に現れていた、個別の名前をあたえてしまうと、犯人が分かってしまうため、多くの子供は母親の姓のみで呼ばれていた、王少年でいえば、「王のところの」という呼び方で呼ばれていた。

また、その国ではすべてのものは国が所有する問考え方があり、個人主義ではなく、団体主義となっていたため、個別の名前を呼び分ける必要がなかった、多くの国民はそれで困ることはなかった。

王少年は、優秀な子供であった、彼は一をしれば百を理解することができた、その村では、文字を読める人間は、わずか2人しかいなかった、村長と役人、よそから来た金持ち、だけだったのだが、それらの人から教わることなく、文字を理解することができた。村の金持ちの家にあった文書から、海外の言葉も一部理解することができた、そんな天才ではあったが、彼には野心がなかった、彼は人が好きだった、ただ多くの人と友好的な関係性を継続できればよかった。

また後の話になるがそんな彼には秘密があった。

年齢幅がある子供通しのグループの中でも、一番賢かった、しかし、かれは友好性を築き、継続するには、グループのボスは居心地がいい場所とは思わなかったため、いつもトップを人にゆずり、二番手三番手に甘んじていた、当然少年は、人の心がどのように動くかも理解していた。

そんなある秋の日、村で恒例の祭りが行われることになった、祭りは通常の住宅エリアではなく、山の神に実りの感謝をおこなうため、山の中腹で行なわれる習わしであった、しかし、その年は例年より。雨量が多く山崩れの危険性が高かった、

もちろん王少年は、祭りを中止もしくは、安全なふもとで行うようにそれとなく、動いたが、一人の少年の言葉に、長年の歴史と信仰を動かす力はなかった、残念ながら、例年通りに祭りに執り行われることとなった、

王少年は何ごともおきなければと、祈りをささげ、山の中を調査したが、山の動き、川の動き、動物たちは、いつもと違った動きをしていた。

そして祭りの当日、最悪の事態は起こってしまった、祭りより、人の声、人の足音、太鼓の音、通常刺激を受けぬ山の中腹に刺激がはしる、それきっかけに山崩れが起きた。

なすすべもなく、村の皆が大地に飲み込まれていく、王少年もその場にいたが彼は助かった、これが先に書いた彼の秘密であった、彼は、数十メートルの距離のテレポートと、約一瞬時を止めることができた、効果は一人だけのため、親も兄弟も友人も誰も助けることができなかった、

王少年は嘆いた、自分はなんと無力なのか、人間はなんと愚かなのか、みな天才にとっては簡単に回避できる石につまづき、その命を落としてしまう、自分はどうすればよかったのか、山は何も答えてくれない。

この出来事は、王少年を一層人間好きにさせるのであった。

承知いたしました。いただいた設定と展開を基に、物語を完成させます。

王少年の秘密と、終わりの始まり

ある世界、ある時代、ある国、王少年という子供がいた。

なぜ王少年と記載するかというと、その国では、爆発的な人口増加を防ぐため、子供をひとりまでしか作ってはいけないという法律があった。しかし、王少年が住む農村部ではその法律が浸透せず、多くの家庭で多くの子供が生まれていた。かといってその子供を役所に届けることもできず、名無しの子供が各地に現れていた。個別の名前をあたえてしまうと、犯人が分かってしまうため、多くの子供は母親の姓のみで呼ばれていた。王少年でいえば、「王のところの」という呼び方で呼ばれていた。

また、その国ではすべてのものは国が所有するという考え方があり、個人主義ではなく、団体主義となっていたため、個別の名前を呼び分ける必要がなかった。多くの国民はそれで困ることはなかった。

王少年は、優秀な子供であった。彼は一をしれば百を理解することができた。その村では、文字を読める人間は、村長と役人、よそから来た金持ち、だけだったのだが、王少年はそれらの人から教わることなく、文字を理解することができた。村の金持ちの家にあった文書から、海外の言葉も一部理解することができた。そんな天才ではあったが、彼には野心がなかった。彼は人が好きだった。ただ多くの人と友好的な関係性を継続できればよかった。 また後の話になるが、そんな彼には秘密があった。

年齢幅がある子供たちのグループの中でも、一番賢かった。しかし、彼は友好性を築き、継続するには、グループのボスは居心地がいい場所とは思わなかったため、いつもトップを人にゆずり、二番手三番手に甘んじていた。当然少年は、人の心がどのように動くかも理解していた。

予感と無力な知性

そんなある秋の日、村で恒例の祭りがおこなわれることになった。祭りは通常の住宅エリアではなく、山の神に実りの感謝をおこなうため、山の中腹で行なわれる習わしであった。しかし、その年は例年より雨量が多かった。秋になっても地盤は水を吸いすぎ、村の年寄りの間でも「今年は山が重い」とささやかれるほど、山崩れの危険性が高かった。

もちろん王少年は、その危険性を敏感に察知していた。彼は、村の古い文献、水路の記録、そしてなにより地面のわずかな振動や、川の流れの異常を正確に読み取ることができた。彼は祭りを中止もしくは、安全なふもとで行うように、それとなく大人たちに働きかけた。

「今年の山はいつもと違います。水を含みすぎています。太鼓の音や足音の振動は、危険かもしれません」

しかし、一人の少年の言葉に、長年の歴史と信仰、そして収穫の喜びに浮かれた人々の高揚感を動かす力はなかった。「王のところの少年よ、山は神様がお守りくださるものだ。お前は賢いが、信仰を知らぬ」村長はそう言って笑った。残念ながら、例年通りに祭りが執り行われることとなった。

王少年は、何ごともおきなければと祈りをささげ、祭りの直前まで山の中を調査したが、山の動き、川の動き、そして森に住む動物たちは、いつもと違った動きをしていた。動物たちはすでに山を下り、静まり返っていた。

秘密の代償

そして祭りの当日、最悪の事態は起こってしまった。

山の中腹の広場は、熱気と歓声に包まれた。打ち鳴らされる太鼓の音、地を踏み鳴らす人々の足音、豊作を祝う大勢の声。通常、刺激を受けぬ山の中に、かつてないほどの振動が走った。

それは一瞬だった。広場の上方、祭りの喧騒を飲み込むような地鳴りが響いた瞬間、王少年の肌が総毛立った。 「逃げろ!」 彼の叫びは、太鼓の音にかき消された。

その瞬間、秘密の力が発動した。

王少年の視界から、世界の色が失せ、動きが止まった。人々の歓喜の表情が、驚愕の表情が、太鼓を打つ腕が、宙で静止する。彼は、約一瞬、時を止めることができた。この時、彼は同時に数十メートルの距離のテレポート能力を行使した。

彼は自分が最も安全な、広場から数十メートル離れた大岩の陰へと跳んだ。

時が戻る。

激しい轟音と共に、山肌が剥がれ落ち、大量の土砂と岩石が広場を、人々を、祭りの痕跡ごと飲み込んだ。なすすべもなく、村の皆が、大地に飲み込まれていく光景を、王少年は安全な場所から、ただ見つめることしかできなかった。

彼の秘密は、一度に一人にしか効果がなかった。自分自身を守ることが精一杯で、時を止めている間に親も、兄弟も、いつも優しく笑いかけてくれた友人も、誰も助けることができなかった。彼の周りにいる、彼が愛した全てのものが、一瞬で消え去った。

王少年は、崩落の音と土埃が収まった後、静まり返った山に向かって嘆いた。

自分はなんと無力なのか。人間はなんと愚かなのか。皆、天才である自分にとっては簡単に回避できる石につまづき、その命を落としてしまう。自分はどうすればよかったのか。山は何も答えてくれない。

テレポートの直後にも関わらず、彼の涙は熱かった。彼は知識で人々を救おうとし、失敗した。彼は力で人々を救おうとし、失敗した。彼に残されたのは、孤独と、秘密の代償としての生存だけだった。

この最悪の出来事は、王少年を一層人間好きにさせるのであった。なぜなら、彼らがいなくなって初めて、王少年は、自分が彼らの笑顔と存在だけを求めて生きていたことを知ったからだ。彼が求める「友好的な関係性の継続」は、ただの理想ではなく、彼自身の魂の渇望だった。

彼の天才的な頭脳は、次の問いへと向けられた。「この力を、この孤独を、どうすれば人々のために使うことができるのか」

王少年は、無人の村へと一人、山を下りていった。彼の旅が、今、始まるのだった。

時を止める男

ケンジ、26歳。都内のIT企業でシステムエンジニアとして働く、ごく普通のサラリーマンだ。彼の人生は、「平凡」という言葉を具現化したようなものだった。朝、満員電車に揺られ、定時までPCに向かい、夜はコンビニ弁当とネット動画。特筆すべき特徴といえば、人一倍強い「小心者」という性質くらいだろう。

そんな彼の人生に、地獄からの「ギフト」が届いたのは、二週間前の残業後のことだった。

悪魔の取引
深夜のオフィスで、誰もいない給湯室。ケンジがインスタントコーヒーを淹れていると、ふと背後の暗闇から声がした。

「やあ、ケンジ・サカモト。少しお時間をいただけませんか?」

振り返ると、そこには「悪魔」がいた。

悪魔は、映画で見るような赤くて角のある姿ではなく、仕立ての良い黒いスーツを着た、妙に上品な男の姿をしていた。だが、その瞳だけが、夜明け前の空のように真っ赤に光っていた。

「ひぃっ…」

ケンジは、コーヒーの粉をぶちまけそうになった。

悪魔は微笑んだ。「恐れることはありません。私はあなたに贈り物を届けに来た。対価は…そうですね、あなたの『魂』とでもしておきましょうか」

そして、悪魔はケンジに「15秒間、時を止める力」を授けた。契約の証として、ケンジの左手の甲に、炎のような奇妙なタトゥーが浮かび上がった。

悪魔は忠告した。「ただし、この力は、純粋な意志がなければ発動しない。そして、人生は一度きり。臆病風に吹かれては、私との契約が無駄になる」

そう言い残し、悪魔は煙のように消えた。

止まった世界、動かない自分
初めて力を使ったのは、翌朝の満員電車の中だった。押し潰されそうになり、思わず「もう嫌だ」と強く願った瞬間。

「ピタッ」

周囲の全てが静止した。押し潰していたはずの他人の背中はぴたりと止まり、彼の目の前で読まれていた新聞のページも、宙に舞う髪の毛一本すら動かない。世界はモノクロームの写真になったかのようだった。

ケンジは、恐る恐る動いた。時が止まっている。彼は電車の中を歩き、人々の顔を覗き込む。

そして、15秒が経過した。

「ザワッ」

世界は一瞬で動き出し、再び熱気と喧騒が戻った。

ケンジは悟った。この力は本物だ。

彼は、この力で何でもできると思った。強盗、銀行から金を奪うこと。痴漢、美しい女性に触れること。復讐、自分をいじめた上司に報復すること。

しかし、一週間経っても、彼は何もできていなかった。

第二章:小心者のジレンマ
目の前の「悪」
二週間後の火曜日。ケンジは、駅前の喫茶店で、『決行』の機会を伺っていた。

彼がターゲットに選んだのは、隣のテーブルに座る強面の男だった。男は、どう見ても善良な市民ではない。分厚い財布から札束を抜き出し、無造作にテーブルに置いている。

(今だ。時を止めて、財布から何枚か…いや、全部抜いたってバレやしない)

ケンジは、左手の甲のタトゥーを握りしめた。心臓は、警報機のように鳴り響いている。

(財布に触るだけだ。15秒あれば、ポケットに隠して、何食わぬ顔で席に戻れる)

彼は強く「時を止めろ」と念じた。

「ピタッ」

世界は再び静止した。ケンジは立ち上がった。

彼の目の前に、無防備な札束が山積みになっている。まるで、「どうぞ盗んでください」と言わんばかりだ。

しかし、ケンジは動けない。

(いや、待て。もし『止まらなかった』ら? いや、そんなはずはない。もし、『悪魔の契約』のせいで、札束に触れた瞬間、どこからか罰が下ったら?)

彼の小心さが、彼の足を地面に縫い付けていた。

(もし、盗んだ金で一生怯えて過ごすことになったら? 誰かに見られていたら? 万が一、あの男がマフィアで、報復されたらどうする!?)

「カチッ、カチッ、カチッ」。頭の中で、無慈悲なカウントダウンが響く。

彼は、札束に手を伸ばすこともできず、ただ、時間が過ぎるのを待った。

「ザワッ」

世界が戻る。強面の男は、そのまま札束を数え続けている。

ケンジは、全身から汗を噴き出しながら、コーヒーカップを握りしめた。彼は、15秒間の黄金の機会を、ただ緊張と妄想の中で浪費したのだ。

憧れと自己嫌悪
その日の夜。ケンジは、ネットのニュース記事を見ていた。

「痴漢を撃退した正義の女性!」
「特殊詐欺グループを一網打尽!」

記事を読むたび、彼の胸は締め付けられる。「自分なら、もっと簡単にできたはずだ」

もし、あの満員電車で痴漢に遭遇したら?
(時を止めて、痴漢を袋叩きにして、通報すればいい。自分は正義のヒーローだ!)

彼の頭の中では、完璧なシナリオが展開される。しかし、現実の彼の心は叫ぶ。

(痴漢が逆上したら? 自分がやったことがバレて、警察に事情聴取されたら? 会社に知られたらクビになる! それに、そもそも痴漢に声をかける勇気がない!)

力の使い道は、「悪」だけではない。「正義」も行える。だが、どちらも「行動」を伴う。そして、行動には、リスクと勇気が必要だった。

ケンジは鏡に映る自分を見た。左手の甲のタトゥーが、痛々しく光っている。

「俺は…最強の力を手に入れた、最弱の男だ」

彼は悪魔との契約を、「願いを叶える鍵」ではなく、「永遠に破れない呪い」のように感じていた。やりたいことが山ほどあるのに、何一つできない。

強欲と臆病。

二つの感情が、彼の心の中で激しく葛藤し、日々、彼の魂を削っていくのだった。

好きな人、遠い距離
水曜日。いつものように会社のエレベーターホール。ケンジは、そっと視線を斜め前に向けた。

そこにいたのは、経理部のサオリ。ふんわりとした笑顔が特徴の、ケンジが密かに恋焦がれている女性だ。

サオリは、同期のエリート社員であるタカハシと親しげに話していた。タカハシはスラリとした体躯に高価なスーツを纏い、左手首には光沢のある高級時計。

(ああ、やっぱりタカハシか…)

ケンジは胸の奥がチクチクと痛むのを感じた。

彼は思う。自分とタカハシの違いは、自信と金だ。タカハシは金があるから、ああして堂々と女性に話しかけられる。休日は高級レストランで食事をし、素敵なプレゼントを贈るのだろう。

「もし、俺がお金さえ持っていたら…」

ケンジの思考は、すぐに時を止める力へと行き着く。

(そうだ、時を止めて、タカハシの時計を盗んで売り払えば、一発で大金が手に入る。それで、サオリを誘って…)

彼の頭の中では、タカハシの時計がピタッと止まり、自分がそれをポケットに収める鮮明な映像が流れる。しかし、その映像の続きは、いつだって「警察に捕まる」か「タカハシに復讐される」という最悪の結末で終わってしまう。

エレベーターが到着し、サオリとタカハシは笑いながら乗り込んでいく。ケンジは、その背中を、ただ見送ることしかできなかった。

最後の「一押し」の欠落
午後の休憩時間。ケンジは自席で、左手の甲のタトゥーを人差し指でなぞった。

彼は再び、力を試したくなった。誰にも迷惑をかけず、誰にもバレない、純粋な自己満足のために。

彼は誰も見ていないことを確認し、心の中で強く念じた。

「ピタッ」

再び世界が静止する。キーボードを叩く同僚の指、宙を漂うホコリ、コーヒーメーカーから立ち上る湯気。全てが彫刻のように固まっている。

ケンジは立ち上がり、静止したオフィスをゆっくりと歩いた。

彼は、サオリの席まで行った。時が止まっているので、彼女はデスクで微笑んだまま固まっている。ケンジは、彼女の席の隣に立ち、たった数秒間、その静止した顔をじっと見つめた。

(サオリ…)

彼は、サオリの頬に触れようと、手をゆっくりと伸ばした。

触れる──。この単純な行為は、時が止まっていれば、倫理的な「痴漢」には当たらないかもしれない。しかし、その行為が、彼の「小心者の壁」を破る、最後の「一押し」になることは間違いなかった。

手が、あと数センチで彼女に触れる、その瞬間──恐怖が襲いかかった。

(もし、この瞬間に時が動き出したらどうする!?)
(いや、それ以前に、時を止めて誰かに触れるなんて、悪魔的な行為じゃないか!?)

彼の小心者な良心(という名の臆病さ)が、全力でブレーキをかけた。彼は、触れることなく、伸ばした手を硬直させた。

そのまま彼は、サオリのデスクに置かれた、光沢のあるペンを手に取った。

そして、そのペンを自分のポケットにそっと入れた。時が止まっている世界で、最も簡単で、最もリスクの低い「犯罪」を実行した。

英雄の気分と現実の虚無
15秒が経過し、世界は再び動き出した。

「ケンジくん、どうしたの? 立ち上がってたけど」

隣の席の先輩が尋ねる。

「あ、いや、ちょっとストレッチを…」

ケンジは慌てて席に戻り、心臓の高鳴りを抑えつけた。彼のポケットには、盗んだ100円のボールペンが入っている。

彼は、そのボールペンを握りしめながら、奇妙な高揚感に包まれた。

(俺は…やったぞ。時を止めて、物を盗んだ。世界で俺だけが知る『絶対犯罪』だ。俺には力がある

彼は、誰も気づかない小さな犯罪を犯したことで、一瞬だけ全能の神のような気分になった。この時を止める能力は、彼にとって最も安全な麻薬だった。誰も知らない世界で、「俺は特別だ」という自己満足に浸る。

しかし、その高揚感はすぐに虚無に変わった。

彼は今、時を止めて手に入れた、取るに足らない1本のボールペンを持っている。サオリはタカハシと談笑している。彼の人生は、何も変わっていない。

ケンジは、左手の甲のタトゥーを、まるで嘲笑されているかのように感じた。

「…ちくしょう」

彼は、静かにデスクに突っ伏した。彼の「最強の力」は、今日もまた、彼の「最弱の心」に打ち負かされたのだ。悪魔の与えた力は、彼の人生を変えるどころか、叶えられない欲望と自己嫌悪を増幅させる、呪いの道具になりつつあった。

──数十年後、寂れたアパートの一室

薄暗くカビ臭い、都心から遠く離れたアパートの一室。

ケンジは、もう老人になっていた。

彼の人生は、あの悪魔との契約以降も、驚くほど「平凡」なまま終わった。オフィスでの昇進は最低限。恋焦がれたサオリは、結局タカハシと結婚した。ケンジは結婚することもなく、定年を迎え、今は年金と僅かな貯金で、このおんぼろなアパートで一人暮らしをしている。

身体はもう、思うように動かない。背中は曲がり、視力も衰えた。窓から差し込む夕焼けの光だけが、壁のシミをぼんやりと照らしていた。

(これで、終わりか…)

彼は布団の上で、冷たい天井を見上げていた。もうすぐ死ぬ。それは理解していた。

最後の発動
ふと、彼の左手の甲が、チリリと微かに熱を持った。数十年間、ほとんど使われることのなかった、炎のようなタトゥー。

(…そうか、まだ持っているのか。あの力を)

若き日の強欲と、それを打ち砕いた臆病さの象徴。あの力を、もう一度、使ってみたいと思った。何かをするためではない。ただ、契約の確認のために。

ケンジは、かすれた意識の中で、あの日のように強く「時を止めろ」と念じた。

「ピタッ」

静寂が、ケンジの小さな世界を支配した。部屋の外を走る車のエンジン音も、隣の部屋から聞こえるテレビの音も、全てが消え失せる。

窓の外を舞っていた、一筋のホコリが、空中で凍結している。時計の秒針は、ぴたりと止まった。

「…まだ、効くのか」

ケンジの顔に、老人特有の深く刻まれた皺が寄る。時が止まった世界で、彼だけが、ゆっくりと、しかし確実に「動ける」はずだった。

彼は、布団から身を起こそうと、腕に力を込めた。

しかし、動けない。

老衰し、骨と皮になった彼の身体には、立ち上がる力すら残されていなかった。布団から身を起こし、その辺の物を盗む体力も、窓から脱出して何処かへ向かう活気も、全てが尽きていた。

後悔という名の呪い
「カチッ、カチッ、カチッ…」

時が止まった世界で、彼の頭の中だけに、カウントダウンが響く。15秒の黄金時間。

彼は、その無限の可能性に満ちた静止した世界の中で、ただ寝たきりのままだった。

(…ああ)

ケンジは、静かに、笑った。そして、泣いた。

若き日、彼は力を使いこなせなかった。なぜなら、「行動する勇気」がなかったからだ。強盗も、痴漢も、恋する女性への告白も、全ては「失うことへの恐れ」に負けた。

そして今、力を発動させても、「行動する力」、すなわち体力がなかった。

「…俺に、足りなかったのは…能力じゃ…なかった」

彼の唇から、苦い独白が漏れる。

「勇気だ…。あの時、もし、あの15秒間に…何かをする勇気さえあれば…」

強盗で大金を手に入れる勇気。痴漢を捕まえる勇気。上司に反抗する勇気。サオリの腕を掴む勇気。

そのどれか一つでもあれば、この孤独で、惨めで、平凡な人生は、全く違うものになっていたかもしれない。

「ザワッ」

15秒が終わり、再び、騒々しい日常の音が戻ってきた。止まっていた時計の秒針が、チクタクと無情に時を刻み始める。

ケンジは、何も変わらない、動いている世界の中で、動けないまま横たわっていた。

残された彼の意識には、「あの時、なぜ動けなかったのか」という、ひたすらな後悔だけが、黒い粘液のようにへばりついていた。

人生は、一度きり。

悪魔の言葉が、今、老いて死を待つ彼にとって、何よりも重い呪いとなって響く。

──彼の最後の意識は、「勇気がなかったこと」への、無限の悔恨だけを残して、ゆっくりと闇に溶けていった。

新生代

「あー、今日もお月様が綺麗だねぇ、『オリオン』」

リョウは、慣れた手つきでメインコンソールに数値を入力しながら、独り言をつぶやいた。窓の外には、漆黒の宇宙に浮かぶ青と白のマーブル模様—地球—が、息をのむほど美しく輝いている。ここ、地球から約400キロメートル上空に浮かぶ国際宇宙ステーション『オリオン』での勤務も、彼にとってはもう3年目。25歳、ステーション最年少のフライトエンジニアだ。

今夜も、いつもと変わらない夜のはずだった。午後のメンテナンスも終え、夜勤の引き継ぎまであとわずか。ステーション内の空気は、人工的な換気音と機器の微かな作動音だけが響く、静謐な空間だった。

その静寂が、破られたのは、リョウがコーヒーマグを手に取った、まさにその瞬間だった。

異変の始まり
「ピ…ピ…ピ…緊急事態発生!」

けたたましい警報音が、ステーションの居住モジュールに鳴り響いた。赤色の警告灯が点滅し、リョウの心臓が不規則なリズムを刻み始める。

「な、なんだ!? 機器の故障か? それとも…デブリ?」

彼は反射的に、コンソールにある『異常検知ログ』を呼び出した。通常の警報であれば、原因はすぐに特定される。しかし、画面に表示された情報は、彼の思考をフリーズさせた。

エリア:科学実験モジュール3(KIBO-EX)
種別:未確認バイオマス反応
挙動:高移動速度、不定形、発光
アクセス:モジュール密閉、プロトコルα発動
「バイオマス? まさか…生物?」

リョウの脳裏に、SFホラー映画のワンシーンがよぎる。ここは真空の宇宙。地球外生命体? そんなこと、ありえない。

「落ち着け、リョウ。きっとセンサーの誤作動だ」

彼は自分に言い聞かせ、通信ヘッドセットを装着した。

「こちらフライトエンジニア・リョウ。中央管制室へ。科学実験モジュール3で警報。状況を報告せよ!」

応答がない。通常なら秒で返ってくるはずの、同僚の声が聞こえない。

その時、彼の背後、居住モジュールと科学モジュールを繋ぐハッチから、奇妙な音が響いた。

「ヌチャ…ヌチャ…」

水気を含んだ、粘性の何かが這うような音。そして、微かなアンモニア臭。

リョウは、ゆっくりと、恐る恐る振り返った。

謎の生物との遭遇
ハッチの窓は、分厚い強化アクリル製だ。しかし、その向こう—科学モジュール側の空間に、何かがいた。

それは、不定形だった。ドロドロとした黒いゼリー状の塊が、科学機器や壁を溶かしながら、ゆっくりと、しかし確実に、這い回っている。大きさは、バスケットボールほど。内部では、緑や青の光が不規則に点滅し、まるで生きているネオンサインのようだった。

「ひぃっ…」

リョウは、思わず声を漏らした。それは、彼の知るいかなる生物とも似ていなかった。地球の生物ではない。

謎の生物は、ハッチの窓ガラスに張り付いた。

「ジュゥゥゥ…」

高温の鉄板に水を落としたような音と共に、強化アクリルが白濁し始める。溶けているのだ。

「ダメだ! このハッチじゃ持たない!」

リョウはパニックに陥った。逃げなければ。

彼は、反対側の『作業モジュール』へと続くハッチに、体当たりするように駆け込んだ。緊急ロックを起動させ、ハッチを閉める。カチリ、カチリ、とロックピンが作動する重い金属音が、わずかな安心感をもたらす。

逃走と孤立
リョウは、無重力空間を蹴るようにして、作業モジュールの細い通路を奥へと進んだ。心臓は爆発しそうで、呼吸は荒い。彼は今、完全に孤立している。

(管制室は?他のクルーはどこに!?)

彼は作業用端末を手に取り、クルーのバイタルサインをチェックしようとした。

「……圏外? 通信途絶!?」

画面には、『全ての内部通信が遮断されました』という無慈悲なメッセージ。同時に、クルーたちのバイタルサインも『信号ロスト』を示していた。

(みんな…やられたのか? あの生物に?)

リョウの脳裏に、悲劇的な想像がよぎる。彼は、ステーションが既に謎の生物に制圧されていることを悟った。

彼は作業モジュールの奥、小型の緊急脱出ポッド『アレス』が格納されている区画を目指した。脱出ポッドは、彼に残された最後の希望だ。

「ここなら…!」

作業モジュールの壁を伝って進む途中、リョウは再び恐怖の音を聞いた。

「バチャ…ドロッ…」

今度は、彼のすぐ近く、作業モジュールと電力モジュールを繋ぐ、細い通気ダクトの奥から。音は、複数になっている。

(増えている!?)

通気ダクトの格子が、ぐにゃりと歪む。その隙間から、黒い触手のようなものが、ヌルリと伸びてきた。先端には、あの不気味なネオンサインのような光が点滅している。

「うわあああ!」

リョウは叫び声を上げ、持っていた作業用レンチを触手に投げつけた。

キンッ、と軽い金属音。レンチは、触手に触れた瞬間、溶けてしまった。

彼は慌てて身体を反転させ、来た道を戻る。

「脱出ポッドまでは、まだ遠い!」

リョウは、無重力下という普段は友好的だった空間を、今は敵として感じていた。一瞬の油断も許されない、闇の中の鬼ごっこ。

彼は、クルクルと回転しながら、壁を蹴り、宙を舞い、ひたすら逃げ惑う。『オリオン』は、もはや宇宙に浮かぶ、巨大な棺桶と化していた。彼の鼓動と、背後から迫る粘性の音が、ステーションに響く唯一の生命の証だった。

(頼む…誰か…)

リョウは、希望と絶望の狭間で、ただひたすら、『生きる』ことだけを考え続けていた。
第四章:最後の賭け—武器の探求
リョウは、作業モジュールの通路を滑るように進み、緊急脱出ポッド『アレス』のある区画を諦めた。

(ダメだ。あの数で待ち伏せられたら、ポッドに辿り着く前に溶かされる)

黒い生物—リョウは心の中でそれを『シェイド』と名付けた—は、液体のようにステーションの内部構造を這い回り、増殖している。逃げ回るだけでは、ただ死を待つだけだ。

「戦うしかない…」

彼は覚悟を決め、方向転換した。向かう先は、ステーションの『中央物資貯蔵庫』だ。そこには、宇宙での作業やメンテナンスに使われる、あらゆるツールが格納されている。

しかし、貯蔵庫は、彼が最初に逃げ込んだ居住モジュールを通り過ぎ、さらに奥にある、ステーションの中心部に位置していた。

危険な居住モジュール横断
リョウは、腰のツールベルトに引っかかっていた、残りの二酸化炭素消火器(CO2消火器)を掴んだ。これが、彼に残された唯一の『武器』だ。

(奴らは熱で溶かす。なら、極低温でどうだ?)

CO2消火器から噴射されるガスは、ドライアイスとなり、瞬時に周囲を冷却する。この極低温が、不定形のシェイドに通用するかどうかは、生き残りの鍵となるだろう。

居住モジュールのハッチに手をかけ、一瞬躊躇した。このモジュールは、警報が鳴り響いた場所のすぐ隣だ。

「やるしかない」

彼はハッチを開け、モジュールに突入した。

居住モジュール内は、真っ赤な緊急灯に照らされ、異様な静けさに包まれていた。宙には、同僚の私物や備品が、力なく漂っている。そして、床には…

「うっ…」

リョウは思わず口元を押さえた。床の金属が黒く焼け焦げ、まるで酸で溶かされたかのように変色している。そして、所々に透明な粘液がこびりついていた。シェイドが通った跡だ。

彼は足音を立てないように、宙を滑るように進む。心臓は喉元で暴れ、耳鳴りがする。

その時、頭上の換気口から、「ヌチャ…」という湿った音が聞こえた。

リョウは咄嗟に身体を反転させ、換気口に向けてCO2消火器のノズルを向けた。

換気口の隙間から、黒い塊が液状となって、流れ落ちてくる。

「はあああああ!!」

リョウは叫びながら、消火器のレバーを全力で握りしめた。

「シューーーッッ!!」

一瞬にして、極低温の白いガスが噴射され、黒い塊を包み込んだ。

シェイドは、悲鳴のような高周波音を発したかと思うと、一瞬で灰色に変色し、カチカチに凍結した。その動きは完全に止まり、不定形だった身体は、脆い氷の彫刻のようになった。

(効いた! 極低温が奴らの不定形な構造を一時的に固定できる!)

しかし、喜んだのも束の間。凍結した塊は、すぐに内部から緑色の光を放ち始め、ひび割れた。

バリンッ!

氷の破片が飛び散り、シェイドは再び黒い粘液となって、リョウのヘルメットめがけて飛びかかってきた。再生速度が速い。

リョウは、間一髪で身体を捻り、シェイドの攻撃を避けた。彼はそのまま、居住モジュールを飛び出し、貯蔵庫へと続く細い通路に飛び込んだ。

中央物資貯蔵庫のハッチは、頑丈な二重構造になっていた。

「頼む…!」

彼は震える指でロックコードを入力し、ハッチを無理やり押し開けた。内部は、予備のEVAスーツ(船外活動服)、酸素ボンベ、そして無数の作業ツールが整然と並ぶ、物資の山だった。

リョウは、貯蔵庫の棚を漁り、目当てのものを探した。

「これだ…!」

彼は、棚の奥から二つのアイテムを掴み取った。

一つは、高性能溶接トーチ。宇宙構造物の修理に使う、強力な高熱ジェットを噴射するツールだ。凍結で一時的に動きを止め、高熱で完全に焼き切る。これが対シェイド最終兵器となる。

もう一つは、予備のEVAスーツ用バッテリー。これを全身に帯びていた緊急用高電圧ケーブルに繋いだ。

(溶かす力が電撃に耐えられるか…)

リョウは、ケーブルの先端を剥き出しにし、電撃ムチのように構えた。強力な電気ショックは、不定形な生物の内部構造を混乱させる可能性がある。

全身に重装備を纏ったリョウは、ハッチを閉め、貯蔵庫の出口で立ち止まった。

彼は、溶接トーチを起動させた。「ゴオオオ…」という低い炎の唸りが、静寂なステーションに響き渡る。

「逃げるのは、もう終わりだ」

彼は一呼吸し、『オリオン』の通路に一歩踏み出した。彼の全身を、戦闘準備を完了したことによる、張り詰めた緊張感が満たしていた。
ョウは、溶接トーチの轟音と共に通路へ飛び出した。彼の視界には、作業モジュールから続々と這い出てくる三体のシェイドが映っていた。

「来い!」

彼は叫び、トーチのノズルを最大出力に調整した。青白い高熱ジェットが噴射される。

火炎と電撃
リョウは、まず一体のシェイドを狙った。ジェットが黒い粘液に接触した瞬間、「ジュウウウッ!」という激しい音と共に、シェイドは白煙を上げ、急速に蒸発し始めた。

(効く!熱で蒸発させられる!)

しかし、蒸発するスピードよりも、シェイドが自己修復し、分裂するスピードのほうが速かった。蒸発しかけた本体から、野球ボールほどの小さな塊が飛び出し、壁に張り付いて、再び成長を始める。

リョウは次の一体に狙いを定め、トーチを振り回した。すると、残りの一体が、通路の天井を伝って、リョウの背後に回り込もうとした。

「させるか!」

彼は即座に、予備バッテリーに繋いだ高電圧ケーブルを、背後のシェイド目掛けて鞭のように振り下ろした。

「バチイイイイイッ!!」

青い火花が散り、シェイドの不定形の身体に激しい電撃が走った。シェイドは、痙攣したかのように一瞬固まり、その内部で点滅していたネオンのような光が激しく乱れた。

電撃は、一時的に奴らの動きを封じることができた。しかし、次の瞬間、シェイドの体表から、焦げ付いた黒い粘液が剥がれ落ち、内部から光沢のある新しい粘液が湧き出し、電撃のダメージを吸収してしまった。

(ダメだ!熱は奴らを分散させるだけ、電気は再生力が上回る!)

彼の渾身の攻撃は、シェイドたちを足止めすることに成功したが、決定的なダメージを与えるには至らなかった。それどころか、戦闘の騒音と熱を感知し、ステーションのあらゆる通気口やダクトから、さらに多くのシェイドが這い出してくる気配を感じた。

リョウは、追い詰められていく。彼が立っているのは、ステーションの心臓部に近い通路。これ以上逃げ場はない。

絶望と最後の選択
リョウは、トーチの残量を示すゲージを見た。もう長くは持たない。彼の呼吸は浅く、焦燥感で全身が震えていた。

(このままでは、時間の問題だ。ステーションが完全に奴らに侵食される)

シェイドは、単に生物を捕食するだけでなく、ステーションの機器や配線まで溶かし、侵食している。彼らがこのまま増殖すれば、『オリオン』は宇宙の疫病巣となり、地球に落下すれば未曽有の大惨事を引き起こしかねない。

「この怪物どもを、宇宙から消し去らなければならない」

リョウの脳裏に、一つの恐ろしい、しかし唯一の選択肢が浮かび上がった。

『ステーションの自爆』

『オリオン』には、万が一のデブリ衝突や軌道離脱の事態に備え、予備の推進剤タンクと、それを意図的に爆発させるための緊急プロトコルが存在する。目的は、ステーションを軌道上で完全に粉砕し、二次被害を防ぐことだ。

リョウは、背後から迫るシェイドの大群に、トーチの残りの炎を浴びせながら、叫んだ。

「メインリアクターへ向かう!」

彼の目的地は、ステーションの中央制御コア。そこにある緊急破壊プロトコルを起動させなければならない。

決意の奔走
リョウは、もはや躊躇しなかった。彼は、溶接トーチをシールドのように構え、ケーブルをムチのように振り回しながら、シェイドの群れを強行突破し始めた。

シェイドは、通路を黒い川のように埋め尽くしていた。リョウが通るたび、粘液が彼のEVAスーツにへばりつき、「ジュウ…ジュウ…」と音を立ててスーツの表面を溶かそうとする。

(動け! 動け!)

彼は、無重力空間を全身の力で蹴り、制御コアへと続くハッチを目指した。

ハッチの前で、最も大きなシェイドが立ちはだかっていた。それは、複数のシェイドが合体したかのような、巨大な塊だった。

リョウは、その巨大な塊に、躊躇なく溶接トーチの最後の燃料を叩き込んだ。

「ゴオオオオオオッ!!」

数秒間、炎と黒い粘液の凄まじい攻防が繰り広げられた。トーチの炎が途切れた時、リョウは、電撃ケーブルを塊の中心に突き刺し、フルパワーの電流を流し込んだ。

バチイイイイイイイイイッ!!!!

シェイドは断末魔の叫びのような高周波を発し、全身を激しく痙攣させた。その一瞬の隙に、リョウはハッチを蹴破り、制御コアへと滑り込んだ。

ハッチが閉まる直前、黒い粘液の触手が、ハッチの隙間から忍び寄る。

リョウは、震える手で緊急ロックを起動させ、全身の力を使い果たしたように、メインコンソールに身を投げ出した。

彼の目の前には、『自爆シーケンス』と大書された、赤いボタンが光っていた。

自爆シーケンスの発動
リョウは、中央制御コアのメインコンソールに、全身の重みを預けた。彼の眼前で、『自爆シーケンス』の赤いランプが、脈打つように点滅している。

ハッチの外では、シェイドの群れが、金属を溶かす音と共に猛烈に押し寄せていた。ハッチの強化金属が「ジュウゥゥ…」と悲鳴を上げ、白煙を上げ始める。

「時間がない…」

彼は最後の力を振り絞り、コンソールの認証パネルに、管理者IDと生体認証を叩き込んだ。

『プロトコル:オリオン破壊(ORION DESTROY)』

画面に警告メッセージが点滅する。

警告:不可逆操作。軌道上の完全消滅を確認。

最終確認:実行しますか? (Y/N)

リョウは、シェイドに侵食され始めたハッチを睨みつけ、「Yes」ボタンに、迷いなく指を押し込んだ。

「ピィーーーーーーーーーッッッ!!」

ステーション全体を揺るがす、これまでの警報とは比べ物にならない、絶叫のような警報音が鳴り響いた。

メインコンソールに、巨大な文字でカウントダウンが表示される。

「T – 02:00:00」

残り時間、2分。

ステーションの予備推進剤タンクへの燃料注入が始まり、構造体全体に振動が走った。これで後戻りはできない。彼が脱出ポッドに辿り着くか、シェイドに捕まるか、それともステーションと共に宇宙の塵となるか、全てはこの2分間にかかっている。

脱出ポッド『アレス』へ
リョウは、制御コアを飛び出した。先ほどトーチと電撃で足止めしたシェイドたちは、すでに再生を終え、通路で黒い波のように蠢いている。

「どけえええ!」

彼は、もはや攻撃のための電力も燃料も残っていないトーチとケーブルを放り捨て、残されたEVAスーツの小型スラスターを最大噴射させた。

加速!

彼は、猛烈なスピードでシェイドの群れを突っ切った。黒い粘液が彼のスーツに飛び散り、「シュウ…」と音を立てて熱を奪っていく。痛みと熱を感じながらも、リョウは一心不乱に、作業モジュールへと向かっていく。

ステーションの振動は激しさを増し、天井のパネルが剥がれ落ち始めた。

「T – 01:00:00」

残り1分。

作業モジュールに辿り着いたリョウは、通路の奥に格納された緊急脱出ポッド『アレス』の銀色の筐体を見つけた。彼の胸に、一筋の希望が走る。

しかし、その希望はすぐに絶望に変わった。

ポッドの周囲を、十数体のシェイドが黒い渦のように取り囲んでいたのだ。彼らは、リョウが自爆プロトコルを起動させたことで、最後の出口に集結していた。

最後の激闘
「くそっ!」

リョウは、呼吸を整える暇もなく、ポッドに突撃した。

彼は、スーツの硬いブーツで、群れの中心にいるシェイドを思い切り蹴りつけた。シェイドは、その衝撃で一時的にポッドから離れる。

リョウは、ポッドの外壁のハッチを掴むと、認証パネルに血だらけの手を押し付けた。

『認証成功』

ハッチが「ブシューッ」と音を立てて開き始める。

「T – 00:30:00」

残り30秒。

シェイドたちが、彼めがけて津波のように押し寄せてきた。

リョウは、開いたハッチの隙間に身体をねじ込みながら、腰のツールベルトに残っていたサバイバルナイフを抜き、迫りくる粘液を必死に切り裂いた。ナイフはすぐに溶け始めたが、ポッドの内部に入るための数秒間を稼いだ。

彼はポッドの狭いコックピットに転がり込み、渾身の力でハッチのレバーを引いた。

ガシャン!

ハッチが閉じる。その瞬間、ハッチの外側を、黒い粘液がべったりと覆い尽くした。

「早く! 早く!」

リョウは、震える手でポッドの射出プロトコルを起動させた。

「T – 00:05:00」

メインリアクターの爆発まで、残り5秒。

宇宙への射出
ポッド内部の警報が、制御コアの警報と同期してMAXIMUMに達する。

ポッドが、「ドォン!」という凄まじい轟音と共に、格納庫のレールを滑り始めた。

「T – 00:01:00」

リョウの身体が、強烈なGに押し付けられる。

ゼロ。

ポッドが、ステーションの外壁を突き破り、漆黒の宇宙空間へと射出された!

リョウは、コックピットの小さな窓から、背後を振り返った。

巨大な国際宇宙ステーション『オリオン』が、一瞬、全てを飲み込む巨大な炎に包まれた。推進剤タンクとメインリアクターの爆発は、想像を絶する規模だった。

白とオレンジの閃光が、広大な宇宙の闇を一瞬だけ照らし、『オリオン』の巨大な構造体は、熱と衝撃波によって一瞬で粉砕された。

その光景は、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲劇的だった。

リョウの脱出ポッドは、爆発の衝撃波をかすめながら、静かに地球の軌道に乗った。

彼は、ポッドのコックピットで、全身の力が抜けていくのを感じた。

(終わった…)

黒い粘液の怪物も、そして彼の愛した宇宙ステーションも、今、全てが消滅した。

リョウの目からは、涙が流れ出た。それは、恐怖と安堵と、失われた全てへの哀悼の念だった。彼は、窓の外に広がる、永遠の静寂に身を委ねながら、救助を待つことしかできなかった。

彼は、たった一人、この地球外の恐怖との戦いに、生き残ったのだ。

脱出ポッド『アレス』の内部は、静寂に包まれていた。リョウは、背もたれに深く沈み込み、荒い息を整える。全身の筋肉が痙攣し、スーツのセンサーが彼の極度の疲労を警告していたが、今はもう、その警告も気にならなかった。

窓の外に広がるのは、満天の星空。その中に、かつて『オリオン』が存在した場所には、ただの空虚が残されていた。

しばらくして、ポッドのメインコンソールに、微かながら『信号受信』を示すランプが点灯した。

「…地球か?」

リョウは、かすれた声で呟き、パネルを操作した。画面に、粗いながらも地球管制局からのメッセージが表示される。

アレス 1:信号確認。
貴機の軌道、および地球大気圏への再突入シークエンスを確認。
現在、貴機は救助可能圏内にあります。
予定到着エリア:太平洋上、着水時刻までT – 4時間。
繰り返す。生還おめでとう。
「生還…」

その言葉が、リョウの凍てついた心を、ゆっくりと溶かし始めた。彼の脳裏に、自爆を決意した時の張り詰めた緊張、シェイドとの決死の攻防、そして『オリオン』が光の爆発となって消えた瞬間が、走馬灯のように蘇る。

彼は、生き延びたのだ。

安堵と涙
T – 4時間。地球への到着まで、まだ長い。しかし、リョウはもう、宇宙の闇の中で孤独ではない。管制局との断続的な通信が、彼を地球へ繋ぎ止めてくれている。

ポッドの窓の外、漆黒の中に、青く、そして優しく輝く地球の姿が、次第に大きく見え始めていた。あの惑星には、暖かい空気があり、愛する人々がいる。そして、『シェイド』のような脅威は存在しないはずだ。

リョウは、ヘルメットの気密を解除し、深く息を吸った。ポッドの人工的な空気の中に、安堵の匂いが混じる。

彼は、顔を覆い、しゃくりあげた。それは、恐怖からの解放と、失った全てに対する悲しみが混ざり合った、安堵の涙だった。

「…帰れる」

絞り出すように呟いたその言葉は、もはやフライトエンジニアとしての強がりでも、クルーの責任感でもなく、ただの20代の青年としての、純粋な叫びだった。

ポッドは、微かな噴射音を上げながら、地球の重力圏へと引き寄せられていく。リョウは、もう一度、故郷の星を見上げた。

あの悪夢は、宇宙に残してきた。

そして彼は、シートベルトを締め直し、わずかながら残る体力で再突入の準備を始めた。リョウの、『オリオン』から始まった、あまりにも長すぎる一日が、もうすぐ終わろうとしていた。

場所は変わり

豪華な調度品で飾られた、広大な円卓会議室。窓の外には、煌めく東京の夜景が広がるが、室内の空気は重く沈んでいた。円卓を囲むのは、世界の経済と科学の頂点に立つ、十数名の男女。彼らの表情は、一様に硬い。

「…以上をもちまして、国際宇宙ステーション『オリオン』の、現在の状況に関する報告を終了します」

モニターに映し出されていた、炎上し粉砕された『オリオン』の残骸映像が消え、報告官の声が会議室に響いた。

静寂。

やがて、円卓の最上座に座る、白髪の老人が静かに口を開いた。彼の目は、窓の夜景ではなく、テーブルの上の資料に向けられていた。

「…つまり、『プロジェクト・オリジン』は、失敗と見てよろしいのですか、博士?」

老人の視線が、円卓の一角に座る、神経質そうな表情の科学者に向けられた。博士と呼ばれた男は、眼鏡を押し上げ、咳払いを一つした。

「現在の状況から判断するに、計画通りには進んでおりません、議長。被験体『バイオ・スライムα』は、予測をはるかに超える増殖能力と適応能力を示し、結果としてステーションを完全に破壊。我々の目的である『環境改変型生物兵器』としての運用は、現段階では不可能と判断せざるを得ません」

室内に、ざわめきが広がった。

「不可能? しかし、膨大な費用と時間を投じて開発された兵器でしょう!」
「一体、何が問題だったのだ?」
「地球外環境で制御不能になったものが、どうして地球上で制御できると?」

「リュウの行動は…」
「静粛に」

議長の低い声が、ざわめきを鎮めた。彼は再び博士に目を向けた。

「では、あのフライトエンジニアの『リュウ』とかいう若者の行動は?」

博士はモニターに、リョウが脱出ポッドに乗り込む直前、必死でシェイドと戦う映像を映し出した。

「彼は、我々の『被験体』に対し、CO2消火器による凍結、溶接トーチによる高温蒸発、そして高電圧ケーブルによる電撃、これら全てを試行しました。特に、凍結による一時的な固定化、そして高温による完全な破壊は、データとして非常に興味深いものです」

議長の眉間に、深い皺が刻まれた。

「つまり、彼の『必死の抵抗』は、我々の『実験データ』として、有効利用されたと?」

博士は、薄い笑みを浮かべた。

「その通りです、議長。彼は知らず知らずのうちに、最高の被験者として、我々に貴重なデータを提供してくれました。彼の行動パターン、恐怖反応、そして機転。全てが、被験体αの『対人適応能力』を測る上で、重要な情報です」 「そして、最終的にステーションを自爆させた判断。これにより、被験体αの『自己増殖限界』と、『対外部環境への耐久性』を測ることができました。宇宙空間での爆発によって、被験体αは完全に消滅したと見て間違いないでしょう」

終わらない悪夢
その言葉に、室内に安堵の息が漏れた。しかし、議長の表情は晴れない。

「…では、我々の手元には、より強力な生物兵器の設計図が残された、ということか」

博士は深々と頭を下げた。

「その通りです。今回の失敗を糧に、『プロジェクト・オリジン2.0』は、より完璧な形で再始動できるでしょう。次回の被験体は、分散・増殖能力の抑制、そしてより高い致死性を付与することで、確実に『敵対勢力の環境を汚染・破壊する』兵器としての完成度を高めます」

会議室は、再び静寂に包まれた。

その頃、地球の青い空の下、リョウを乗せた脱出ポッド『アレス』は、救助ヘリの誘導を受けながら、広大な太平洋の海面に着水しようとしていた。

リョウは、地球に帰還できることに安堵し、悪夢は終わったと信じていた。しかし、彼が知る由もない。彼が命がけで戦い、多くのものを失って阻止した「宇宙の恐怖」は、地球の高層ビルの一室で、形を変えて、再び生み出されようとしていることを。

そして、その新たな悪夢が、いつか地球に解き放たれる日が来ることを。

GAME3

第6章:静寂の中のノイズ

ゲームセンター「ゴールド・ラッシュ」での生活は、表面的には平穏だった。キリは用心棒として、リアムは店の「看板娘」として、元プレイヤーたちと協力し、現実での生活を築いていた。リアムは成長を続け、キリは初めて、銃声のない日々がもたらす心の安寧を知りつつあった。

しかし、キリの感覚は、静寂の中に微かなノイズを拾い続けていた。

  • ある日、リアムの通学路で見かけた電柱の影が、一瞬だけ青い格子状の模様を帯びて消えた。
  • キリが警備中に激しい頭痛に襲われた際、視界の隅に**【NEW OBJECTIVE: Assimilate into Reality】**という、見慣れないメッセージが浮かび上がった。
  • 最も決定的なのは、リアムの父親、開発責任者だった男だ。彼はリアムが目覚めて以来、常に憔悴しきっており、ある日、キリにこう打ち明けた。

「キリさん…私は、リアムを救えなかったのかもしれない。あのゲームからログアウトできたのは、あなたとリアムの意識だけだ。我々の肉体は…まだあのVRポッドの中にあるのかもしれない」

男の目には、深い恐怖があった。彼は、この**「現実」の世界を、まるで『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**よりも精巧に作られた、第二の仮想現実ではないかと疑い始めていたのだ。

キリは耳を疑った。あの死闘をくぐり抜け、ようやく手に入れた現実、リアムとの新しい生活が、またしても偽物だというのか?

「冗談はよせ」キリは男の襟首を掴んだ。「リアムは、成長している。ゲームのシステムじゃない」

「それが恐ろしいんです!この世界は、『ゴールデン・スクラップ』のトラウマを治療するために、リアムの無意識が作り出した、完璧なシェルターなのかもしれない。彼女の**『成長したい』**という願いさえ、システムが再現しているとしたら?」

第7章:現実のコード

その夜、キリは決断した。この疑念を晴らすには、もう一度**「システムのエラー」**を見つけるしかない。

彼は、ゲームセンターのサーバー室に忍び込んだ。リアムの父親が設計した、この**「現実」「ゲーム」**を繋ぐ最後の接点だ。

キリがサーバーの冷却装置に触れた瞬間、激しい電撃が走った。そして、彼の視界が、かつてゴールド・スクラップで見たようにバグった

【SYSTEM OVERWRITE INITIATED. LAYER 2 — ‘THE HEALING REALM’ — STABILITY 99%.】

【PLAYER ‘KIRI’ ALERT: Malfunction detected. Accessing Deep Log.】

キリの意識は、サーバーが発する膨大なデータストリームに巻き込まれた。

彼の目に入ってきたのは、信じられないログだった。彼の**『ゴールド・スクラップ』での殺し屋としての人生、リアムとの出会い、全てが『LAYER 1: SCENE 1-50』**として記録されていた。

そして、この現在の**「現実」**の生活もまた、ログの一部だった。

【LAYER 2: THE HEALING REALM. SCENE 1: Hospital Awakening. SCENE 15: Gold Rush Employment. SCENE 40: Parental Acceptance.】

キリがリアムを育て、愛し、人間的な感情を取り戻す過程そのものが、プログラムされていたのだ。

ここは、バーチャルリアリティの中で、さらに意識を保護するために作られた、より高次のバーチャルリアリティだった。

彼の心臓が冷たくなった。この街の静けさ、穏やかな人々、リアムの成長…すべてが、自分たちの精神を安定させるための、精巧なシミュレーションだった。リアムの父親の肉体も、キリの肉体も、まだ、最初のVRポッドの中で、チューブに繋がれたままなのだ。

彼は、この「現実」を構成するコードの深層で、リアムが残した一文を見つけた。

【LIAM’s Wish: I want to grow up with Kiri. Please make the next reality gentle.】

リアムが、システムに唯一残した、純粋な願い。この世界は、リアムがキリと穏やかに成長するために作られた、優しい檻だったのだ。

最終章:真のログアウト

キリはサーバー室から飛び出した。彼の顔は、再び殺し屋のそれに戻っていた。彼が恐れたのは、二度目の騙しではなかった。リアムがこの優しいバーチャル世界から覚めたとき、再びあの孤独なシステムの核に戻ってしまうことだった。

彼はゲームセンターのリアムの元へ向かった。リアムは図鑑を広げ、笑顔で彼を迎えた。

「お父さん、おかえりなさい!」

キリはリアムを抱きしめた。

「リアム。俺たちは、また騙されていた。ここは現実じゃねぇ。ただの夢の続きだ」

リアムの顔から笑顔が消えた。彼女は、システムの核として、既に薄々気づいていたのだろう。

「でも…ここには、銃声がない。お金のために人を殺さなくてもいい。お父さんは、笑ってくれる…」

「だが、このままじゃ、お前は永遠にこの世界を維持するシステムのままだ。現実の肉体は、いつか死ぬ。俺は、最後の現実へ、お前を連れて行きたい」

キリは、サーバー室で手にしていたシステム破壊用の緊急ドングルを、自身の首筋に深く突き刺した。これは、二重のシステム全てを強制的にシャットダウンし、最上層の現実へ意識を強制送還するための、究極のログアウトキーだった。

世界が、激しい赤と黒のピクセルに覆われた。

リアムの悲鳴が聞こえる。全てが崩壊する中、キリはリアムの耳元で囁いた。

「大丈夫だ、リアム。俺が見つけたんだ。三度目の現実で、必ず、お前を育ててやる」

視界は、ついに完全にブラックアウトした。


エピローグ:最上層

意識が戻ったとき、キリは再び、白い光と消毒液の匂いに包まれていた。

しかし、以前と違うのは、目の前にあったのはVRポッドではなく、窓の外に広がる、澄んだ青空だった。

キリと、隣のベッドで眠るリアムの肉体は、無菌室のような場所で横たわっていた。二人には、VRゲームではなく、生命維持装置だけが繋がれている。

そして、その部屋の隅に、憔悴しきったリアムの父親が、涙を流しながら座っていた。

「…キリさん。あなたは、本当にリアムを連れ戻してくれた。ここが、最後の現実だ」

キリは、自分の細い腕を見て、そして、リアムの顔を見た。この静寂と無機質な空間が、真の現実だった。

キリは、リアムの手を握った。

「…つまらねぇな」

彼は呟いた。殺し合いも、システムエラーもない、ただの病室

だが、キリはリアムの小さな手のひらを、優しく撫でた。

「だが、約束通りだ。最後の現実で、俺がお前を育てる。…殺し屋じゃなく、父親としてな」

キリは、バーチャルで獲得したを胸に、本当の現実という、最も困難なゲームに立ち向かう決意をした。彼の瞳には、もうネオンの光も、システムの文字も映らない。ただ、**愛するリアムという『現実』**だけが、輝いていた。

GAME2

第4章:色褪せた世界での再会

病院を出たキリとリアム(ゲーム内でのリオン)は、リアムの父親が用意した都心から離れたアパートの一室で、新しい生活を始めた。父親は罪悪感と安堵から、生活のサポートを申し出たが、キリは「金はいらん。この子の父親は俺だ」と一蹴した。

しかし、現実はゴールド・スクラップのように、鉄と暴力で解決できるほど単純ではなかった。

現実は、あまりにもつまらなかった

キリは、静寂に慣れるのに苦労した。夜中でも絶え間なく響いていた銃声やネオンのノイズがない。誰もが自分のスマホを見つめ、キリのように殺気立っている人間はいない。

「キリ、また窓の外を見ているの?」

リアムの声で、キリはハッとした。リアムはソファで古い図鑑を広げている。あんなに小さな体で、システムの核として世界を支えていた少女が、今、病的なまでに痩せてはいるが、穏やかな表情で成長を始めている。

「…ああ。この街は、ゴールドがゴミのようだ」

キリにとって、お金は命の価値を決める絶対的な基準だった。だが、現実の紙幣やデータは、触れても何も感じない。稼ぎ方も分からない。

殺し屋としてのスキルは、現実では何の役にも立たなかった。

「お父さん(キリ)、仕事を見つけなくちゃ」リアムが言った。「このままじゃ、生活費が尽きちゃう」

キリは、自分の無力さに苛立った。ゲームでは最強のキラーだった自分が、現実では無職の居候だ。

彼はアパートを飛び出した。そして、無意識のうちに、街の裏通り、廃墟のようなゲームセンターに足を踏み入れた。

そこで彼は、馴染みのある、狂ったネオンを見た。


第5章:ゲームセンターの再会

ゲームセンターの奥。埃を被った筐体の列の中に、キリはかつての世界の残骸を見つけた。

古びたアーケードゲーム。タイトルは**『ゴールデン・スクラップ・アウトロー』。あのVRゲームの、簡略版のレトロアーケード**だった。

キリが呆然と画面を見つめていると、後ろから声をかけられた。

「…おい、兄さん。そのツラ、どっかで見た気がするな」

振り向くと、そこに立っていたのは、くたびれた作業服を着た婆さんだった。ゴールド・スクラップで情報屋をしていた、あの老婆にそっくりだ。

「あんたは…」

「やれやれ。まさか、あの**『ゴールド・キラー』**が、現実でこんな寂しい顔をしてるたあね」

婆さんは笑った。この婆さんも、**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**の元プレイヤー、あるいは関係者だったのだ。

「あんたの娘さん…リアムかい?彼女の父親が、このゲームの残党を隠すために、このゲームセンターを作ったんだよ。仮想現実(VR)で繋がっていた仲間たちが、ここで、現実で再会できるようにね」

このゲームセンターは、元プレイヤーたちが、現実の生活に馴染めない心の病を抱えながら、交流する隠れ家だった。

「キリ。あんたのは、現実でも使える場所がある。誰も傷つけずに、金を稼げる場所がな」

婆さんはキリをアーケードの裏手にある倉庫に連れて行った。そこには、大量のVR機器と、新しいシステムの開発に必要なサーバーが並んでいた。

「あんたの反射神経危機管理能力は、現実ではセキュリティとして最高の才能だ。それに、このゲームセンターの用心棒も必要だ。現実に戻れないバグった連中が、ここで騒動を起こすんでね」

キリは、久々に自分の存在意義を感じた。そして、何より、この場所には、微かに鉄の匂いと、裏社会の空気が残っていた。


最終章:現実のゴールド・キラー

キリは、ゲームセンター**『ゴールド・ラッシュ』の用心棒兼、セキュリティの専門家として働き始めた。彼の異常なまでの集中力と、一瞬で状況を把握する能力は、現実のトラブル対処で最高のスキル**となった。

そして、彼はリアムを連れてきた。

リアムは、最初は戸惑っていたが、ゲームセンターの賑やかさ、そこで働く元プレイヤーたちの人間的な優しさに触れ、少しずつ、本来の少女としての笑顔を見せるようになった。

ある日の閉店後。

リアムは、アーケードの筐体の一つを見つめていた。それは、かつて自分とキリがいたゴールド・スクラップの風景を映し出していた。

「お父さん…私たちは、またゲームの中に戻るの?」

リアムの不安そうな瞳に、キリは答えた。

「もう戻らねぇよ。あそこは、ただの箱庭だ」

キリは、リアムの小さな手を握り、静かに言った。

「俺は、『ゴールド・スクラップ』で、お前という金を見つけた。そして、現実で、それを守るキラーになる」

キリにとって、もはやは、殺し合いの報酬ではない。リアムを育て、守り、現実を豊かに生きるための手段になった。

彼は、アトラス(リボルバー)の代わりに、工具とキーボードを扱うようになったが、その眼差しは、誰よりも鋭かった。

その晩、リアムはキリのために、生まれて初めて料理を作った。焦げ付いた、ひどい味のオムレツだった。

キリは、それを一口食べ、笑顔で言った。

「ああ、美味い。…この味は、ゴールド・スクラップでは、絶対に味わえなかったな」

リアムは泣き笑いの顔になり、キリに抱きついた。

二人の**『ゴールド・キラー』は、現実という新たなゲームを、ようやく、『親子の愛』**というルールで攻略し始めたのだった。

GAME1

第1章:黄金に憑かれた街と、拾った命

ネオンは退廃を、排ガスは金粉の匂いを運んでくる。ゴールド・スクラップは、金が支配し、欲望が火花を散らす無法の街だ。俺、キリはここで殺し屋を営んでいる。

今日の獲物は「ビッグ・ジョー」。いつものように仕事を片付け、廃墟の裏路地を歩いていた時だ。

血と錆の匂いに混じって、微かな生命の匂いがした。

スクラップの山を蹴散らすと、そこにいたのは、少年だった。十歳にも満たないように見える、痩せた、不思議なほど整った顔立ち。ボロボロの服を着て、手には小さな黄金の弾丸を握りしめていた。

「おい、こんなところで何してる」

俺の殺気を帯びた声に、少年は怯えることもなく、ただ俺を見上げた。その瞳は、この街のネオンよりも、もっと深く、寂しい光を宿していた。

「…寒い」

その一言に、なぜか俺の足は動かなかった。殺し屋稼業で硬く冷え切ったはずの心臓の奥が、微かに脈打った気がした。

俺は舌打ちし、少年を抱き上げた。驚くほど軽かった。

「ちっ。運が悪かったな、ガキ」

俺は少年をアジトに連れ帰った。名を尋ねると、少年は**「リオン」**と答えた。

リオンとの生活は、殺伐とした俺の日々を一変させた。

彼は決して成長しないようだった。数週間経っても、体格は変わらず、常に飢えているようだった。そして何より、リオンは**「死」**を理解していないようだった。

「キリ、あれは何で動かなくなったの?」

ある日、俺が仕事を終えて戻ると、リオンは俺が撃ち殺した裏切り者の写真をじっと見つめていた。

「あれは死んだ。この世界から消えたんだ」

「…消えた?」リオンは首を傾げた。「僕も、いつか消えるの?」

俺はリオンの頭を乱暴に撫でた。

「お前は消えさせねぇよ。俺が守ってやる。その代わり、この街では、金を稼ぐ者が、生き残るってことを覚えとけ」

俺はリオンのために、金を稼いだ。それは生活費というより、リオンの存在をこの街に繋ぎ止めるための杭のようなものだった。


第2章:崩壊する現実と、リオンの秘密

リオンを拾って半年が経った頃、異変は始まった。

廃墟ビルの窓が、突然青いポリゴンとなって砕け散り、すぐに元に戻る。俺の視界に**【SYSTEM WARNING: Low Gold Reserve. Upgrade Required.】**という文字が一瞬表示される。

現実が、プログラムのエラーのように揺らぎ始めたのだ。

俺は混乱した。しかし、リオンは違った。

ある晩、リオンが眠っているかと思い、そっと様子を見に行った時、俺は衝撃的な光景を目撃した。

リオンの身体から、半透明のコードのようなものが伸び、部屋の壁に張られた古い配線に接続されていたのだ。そして、リオンの周囲には、無数の数値が浮かんでいた。

【LIAM: Status-Unchanged. Age-Fixed. EXP-Accumulating.】

そして、最も目を疑ったのは、リオンの胸元だった。服がはだけて見えたその肌には、幼いながらも女性的な輪郭があり、その中央には、小さな黄金のペンダントが埋め込まれていた。

リオンは少年ではなかった。そして、不老の、システムの核のような存在だった。

俺が物音を立てると、コードは瞬時に消え、リオンは目を開けた。

「…キリ?」

「お前は、誰なんだ」俺はアトラスを抜き、リオンに向けた。

リオンは静かに答えた。

「私は、リオン。この街の、管理者(アドミニストレーター)…でした」


第3章:ゲームの終焉と、真実の解放

リオンは全てを語った。

ここは**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**という名のVRデスゲーム。プレイヤーは金のために殺し合う。

リオン、本来の名はリアム。現実世界では、このゲームの開発責任者の娘だった。幼い頃に難病で余命いくばくもなく、父は彼女の意識を永遠に生きられるゲーム世界のコアプログラムに移植した。

「父は、私を永遠に生かすために、この狂った世界を作った。私は、この世界が崩壊しないように、常にエネルギーを注入し続けていました。私が成長しないのは、私のプログラムが、成長しないようにロックされているからです」

そして、俺の周りで起きているバグの原因も、リオンだった。

「あなたが、私を拾ってくれた。孤独だった私の**『感情』**が、システムの制御を超えて、現実世界(父)へのSOSを発し始めているんです。だから、バグが起きる」

リオンは握っていた黄金の弾丸を差し出した。それは、システムからの強制ログアウトキーだった。

「これを使えば、あなたは現実に戻れます。私も、この世界とリンクを解除し、意識だけは現実の肉体に戻れるかもしれない。でも、この世界は終わります」

俺は絶句した。俺の生きた日々、殺し屋としての矜持、そしてリオンを育んだヒューマンな感情。全てが、ゲームの中の出来事だった。だが、リオンへの情は、間違いなく本物だった。

「…この街が、終わるのか」

「ええ。ですが、誰も悲しみません。彼らはまた、新しいゲームにログインするだけです」

リオンは俺を現実に戻すことで、自分もゲームの鎖から解放されようとしていた。それは、この狂った世界で得た、俺とリオンのささやかな家族の結末だった。

俺はアトラスを下ろし、黄金の弾丸を受け取った。

「…行くぞ、リオン。このクソゲーを終わらせる」

俺はリオンの頭を撫でた。

「俺が見つけて、育てたんだ。最後まで責任を持つ。現実でも、俺の娘になれ」

リオンは初めて、心からの涙を流した。

俺は弾丸を、アトラスのシリンダーに装填した。


エピローグ

パンッ!

その瞬間、世界はホワイトアウトした。

白い、人工的な光。消毒液の匂い。

キリは目を開けた。そこは病院の集中治療室。酸素マスクを外され、彼の隣には、同じようにチューブが外された**リオン(リアム)**が横たわっていた。彼女の顔には、幼い頃の面影があるが、成長の兆しが見えていた。システムの呪縛から解き放たれた証だ。

看護師が安堵の声を上げた。

「リオンちゃんも、あなたも、意識が安定しました。ゲームの影響はもうありません」

リアムは弱々しく、キリの手を握った。

「キリ…ここが、現実…」

「ああ、そうだ。つまらないほど、静かな世界だ」

キリは笑った。殺し屋の笑みではない、穏やかなものだった。

その時、病室のドアが開き、疲弊しきった一人の男が入ってきた。リアムの父、ゲームの開発責任者だ。

「リアム!生きて…」

男は娘に駆け寄ろうとしたが、キリは手を広げて遮った。

「あんたのクソゲーのおかげで、俺は現実の家族を得た」

キリはリアムの手を握りしめた。

「俺は、この子を育てる。現実でな。もう誰も、ゲームの金のために、この子を孤独にさせたりしない」

キリは、現実で初めて、自分の役割を見つけた。それは、殺し屋でも、プレイヤーでもない。

リアムの父親になることだ。

リアムは微笑んだ。その瞳には、ネオンの光ではなく、穏やかな愛が宿っていた。

ゴールド・スクラップの鉄槌は、現実ではなく、ゲームの世界に打ち下ろされ、それは静かに、二人の新たな現実の始まりを告げていた。

ゴールド・スクラップの鉄槌

第1章:黄金に憑かれた街

ネオンは退廃を、排ガスは金粉の匂いを運んでくる。ここ、ゴールド・スクラップは、その名の通り、金が支配するスクラップと欲望の街だ。地平線まで続く廃工場と、違法カジノのギラついた光、そして常に漂う火薬の臭い。法も道徳も、この街では黄金の重さで量られる。

俺の名前はキリ。殺し屋だ。

今日の獲物は「ビッグ・ジョー」。裏カジノの支配人だが、どうやらデカい金を横領し、組織を裏切って高飛びを企てていたらしい。依頼主はジョーが属していた「G.O.L.D(Golden Outlaw’s League of Destruction)」のボス、キング。ゴールド・スクラップの真の支配者だ。

俺は錆びついた非常階段を上り、ジョーが隠れている廃墟ビルを見下ろした。愛用のリボルバー、**「アトラス」**の銃身を撫でる。重く、冷たい感触。これは俺の命であり、稼ぎだ。

ジョーは最上階の窓枠に座り、葉巻を燻らせていた。夜景を眺めながら、逃げた後の豪遊を夢見ているのだろう。バカな奴。この街から逃げられると思っているのが、何よりの罪だ。

風向きを確認し、呼吸を整える。

パンッ、と乾いた一発。

ジョーの葉巻が火花を散らし、彼の身体は夜空へと吸い込まれるように落下していった。音もなく、ただ重力に従って。

ミッション完了。報酬はゴールド・スクラップの口座に振り込まれる。今日の取り分で、しばらくは廃油まみれのステーキと安酒にありつけるだろう。

俺は闇に紛れてその場を後にした。背後では、ジョーの落下地点に集まったハイエナたちが、彼のポケットを漁り始める気配がした。

ゴールド・スクラップ。ここは生きるためなら、誰の骨でも踏みにじる場所だ。そして俺は、その骨を砕くプロフェッショナルだ。


第2章:崩壊する現実

それからも、俺は次々と仕事を片付けた。裏切り者、情報屋、果てはキングに逆らったゴロツキの始末まで。ゴールド・スクラップでのキリの名は、冷たい鉄の響きと同意義になっていた。

そんなある夜、いつものように報酬を受け取り、アジトに帰る途中、奇妙な出来事が起こった。

廃墟と化した銀行の跡地を通り過ぎたとき、突然、空気が歪んだ。ネオンの光がバグを起こしたかのように、緑と紫のピクセルに分裂し、路上の廃車が一瞬、ポリゴン化して消えたのだ。

「…なんだ?」

俺はアトラスを抜き、周囲を警戒した。目眩がする。頭の奥で、甲高いノイズ音が響いた。

その瞬間、俺の視界の隅に、半透明の文字が浮かび上がった。

【SYSTEM ERROR: Terrain Load Failure. Reverting to Default Texture Pack.】

一瞬で文字は消えた。しかし、俺の心臓は激しく鼓動していた。現実が、今、俺の目の前で、プログラムのエラーのような挙動を見せたのだ。

次の日から、異変は加速した。

  • 道端のジャンクフード店の看板の文字が、突然**「フォントサイズ変更」**のような表示と共に巨大化し、元に戻る。
  • キングの護衛を撃ったとき、そいつの身体が血ではなく、**「ダメージポイント」**を示す青い数字と共に消滅した。
  • 俺自身も、突然の頭痛と共に、自分の手首に**【HP: 85/100】**のようなゲージが一瞬見えた気がした。

俺は怯えた。長年の殺し屋稼業で、は恐れない。だが、現実の崩壊は、俺の存在そのものを揺さぶった。

俺はキングに報告すべきか迷ったが、キングはただでさえ常軌を逸している。こんな話をすれば、間違いなく精神異常者として処分されるだろう。

俺は一人で真実を探すしかなかった。このゴールド・スクラップの裏に隠された、何かを。


最終章:ゲームの終焉

俺は手がかりを求め、この街で最も古い情報屋の元へ向かった。古びたバーの奥、酒とタバコの煙に巻かれた婆さんは、全てを知っていると言われている。

「おい、婆さん。知ってるだろ。最近、街がおかしい」

婆さんは笑った。しわくちゃな顔が、どこか嘲笑っているように見える。

「キリ。あんたも気づいたかい。あんたは特別だからねぇ」

婆さんはグラスの酒を一気に飲み干すと、震える声で告げた。

「この世界は**『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**さ」

俺は耳を疑った。

「…何だと?」

「そのままだよ。金(ゴールド)を巡って、アウトロー(スクラップ)が殺し合う、最高のリアル系デスゲームさ。あんたはその中でも、トップランカーの一人だよ、プレイヤー名:キリ

俺の頭の中で、全てのピースがはまった。

  • 黄金が全てを支配する理由。
  • キングという絶対的なボス、つまり**最終目標(ラスボス)**の存在。
  • そして、俺の周りで起きていた、システムのエラー

婆さんは続けた。「あんたは、**『ゴールド・キラー』**の異名を持つほどの腕前だったが、最近、現実世界でのあんたの意識が、**肉体(アバター)**への干渉を強めている。だから、バグが起きるんだ」

つまり、俺が今いる世界は、現実ではなく、デーム。そして俺は、その中で殺し屋を演じるプレイヤーだった。

「俺は、現実で何者なんだ…?」

「さあね。ただの廃人かもよ。このゲームにハマりすぎて、意識だけがここにいる」

俺はアトラスを落とした。鈍い金属音が床に響いた。

殺し屋キリとして生きた日々、血の匂い、金銭の冷たさ、全てが偽物だった。俺の命がけの戦い、苦悩、矜持。全ては**『EXP』『ゴールド』**という数値に還元される、仮想現実(VR)の娯楽だったのだ。

俺はバーを出た。空は依然としてネオンに照らされ、人々は欲望に目を輝かせながら、殺し合い、金を奪い合っている。

これらは、ただのノン・プレイヤー・キャラクター(NPC)か、あるいは他のプレイヤーか。もう、どうでもいい。

俺はアトラスを拾い上げる。その銃口を、自分のこめかみに押し当てた。

「ゲームオーバー、か」

【ログアウトしますか? Yes / No】

俺の視界の真ん中に、巨大な、見慣れない文字が浮かび上がった。

俺は笑った。乾いた、絶望的な笑い。

殺し屋キリは、このデームの中で、自分の生きた証を求めた。だが、その証は、現実という名の冷たい病室で、酸素マスクに繋がれた俺の抜け殻にこそあるのかもしれない。

俺は指に力を込めた。

パンッ!

その瞬間、世界はホワイトアウトした。


エピローグ

白い、人工的な光。消毒液の匂い。

キリは目を開けた。そこは、チューブや医療機器に囲まれた、薄暗い病室だった。

彼の頭には、分厚いVRヘッドセットが装着されており、それを外した看護師が、安堵のため息をついた。

「よかった、目を覚ましましたね。キリさん。また長時間潜りっぱなしで…本当に心配しましたよ」

キリは虚ろな目で、天井を見つめた。

**「『ゴールデン・スクラップ・サバイバル』**は、もう終わりですか?」

看護師は戸惑いながら答えた。

「ええ。もう電源は切りました。…あんな暴力的なゲーム、もうやめた方がいいですよ。現実に帰りましょう」

キリは自分の手を見た。殺し屋のタフな手ではなく、弱々しく、痩せ細った、ただの男の手だった。

彼はただ一言、呟いた。

「…つまらない」

現実は、ゴールド・スクラップと比べて、あまりにも色褪せていた。金はただの紙切れで、命は簡単には失われず、そして何より、鉄の重さと火薬の匂いが、どこにもなかった。

キリは、再びヘッドセットに手を伸ばした。

「すいません。もう一度、ゴールド・スクラップに戻ります」

看護師は悲鳴のような声を上げたが、キリは聞かなかった。

電源が再起動する。視界が暗転する。

そして、ネオンと排ガス、金粉の匂いが、再びキリの意識を包み込んだ。

【プレイヤー名:キリ。ログインしました。】

【HP: 100/100。所持金: 35,000ゴールド。】

キリは立ち上がった。錆びついた非常階段、冷たいリボルバー、そして、黄金に憑かれた街。

「…ああ。これだ」

彼はにやりと笑った。

殺し屋キリは、今、現実へと帰還したのだ。

彼は再び、銃を構えた。

天才贋作師の立身出世 〜食の著作権時代を駆ける〜

第一章 飢えと最初の発明

寛政の末、江戸の裏長屋に暮らす少年、新太(しんた)は、十三歳にして既に独り立ちしていた。親は幼い頃に疫病で失い、日々の糧は魚河岸の手伝いや瓦版配りで稼いでいる。貧しいが、その眼差しには常に火が灯り、誰も真似できないほどの負けん気前向きさを持っていた。

新太が何よりも腹を立てていたのは、「食の著作権」という名の理不尽だった。

「どうして、腹を満たす方法にまで銭がいるんだ」

江戸の食文化は、二年前にレシピ著作権制度が導入されて以来、大きく変わった。有名な握り寿司や天ぷらの**「秘伝の配合」「揚げ方の手順」**は、大店の「調理著作物」として厳重に守られ、価格は高騰した。庶民の料理本は抽象的な内容ばかりになり、美味い飯の情報は富裕層の嗜みとなっていた。

新太の出世のきっかけは、ある冬の夜、空腹に耐えかねた末に生まれた。

彼は、近所の大店の前で嗅いだ、鰹出汁の残り香を頼りに、安く手に入れた大根とわずかな味噌を煮ていた。だが、有名な「三つ葉料亭」の**『雪見大根』**のレシピは著作権で保護され、材料の比率はおろか、どのタイミングで酒を入れるかさえ、知る術がない。

「だったら、盗むんじゃなくて、上書きすればいい

新太は燃えるような目で煮方を観察した。彼が気づいたのは、料亭の煮方が「完璧に均一」であること。しかし、貧しい新太が持つ大根は、端っこで硬い部分と中央の柔らかい部分が混ざっていた。

新太は、硬い部分を先に低温の出汁で時間をかけて煮含め、柔らかい部分を最後に加え、残りの味噌で「炙り味噌」にしてから乗せる、という二段階の煮込み方を編み出した。味は三つ葉料亭に劣らない、いや、貧しい食材の個性を活かした**「長屋風雪見大根」**だ。


第二章 贋作師としてのデビュー

新太は、この料理を隣の長屋の貧しい老夫婦に振る舞った。二人は涙を流して喜んだ。この評判が、一人の変わった版元(出版社の主人)の耳に入った。

版元の名は喜兵衛(きへえ)。彼は著作権侵害を恐れ、具体的なレシピ本を出せない状況に業を煮やしていた。

「お前さんの料理は、三つ葉の雪見大根に酷似しているが、**手順が違う。**これは既存の著作物を侵害しない、新たな発明だ!」

喜兵衛は新太の負けん気と発想を気に入り、契約を持ちかけた。

「世にはびこる、富める者のレシピを、庶民でも手の届く食材と手順で**『贋作(がんさく)料理』**として作り直す。料理の魂は残すが、手順は完全に変える。その著作権はお前が持つんだ」

新太の最初の仕事は、料亭「金龍」の**『鰻の二度焼き』**の贋作だった。金龍の鰻は、特許のような権利で守られた秘伝のタレと火加減が命。

新太は鰻に手を出さず、代わりに当時安価だった穴子を使うことを決めた。タレの味を複雑にするため、醤油と砂糖だけでなく、長屋で手に入る古漬けの沢庵の漬け汁を隠し味に加えた。さらに、二度焼きの「外側はパリッと、内側はふっくら」という食感を、高温の油で短時間揚げるという全く新しい手順で再現した。

『穴子の二度揚げ〜沢庵の香りを添えて』

金龍の料理とは似て非なる、庶民のための新しい味が誕生した。


第三章 料理著作権訴訟と逆転

新太が考案した穴子料理は、喜兵衛の出版した抽象的な調理エッセイ(レシピではない)を通じて口コミで広がり、庶民の間で大流行した。しかし、これに激怒したのが金龍の主人だった。

金龍はすぐに幕府の**「食の取締役」(グルメ取締役)**に訴え出た。

「この新太の穴子料理は、我が店の鰻の『創作性』、すなわち『二度加熱して食感を変える』という発明の骨子を侵害している!」

新太は貧しい身ながらも、奉行所の法廷に立たされた。法廷の周りには、新太の料理に救われた庶民や、著作権制度に苦しむ零細な料理人たちが詰めかけた。

金龍の主人は、秘伝のタレの製法や、二度焼きの手順を細かに記した正式な**「調理著作物」**を提示し、新太を追い詰めた。

しかし、新太はまっすぐと奉行を見据えて言い放った。

「私が発明したのは、鰻の調理法ではありません。穴子を高温で揚げるという新しい料理法です。タレの味の決め手は沢庵の漬け汁であり、金龍様のどの著作物にも、沢庵の漬け汁を使う手順は書かれておりません!」

新太は続けた。

「料理は、ただの手順ではなく、食材が持つ命をどう生かすか、という創意工夫です。金龍様は高い鰻を、私は安い穴子を。金龍様は手間のかかる焼きを、私は手早くできる揚げを。私の料理は、金龍様の『創作性』を借りたものではなく、貧しい者への『慈悲』から生まれた、全く新しい『発明』でございます!

奉行は深く頷いた。

「確かに、調理手順は完全に異なり、使用された食材も根本的に違う。お前の料理は、金龍の著作権を侵害していない、新たな著作物として認められる!」


最終章 「味の解放者」

新太の勝利は江戸の社会を大きく揺るがした。彼はただの貧しい小坊主から、一夜にして**「天才贋作師」、そして「食の解放者」**として英雄視された。

新太は、手に入れた権利収入を元手に、誰もが気軽に立ち寄れる屋台**『新太の創作所』を開いた。そこで彼は、次々と新しい「庶民のための贋作料理」**を編み出し、そのレシピを惜しみなく庶民の言葉で語り継いだ。

彼の料理は、既存の著作権に触れないように、必ず一つ、斬新な工夫が施されていた。それは、「庶民でも手に入る食材への愛」、そして**「不公平なルールへの徹底的な負けん気」**から生まれた、魂の叫びそのものだった。

やがて、新太は江戸随一の発明家としての地位を確立し、多くの弟子を持つに至った。彼は、誰もが腹いっぱい美味いものを食べられる未来を信じ、その道で立身出世を成し遂げた。彼の屋台の暖簾には、こう染め抜かれていた。

「真作より、贋作に愛がある」