六つのたいざい VerM

ケンは倒れ、その意識は闇に沈んだ。

マリは、サトウを振り返った。サトウの顔は、安堵と、マリへの絶対的な献身で輝いている。彼は、ケンを襲ったことで、マリの愛を勝ち取ったと信じて疑わない。

「サトウさん……ありがとう。あなたは、本当に私の唯一の騎士だわ。あなたの愛は、私をこの街で最も安全な存在にしてくれた」

マリの言葉は、サトウにとって、世界のすべてだった。彼の愛は、すでにマリの意志と一体化していた。

「マリさん! 私は、君の愛に応えるためなら、どんなことでもする! あなたの心が望むすべてを、私がこの手で実現する!」

マリは、サトウの頬を優しく撫でた。

「私の騎士サトウ。あなたは、私に完全な支配をもたらしてくれたわ。しかし、まだ最後の汚物が残っている」

マリは、路地の影を指差した。ヤマモトが、意識を失って倒れている。

「あのヤマモト。彼は、あなたの献身的な愛に値しない、不純な論理の持ち主よ。あなたは、私のために、この街を純粋な二人だけの世界にする必要があるわ」

サトウは、マリの言葉を、神聖な使命として受け止めた。彼は、マリの完璧な愛の前に、ヤマモトの存在が不純物であると心から信じた。

「もちろんだ、マリさん! あなたの愛の純粋さを脅かすものは、私がすべて排除する!」

サトウは、ケンを殴りつけた鉄パイプを拾い上げ、歓喜の表情を浮かべながら、路地の奥へと向かった。

数秒後、物陰から鈍い衝撃音が響き、静寂が戻る。

サトウは、達成感に満ちた笑顔で戻ってきた。彼は、ヤマモトの排除を、マリへの究極の捧げものだと信じている。

「マリ! 完了したぞ!これで、君を脅かすものは誰もいない!」

サトウは、マリを抱きしめようと近づいた。彼の全身は、マリの愛の実現という幻想で満たされている。

マリは、彼が完全に愛の陶酔に浸っていることを確認した。彼女は、最後の、そして最も残酷な自己排除の命令を下すため、サトウの胸にそっと手を置いた。

「サトウさん。あなたの愛は、確かに強烈な狂気だったわ」マリは、涙を浮かべているかのような表情で囁いた。「私の愛は、純粋でなければならないの。そして、その愛を受け取るあなたも、永遠に穢れなき存在でなければならない」

サトウの表情は、深い感動で歪んだ。彼の愛は、すでにマリの自己犠牲の要求をも受け入れていた。

「マリさん……君は、私の魂の安寧まで考えてくれるのか……!」

マリは、最後の決定的な言葉を、静かに、そして甘く囁いた。

「ええ。サトウ。あなたは、私に完全な支配をもたらした。もう、この汚れた街で苦しむ必要はないわ。あなたが永遠に穢れなき存在として、私の記憶の中に残ることが、最高の愛の証明なのよ」

マリは、サトウの頬にキスをした。

「さあ、サトウ。最高の愛の儀式を、あなた自身で完遂して。そうすれば、あなたは永遠に、私の完璧な騎士として記憶されるわ」

サトウは、マリの言葉を、絶対的な愛の啓示として受け止めた。彼は、マリの愛の言葉に完全に陶酔し、自分から命を絶つことが、マリへの究極の愛の贈り物だと信じ込んだ。

彼は、マリが手渡した鉄パイプを、その首元に自ら突き立てた。

ズブッ!

サトウの顔からは、苦痛ではなく、至福の笑みが消えることはなかった。彼は、マリに騙され、利用され、そして自ら命を絶ったことを、最期の瞬間まで知ることはなかった。彼は、マリの完全なマインドコントロールの下で、愛の殉教者となったのだ。

マリは、サトウの冷たくなった遺体を見下ろした。彼女の顔には、一切の感情がない。

「これで、完全な支配が完成したわ」

ゴトウ、タケダ、ケン、ヤマモト、サトウ。五つの遺体が、マリが手を汚すことなく、彼女の冷酷な知恵と、愛という名の完全な支配力の前に横たわった。

その瞬間、路地の廃墟全体が、信じられないほどの強い光に包まれた。

次に目を覚ましたのは、冷たいコンクリートの上だった。

マリは、優雅に身体を起こした。頭痛は消え、喉の渇きも和らいでいる。ここは、六畳ほどの汚い部屋。

彼女の目の前には、見覚えのある五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっている。彼らは、全員が極度の混乱と恐怖に顔を歪ませながら、次々と覚醒し始めている。

マリは、彼らの顔を冷徹に見つめた。過去の男たちが、形を変えて再びそこにいる。

一人の男が、ポケットから白い紙切れを取り出した。そして、混乱した目で、マリに話しかけた。

「あ、あんた何か知らないか? 目を覚ましたらここにいて……ポケットによくわからない紙切れが入ってるんだが」

マリは、その紙切れに書かれているメッセージを知っている。そして、この部屋の構造、この街の広さ、男たちの心理的な弱さも、すべて知っている。

マリは、その男を見つめ、口元に冷たい笑みを浮かべた。彼女は、このゲームの絶対的な勝者であり、この状況の真の支配者として、この第二ラウンドの始まりを歓迎した。

「最後の一人に、救済を」。

マリは、心の中で呟いた。

「…………あと、五人いるのね」

彼女の瞳は、もう二度と裏切られることのない、完全な勝利を確信していた。

365

聴:嘆きの振動

私は天使。人間たちが呼ぶところの、世界を調整し、魂の均衡を司る存在だ。

私の役目は、地上の**「嘆き」**を聞き届けること。長らく、私は特定の個人的な祈りには干渉してこなかった。だが、佐伯和人という一人の男から発せられた嘆きの振動は、他のそれとは異なっていた。

それは、自己犠牲的な献身と、限界を超えた疲弊、そして罪悪感を伴う解放への願望が複雑に絡み合った、極めて純粋なエネルギーだった。

彼、和人は、要介護の母を献身的に支え続けた。彼の心の底には、母の死を願う**「闇」があったが、それを即座に打ち消す「光」――「自分だけでなく、同じ問題を抱える全ての人を救いたい」**という、普遍的な愛の希求があった。

私は、彼の前に姿を現した。光を纏う必要はなかったが、人間は視覚的な刺激でしか真実を理解できない。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

彼は熟考した。その過程が重要だった。彼は個人的な金銭や、母の延命、あるいは即死といった単純な選択肢を退けた。

そして、彼が口にした願い。それは、私の記録の中でも、最も冷徹な合理性深い優しさが融合したものだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を**三十六十五分の一(約一日)**にしてほしい」

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」

執:契約の履行

私は即座にその願いを**「普遍の契約」**として受理した。

介護問題。それは、人間の文明が高度に発展した末に生まれた、最も苦しく、解決が難しい、魂の停滞を招く病巣だった。介護する側は「義務」に縛られ、される側は「屈辱」と「無力」に苦しむ。誰も幸せになれない、閉じた円環だ。

和人の願いは、その円環を**「一瞬の歓喜」**という形で断ち切るものだった。

私は、世界中の対象者――食事と排泄に介助を要する魂たち――に向けて、時間と肉体の流動性に関する干渉を実行した。

実行直後、世界中から発せられたのは、純粋な驚きと、歓喜の波動だった。ベッドに縛られていた魂たちが、突如として最も輝いていた頃の肉体を取り戻した。彼らは、与えられたわずかな命の時間を、解放された欲望失われた青春を謳歌するために使った。

佐伯綾子もまた、そうだった。彼女の魂は、息子への支配と、老いへの屈辱から解放された喜びで満ち溢れていた。その十日間、彼女は**「女性」**として、全てを取り戻そうと奔走した。

一方、和人。彼は、その綾子に罪深い恋慕の情を抱いた。彼が真面目に抑えつけてきた**「現を抜かす」という本能が、最も身近で、最も手の届かない女性に向けられたのだ。彼の苦悩は深かったが、それは彼が「一人の男」**として、抑圧から解放された証でもあった。

観:セーフティと結末

私は、和人が設けたセーフティロックの作動も監視していた。

あの川西義雄という男。彼は若返りの力を、長年の憎悪を晴らすために使おうとした。彼が綾子にナイフを振りかざし、心に**明確な「殺意」**が灯った瞬間、私は迷いなく、彼の寿命の制御を停止させた。

義雄の魂は、憎悪という名の業火に焼かれ、本来の肉体の姿に戻って滅した。彼の願いは「復讐」だったが、契約の範囲は「介護問題の解決」であり、その目的を脅かす「殺意」は容赦なく排除された。

彼の死を目撃した綾子の魂は、欲望の絶頂から一転して恐怖に陥った。それは、彼女の十日間の自由の幕引きとしては、ある種の**「代償」**を払わせるものだった。

そして、期限が来た魂たちは、静かに肉体を元の状態に戻し、安らかな死を迎えていった。綾子の魂もまた、**「満足」**を湛えて、肉体から離脱した。

理:残された世界

半年後、地上には静寂が訪れた。

介護問題は劇的に解決し、和人のように長年苦しんできた人々は解放された。彼の顔から、あの鉛のような疲労の色は消え、解放感と、新しい人生への戸惑いが混じった表情が見て取れる。彼は、わずかな恋の傷跡を抱きながらも、前に進もうとしている。

しかし、同時に、人口の半減という新たな問題が生じた。労働力の激減、経済構造の崩壊。人間たちは、再び**「生き方」**そのものを問い直すことを強いられている。

佐伯和人の願いは、介護問題を解決したが、**「普遍の安寧」までは約束しなかった。私たちが介入できるのは、あくまで「魂の停滞の解消」まで。その後の、「生きる」**という創造的な行為は、人間自身に委ねられている。

私は今、静かに地上を見下ろしている。

和人の願いは、この世界を救済したのか、それとも新たな試練を与えたのか。

いずれにせよ、私の役目は終わった。私は、再び、新たな**「嘆きの振動」**が世界から発せられるのを、ただ静かに待つのみだ。

六つのたいざい

目を覚ました瞬間、激しい頭痛と吐き気が俺を襲った。喉が張り付いたように乾ききっていて、全身が冷たい。ここはどこだ?

俺は冷たいコンクリートの上で跳ね起きた。六畳ほどの汚い部屋。天井にはシミがあり、カビと埃が混ざったような悪臭が鼻につく。

俺以外にも、五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっていた。

「おい、アンタら! 大丈夫か!?」

俺の声に、五人は次々と意識を取り戻し始めた。彼らの表情は、俺と全く同じ、極度の混乱と怯えで満ちている。

「な、何が起こったのよ……」

30代くらいの女が、震える声で呻いた。彼女の化粧は少し崩れており、状況への不安でパニック寸前だ。

「わからん……最後に何をしていたかも、思い出せん……」

60代の男が、額を押さえながら呻いた。彼は身なりこそ粗末だが、どこか裕福そうな雰囲気を残している。

俺はすぐにドアに駆け寄り、力を込めて押し開けた。

視界に飛び込んできたのは、荒廃しきった街。窓が割れ、壁が剥がれた廃墟が延々と並んでいる。アスファルトは消え、路上は茶色い砂で覆い尽くされていた。風が吹くたびに砂塵が舞い上がる。

「うそ……だろ……」

呆然と立ち尽くす俺の後ろから、他の五人が顔を出す。彼らの息を呑む音だけが、砂風の音に混じって響いた。

「まるで、映画のセットみたいだ……」20代後半の神経質な男が、眼鏡を押し上げながら呟いた。

「何かのドッキリか? 誘拐か!?」50代の強面の男が、苛立ちを露わにして、壁を蹴った。

その時、30代の女が、ポケットから白い紙切れを取り出した。

「皆さんも、これ……」

俺は自分のポケットを探った。同じ白い紙片。広げる。

「最後の一人に、救済を」

「最後の一人……? これは、どういう意味だ?」60代の男が、恐怖に顔を歪ませる。

「救済……? 何から、救われるっていうのよ?」女の声は、泣き出しそうだった。

誰もが、目の前の光景と、この不気味なメッセージの意味を理解できずに混乱している。ここはどこだ? 何が目的なのか?

俺は壁際まで走った。コンクリートの高い壁が、この街を取り囲んでいる。外は、見渡す限りの砂漠だ。脱出は不可能。

俺たちは、この50平方キロメートルの檻に閉じ込められている。そして、この状況は、俺たち六人のうち、一人だけが生き残ることを示唆している。

極度の混乱から、一段落して、誰もが冷静さを取り戻そうと必死だった。最初に口を開いたのは、比較的冷静であろうと努めている20代後半の男だ。

「このままでは、状況は悪化する一方です。私たちは……何らかの理由で、ここに集められた。そして、生き残りを競わされている可能性が高い」

「何を当たり前のことを!」50代の男が威圧的な声を出す。「それよりも、まず誰が一番偉いか、誰が一番役に立つのか、はっきりさせるべきだろう」

誰もが自分の不安を隠すように、相手を警戒し、探りを入れている。

「いや、まずは情報共有でしょう」俺は言った。「お互い、どこの誰かも知らない。協力するにせよ、敵対するにせよ、最低限のことは知っておくべきだ」

「本名なんて明かせないわ」30代の女が、強い口調で反論した。「もしこれが、私たちを試すためのゲームなら、本名なんて、弱みになるだけよ」

「では、仮名で」20代後半の男が提案した。「職業や、過去の経験を交えながら、最低限の自己紹介をしましょう」

誰もが納得した。誰もが不安を抱えながら、相手の「正体」を探るために、しぶしぶと口を開く。

俺は立ち位置を決め、彼らの顔を見た。

「俺は、ケンだ。二十歳。これ以上は、言わない」俺はあえて若さだけを伝えた。

次に、神経質な20代後半の男が、少しお辞儀をするような仕草をした。

「僕は、ヤマモト。28歳です。元は、研究職をしていました。論理的な思考が得意です」彼は「知性」をアピールした。

「俺はゴトウだ」50代の男が、腕を組みながら威圧的に言った。「俺は昔から組織を束ねてきた。人を動かす経験は、お前らとは桁が違う」彼は「暴力と経験」をマウントに使うつもりだ。

60代のサトウは、顔を青くしながらも、自分の過去の地位に縋りついた。

「わ、私はサトウと呼んでくれ。60代だ。会社を経営していた。物資の管理や、リスクの計算なら誰にも負けん」彼は「金と経営術」を武器にした。

そして、30代の女。彼女は、目を伏せて、まるで助けを求めるように、わざと弱々しく振る舞った。

「私は……マリです、32歳。事務職しかしたことがない、何の役にも立たない女です。だから、危険なことは男性の皆さんにお願いしたいわ。皆さんの指示には従います」彼女は、「無力さ」を装って、男性陣の警戒心を解こうとしている。

最後に、30代のタケダは、怯えと不安に満ちた目で、小さな声で言った。

「俺は、タケダ。33歳だ。運送業を……やってた」

運送業。肉体労働。そして、その表情からは、極度の不安と動揺が伝わってくる。

誰もが、自分の最も優れていると思われる部分を誇示し、逆に、最も触れられたくない過去や、この場所に集められた「理由」については、徹底して口を閉ざした。

この中で、誰が最も危険で、誰が最も利用できるのか。

ゴトウが、その沈黙を破った。

「いいだろう。自己紹介は終わりだ。ならば、次は行動だ。この街は広すぎる。まずは、食料と水の有無だ。タケダ」

ゴトウは、最も怯えているタケダに、有無を言わさず命令した。

「お前は、体力があるんだろう。先行して、あの生ゴミの山を調べてこい。この街で、何が食えるか、何が使えるか、見つけてくるんだ」

タケダの顔は引きつった。生ゴミには、カラスやゴキブリ、野良犬が群がっている。危険な偵察だ。

「ゴトウさん!」ヤマモトが声を上げる。「危険すぎます! せめて二人で……」

「黙れ!」ゴトウが怒鳴った。「俺がこの場を仕切る。逆らう奴は、救済される前に、この場で処理させてもらう」

ゴトウの暴力的なマウントが、他のメンバーを黙らせた。タケダは拒否できず、絶望的な顔で、生ゴミの山の方へと向かっていった。

俺は、ゴトウの横暴を冷めた目で見つめた。この街の探索は、始まったばかりだ。

タケダが、怯えきった背中を見せながら、生ゴミの山の方へと歩き出した。ゴトウの暴力的な命令に誰も逆らえなかった。ゴトウは腕を組み、満足そうにタケダの後ろ姿を見送っている。

「ゴトウさん」

俺は、一歩踏み出し、あえて強い口調で言った。

ゴトウは苛立たしげに振り向く。

「なんだ、ケン。文句があるのか」

「文句じゃない。疑問だ」

俺は、さっきのゴトウの言葉を反芻する。ゴトウは、タケダに命令する際、こう言った。

「この街は広すぎる。まずは、食料と水の有無だ」

俺はゴトウの目をまっすぐに見つめ、指摘した。

「ゴトウさん。俺たちは全員、たった今、あの部屋で目を覚ましたばかりだ。外の状況を見たのも、全員が初めてのはずだ」

「それがどうした」

「どうして、ゴトウさんは、この街が『広すぎる』と断言できたんですか?」

俺の言葉に、周囲の空気が凍り付いた。ヤマモト、サトウ、マリの三人が、一斉にゴトウに視線を集中させる。

誰もが、この不気味な場所の「広さ」や「構造」を、俺が壁際まで走って「外は砂漠だ」と報告するまで知らなかったはずだ。だが、ゴトウは、その事実を知っていたかのように振る舞った。

ゴトウの顔が、一瞬、引きつった。彼の威圧的な態度が、ほんのわずかだが揺らぐ。

「……何が言いたい。見たままを言っただけだろうが」

「いいや、違う」マリが、すかさず口を開いた。彼女は、先ほどの「か弱い女」の仮面を外し、鋭い眼光を向けている。「ゴトウさん。この街のエリアは、約50平方キロメートル。私たちが目を覚ました部屋から外を見ただけでは、その広さまでは断言できないわ。あなたは、どこかで、その情報を得たんじゃないの?」

サトウが、動揺を抑えきれない声で付け加える。

「そうだ。ゴトウさんは、私たちよりも先に、この街にいたのではないか? それとも、このゲームの主催者側の人間なのか!」

疑心暗鬼は、一気に燃え広がった。この中で誰か一人が裏切り者、あるいは主催者側のスパイかもしれないという恐怖は、全員が抱えている。

ゴトウは顔を紅潮させ、激昂した。彼にとって、この疑惑は、せっかく暴力で掴んだリーダーシップを崩壊させる致命傷だ。

「ふざけるな! 俺がお前らみたいな雑魚の主催者なんかやってられるか! 俺だって、お前らと同じ、被害者だろうが!」

「被害者にしては、随分と余裕がありそうに見えるわよ」マリは冷ややかに言い放つ。「そして、あのタケダへの命令。あれは、誰かを先行させて、様子を見させるという、この街の隠されたルールを、あなたが知っていたからではないの?」

ヤマモトが、震えながらも、論理的に畳みかける。

「ケンさんの指摘は正しい。我々が知る情報は、この部屋と、壁と、砂漠、そして『救済』のメッセージだけ。ゴトウさんの『広すぎる』という発言は、既知の事実を前提とした表現です。説明してください、ゴトウさん。あなたが、私たちに隠している情報は何ですか?」

俺は、ゴトウと他のメンバーの間で、状況が一気に緊迫していくのを冷静に見つめていた。目的はゴトウの追放ではない。彼の持っている情報を引き出すことだ。

ゴトウは、俺たち四人の鋭い視線に囲まれ、明らかに追い詰められていた。彼は、感情的な怒りを爆発させるしかなかった。

「ちくしょう……! 知るか! 俺はただ、直感で言っただけだ! こんな廃墟が、一日で歩ききれるわけがない、と思っただけだ!」

ゴトウは怒鳴り散らし、地面に唾を吐いた。彼の言葉に、説得力はない。しかし、証拠もない。

俺は、ゴトウを追い詰めるのをやめ、一歩引いた。

「直感、ですか。わかりました。でも、次に不自然な発言があった場合、俺たちはゴトウさんの言葉を信用しない。リーダーシップは、信用の上に成り立つものだ。そうでしょう、サトウさん」

サトウは、俺に組まれたことで、いくらか安心したように頷いた。

「その通りだ、ケンさん。信用を失った人間に、この命を預けることはできない」

マリも口元を緩めた。「女性は、特に信用を重んじる生き物よ。私たちを騙そうとするなら、あなたも『最後の一人』にはなれないわ」

ゴトウは、屈辱に顔を歪ませながら、何も言い返せなかった。タケダを命令したことで一時的に得たはずの主導権は、俺のたった一つの指摘によって、あっという間に崩壊した。

そして、グループは二つに分断された。

ゴトウ:暴力と経験に頼る、今や信用を失った孤立者。 ケン、マリ、サトウ、ヤマモト:知恵と論理で結びついた、表面的な協力関係。

タケダは、そのどちらにも属さない、ただの斥候だ。

その時、遠くの生ゴミの山の方から、タケダの甲高い叫び声が聞こえてきた。

「あ、あああああああ!」

俺たち五人は、顔を見合わせた。タケダが、何かに遭遇した。

タケダの甲高い悲鳴が、砂風に乗って遠くから響いた。俺たち五人は、一瞬にして硬直する。しかし、その場で動ける人間はいなかった。誰もが、目の前で繰り広げられたゴトウへの追及で、精神的に消耗していた。

ゴトウは顔を真っ赤にしたまま、俺たち四人を睨みつけている。俺が指摘した「広すぎる」という発言の不自然さが、彼をリーダーの座から引きずり下ろした。

俺は、一歩引いて、ゴトウの言った言葉をもう一度考えた。

「ゴトウさん」俺はあえて、冷静な口調に戻した。「あなたを疑ったことは謝ります。ですが、情報を持っているなら出してほしい」

ゴトウは鼻で笑った。

「謝罪だと? 誰も謝罪なんかいらねぇんだよ、ケン。俺が『広すぎる』と言ったのは、そこに転がってる腐った標識を見ればわかるだろうが」

彼は、部屋のすぐ外に倒れている、半分砂に埋もれた巨大な案内標識を指差した。

俺たちは一斉にそちらを見た。風化して字はほとんど読めないが、その大きさは異常だ。通常の高速道路の標識の数倍はある。そして、その巨大な矢印が指し示している文字の一部が、かすかに読み取れた。

『…トリア 距離:42km』

42km。

誰もが息を呑んだ。この廃墟の街が、その外壁までの距離も含めて、最低でも数十キロメートル四方の広大なエリアを持っていることを、その標識は示していた。

ゴトウは、俺たち全員に突きつけるように言った。

「どうだ、クソガキ。お前らが寝てた間に、俺は立ち上がって、この標識を見た。こんな巨大な街が、一日や二日で端から端まで歩ききれると思うか? 見たままを、言っただけだ。それを、お前らは主催者の陰謀だの、隠された情報だのと騒ぎ立てた。お前らの『知恵』と『論理』は、その程度のもんだ」

その瞬間、俺たち四人を結びつけていた「ゴトウへの優位性」という名の連携は、脆くも崩れ去った。ゴトウは何も隠していなかった。彼はただ、目を覚ましてすぐに「生存に必要な情報」を、俺たちより早く察知し、行動に移しただけだった。

俺たちは、この異常な環境下では、過去の常識や地位が全く通用しないことを、思い知らされた。そして、ゴトウがリーダーの座を奪ったのは、単なる暴力ではなく、最も早くサバイバルの常識に切り替えたからだ。

「……くそ」俺は歯を食いしばった。

「42km……」60代のサトウが、呆然と呟いた。「都市一つ分じゃないか。しかもこの有様では、どこに水や食料が残っているか……」

マリは、一瞬の動揺を隠し、すぐに詐欺師の顔に戻った。

「ふざけてるわね。これだけの広さ、しかも砂漠に囲まれてる。私たちにまともに探せっていうの? これじゃあ、一人でなんて到底無理よ」

マリは、すぐさまゴトウに擦り寄るのではなく、チームによる協力の必然性を説き始めた。

「ゴトウさん。あなたの経験は確かに凄い。でも、あなたは今、私たち四人の信頼を失った。この街を探索し、生き残るには、あなたの体力と、サトウさんの管理能力、ヤマモトさんの分析力、そして私の交渉術。全てが必要よ。一人じゃ無理。この広大な街で、誰が一番長く生き残れるか、その生活基盤から考え直さないと」

彼女の言葉は、最も現実的だった。

ヤマモトは、眼鏡を直しながら、すぐにその現実を受け入れた。

「そうですね。この広さなら、無闇に動けば体力を消耗するだけだ。まず、私たちの生存リソースを計算し、目標地点を決める必要があります。サトウさん、元経営者としての知識で、この街の物資のありかを予測できませんか?」

サトウも、先ほどの屈辱を忘れ、頭を切り替えた。

「うむ。街の構造と、物資の残り方には、必ず法則性がある。もしこの街が、かつて鉱山か何かで栄えたなら、生活物資は中央の商業地区か、あるいは労働者宿舎の跡に残されているはずだ。最優先は水だ。水の貯水施設か、廃墟の地下室を狙うべきだ」

誰もが、自分の過去の経験を、この極限状況下での知恵として絞り出し始めた。

俺は、マリとヤマモト、サトウの三人を束ねるように言った。

「よし。ゴトウさん、タケダが帰ってくるまでは、あなたの指示に従いましょう。ただし、情報共有は絶対です。サトウさん、ヤマモトさん、タケダが戻ったら、まずあの場所から見える廃墟で、一番大きな建物の位置を確認してください。そこを当面の『拠点』候補として、物資の集約先とします」

俺は、ゴトウを完全に排除するのではなく、彼の実力を認めつつも、自分たち四人の「知性」と「協力」で牽制し、新たなバランスを作ろうとした。

その時、遠くで、再びタケダの悲鳴が聞こえた。今度は、悲鳴というよりは、何かを引きずるような音と、激しい咳が混ざっている。

タケダが、何かを見つけて、戻ってきている。あるいは、何かに追われている。

「タケダが戻ってくる!」ゴトウが叫んだ。「全員、警戒しろ! 何か、街の住人に遭遇したかもしれん!」

俺たちは、全員、一斉に生ゴミの山の方へと視線を向けた。砂塵が舞う中、タケダの姿が、かすかに見え始めた。彼の手に、何か黒いものが握られているのがわかる。そして、彼は、明らかに何かから逃げていた。
タケダの甲高い悲鳴と、何かを引きずるような音が近づいてくる。俺たちは全員、身構えた。ゴトウの「街の住人」という言葉が、俺たちの恐怖を煽る。

砂塵の向こうから、タケダの姿がはっきりと見えてきた。彼は息を切らし、激しく咳き込んでいる。逃げるように走るタケダの手には、巨大な黒いビニール袋が握られていた。

タケダは、俺たちのいる場所まで辿り着くと、その場に倒れ込み、激しい呼吸を繰り返した。

「タケダ! 何があった! 追われているのか!?」ゴトウがタケダの襟首を掴み、問いただす。

タケダは顔面蒼白で、震える指先で生ゴミの山の方を指した。

「あ、あれ……カラスだ……カラスと、野良犬が、袋を取り合ってて……。そいつらに、襲われた……」

俺たちは脱力した。タケダが逃げていたのは、この街にいる大量の動物たちだった。この街にいるのは、人間ではなく、腐臭とゴミに集まる生物たちだ。

しかし、ゴトウはタケダの掴んでいた黒い袋に注目した。

「お前のその袋の中身は何だ!?」

タケダは、その袋をまるで宝物のように抱きしめていたが、ゴトウに促され、おずおずと口を開けた。

袋の中には、濡れないように厳重にビニールに包まれた、いくつかの物体が入っていた。そして、それは、俺たちが最も求めていたものだった。

「これは……炭?」俺は、袋の中の真っ黒な塊を見て、声を上げた。

「それに、これ、着火剤だ!」ヤマモトが、興奮して前に出る。小さな缶に入ったジェル状のものだ。「誰かが使っていたのか、それともゴミとして捨てられていたのか……」

タケダは、喘ぎながら説明した。

「生ゴミの山の下……廃材と一緒に埋まってた。カラスが、しきりにこの袋を突っついてたから……中身が、大事なものだと思って……」

黒いゴミ袋に入っていたのは、水没を免れた少量の炭、固形燃料、着火剤、そして数本のライターだ。火を安定的に準備するための道具一式だった。

この発見は、俺たちに一筋の光を与えた。

「火があれば……水が作れる!」マリが、喜びで声を上げた。「この街のどこかに、雨水が溜まっているかもしれない。それを煮沸消毒すれば、飲める!」

サトウは、興奮して手を叩いた。

「そうだ! そして、食料だ! この街には、カラス、鳩、野良犬、野良猫……それに、ああ、ゴキブリも大量にいる! 煮たり、焼いたりできれば、一か八かだが、これらを非常食にできる!」

ゴトウの顔も、勝利の笑みで歪んでいた。

「よくやった、タケダ! お前のおかげで、生存の可能性が上がったぞ」

ゴトウは、タケダの肩を叩いた。彼にとって、タケダは恐怖で支配すべき駒から、今や命の恩人へと変わった。そして、ゴトウはすぐに主導権を取り戻す。

「いいか、これで生き残る基盤ができた。次は、拠点だ。ケン、お前が見つけた『一番大きな建物』を目指すぞ。火を失うな。ヤマモト、お前がその火の道具を管理しろ」

ヤマモトは頷いた。彼は火の道具を慎重に受け取り、胸元に抱きしめた。

「わかりました。水の確保を最優先にします。サトウさん、この炭の量から見て、何日分の燃料になるか、概算できますか? 無駄遣いはできません」

サトウは、すぐに経営者の顔に戻った。

「うむ。固形燃料と着火剤を最大限温存し、炭を少しずつ使えば……初期探索の移動時間を考慮して、最低でも三日間は持つはずだ。その間に、次の水と燃料を見つけねばならない」

俺たち五人の間に、一時的な「協力」と「希望」が生まれた。火という絶対的な資源が、互いの罪や疑惑を一時的に忘れさせたのだ。

しかし、俺は冷静に考えた。火は強力な武器であり、同時に強力な争いの種になる。この火の管理権を誰が持つか。そして、この火を使って、俺たちは本当に生き物を殺して食べるのか。

俺は、タケダの隣にしゃがみこみ、彼に水を少し与えながら尋ねた。

「タケダ。何にそんなに怯えていたんだ? カラスや犬に襲われただけか?」

タケダは、目をキョロキョロとさせ、震える声で囁いた。

「いや……カラスと犬だけじゃない……。あの生ゴミの山……あそこに、何かが埋まってる。俺が袋を掘り出したとき、土の下で、何か……人間に近いものが、動いた気がしたんだ……」

タケダのその言葉は、俺たちを包んでいた一瞬の希望を、再び、深い疑心暗鬼と恐怖へと引きずり戻した。

「人間? 生ゴミの中に?」ゴトウが、顔色を変えて尋ねた。

タケダは首を横に振る。「わからない。だが、この街は、俺たちだけじゃない。他にも誰かがいる。そう、強く感じたんだ……」

俺たちは、火の道具を手に入れた安堵と、この新たな恐怖に挟まれながら、とりあえず生存のための拠点を目指して、動き出すしかなかった。
タケダの「誰かが埋まっている」という言葉は、俺たち全員の背筋を凍らせた。だが、確認する術はない。そして、火という資源を手に入れた今、立ち止まるわけにはいかない。

「タケダの言うことは気にするな。興奮して見間違いをしただけだ」ゴトウが強引に結論づけた。「火の道具を最優先し、拠点に向かうぞ!」

俺たちは、サトウとヤマモトが遠望して定めた、この街でひときわ大きく見える廃墟のビルを目指して歩き始めた。荒涼とした砂の路上を、警戒しながら進む。

俺たちは、効率を上げるために、二手に分かれて探索を始めた。ゴトウとタケダが前方を警戒しながら進み、俺(ケン)とマリ、サトウ、ヤマモトが後方で火の道具を守り、周囲の建物に立ち寄りながら物資を探す。

いくつかの小さな家を覗いたが、見つかるのは、腐敗した家具、カビだらけの衣服、そして大量のゴキブリだけだった。希望はすぐに削られていく。

「こんな場所、何を探しても無駄だわ」マリが苛立ちを隠せない。「この街は、何もかもが腐りきっている」

「待て」サトウが、一つの廃屋の前で立ち止まった。「この辺りは、他の家よりも少し造りがしっかりしている。生活感が濃い。この区画は、特定の職種の人間が住んでいた場所ではないか?」

元経営者としての彼の視点は鋭かった。その廃屋は、他の家よりも窓が小さく、壁も厚い。倉庫か、作業員宿舎のようだ。

俺は躊躇なく、割れた窓から中を覗いた。中は暗く、埃が酷い。

「入るぞ。ヤマモト、火の道具は持っておけ」

俺とヤマモト、サトウ、マリの四人は、その廃屋に足を踏み入れた。悪臭がひどい。だが、腐敗臭だけでなく、微かに、乾燥した植物のような匂いが混ざっている気がした。

奥の部屋へ進むと、そこは調理場のような場所だった。錆びついた業務用コンロがあり、その横の壁には、金属製の棚が備え付けられていた。

棚の上には、数多くのネズミの糞が散乱していたが、その奥に、目を凝らすと、ネズミがかじりついた痕跡のない、いくつかの麻袋が積み重ねられているのが見えた。

「まさか……」サトウが、震える手で麻袋の一つに触れた。

俺は袋の口を掴み、一気に引き裂いた。

中から、白い粒が、埃と共に流れ落ちた。

「……米だ!」俺は思わず叫んだ。

袋は完全に密閉されてはいなかったが、砂漠の乾燥した空気と、建物の頑丈さのおかげで、中の米は、表面が少し汚れているものの、中まで腐敗してはいなかった。数カ所ネズミにかじられた穴もあったが、使える部分の方が圧倒的に多い。

「嘘でしょう、こんな物が……!」マリが駆け寄り、米粒を手のひらに載せて見た。

ヤマモトがすぐに他の袋を確認する。全部で六袋。そして、その米袋の隅に、ビニールで包まれた段ボール箱が置かれていた。

「こっちにも!これ……乾麺です!」

段ボールの中には、インスタントラーメンのような乾麺が、数十食分、丁寧にビニールで再包装されて入っていた。米と同様に、乾燥状態のおかげで、水分を吸うことなく残っていたのだ。

歓喜が、俺たち四人を包んだ。

「これで……飢えることはない!」サトウが興奮で声を震わせる。「火と水さえあれば、当面、カラスを食う必要もない!」

俺はすぐにゴトウたちに報告するために外へ出ようとしたが、マリに腕を掴まれた。

「ケン。待って!」マリの目は真剣だった。「このことは、すぐにゴトウに言うべきじゃないわ」

「なぜだ?」

「ゴトウは今、タケダの火の発見で主導権を握ったばかり。私たちがこれだけの食料を見つけたと知れば、彼はこれを独占し、私たちを自分の奴隷のように扱うわ。彼は暴力で支配しようとする人間よ。この食料は、私たち四人がゴトウに対抗し、対等な交渉をするための、唯一の武器なの」

マリの言葉は、詐欺師としての冷徹な計算に基づいていたが、この状況では理にかなっていた。ゴトウは、すぐに食料を配給制にして、自分の命令に従わない者には与えないだろう。

ヤマモトも同調する。「はい。サトウさんとマリさんの言う通り、これは私たちの生存権を守るための切り札です。ゴトウとタケダには、少量の物資しか見つからなかったと報告すべきです」

サトウは頷いた。「私も、元経営者として、資源をオープンにすることの危険性は理解している。食料は、私とマリさんで管理しよう。ケンさん、ゴトウへの報告は頼んだ」

食料という命綱を見つけた瞬間、俺たちの間の疑心と生存本能は、ゴトウの暴力支配に対抗するための秘密の同盟へと形を変えた。

俺は米と乾麺を棚の奥深くに隠し、入り口の割れた窓を、瓦礫で目立たないように塞いだ。

「わかった。俺は、何も見つからなかったと報告する。だが、この秘密は、絶対に誰にも漏らすな。もし裏切ったら、俺がお前らを、この街の生ゴミとして処分する」

俺は低い声で脅しをかけ、ゴトウとタケダの元へと走り出した。俺の心臓は、食料を見つけた喜びと、ゴトウを騙す緊張感で、激しく鳴り響いていた。

俺は、食料が隠された廃屋の窓を瓦礫で塞ぎ、ゴトウとタケダの元へ走り出した。心臓がうるさい。米と乾麺。それは、この街で生き残るための命綱だ。

ゴトウとタケダは、遠くの廃ビルの前で、不安そうに俺たちを待っていた。

「おい、ケン! 何か見つかったのか!」ゴトウが焦ったように尋ねる。

俺は、意図的にため息をついた。

「いや、駄目だ。めぼしいものは何もない。ほとんどがゴミと腐った木材だけだ。ただ、マリが、小さな缶詰を一つだけ見つけた。中身は……たぶん、ツナ缶だ。サトウさんが、皆で分ければ一食分にはなるだろうと」

俺は「小さな希望」を提示することで、ゴトウの警戒心を緩ませた。マリの言う「下手に出る」詐欺師のやり方だ。

ゴトウは舌打ちした。「ちっ。缶詰一つか。まあ、何もないよりはマシだが。くそ、この広さで本当に何もないのか」

タケダは、その「小さな缶詰」という言葉にすら、安堵の表情を見せていた。

これで、最初の嘘は通った。俺たち四人が米と乾麺という強力な秘密を共有し、ゴトウとタケダを欺いている。

俺は、マリ、サトウ、ヤマモトの顔を振り返った。

マリは、口元に薄い笑みを浮かべている。彼女の目は、「これで勝った」と確信しているようだ。サトウは、元経営者らしく、この「隠匿」という名の資源管理に、静かな満足を覚えている。ヤマモトは、不安と高揚が混じった表情で、この秘密を「論理的戦略」として受け入れていた。

俺たち四人は、この食料の秘密を共有した瞬間、口には出さないが、全員が同じ冷酷な言葉を思い出していた。

「最後の一人に、救済を」
食料は、全員を助けるためのものではない。この食料は、俺たち四人が、ゴトウとタケダという二人の協力者を、いつ、どうやって切り捨てるかを決めるための、強力な武器だ。

マリは、ゴトウとタケダに聞こえないように、俺に囁いた。

「ケン。あの缶詰は、私たち四人で分けましょう。もちろん、ゴトウとタケダには、少し多めに。彼らを働かせるための餌よ。彼らが体力を消耗して、無防備になった瞬間が……私たちのチャンスよ」

マリの提案は、すでに殺意を含んでいた。彼女は、生存競争において、躊躇なく誰かの命を切り捨てる覚悟を決めている。

ヤマモトが、理詰めで付け加える。

「あの米と乾麺は、私たち四人が自活するための時間稼ぎです。ゴトウとタケダが、私たち四人の秘密に気付かず、体力を消耗し尽くした時点で、私たちの生存率は格段に向上する。彼らを利用することが、現時点での最善の論理です」

サトウは、静かに頷いた。「経営判断だ。不要なコストは、早期に削減すべきだ。だが、今はまだ、彼らの労働力が必要だ。慎重に、そして計画的に進めよう」

俺は、口の中で砂を噛むような感覚を覚えた。俺たちの会話は、すでに『殺人計画』の立案になっている。誰もが、自分の罪の根幹にある冷酷さを、この街で呼び起こしていた。

俺は、マリとヤマモトの提案を受け入れた。

「わかった。当面、ゴトウをリーダーとして泳がせる。タケダには、引き続き危険な斥候役をさせる。火の管理は、ヤマモトとサトウさんが。食料は、マリが適当な場所に移して隠せ。俺は、ゴトウの動きを監視する」

俺たちは、表面上は協力し合う「生存グループ」を装いながら、裏では、誰を犠牲にして生き残るかという冷たい策略を始動させた。

俺たちは、この廃墟の街が、単なるサバイバルゲームではなく、断罪の場であることを、改めて理解し始めていた。

俺たちは、拠点とする廃ビルへ向かって砂の路上を進んでいた。ゴトウは先頭を歩き、暴力的な態度で「リーダー」を気取っている。タケダは、その横で怯えながらも、ツナ缶の油で少しだけ生気を取り戻した顔で、周囲を警戒していた。

俺たち四人、ケン(俺)、マリ、サトウ、ヤマモトは、彼らの数歩後ろを歩く。見た目の上では「協力」だが、俺たちの胸の内には、米と乾麺の秘密、そして冷たい計算が渦巻いていた。

このサバイバルゲームで、最初に脱落するのは誰か。答えは二つだ。

一つは、「弱い者」。体力、精神力、知恵のどれもが欠け、他の者に利用価値がないと判断された者。現時点では、怯えきったタケダがその最有力候補だ。

そしてもう一つは、「憎悪の対象」。その存在がグループの和を乱し、排除することで、他のメンバーに利益や安心感がもたらされる者。

その憎悪を一手に引き受けているのは、間違いなくゴトウだった。

彼の威圧的な態度、タケダへの冷酷な命令、そして、俺の指摘を暴力でねじ伏せようとした傲慢さ。これらはすべて、グループの協力体制を築く上で、最も邪魔な要素だった。マリの言葉が頭の中で響く。

「不要なコストは、早期に削減すべき」

ゴトウは、もはやコストではない。彼は、いつか必ずグループを裏切るリスクであり、何より、俺たち四人にとって感情的な障害だった。

マリが、俺の隣にそっと寄ってきた。彼女の視線は、ゴトウの広い背中を射抜いている。

「ケン」マリが囁いた。「あの男、いつまでもあんな態度でいられると思っているのかしら。彼は自分の暴力で、私たち全員を敵に回した。それに気づいていない」

サトウも、神経質そうに周囲を見ながら、低い声で続けた。

「彼の様な人間は、組織を管理する上では即効性があるが、危機管理においては致命的だ。彼が食料のありかを知れば、たちまち独占に走るだろう。私たちの秘密がバレる前に、彼の主導権を完全に崩す必要がある」

ヤマモトは、論理的な観点から意見を述べた。

「ゴトウさんは、現在のグループ内で最も非論理的で感情的です。私たちの生存計画にとって、最大の不安定要素と言えます。彼の排除は、戦術的に見て、優先順位が高いと考えられます」

誰もが、ゴトウを「切り捨てるべき駒」として見ていた。

だが、ゴトウを排除するとなると、彼が持つ「組織を束ねてきた」という暴力的な実力と経験、そして何より彼の体力が、俺たち四人にとって大きな脅威となる。正面からやり合えば、俺たちが勝てる保証はない。

俺は静かに指示を出した。

「正面衝突は避ける。マリ、サトウさん。この後の拠点での生活で、ゴトウが持つ火の道具の管理権を、徐々に奪う方法を考えてくれ。彼が火を失えば、タケダを支配下に置く手段もなくなる」

「わかったわ」マリが微笑んだ。「男なんて、手のひらで転がすのは慣れている。彼が一番信用している『力』を、別の形で失わせる」

ゴトウは、一歩一歩、その背中に俺たち四人からの憎悪と殺意を集めながら、拠点へと進んでいた。彼が気づいているのか、気づいていないのか。彼がこのゲームの「憎悪の対象」として、最も早い排除リストのトップに躍り出たことは、紛れもない事実だった。

俺は、再び心の中で、あの言葉を繰り返した。

「最後の一人に、救済を」

そして、俺たちの最初の策略が、静かに、そして冷酷に幕を開けた。
俺たちは、拠点とする廃ビルから数百メートル離れた場所に立っていた。ゴトウは今も「リーダー」を気取り、火の道具の管理や今後の探索ルートについて、大声で指示を出している。

「いいか、食料はツナ缶一つだ。これでは動けない。ケン、お前とタケダは、すぐに次の食料を探せ!」

ゴトウは、最も体力がある俺と、最も従順なタケダを、リスクの高い斥候に送り出そうとしていた。

俺は、この瞬間を待っていた。

「ゴトウさん、待ってください」俺は一歩前に出て、あえて低い姿勢で言った。「俺とタケダを出すのは非効率です。タケダはまだ動揺している。それに、私たち全員の安全を確保するには、まずこの街全体の構造を把握しなければならない」

ゴトウが苛立たしげに俺を睨む。「それがどうした。貴様、俺の指示に逆らうのか?」

「逆らっているのではありません。提案です」俺は続けた。「この街で一番高いのは、あの廃ビルでしょう。まずはあそこを拠点にしますが、その前に、隣の廃ビルに登って、街の全体像を把握すべきです」

俺は、数十メートル先にある、もう一つの高さのある廃墟を指差した。

「火の道具と食料がある以上、残りの四人は動くべきではありません。襲撃から守るためにも、この場に残るべきです。タケダはまだパニック寸前だ。ですが、俺とゴトウさんなら、二人だけで、短時間で登頂できます」

俺は、言葉を選んだ。

「ゴトウさん、あなたは組織を束ねる経験がある。この街の広さ、建物の配置、危険なエリアを上空から確認し、戦略を立てる。これは、あなたにしかできない、真のリーダーの仕事です。俺が、あなたの護衛をします」

俺の提案は、ゴトウの傲慢さと支配欲をくすぐるものだった。「戦略を立てる真のリーダー」という言葉が、ゴトウの自尊心を満たしたのがわかった。彼は、俺が自分にすり寄ってきた、忠実な若者だと解釈したはずだ。

ゴトウは、マリ、サトウ、ヤマモトを一瞥した。彼らは皆、無言で、ゴトウの判断を待っているように見えた。実際は、俺の提案に内心で舌打ちしつつも、これが罠の始まりであることを理解し、演技をしているのだ。

「フン。わかった」ゴトウは俺に顎を突き出した。「確かに、この街の全体像を把握するのは、俺の仕事だ。ガキ、お前が護衛しろ。他の奴らは、ここで火の道具とタケダを守っていろ。いいか、勝手な行動は許さんぞ!」

ゴトウは、誰もが「憎悪の対象」として彼を排除しようとしていることに、全く気付いていなかった。俺の提案は、彼にとっての自己肯定の機会でしかなかった。

俺たちは、すぐにその隣の廃ビルへと向かった。

ビルの中は、砂と埃がひどい。階段は崩壊しかけており、慎重に登らなければならない。ゴトウは体格はいいが、60代近く。息切れしているのがわかった。

五階まで登ったところで、俺は声をかけた。

「ゴトウさん、ここがちょうどいい。この高さなら、街の半分は見渡せます」

窓は割れており、廃墟の街並みが一望できた。無数の廃屋、生ゴミの山、そして遠くに、俺たちの拠点候補の廃ビルが見える。

ゴトウは息を整えながら、街を見下ろした。その時、俺はゴトウの死角に入り、マリから託されていたものを、素早く取り出した。

「どうだ、ゴトウさん。何か見えますか?」俺は、まだゴトウをリーダーとして扱うように声をかける。

ゴトウは、警戒心を解き、俺に背を向けたまま、腕を組んで言った。

「見ろ、ケン。この街の構造は……」

その瞬間、俺はゴトウの足元に、油を勢いよくぶちまけた。それは、タケダが見つけた着火剤だ。マリとヤマモトが、ゴトウの火の管理から、事前に抜き取っておいたものだ。

「てめぇ!」ゴトウが、足元に広がる着火剤の匂いに気づき、叫んだ。

彼は振り向いたが、もう遅い。俺は、最後の仕上げとして、小さなライターで、その油へと火を放った。

ボッ!

火は瞬時に燃え上がり、ゴトウの足元を包んだ。彼は驚愕し、バランスを崩してよろめく。床は埃と砂で滑りやすくなっている。

「ちくしょう! 貴様、何しやがる!」

ゴトウは火を避けるため、必死に後ずさった。そして、俺たちが予め崩しておいた、窓際の脆い手すりに、彼の背中が激しくぶつかった。

ガシャン!

手すりは粉砕され、ゴトウは、叫び声を上げる間もなく、そのまま五階の窓の割れ目から、下の瓦礫の山へと真っ逆さまに落下していった。

俺は、燃え盛る火と、ゴトウの落下音を背に、息を荒くした。この一連の動作は、すべて俺たち四人の綿密な計画通りだ。

マリは、ゴトウが最も信用している「力」を別の形で失わせると言った。その力とは、体力と威圧であり、それを失わせるために、俺は卑劣な裏切りを選んだ。

俺は、ゴトウの残した火の道具を拾い上げ、急いで階段を駆け下りた。

「最後の一人に、救済を」

俺は、もう二度と口に出さない、この言葉を胸に、拠点を目指して走り出した。グループから最も憎まれる者、ゴトウの排除は、完了した。
俺は五階の廃ビルから飛び出し、全速力で拠点候補の廃ビルへと戻った。手には、ゴトウが持っていた火の道具一式。

俺が、マリ、サトウ、ヤマモト、そしてタケダの待つ場所にたどり着いたとき、彼らは不安と緊張の入り混じった表情で俺を見ていた。

「ケン! ゴトウさんはどうしたの!?」マリが一番先に俺に駆け寄ってきた。その目は、心配ではなく、確認を求めていた。

俺は呼吸を整え、冷静に答えた。

「ゴトウさんは、街の構造に気を取られて、足元を滑らせた。五階の窓から……落下した」

その言葉を聞いた瞬間、タケダが崩れ落ちた。

「そ、そんな……! ゴトウさんが……」

タケダはただゴトウの威圧に屈していただけだが、彼にとってはゴトウが唯一の強大な庇護者だった。その庇護者が消えた今、彼の動揺は隠しようがない。

一方、マリ、サトウ、ヤマモトの三人の間には、一瞬の安堵と、それ以上の冷たい高揚が走った。彼らは、俺が仕掛けた裏切りが成功したことを理解したのだ。これで、憎悪の対象は消えた。

しかし、その安堵はすぐに、新たな殺意へと変わった。

ゴトウがいなくなったことで、俺たちの間にあった「殺し合いのタガ」は完全に外れた。ゴトウを排除するまで、それはあくまで「防御的」な策略だったが、今は違う。「最後の一人」になるための、純粋な攻撃に切り替わる。

そして、グループ内で最も利用価値が低く、ゴトウの派閥に属していたタケダが、次のターゲットになるのは、必然だった。

マリが、俺に耳打ちする。

「タケダはもう必要ないわ。彼はゴトウの命令で動いていた。今、彼は極度の動揺状態よ。彼が私たちの秘密を誰かに話す前に……」

マリは、言葉の代わりに、冷酷な視線をタケダに向けた。

サトウも、経営者らしく冷静に判断を下した。

「タケダくんは、心理的に脆すぎる。このままでは、食料の隠し場所に気づかれたり、私たちに不利な情報を漏らしたりするリスクが高すぎる。彼を排除することで、私たちはより安定した四人体制を確立できる」

ヤマモトは、眼鏡の奥で冷たい光を宿していた。

「論理的に、タケダさんの体力は魅力ですが、彼の精神的な不安定さは、我々の生存戦略全体のマイナス要素です。それに、五人体制よりも四人体制の方が、一人あたりの食料配分量が増えます」

俺たち三人は、言葉を交わさずとも、タケダの排除という結論で一致した。

タケダは、床に座り込み、うつろな目で周囲を見ていた。その目は、俺たちの間に流れる冷たい空気に、気づき始めていた。

「き、君たち……ゴトウさんは、本当に事故だったのか?」タケダが、震える声で尋ねた。

マリは、一瞬優しく微笑んだ。その顔が、最も恐ろしい。

「ええ、タケダさん。でも、こんな危険な街で、いつ誰が事故にあってもおかしくないわ。だからこそ、私たちで支え合わないと」

マリはそう言いながら、タケダの傍に座り込み、水を飲ませようとした。優しさという名の油断を誘っている。

俺は、マリに合図を送った。今だ。

その瞬間、俺とヤマモトが、同時に動いた。

ヤマモトは、タケダの背後から、手早く彼の首に腕を回し、窒息させる体勢に入った。

「うぐっ……!?」タケダは、何が起こったのか理解できず、もがいた。

タケダは運送業で体力があったはずだが、極度の動揺と、ヤマモトの研究職らしからぬ正確な絞め方に、抵抗する間もなかった。

サトウは、冷静に周囲を警戒している。マリは、依然としてタケダの顔の前で、心配そうに見つめる演技を続けていた。

「ごめんなさいね、タケダさん。でも、私たちも生き残らないといけないのよ。あなたは、ちょっと脆すぎるわ」マリは、心から楽しんでいるかのように、優雅な言葉でタケダに引導を渡した。

数秒後、タケダの身体は痙攣を止め、意識を失った。ヤマモトは、静かにタケダの身体を地面に横たえた。

俺たちは、たった数分で、二人を排除した。

マリが、タケダのポケットから、何かないかを確認する。

「よし。誰も見てないわ。これで、五人から三人になった」マリは、その言葉を、勝利の合図のように響かせた。

俺は、冷たい現実を突きつけた。

「違う。俺たちは今、四人だ」

マリ、サトウ、ヤマモトの三人が、一斉に俺を見た。その目は、すでに次の疑念に満ちている。

「何を言っているの、ケン。ゴトウとタケダを排除したんだから、残りは私たち四人でしょう?」マリが、警戒心を取り戻して尋ねた。

俺は、タケダの動かない身体を指差した。

「この街のルールを忘れるな。『最後の一人に、救済を』だ。ゴトウを殺した瞬間から、俺たち全員、共犯者になった。タケダを排除した今、俺たち四人の間には、明確な優位性も、明確な協力体制もない」

俺は、一歩後ずさった。

「つまり、俺たちが今からするのは、四人での協力体制の維持じゃない。三対一、あるいは二対二、あるいは全員が敵となる、新たな殺し合いの準備だ」

俺の言葉は、マリ、サトウ、ヤマモトの間の、一時的な信頼を、木っ端微塵に打ち砕いた。俺は、食料の秘密を共有するこの三人を、全員が敵として認識し直すよう仕向けたのだ。

俺たちの目の前には、タケダの遺体が横たわっている。それは、俺たちの殺意の証であり、これから始まる本物の殺し合いの、最初の犠牲者だった。

残された四人の間で、極限の緊張感が走り抜けた。

タケダの遺体が、俺たちの足元に横たわっていた。わずか数分前まで、怯えながらも生きていた人間だ。俺たち四人の間には、もはや隠しようのない殺意の残滓が漂っている。

俺は、全員が警戒し合うこの空気を、一度断ち切る必要があった。このままでは、次の殺し合いが、この場で始まってしまう。そして、それは、俺の望む形ではない。

「……落ち着け」俺は、低い声で言った。

マリ、サトウ、ヤマモトは、全員が微動だにせず、俺に警戒の目を向けている。特にマリは、タケダへの裏切りの成功に貢献したはずなのに、その目は鋭く、俺の次の行動を読もうとしていた。

「俺たちがここで殺し合ったって、誰も得しない」俺は続けた。「食料はあそこだ。火の道具はここにある。この資源を失えば、残った一人も、結局は飢え死にする」

ヤマモトが、慎重に言葉を選ぶ。

「ケンさんの言うことは、論理的です。我々は、この廃墟の街の生存可能エリアを見つけるという共通の目標を、まだ達成していません」

「そうだ」サトウが頷く。彼は、すでにタケダの遺体から視線を外し、次の戦略へと頭を切り替えていた。「この街の端、壁際まで行く必要がある。砂漠しかないのか、それとも壁の近くには別の施設や水源があるのか。情報こそが、今の私たちに残された唯一の武器だ」

俺は、まさに彼らが望む提案を口にした。

「では、そうしよう。この廃ビルを一時的な拠点候補とする。火の道具と、さっきのツナ缶はここに残す。そして、俺たち四人で、街の端を目指して探索に出る。今の俺たちに、これ以上の殺し合いの準備をする時間はない。動くことで、逆に警戒を解く」

マリは、俺の顔をじっと見つめ、俺の意図を探ろうとしていた。彼女はすぐに、この提案が「殺意を隠すための口実」であり、「移動中に裏切りを仕掛けるための機会」でもあることを察しただろう。

「いいわ、賛成よ」マリは微笑んだ。その微笑みは、油断ではなく、むしろ覚悟を示していた。「ただし、行くのは四人全員よ。誰か一人でも残れば、その者が隠された食料を独占する可能性がある」

誰もが、この提案に賛成した。誰もが、他の誰かの裏切りを警戒し、誰もが、裏切りの機会を求めていたからだ。

俺たちは、再び荒涼とした街を歩き始めた。目指すは、見渡す限り続く砂漠の壁、その一番近くの廃屋群だ。

四人の間隔は、絶妙に不自然だ。誰もが、いつでも動ける距離を保ちながら、同時に、誰か一人が襲われたときに、助けに入れない距離を維持している。

俺は、一歩前に出る。すぐに、ヤマモトが、俺の斜め後ろに位置取った。彼は、俺の背後から襲いかかることを最も容易にするポジションを選んだのだ。

「ヤマモト」俺は声をかけた。「そんな近くにいると、砂塵で目がやられるぞ」

「いえ、大丈夫です、ケンさん。私は、皆さんの周囲の警戒をしています」ヤマモトは冷静に答えたが、その声には、微かな殺意が混じっていた。

俺は、警戒をマリとサトウに向ける。

マリは、サトウの隣にいる。マリは、サトウの弱さを利用して、彼を盾にするつもりだろう。そしてサトウも、マリの冷徹な計算力を、一時的な庇護として利用している。

三人(マリ、サトウ、ヤマモト)対 一人(俺)。

この構図は、タケダ排除の瞬間から、既に固まっていた。マリの知恵、サトウの経営的な判断、ヤマモトの論理的な実行力。彼らが組めば、俺を排除することは容易だと考えているはずだ。

歩き始めて、十数分。俺たちは、特に荒廃した住宅街の路地に入り込んだ。

その瞬間、攻防が始まった。

「ケン、後ろ!」マリが突然、大声で叫んだ。

マリの視線は俺の背後ではなく、俺の足元を指していた。

反射的に足元を見ると、路地の影から、巨大な野良犬が唸り声を上げて飛び出してきた。ゴトウを排除する際にも、彼らが発見したと言った、この街に大量にいる危険な動物だ。

俺はとっさに身を翻し、犬の牙を避けた。

「くそっ!」

その時、マリが叫んだのは野良犬の存在ではない。それは、合図だった。

俺が野良犬に気を取られた瞬間、ヤマモトが背後から、硬い瓦礫の塊を俺の頭めがけて投げつけてきた。

ガッ!という鈍い音。瓦礫は俺の頭をわずかに掠めたが、直撃は免れた。

「裏切り者!」俺は叫び、野良犬とヤマモト、二つの脅威に挟まれた。

マリは、サトウの腕を掴み、彼を俺と野良犬の間に押し出すように誘導した。

「サトウさん! 野良犬を食料にするチャンスよ! 撃退して!」

サトウは悲鳴を上げた。「やめろ! マリ!」

マリは、サトウを野良犬への囮にし、俺の動きを封じようとしたのだ。

三人対一の攻防は、野良犬という第三者を巻き込み、卑劣な形で始まった。俺は、まずどちらの敵を排除すべきか、瞬時に判断しなければならなかった。俺の脳裏には、「最後の一人に、救済を」という言葉と共に、俺自身の罪の根幹にある冷酷さが甦っていた。

マリの裏切りを合図に、攻防は一瞬で地獄と化した。

野良犬が唸り声を上げて俺に飛びかかってくる。同時に、ヤマモトが投げつけた瓦礫が、耳元を掠めていった。そして何より卑劣だったのは、マリがサトウを盾として、野良犬の前に押し出したことだ。

「サトウさん! 野良犬を食料にするチャンスよ! 撃退して!」マリの甲高い声が響く。彼女は、サトウの恐怖を利用して、俺の動きを封じようとしている。

「やめろ! マリ!」サトウの悲鳴が路地に響く。野良犬は、目の前に現れたサトウの怯えた姿に標的を変え、その足首に牙を剥いた。

状況は最悪だ。

野良犬を相手にすれば、ヤマモトとマリの連携攻撃を受ける。ヤマモトは頭脳派だが、瓦礫を正確に投げる実行力がある。マリは狡猾で、サトウを囮にした。

俺は瞬時に判断した。一番の脅威は、野良犬でも、サトウでもない。冷静に状況を操り、俺の命を狙っているヤマモトとマリの連携だ。

「サトウさん、伏せろ!」俺は全力で叫んだ。

サトウがパニックのあまり、反射的に地面にうずくまった。野良犬の牙は、サトウの頭上を通過する。

その一瞬の隙に、俺は野良犬に向かって走った。サトウを助けるためではない。野良犬を利用するためだ。

俺は野良犬の横をすり抜け、瓦礫で汚れた腕を、そのままヤマモトがいた方向へ振り抜いた。

「てめえ!」

俺の拳は、ヤマモトの顔面を捉えた。ヤマモトは眼鏡を吹き飛ばされ、呻きながら壁に激突した。彼は、俺がサトウと野良犬の相手をしている間に、冷静に次の攻撃を準備するつもりだったはずだ。予想外の反撃に、彼の論理的思考は一瞬で崩れた。

「ヤマモト!」マリが叫び、動揺した。

その隙を見逃さず、俺はヤマモトの近くに落ちていた鉄パイプの残骸を拾い上げた。

同時に、背後から野良犬が再び俺に飛びかかってくる。

「グアァ!」

「マリ!」サトウが、野良犬の攻撃を避けて、悲鳴を上げながら立ち上がった。野良犬は再びターゲットをサトウに向け、彼の腕に食らいつこうとする。

「クソ!」

俺は、ヤマモトを追い詰めるのを止め、野良犬に鉄パイプを叩きつけた。

ガン!

野良犬はけたたましい鳴き声を上げ、足を折られたようにキャンキャン吠えながら、路地の奥へと逃げ去った。

俺は鉄パイプを握りしめたまま、残りの二人に振り向いた。

ヤマモトは眼鏡を失い、顔面を抑えてうずくまっている。彼は今、知性という武器を失い、最も無力な状態だ。

マリは、サトウを盾にしようとして失敗し、完全に孤立していた。彼女の顔からは、先ほどの優雅な笑みが消え、恐怖が浮かんでいる。

そしてサトウ。彼は腕を擦りむいただけで済んだが、俺が自分を助け、マリが自分を囮にしたという事実に、完全にパニックに陥っていた。

「マ、マリさん……なんで……俺を……」サトウはマリを指差し、怒りと恐怖で声が震えている。

「サトウさん、落ち着いて!あれはケンが野良犬を誘導したのよ!私はあなたを……」マリは必死に言い訳をしようとする。

俺は鉄パイプの先端を、ヤマモトの首筋に向けた。

「嘘をつくな、マリ。あんたがサトウさんを盾にしたのは、俺たち全員が見ていた。そして、ヤマモト。あんたの論理的な計算は、俺の拳で狂ったようだな」

俺は、一気にこの場の主導権を取り返した。ゴトウを排除したことで生まれた殺し合いのタガは、今、俺の力によって、一時的に制御された。

この瞬間、三対一の構図は崩壊した。

俺は、鉄パイプを地面に突き刺した。そして、サトウに静かに言った。

「サトウさん。ゴトウを排除したのは、私たち四人の合意だ。だが、あんたを野良犬の餌にしようとしたのは、マリだ。この街で誰を信用するか、自分で決めろ」

サトウは、俺とマリを交互に見つめる。彼の表情は、すでにマリへの憎悪に満ちていた。

「最後の一人に、救済を」。

俺は、知っている。このサバイバルで最も危険なのは、マリのような計算高い裏切り者だ。そして、サトウは、今やマリを排除するための、最も感情的な武器になる。

俺は、次のターゲットを、静かにマリに定めた。

俺の言葉が、サトウの心に火をつけた。彼の目は、自分を囮にしたマリへの憎悪で、らんらんと輝いている。

マリは、サトウが自分を裏切り、俺に味方する決断を下したことを瞬時に察した。彼女の顔は、これまでの冷静な詐欺師の仮面を剥がされ、醜い恐怖に歪んでいた。

「くそっ……!」

マリは、羞恥心も外聞もかなぐり捨てた。彼女は、俺たち三人に背を向け、絶叫にも似た悲鳴を上げながら、路地の奥へと走り出した。

「待て、マリ!」サトウが叫ぶ。その声には、追いついて彼女を罰したいという感情が込められていた。

俺は、マリが逃げ出すのを、黙って見送った。鉄パイプを握る手に力を込める。

マリはいつでも殺せる。

彼女は、食料の隠し場所を知っているというアドバンテージを失い、武器もない。単独で逃げ出したマリは、この広大な廃墟の中で、ただの怯えた獲物に過ぎない。飢えか、野良犬か、あるいはまた別の何かに、いずれ処理されるだろう。

それよりも、俺の目の前に残っている二人の処理が優先だ。

俺は、走り去るマリではなく、うずくまるヤマモトと、憎悪に燃えるサトウに意識を集中した。

ヤマモトは、眼鏡を失い、頭を抑えたまま動けない。彼は論理的な判断を奪われ、今やグループ内で最も無力な「弱者」だ。

サトウは、マリへの怒りで興奮状態にあるが、体力も戦闘能力も低い。しかし、この怒りは、俺にとって利用価値のある爆薬だ。

俺の脳裏で、冷たい計算が働いた。

ヤマモト:負傷しており、いつでも処分できる。しかし、彼の知性はまだ利用できるかもしれない。

サトウ:感情的になっており、俺の指示に従う可能性が高い。彼にマリを追わせれば、俺は彼らの両方を消耗させられる。

「追うな、サトウさん」 俺は静かに命じた。

サトウは立ち止まり、俺を振り返った。

「な、なんでだ、ケン! あいつは俺を殺そうとしたんだぞ! このまま逃がして……」

「わかっています」俺は言った。「ですが、彼女はもう脅威じゃない。体力を無駄にするな。それよりも、今、一番危険なのは誰か、考えろ」

俺は、鉄パイプを握りしめ、うずくまるヤマモトを指差した。

「マリは逃げた。だが、ヤマモトはここにいる。彼は、俺たち全員の秘密、特に食料の隠し場所を知っている。そして、俺の顔と、俺がゴトウを殺した瞬間を、覚えている」

サトウの顔から、マリへの怒りが薄れ、代わりにヤマモトへの恐怖が浮かんだ。そうだ、マリは遠くへ行ったが、ヤマモトは、秘密を握ったまま、すぐそこにいる。

俺はヤマモトに近づいた。彼は、視線を合わせようとしない。

「ヤマモト。あんたの論理は、俺たちが先に動くことを推奨した。その結果がこれだ。あんたの知性は、もはや俺たちを助けるツールではない。危険因子だ」

ヤマモトは、震える声で懇願した。

「待ってくれ、ケンさん……! 僕は、協力する。食料の配分管理、街の探索ルート……僕は、まだ役に立てる! 殺さないでくれ!」

俺は、鉄パイプを振り上げ、ヤマモトの頭上に掲げた。

「サトウさん」俺は、鉄パイプ越しにサトウに視線を送り、冷酷な目で囁いた。「この街のルールを忘れるな。弱者と、憎悪の対象。そして、利用価値のない情報源は、即座に排除される。あんたは、どうする」

サトウの顔は、恐怖と、再びの生存本能でぐちゃぐちゃになっていた。彼は、今、俺に逆らえば、自分がヤマモトの隣に並ぶことを理解している。そして、ヤマモトを排除すれば、食料は俺と彼、そして逃げたマリの三人で分け合うことになる。

「……ヤマモトくん」サトウは、うめくように言った。「すまないが……君は、あまりに不安定だ。私たちは生き残らなければならないんだ」

サトウは、自らの手で、ヤマモトを排除する意思を示した。俺の策略は成功した。

俺は、鉄パイプを静かに下ろした。

「待て。サトウさん、手は汚すな」俺は言った。

俺は、ヤマモトの抵抗を許さぬよう、彼の腹部に強烈な蹴りを入れた。ヤマモトは呻き声を上げて倒れ伏す。

「マリを追うのは、その後だ。まずは、この街の端を見つける。情報だ、サトウさん。あんたの言った通りだ」

俺は、倒れたヤマモトの身体を見下ろした。いつでも殺せる。だが、彼の知識は、俺がマリと戦う上で、最後の切り札になるかもしれない。

俺は、ヤマモトを気絶させるだけに留め、サトウと共に、再び街の端を目指して歩き始めた。サトウは、俺の隣で、自分の手が血に染まらなかったことに安堵しつつ、マリへの怒りを燻らせている。

この時点で、俺は二人を手の内に入れた。残りはマリ。俺の「最後の一人」への道は、まだ続く。

俺は、意識を失ったヤマモトを路地の影に横たえ、サトウと共に再び歩き始めた。サトウはマリへの憎悪で頭が一杯だ。

「ケンさん、マリを追わないんですか!? あいつは必ず、食料の隠し場所に戻るぞ!」サトウが焦れたように言った。

「落ち着いてください、サトウさん」俺は冷静に答える。「マリはもう、食料の場所に戻るほどの勇気はない。彼女は逃げた。野良犬か、飢えが彼女を処理するのを待つだけでいい。それよりも、俺たちの目の前の敵を優先するべきだ」

俺はあえてそう言ったが、心の中では、マリの排除が急務だと理解していた。

マリは、俺たちが米と乾麺を見つけた隠し場所を正確に知っている。そして、俺がゴトウとタケダを排除したことで、彼女は俺の冷酷さを理解した。彼女が食料を独占し、新たな協力者を見つける前に、俺が彼女を仕留めなければならない。

俺は、サトウの顔を覗き込んだ。

「サトウさん。あんたの言いたいことはわかる。マリを放置するのは危険だ。では、先にマリを倒す。それでどうです? 食料の秘密を知る裏切り者は、全員排除する。ヤマモトは動けない。残るはマリだ」

サトウの顔が、期待と安堵で輝いた。「そ、そうか! ケンさんがそう言ってくれるなら、心強い! マリさえいなくなれば、我々二人の勝ちだ!」

二人の勝ち。

俺はサトウのこの言葉を心の中で嘲笑った。サトウはマリへの復讐心と、俺への依存心で、自分が俺の次の排除リストの二番目にいることに気づいていない。

「では、あの廃ビルの方へ戻りましょう。マリは、必ずあの辺りを徘徊しているはずだ」

俺は、警戒を怠らず、サトウと共に廃墟の中を移動した。俺は、サトウの動きを常に視界に入れ、彼がいつでも俺に攻撃を仕掛けられない距離を保つように注意を払っていた。

マリは、俺がゴトウにしたように、俺の死角から不意打ちを仕掛けてくるだろう。だが、俺は鉄パイプを握りしめ、常に背後を警戒している。

路地を曲がり、瓦礫が堆積した広い空間に出た。

「マリ! いるなら出てこい! 無駄な体力を使うな!」俺は敢えて大声で叫んだ。これは、マリを誘い出すための罠だ。

「ケンさん、後ろは……」

サトウの声が、異常に近かった。

俺は反射的に振り向いたが、もう遅い。

ゴトウ、タケダ、ヤマモトを排除し、俺が優位に立ったと慢心していた、その一瞬の隙。

「すまない、ケンさん」

サトウが、絶叫にも似た謝罪を口にした瞬間、俺の視界は、閃光に包まれた。

ゴトウを殴りつけるために使った、あの鉄パイプ。それが、俺の頭部に、凄まじい勢いで叩きつけられたのだ。

俺の全身から力が抜け、鉄パイプと頭蓋骨がぶつかった鈍い衝撃音だけが、世界を満たした。激しい頭痛と、意識が遠ざかる感覚。

俺は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

裏切り。

俺が警戒すべきは、逃げたマリでも、無力なヤマモトでもなく、最も頼りにしてきたサトウだった。

薄れゆく視界の中で、俺の顔のすぐ隣に、マリの顔が見えた。彼女は、先ほどの恐怖の表情ではなく、冷酷な笑みを浮かべていた。

「バカな男ね、ケン」マリの声が、遠くで聞こえる。「あなたは、私が弱い女を演じたことしか見ていなかった。そして、サトウさんが私を裏切ったと思った?」

マリは、倒れた俺の鉄パイプを拾い上げ、サトウに渡した。

「サトウさんと私は、あなたがゴトウを排除するずっと前から、協力関係にあったのよ。サトウさんの『元経営者』の肩書きは嘘。彼はただのサクラ。私に、論理的な言い訳と隠蔽の協力をする役割だった」

マリの真実の言葉が、俺の脳裏を貫いた。サトウは、最初からマリと組んでいた。マリが「か弱い女」を演じ、サトウが「管理能力」をアピールしたのも、すべては俺たちを欺くための役割分担だったのだ。

俺がゴトウへの追及を仕掛けた時、マリがすぐに乗ってきたのも、俺たち四人を「協力体制」という形で、彼女の掌で踊らせるためだった。

そして、俺を裏切ったように見せかけた、あの野良犬の攻防。

「あの時、私がサトウさんを盾にしたように見えた? 違うわ。あれは、サトウさんが私に近づく俺の警戒心を解くための、私たち二人の芝居よ。そして、あなたが私を助け、サトウさんへの信頼を失うよう仕向けたの」

マリは俺を見下ろし、勝利を確信した声で言った。

「あなたは、暴力と裏切りで支配しようとした。でも、私は信頼の構築と、心理的な操作で支配したのよ。最後の一人になるのは、私よ、ケン」

俺の意識は、暗闇に飲み込まれていった。ゴトウを排除し、タケダを殺し、ヤマモトを無力化した俺の冷酷な戦略は、最も危険な裏切り者、マリの用意した筋書きの中で踊らされた、滑稽な道化師の結末だった。

俺の意識は、暗闇に飲み込まれていく。頭部に叩きつけられた鉄パイプの衝撃が、全身の感覚を奪っていた。

薄れゆく視界の中で、マリの冷酷な笑みが、俺の顔のすぐ隣にあった。彼女は勝利を確信している。

「あなたは、暴力と裏切りで支配しようとした。でも、私は信頼の構築と、心理的な操作で支配したのよ。最後の一人になるのは、私よ、ケン」

その横に立つサトウが、鉄パイプを握りしめている。彼は元経営者としての仮面を剥がされ、その顔は、マリへの絶対的な服従と、何かに怯えるような安堵で入り混じっていた。

「サトウさん……あんたも……」俺は、かろうじて掠れた声を出した。

マリは、俺の最後の問いかけを、憐れむように受け止めた。彼女は、サトウの隣に立ち、親愛の情を示すように、彼の腕にそっと手を添えた。

「サトウさんの目的はね、ケン。彼が長年経営者として失ってきた、もっとも甘くて、もっとも愚かなものよ」

マリは、冷たい目でサトウを見つめながら、その真実を暴いた。

「サトウさんはね、私の愛が欲しかったの。彼は、この街で生き残ることで、私という若くて美しい女性の隣に立つ、ただ一人の男になりたかった。彼の過去の地位や金じゃ買えなかった、絶対的な愛情を、この極限状況下で手に入れようとしたのよ」

サトウの顔が、一気に赤く染まった。羞恥、そしてマリにすべてを暴かれた絶望。だが、彼の瞳は、それでもマリへの執着を捨てていない。

「マリさん……俺は、俺は君のためなら……!」サトウは、マリの手に頬を擦り寄せようとした。

マリは、さっと手を引き、冷笑した。

「バカね。彼の管理欲も、彼の愛情も、私にとってはただのツールよ。彼は、ゴトウやあなたのような危険な牡馬を排除し、私に絶対的な安全と食料の管理をもたらすための、忠実な老犬に過ぎないわ」

「そう、サトウさん。あなたの目的は達成されたわ。あなたは、私という『資源』の隣に立つことを許された。ただし、私の支配下でね」

サトウは、その残酷な言葉に打ちのめされながらも、マリに一言も反論できない。彼は、愛という名の鎖で、マリに完全に支配されていた。

俺の意識は、遠のいていく。

ゴトウは暴力に溺れ、タケダは恐怖に怯え、ヤマモトは知性に固執し、そしてサトウは愛という幻想に縋った。そして、俺は、傲慢と裏切りに酔いしれた。

この街で、最も危険なのは、他人の欲望を利用する人間だ。

マリは、俺たち全員の罪と弱さを、自分の生存のための完璧な筋書きに組み込んでいた。

「最後の一人に、救済を」。

その救済は、マリに与えられるだろう。彼女は、愛という最も美しい嘘で、この断罪の街を制圧したのだ。俺の視界は、ついに暗闇に閉ざされた。

ケンは、倒れたまま動かなくなった。彼の若くて傲慢な目が、光を失っていくのをマリは確認した。

マリは鉄パイプを瓦礫の上に置き、サトウを振り返った。勝利の陶酔感が全身を巡る。ゴトウ、タケダ、ケン。最も危険な男たちを、彼女はすべて愛という名のロープで縛り、排除させた。残るは無力なヤマモトと、この忠実な老犬、サトウだけだ。

「さあ、サトウさん。終わったわ」マリは優雅に微笑んだ。「これで、私たちの計画通りよ。食料を確保し、ヤマモトを利用すれば、この街は私たち二人のもの。あなたは、私に最高の安全性をもたらしてくれたわ」

サトウは、俺たちに背を向け、ケンを殴りつけた鉄パイプを静かに地面に置いた。彼は、汚れた手で、マリの顔にそっと触れようとした。

「ああ、マリさん。すべては君のためだ」サトウの声は、かすれ、そして異常に熱を帯びていた。「私は、君にふさわしい唯一の男になった。ゴトウもケンも、君の価値を理解できなかった。だが、私だけは、君の純粋さと美しさを、この汚れた世界から守り抜いた」

マリは、一瞬たじろいだ。彼の言葉は、彼女が仕組んだ「愛の幻想」を、遥かに超える倒錯的な熱量を帯びていた。

「ええ、サトウさん。ありがとう」マリは距離を取り、あくまで支配者として話した。「では、早くここを離れましょう。ケンやタケダの遺体は、すぐにカラスの餌になるわ。食料の隠し場所に戻って……」

その時、サトウがマリの腕を力任せに掴んだ。

「待て、マリ」

彼の握力は、元経営者とはかけ離れた、強い狂気に満ちていた。マリは、今まで欺いてきた相手と同じレベルだと油断していたが、このサトウは、ゴトウやケンとは全く異なる、本物の倒錯者だった。

「何を、サトウさん……」

サトウは、マリを逃がさないように掴んだまま、マリの頬に顔を近づけた。彼の目は、獲物を前にした飢えた獣のように、ぎらついていた。

「もう終わりだ、マリ。私の献身的な愛によって、すべてが終わったんだ」

「私たち二人が生き残る。それは、マリ、君のすべてが、私のものになるということだ」サトウの顔が歪む。

「君の肌も、髪も、その冷酷な頭脳すらも、私という唯一の庇護者がいなければ、一瞬でゴミになる。マリ、君のその美しい爪の先まで、すべてが私の所有物になる。君はもう、私に嘘をついたり、私を支配しようとしたりする必要はないんだよ」

マリの背中に、冷たい汗が流れた。彼女は、愛を演じた。だが、サトウは、その演技を真実として捉え、彼女の存在すべてを自分の理想の所有物として完成させようとしていたのだ。

彼女がゴトウやケンに抱いた警戒心よりも、遥かに恐ろしいものが、この老人の胸の中にあった。彼は、彼女の肉体的な愛だけでなく、彼女の自由意志そのものを、永遠に奪おうとしている。

「サトウさん、何を言ってるの。私たちは対等なパートナーよ。冷静になりなさい!」マリは、いつもの支配的な口調で彼を宥めようとした。

しかし、サトウは微動だにしない。

「対等? マリ、君はまだ、私に嘘をつこうとしているのか? 君は私の『理想の妻』だ。妻と夫は対等ではない。妻は夫の庇護を受け、夫に従う。私の手によって、君の純粋さは守られたんだ。これからは、私がお前を管理する。食料だけでなく、お前の呼吸、お前の行動、すべてをだ」

サトウの顔には、恍惚とした支配欲が浮かんでいた。彼にとって、このサバイバルは、彼女を完璧な所有物にするための、結婚の儀式だったのだ。

マリは、自分の武器が、完全にサトウによって奪い取られたことを悟った。彼女が彼に与えた「愛」は、彼にとって永久的な支配権の証書になってしまった。

「最後の一人に、救済を」。

その救済は、マリにとって、永遠の奴隷となることだった。彼女の冷酷な知性は、このサトウの倒錯した愛という、最も非論理的で予測不可能な脅威の前で、完全に凍り付いた。

マリの顔から、一瞬で血の気が引いた。彼女が仕組んだ「愛の幻想」が、彼女自身の命を脅かす狂気の鎖となったことを悟ったのだ。

「サトウさん、正気に戻って! 私たちには、まだ食料があるわ。ヤマモトも生かしておく必要がある。私を殺したら、あなたは孤独になり、すぐに飢え死にするのよ!」マリは必死に理性を訴えかけた。

しかし、サトウの倒錯した支配欲は、理性などでは止められなかった。

「違う、マリ。私は君を殺さない。私の理想は、君の自由な意志を永遠に停止させることだ」

サトウは、マリを掴んだ腕にさらに力を込めた。彼の顔は、愛と狂気の混ざった歪んだ表情をしていた。

「私に従わないマリは、欠陥品だ。だが、死んだ君は、永遠に私の所有物として、美しいままでいられる。君の魂は、この街で永遠に私に縛られるんだ!」

サトウは、狂気に満ちた眼差しで、瓦礫の上に落ちていた鉄パイプに手を伸ばした。

マリは、これが最後の瞬間だと悟った。彼女の計算は、すべてこの男の病的な執着によって崩壊した。

「ふざけないで!」

マリは、か弱さを装うことをやめた。彼女は本能的な抵抗を開始した。腕を掴むサトウの手を、爪を立てて全力で引っ掻いた。サトウの老いた皮膚が破れ、鮮血が滲む。

「ぐっ!」サトウが怯んだ一瞬、マリは鉄パイプを掴もうとする彼の手を避け、地面に転がっていた鋭利なガラス片を素早く掴み取った。

サトウは怒鳴った。「裏切り者め! 永遠に私のものになれ!」

サトウは鉄パイプを振り上げ、マリの頭部めがけて振り下ろそうとした。マリは身をよじってそれを避け、鉄パイプは瓦礫に激しい音を立てて叩きつけられた。

その隙に、マリは獣のような目でサトウに飛びついた。彼女は、彼の首元ではなく、彼の腹部の柔らかい皮膚に、手にしたガラス片を躊躇なく突き立てた。

ズブッ!

ガラス片が、サトウの腹部に深く食い込んだ。サトウは苦悶の表情を浮かべ、喉の奥から呻き声を上げた。

「マ、マリ……! お前……」

サトウの力は急激に失われ、マリを掴んでいた手も緩んだ。しかし、死の直前の本能的な力は、驚くほど強かった。

サトウは、ガラス片が刺さった腹部を気にせず、手にしていた鉄パイプを最後の力で、マリの胸元に突いた。

ゴツン!という、鈍い、しかし致命的な音。

マリは口から血を吐き出し、目を見開いた。彼女の冷酷な知性は、この結末を計算できなかった。彼女の視線は、倒れたケンの遺体と、ガラス片が刺さったサトウの腹部をさまよった。

サトウは、腹部の激痛に耐えながら、マリの身体を強く抱きしめた。

「これで……永遠に……私のものだ……」彼の声は、歓喜と苦痛で震えていた。

マリは、自分の胸元に食い込んだ鉄パイプの感触を感じながら、抵抗する力を失った。彼女の目から、光が消える。

マリとサトウは、互いに深く傷つけ合ったまま、瓦礫の上に抱き合うように倒れ込んだ。

彼らが最後に残したのは、血だまり、鉄パイプ、ガラス片、そして、二人分の遺体。

路地の影では、頭を打って気絶していたヤマモトが、その激しい争いの音と、絶叫を聞きながら、ゆっくりと意識を取り戻しつつあった。

彼は、眼鏡のないぼやけた視界で、二つの動かない人影を見つめた。

この廃墟の街に、生き残っているのは、ヤマモト、ただ一人となった。

「最後の一人に、救済を」。

ヤマモトは、死と裏切りが支配する地獄の中で、救済を手に入れた。

ヤマモトは、茫然自失のまま、目の前の光景を認識していた。

冷たくなったマリと、腹部から血を流して絶命したサトウ。自分の周りに横たわる三つの動かない人影。眼鏡がないため、すべてがぼやけているが、それが紛れもない勝利の証拠だと理解した。

彼は、荒い呼吸を繰り返す。この街で、生き残ったのは自分だけ。マリの冷酷な知性、サトウの倒錯した愛、ケンの傲慢な暴力。すべてが自滅した結果、彼は「救済」を手に入れたのだ。

「……救済」彼は掠れた声で呟いた。その声には、歓喜も、悲しみもなかった。ただ、空虚な勝利感だけが残った。

その瞬間、路地の廃墟全体が、信じられないほどの強い光に包まれた。

それは、太陽光ではない。上空から降り注ぐ、部屋全体を白く塗り潰すような、轟音と共に現れた人工的な光だ。頭上から圧力がかかり、地面全体が激しく揺れ動く。

山本は再び激しい吐き気と頭痛に襲われた。身体は光の中に溶けていくような感覚に囚われる。

「う、あ……!」

彼は光に抗えず、その白い閃光の中で、再び意識を失った。

次に目を覚ましたのは、冷たいコンクリートの上だった。

頭痛は消えていた。喉の渇きと、全身の冷たさ。天井にはシミがあり、カビと埃が混ざったような悪臭が鼻につく。

ここは、六畳ほどの汚い部屋。

ヤマモトは、身体を起こした。彼の目の前には、見覚えのある五人の男女が、意識を失っていたかのように床に転がっている。

彼らは、全員が混乱と恐怖に顔を歪ませながら、次々と覚醒し始めている。

「な、何が起こったのよ……」一人の女が、怯えた声で呻いた。

「わからん……最後に何をしていたかも、思い出せん……」老けた男が、額を押さえながら呻く。

ヤマモトは、その光景を、奇妙な既視感と共に見ていた。彼はもう、戸惑うことはない。すべてを経験した、ただ一人の生存者として。

その時、一人の男が、ポケットから白い紙切れを取り出した。そして、混乱した目で、山本に話しかけた。

「あ、あんた何か知らないか? 目を覚ましたらここにいて……ポケットによくわからない紙切れが入ってるんだが」

男の手に握られた白い紙片。山本は、その紙がどんなに多くの血と裏切りを伴うかを知っていた。

ヤマモトは、虚ろな目で、床に転がる五人の顔を見つめた。彼らは皆、ゴトウであり、ケンであり、マリであり、サトウだ。そして、タケダであり、過去のヤマモト自身でもある。

「最後の一人に、救済を」

ヤマモトは、冷たい床に手をつき、掠れた声で呟いた。

「…………あと、何人いるというのだ」

幸福な少女 母の思い

あの日、金曜日の夕方。私は悠斗を迎えに、和彦はハンバーグの買い出しに、それぞれ家を出た。心菜が、リビングでブロックを広げながら「おるすばんのプロだからだいじょうぶ!」と笑っていたのが、私の最後に見た心菜の笑顔だった。

私たちは、ほんの数分のうちに、幹線道路の交差点で永遠に途切れてしまった。

意識が霧のように晴れた時、私たちは家族三人、見知らぬ、温かい光の中に立っていた。悠斗が「ママ、パパ!」と泣きつき、和彦が私の手を握った。

すぐに、私たちは理解した。私たちは、もうあの家に帰れない。

「心菜は?心菜はどうなるんだ、美香!」和彦の焦燥が、この静謐な空間で唯一の痛みを伴う感情だった。

私たちは、透明な壁の向こう側から、あの家を見た。リビングの電気はついたまま。テレビは通販番組を流している。そして、玄関の冷たい階段に、心菜が小さな体を丸めて眠っていた。

「ああ、心菜……ごめんね、すぐに帰るって言ったのに」

私たちには、声をかけることも、抱きしめることもできない。ただ、その孤独な夜を、見つめていることしかできなかった。

土曜日、心菜は目を覚ました。冷蔵庫のドアノブに手が届かず、床に座り込む心菜の姿を見て、和彦は「俺が行って、抱き上げてやる!」と壁に手を伸ばしたが、虚しくすり抜けた。

日曜日の午後。心菜の小さな心が壊れる瞬間を、私たちは見ることになった。

心菜がサッカーボールを壁に叩きつけ、調味料や食器を床に叩きつけるたび、悠斗は「やめろよ、心菜!」と泣き、私は必死で叫んだ。「心菜、もうやめて!危ないわ!」

しかし、私たちの声も、悲しみも、あの家には届かない。心菜の小さな暴走が、誰にも気づかれず、誰にも止められないまま、部屋を荒らしていく様子は、私たちにとって地獄のようだった。

「ごめん、心菜。誰も片付けてあげられない」和彦が床に散乱した砂糖の粉を見つめた。

そして、月曜の朝。私たちが最後の希望を託した、地方の父母(心菜の祖父母)が、私たちと同じように事故に遭い、命を落としたことを知ったとき、私たちの心は二度目の絶望に突き落とされた。

「誰も……心菜を助けに行けない」

警察が破錠し、荒れた家から心菜を抱き上げた時、私たちは心から安堵した。あの小さな体が、やっと保護された。

しかし、その後の心菜の「うそ」と「拒絶」の日々を見守るのは、新たな苦痛だった。

「かくれているんだよ。サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

一時保護所の佐藤職員に、満面の笑顔でそう話す心菜を見て、私は泣いた。

「この子は、自分の心を守るために、私たちを『生きている』ことにしたのね……」

私たち家族全員の死というあまりにも巨大な真実を、五歳の心菜が受け入れることはできなかった。その「否認」が、心菜にとっての唯一の生存手段となってしまった。

その後の13年間。心菜は私たちの「サプライズ」に整合性を持たせるために、嘘を重ね、社会から孤立していった。周囲から「嘘つき」「異常者」と蔑まれ、ついには精神病院の白い壁に閉じ込められることになった。

その間、多くの大人が心菜に真実を伝えようとしたが、心菜はいつも静かに拒否した。

「ああ、私たち家族を殺したのは、私たち自身が起こした事故なのに。この子の人生を狂わせた」私は何度も後悔した。

病院に隔離され、薬によって思考能力を奪われた心菜の姿は、見るに堪えないものだった。

しかし、薬物が彼女の精神を現実から完全に引き離した時、奇妙な、そして安堵すべきことが起こった。

ある夜、心菜の夢の中に、私たちは現れた。

「ただいま、心菜」「ごめんね、すごく時間がかかっちゃったね」

それは、心菜の心の中で、13年越しの「サプライズパーティー」が完成した瞬間だった。

心菜は、23歳の体ではなく、5歳の笑顔で私たちに飛びついてきた。彼女の口から漏れる「うわごと」は、ハンバーグ、サッカー、そして誕生日のケーキの話ばかりだった。現実の苦痛から遮断された心菜は、頭の中で、永遠に冷めない家族の温もりの中にいた。

「これでいいのね、和彦」私は和彦に尋ねた。 「ああ。この子は、現実の地獄を背負うよりも、この夢の中で幸せになることを選んだんだ」和彦は心菜の夢の中の頭を優しく撫でた。

数年後、心菜の顔に満面の笑顔が浮かんだまま、静かに息を引き取ったとき、私たちは知った。

心菜は、私たちの事故によって途切れた金曜日の夕暮れの続きを、完全に、そして幸せな形で、自分の心の中で生ききったのだと。

私たちは、白い監獄のベッドから解放された心菜の魂を抱きしめた。彼女はもう泣いていない。ただ、満たされた笑顔で、私たちに言った。

「サプライズ、大成功!」

私たちは、心菜の安息が、私たち自身が負わせた最も大きな苦痛の唯一の救済であると悟り、永遠の光の中で、共に心菜を抱きしめ続けた。

幸福な少女

東京都内の閑静な住宅街。築浅の一戸建ては、幸せな四人家族の笑い声が満ちる場所だった。

父、和彦(40)はIT企業の課長。妻の美香(40)も同じく総合職で働く、共働きの家庭だ。長男の悠斗(7)は、小学校に入ってサッカーに夢中の小学二年生。そして、長女の心菜(5)は、人懐っこい笑顔が特徴の幼稚園年長さん。

金曜日の夕方。いつものように慌ただしくも平和な時間が流れていた。

悠斗は、週に一度のサッカー教室。普段は美香が迎えに行くのだが、今日は会社で少し残業があったため、終了時刻ぎりぎりに迎えに行くことになった。

「心菜、お留守番できるかな?ママ、悠斗兄ちゃん迎えに行ってくるからね。すぐ帰ってくるよ」

ソファで塗り絵をしていた心菜は、満面の笑みで答えた。

「はーい!心菜ちゃん、おるすばんのプロだからだいじょうぶ!」

美香は心菜の頭を撫で、急いで玄関を出た。

ほぼ同時に、和彦が鍵と財布を手にキッチンに顔を出した。

「じゃあ、俺は晩飯の買い出しに行ってくる。今日は心菜のリクエストでハンバーグにするか。美香、悠斗を頼むな」

「はーい、行ってらっしゃい!」

和彦もまた、家から一番近いスーパーへと向かう。都会の核家族らしく、近所付き合いは挨拶程度。家族同士で深く付き合うような親しい友人もいなかった。

家には、心菜がたった一人。少しずつ日が傾き、西日がリビングをオレンジ色に染めていた。

和彦と美香が出て行ってから、心菜は塗り絵を終え、リビングのおもちゃ箱をひっくり返してブロック遊びを始めた。時刻は午後6時を過ぎたところ。

「もうすぐハンバーグだぁ」

心菜は、ブロックで大きな家を作りながら、無邪気に夕飯を待っていた。

午後7時。

心菜は遊びに飽き、テレビをつけた。アニメが始まる時間だ。しかし、心菜の心の中に小さな違和感が芽生え始める。いつもなら、この時間には「ただいま!」という声が聞こえてくるはずなのだ。

午後8時。

テレビアニメも終わり、心菜はソファの上に座って玄関をじっと見つめていた。お腹がぐう、と鳴る。お留守番は得意なはずなのに、心菜の瞳にはうっすらと不安の色が浮かび始めていた。

「おそいなぁ……」

心菜はスマートフォンを探したが、美香と和彦が持っていったことを思い出す。

午後9時。

外はすっかり闇に包まれている。家の中の時計がカチカチと秒を刻む音だけがやけに大きく響いていた。心菜はもう遊ぶ気力もなく、玄関前の階段に座り込んで、ただひたすら扉が開くのを待っていた。

「パパ?ママ?にいちゃーん……」

小さな声で家族の名前を呼ぶが、返事はない。

都内の一戸建ては、周囲の住宅との距離が近いようでいて、個々の生活空間は独立している。隣近所の家族は、自分たちの夕食を済ませ、団欒しているのだろう。心菜の家の異変に気づく者は誰もいなかった。

そして、祖父母は遠く離れた地方で暮らしており、気軽に連絡を取れる距離ではない。

心菜は、生まれて初めての、得体のしれない孤独と恐怖に襲われていた。家族旅行の時でさえ、絶対に離れることのなかった家族が、まるで見えない壁の向こうに消えてしまったように感じた。

その頃、都内から少し離れた幹線道路沿いのニュース速報が流れていた。

「本日夕方、O区、K付近の交差点で、大型トラックと乗用車の衝突事故が発生しました。巻き込まれた歩行者、乗用車の運転手と助手席の同乗者、そして近くの歩道を歩いていた小学生を含む、計三名の死亡が確認されています」

事故の時刻は、ちょうど美香が悠斗を乗用車に乗せて、スーパーへ向かっていた和彦と合流する少し前。

美香が運転する車は、悠斗を乗せてサッカー教室の帰り道、横断歩道のない交差点に差し掛かった。そこへ、スーパーでの買い物を終え、急ぎ足で帰路についていた和彦が、歩道を歩いていた。悠斗が窓から和彦を見つけ、「パパ!」と声を上げ、美香も和彦に手を振った、その時だった。

信号無視をした大型トラックが、美香の運転する乗用車に、そしてその衝撃で車道を飛び出した乗用車が、近くの歩道を歩いていた和彦を巻き込んだ。

一家の幸せを運んでいた三人が、同じ時間、同じ場所で、永遠の眠りについてしまった。

その事実は、都心の静かな一軒家で、心菜が眠りにつく夜中まで、誰にも知られることはなかった。

午前零時を過ぎた。

心菜は、待ち続けた玄関の冷たい階段に、丸くなって寝ていた。目元には、乾いた涙の跡が残っている。

「ただいま」の声は、今夜も、そしてこれからも、二度と響くことはない。

明るいリビングの電気はつけっぱなし。テレビは深夜の通販番組を流している。

心菜の家を取り巻く都会の夜景は、何事もなかったかのように静かで、無関心だ。

外の世界では、とてつもない悲劇が起きたことを、家の中の小さな心菜はまだ知らない。彼女が知っているのは、パパも、ママも、兄ちゃんも、誰も帰ってこないという、たった一つの、冷たい現実だけだった。

明日、目が覚めても、心菜は一人だ。

これから始まる、彼女の新しい生活を、誰も知らない。

土曜日の朝。光が心菜の瞼を突き刺し、強制的に目を覚まさせた。

心菜は冷たいフローリングの上、昨日着ていた服のまま、身を丸めていた。喉がカラカラに乾いている。

「マ、マ……」

声がかすれていた。心菜は立ち上がり、家の中をゆっくりと歩き回る。

キッチン。昨夜の夕食の準備を待つための食器が、テーブルの上にそのまま残されている。和彦がいつも座る椅子、美香の座る椅子、悠斗が座る椅子の全てが空席だ。

心菜は、冷蔵庫の前に立った。何か食べ物、牛乳、ヨーグルト。しかし、心菜の身長では冷蔵庫の高い位置にあるドアノブに手が届かない。どうにかよじ登ろうとするが、滑ってしまい、心菜は冷たい床に座り込んだまま、どうすることもできなかった。

トイレに行きたい。心菜は一人でトイレに行けるが、いつもはママが「終わったよ」の声を聞いて手を洗うのを見てくれていた。今は誰も見ていない。

家の中は、明るいのに、凍えるように静かだ。

心菜の頭の中は混乱していた。パパとママは、いつも「お留守番は長くても二時間よ」と言っていた。でも、もう二晩、誰も帰ってこない。

心菜は、リビングの固定電話の前に座り込み、ただ受話器を見つめた。祖父母の電話番号は、心菜には数字の羅列にしか見えない。和彦が使っていたタブレットは、充電が切れかけて真っ暗になっている。

心菜は、その小さな体で、「この家には、誰もいない」という、人生で初めての、そして最も残酷な事態を認識し始めた。

「こわいよ……」

心菜は声を上げて泣いた。しかし、その泣き声は、厚い壁と高い窓に阻まれて、外の世界には届かない。都会の一戸建ては、外部から見れば平和そのものだ。近隣住民にとって、心菜の家の静けさは、単なる「家族が旅行に出かけた静けさ」でしかなかった。

泣き疲れた心菜は、ソファに埋まるように横になった。お腹が空いて、身体が怠い。年長の子どもにとって、一人で食料を見つけ、調理することなど不可能だ。

心菜が手にできたのは、リビングのテーブルの隅に置きっぱなしになっていた、美香の非常食の袋に入ったキャンディ数個だけだった。

「キャンディ、おいしくない……ハンバーグがいい」

小さな粒を口の中で転がしながら、心菜はひたすら家族の帰りを待った。外の光がだんだんとオレンジ色に変わっていく。再び、誰も帰らない夜が、忍び寄っていた。絶望は、この小さな子どもを、静かに、そして確実に蝕んでいた。

日曜日。心菜の心は限界に達していた。

静かに絶望を受け入れようとしていた土曜日とは違い、心菜の中の小さな何かが爆発した。

「かえってきて!もういやだ!」

心菜は立ち上がり、リビングの隅に置いてあった兄のサッカーボールを、力いっぱい壁に蹴りつけた。ドスッという鈍い音。心菜は何度も何度も、ボールを壁にぶつけ続けた。普段なら悠斗が「うるさい!」と怒り、美香が「家の中でやめなさい!」と止めるはずだ。だが、今は、ボールを蹴る音だけが、虚しく部屋に響く。誰も怒らない。

次に心菜が向かったのはキッチンだった。冷蔵庫のドアノブにはやはり手が届かない。

心菜は、その小さな体で冷蔵庫に何度も体当たりした。ガタガタと大きな音が鳴る。それでもドアは開かない。

絶望した心菜は、今度は届く範囲にあるものを手当たり次第に床に叩きつけた。カウンターに置いてあった砂糖の容器、塩のボトル、調味料の瓶。それらが床に落ち、大きな音を立てて砕け、白い粉が飛び散る。

「わあああああああ!」

心菜は、床に広がる砂糖と塩の海の中で、まるで獣のように泣き叫んだ。顔中が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

いつもなら、美香が慌てて飛んできて、心菜を抱き上げ、そしてすぐに掃除を始める。しかし、砕けた調味料は、心菜の足元にそのまま残る。誰も片付けてくれない。

心菜は、その汚れた手で、棚からさらに食器を引っ張り出し、床に投げつけた。プラスチックのコップが跳ねる。ガラスの皿が割れる。その破壊行為は、心菜自身の小さな体と心を、さらに傷つけていく。

大きな音を立てても、泣き叫んでも、家は、そして外の世界は、何の反応も返さない。

心菜は疲れ果て、散らかった床の上にうずくまった。体は砂糖と塩とホコリまみれだ。

「パパ、ママ……」

心菜の声は、もうささやきにしか聞こえない。

この家は、まるで深海の底に沈んだ透明な箱のようだ。どんなにもがいても、叫んでも、外にいる人々には届かない。そして、箱の中には、冷たい空気と、自分の絶望だけが残る。

外の世界は、相変わらず無関心だった。週末の午後の静寂。誰もが、この一戸建ての中で起きている小さな破滅を知らない。

心菜は、散乱した破片の上で、力の限り泣き続けた後、そのまま意識を失うように眠りについた。汚れた部屋の中で、たった一人。これが、心菜の孤独な週末の、最も激しい抵抗の果てだった。

そして、月曜日の朝。

心菜は、兄のベッドの上で、誰にも起こされずに目を覚ました。昨日までの激しい暴走のせいで、身体はひどく疲れていて、幼稚園に行く支度をする力もなかった。

一方、都心から離れた和彦の会社。午前9時になっても、和彦の席は空席だった。

(…中略:会社側の安否確認と祖父母への連絡)

地方で暮らす美香の母、佳代子(68)は、この連絡を受けて、初めて事態を把握した。

佳代子は急いでテレビをつけた。そして、週末に流れていたという「都内の死亡事故」のニュースを、ネットで検索し始めた。

そして、ついに「田中和彦さん、美香さん、悠斗さん」という名前の報道を目にする。

佳代子は、絶句した。

「……まさか、心菜が、あの子が、一人で…家の中に、三日間も…」

すぐに、佳代子は夫の耕作に知らせ、そして心菜の自宅に最も近い交番に、事態を伝える電話を入れた。

「娘夫婦が、週末の事故で亡くなりました。五歳の孫が、たった一人で家にいるはずです。三日間、誰も帰っていません。どうか、孫の安否を確認してください!」

都会の喧騒の中、ようやく外部の助けが、心菜のいる一軒家に向かい始めた。

月曜日の朝、地方に住む祖父母、耕作と佳代子は、会社からの連絡で娘夫婦一家の悲劇的な事故死を知り、そして心菜が三日間も一人で家にいるという状況に、血の気が引いた。

耕作はすぐに地元の警察に連絡し、東京の心菜の自宅へ急行するよう要請。同時に、最も早い新幹線に飛び乗るための支度を始めた。

「心菜、ごめんな。もうちょっとだけ待っててくれ。じいじとばあばが、すぐに迎えに行くからな」

佳代子は涙を拭い、憔悴した顔で耕作とタクシーに乗り込み、駅へ向かった。

地方都市の幹線道路。タクシーは駅へと急いでいた。二人にとって、心菜の安否こそが全てだった。

その時、青信号で交差点に進入したタクシーの側面に、スピードを出しすぎた対向車が突っ込んできた。

ガシャン!という激しい衝突音。

東京で起きた悲劇と、まるでシンクロするかのように、耕作と佳代子を乗せたタクシーも、あっけなく大破した。

同じ頃、東京の心菜の自宅前。

制服姿の警察官二人が、佳代子の通報を受けて到着していた。

「この家だな。田中さん宅…三日間、五歳の子が一人か」

警察官は、インターホンを鳴らしたが、返答はない。窓を覗き込んでも、カーテンが引かれており、中の様子はわからない。しかし、リビングの電気がつきっぱなしで、玄関ドアの下には新聞が溜まっている。

やむを得ず、警察官は要請に基づき、合鍵を持たないため、特殊な器具を使って玄関の鍵を破錠した。

カチャンという音と共に、ドアが開いた。

警察官は、鼻をつく異臭と、異様な静寂に息を飲んだ。

「た、田中!家の中が…」

一歩足を踏み入れると、まず目に入ったのは、荒れ果てたキッチンとリビングだった。床には、割れた食器の破片、白い砂糖や塩の粉末が飛び散り、まるで台風が通り過ぎた後のようだった。

「ひどいな…これは、相当パニックになっていたようだ」

警察官は声をかけながら、慎重に家の中を捜索した。二階の寝室。和彦と美香のベッドルームの横にある、悠斗の部屋。

そこで、警察官はベッドの上で丸くなっている、小さな心菜を発見した。

心菜は、兄の大きなサッカーのユニフォームを抱きしめ、泥のように眠っていた。身体には、砂糖やホコリがこびりつき、顔は乾いた涙の跡で固まっている。

「おい、坊や…いや、女の子だ。大丈夫か?」

警察官がそっと肩に触れると、心菜はゆっくりと目を開けた。その瞳には、光がなく、焦点が定まっていなかった。

「…………パ、パ?」

心菜の小さな声は、ほとんど聞こえない。

警察官はそっと心菜を抱き上げた。心菜の体重は驚くほど軽かった。警察官は、自分の制服が汚れることも気にせず、心菜を抱きしめた。

「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」

心菜は、初めて出会った警察官の腕の中で、外界へと連れ出された。パトカーの中で、心菜はブランケットにくるまれ、少しずつ温かいミルクを与えられた。

警察は、心菜が保護されたことをすぐに祖父母に伝えようと、耕作の携帯電話に連絡を入れた。

プルルル…プルルル…

耕作の携帯は鳴り響くが、誰も出ない。警察官は、地方にいる祖父母が長旅で出られないのだろうと解釈した。

その頃、心菜の保護から数時間遅れて、地方の事故現場から、耕作と佳代子が乗ったタクシーが大破したというニュースが、東京の警察にも伝えられた。

「田中さんのご両親が乗ったタクシーが、事故で…」

連絡を受けた警察官は、絶句した。

心菜の唯一の血縁者であり、最後の希望であった祖父母も、心菜の元へたどり着くことなく、二度目の悲劇の犠牲となってしまったのだ。

警察官は、隣でミルクを飲み終え、再び眠りについた心菜の顔を見た。彼女は、まだ誰もいない、この都会の中で、完全に孤立無援となってしまった。

心菜をこれからどこへ連れて行くべきか。この小さな命を、誰が守るのか。

静かに眠る心菜の周りには、もはや彼女の家族は、この世界には誰も残されていなかった。

心菜は、保護された後、都内の一時保護所に移送された。温かいシャワーを浴び、清潔な服に着替え、久しぶりにまともな食事を与えられた。

初めて見る場所、初めて会う大人たち。しかし、食事の温かさと、誰もが自分を傷つけずに優しく接してくれる事実に、心菜は三日間の地獄から解放された安堵を覚えた。衰弱しきっていた心菜は、小さなベッドに横たわると、すぐに深い眠りに落ちた。

しかし、保護所の職員や、駆けつけた児童相談所の職員たちは、重い空気に包まれていた。

「五歳の子ですよ。両親と兄が同時に事故死。しかも唯一の血縁者である祖父母も、彼女を迎えに来る途中で亡くなった……こんなケースは前例がない」

「問題は、どう伝えるかだ。家族全員がこの世にいないことを、どうやってこの子に理解させる?精神的なショックは計り知れない」

大人たちは、心菜の保護者不在、親族不在という法的な問題と、家族の死をどう告げるかという倫理的な問題、両方の重さに押しつぶされていた。誰もが、心菜の目覚めを待ちながら、その後の言葉を見つけられずにいた。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

心菜が保護されて三日目、水曜日。児童相談所の心理士と相談の上、担当職員の佐藤さんは、心を鬼にして真実を伝える決意をした。これ以上、希望的観測の時間を長引かせるのは、心菜のためにならないと判断したのだ。

佐藤さんは、心菜の目を真っ直ぐ見て、努めて穏やかで、しかし曖昧さを一切含まない言葉を選んだ。

「心菜ちゃん。とても大切で、悲しいお話をしなくてはいけません」

心菜は、ニコニコしながら佐藤さんの話を聞いている。

「ね、心菜ちゃんのご家族……パパも、ママも、お兄ちゃんの悠斗くんもね、遠い、遠い場所に行ってしまいました」

「え?どこ?」心菜は不思議そうに首を傾げた。「えんとつ町のプペルみたいに、遠い星?」

佐藤さんは言葉を継いだ。

「遠い場所というのはね、心菜ちゃんたちのそばには、もう、戻ってこられないということなの。金曜日にね、車に乗っている時に、事故に遭ってしまって……」

心菜は佐藤さんの顔をじっと見つめ、突然、大きな声で笑い出した。

「わー!佐藤さん、おはなしがへたっぴだね!」

「え?」

「だって、それサプライズじゃん!」心菜は手を叩いた。「パパがいつもいうの。『心菜にはわかんない、遠いお話だ』って!ね、今からパパとママ、ドアから出てきて、『びっくりした?』っていうんでしょ?じいじとばあばも、きっとそこでみててわらってるんでしょ!」

佐藤さんが、家族全員が「亡くなった」ことを、より直接的な表現で伝えても、心菜の表情は変わらない。彼女の瞳は澄んでおり、何の悲しみも、混乱も映していない。

「パパとママは、事故で、もう……」 「しってる!じこ!サプライズのくるまがこわれちゃったんでしょ?でもだいじょうぶ!パパ、おもちゃなおせるもん!」

心菜は、佐藤さんの言葉を、全て『家族が仕掛けた、心菜のための物語』のセリフとして処理し、現実の事実として受け入れることを、完全に拒否していた。

心菜との面談を終えた後、佐藤さんと児童相談所の所員たちの間には、重い疑念が広がった。

「あの反応は……まるで言葉が理解できていないようだ。五歳児の知能レベルとしては、あまりにも現実認識が低すぎるのではないか?」

「認知能力に、何か重大な障害があるのではないか?家族の死という情報処理が、脳のキャパシティを超えているのかも」

彼らは、心菜の通っていた都内の幼稚園に急いで連絡を取った。担任の先生からの回答は、彼らの疑念を覆すものだった。

「田中心菜ちゃんですか?いえ、とんでもない。むしろクラスの中では非常に賢い子ですよ。言葉の理解力は年長さんとして標準以上で、お絵描きやブロック遊びなど、空間認識や論理的思考が求められる活動では、時々大人も驚くような発想をします。何も問題ありません」

幼稚園からの報告は、大人たちに新たな、より重い真実を突きつけた。

心菜は「理解できない」のではない。「理解することを拒否している」のだ。

心理士は重々しい口調で説明した。「これは、トラウマ反応の典型的な防御機制の一つ、『否認(Denial)』です。あまりにも巨大で受け入れがたい真実を、心を守るために、彼女自身の精神が無意識のうちにシャットアウトしている。彼女の心の中では、ご家族はまだサプライズパーティーの準備中で、すべては一時的なものとして処理されているのです」

物理的な安堵は得られたが、心菜の精神は、最も固い心の壁を築き上げていた。

心菜の精神状態の分析が進む一方で、行政の手続きは非情にも進んでいった。

遠方の祖父母の事故死により、心菜の法定保護者となり得る親族は、日本国内に一人も残されていないことが確定した。法的に、心菜は完全に孤立無援となった。

「申し訳ないが、選択肢が一つしかない」

児童相談所長は、苦渋の決断を告げた。

「心菜ちゃんは、親族による引き取りが不可能。現状、一時保護所の期間も限界だ。我々は、心菜ちゃんを、都内にある養護施設(孤児院)に移す手続きを進める」

心菜にとって、家族全員の死という現実が、否認という壁の裏で凍結している間に、彼女の生活環境は、非情な行政手続きによって一方的に決定された。

翌週、心菜は、たくさんの新しい友達がいる場所に行けると信じながら、佐藤さんに手を引かれ、二度と帰ることのない「家」を離れ、都心の一角にある「K愛育園」へと向かうことになった。

彼女の「サプライズパーティー」は終わらないまま、心菜の新しい、そして孤独な生活が始まろうとしていた。

時が流れ、心菜は23歳になった。高校を卒業後、都内の専門学校に進学したものの、彼女の人生は常に破綻の縁にあった。

13年間、彼女の心を防御してきた「否認」の壁は、崩れるどころか、さらに厚く、硬く進化していた。

彼女は、周りの環境や出来事に対し、家族の「サプライズ」の物語に整合性を持たせるために、無意識に嘘を上塗り続けた。

施設で「ご両親は海外出張中だから」と話せば、「パスポートを見せて」と追及される。そこで彼女は、「パパは国家機密に関わる仕事で、連絡手段も場所も教えられない」など、より大袈裟で複雑な「設定」を作り上げた。

施設職員や友人たちが、心配して家族の死について話そうとすると、心菜は怒りやヒステリーではなく、「あなたは、この重大な秘密を漏らそうとする、家族の敵だ」と冷静に相手を拒絶した。

彼女の言動は、周囲から見ればあまりにも現実離れしており、辻褄が合わない。彼女を理解しようとする者はいなくなり、代わりに心菜は施設や学校で「嘘つき」「現実逃避の精神異常者」という烙印を押された。

「田中は、もう放っておいた方がいい。何を聞いても、SF小説みたいな話をするだけだ」

周囲の人間は、関わることを避けた。彼女が最も恐れていた「孤独」は、否認という自己防衛の結果として、彼女を完全に包み込んでしまった。

高校卒業後、心菜は専門学校に入ったが、授業や課題、友人関係において、彼女の「家族のサプライズ」という虚構が、次々と現実と衝突した。

施設を出た心菜は、生活費と学費のためにアルバイトを始めたが、仕事の面接で「緊急連絡先」を問われると、「海外にいる父が、特殊な方法で連絡を取り合う」などと説明し、即座に不採用になった。

専門学校の友人が、心菜の言動の矛盾に耐えかね、「もういい加減、両親は死んだってことを認めなよ!」と声を荒げた瞬間、心菜は静かに、しかし激しく震えながら、その友人を「家族のサプライズを妨害するスパイ」として認識し、絶交した。

社会生活のあらゆる場面で、心菜の硬直した認知は摩擦を生み出し、彼女を消耗させた。食事も睡眠もまともにとれなくなり、部屋で一人、自分が作り上げた「家族の物語」に浸る時間だけが増えていった。

そして、ある日、心菜は一人暮らしのアパートで、パニック発作を起こした。

「パパが、ママが!助けに来ない!何かあったんだ!サプライズが、うまくいってないんだ!」

彼女は、アパートの部屋中を荒らし、壁を叩き、近隣住民に通報される事態となった。

通報を受けて駆けつけた警察と、連絡を受けた児童相談所職員によって、心菜は保護された。彼女は現実と虚構の境界線が完全に曖昧になり、錯乱状態にあった。

そして、心菜の最終的な「行き先」は決定した。

「田中さんの状態は、もはや社会生活を営むのは不可能です。重度の解離性障害と外傷後ストレス障害(PTSD)が複合しており、緊急入院が必要です」

行政と医療の判断により、心菜は都内の精神病院へ送られることになった。

心菜は、病院の白い壁に囲まれた、鍵のかかる個室に座っていた。 彼女の心の中では、まだ家族は生きている。しかし、周囲の白い壁と、監視する看護師、そして薬の投与は、彼女の「サプライズパーティー」の物語とは全く整合しない。

心菜は、すべてを諦めたように、静かにその椅子に座り続けた。

「きっと、ここが、パパが言っていた『サプライズの最終拠点』なんだわ」

心菜は、白い部屋をそう解釈し、無理やり納得させた。現実を否定し続けた結果、彼女の精神は、「自分にとって都合のいい虚構」の中だけでしか生きられなくなった。

彼女は、23歳という若さで、社会から完全に切り離された。家族の死という現実を拒否した代償として、心菜は自身の人生そのものを、「時間が止まった監獄」の中に閉じ込めてしまったのだ。

心菜が送られた精神病院は、彼女を救済する場所ではなかった。担当医は評判の悪い「やぶ医者」で、心菜の複雑な精神状態を理解しようとはせず、施設の管理を容易にするために、薬物による鎮静を主な治療方針とした。

「重度の解離性障害。現実から隔離することが最善だ。」

医師はそう診断を下し、心菜に過剰な量の抗精神病薬や鎮静剤を投与し始めた。薬は心菜の思考能力を鈍らせ、まともな会話や社会性を完全に奪った。改善どころか、心菜は常に朦朧(もうろう)とした状態に置かれ、外部とのコミュニケーションを完全に拒絶した。

彼女は白い壁に囲まれた保護室の中で、ぼんやりと座っている時間が長くなった。以前の活発な「嘘」を語る力もなくなり、周囲の人間から見れば、心菜は完全に現実と切り離された「異常者」となった。

児童相談所や施設の元職員が面会に訪れても、心菜は彼らを認識することも、言葉を返すこともできない。外部から彼女の人生に手を差し伸べる最後の道は、薬物によって閉ざされてしまった。心菜は、この白い監獄から、生きている限り抜けることはないだろうと誰もが悟った。

しかし、薬物が支配する心菜の現実の対極で、彼女の精神は、最後の避難場所へとたどり着いていた。それは、薬に誘発された、深く、甘い夢の世界だった。

心菜の夢の中では、ついに待ちに待った「サプライズパーティー」が完成した。

ある夜、朦朧とする意識の中で、心菜は再び、都内の懐かしい一戸建ての家にいた。

「ただいま、心菜」

玄関のドアが開き、和彦が買い物袋を提げて立っている。その横には、悠斗がサッカーボールを抱え、美香が優しい笑顔で心菜を見つめていた。

「パパ!ママ!にいちゃん!」

心菜は、23歳ではなく、5歳の自分に戻って、家族に飛びついた。

「ごめんね、心菜。すごく時間がかかっちゃったね」美香は心菜を抱きしめた。 「サプライズだから、秘密だったんだろ?」悠斗が笑う。 「ほら、心菜のリクエスト、ハンバーグだよ」和彦がキッチンに向かう。

夢の中の家は、13年前に荒れ果てたままではなく、清潔で、暖かく、愛と笑い声に満ちていた。心菜は、家族の温もりを感じ、美味しいハンバーグの匂いを嗅ぎ、兄と他愛もない喧嘩をした。

彼女は、夢の中で祖父母にも会った。祖父母はニコニコ笑いながら、「遠回りしちゃったけど、やっと着いたよ」と言って、彼女の頭を撫でてくれた。

現実の心菜は、病院の白いベッドの上で、点滴に繋がれたまま、身動き一つしない。だが、彼女の心は、永遠に完成した家族の団欒の中にいた。彼女の精神は、現実の苦痛から完全に遮断され、13年間抱き続けた希望が、夢という形で結実したのだ。

それから数年後。心菜は、その精神病院で、静かに息を引き取った。薬物による衰弱と、長期間の隔離生活の結果だった。

彼女の死を看取った看護師は、心菜の顔が、最後に満面の、穏やかな笑顔を浮かべていたことに気づいた。それは、現実世界では13年間見たことのない、心の底から満たされた笑顔だった。

心菜は、現実の苦痛や悲しみ、孤独を一切受け入れることなく、死を迎えた。

彼女は、最後に夢の中で、家族全員に囲まれ、誕生日を祝い、「サプライズ、大成功!」と家族に感謝を伝えたのだろう。

都内の白い監獄の中で、社会からは「異常者」として忘れ去られた心菜だったが、彼女の意識の中の最後の瞬間は、13年間の孤独と絶望を全て打ち消す、永遠に続く家族の幸せな団欒と共にあった。

彼女は、死によって初めて、現実の支配から完全に逃れ、自分で作り上げた「幸せな物語」の中で、永遠の安息を迎えた。

心菜が亡くなった数週間後。

元担当職員であった佐藤さんは、地方の事故で家族も親族も亡くした心菜の遺骨が、都内の無縁仏として葬られたことを知った。遺骨を引き取る者も弔う者もいない、文字通り「孤立無援」の最期だった。

佐藤さんは、仕事を休み、その無縁仏が安置されている寺院を訪れた。冷たい雨が降る、寂しい場所だった。

無縁仏の小さな墓石の前で、佐藤さんは静かに手を合わせた。彼女の脳裏には、心菜の生前の姿が鮮明に蘇っていた。

心菜の意識が薬で混濁し、衰弱しきっていた時、佐藤さんは何度か病院に見舞っていた。その時の心菜の口から漏れた「うわごと」は、いつもの作り話とは違っていた。

「パパ、ハンバーグ、おいしいね……」 「にいちゃん、そのボール、心菜にもかして……」 「ママ、あのね、もうすぐおたんじょうびの、ケーキが……」

それは、13年前の金曜日の夜の、あの「途切れた日常」の続きだった。彼女は、もはや現実の苦痛に邪魔されることなく、頭の中で、完璧な、暖かな家族の団欒をずっと語り続けていたのだ。

「先生、私の家族は、本当に……幸せよ」

それが、心菜が佐藤さんに向けて発した、最後の、意識のある言葉だった。

佐藤さんは、児童相談所で30年近く、様々な不幸を抱えた子供たちと接してきた。虐待、ネグレクト、親の病死、貧困……。彼女の仕事は、子供たちの苦痛や悲しみに寄り添い、共に涙を流すことの連続だった。

しかし、無縁仏の前に立ち、佐藤さんは静かに考えた。

ほとんどの子供は、残酷な現実と向き合い、苦しみ、泣きながらも、その現実を土台として生きることを学んでいく。それは、生きていく上での「宿命的な苦痛」だ。

心菜は、その苦痛を、その真実を、最後まで受け入れなかった。彼女は、「否認」という極端な防衛によって、現実の悲劇を脳内から完全に排除した。そして、最後の数年間、薬物によって外部世界から遮断された彼女の精神は、「永遠に続く家族の幸せな夢」の中で、完全に満たされていった。

もし、心菜が現実を受け入れていたら?彼女は、家族全員の死、祖父母の死、13年間の孤独、そして社会の冷たい視線という、地獄のような現実を背負って生き続けなければならなかっただろう。

「……私の30年のキャリアで、たくさんの不幸な子を見てきたけれど」

佐藤さんは、冷たい雨に打たれながら、無縁仏の墓石にそっと手を触れた。

「心菜ちゃん。もしかしたら、あなたは、私が接した中で、最も幸せな最期を迎えた子供だったのかもしれない」

現実を拒絶したこと。それは、社会的には「異常」とされた。しかし、その拒絶こそが、心菜の心を「真実の苦痛」から守り抜き、「永遠の安堵」という名の幸福を、死の瞬間にまで保証したのだ。

佐藤さんは、心菜の無縁仏に深く頭を下げ、その場を後にした。

雨は、まるで心菜の悲しみの涙のように、静かに降り続いていた。

365 無限大の欲望

壱:奇跡と計算
私は宮本(みやもと)健吾(けんご)、八十歳。あの若返りの現象が起きた時、私は病院のベッドで人工呼吸器につながれていた。肺の機能が完全に衰え、自力では呼吸すらできなかった。

目が覚めると、全身が若い時の活力に満ちていた。鏡を見た。三十五歳。私が事業で成功し、最も金と権力を持っていた頃の、傲慢な面差しがそこにあった。

「これは…天からの贈り物だ!」

私は、他の老人のような「青春のやり直し」などには興味がなかった。私の欲望は、常に「支配」と「獲得」だ。二十歳の頃の私には金がなかった。しかし、今の私には、老後の貯蓄と、莫大な隠し資産がある。そして、三十五歳の肉体。

ニュースは、寿命が極端に短縮されると報じていた。佐伯綾子のような要介護五の者は約十日。人工呼吸器を使っていた私は、おそらく十二日が限界だろうと直感した。

「十二日か。短い。だが、この金とこの力があれば、十二日間で世界を変えられる」

私はすぐに病院を抜け出し、金庫からすべての資産を引き出した。世間は混乱している。今こそ、金を動かす最大のチャンスだ。

弐:十二日間の焦燥
私の十二日間は、遊びではなく、事業の再構築に費やされた。

初日~三日目: 私は旧知の優秀な弁護士や金融関係者に連絡を取った。皆、私の今の姿に驚愕したが、私の持つ莫大な資産と、若き日のカリスマ性が、彼らを再び動かした。私は、混乱で暴落している株や不動産を、安値で買い叩くための計画を立てた。この短期間で、私は資産を倍増させるつもりだった。

四日目~六日目: 私は、かつて私を裏切ったビジネスパートナーを潰すことに集中した。彼らは私が死にかけていると思っていた。私は彼らの会社に乗り込み、容赦なく資金を引上げ、彼らの事業を頓挫させた。復讐は、私にとって最高の快楽だ。しかし、この種の快楽はすぐに飽きる。

七日目: 私は、最も若い女を求めた。私の欲望リストは、常に「より新しいもの」への獲得で満たされている。私は、二十歳の美女を買い、一夜を共にした。彼女たちは私の財力と権力に平伏し、私を賞賛した。だが、彼女たちの賞賛は、私を満たさなかった。彼女たちの目には、私が「老いた魂」であることが透けて見えているようだった。

「足りない。圧倒的に時間が足りない」

この頃から、私の焦燥感は極限に達していた。金は増える。権力は戻る。しかし、それらを享受する時間がない。

参:尽きぬ渇望
八日目~十日目: 私は、事業の再拡大を強行した。私の肉体に重さが戻り始めている。息切れもする。私は寝る間も惜しみ、薬で無理やり体を動かし、電話を握り続けた。

私は、世界中の富を掌握することを目指した。私の頭脳は、まだ八十年の経験を持っている。三十五歳の体力と八十歳の知恵があれば、私は王になれるはずだ。

「あと一週間あれば、私はこの世界を思い通りにできる!」

私は、自分の欲望が尽きないことに気づいた。綾子のように、解放された青春を謳歌して「満足して死ぬ」という感覚が、私には全く理解できなかった。私の欲望は、終点がないマラソンなのだ。獲得すればするほど、次の獲得目標が生まれ、喉の渇きは増すばかり。

私は、金を手に入れたいのではない。永遠に金を手に入れ続けるプロセスが欲しいのだ。

十一日目: 身体の衰えが顕著になった。私は、車椅子を要求した。私の事業は、計画通り、私の資産を十倍に増やした。私は、この十二日間で、世界で最も短期間に資産を増やした男になった。

しかし、私が車椅子で眺めるオフィスビル群は、私のものではないように感じた。

「なぜだ。なぜ、この喜びは一瞬で終わるのだ」

私の顔は、二十歳の美女を追いかけて遊んだ綾子の顔とは全く違う。私の顔には、満足感ではなく、飢餓感と焦燥が張り付いていた。

肆:満たされない終焉
十二日目の夜。

私は、自分の私邸の一室で横たわっていた。周りには、秘書や医師が慌ただしく立ち働いているが、誰も私の命を延ばすことはできない。

私の心は、未だに終わらない欲望で叫び続けていた。

「まだだ!あの株を買わねば!あの土地はまだ私のものになっていない!あと一日あれば、あと一時間あれば!」

私の人生の最後の瞬間は、成功の歓喜でも、愛の満足でもなかった。それは、「時間がない」という、究極の絶望だった。

私は、世界を手に入れた。しかし、それを享受する永遠の時間を手に入れることだけは、できなかった。

私の目は、三十五歳の肉体で最後に見た、欲望の対象――夜景にきらめく、私がまだ手に入れていない街――を捉えたまま、虚ろになった。

私は、満たされないまま、命を終えた。老いではなく、欲望の飢餓によって、私の魂は焼き尽くされたのだ。私の身体は、瞬く間に老衰の姿に戻り、醜い皺と、怨嗟の表情を刻んだ。

365 一瞬は永遠

壱:奇跡と嘲笑
私は花子、八十五歳。あの地獄のような日々を、八年近くも介護施設で過ごしてきた。自分の体じゃないみたいに重くて、臭くて、いつも誰かの世話になっている。人生の最後の舞台が、この白い天井と消毒液の匂いなんて、冗談にもならないと思っていたよ。

目が覚めたあの日。私は、自分の体が軽すぎて、まるで宙に浮いているみたいだと感じた。手を握ると、力強い感覚が戻ってくる。鏡を見た。そこにいたのは、二十歳の、少し気が強くて、男を追いかけ回していた頃の私だった。

「ひゃは! やったよ、神様!」

喜びの涙なんて流さない。流したのは、これまでの屈辱の汗だ。

すぐに施設長たちが駆け込んできて、大騒ぎになった。そして、政府からのあの緊急放送だ。

「混乱しないでください。原因究明と状況の整理がつくまで、若返った方々は、現在の場所での待機と安静をお願いします。」

私はそれを聞いて、腹を抱えて笑った。

「ふん! 棺桶に片足突っ込んでたんだ。これ以上失うものがあるかい!」

隣のベッドにいた澄江さんが、青い顔で私を見た。「花子さん、政府が言ってるのよ…」

「澄江さん、あんたも相変わらずねぇ!」私はベッドから勢いよく飛び降りた。若返った足の裏が、冷たい床をしっかりと捉える。この感覚よ!

「聞いてごらんよ、澄江さん。私たちが生きられるのは、長くてもあと数週間か、もしかしたら数日らしいよ。こんなところで『待機』して、天井の染みでも数えて死ねってかい?冗談じゃない。私は最高のエンディングを迎えるんだ!」

私はすぐに荷物をまとめた。着古した寝間着なんて脱ぎ捨てて、備品室からテキトーなタオルをローブみたいに羽織った。

施設のドアの前で職員が泣きながら止める。「花子さん! 危ないです!」

私はニヤリと笑った。「ごめんね、坊や。私の人生は、もう誰にも止められないのさ!」

弐:十日間の疾走と絶景
外に出た街の空気は、最高に甘かった。私はスマホを手に取り、タクシーを呼んだ。行先は、一番豪華なホテル。

初日、私は最高の服を買い漁った。赤、真紅、深いボルドー。老いてから似合わなくなった色が、二十歳の肌には映える。そして、高価なシャンパンを浴びるように飲んだ。

SNSで同じ境遇の仲間を募ると、すぐに集まった。皆、私と同じで、「待機」を選ばなかった、最高のバカたちだ。

三日目、私たちは高級レンタカーに乗り込み、海へ向かった。私は水着姿で波打ち際を走り回った。砂浜を走るなんて、何十年ぶりだろう。体が求めるままに動き、笑い、叫んだ。夕陽を見ながら、若い男とキスをした。人生最後のキスが、まさかこんなに熱いなんてね!

五日目、私たちは大都会のど真ん中、一番派手なクラブを借り切った。若返った私たちの金はすぐに尽きる。でも、構わない。私たちは「命」を燃やしているんだ。私はDJブースに上がり、マイクを奪って叫んだ。

「あんたたち! 羨ましいかい? 私たちは、地獄を見て、天国にいるのさ! 最高の命の使い道ってやつを、見せてやるよ!」

八日目、体に少しだけ重さを感じ始めた。私たちは、皆で自分の「終活」をすることにした。遺言状なんて書かない。ただ、一番お気に入りのアクセサリーを、一番愛した場所に埋めた。そして、残った金をすべて使い果たした。

私は、和人さんの家で静かに待っているという佐伯綾子の噂を聞いた。あの高慢な女も、私と同じように若返ったはずだ。でも、彼女は家で「待機」しているらしい。

「なんてつまらない人生の幕引きなんだろうね」私は仲間に言った。

私たちが恐れていたのは死じゃない。老いたまま、望みなく死ぬことだったんだ。

参:最高の幕引き
九日目の夜。

私たちは、私がかつて過ごしたあの介護施設の庭に戻ってきた。静かな施設を背景に、最後のパーティーを始めた。

私は真紅のドレスを纏った。そして、窓から私を見ている澄江さんに手を振った。

「澄江さん! あんたも来なさいよ! もう時間がないんだよ!」

彼女は出てこなかった。相変わらず、彼女は檻の中にいる。

私は、彼女に向かって、そして世界に向かって、最高の笑顔で言った。

「いいかい、澄江さん! 人生は、待機するものじゃないんだよ!」

私たちは、夜が明けるまで笑い、歌い、踊った。体は確かに重かったけれど、心はどこまでも軽かった。

十日目の朝。

夜明けの光が、私たちの顔を照らし始めた。私は、仲間の手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。

視界が、まるで古い写真のように色褪せていくのを感じる。体から力が抜けていく。

私の心には、何の悔いもない。最高の十日間だった。私は、最期まで私自身の人生の主役であり続けた。

意識が途切れる寸前、私は心の中で静かに呟いた。

(さあ、老いよ、死よ。いつでも来なさい。私はもう、満たされているよ)

私は、満ち足りた笑顔を浮かべたまま、静かに命を終えた。

365 一瞬の価値

壱:奇跡と戸惑い
私は田所(たどころ)澄江(すみえ)、七十八歳。あの日まで、私はこの介護施設のベッドで、天井の染みを数えるだけの毎日を送っていた。食事も排泄も、若いヘルパーさんたちの手に委ねる、情けない日々。

若返りの現象が起きたのは、朝の巡回時だった。目が覚めると、全身が軽い。鏡を見せてもらうと、二十歳過ぎの、ふっくらとした頬の私が映っていた。

「奇跡だわ! 私、動ける!」

最初は歓喜した。すぐにでも施設を飛び出し、あの頃叶わなかった旅に出ようと思った。

しかし、その日の昼には、すぐに政府からの緊急放送が流れた。

「国民の皆様、混乱しないでください。原因究明と状況の整理がつくまで、若返った方々は、現在の場所での待機と安静をお願いします。不要不急の外出は控えてください。」

私は、その言葉を真に受けた。私はもともと、極度に慎重で、公的な指示には絶対に従う人間だ。それに、この現象が本当に安全なのか、誰にも分からないではないか。もしかしたら、動いたら罰が当たるかもしれない。

私は施設の自室で、ただ待つことにした。施設長も混乱しており、若返った利用者が動けるようになったとはいえ、施設の外に出ることを許可しなかった。

「危ないことは避けるべきよ。政府がそう言っているのだから」

私はそう自分に言い聞かせた。

弐:自由の匂い
施設には、私と同じように若返った人が数十人いた。その中で、私とは正反対の行動に出た者がいた。

花子さん。八十五歳で、私と同じく寝たきりだった。

花子さんは政府の指示を鼻で笑った。「ふん! 棺桶に片足突っ込んでたんだ。これ以上失うものがあるかい!」

花子さんは、施設の職員の制止を振り切り、若返ったばかりの身体で、すぐに施設を飛び出して行った。その後、何人かが彼女に続いた。

ニュースが、若返った人々がわずか十日程度で命を終えるらしいと報じ始めた時、私は自分の選択が正しかったと安堵した。

「ほら見なさい。あれは神様が与えた罰よ。騒いでいる暇なんてなかったのよ」

しかし、その安堵は、すぐに別の感情に変わった。

花子さんたちは、SNSを通じて、自分たちの「最後の青春」を中継し始めたのだ。豪華なホテル、高級な食事、若い男たちと踊る姿、そして海辺で笑う、最高の輝き。

「私たちは、最高のエンディングを迎えるわ!」

彼女たちの写真を見るたびに、私の胸は激しい痛みを伴う。私はこの部屋で、政府の指示通りに「安静」を保ち、何もしていない。そして、老いる前と同じように、天井の染みを数えている。

私はまだ、二十歳の身体でベッドに座っている。自力で歩ける。自分で食事もできる。だが、私は檻の中にいる。

参:窓越しの歓喜
若返りから七日目。

花子さんが、施設に戻ってきた。彼女のグループは、施設の庭で最後のパーティーを開くと言い出したのだ。

私は、自室の窓から、庭を見下ろした。花子さんは、真紅のドレスを纏い、笑顔で皆とシャンパンを交わしていた。彼女の肌は汗で輝き、目は生きる喜びに満ちていた。

彼女は、私に向かって手を振った。「澄江さん! あんたも来なさいよ! もう時間がないんだよ!」

私は行けなかった。

「い、いけないわ。まだ政府の指示が…」

そう、私は指示に従っている。秩序を乱すことはできない。私は正しい。安全を選んだ。

だが、私の心の中では、悲鳴が上がっていた。

(嘘よ。私は何が怖かったの? 私はもう失うものなどなかったのに! あのまま要介護のベッドで死ぬのと、十日間自由を謳歌して死ぬのと、何が違うの?!)

私の慎重さは、私を救わなかった。それは、私の「最後の自由」を奪い去る、最も冷酷な縛りだった。

私は、花子さんのグループが笑い、歌う声を聞きながら、自室のベッドで涙を流した。涙は、若返った私の頬を熱く濡らした。

肆:檻の崩壊
若返りから九日目。

花子さんたちは、朝、静かに亡くなった。皆、笑みを浮かべ、満ち足りた表情だったという。

私は、施設に残された若返り組の中で、数少ない生存者になっていた。皆、私と同じように指示を待っていた人々だ。その顔には、私と同じ後悔の影が浮かんでいた。

私は知っている。明日が、私のタイムリミットだ。

二十歳の体で、私はベッドに横たわった。私の視線は、再び天井の染みを追っている。この若くて健康な体が、明日、一瞬にして老衰する。

私は、何も得ずに、この命を終える。

花子さんは、十日間の「最高のエンディング」を手に入れた。私は、十日間の「最高の待機」を手に入れた。

私は、慎重に、安全に生きることを選び、そして、何も生きなかった。

「ああ、花子さん…」

私は、力なく呟いた。外には、自由を謳歌する人々も、もはやいない。ただ、静寂だけが広がっている。

私は、二十歳の美しい私のままで、七十八歳の私よりも悲惨な死を迎えるのだ。なぜなら、七十八歳の私は、望みを持っていた。しかし、今の私は、希望を自ら捨てた後悔しか持っていないからだ。

意識が遠のく。私は、天井の染みを見つめながら、最期まで公的な指示に従い続けた、哀れな魂だった。

365 天

聴:嘆きの振動
私は天使。人間たちが呼ぶところの、世界を調整し、魂の均衡を司る存在だ。

私の役目は、地上の「嘆き」を聞き届けること。長らく、私は特定の個人的な祈りには干渉してこなかった。だが、佐伯和人という一人の男から発せられた嘆きの振動は、他のそれとは異なっていた。

それは、自己犠牲的な献身と、限界を超えた疲弊、そして罪悪感を伴う解放への願望が複雑に絡み合った、極めて純粋なエネルギーだった。

彼、和人は、要介護の母を献身的に支え続けた。彼の心の底には、母の死を願う「闇」があったが、それを即座に打ち消す「光」――「自分だけでなく、同じ問題を抱える全ての人を救いたい」という、普遍的な愛の希求があった。

私は、彼の前に姿を現した。光を纏う必要はなかったが、人間は視覚的な刺激でしか真実を理解できない。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

彼は熟考した。その過程が重要だった。彼は個人的な金銭や、母の延命、あるいは即死といった単純な選択肢を退けた。

そして、彼が口にした願い。それは、私の記録の中でも、最も冷徹な合理性と深い優しさが融合したものだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一にしてほしい」

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」

執:契約の履行
私は即座にその願いを「普遍の契約」として受理した。

介護問題。それは、人間の文明が高度に発展した末に生まれた、最も苦しく、解決が難しい、魂の停滞を招く病巣だった。介護する側は「義務」に縛られ、される側は「屈辱」と「無力」に苦しむ。誰も幸せになれない、閉じた円環だ。

和人の願いは、その円環を「一瞬の歓喜」という形で断ち切るものだった。

私は、世界中の対象者――食事と排泄に介助を要する魂たち――に向けて、時間と肉体の流動性に関する干渉を実行した。

実行直後、世界中から発せられたのは、純粋な驚きと、歓喜の波動だった。ベッドに縛られていた魂たちが、突如として最も輝いていた頃の肉体を取り戻した。彼らは、与えられたわずかな命の時間を、解放された欲望と失われた青春を謳歌するために使った。

佐伯綾子もまた、そうだった。彼女の魂は、息子への支配と、老いへの屈辱から解放された喜びで満ち溢れていた。その十日間、彼女は「女性」として、全てを取り戻そうと奔走した。

一方、和人。彼は、その綾子に罪深い恋慕の情を抱いた。彼が真面目に抑えつけてきた「現を抜かす」という本能が、最も身近で、最も手の届かない女性に向けられたのだ。彼の苦悩は深かったが、それは彼が「一人の男」として、抑圧から解放された証でもあった。

観:セーフティと結末
私は、和人が設けたセーフティロックの作動も監視していた。

あの川西義雄という男。彼は若返りの力を、長年の憎悪を晴らすために使おうとした。彼が綾子にナイフを振りかざし、心に明確な「殺意」が灯った瞬間、私は迷いなく、彼の寿命の制御を停止させた。

義雄の魂は、憎悪という名の業火に焼かれ、本来の肉体の姿に戻って滅した。彼の願いは「復讐」だったが、契約の範囲は「介護問題の解決」であり、その目的を脅かす「殺意」は容赦なく排除された。

彼の死を目撃した綾子の魂は、欲望の絶頂から一転して恐怖に陥った。それは、彼女の十日間の自由の幕引きとしては、ある種の「代償」を払わせるものだった。

そして、期限が来た魂たちは、静かに肉体を元の状態に戻し、安らかな死を迎えていった。綾子の魂もまた、「満足」を湛えて、肉体から離脱した。

理:残された世界
半年後、地上には静寂が訪れた。

介護問題は劇的に解決し、和人のように長年苦しんできた人々は解放された。彼の顔から、あの鉛のような疲労の色は消え、解放感と、新しい人生への戸惑いが混じった表情が見て取れる。彼は、わずかな恋の傷跡を抱きながらも、前に進もうとしている。

しかし、同時に、人口の半減という新たな問題が生じた。労働力の激減、経済構造の崩壊。人間たちは、再び「生き方」そのものを問い直すことを強いられている。

佐伯和人の願いは、介護問題を解決したが、「普遍の安寧」までは約束しなかった。私たちが介入できるのは、あくまで「魂の停滞の解消」まで。その後の、「生きる」という創造的な行為は、人間自身に委ねられている。

私は今、静かに地上を見下ろしている。

和人の願いは、この世界を救済したのか、それとも新たな試練を与えたのか。

いずれにせよ、私の役目は終わった。私は、再び、新たな「嘆きの振動」が世界から発せられるのを、ただ静かに待つのみだ。

365 箱舟に乗れない女

嫉:若さという名の毒
私は杉山(すぎやま)喜代美(きよみ)、七十歳。若返りの現象が起きた時、私は要介護ではなかった。一人で歩けるし、自分で食事もできる。だから、天使の奇跡の対象にはならなかった。

それは、私にとって地獄の始まりだった。

ニュースで流れる映像は、どれも信じがたかった。皺だらけの老婆たちが、二十歳の、肌艶の良い美女に変わっている。皆、笑い、踊り、若さを謳歌している。そして、その命が短期間で終わるという事実すら、彼女たちの歓喜を止めることはなかった。

私に残されたのは、七十歳の、機能は保たれているが、確実に衰えゆく身体だけだった。

私は、嫉妬で気が狂いそうになった。

「なぜ、私じゃないの?!」

私はまだ、要介護になるには若すぎた。老いを受け入れ、隠居するには早すぎた。私は、まだ「女性」として生きたかった。エステに行き、流行の服を買い、健康維持に努めてきた。しかし、どんな努力も、あの「奇跡の若返り」の前では無力だ。

私に残された「普通の老後」は、彼らが手に入れた「最高の青春」の横で、ただの惨めな余生でしかなかった。

観:佐伯綾子の醜い輝き
私は近所の佐伯綾子を知っていた。彼女は私より十歳も年上で、数年前から要介護五。車椅子生活で、息子にすべての世話をさせている、気の強い、高慢な老婆だった。

その綾子が、若返ったと知った。

私が、その二十歳の綾子を初めて見たのは、デパートの化粧品売り場だった。鮮やかなミニスカートに、煌びやかなアクセサリー。私が見たこともないほど派手な化粧を施し、若い店員を顎で使っている。

その姿は、確かに醜悪だった。八十歳の魂が、二十歳の身体を借りて、過去の欲望を露悪的に、そして貪欲に満たそうとしている。

「これ、もっと高いやつはないの? 安っぽいのは嫌いなんだ」

私は柱の陰から、その光景を見ていた。彼女の傍若無人な振る舞いは、昔と変わらない。息子を召使いのように扱い、年金で派手に浪費していることも知っている。

(ああ、なんて品がない。あのまま、要介護のベッドで死んでしまえばよかったのに)

心の中ではそう罵倒する。だが、私の視線は釘付けになったままだった。

彼女は、輝いていた。

品がなくとも、露骨な欲望に塗れていようとも、彼女の身体には若さという名の毒が満ち溢れていた。その肌のハリ、髪の毛の艶、そして何より、自由に動き、男たちの視線を一身に集めるその力。

私は、自分が必死に隠そうとしてきた老いを、彼女の存在によって、まざまざと突きつけられた。私は七十歳でまだ自立している。だが、それは「醜い老い」を延長しているだけに過ぎないのではないか?

綾子は、たった十日間という短い命と引き換えに、「女」として最高の瞬間を手に入れた。私は七十歳で「命」は続くが、「女」としての最高の瞬間は、もう永遠に戻ってこないのだ。

惑:一瞬の羨望
私は、綾子の後をつけた。クラブ、高級店、そして夜の街。彼女が若い男と腕を組んで歩く姿を見た時、私の胸は激しい痛みに襲われた。

あれは、かつて私が手放した青春の残像だ。そして、私は、この七十歳の体では、もう二度とあの場所には立てない。

(あの女は、自分の寿命を賭けて、すべてを手に入れた。そして私は、何の賭けもせず、ただ安全に、醜く老いていく)

私は、彼女の奔放さを軽蔑しながらも、心の中では深く羨望していた。彼女の「今」は、私の「過去」よりも遥かに魅力的だった。

若返った人々が短期間で亡くなっているというニュースは知っている。しかし、あの綾子が、「醜く老いて死ぬ」という現実から逃れ、「美しく燃え尽きる」という最高のエンディングを迎えることが、私は許せなかった。

彼女の死が報じられた時、私はひどい虚脱感に襲われた。勝ったのは私だ。私はまだ生きている。だが、勝負は最初から決まっていた。彼女は、人生で最も欲しかったものを手に入れて逝ったのだから。

私は今、空っぽになった街で、自分の七十歳の身体を見つめる。機能は保たれている。だが、もう二度と若返ることはない。

私は、綾子のように「美しく燃え尽きる」ことも許されず、ただ「しおれていく」だけの人生を、これから何十年も続けなければならないのだ。

窓の外は、静かで、冷たい。私の体も、心も、まるで奇跡に触れることなく取り残された、冷えた残骸のようだった。

365 支える人

壱:静寂と喪失
私の名前は山野(やまの)さつき。四十歳。あの「若返り現象」が起きるまで、十年間、中堅のデイサービスセンターで介護福祉士として働いてきた。

佐伯様のお宅にも担当として伺っていた。和人さんの憔悴しきった顔と、綾子様のご機嫌を伺う日々。それが、私たちの日常だった。

そして、あの日。世界は一変した。

私が佐伯様のお宅に伺った時、目の前にいたのは、二十歳の美女だった。一瞬、詐欺かと思った。しかし、そのぶっきらぼうな口調は、まごうことなく綾子様のものだった。

「どういうことでしょうか」

私は茫然と立ち尽くすしかできなかった。和人さんに促され、その日は帰ったけれど、その後数日のニュースで、状況を把握した。要介護だった人々が、人生の最盛期の姿に戻り、そして寿命は極端に短縮されたのだと。

私のデイサービスセンターは、一週間で空(から)になった。

最初は、歓喜だった。多くの利用者が、自分で立ち、歩き、食事をする姿を見て、涙を流した。長年の苦労が報われたと、心から思った。

しかし、喜びはすぐに喪失感に変わった。

若返った人々は、その多くが十日以内に息を引き取った。若さを謳歌した後、元の姿に戻り、あるいはそのまま静かに逝った。私たちは、彼らの束の間の自由と、その後の静かな死を、ただ見守るしかできなかった。

数ヶ月後、私の仕事はなくなった。日本中の介護施設や病院が、同じ運命を辿った。介護保険の財源は莫大に余り、過重労働で疲弊していた私たちの肩の荷は降りた。だが、長年の習慣で朝早く目が覚めても、行くべき場所がない。

「解放された」はずなのに、心には大きな空席が残った。

弐:新しい支援の形
半年が過ぎた今、街は落ち着きを取り戻しつつあるが、人口は激減した。特に高齢者の割合が減ったため、介護という職業は、ほぼ消滅した。

しかし、私たち介護福祉士のスキル自体が、無価値になったわけではない。

国は、私たち介護人材を、今や「生活支援士」として再編した。ターゲットは、「新しく生まれた要支援者」と「残された障害者」だ。

新しい老人、障害者にどのように思うのか。

今、私たちが支援するのは、若返り現象で肉体的には回復しなかった、あるいは精神的な障害を負った人々だ。

「新しい老人」という概念は、もうない。皆、人生の終盤で一時的に若さを取り戻しただけで、その後の人生は、私たち健常者と同じ時間軸に戻った。

だが、あの現象は、私たちに「老いや障害とは何か」を問い直させた。

以前の介護は、「失った機能の代替」だった。立つこと、食べること、排泄すること。私たちは「代行者」だった。

しかし、今は違う。

私たちが接するのは、「生」の終わりを見てしまった人々、あるいは現象の影響を受けなかった「取り残された」障害者だ。彼らには、心のケアと、社会との繋がりが必要になった。私の仕事は、彼らが新しい社会で尊厳を持って生きるための「共存のデザイン」に変わった。

特に、認知症だったが若返り、再び発症してしまった高齢者へのケアは複雑だ。彼らは一瞬の輝きを経験した分、再び自己が失われていく恐怖を深く知っている。

私は思う。私たちは今、「機能回復」ではなく、「魂の解放」の担い手になったのではないだろうか。

参:シェアと共同体
仕事がなくなった後、多くの元デイワーカーは、失業手当で生活しながら、「新しいシェア」の概念に飛び込んだ。

新しいシェアについてどう思うのか。

これは、政府が提唱する「生活共同体シェアリング」だ。人口半減で空き家が増え、仕事の需要も減った今、私たちは生き方そのものを変えなければならない。

私は現在、元同僚数名と、大きな一軒家をシェアしている。

生活費のシェア: 私たちは一つの大きなキッチンで食事を作り、生活費を折半する。

スキルのシェア: 元看護師の友人は健康管理を、元栄養士の友人は食事指導を、そして私は生活支援のスキルを、地域住民や共同体のメンバーに無償でシェアする。

労働のシェア: 労働需要が激減したため、私たちは週に二日だけ、政府や地域のNPOの委託を受け、生き残った障害者の「伴走者」として働く。

これは、「お金を稼ぐ」ための労働ではなく、「社会を維持する」ための奉仕的なシェア労働だ。

最初は戸惑った。私たちはずっと、お金のため、評価のために働いてきたから。しかし、お金の価値が下がり、物質的な豊かさへの執着が薄れた今、この共同体的な生活は、かつてないほどの安心感を与えてくれる。

私たちは、あの時、多くの命が消えていくのを見た。そして、佐伯様の息子さんのような疲弊した介護者が解放される姿も見た。

この世界は、「老い」という絶対的な問題を、一時的な奇跡で解決した。しかし、その代償として、私たちに残されたのは、「生き方」そのものを問い直すという、さらに大きな課題だ。

私は今、介護士ではなく、「共同体の調整役」として、再び生きがいを見出し始めている。かつては孤独だった介護の現場が、今、地域全体へとシェアされて、新しい希望の光が灯り始めているのを感じる。

365 意味のない死

壱:目覚めた憎悪
川西(かわにし)義雄(よしお)は、自分の体が動くことに気づいた瞬間、人生の最盛期、二十二歳の体に戻っていることを理解した。82歳の義雄は、綾子と同じく要介護状態であり、自宅のベッドから起き上がることすら叶わなかった。

世界中での騒動など、どうでもよかった。義雄の心を満たしたのは、全身に漲る力と、それによって蘇った四十年以上前の、生々しい記憶だった。

義雄はすぐに鏡を見た。そこにいるのは、自信に満ち溢れ、野心的な青年。そして、その頭には、若かりし頃の自分を「ダサい」「貧乏くさい」と一蹴し、裕福な佐伯家の跡取り息子(和人の父)を選んだ女の顔が、鮮明に浮かび上がった。

佐伯綾子。

「あの女……綾子め!」

義雄は、彼女への恨みだけで老後を過ごしてきたと言っても過言ではない。彼女のせいで、彼の人生は歪んだ。彼女は今頃、自分と同じように醜く老い、息子の世話になっているはずだ。

ニュースは、要介護者が皆若返り、寿命が極端に短縮されていることを報じていたが、義雄は冷静だった。彼は、この得られた十日足らずの命を、自身の人生で最も重要な目的に使うことを決めた。

復讐だ。

弐:標的の特定
義雄は、自分の年金口座に残っていた僅かな金を下ろし、綾子の行方を探し始めた。彼女が若返っていることは確信していた。そして、彼女なら必ず「青春のやり直し」に躍起になっているはずだと。

彼女の実家の住所は知っていた。数日後、彼は和人の家を張り込んだ。

若返りから五日目。

義雄は、家から出てきた綾子の姿を見て、息を飲んだ。二十歳の、あの時と同じ、奔放で、美しい綾子だった。派手な化粧と、流行のミニスカート。そして、彼女の傍若無人な振る舞いは、変わっていなかった。

「ふん。相変わらず、男に媚を売るためだけに生きている女だ」

義雄の心の中で、憎悪の炎が勢いを増した。彼女は今、自分と同じように期限付きの命しか持たない。それなら、彼女が最も楽しんでいる時に、すべてを終わらせてやるのが、最高の復讐だろう。

義雄は綾子が通い始めた高級ブランド店や、クラブ、さらには彼女がホストと会う場所まで、徹底的に追跡した。彼は若い体と頭脳を使い、彼女の行動パターンを完璧に把握した。

参:復讐の計画
若返りから九日目。

綾子の奔放な行動は最高潮に達し、疲れが見え始めていた。義雄は知っていた。綾子の命が尽きる日は近い。彼は焦りながら、最後の計画を練り上げた。

標的は、綾子が一人で家に戻る、深夜の裏通り。

義雄は金で手に入れた小型のナイフを握りしめた。彼は佐伯家の幸福を壊したかった。綾子を殺せば、彼女の息子(和人)は母の死という悲劇に見舞われる。そして、若返った直後の、最も幸福な時に命を奪われるという恐怖は、彼女自身への最高の罰になる。

その夜。

綾子は派手なワンピース姿で、ふらふらと裏通りを歩いていた。酒と、若い男との夜の匂いをまとっている。

義雄は物陰から飛び出し、無言で綾子に襲いかかった。

「お前は、俺の人生を壊した!」

彼は、綾子の喉元めがけて、ナイフを振りかざした。

肆:セーフティロックの作動
ナイフが綾子の首に届く寸前。

義雄の全身を、凄まじい、非現実的な激痛が貫いた。まるで、体内の全細胞が一瞬で爆発したかのような、耐え難い痛みだ。

「が……あ……っ!」

彼の視界は、一瞬で真っ白になった。

義雄の体は、綾子に触れることなく、その場で痙攣し、倒れ伏した。彼の口から微かな呻きが漏れた瞬間、彼の身体は、急速に萎縮し、色を失っていった。

彼の心の中に明確に湧き上がった「殺意」

その純粋で強烈な憎悪こそが、彼を若返らせた「天使の願い」のセーフティロックを作動させたのだ。

義雄の望みは、「最盛期の姿に戻り、満足した後に寿命を終える」ことではなかった。彼の願いは、「最盛期の力で復讐を遂げる」ことだった。

彼の体は、瞬く間に八十二歳の、醜く、老いた、骨と皮だけの姿に戻り、そして絶命した。顔には、若い頃と同じ、満たされない怨嗟の表情が張り付いていた。

綾子は、何が起こったのか理解できないまま、目の前で起きた非現実的な老衰死に、腰を抜かして震え上がった。彼女の最後の十日間は、恐怖と混乱という、予期せぬ結末を迎えた。

伍:終わりと始まり
翌朝、義雄の死体は警察によって回収された。若返り現象の対象者が、突然死した事例として扱われた。誰も、彼の死因が、彼自身の抱いた「殺意」によるものだとは知る由もない。

綾子は、命の期限である十日目を、静かに寝床で迎えた。義雄の死の恐怖が、彼女の奔放な欲望を打ち砕いたのだ。

そして、和人は、母の死と、世界中の介護問題の解決という大きな安堵を得たが、彼の心には、若返った母への罪深い恋の残骸が残った。

川西義雄の復讐は失敗に終わった。彼の憎悪は、彼自身の命を終わらせる毒となった。佐伯綾子は、誰にも裁かれることなく、十日間の自由を謳歌し、そして静かに逝った。

世間から見れば、ただの二つの突発的な死。しかし、この一連の出来事は、天使の願いが、「個人の欲望と憎悪」を容赦なく排除し、「公共の利益」のために設計されていたことを、静かに証明していた。

365 女の最後

夜明け前の、鉛のような時間。この家で、私が一番嫌いな時間だ。

目が覚めても、そこにあるのは絶望的な無力感だけだ。八十年生きた体は、もう私の意志とは全く関係なく、重く、言うことを聞かない。まるで自分の体が、私を閉じ込めるための粗末な檻に変わってしまったようだ。

寝返りを打とうとすれば、体の節々が悲鳴を上げる。トイレに行きたいと思っても、自力では一歩も動けない。そのたびに、私は自分の存在が汚れた塊になっていくのを感じる。

介護という名の呪縛
そして、すぐに息子、和人のことを考える。あの子の人生を、私が呪縛している。それは分かっている。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

私は、わざと横柄な母親の役割を演じ続ける。そうしなければ、要介護五の情けない私が、和人の重荷になっているという事実に、耐えられないからだ。偉そうに振る舞うことで、私はまだ「母親」という支配的な地位にしがみつける。

和人の顔は、いつも疲弊しきっている。彼の目には、私への愛情よりも、疲労と義務感の色の方が濃い。彼は真面目だから、私を見捨てない。だが、その真面目さが、彼の人生を、そして私の人生を、ゆっくりと締め殺している。

私はもう、彼の人生に「現(うつつ)を抜かす」ような明るい話題を持ち込む権利がない。彼の独身の原因が私にあることくらい、分かっている。だって、こんな「老いの檻」の世話をする生活の中に、一体どんな女性が入り込みたいと思うだろう?

過去への逃避
私の世界は、この寝室と、時々連れて行かれるリビングだけになった。毎日、天井の木目を見つめ、過去を思い出す。若かった頃。身体が軽かった頃。夫がいた頃。あの頃の私は、自由に動き、笑い、愛された一人の女性だった。

鏡を見ても、映るのはしわだらけで、色を失った、醜い老婆。それは私ではない。私の魂の抜け殻だ。

老いるということは、「女性であること」を剥奪されることだった。おしゃれも、化粧も、ヒールを履くこともできない。ただ、排泄と食事を誰かに委ねるだけの「モノ」になる。

最近は、時々、和人の寝息を聞きながら、いっそ早く死にたいと思う。和人を解放してやりたい。そうすれば、彼はあの真面目さから解放されて、本当に自分の生きたい人生を歩めるかもしれない。

だが、死ぬことも、自分の力ではできない。私はただ、この檻の中で、息子の疲れ果てた献身を吸い取るだけの怪物なのだ。

窓の外はまだ暗い。もうすぐ和人が起き、地獄のような介護の日々がまた始まる。

(ああ、誰か、私を、この体から解放してくれ)

そんな深い嘆きと、罪悪感を伴う恐ろしい願望だけが、私の心の中で、鉛のように渦巻いていた。

いつもの朝、目が覚めると、視界が妙に鮮やかだった。全身が軽く、まるで布団の中に重力がないみたいだ。いつものように「和人、朝食はまだかね」とぶっきらぼうに声を出し、体を起こそうとした瞬間、私は凍りついた。

立てる。

八十年生きてきて、最後の数年は自分の力で立つことすら叶わなかったのに。私はふわりとベッドから立ち上がった。まるで羽毛のようだ。

そして、自分の手を見た。しわだらけで、色素沈着した老婆の手ではない。細く、若々しく、艶のある指。信じられない気持ちで洗面所へ向かい、鏡を見た。

「若返っている!!」

二十歳。結婚する前、私が人生で一番輝いていた頃の顔だった。張りがあり、少し気の強そうな、あの顔。

息子—―和人—―は呆然としていたけれど、すぐに勤務時間だと慌てて家を出て行った。和人の顔が、あんなに疲弊しきっていたなんて、すっかり忘れていた。いや、見ようとしていなかった。

彼は私が自力で立てることに驚きながらも、どこか安堵しているように見えた。よかった。これで面倒をみさせることもなくなる。

その日は家で一日中、鏡を眺め続けた。顔の角度、髪の毛の感触。世界中が同じ現象に見舞われているというニュースを見たが、そんなことはどうでもよかった。私の人生が、リセットされたのだ。

若返りから三日目の朝、私は和人に切り出した。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

そう。考えることなんて一つもない。この体が動くうちに、動くべきだ。私はすぐに次の要求を口にした。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

息子は、いつもの真面目くさった顔で「年金は生活費に組み込んでいて、自由になるお金はない」などと、つまらない説明を始めた。私の人生の最後の数年間、彼の世話になっていたという事実は、一瞬、私の喉に罪悪感の塊を作ったが、すぐに私はそれを怒りに変えた。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

老いても、私は母親だ。そして、私は今、最高の若さを手に入れた。彼の支配はもう要らない。

和人はすぐに折れた。彼は真面目だから、通帳とキャッシュカードを渡し、私はそれをひったくるように奪った。ああ、これこそが自由への切符だ。

デイサービスの人には和人が適当に説明をつけてくれたらしい。私は彼の言葉を聞くでもなく、一歩も振り返らずに家を出た。

駆:十日間の疾走
若返ってから十日間。私の人生の最後の輝きは、遊びと浪費の疾走だった。この体には、老いの重さも、息子の介護による罪悪感も一切ない。あるのは、ただ「今」を燃やし尽くす欲望だけだった。

3日目:変身と解放
家を出た足で、まず向かったのは美容院だ。白髪混じりのパーマ頭なんて真っ平ごめん。私は流行りの明るいアッシュブラウンに髪を染め、毛先を遊ばせた。次にデパートへ。

和人に電話で要求する。「今の世代の服を用意しろ! サイズはSだ、もちろん。あんたの給料と私の年金、全部使っていいんだよ!」

彼は戸惑いながらも、すぐに折れた。真面目な息子は、私の今の姿を見て、もう私を「要介護の母」としては扱えないのだ。私は、彼が持ってきたカードで、ミニスカート、タイトなノースリーブニット、そして足元には華奢なヒールを揃えた。試着室の鏡に映る私は、八十歳の私を押し込めていた全ての屈辱から解放されていた。

その夜、若返ったばかりの同世代の女性たちとSNSで連絡を取り合い、居酒屋へ行った。皆、私と同じように「束の間の自由」に狂喜している。私たちは浴びるように酒を飲んだ。

4日目:音と熱狂
二日酔いの重さなんて、今の私にはない。私は街の一番大きなクラブへ向かった。轟音とレーザー光線。汗だくで体を揺らす若者たちの中で、私もヒールを脱ぎ捨てて踊り狂った。

若い男たちが近づいてくる。「お姉さん、可愛いね、一人?」彼らは私を二十歳の美女として扱う。私は彼らを適当にあしらいながら、カクテルをグラスが空になる度に注文した。かつて、介護のために切り詰めていた生活とは真逆の、贅沢な、刹那的な喜び。音楽と熱狂が、老いの影を完全に消し去った。

5日目:女王様の座
私は生まれて初めてのホストクラブへ足を運んだ。きらびやかな内装、甘い言葉を囁く若い男たち。私は一番イケメンのホストを指名し、女王様のように振る舞った。

「あんた、若いのに金遣いが荒いね」と驚く彼に、私は煙草の煙を吐きかけ、笑って答えた。「これが私の最後のボーナスさね。だから惜しまないよ」。和人から奪った年金で、シャンパンタワーを一つ注文した。私を介護で支配した社会への、ささやかな反逆だった。

6日目:一人旅のロマンス
遠出をした。私は若かった頃に一度だけ夢見ていた温泉旅館へ、一人で贅沢な旅行を決行した。誰も私を知らない場所で、私は好きなように振る舞う。

露天風呂に入り、冷たい地酒を飲む。肌に触れる湯の感触。それは、誰かに体を拭いてもらう屈辱とは無縁の、純粋な快楽だった。旅館の夕食では、板前が私を「若奥様」と呼ぶ。私は、夫亡き後に得たこの偽りの肩書きを、心から楽しんだ。

夜は、たまたま宿泊していた中年の裕福そうな男性とバーで出会い、夜が明けるまで語り明かした。恋に発展することはなかったが、私を「魅力的な一人の女性」として扱う彼の視線が、たまらなく心地よかった。

7日目:再会と欲望の連鎖
街に戻った私は、昔の友人だったユキと偶然再会した。彼女も若返っていた。私たちは手を取り合って泣き、昔話に花を咲かせた。

しかし、話題はすぐに「どうやって金を稼ぐか」に移った。ユキは貯金を使い果たし、若さを維持するために体を売っていると告白した。私は衝撃を受けたが、彼女の顔には生(せい)の輝きがあった。私はその道を選ばなかったが、彼女の行動を否定できなかった。皆、この若さが永遠ではないことを、本能で感じ、最後の欲望を追いかけていたのだ。

8日目:忘れていた繋がり
私は、クラブで知り合った若い男と連絡を取った。彼は私を「アヤ」と呼んだ。私は彼と彼の家で、一夜を共にした。

彼の優しさ、彼の体が私に与えてくれる肉体の繋がり。それは、夫が亡くなってから久しく忘れていた感情だった。彼は私を優しく抱きしめ、私の若さを讃えた。その時、私は、佐伯綾子という母親でも、八十歳の老女でもなく、一人の女性として満たされた。私は、既に亡くなった和人の父のことを思い出すそぶりもなかった。

9日目:静かな倦怠
疲れは感じなかったが、なぜか体が重い気がした。朝、鏡を見ると、肌のハリにわずかな翳り(かげり)が見えた。期限が近づいている。

私は最後に、ずっと欲しかった高価なダイヤモンドのネックレスを買い、家に帰った。家に帰ると、和人がいた。彼は憔悴しきっているのに、何も言わず、黙って私のために夜食を用意した。

彼の顔を見た瞬間、私は彼の疲労の原因が自分自身にあることを、一瞬で思い出した。そして、彼の真面目さ、彼の献身が、彼自身の人生を狂わせていることも。

私は、和人が婚活でいろいろ痛い目にあったことを思い出し、そして、彼の目の中に私へ向けられた、異常な熱が宿っていることに気づいた。それは息子としての愛情ではない。

(本当に女性というのは、いくつになっても女性なのだな。そして、男はいつまでたっても…)

私は彼の哀れな恋心を無視し、彼が用意した夜食を平らげた。彼がどうなろうと、もう知ったことか。私は私のために生きる。

その夜、私は自室のベッドに倒れ込んだ。体が、鉛のように重い。

終:満足した最期
若返って十日目の朝。

体が動かない。昨日の夜の重さが、今度は鉛のように全身にのしかかっている。

和人が寝床へ向かいに来た音がした。

私は、もう彼に声をかける力すらなかった。

彼は私の顔を見た。そして、何かを悟ったように、にやりと笑った。

私がただの老女の姿に戻ったことに、彼は安堵している。それと同時に、どこか満足しているようにも見えた。

私は最後の力を振り絞り、心の中で呟いた。

「私は満足したよ、和人」

たった十日間。その短い期間で、私は八十年分の義務と重圧から解放された。一人の女性として、人生の最盛期を取り戻し、遊び、愛し、浪費した。もう、何も悔いはない。

意識が遠のき、私は再び、皺だらけの、八十歳の老婆の体に戻っていく感覚を覚えた。

私の体は静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。

(和人。この後の人生、お前も好きなように生きなさい)

それが、私が息子に送る、最後の、そして最も自由な「母親面」だった。

365 ちょろい男

五十歳になる佐伯(さえき)和人(かずと)は、今日もまた、重い空気を吸い込んで目を覚ました。築年数の経った一軒家は、彼の人生そのもののように、くすんで疲弊しきっていた。同居しているのは八十歳になる母、綾子(あやこ)だ。

和人は独身だったが、その原因は「女性に縁がない」という類のものではなかった。真面目一徹に生きてきた彼は、仕事以外の生活に「現(うつつ)を抜かす」という行為が理解できなかった。ましてや女性との接し方など、まったく分からない。まるで取扱い説明書のない複雑な機械のように感じていた。

しかし、今は女性どころではない。綾子はまだ完全に認知症というわけではないが、一人で立つことも、食事をすることも、トイレに行くこともできない。完全に要介護五の状態だ。

和人は以前、中堅のメーカーに勤めていたが、母の介護に集中するため退職し、現在は労働時間に融通がきく派遣社員として働いていた。

日々の介護、労働、そして何より金銭的な不安が、彼の家庭を限界へと追い詰めていた。疲れ果てた彼の心を苛むのは、この状況にもかかわらず、いまだに「母親面」をする綾子の態度だった。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

その言葉が、疲労困憊の和人の心を抉(えぐ)る。

「くそ……」

夜、静まり返ったリビングで、和人は無意識にそう呟いた。この限界状況の中で、彼の頭に真っ先に浮かぶのは、罪悪感を伴う恐ろしい願望だった。

その夜。

自室で目を閉じようとした和人の前に、ぼうっと光を放つ「天使」が現れた。性別不明のその存在は、透き通るような白銀の衣を纏っていた。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

和人は一瞬、夢か幻覚だと思った。しかし、その声は彼の脳裏に直接響き、疑いようのない現実味を帯びていた。

彼の真っ先に浮かんだ願いは、心の中で形を成しかけた。それは、「母の死」。

だが、すぐに彼は激しく頭を振り払った。そんなことを望む自分を、真面目な彼は許せなかった。

次に考えたのは、「金」だった。金さえあれば、優秀なヘルパーを雇い、住環境を改善し、介護から解放される。彼の現状のすべてを変えることができる。

しかし、そこで彼の聡明で真面目な性格が顔を出す。

「自分だけ助かって、何になる? この問題は、私だけのものじゃない。日本中に、世界中に、同じ地獄を抱える人がいる」

彼は長い熟考に入った。自分の願いが、個人的な救済ではなく、この世の根本的な問題解決に繋がるものはないか。

そして、夜明け前、和人は一つの願いを思いつく。それは、彼の真面目さ、優しさ、そして限界まで追い詰められた故の、冷徹な合理性が融合した、恐ろしくも優しい願いだった。

翌朝。

和人はいつものように、母の様子を見に寝室へ向かった。しかし、そこで見た光景に、彼は完全に茫然自失となった。

昨日まで、皺(しわ)だらけでよぼよぼだった八十歳の綾子が寝ていた場所に、二十歳前後と思われる、肌艶の良い若い女性が寝ていたのだ。

和人が恐る恐る声をかける。

「…あの、お母さん?」

女性はむくりと起き上がり、ぶっきらぼうな声で返事を返した。その声だけは、聞き慣れた母のそれだった。

「なんだい、朝食の準備はできたのかい。はやく、ダイニングエリアまで連れてっておくれ」

いつもの母と同じ、きまり文句。願いが叶った喜びの実感が湧かないまま、和人が呆然としていると、女性はベッドから自力で立ち上がった。その立ち姿の軽やかさ、しなやかな肢体に、和人は思わず息を飲んだ。

そして、彼女は自分の手の甲をゆっくりと見つめる。細く、若々しい指。しばし呆然とした後、洗面所へゆっくり向かっていく。

数秒の静寂の後、家中に響き渡る大きな叫び声が上がった。

「若返っている!!」

二人とも茫然としたままだったが、和人は勤務時間がある。

「…と、とりあえず、お母さん。食事は自分で食べて、今日は家でゆっくりしててくれ」

そう告げ、彼は会社に向かった。その際、彼女の肩に触れそうになった手が、震えていることに彼は気づかなかった。

会社にいる時、昼休みでネットニュースを開いた和人は、さらに衝撃を受ける。

彼の家だけでなく、日本中どころか、世界中で同じような現象が起きているというのだ。昨日まで要介護状態だった人々が、突如として若返り、健康な姿に戻っている。

政府からは、結果が出るまで混乱しないようにと、新型コロナウイルスの時と同じような、「不要不急の外出を控える」といった要求が流れていた。誰の頭でも、この現象の整理はついていないようだった。

夢心地で帰宅した和人が家に入ると、デイサービスの担当者が、リビングで茫然と立ち尽くしていた。

「どういうことでしょうか…昨日まで、あんなに大変だった綾子さんが…」

和人は曖昧に頷き、「とりあえず、今日のところは帰ってください」と告げた。母も彼も、理解できぬまま、漠然と日々を過ごしていくしかなかった。

ニュースでは、若返った人が突発的な心臓発作のようなもので死んでいく話も報じられ始めた。しかし、政府や専門家も、この事象に対して「皆、同じように対応していいものか」と、判断ができずにいた。

三日後の朝。

若返った母、綾子から、和人は告げられた。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

和人は身構えた。そして、次の言葉で彼の最悪の予感が的中する。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

年金は、和人の派遣の収入だけでは足りず、二人の生活費に組み込まれていた。自由になるお金はない。それを説明すると、綾子はヒステリーを巻き起こした。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

和人は否定するでもなく、年金手帳と、振込口座のキャッシュカードを渡した。母はそれをひったくるように奪うと、そそくさと家を出ていった。

デイサービスの担当者には、この件が落ち着くまでは対応不要と説明し、和人は母の判断に任せることにした。

母の傍若無人ぶりは、日々エスカレートしていった。新たな収入がないにもかかわらず、「新しい青春を取り戻す」と、日々無茶な要求を重ねる。

「今の世代の服を用意しろ!」 「化粧品を用意しろ!」 「アクセサリーを用意しろ!」

和人は貯金を切り崩し、彼女の要求に応じた。それは、かつて介護で尽くした義務感ではなく、もっと個人的で、甘美な衝動に支配されていた。

彼女のために選んだ、流行のブラウス。彼女がそれを纏い、薄く化粧をしてリビングに立つ姿は、和人の長年眠っていた男としての心を激しく揺さぶった。

彼は、彼女に恋をした。

それは、彼の介護を必要とした八十歳の母ではなく、目の前にいる二十歳の魅力的な女性に対してだった。彼女の奔放さは、彼が真面目に生きてきて避けてきた「現を抜かす」人生の輝きそのものだった。

家にいる時、彼女が鏡に向かうたびに、和人は息を詰めた。彼女の首筋、立ち上がった時のウエストの細さ、そして何より、彼の介護する老女の面影が完全に消え去った、自立した一人の女性としての存在感。

彼は、婚活でいろいろ痛い目にあった経験から、女性を恐れ、避けてきた。だが、この女性は、誰よりも身近でありながら、最も遠い存在になってしまった。その矛盾が、彼の背徳的な恋心を増幅させた。

若返りから七日目の夜。

綾子が「飲みに行く」と言って出て行った後、和人は彼女の寝室に入った。彼女が昨日まで着ていた薄いパジャマを手に取り、静かに顔を埋めた。ほんのりと残る、化粧と、若々しい石鹸の香り。

「綾子さん……」

彼は思わず、母ではない、一人の女性を呼ぶ響きで名を漏らした。しかし、その恋には期限がある。最盛期の姿を取り戻した者たちは、わずか一日分の寿命を享受する。彼が願ったのは、延命ではなく、解放だった。母は若返りから十日で、以前の姿に戻り、そして静かに最期を迎えるのだ。

彼は、恋人でも、夫でもない。彼女にとっての彼は、単なる財布であり、彼女の若さを支える従順な息子でしかない。和人は、この十日間という名の「期限付きの恋」を、誰にも知られずに、心の中で燃やし尽くすしかなかった。

四:願いの結末
さらに数日たった、母が若返って十日目の朝。

和人がいつものように母の寝床へ向かうと、そこには以前の母の姿の老婆が、静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。若さという一瞬の炎を燃やし尽くした後の、静かな満足を湛えているように見えた。

和人はにやりと笑い、心の中で静かに呟いた。

「母は、満足しただろうか」

彼は知っていた。彼女の満足は、彼の献身的な介護から解放された満足であり、彼の叶えられなかった恋とは全く関係がないことを。しかし、彼は、その十日間で、生まれて初めて「恋」という感情を知った。それは、罪深く、一瞬で終わる、呪いのような恋だったが、真面目一徹で生きてきた彼の人生に、唯一の甘い毒を残していった。

和人が天使に願った願いは、以下の通りだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一(約一日)にしてほしい」 (つまり、残り寿命を1年を1日に短縮するというもの)

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」 (最後にやけを起こさせないためのセーフティーネットの設定)

真面目で聡明な彼は、この世の介護問題を根本的に解決するべく、このような願いをしたのだ。

目先一ヶ月は、世界中で「死亡処理」に追われる多くの人がいた。若返った人々が、束の間の自由と生を謳歌した後、静かに元の姿に戻る、あるいはそのまま亡くなっていったからだ。

しかし、半年後、日本の多くの問題は改善した。莫大だった介護保険の負担は減り、介護に疲弊していた人々は解放された。

一方で、人口の半減により、労働需要も激減してしまった。これは主に先進国の問題だったが、この後どうなるかは、誰にも想像がつかない。数百年後に同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

それでも、佐伯和人は、肩から大きな重荷がおりたような、すっきりとした感覚に包まれていた。

彼は、窓の外を見つめた。空は青い。

「この先の人生は、何があるのだろう」

彼は呟いた。孤独と、わずか十日間の恋の残骸を抱きしめて、彼の新しい人生が、今、始まる。

365

五十歳になる**佐伯和人は、今日もまた、重い空気を吸い込んで目を覚ました。築年数の経った一軒家は、彼の人生そのもののように、くすんで疲弊しきっていた。同居しているのは八十歳になる母、綾子(あやこ)だ。

和人は独身だったが、その原因は「女性に縁がない」という類のものではなかった。真面目一徹に生きてきた彼は、仕事以外の生活に「現(うつつ)を抜かす」という行為が理解できなかった。ましてや女性との接し方など、まったく分からない。まるで取扱い説明書のない複雑な機械のように感じていた。

しかし、今は女性どころではない。綾子はまだ完全に認知症というわけではないが、一人で立つことも、食事をすることも、トイレに行くこともできない。完全に要介護五の状態だ。

和人は以前、中堅のメーカーに勤めていたが、母の介護に集中するため退職し、現在は労働時間に融通がきく派遣社員として働いていた。

日々の介護、労働、そして何より金銭的な不安が、彼の家庭を限界へと追い詰めていた。疲れ果てた彼の心を苛むのは、この状況にもかかわらず、いまだに「母親面」をする綾子の態度だった。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

その言葉が、疲労困憊の和人の心を抉(えぐ)る。

「くそ……」

夜、静まり返ったリビングで、和人は無意識にそう呟いた。この限界状況の中で、彼の頭に真っ先に浮かぶのは、罪悪感を伴う恐ろしい願望だった。

その夜。

自室で目を閉じようとした和人の前に、ぼうっと光を放つ「天使」が現れた。性別不明のその存在は、透き通るような白銀の衣を纏っていた。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

和人は一瞬、夢か幻覚だと思った。しかし、その声は彼の脳裏に直接響き、疑いようのない現実味を帯びていた。

彼の真っ先に浮かんだ願いは、心の中で形を成しかけた。それは、「母の死」。

だが、すぐに彼は激しく頭を振り払った。そんなことを望む自分を、真面目な彼は許せなかった。

次に考えたのは、「金」だった。金さえあれば、優秀なヘルパーを雇い、住環境を改善し、介護から解放される。彼の現状のすべてを変えることができる。

しかし、そこで彼の聡明で真面目な性格が顔を出す。

「自分だけ助かって、何になる? この問題は、私だけのものじゃない。日本中に、世界中に、同じ地獄を抱える人がいる」

彼は長い熟考に入った。自分の願いが、個人的な救済ではなく、この世の根本的な問題解決に繋がるものはないか。

そして、夜明け前、和人は一つの願いを思いつく。それは、彼の真面目さ、優しさ、そして限界まで追い詰められた故の、冷徹な合理性が融合した、恐ろしくも優しい願いだった。

翌朝。

和人はいつものように、母の様子を見に寝室へ向かった。しかし、そこで見た光景に、彼は完全に茫然自失となった。

昨日まで、皺(しわ)だらけでよぼよぼだった八十歳の綾子が寝ていた場所に、二十歳前後と思われる、肌艶の良い若い女性が寝ていたのだ。

和人が恐る恐る声をかける。

「…あの、お母さん?」

女性はむくりと起き上がり、ぶっきらぼうな声で返事を返した。その声だけは、聞き慣れた母のそれだった。

「なんだい、朝食の準備はできたのかい。はやく、ダイニングエリアまで連れてっておくれ」

まさに、いつもの母と同じ、きまり文句。願いが叶った喜びの実感が湧かないまま、和人が呆然としていると、女性はベッドから自力で立ち上がった。

そして、自分の手の甲をゆっくりと見つめる。細く、若々しい指。しばし呆然とした後、洗面所へゆっくり向かっていく。

数秒の静寂の後、家中に響き渡る大きな叫び声が上がった。

「若返っている!!」

二人とも茫然としたままだったが、和人は勤務時間がある。

「…と、とりあえず、お母さん。食事は自分で食べて、今日は家でゆっくりしててくれ」

そう告げ、彼は会社に向かった。

会社にいる時、昼休みでネットニュースを開いた和人は、さらに衝撃を受ける。

彼の家だけでなく、日本中どころか、世界中で同じような現象が起きているというのだ。昨日まで要介護状態だった人々が、突如として若返り、健康な姿に戻っている。

政府からは、結果が出るまで混乱しないようにと、新型コロナウイルスの時と同じような、「不要不急の外出を控える」といった要求が流れていた。誰の頭でも、この現象の整理はついていないようだった。

夢心地で帰宅した和人が家に入ると、デイサービスの担当者が、リビングで茫然と立ち尽くしていた。

「どういうことでしょうか…昨日まで、あんなに大変だった綾子さんが…」

和人は曖昧に頷き、「とりあえず、今日のところは帰ってください」と告げた。母も彼も、理解できぬまま、漠然と日々を過ごしていくしかなかった。

ニュースでは、若返った人が突発的な心臓発作のようなもので死んでいく話も報じられ始めた。しかし、政府や専門家も、この事象に対して「皆、同じように対応していいものか」と、判断ができずにいた。

三日後の朝。

若返った母、綾子から、和人は告げられた。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

和人は身構えた。そして、次の言葉で彼の最悪の予感が的中する。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

年金は、和人の派遣の収入だけでは足りず、二人の生活費に組み込まれていた。自由になるお金はない。それを説明すると、綾子はヒステリーを巻き起こした。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

和人は否定するでもなく、年金手帳と、振込口座のキャッシュカードを渡した。母はそれをひったくるように奪うと、そそくさと家を出ていった。

デイサービスの担当者には、この件が落ち着くまでは対応不要と説明し、和人は母の判断に任せることにした。

母の傍若無人ぶりは、日々エスカレートしていった。新たな収入がないにもかかわらず、「新しい青春を取り戻す」と、日々無茶な要求を重ねる。

「今の世代の服を用意しろ!」 「化粧品を用意しろ!」 「アクセサリーを用意しろ!」

既に亡くなった父のことを思い出すそぶりもなく、綾子は遊び歩いた。

(本当に女性というのは、いくつになっても女性なのだな)

婚活で色々と痛い目にあった和人は、思わずそう思いを馳せた。女心、そして女性の持つ生命力のようなものを、改めて突きつけられた気がした。

さらに数日たった、母が若返って十日目の朝。

和人がいつものように母の寝床へ向かうと、そこには以前の母の姿の老婆が、静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。

和人はにやりと笑い、心の中で静かに呟いた。

「母は、満足しただろうか」

和人が天使に願った願いは、以下の通りだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を365分の1にしてほしい」
つまり、残り寿命を1年を1日に短縮するというもの

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」
最後にやけを起こさせないためのセーフティーネットの設定

真面目で聡明な彼は、この世の介護問題を根本的に解決するべく、このような願いをしたのだ。

目先一ヶ月は、世界中で「死亡処理」に追われる多くの人がいた。若返った人々が、束の間の自由と生を謳歌した後、静かに元の姿に戻る、あるいはそのまま亡くなっていったからだ。

しかし、半年後、日本の多くの問題は改善した。莫大だった介護保険の負担は減り、介護に疲弊していた人々は解放された。

一方で、人口の半減により、労働需要も激減してしまった。これは主に先進国の問題だったが、この後どうなるかは、誰にも想像がつかない。数百年後に同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

それでも、佐伯和人は、肩から大きな重荷がおりたような、すっきりとした感覚に包まれていた。

彼は、窓の外を見つめた。空は青い。

「この先の人生は、何があるのだろう」

彼は呟いた。彼の新しい人生が、今、始まる。