幸福な少女 母の思い

あの日、金曜日の夕方。私は悠斗を迎えに、和彦はハンバーグの買い出しに、それぞれ家を出た。心菜が、リビングでブロックを広げながら「おるすばんのプロだからだいじょうぶ!」と笑っていたのが、私の最後に見た心菜の笑顔だった。

私たちは、ほんの数分のうちに、幹線道路の交差点で永遠に途切れてしまった。

意識が霧のように晴れた時、私たちは家族三人、見知らぬ、温かい光の中に立っていた。悠斗が「ママ、パパ!」と泣きつき、和彦が私の手を握った。

すぐに、私たちは理解した。私たちは、もうあの家に帰れない。

「心菜は?心菜はどうなるんだ、美香!」和彦の焦燥が、この静謐な空間で唯一の痛みを伴う感情だった。

私たちは、透明な壁の向こう側から、あの家を見た。リビングの電気はついたまま。テレビは通販番組を流している。そして、玄関の冷たい階段に、心菜が小さな体を丸めて眠っていた。

「ああ、心菜……ごめんね、すぐに帰るって言ったのに」

私たちには、声をかけることも、抱きしめることもできない。ただ、その孤独な夜を、見つめていることしかできなかった。

土曜日、心菜は目を覚ました。冷蔵庫のドアノブに手が届かず、床に座り込む心菜の姿を見て、和彦は「俺が行って、抱き上げてやる!」と壁に手を伸ばしたが、虚しくすり抜けた。

日曜日の午後。心菜の小さな心が壊れる瞬間を、私たちは見ることになった。

心菜がサッカーボールを壁に叩きつけ、調味料や食器を床に叩きつけるたび、悠斗は「やめろよ、心菜!」と泣き、私は必死で叫んだ。「心菜、もうやめて!危ないわ!」

しかし、私たちの声も、悲しみも、あの家には届かない。心菜の小さな暴走が、誰にも気づかれず、誰にも止められないまま、部屋を荒らしていく様子は、私たちにとって地獄のようだった。

「ごめん、心菜。誰も片付けてあげられない」和彦が床に散乱した砂糖の粉を見つめた。

そして、月曜の朝。私たちが最後の希望を託した、地方の父母(心菜の祖父母)が、私たちと同じように事故に遭い、命を落としたことを知ったとき、私たちの心は二度目の絶望に突き落とされた。

「誰も……心菜を助けに行けない」

警察が破錠し、荒れた家から心菜を抱き上げた時、私たちは心から安堵した。あの小さな体が、やっと保護された。

しかし、その後の心菜の「うそ」と「拒絶」の日々を見守るのは、新たな苦痛だった。

「かくれているんだよ。サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

一時保護所の佐藤職員に、満面の笑顔でそう話す心菜を見て、私は泣いた。

「この子は、自分の心を守るために、私たちを『生きている』ことにしたのね……」

私たち家族全員の死というあまりにも巨大な真実を、五歳の心菜が受け入れることはできなかった。その「否認」が、心菜にとっての唯一の生存手段となってしまった。

その後の13年間。心菜は私たちの「サプライズ」に整合性を持たせるために、嘘を重ね、社会から孤立していった。周囲から「嘘つき」「異常者」と蔑まれ、ついには精神病院の白い壁に閉じ込められることになった。

その間、多くの大人が心菜に真実を伝えようとしたが、心菜はいつも静かに拒否した。

「ああ、私たち家族を殺したのは、私たち自身が起こした事故なのに。この子の人生を狂わせた」私は何度も後悔した。

病院に隔離され、薬によって思考能力を奪われた心菜の姿は、見るに堪えないものだった。

しかし、薬物が彼女の精神を現実から完全に引き離した時、奇妙な、そして安堵すべきことが起こった。

ある夜、心菜の夢の中に、私たちは現れた。

「ただいま、心菜」「ごめんね、すごく時間がかかっちゃったね」

それは、心菜の心の中で、13年越しの「サプライズパーティー」が完成した瞬間だった。

心菜は、23歳の体ではなく、5歳の笑顔で私たちに飛びついてきた。彼女の口から漏れる「うわごと」は、ハンバーグ、サッカー、そして誕生日のケーキの話ばかりだった。現実の苦痛から遮断された心菜は、頭の中で、永遠に冷めない家族の温もりの中にいた。

「これでいいのね、和彦」私は和彦に尋ねた。 「ああ。この子は、現実の地獄を背負うよりも、この夢の中で幸せになることを選んだんだ」和彦は心菜の夢の中の頭を優しく撫でた。

数年後、心菜の顔に満面の笑顔が浮かんだまま、静かに息を引き取ったとき、私たちは知った。

心菜は、私たちの事故によって途切れた金曜日の夕暮れの続きを、完全に、そして幸せな形で、自分の心の中で生ききったのだと。

私たちは、白い監獄のベッドから解放された心菜の魂を抱きしめた。彼女はもう泣いていない。ただ、満たされた笑顔で、私たちに言った。

「サプライズ、大成功!」

私たちは、心菜の安息が、私たち自身が負わせた最も大きな苦痛の唯一の救済であると悟り、永遠の光の中で、共に心菜を抱きしめ続けた。

幸福な少女

東京都内の閑静な住宅街。築浅の一戸建ては、幸せな四人家族の笑い声が満ちる場所だった。

父、和彦(40)はIT企業の課長。妻の美香(40)も同じく総合職で働く、共働きの家庭だ。長男の悠斗(7)は、小学校に入ってサッカーに夢中の小学二年生。そして、長女の心菜(5)は、人懐っこい笑顔が特徴の幼稚園年長さん。

金曜日の夕方。いつものように慌ただしくも平和な時間が流れていた。

悠斗は、週に一度のサッカー教室。普段は美香が迎えに行くのだが、今日は会社で少し残業があったため、終了時刻ぎりぎりに迎えに行くことになった。

「心菜、お留守番できるかな?ママ、悠斗兄ちゃん迎えに行ってくるからね。すぐ帰ってくるよ」

ソファで塗り絵をしていた心菜は、満面の笑みで答えた。

「はーい!心菜ちゃん、おるすばんのプロだからだいじょうぶ!」

美香は心菜の頭を撫で、急いで玄関を出た。

ほぼ同時に、和彦が鍵と財布を手にキッチンに顔を出した。

「じゃあ、俺は晩飯の買い出しに行ってくる。今日は心菜のリクエストでハンバーグにするか。美香、悠斗を頼むな」

「はーい、行ってらっしゃい!」

和彦もまた、家から一番近いスーパーへと向かう。都会の核家族らしく、近所付き合いは挨拶程度。家族同士で深く付き合うような親しい友人もいなかった。

家には、心菜がたった一人。少しずつ日が傾き、西日がリビングをオレンジ色に染めていた。

和彦と美香が出て行ってから、心菜は塗り絵を終え、リビングのおもちゃ箱をひっくり返してブロック遊びを始めた。時刻は午後6時を過ぎたところ。

「もうすぐハンバーグだぁ」

心菜は、ブロックで大きな家を作りながら、無邪気に夕飯を待っていた。

午後7時。

心菜は遊びに飽き、テレビをつけた。アニメが始まる時間だ。しかし、心菜の心の中に小さな違和感が芽生え始める。いつもなら、この時間には「ただいま!」という声が聞こえてくるはずなのだ。

午後8時。

テレビアニメも終わり、心菜はソファの上に座って玄関をじっと見つめていた。お腹がぐう、と鳴る。お留守番は得意なはずなのに、心菜の瞳にはうっすらと不安の色が浮かび始めていた。

「おそいなぁ……」

心菜はスマートフォンを探したが、美香と和彦が持っていったことを思い出す。

午後9時。

外はすっかり闇に包まれている。家の中の時計がカチカチと秒を刻む音だけがやけに大きく響いていた。心菜はもう遊ぶ気力もなく、玄関前の階段に座り込んで、ただひたすら扉が開くのを待っていた。

「パパ?ママ?にいちゃーん……」

小さな声で家族の名前を呼ぶが、返事はない。

都内の一戸建ては、周囲の住宅との距離が近いようでいて、個々の生活空間は独立している。隣近所の家族は、自分たちの夕食を済ませ、団欒しているのだろう。心菜の家の異変に気づく者は誰もいなかった。

そして、祖父母は遠く離れた地方で暮らしており、気軽に連絡を取れる距離ではない。

心菜は、生まれて初めての、得体のしれない孤独と恐怖に襲われていた。家族旅行の時でさえ、絶対に離れることのなかった家族が、まるで見えない壁の向こうに消えてしまったように感じた。

その頃、都内から少し離れた幹線道路沿いのニュース速報が流れていた。

「本日夕方、O区、K付近の交差点で、大型トラックと乗用車の衝突事故が発生しました。巻き込まれた歩行者、乗用車の運転手と助手席の同乗者、そして近くの歩道を歩いていた小学生を含む、計三名の死亡が確認されています」

事故の時刻は、ちょうど美香が悠斗を乗用車に乗せて、スーパーへ向かっていた和彦と合流する少し前。

美香が運転する車は、悠斗を乗せてサッカー教室の帰り道、横断歩道のない交差点に差し掛かった。そこへ、スーパーでの買い物を終え、急ぎ足で帰路についていた和彦が、歩道を歩いていた。悠斗が窓から和彦を見つけ、「パパ!」と声を上げ、美香も和彦に手を振った、その時だった。

信号無視をした大型トラックが、美香の運転する乗用車に、そしてその衝撃で車道を飛び出した乗用車が、近くの歩道を歩いていた和彦を巻き込んだ。

一家の幸せを運んでいた三人が、同じ時間、同じ場所で、永遠の眠りについてしまった。

その事実は、都心の静かな一軒家で、心菜が眠りにつく夜中まで、誰にも知られることはなかった。

午前零時を過ぎた。

心菜は、待ち続けた玄関の冷たい階段に、丸くなって寝ていた。目元には、乾いた涙の跡が残っている。

「ただいま」の声は、今夜も、そしてこれからも、二度と響くことはない。

明るいリビングの電気はつけっぱなし。テレビは深夜の通販番組を流している。

心菜の家を取り巻く都会の夜景は、何事もなかったかのように静かで、無関心だ。

外の世界では、とてつもない悲劇が起きたことを、家の中の小さな心菜はまだ知らない。彼女が知っているのは、パパも、ママも、兄ちゃんも、誰も帰ってこないという、たった一つの、冷たい現実だけだった。

明日、目が覚めても、心菜は一人だ。

これから始まる、彼女の新しい生活を、誰も知らない。

土曜日の朝。光が心菜の瞼を突き刺し、強制的に目を覚まさせた。

心菜は冷たいフローリングの上、昨日着ていた服のまま、身を丸めていた。喉がカラカラに乾いている。

「マ、マ……」

声がかすれていた。心菜は立ち上がり、家の中をゆっくりと歩き回る。

キッチン。昨夜の夕食の準備を待つための食器が、テーブルの上にそのまま残されている。和彦がいつも座る椅子、美香の座る椅子、悠斗が座る椅子の全てが空席だ。

心菜は、冷蔵庫の前に立った。何か食べ物、牛乳、ヨーグルト。しかし、心菜の身長では冷蔵庫の高い位置にあるドアノブに手が届かない。どうにかよじ登ろうとするが、滑ってしまい、心菜は冷たい床に座り込んだまま、どうすることもできなかった。

トイレに行きたい。心菜は一人でトイレに行けるが、いつもはママが「終わったよ」の声を聞いて手を洗うのを見てくれていた。今は誰も見ていない。

家の中は、明るいのに、凍えるように静かだ。

心菜の頭の中は混乱していた。パパとママは、いつも「お留守番は長くても二時間よ」と言っていた。でも、もう二晩、誰も帰ってこない。

心菜は、リビングの固定電話の前に座り込み、ただ受話器を見つめた。祖父母の電話番号は、心菜には数字の羅列にしか見えない。和彦が使っていたタブレットは、充電が切れかけて真っ暗になっている。

心菜は、その小さな体で、「この家には、誰もいない」という、人生で初めての、そして最も残酷な事態を認識し始めた。

「こわいよ……」

心菜は声を上げて泣いた。しかし、その泣き声は、厚い壁と高い窓に阻まれて、外の世界には届かない。都会の一戸建ては、外部から見れば平和そのものだ。近隣住民にとって、心菜の家の静けさは、単なる「家族が旅行に出かけた静けさ」でしかなかった。

泣き疲れた心菜は、ソファに埋まるように横になった。お腹が空いて、身体が怠い。年長の子どもにとって、一人で食料を見つけ、調理することなど不可能だ。

心菜が手にできたのは、リビングのテーブルの隅に置きっぱなしになっていた、美香の非常食の袋に入ったキャンディ数個だけだった。

「キャンディ、おいしくない……ハンバーグがいい」

小さな粒を口の中で転がしながら、心菜はひたすら家族の帰りを待った。外の光がだんだんとオレンジ色に変わっていく。再び、誰も帰らない夜が、忍び寄っていた。絶望は、この小さな子どもを、静かに、そして確実に蝕んでいた。

日曜日。心菜の心は限界に達していた。

静かに絶望を受け入れようとしていた土曜日とは違い、心菜の中の小さな何かが爆発した。

「かえってきて!もういやだ!」

心菜は立ち上がり、リビングの隅に置いてあった兄のサッカーボールを、力いっぱい壁に蹴りつけた。ドスッという鈍い音。心菜は何度も何度も、ボールを壁にぶつけ続けた。普段なら悠斗が「うるさい!」と怒り、美香が「家の中でやめなさい!」と止めるはずだ。だが、今は、ボールを蹴る音だけが、虚しく部屋に響く。誰も怒らない。

次に心菜が向かったのはキッチンだった。冷蔵庫のドアノブにはやはり手が届かない。

心菜は、その小さな体で冷蔵庫に何度も体当たりした。ガタガタと大きな音が鳴る。それでもドアは開かない。

絶望した心菜は、今度は届く範囲にあるものを手当たり次第に床に叩きつけた。カウンターに置いてあった砂糖の容器、塩のボトル、調味料の瓶。それらが床に落ち、大きな音を立てて砕け、白い粉が飛び散る。

「わあああああああ!」

心菜は、床に広がる砂糖と塩の海の中で、まるで獣のように泣き叫んだ。顔中が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

いつもなら、美香が慌てて飛んできて、心菜を抱き上げ、そしてすぐに掃除を始める。しかし、砕けた調味料は、心菜の足元にそのまま残る。誰も片付けてくれない。

心菜は、その汚れた手で、棚からさらに食器を引っ張り出し、床に投げつけた。プラスチックのコップが跳ねる。ガラスの皿が割れる。その破壊行為は、心菜自身の小さな体と心を、さらに傷つけていく。

大きな音を立てても、泣き叫んでも、家は、そして外の世界は、何の反応も返さない。

心菜は疲れ果て、散らかった床の上にうずくまった。体は砂糖と塩とホコリまみれだ。

「パパ、ママ……」

心菜の声は、もうささやきにしか聞こえない。

この家は、まるで深海の底に沈んだ透明な箱のようだ。どんなにもがいても、叫んでも、外にいる人々には届かない。そして、箱の中には、冷たい空気と、自分の絶望だけが残る。

外の世界は、相変わらず無関心だった。週末の午後の静寂。誰もが、この一戸建ての中で起きている小さな破滅を知らない。

心菜は、散乱した破片の上で、力の限り泣き続けた後、そのまま意識を失うように眠りについた。汚れた部屋の中で、たった一人。これが、心菜の孤独な週末の、最も激しい抵抗の果てだった。

そして、月曜日の朝。

心菜は、兄のベッドの上で、誰にも起こされずに目を覚ました。昨日までの激しい暴走のせいで、身体はひどく疲れていて、幼稚園に行く支度をする力もなかった。

一方、都心から離れた和彦の会社。午前9時になっても、和彦の席は空席だった。

(…中略:会社側の安否確認と祖父母への連絡)

地方で暮らす美香の母、佳代子(68)は、この連絡を受けて、初めて事態を把握した。

佳代子は急いでテレビをつけた。そして、週末に流れていたという「都内の死亡事故」のニュースを、ネットで検索し始めた。

そして、ついに「田中和彦さん、美香さん、悠斗さん」という名前の報道を目にする。

佳代子は、絶句した。

「……まさか、心菜が、あの子が、一人で…家の中に、三日間も…」

すぐに、佳代子は夫の耕作に知らせ、そして心菜の自宅に最も近い交番に、事態を伝える電話を入れた。

「娘夫婦が、週末の事故で亡くなりました。五歳の孫が、たった一人で家にいるはずです。三日間、誰も帰っていません。どうか、孫の安否を確認してください!」

都会の喧騒の中、ようやく外部の助けが、心菜のいる一軒家に向かい始めた。

月曜日の朝、地方に住む祖父母、耕作と佳代子は、会社からの連絡で娘夫婦一家の悲劇的な事故死を知り、そして心菜が三日間も一人で家にいるという状況に、血の気が引いた。

耕作はすぐに地元の警察に連絡し、東京の心菜の自宅へ急行するよう要請。同時に、最も早い新幹線に飛び乗るための支度を始めた。

「心菜、ごめんな。もうちょっとだけ待っててくれ。じいじとばあばが、すぐに迎えに行くからな」

佳代子は涙を拭い、憔悴した顔で耕作とタクシーに乗り込み、駅へ向かった。

地方都市の幹線道路。タクシーは駅へと急いでいた。二人にとって、心菜の安否こそが全てだった。

その時、青信号で交差点に進入したタクシーの側面に、スピードを出しすぎた対向車が突っ込んできた。

ガシャン!という激しい衝突音。

東京で起きた悲劇と、まるでシンクロするかのように、耕作と佳代子を乗せたタクシーも、あっけなく大破した。

同じ頃、東京の心菜の自宅前。

制服姿の警察官二人が、佳代子の通報を受けて到着していた。

「この家だな。田中さん宅…三日間、五歳の子が一人か」

警察官は、インターホンを鳴らしたが、返答はない。窓を覗き込んでも、カーテンが引かれており、中の様子はわからない。しかし、リビングの電気がつきっぱなしで、玄関ドアの下には新聞が溜まっている。

やむを得ず、警察官は要請に基づき、合鍵を持たないため、特殊な器具を使って玄関の鍵を破錠した。

カチャンという音と共に、ドアが開いた。

警察官は、鼻をつく異臭と、異様な静寂に息を飲んだ。

「た、田中!家の中が…」

一歩足を踏み入れると、まず目に入ったのは、荒れ果てたキッチンとリビングだった。床には、割れた食器の破片、白い砂糖や塩の粉末が飛び散り、まるで台風が通り過ぎた後のようだった。

「ひどいな…これは、相当パニックになっていたようだ」

警察官は声をかけながら、慎重に家の中を捜索した。二階の寝室。和彦と美香のベッドルームの横にある、悠斗の部屋。

そこで、警察官はベッドの上で丸くなっている、小さな心菜を発見した。

心菜は、兄の大きなサッカーのユニフォームを抱きしめ、泥のように眠っていた。身体には、砂糖やホコリがこびりつき、顔は乾いた涙の跡で固まっている。

「おい、坊や…いや、女の子だ。大丈夫か?」

警察官がそっと肩に触れると、心菜はゆっくりと目を開けた。その瞳には、光がなく、焦点が定まっていなかった。

「…………パ、パ?」

心菜の小さな声は、ほとんど聞こえない。

警察官はそっと心菜を抱き上げた。心菜の体重は驚くほど軽かった。警察官は、自分の制服が汚れることも気にせず、心菜を抱きしめた。

「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」

心菜は、初めて出会った警察官の腕の中で、外界へと連れ出された。パトカーの中で、心菜はブランケットにくるまれ、少しずつ温かいミルクを与えられた。

警察は、心菜が保護されたことをすぐに祖父母に伝えようと、耕作の携帯電話に連絡を入れた。

プルルル…プルルル…

耕作の携帯は鳴り響くが、誰も出ない。警察官は、地方にいる祖父母が長旅で出られないのだろうと解釈した。

その頃、心菜の保護から数時間遅れて、地方の事故現場から、耕作と佳代子が乗ったタクシーが大破したというニュースが、東京の警察にも伝えられた。

「田中さんのご両親が乗ったタクシーが、事故で…」

連絡を受けた警察官は、絶句した。

心菜の唯一の血縁者であり、最後の希望であった祖父母も、心菜の元へたどり着くことなく、二度目の悲劇の犠牲となってしまったのだ。

警察官は、隣でミルクを飲み終え、再び眠りについた心菜の顔を見た。彼女は、まだ誰もいない、この都会の中で、完全に孤立無援となってしまった。

心菜をこれからどこへ連れて行くべきか。この小さな命を、誰が守るのか。

静かに眠る心菜の周りには、もはや彼女の家族は、この世界には誰も残されていなかった。

心菜は、保護された後、都内の一時保護所に移送された。温かいシャワーを浴び、清潔な服に着替え、久しぶりにまともな食事を与えられた。

初めて見る場所、初めて会う大人たち。しかし、食事の温かさと、誰もが自分を傷つけずに優しく接してくれる事実に、心菜は三日間の地獄から解放された安堵を覚えた。衰弱しきっていた心菜は、小さなベッドに横たわると、すぐに深い眠りに落ちた。

しかし、保護所の職員や、駆けつけた児童相談所の職員たちは、重い空気に包まれていた。

「五歳の子ですよ。両親と兄が同時に事故死。しかも唯一の血縁者である祖父母も、彼女を迎えに来る途中で亡くなった……こんなケースは前例がない」

「問題は、どう伝えるかだ。家族全員がこの世にいないことを、どうやってこの子に理解させる?精神的なショックは計り知れない」

大人たちは、心菜の保護者不在、親族不在という法的な問題と、家族の死をどう告げるかという倫理的な問題、両方の重さに押しつぶされていた。誰もが、心菜の目覚めを待ちながら、その後の言葉を見つけられずにいた。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

心菜が保護されて三日目、水曜日。児童相談所の心理士と相談の上、担当職員の佐藤さんは、心を鬼にして真実を伝える決意をした。これ以上、希望的観測の時間を長引かせるのは、心菜のためにならないと判断したのだ。

佐藤さんは、心菜の目を真っ直ぐ見て、努めて穏やかで、しかし曖昧さを一切含まない言葉を選んだ。

「心菜ちゃん。とても大切で、悲しいお話をしなくてはいけません」

心菜は、ニコニコしながら佐藤さんの話を聞いている。

「ね、心菜ちゃんのご家族……パパも、ママも、お兄ちゃんの悠斗くんもね、遠い、遠い場所に行ってしまいました」

「え?どこ?」心菜は不思議そうに首を傾げた。「えんとつ町のプペルみたいに、遠い星?」

佐藤さんは言葉を継いだ。

「遠い場所というのはね、心菜ちゃんたちのそばには、もう、戻ってこられないということなの。金曜日にね、車に乗っている時に、事故に遭ってしまって……」

心菜は佐藤さんの顔をじっと見つめ、突然、大きな声で笑い出した。

「わー!佐藤さん、おはなしがへたっぴだね!」

「え?」

「だって、それサプライズじゃん!」心菜は手を叩いた。「パパがいつもいうの。『心菜にはわかんない、遠いお話だ』って!ね、今からパパとママ、ドアから出てきて、『びっくりした?』っていうんでしょ?じいじとばあばも、きっとそこでみててわらってるんでしょ!」

佐藤さんが、家族全員が「亡くなった」ことを、より直接的な表現で伝えても、心菜の表情は変わらない。彼女の瞳は澄んでおり、何の悲しみも、混乱も映していない。

「パパとママは、事故で、もう……」 「しってる!じこ!サプライズのくるまがこわれちゃったんでしょ?でもだいじょうぶ!パパ、おもちゃなおせるもん!」

心菜は、佐藤さんの言葉を、全て『家族が仕掛けた、心菜のための物語』のセリフとして処理し、現実の事実として受け入れることを、完全に拒否していた。

心菜との面談を終えた後、佐藤さんと児童相談所の所員たちの間には、重い疑念が広がった。

「あの反応は……まるで言葉が理解できていないようだ。五歳児の知能レベルとしては、あまりにも現実認識が低すぎるのではないか?」

「認知能力に、何か重大な障害があるのではないか?家族の死という情報処理が、脳のキャパシティを超えているのかも」

彼らは、心菜の通っていた都内の幼稚園に急いで連絡を取った。担任の先生からの回答は、彼らの疑念を覆すものだった。

「田中心菜ちゃんですか?いえ、とんでもない。むしろクラスの中では非常に賢い子ですよ。言葉の理解力は年長さんとして標準以上で、お絵描きやブロック遊びなど、空間認識や論理的思考が求められる活動では、時々大人も驚くような発想をします。何も問題ありません」

幼稚園からの報告は、大人たちに新たな、より重い真実を突きつけた。

心菜は「理解できない」のではない。「理解することを拒否している」のだ。

心理士は重々しい口調で説明した。「これは、トラウマ反応の典型的な防御機制の一つ、『否認(Denial)』です。あまりにも巨大で受け入れがたい真実を、心を守るために、彼女自身の精神が無意識のうちにシャットアウトしている。彼女の心の中では、ご家族はまだサプライズパーティーの準備中で、すべては一時的なものとして処理されているのです」

物理的な安堵は得られたが、心菜の精神は、最も固い心の壁を築き上げていた。

心菜の精神状態の分析が進む一方で、行政の手続きは非情にも進んでいった。

遠方の祖父母の事故死により、心菜の法定保護者となり得る親族は、日本国内に一人も残されていないことが確定した。法的に、心菜は完全に孤立無援となった。

「申し訳ないが、選択肢が一つしかない」

児童相談所長は、苦渋の決断を告げた。

「心菜ちゃんは、親族による引き取りが不可能。現状、一時保護所の期間も限界だ。我々は、心菜ちゃんを、都内にある養護施設(孤児院)に移す手続きを進める」

心菜にとって、家族全員の死という現実が、否認という壁の裏で凍結している間に、彼女の生活環境は、非情な行政手続きによって一方的に決定された。

翌週、心菜は、たくさんの新しい友達がいる場所に行けると信じながら、佐藤さんに手を引かれ、二度と帰ることのない「家」を離れ、都心の一角にある「K愛育園」へと向かうことになった。

彼女の「サプライズパーティー」は終わらないまま、心菜の新しい、そして孤独な生活が始まろうとしていた。

時が流れ、心菜は23歳になった。高校を卒業後、都内の専門学校に進学したものの、彼女の人生は常に破綻の縁にあった。

13年間、彼女の心を防御してきた「否認」の壁は、崩れるどころか、さらに厚く、硬く進化していた。

彼女は、周りの環境や出来事に対し、家族の「サプライズ」の物語に整合性を持たせるために、無意識に嘘を上塗り続けた。

施設で「ご両親は海外出張中だから」と話せば、「パスポートを見せて」と追及される。そこで彼女は、「パパは国家機密に関わる仕事で、連絡手段も場所も教えられない」など、より大袈裟で複雑な「設定」を作り上げた。

施設職員や友人たちが、心配して家族の死について話そうとすると、心菜は怒りやヒステリーではなく、「あなたは、この重大な秘密を漏らそうとする、家族の敵だ」と冷静に相手を拒絶した。

彼女の言動は、周囲から見ればあまりにも現実離れしており、辻褄が合わない。彼女を理解しようとする者はいなくなり、代わりに心菜は施設や学校で「嘘つき」「現実逃避の精神異常者」という烙印を押された。

「田中は、もう放っておいた方がいい。何を聞いても、SF小説みたいな話をするだけだ」

周囲の人間は、関わることを避けた。彼女が最も恐れていた「孤独」は、否認という自己防衛の結果として、彼女を完全に包み込んでしまった。

高校卒業後、心菜は専門学校に入ったが、授業や課題、友人関係において、彼女の「家族のサプライズ」という虚構が、次々と現実と衝突した。

施設を出た心菜は、生活費と学費のためにアルバイトを始めたが、仕事の面接で「緊急連絡先」を問われると、「海外にいる父が、特殊な方法で連絡を取り合う」などと説明し、即座に不採用になった。

専門学校の友人が、心菜の言動の矛盾に耐えかね、「もういい加減、両親は死んだってことを認めなよ!」と声を荒げた瞬間、心菜は静かに、しかし激しく震えながら、その友人を「家族のサプライズを妨害するスパイ」として認識し、絶交した。

社会生活のあらゆる場面で、心菜の硬直した認知は摩擦を生み出し、彼女を消耗させた。食事も睡眠もまともにとれなくなり、部屋で一人、自分が作り上げた「家族の物語」に浸る時間だけが増えていった。

そして、ある日、心菜は一人暮らしのアパートで、パニック発作を起こした。

「パパが、ママが!助けに来ない!何かあったんだ!サプライズが、うまくいってないんだ!」

彼女は、アパートの部屋中を荒らし、壁を叩き、近隣住民に通報される事態となった。

通報を受けて駆けつけた警察と、連絡を受けた児童相談所職員によって、心菜は保護された。彼女は現実と虚構の境界線が完全に曖昧になり、錯乱状態にあった。

そして、心菜の最終的な「行き先」は決定した。

「田中さんの状態は、もはや社会生活を営むのは不可能です。重度の解離性障害と外傷後ストレス障害(PTSD)が複合しており、緊急入院が必要です」

行政と医療の判断により、心菜は都内の精神病院へ送られることになった。

心菜は、病院の白い壁に囲まれた、鍵のかかる個室に座っていた。 彼女の心の中では、まだ家族は生きている。しかし、周囲の白い壁と、監視する看護師、そして薬の投与は、彼女の「サプライズパーティー」の物語とは全く整合しない。

心菜は、すべてを諦めたように、静かにその椅子に座り続けた。

「きっと、ここが、パパが言っていた『サプライズの最終拠点』なんだわ」

心菜は、白い部屋をそう解釈し、無理やり納得させた。現実を否定し続けた結果、彼女の精神は、「自分にとって都合のいい虚構」の中だけでしか生きられなくなった。

彼女は、23歳という若さで、社会から完全に切り離された。家族の死という現実を拒否した代償として、心菜は自身の人生そのものを、「時間が止まった監獄」の中に閉じ込めてしまったのだ。

心菜が送られた精神病院は、彼女を救済する場所ではなかった。担当医は評判の悪い「やぶ医者」で、心菜の複雑な精神状態を理解しようとはせず、施設の管理を容易にするために、薬物による鎮静を主な治療方針とした。

「重度の解離性障害。現実から隔離することが最善だ。」

医師はそう診断を下し、心菜に過剰な量の抗精神病薬や鎮静剤を投与し始めた。薬は心菜の思考能力を鈍らせ、まともな会話や社会性を完全に奪った。改善どころか、心菜は常に朦朧(もうろう)とした状態に置かれ、外部とのコミュニケーションを完全に拒絶した。

彼女は白い壁に囲まれた保護室の中で、ぼんやりと座っている時間が長くなった。以前の活発な「嘘」を語る力もなくなり、周囲の人間から見れば、心菜は完全に現実と切り離された「異常者」となった。

児童相談所や施設の元職員が面会に訪れても、心菜は彼らを認識することも、言葉を返すこともできない。外部から彼女の人生に手を差し伸べる最後の道は、薬物によって閉ざされてしまった。心菜は、この白い監獄から、生きている限り抜けることはないだろうと誰もが悟った。

しかし、薬物が支配する心菜の現実の対極で、彼女の精神は、最後の避難場所へとたどり着いていた。それは、薬に誘発された、深く、甘い夢の世界だった。

心菜の夢の中では、ついに待ちに待った「サプライズパーティー」が完成した。

ある夜、朦朧とする意識の中で、心菜は再び、都内の懐かしい一戸建ての家にいた。

「ただいま、心菜」

玄関のドアが開き、和彦が買い物袋を提げて立っている。その横には、悠斗がサッカーボールを抱え、美香が優しい笑顔で心菜を見つめていた。

「パパ!ママ!にいちゃん!」

心菜は、23歳ではなく、5歳の自分に戻って、家族に飛びついた。

「ごめんね、心菜。すごく時間がかかっちゃったね」美香は心菜を抱きしめた。 「サプライズだから、秘密だったんだろ?」悠斗が笑う。 「ほら、心菜のリクエスト、ハンバーグだよ」和彦がキッチンに向かう。

夢の中の家は、13年前に荒れ果てたままではなく、清潔で、暖かく、愛と笑い声に満ちていた。心菜は、家族の温もりを感じ、美味しいハンバーグの匂いを嗅ぎ、兄と他愛もない喧嘩をした。

彼女は、夢の中で祖父母にも会った。祖父母はニコニコ笑いながら、「遠回りしちゃったけど、やっと着いたよ」と言って、彼女の頭を撫でてくれた。

現実の心菜は、病院の白いベッドの上で、点滴に繋がれたまま、身動き一つしない。だが、彼女の心は、永遠に完成した家族の団欒の中にいた。彼女の精神は、現実の苦痛から完全に遮断され、13年間抱き続けた希望が、夢という形で結実したのだ。

それから数年後。心菜は、その精神病院で、静かに息を引き取った。薬物による衰弱と、長期間の隔離生活の結果だった。

彼女の死を看取った看護師は、心菜の顔が、最後に満面の、穏やかな笑顔を浮かべていたことに気づいた。それは、現実世界では13年間見たことのない、心の底から満たされた笑顔だった。

心菜は、現実の苦痛や悲しみ、孤独を一切受け入れることなく、死を迎えた。

彼女は、最後に夢の中で、家族全員に囲まれ、誕生日を祝い、「サプライズ、大成功!」と家族に感謝を伝えたのだろう。

都内の白い監獄の中で、社会からは「異常者」として忘れ去られた心菜だったが、彼女の意識の中の最後の瞬間は、13年間の孤独と絶望を全て打ち消す、永遠に続く家族の幸せな団欒と共にあった。

彼女は、死によって初めて、現実の支配から完全に逃れ、自分で作り上げた「幸せな物語」の中で、永遠の安息を迎えた。

心菜が亡くなった数週間後。

元担当職員であった佐藤さんは、地方の事故で家族も親族も亡くした心菜の遺骨が、都内の無縁仏として葬られたことを知った。遺骨を引き取る者も弔う者もいない、文字通り「孤立無援」の最期だった。

佐藤さんは、仕事を休み、その無縁仏が安置されている寺院を訪れた。冷たい雨が降る、寂しい場所だった。

無縁仏の小さな墓石の前で、佐藤さんは静かに手を合わせた。彼女の脳裏には、心菜の生前の姿が鮮明に蘇っていた。

心菜の意識が薬で混濁し、衰弱しきっていた時、佐藤さんは何度か病院に見舞っていた。その時の心菜の口から漏れた「うわごと」は、いつもの作り話とは違っていた。

「パパ、ハンバーグ、おいしいね……」 「にいちゃん、そのボール、心菜にもかして……」 「ママ、あのね、もうすぐおたんじょうびの、ケーキが……」

それは、13年前の金曜日の夜の、あの「途切れた日常」の続きだった。彼女は、もはや現実の苦痛に邪魔されることなく、頭の中で、完璧な、暖かな家族の団欒をずっと語り続けていたのだ。

「先生、私の家族は、本当に……幸せよ」

それが、心菜が佐藤さんに向けて発した、最後の、意識のある言葉だった。

佐藤さんは、児童相談所で30年近く、様々な不幸を抱えた子供たちと接してきた。虐待、ネグレクト、親の病死、貧困……。彼女の仕事は、子供たちの苦痛や悲しみに寄り添い、共に涙を流すことの連続だった。

しかし、無縁仏の前に立ち、佐藤さんは静かに考えた。

ほとんどの子供は、残酷な現実と向き合い、苦しみ、泣きながらも、その現実を土台として生きることを学んでいく。それは、生きていく上での「宿命的な苦痛」だ。

心菜は、その苦痛を、その真実を、最後まで受け入れなかった。彼女は、「否認」という極端な防衛によって、現実の悲劇を脳内から完全に排除した。そして、最後の数年間、薬物によって外部世界から遮断された彼女の精神は、「永遠に続く家族の幸せな夢」の中で、完全に満たされていった。

もし、心菜が現実を受け入れていたら?彼女は、家族全員の死、祖父母の死、13年間の孤独、そして社会の冷たい視線という、地獄のような現実を背負って生き続けなければならなかっただろう。

「……私の30年のキャリアで、たくさんの不幸な子を見てきたけれど」

佐藤さんは、冷たい雨に打たれながら、無縁仏の墓石にそっと手を触れた。

「心菜ちゃん。もしかしたら、あなたは、私が接した中で、最も幸せな最期を迎えた子供だったのかもしれない」

現実を拒絶したこと。それは、社会的には「異常」とされた。しかし、その拒絶こそが、心菜の心を「真実の苦痛」から守り抜き、「永遠の安堵」という名の幸福を、死の瞬間にまで保証したのだ。

佐藤さんは、心菜の無縁仏に深く頭を下げ、その場を後にした。

雨は、まるで心菜の悲しみの涙のように、静かに降り続いていた。

365 無限大の欲望

壱:奇跡と計算
私は宮本(みやもと)健吾(けんご)、八十歳。あの若返りの現象が起きた時、私は病院のベッドで人工呼吸器につながれていた。肺の機能が完全に衰え、自力では呼吸すらできなかった。

目が覚めると、全身が若い時の活力に満ちていた。鏡を見た。三十五歳。私が事業で成功し、最も金と権力を持っていた頃の、傲慢な面差しがそこにあった。

「これは…天からの贈り物だ!」

私は、他の老人のような「青春のやり直し」などには興味がなかった。私の欲望は、常に「支配」と「獲得」だ。二十歳の頃の私には金がなかった。しかし、今の私には、老後の貯蓄と、莫大な隠し資産がある。そして、三十五歳の肉体。

ニュースは、寿命が極端に短縮されると報じていた。佐伯綾子のような要介護五の者は約十日。人工呼吸器を使っていた私は、おそらく十二日が限界だろうと直感した。

「十二日か。短い。だが、この金とこの力があれば、十二日間で世界を変えられる」

私はすぐに病院を抜け出し、金庫からすべての資産を引き出した。世間は混乱している。今こそ、金を動かす最大のチャンスだ。

弐:十二日間の焦燥
私の十二日間は、遊びではなく、事業の再構築に費やされた。

初日~三日目: 私は旧知の優秀な弁護士や金融関係者に連絡を取った。皆、私の今の姿に驚愕したが、私の持つ莫大な資産と、若き日のカリスマ性が、彼らを再び動かした。私は、混乱で暴落している株や不動産を、安値で買い叩くための計画を立てた。この短期間で、私は資産を倍増させるつもりだった。

四日目~六日目: 私は、かつて私を裏切ったビジネスパートナーを潰すことに集中した。彼らは私が死にかけていると思っていた。私は彼らの会社に乗り込み、容赦なく資金を引上げ、彼らの事業を頓挫させた。復讐は、私にとって最高の快楽だ。しかし、この種の快楽はすぐに飽きる。

七日目: 私は、最も若い女を求めた。私の欲望リストは、常に「より新しいもの」への獲得で満たされている。私は、二十歳の美女を買い、一夜を共にした。彼女たちは私の財力と権力に平伏し、私を賞賛した。だが、彼女たちの賞賛は、私を満たさなかった。彼女たちの目には、私が「老いた魂」であることが透けて見えているようだった。

「足りない。圧倒的に時間が足りない」

この頃から、私の焦燥感は極限に達していた。金は増える。権力は戻る。しかし、それらを享受する時間がない。

参:尽きぬ渇望
八日目~十日目: 私は、事業の再拡大を強行した。私の肉体に重さが戻り始めている。息切れもする。私は寝る間も惜しみ、薬で無理やり体を動かし、電話を握り続けた。

私は、世界中の富を掌握することを目指した。私の頭脳は、まだ八十年の経験を持っている。三十五歳の体力と八十歳の知恵があれば、私は王になれるはずだ。

「あと一週間あれば、私はこの世界を思い通りにできる!」

私は、自分の欲望が尽きないことに気づいた。綾子のように、解放された青春を謳歌して「満足して死ぬ」という感覚が、私には全く理解できなかった。私の欲望は、終点がないマラソンなのだ。獲得すればするほど、次の獲得目標が生まれ、喉の渇きは増すばかり。

私は、金を手に入れたいのではない。永遠に金を手に入れ続けるプロセスが欲しいのだ。

十一日目: 身体の衰えが顕著になった。私は、車椅子を要求した。私の事業は、計画通り、私の資産を十倍に増やした。私は、この十二日間で、世界で最も短期間に資産を増やした男になった。

しかし、私が車椅子で眺めるオフィスビル群は、私のものではないように感じた。

「なぜだ。なぜ、この喜びは一瞬で終わるのだ」

私の顔は、二十歳の美女を追いかけて遊んだ綾子の顔とは全く違う。私の顔には、満足感ではなく、飢餓感と焦燥が張り付いていた。

肆:満たされない終焉
十二日目の夜。

私は、自分の私邸の一室で横たわっていた。周りには、秘書や医師が慌ただしく立ち働いているが、誰も私の命を延ばすことはできない。

私の心は、未だに終わらない欲望で叫び続けていた。

「まだだ!あの株を買わねば!あの土地はまだ私のものになっていない!あと一日あれば、あと一時間あれば!」

私の人生の最後の瞬間は、成功の歓喜でも、愛の満足でもなかった。それは、「時間がない」という、究極の絶望だった。

私は、世界を手に入れた。しかし、それを享受する永遠の時間を手に入れることだけは、できなかった。

私の目は、三十五歳の肉体で最後に見た、欲望の対象――夜景にきらめく、私がまだ手に入れていない街――を捉えたまま、虚ろになった。

私は、満たされないまま、命を終えた。老いではなく、欲望の飢餓によって、私の魂は焼き尽くされたのだ。私の身体は、瞬く間に老衰の姿に戻り、醜い皺と、怨嗟の表情を刻んだ。

365 一瞬の価値

壱:奇跡と戸惑い
私は田所(たどころ)澄江(すみえ)、七十八歳。あの日まで、私はこの介護施設のベッドで、天井の染みを数えるだけの毎日を送っていた。食事も排泄も、若いヘルパーさんたちの手に委ねる、情けない日々。

若返りの現象が起きたのは、朝の巡回時だった。目が覚めると、全身が軽い。鏡を見せてもらうと、二十歳過ぎの、ふっくらとした頬の私が映っていた。

「奇跡だわ! 私、動ける!」

最初は歓喜した。すぐにでも施設を飛び出し、あの頃叶わなかった旅に出ようと思った。

しかし、その日の昼には、すぐに政府からの緊急放送が流れた。

「国民の皆様、混乱しないでください。原因究明と状況の整理がつくまで、若返った方々は、現在の場所での待機と安静をお願いします。不要不急の外出は控えてください。」

私は、その言葉を真に受けた。私はもともと、極度に慎重で、公的な指示には絶対に従う人間だ。それに、この現象が本当に安全なのか、誰にも分からないではないか。もしかしたら、動いたら罰が当たるかもしれない。

私は施設の自室で、ただ待つことにした。施設長も混乱しており、若返った利用者が動けるようになったとはいえ、施設の外に出ることを許可しなかった。

「危ないことは避けるべきよ。政府がそう言っているのだから」

私はそう自分に言い聞かせた。

弐:自由の匂い
施設には、私と同じように若返った人が数十人いた。その中で、私とは正反対の行動に出た者がいた。

花子さん。八十五歳で、私と同じく寝たきりだった。

花子さんは政府の指示を鼻で笑った。「ふん! 棺桶に片足突っ込んでたんだ。これ以上失うものがあるかい!」

花子さんは、施設の職員の制止を振り切り、若返ったばかりの身体で、すぐに施設を飛び出して行った。その後、何人かが彼女に続いた。

ニュースが、若返った人々がわずか十日程度で命を終えるらしいと報じ始めた時、私は自分の選択が正しかったと安堵した。

「ほら見なさい。あれは神様が与えた罰よ。騒いでいる暇なんてなかったのよ」

しかし、その安堵は、すぐに別の感情に変わった。

花子さんたちは、SNSを通じて、自分たちの「最後の青春」を中継し始めたのだ。豪華なホテル、高級な食事、若い男たちと踊る姿、そして海辺で笑う、最高の輝き。

「私たちは、最高のエンディングを迎えるわ!」

彼女たちの写真を見るたびに、私の胸は激しい痛みを伴う。私はこの部屋で、政府の指示通りに「安静」を保ち、何もしていない。そして、老いる前と同じように、天井の染みを数えている。

私はまだ、二十歳の身体でベッドに座っている。自力で歩ける。自分で食事もできる。だが、私は檻の中にいる。

参:窓越しの歓喜
若返りから七日目。

花子さんが、施設に戻ってきた。彼女のグループは、施設の庭で最後のパーティーを開くと言い出したのだ。

私は、自室の窓から、庭を見下ろした。花子さんは、真紅のドレスを纏い、笑顔で皆とシャンパンを交わしていた。彼女の肌は汗で輝き、目は生きる喜びに満ちていた。

彼女は、私に向かって手を振った。「澄江さん! あんたも来なさいよ! もう時間がないんだよ!」

私は行けなかった。

「い、いけないわ。まだ政府の指示が…」

そう、私は指示に従っている。秩序を乱すことはできない。私は正しい。安全を選んだ。

だが、私の心の中では、悲鳴が上がっていた。

(嘘よ。私は何が怖かったの? 私はもう失うものなどなかったのに! あのまま要介護のベッドで死ぬのと、十日間自由を謳歌して死ぬのと、何が違うの?!)

私の慎重さは、私を救わなかった。それは、私の「最後の自由」を奪い去る、最も冷酷な縛りだった。

私は、花子さんのグループが笑い、歌う声を聞きながら、自室のベッドで涙を流した。涙は、若返った私の頬を熱く濡らした。

肆:檻の崩壊
若返りから九日目。

花子さんたちは、朝、静かに亡くなった。皆、笑みを浮かべ、満ち足りた表情だったという。

私は、施設に残された若返り組の中で、数少ない生存者になっていた。皆、私と同じように指示を待っていた人々だ。その顔には、私と同じ後悔の影が浮かんでいた。

私は知っている。明日が、私のタイムリミットだ。

二十歳の体で、私はベッドに横たわった。私の視線は、再び天井の染みを追っている。この若くて健康な体が、明日、一瞬にして老衰する。

私は、何も得ずに、この命を終える。

花子さんは、十日間の「最高のエンディング」を手に入れた。私は、十日間の「最高の待機」を手に入れた。

私は、慎重に、安全に生きることを選び、そして、何も生きなかった。

「ああ、花子さん…」

私は、力なく呟いた。外には、自由を謳歌する人々も、もはやいない。ただ、静寂だけが広がっている。

私は、二十歳の美しい私のままで、七十八歳の私よりも悲惨な死を迎えるのだ。なぜなら、七十八歳の私は、望みを持っていた。しかし、今の私は、希望を自ら捨てた後悔しか持っていないからだ。

意識が遠のく。私は、天井の染みを見つめながら、最期まで公的な指示に従い続けた、哀れな魂だった。

365 天

聴:嘆きの振動
私は天使。人間たちが呼ぶところの、世界を調整し、魂の均衡を司る存在だ。

私の役目は、地上の「嘆き」を聞き届けること。長らく、私は特定の個人的な祈りには干渉してこなかった。だが、佐伯和人という一人の男から発せられた嘆きの振動は、他のそれとは異なっていた。

それは、自己犠牲的な献身と、限界を超えた疲弊、そして罪悪感を伴う解放への願望が複雑に絡み合った、極めて純粋なエネルギーだった。

彼、和人は、要介護の母を献身的に支え続けた。彼の心の底には、母の死を願う「闇」があったが、それを即座に打ち消す「光」――「自分だけでなく、同じ問題を抱える全ての人を救いたい」という、普遍的な愛の希求があった。

私は、彼の前に姿を現した。光を纏う必要はなかったが、人間は視覚的な刺激でしか真実を理解できない。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

彼は熟考した。その過程が重要だった。彼は個人的な金銭や、母の延命、あるいは即死といった単純な選択肢を退けた。

そして、彼が口にした願い。それは、私の記録の中でも、最も冷徹な合理性と深い優しさが融合したものだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一にしてほしい」

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」

執:契約の履行
私は即座にその願いを「普遍の契約」として受理した。

介護問題。それは、人間の文明が高度に発展した末に生まれた、最も苦しく、解決が難しい、魂の停滞を招く病巣だった。介護する側は「義務」に縛られ、される側は「屈辱」と「無力」に苦しむ。誰も幸せになれない、閉じた円環だ。

和人の願いは、その円環を「一瞬の歓喜」という形で断ち切るものだった。

私は、世界中の対象者――食事と排泄に介助を要する魂たち――に向けて、時間と肉体の流動性に関する干渉を実行した。

実行直後、世界中から発せられたのは、純粋な驚きと、歓喜の波動だった。ベッドに縛られていた魂たちが、突如として最も輝いていた頃の肉体を取り戻した。彼らは、与えられたわずかな命の時間を、解放された欲望と失われた青春を謳歌するために使った。

佐伯綾子もまた、そうだった。彼女の魂は、息子への支配と、老いへの屈辱から解放された喜びで満ち溢れていた。その十日間、彼女は「女性」として、全てを取り戻そうと奔走した。

一方、和人。彼は、その綾子に罪深い恋慕の情を抱いた。彼が真面目に抑えつけてきた「現を抜かす」という本能が、最も身近で、最も手の届かない女性に向けられたのだ。彼の苦悩は深かったが、それは彼が「一人の男」として、抑圧から解放された証でもあった。

観:セーフティと結末
私は、和人が設けたセーフティロックの作動も監視していた。

あの川西義雄という男。彼は若返りの力を、長年の憎悪を晴らすために使おうとした。彼が綾子にナイフを振りかざし、心に明確な「殺意」が灯った瞬間、私は迷いなく、彼の寿命の制御を停止させた。

義雄の魂は、憎悪という名の業火に焼かれ、本来の肉体の姿に戻って滅した。彼の願いは「復讐」だったが、契約の範囲は「介護問題の解決」であり、その目的を脅かす「殺意」は容赦なく排除された。

彼の死を目撃した綾子の魂は、欲望の絶頂から一転して恐怖に陥った。それは、彼女の十日間の自由の幕引きとしては、ある種の「代償」を払わせるものだった。

そして、期限が来た魂たちは、静かに肉体を元の状態に戻し、安らかな死を迎えていった。綾子の魂もまた、「満足」を湛えて、肉体から離脱した。

理:残された世界
半年後、地上には静寂が訪れた。

介護問題は劇的に解決し、和人のように長年苦しんできた人々は解放された。彼の顔から、あの鉛のような疲労の色は消え、解放感と、新しい人生への戸惑いが混じった表情が見て取れる。彼は、わずかな恋の傷跡を抱きながらも、前に進もうとしている。

しかし、同時に、人口の半減という新たな問題が生じた。労働力の激減、経済構造の崩壊。人間たちは、再び「生き方」そのものを問い直すことを強いられている。

佐伯和人の願いは、介護問題を解決したが、「普遍の安寧」までは約束しなかった。私たちが介入できるのは、あくまで「魂の停滞の解消」まで。その後の、「生きる」という創造的な行為は、人間自身に委ねられている。

私は今、静かに地上を見下ろしている。

和人の願いは、この世界を救済したのか、それとも新たな試練を与えたのか。

いずれにせよ、私の役目は終わった。私は、再び、新たな「嘆きの振動」が世界から発せられるのを、ただ静かに待つのみだ。

365 箱舟に乗れない女

嫉:若さという名の毒
私は杉山(すぎやま)喜代美(きよみ)、七十歳。若返りの現象が起きた時、私は要介護ではなかった。一人で歩けるし、自分で食事もできる。だから、天使の奇跡の対象にはならなかった。

それは、私にとって地獄の始まりだった。

ニュースで流れる映像は、どれも信じがたかった。皺だらけの老婆たちが、二十歳の、肌艶の良い美女に変わっている。皆、笑い、踊り、若さを謳歌している。そして、その命が短期間で終わるという事実すら、彼女たちの歓喜を止めることはなかった。

私に残されたのは、七十歳の、機能は保たれているが、確実に衰えゆく身体だけだった。

私は、嫉妬で気が狂いそうになった。

「なぜ、私じゃないの?!」

私はまだ、要介護になるには若すぎた。老いを受け入れ、隠居するには早すぎた。私は、まだ「女性」として生きたかった。エステに行き、流行の服を買い、健康維持に努めてきた。しかし、どんな努力も、あの「奇跡の若返り」の前では無力だ。

私に残された「普通の老後」は、彼らが手に入れた「最高の青春」の横で、ただの惨めな余生でしかなかった。

観:佐伯綾子の醜い輝き
私は近所の佐伯綾子を知っていた。彼女は私より十歳も年上で、数年前から要介護五。車椅子生活で、息子にすべての世話をさせている、気の強い、高慢な老婆だった。

その綾子が、若返ったと知った。

私が、その二十歳の綾子を初めて見たのは、デパートの化粧品売り場だった。鮮やかなミニスカートに、煌びやかなアクセサリー。私が見たこともないほど派手な化粧を施し、若い店員を顎で使っている。

その姿は、確かに醜悪だった。八十歳の魂が、二十歳の身体を借りて、過去の欲望を露悪的に、そして貪欲に満たそうとしている。

「これ、もっと高いやつはないの? 安っぽいのは嫌いなんだ」

私は柱の陰から、その光景を見ていた。彼女の傍若無人な振る舞いは、昔と変わらない。息子を召使いのように扱い、年金で派手に浪費していることも知っている。

(ああ、なんて品がない。あのまま、要介護のベッドで死んでしまえばよかったのに)

心の中ではそう罵倒する。だが、私の視線は釘付けになったままだった。

彼女は、輝いていた。

品がなくとも、露骨な欲望に塗れていようとも、彼女の身体には若さという名の毒が満ち溢れていた。その肌のハリ、髪の毛の艶、そして何より、自由に動き、男たちの視線を一身に集めるその力。

私は、自分が必死に隠そうとしてきた老いを、彼女の存在によって、まざまざと突きつけられた。私は七十歳でまだ自立している。だが、それは「醜い老い」を延長しているだけに過ぎないのではないか?

綾子は、たった十日間という短い命と引き換えに、「女」として最高の瞬間を手に入れた。私は七十歳で「命」は続くが、「女」としての最高の瞬間は、もう永遠に戻ってこないのだ。

惑:一瞬の羨望
私は、綾子の後をつけた。クラブ、高級店、そして夜の街。彼女が若い男と腕を組んで歩く姿を見た時、私の胸は激しい痛みに襲われた。

あれは、かつて私が手放した青春の残像だ。そして、私は、この七十歳の体では、もう二度とあの場所には立てない。

(あの女は、自分の寿命を賭けて、すべてを手に入れた。そして私は、何の賭けもせず、ただ安全に、醜く老いていく)

私は、彼女の奔放さを軽蔑しながらも、心の中では深く羨望していた。彼女の「今」は、私の「過去」よりも遥かに魅力的だった。

若返った人々が短期間で亡くなっているというニュースは知っている。しかし、あの綾子が、「醜く老いて死ぬ」という現実から逃れ、「美しく燃え尽きる」という最高のエンディングを迎えることが、私は許せなかった。

彼女の死が報じられた時、私はひどい虚脱感に襲われた。勝ったのは私だ。私はまだ生きている。だが、勝負は最初から決まっていた。彼女は、人生で最も欲しかったものを手に入れて逝ったのだから。

私は今、空っぽになった街で、自分の七十歳の身体を見つめる。機能は保たれている。だが、もう二度と若返ることはない。

私は、綾子のように「美しく燃え尽きる」ことも許されず、ただ「しおれていく」だけの人生を、これから何十年も続けなければならないのだ。

窓の外は、静かで、冷たい。私の体も、心も、まるで奇跡に触れることなく取り残された、冷えた残骸のようだった。

365 支える人

壱:静寂と喪失
私の名前は山野(やまの)さつき。四十歳。あの「若返り現象」が起きるまで、十年間、中堅のデイサービスセンターで介護福祉士として働いてきた。

佐伯様のお宅にも担当として伺っていた。和人さんの憔悴しきった顔と、綾子様のご機嫌を伺う日々。それが、私たちの日常だった。

そして、あの日。世界は一変した。

私が佐伯様のお宅に伺った時、目の前にいたのは、二十歳の美女だった。一瞬、詐欺かと思った。しかし、そのぶっきらぼうな口調は、まごうことなく綾子様のものだった。

「どういうことでしょうか」

私は茫然と立ち尽くすしかできなかった。和人さんに促され、その日は帰ったけれど、その後数日のニュースで、状況を把握した。要介護だった人々が、人生の最盛期の姿に戻り、そして寿命は極端に短縮されたのだと。

私のデイサービスセンターは、一週間で空(から)になった。

最初は、歓喜だった。多くの利用者が、自分で立ち、歩き、食事をする姿を見て、涙を流した。長年の苦労が報われたと、心から思った。

しかし、喜びはすぐに喪失感に変わった。

若返った人々は、その多くが十日以内に息を引き取った。若さを謳歌した後、元の姿に戻り、あるいはそのまま静かに逝った。私たちは、彼らの束の間の自由と、その後の静かな死を、ただ見守るしかできなかった。

数ヶ月後、私の仕事はなくなった。日本中の介護施設や病院が、同じ運命を辿った。介護保険の財源は莫大に余り、過重労働で疲弊していた私たちの肩の荷は降りた。だが、長年の習慣で朝早く目が覚めても、行くべき場所がない。

「解放された」はずなのに、心には大きな空席が残った。

弐:新しい支援の形
半年が過ぎた今、街は落ち着きを取り戻しつつあるが、人口は激減した。特に高齢者の割合が減ったため、介護という職業は、ほぼ消滅した。

しかし、私たち介護福祉士のスキル自体が、無価値になったわけではない。

国は、私たち介護人材を、今や「生活支援士」として再編した。ターゲットは、「新しく生まれた要支援者」と「残された障害者」だ。

新しい老人、障害者にどのように思うのか。

今、私たちが支援するのは、若返り現象で肉体的には回復しなかった、あるいは精神的な障害を負った人々だ。

「新しい老人」という概念は、もうない。皆、人生の終盤で一時的に若さを取り戻しただけで、その後の人生は、私たち健常者と同じ時間軸に戻った。

だが、あの現象は、私たちに「老いや障害とは何か」を問い直させた。

以前の介護は、「失った機能の代替」だった。立つこと、食べること、排泄すること。私たちは「代行者」だった。

しかし、今は違う。

私たちが接するのは、「生」の終わりを見てしまった人々、あるいは現象の影響を受けなかった「取り残された」障害者だ。彼らには、心のケアと、社会との繋がりが必要になった。私の仕事は、彼らが新しい社会で尊厳を持って生きるための「共存のデザイン」に変わった。

特に、認知症だったが若返り、再び発症してしまった高齢者へのケアは複雑だ。彼らは一瞬の輝きを経験した分、再び自己が失われていく恐怖を深く知っている。

私は思う。私たちは今、「機能回復」ではなく、「魂の解放」の担い手になったのではないだろうか。

参:シェアと共同体
仕事がなくなった後、多くの元デイワーカーは、失業手当で生活しながら、「新しいシェア」の概念に飛び込んだ。

新しいシェアについてどう思うのか。

これは、政府が提唱する「生活共同体シェアリング」だ。人口半減で空き家が増え、仕事の需要も減った今、私たちは生き方そのものを変えなければならない。

私は現在、元同僚数名と、大きな一軒家をシェアしている。

生活費のシェア: 私たちは一つの大きなキッチンで食事を作り、生活費を折半する。

スキルのシェア: 元看護師の友人は健康管理を、元栄養士の友人は食事指導を、そして私は生活支援のスキルを、地域住民や共同体のメンバーに無償でシェアする。

労働のシェア: 労働需要が激減したため、私たちは週に二日だけ、政府や地域のNPOの委託を受け、生き残った障害者の「伴走者」として働く。

これは、「お金を稼ぐ」ための労働ではなく、「社会を維持する」ための奉仕的なシェア労働だ。

最初は戸惑った。私たちはずっと、お金のため、評価のために働いてきたから。しかし、お金の価値が下がり、物質的な豊かさへの執着が薄れた今、この共同体的な生活は、かつてないほどの安心感を与えてくれる。

私たちは、あの時、多くの命が消えていくのを見た。そして、佐伯様の息子さんのような疲弊した介護者が解放される姿も見た。

この世界は、「老い」という絶対的な問題を、一時的な奇跡で解決した。しかし、その代償として、私たちに残されたのは、「生き方」そのものを問い直すという、さらに大きな課題だ。

私は今、介護士ではなく、「共同体の調整役」として、再び生きがいを見出し始めている。かつては孤独だった介護の現場が、今、地域全体へとシェアされて、新しい希望の光が灯り始めているのを感じる。

365 意味のない死

壱:目覚めた憎悪
川西(かわにし)義雄(よしお)は、自分の体が動くことに気づいた瞬間、人生の最盛期、二十二歳の体に戻っていることを理解した。82歳の義雄は、綾子と同じく要介護状態であり、自宅のベッドから起き上がることすら叶わなかった。

世界中での騒動など、どうでもよかった。義雄の心を満たしたのは、全身に漲る力と、それによって蘇った四十年以上前の、生々しい記憶だった。

義雄はすぐに鏡を見た。そこにいるのは、自信に満ち溢れ、野心的な青年。そして、その頭には、若かりし頃の自分を「ダサい」「貧乏くさい」と一蹴し、裕福な佐伯家の跡取り息子(和人の父)を選んだ女の顔が、鮮明に浮かび上がった。

佐伯綾子。

「あの女……綾子め!」

義雄は、彼女への恨みだけで老後を過ごしてきたと言っても過言ではない。彼女のせいで、彼の人生は歪んだ。彼女は今頃、自分と同じように醜く老い、息子の世話になっているはずだ。

ニュースは、要介護者が皆若返り、寿命が極端に短縮されていることを報じていたが、義雄は冷静だった。彼は、この得られた十日足らずの命を、自身の人生で最も重要な目的に使うことを決めた。

復讐だ。

弐:標的の特定
義雄は、自分の年金口座に残っていた僅かな金を下ろし、綾子の行方を探し始めた。彼女が若返っていることは確信していた。そして、彼女なら必ず「青春のやり直し」に躍起になっているはずだと。

彼女の実家の住所は知っていた。数日後、彼は和人の家を張り込んだ。

若返りから五日目。

義雄は、家から出てきた綾子の姿を見て、息を飲んだ。二十歳の、あの時と同じ、奔放で、美しい綾子だった。派手な化粧と、流行のミニスカート。そして、彼女の傍若無人な振る舞いは、変わっていなかった。

「ふん。相変わらず、男に媚を売るためだけに生きている女だ」

義雄の心の中で、憎悪の炎が勢いを増した。彼女は今、自分と同じように期限付きの命しか持たない。それなら、彼女が最も楽しんでいる時に、すべてを終わらせてやるのが、最高の復讐だろう。

義雄は綾子が通い始めた高級ブランド店や、クラブ、さらには彼女がホストと会う場所まで、徹底的に追跡した。彼は若い体と頭脳を使い、彼女の行動パターンを完璧に把握した。

参:復讐の計画
若返りから九日目。

綾子の奔放な行動は最高潮に達し、疲れが見え始めていた。義雄は知っていた。綾子の命が尽きる日は近い。彼は焦りながら、最後の計画を練り上げた。

標的は、綾子が一人で家に戻る、深夜の裏通り。

義雄は金で手に入れた小型のナイフを握りしめた。彼は佐伯家の幸福を壊したかった。綾子を殺せば、彼女の息子(和人)は母の死という悲劇に見舞われる。そして、若返った直後の、最も幸福な時に命を奪われるという恐怖は、彼女自身への最高の罰になる。

その夜。

綾子は派手なワンピース姿で、ふらふらと裏通りを歩いていた。酒と、若い男との夜の匂いをまとっている。

義雄は物陰から飛び出し、無言で綾子に襲いかかった。

「お前は、俺の人生を壊した!」

彼は、綾子の喉元めがけて、ナイフを振りかざした。

肆:セーフティロックの作動
ナイフが綾子の首に届く寸前。

義雄の全身を、凄まじい、非現実的な激痛が貫いた。まるで、体内の全細胞が一瞬で爆発したかのような、耐え難い痛みだ。

「が……あ……っ!」

彼の視界は、一瞬で真っ白になった。

義雄の体は、綾子に触れることなく、その場で痙攣し、倒れ伏した。彼の口から微かな呻きが漏れた瞬間、彼の身体は、急速に萎縮し、色を失っていった。

彼の心の中に明確に湧き上がった「殺意」

その純粋で強烈な憎悪こそが、彼を若返らせた「天使の願い」のセーフティロックを作動させたのだ。

義雄の望みは、「最盛期の姿に戻り、満足した後に寿命を終える」ことではなかった。彼の願いは、「最盛期の力で復讐を遂げる」ことだった。

彼の体は、瞬く間に八十二歳の、醜く、老いた、骨と皮だけの姿に戻り、そして絶命した。顔には、若い頃と同じ、満たされない怨嗟の表情が張り付いていた。

綾子は、何が起こったのか理解できないまま、目の前で起きた非現実的な老衰死に、腰を抜かして震え上がった。彼女の最後の十日間は、恐怖と混乱という、予期せぬ結末を迎えた。

伍:終わりと始まり
翌朝、義雄の死体は警察によって回収された。若返り現象の対象者が、突然死した事例として扱われた。誰も、彼の死因が、彼自身の抱いた「殺意」によるものだとは知る由もない。

綾子は、命の期限である十日目を、静かに寝床で迎えた。義雄の死の恐怖が、彼女の奔放な欲望を打ち砕いたのだ。

そして、和人は、母の死と、世界中の介護問題の解決という大きな安堵を得たが、彼の心には、若返った母への罪深い恋の残骸が残った。

川西義雄の復讐は失敗に終わった。彼の憎悪は、彼自身の命を終わらせる毒となった。佐伯綾子は、誰にも裁かれることなく、十日間の自由を謳歌し、そして静かに逝った。

世間から見れば、ただの二つの突発的な死。しかし、この一連の出来事は、天使の願いが、「個人の欲望と憎悪」を容赦なく排除し、「公共の利益」のために設計されていたことを、静かに証明していた。

365 女の最後

夜明け前の、鉛のような時間。この家で、私が一番嫌いな時間だ。

目が覚めても、そこにあるのは絶望的な無力感だけだ。八十年生きた体は、もう私の意志とは全く関係なく、重く、言うことを聞かない。まるで自分の体が、私を閉じ込めるための粗末な檻に変わってしまったようだ。

寝返りを打とうとすれば、体の節々が悲鳴を上げる。トイレに行きたいと思っても、自力では一歩も動けない。そのたびに、私は自分の存在が汚れた塊になっていくのを感じる。

介護という名の呪縛
そして、すぐに息子、和人のことを考える。あの子の人生を、私が呪縛している。それは分かっている。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

私は、わざと横柄な母親の役割を演じ続ける。そうしなければ、要介護五の情けない私が、和人の重荷になっているという事実に、耐えられないからだ。偉そうに振る舞うことで、私はまだ「母親」という支配的な地位にしがみつける。

和人の顔は、いつも疲弊しきっている。彼の目には、私への愛情よりも、疲労と義務感の色の方が濃い。彼は真面目だから、私を見捨てない。だが、その真面目さが、彼の人生を、そして私の人生を、ゆっくりと締め殺している。

私はもう、彼の人生に「現(うつつ)を抜かす」ような明るい話題を持ち込む権利がない。彼の独身の原因が私にあることくらい、分かっている。だって、こんな「老いの檻」の世話をする生活の中に、一体どんな女性が入り込みたいと思うだろう?

過去への逃避
私の世界は、この寝室と、時々連れて行かれるリビングだけになった。毎日、天井の木目を見つめ、過去を思い出す。若かった頃。身体が軽かった頃。夫がいた頃。あの頃の私は、自由に動き、笑い、愛された一人の女性だった。

鏡を見ても、映るのはしわだらけで、色を失った、醜い老婆。それは私ではない。私の魂の抜け殻だ。

老いるということは、「女性であること」を剥奪されることだった。おしゃれも、化粧も、ヒールを履くこともできない。ただ、排泄と食事を誰かに委ねるだけの「モノ」になる。

最近は、時々、和人の寝息を聞きながら、いっそ早く死にたいと思う。和人を解放してやりたい。そうすれば、彼はあの真面目さから解放されて、本当に自分の生きたい人生を歩めるかもしれない。

だが、死ぬことも、自分の力ではできない。私はただ、この檻の中で、息子の疲れ果てた献身を吸い取るだけの怪物なのだ。

窓の外はまだ暗い。もうすぐ和人が起き、地獄のような介護の日々がまた始まる。

(ああ、誰か、私を、この体から解放してくれ)

そんな深い嘆きと、罪悪感を伴う恐ろしい願望だけが、私の心の中で、鉛のように渦巻いていた。

いつもの朝、目が覚めると、視界が妙に鮮やかだった。全身が軽く、まるで布団の中に重力がないみたいだ。いつものように「和人、朝食はまだかね」とぶっきらぼうに声を出し、体を起こそうとした瞬間、私は凍りついた。

立てる。

八十年生きてきて、最後の数年は自分の力で立つことすら叶わなかったのに。私はふわりとベッドから立ち上がった。まるで羽毛のようだ。

そして、自分の手を見た。しわだらけで、色素沈着した老婆の手ではない。細く、若々しく、艶のある指。信じられない気持ちで洗面所へ向かい、鏡を見た。

「若返っている!!」

二十歳。結婚する前、私が人生で一番輝いていた頃の顔だった。張りがあり、少し気の強そうな、あの顔。

息子—―和人—―は呆然としていたけれど、すぐに勤務時間だと慌てて家を出て行った。和人の顔が、あんなに疲弊しきっていたなんて、すっかり忘れていた。いや、見ようとしていなかった。

彼は私が自力で立てることに驚きながらも、どこか安堵しているように見えた。よかった。これで面倒をみさせることもなくなる。

その日は家で一日中、鏡を眺め続けた。顔の角度、髪の毛の感触。世界中が同じ現象に見舞われているというニュースを見たが、そんなことはどうでもよかった。私の人生が、リセットされたのだ。

若返りから三日目の朝、私は和人に切り出した。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

そう。考えることなんて一つもない。この体が動くうちに、動くべきだ。私はすぐに次の要求を口にした。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

息子は、いつもの真面目くさった顔で「年金は生活費に組み込んでいて、自由になるお金はない」などと、つまらない説明を始めた。私の人生の最後の数年間、彼の世話になっていたという事実は、一瞬、私の喉に罪悪感の塊を作ったが、すぐに私はそれを怒りに変えた。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

老いても、私は母親だ。そして、私は今、最高の若さを手に入れた。彼の支配はもう要らない。

和人はすぐに折れた。彼は真面目だから、通帳とキャッシュカードを渡し、私はそれをひったくるように奪った。ああ、これこそが自由への切符だ。

デイサービスの人には和人が適当に説明をつけてくれたらしい。私は彼の言葉を聞くでもなく、一歩も振り返らずに家を出た。

駆:十日間の疾走
若返ってから十日間。私の人生の最後の輝きは、遊びと浪費の疾走だった。この体には、老いの重さも、息子の介護による罪悪感も一切ない。あるのは、ただ「今」を燃やし尽くす欲望だけだった。

3日目:変身と解放
家を出た足で、まず向かったのは美容院だ。白髪混じりのパーマ頭なんて真っ平ごめん。私は流行りの明るいアッシュブラウンに髪を染め、毛先を遊ばせた。次にデパートへ。

和人に電話で要求する。「今の世代の服を用意しろ! サイズはSだ、もちろん。あんたの給料と私の年金、全部使っていいんだよ!」

彼は戸惑いながらも、すぐに折れた。真面目な息子は、私の今の姿を見て、もう私を「要介護の母」としては扱えないのだ。私は、彼が持ってきたカードで、ミニスカート、タイトなノースリーブニット、そして足元には華奢なヒールを揃えた。試着室の鏡に映る私は、八十歳の私を押し込めていた全ての屈辱から解放されていた。

その夜、若返ったばかりの同世代の女性たちとSNSで連絡を取り合い、居酒屋へ行った。皆、私と同じように「束の間の自由」に狂喜している。私たちは浴びるように酒を飲んだ。

4日目:音と熱狂
二日酔いの重さなんて、今の私にはない。私は街の一番大きなクラブへ向かった。轟音とレーザー光線。汗だくで体を揺らす若者たちの中で、私もヒールを脱ぎ捨てて踊り狂った。

若い男たちが近づいてくる。「お姉さん、可愛いね、一人?」彼らは私を二十歳の美女として扱う。私は彼らを適当にあしらいながら、カクテルをグラスが空になる度に注文した。かつて、介護のために切り詰めていた生活とは真逆の、贅沢な、刹那的な喜び。音楽と熱狂が、老いの影を完全に消し去った。

5日目:女王様の座
私は生まれて初めてのホストクラブへ足を運んだ。きらびやかな内装、甘い言葉を囁く若い男たち。私は一番イケメンのホストを指名し、女王様のように振る舞った。

「あんた、若いのに金遣いが荒いね」と驚く彼に、私は煙草の煙を吐きかけ、笑って答えた。「これが私の最後のボーナスさね。だから惜しまないよ」。和人から奪った年金で、シャンパンタワーを一つ注文した。私を介護で支配した社会への、ささやかな反逆だった。

6日目:一人旅のロマンス
遠出をした。私は若かった頃に一度だけ夢見ていた温泉旅館へ、一人で贅沢な旅行を決行した。誰も私を知らない場所で、私は好きなように振る舞う。

露天風呂に入り、冷たい地酒を飲む。肌に触れる湯の感触。それは、誰かに体を拭いてもらう屈辱とは無縁の、純粋な快楽だった。旅館の夕食では、板前が私を「若奥様」と呼ぶ。私は、夫亡き後に得たこの偽りの肩書きを、心から楽しんだ。

夜は、たまたま宿泊していた中年の裕福そうな男性とバーで出会い、夜が明けるまで語り明かした。恋に発展することはなかったが、私を「魅力的な一人の女性」として扱う彼の視線が、たまらなく心地よかった。

7日目:再会と欲望の連鎖
街に戻った私は、昔の友人だったユキと偶然再会した。彼女も若返っていた。私たちは手を取り合って泣き、昔話に花を咲かせた。

しかし、話題はすぐに「どうやって金を稼ぐか」に移った。ユキは貯金を使い果たし、若さを維持するために体を売っていると告白した。私は衝撃を受けたが、彼女の顔には生(せい)の輝きがあった。私はその道を選ばなかったが、彼女の行動を否定できなかった。皆、この若さが永遠ではないことを、本能で感じ、最後の欲望を追いかけていたのだ。

8日目:忘れていた繋がり
私は、クラブで知り合った若い男と連絡を取った。彼は私を「アヤ」と呼んだ。私は彼と彼の家で、一夜を共にした。

彼の優しさ、彼の体が私に与えてくれる肉体の繋がり。それは、夫が亡くなってから久しく忘れていた感情だった。彼は私を優しく抱きしめ、私の若さを讃えた。その時、私は、佐伯綾子という母親でも、八十歳の老女でもなく、一人の女性として満たされた。私は、既に亡くなった和人の父のことを思い出すそぶりもなかった。

9日目:静かな倦怠
疲れは感じなかったが、なぜか体が重い気がした。朝、鏡を見ると、肌のハリにわずかな翳り(かげり)が見えた。期限が近づいている。

私は最後に、ずっと欲しかった高価なダイヤモンドのネックレスを買い、家に帰った。家に帰ると、和人がいた。彼は憔悴しきっているのに、何も言わず、黙って私のために夜食を用意した。

彼の顔を見た瞬間、私は彼の疲労の原因が自分自身にあることを、一瞬で思い出した。そして、彼の真面目さ、彼の献身が、彼自身の人生を狂わせていることも。

私は、和人が婚活でいろいろ痛い目にあったことを思い出し、そして、彼の目の中に私へ向けられた、異常な熱が宿っていることに気づいた。それは息子としての愛情ではない。

(本当に女性というのは、いくつになっても女性なのだな。そして、男はいつまでたっても…)

私は彼の哀れな恋心を無視し、彼が用意した夜食を平らげた。彼がどうなろうと、もう知ったことか。私は私のために生きる。

その夜、私は自室のベッドに倒れ込んだ。体が、鉛のように重い。

終:満足した最期
若返って十日目の朝。

体が動かない。昨日の夜の重さが、今度は鉛のように全身にのしかかっている。

和人が寝床へ向かいに来た音がした。

私は、もう彼に声をかける力すらなかった。

彼は私の顔を見た。そして、何かを悟ったように、にやりと笑った。

私がただの老女の姿に戻ったことに、彼は安堵している。それと同時に、どこか満足しているようにも見えた。

私は最後の力を振り絞り、心の中で呟いた。

「私は満足したよ、和人」

たった十日間。その短い期間で、私は八十年分の義務と重圧から解放された。一人の女性として、人生の最盛期を取り戻し、遊び、愛し、浪費した。もう、何も悔いはない。

意識が遠のき、私は再び、皺だらけの、八十歳の老婆の体に戻っていく感覚を覚えた。

私の体は静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。

(和人。この後の人生、お前も好きなように生きなさい)

それが、私が息子に送る、最後の、そして最も自由な「母親面」だった。

365 ちょろい男

五十歳になる佐伯(さえき)和人(かずと)は、今日もまた、重い空気を吸い込んで目を覚ました。築年数の経った一軒家は、彼の人生そのもののように、くすんで疲弊しきっていた。同居しているのは八十歳になる母、綾子(あやこ)だ。

和人は独身だったが、その原因は「女性に縁がない」という類のものではなかった。真面目一徹に生きてきた彼は、仕事以外の生活に「現(うつつ)を抜かす」という行為が理解できなかった。ましてや女性との接し方など、まったく分からない。まるで取扱い説明書のない複雑な機械のように感じていた。

しかし、今は女性どころではない。綾子はまだ完全に認知症というわけではないが、一人で立つことも、食事をすることも、トイレに行くこともできない。完全に要介護五の状態だ。

和人は以前、中堅のメーカーに勤めていたが、母の介護に集中するため退職し、現在は労働時間に融通がきく派遣社員として働いていた。

日々の介護、労働、そして何より金銭的な不安が、彼の家庭を限界へと追い詰めていた。疲れ果てた彼の心を苛むのは、この状況にもかかわらず、いまだに「母親面」をする綾子の態度だった。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

その言葉が、疲労困憊の和人の心を抉(えぐ)る。

「くそ……」

夜、静まり返ったリビングで、和人は無意識にそう呟いた。この限界状況の中で、彼の頭に真っ先に浮かぶのは、罪悪感を伴う恐ろしい願望だった。

その夜。

自室で目を閉じようとした和人の前に、ぼうっと光を放つ「天使」が現れた。性別不明のその存在は、透き通るような白銀の衣を纏っていた。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

和人は一瞬、夢か幻覚だと思った。しかし、その声は彼の脳裏に直接響き、疑いようのない現実味を帯びていた。

彼の真っ先に浮かんだ願いは、心の中で形を成しかけた。それは、「母の死」。

だが、すぐに彼は激しく頭を振り払った。そんなことを望む自分を、真面目な彼は許せなかった。

次に考えたのは、「金」だった。金さえあれば、優秀なヘルパーを雇い、住環境を改善し、介護から解放される。彼の現状のすべてを変えることができる。

しかし、そこで彼の聡明で真面目な性格が顔を出す。

「自分だけ助かって、何になる? この問題は、私だけのものじゃない。日本中に、世界中に、同じ地獄を抱える人がいる」

彼は長い熟考に入った。自分の願いが、個人的な救済ではなく、この世の根本的な問題解決に繋がるものはないか。

そして、夜明け前、和人は一つの願いを思いつく。それは、彼の真面目さ、優しさ、そして限界まで追い詰められた故の、冷徹な合理性が融合した、恐ろしくも優しい願いだった。

翌朝。

和人はいつものように、母の様子を見に寝室へ向かった。しかし、そこで見た光景に、彼は完全に茫然自失となった。

昨日まで、皺(しわ)だらけでよぼよぼだった八十歳の綾子が寝ていた場所に、二十歳前後と思われる、肌艶の良い若い女性が寝ていたのだ。

和人が恐る恐る声をかける。

「…あの、お母さん?」

女性はむくりと起き上がり、ぶっきらぼうな声で返事を返した。その声だけは、聞き慣れた母のそれだった。

「なんだい、朝食の準備はできたのかい。はやく、ダイニングエリアまで連れてっておくれ」

いつもの母と同じ、きまり文句。願いが叶った喜びの実感が湧かないまま、和人が呆然としていると、女性はベッドから自力で立ち上がった。その立ち姿の軽やかさ、しなやかな肢体に、和人は思わず息を飲んだ。

そして、彼女は自分の手の甲をゆっくりと見つめる。細く、若々しい指。しばし呆然とした後、洗面所へゆっくり向かっていく。

数秒の静寂の後、家中に響き渡る大きな叫び声が上がった。

「若返っている!!」

二人とも茫然としたままだったが、和人は勤務時間がある。

「…と、とりあえず、お母さん。食事は自分で食べて、今日は家でゆっくりしててくれ」

そう告げ、彼は会社に向かった。その際、彼女の肩に触れそうになった手が、震えていることに彼は気づかなかった。

会社にいる時、昼休みでネットニュースを開いた和人は、さらに衝撃を受ける。

彼の家だけでなく、日本中どころか、世界中で同じような現象が起きているというのだ。昨日まで要介護状態だった人々が、突如として若返り、健康な姿に戻っている。

政府からは、結果が出るまで混乱しないようにと、新型コロナウイルスの時と同じような、「不要不急の外出を控える」といった要求が流れていた。誰の頭でも、この現象の整理はついていないようだった。

夢心地で帰宅した和人が家に入ると、デイサービスの担当者が、リビングで茫然と立ち尽くしていた。

「どういうことでしょうか…昨日まで、あんなに大変だった綾子さんが…」

和人は曖昧に頷き、「とりあえず、今日のところは帰ってください」と告げた。母も彼も、理解できぬまま、漠然と日々を過ごしていくしかなかった。

ニュースでは、若返った人が突発的な心臓発作のようなもので死んでいく話も報じられ始めた。しかし、政府や専門家も、この事象に対して「皆、同じように対応していいものか」と、判断ができずにいた。

三日後の朝。

若返った母、綾子から、和人は告げられた。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

和人は身構えた。そして、次の言葉で彼の最悪の予感が的中する。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

年金は、和人の派遣の収入だけでは足りず、二人の生活費に組み込まれていた。自由になるお金はない。それを説明すると、綾子はヒステリーを巻き起こした。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

和人は否定するでもなく、年金手帳と、振込口座のキャッシュカードを渡した。母はそれをひったくるように奪うと、そそくさと家を出ていった。

デイサービスの担当者には、この件が落ち着くまでは対応不要と説明し、和人は母の判断に任せることにした。

母の傍若無人ぶりは、日々エスカレートしていった。新たな収入がないにもかかわらず、「新しい青春を取り戻す」と、日々無茶な要求を重ねる。

「今の世代の服を用意しろ!」 「化粧品を用意しろ!」 「アクセサリーを用意しろ!」

和人は貯金を切り崩し、彼女の要求に応じた。それは、かつて介護で尽くした義務感ではなく、もっと個人的で、甘美な衝動に支配されていた。

彼女のために選んだ、流行のブラウス。彼女がそれを纏い、薄く化粧をしてリビングに立つ姿は、和人の長年眠っていた男としての心を激しく揺さぶった。

彼は、彼女に恋をした。

それは、彼の介護を必要とした八十歳の母ではなく、目の前にいる二十歳の魅力的な女性に対してだった。彼女の奔放さは、彼が真面目に生きてきて避けてきた「現を抜かす」人生の輝きそのものだった。

家にいる時、彼女が鏡に向かうたびに、和人は息を詰めた。彼女の首筋、立ち上がった時のウエストの細さ、そして何より、彼の介護する老女の面影が完全に消え去った、自立した一人の女性としての存在感。

彼は、婚活でいろいろ痛い目にあった経験から、女性を恐れ、避けてきた。だが、この女性は、誰よりも身近でありながら、最も遠い存在になってしまった。その矛盾が、彼の背徳的な恋心を増幅させた。

若返りから七日目の夜。

綾子が「飲みに行く」と言って出て行った後、和人は彼女の寝室に入った。彼女が昨日まで着ていた薄いパジャマを手に取り、静かに顔を埋めた。ほんのりと残る、化粧と、若々しい石鹸の香り。

「綾子さん……」

彼は思わず、母ではない、一人の女性を呼ぶ響きで名を漏らした。しかし、その恋には期限がある。最盛期の姿を取り戻した者たちは、わずか一日分の寿命を享受する。彼が願ったのは、延命ではなく、解放だった。母は若返りから十日で、以前の姿に戻り、そして静かに最期を迎えるのだ。

彼は、恋人でも、夫でもない。彼女にとっての彼は、単なる財布であり、彼女の若さを支える従順な息子でしかない。和人は、この十日間という名の「期限付きの恋」を、誰にも知られずに、心の中で燃やし尽くすしかなかった。

四:願いの結末
さらに数日たった、母が若返って十日目の朝。

和人がいつものように母の寝床へ向かうと、そこには以前の母の姿の老婆が、静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。若さという一瞬の炎を燃やし尽くした後の、静かな満足を湛えているように見えた。

和人はにやりと笑い、心の中で静かに呟いた。

「母は、満足しただろうか」

彼は知っていた。彼女の満足は、彼の献身的な介護から解放された満足であり、彼の叶えられなかった恋とは全く関係がないことを。しかし、彼は、その十日間で、生まれて初めて「恋」という感情を知った。それは、罪深く、一瞬で終わる、呪いのような恋だったが、真面目一徹で生きてきた彼の人生に、唯一の甘い毒を残していった。

和人が天使に願った願いは、以下の通りだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一(約一日)にしてほしい」 (つまり、残り寿命を1年を1日に短縮するというもの)

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」 (最後にやけを起こさせないためのセーフティーネットの設定)

真面目で聡明な彼は、この世の介護問題を根本的に解決するべく、このような願いをしたのだ。

目先一ヶ月は、世界中で「死亡処理」に追われる多くの人がいた。若返った人々が、束の間の自由と生を謳歌した後、静かに元の姿に戻る、あるいはそのまま亡くなっていったからだ。

しかし、半年後、日本の多くの問題は改善した。莫大だった介護保険の負担は減り、介護に疲弊していた人々は解放された。

一方で、人口の半減により、労働需要も激減してしまった。これは主に先進国の問題だったが、この後どうなるかは、誰にも想像がつかない。数百年後に同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

それでも、佐伯和人は、肩から大きな重荷がおりたような、すっきりとした感覚に包まれていた。

彼は、窓の外を見つめた。空は青い。

「この先の人生は、何があるのだろう」

彼は呟いた。孤独と、わずか十日間の恋の残骸を抱きしめて、彼の新しい人生が、今、始まる。

365

五十歳になる**佐伯和人は、今日もまた、重い空気を吸い込んで目を覚ました。築年数の経った一軒家は、彼の人生そのもののように、くすんで疲弊しきっていた。同居しているのは八十歳になる母、綾子(あやこ)だ。

和人は独身だったが、その原因は「女性に縁がない」という類のものではなかった。真面目一徹に生きてきた彼は、仕事以外の生活に「現(うつつ)を抜かす」という行為が理解できなかった。ましてや女性との接し方など、まったく分からない。まるで取扱い説明書のない複雑な機械のように感じていた。

しかし、今は女性どころではない。綾子はまだ完全に認知症というわけではないが、一人で立つことも、食事をすることも、トイレに行くこともできない。完全に要介護五の状態だ。

和人は以前、中堅のメーカーに勤めていたが、母の介護に集中するため退職し、現在は労働時間に融通がきく派遣社員として働いていた。

日々の介護、労働、そして何より金銭的な不安が、彼の家庭を限界へと追い詰めていた。疲れ果てた彼の心を苛むのは、この状況にもかかわらず、いまだに「母親面」をする綾子の態度だった。

「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」

その言葉が、疲労困憊の和人の心を抉(えぐ)る。

「くそ……」

夜、静まり返ったリビングで、和人は無意識にそう呟いた。この限界状況の中で、彼の頭に真っ先に浮かぶのは、罪悪感を伴う恐ろしい願望だった。

その夜。

自室で目を閉じようとした和人の前に、ぼうっと光を放つ「天使」が現れた。性別不明のその存在は、透き通るような白銀の衣を纏っていた。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

和人は一瞬、夢か幻覚だと思った。しかし、その声は彼の脳裏に直接響き、疑いようのない現実味を帯びていた。

彼の真っ先に浮かんだ願いは、心の中で形を成しかけた。それは、「母の死」。

だが、すぐに彼は激しく頭を振り払った。そんなことを望む自分を、真面目な彼は許せなかった。

次に考えたのは、「金」だった。金さえあれば、優秀なヘルパーを雇い、住環境を改善し、介護から解放される。彼の現状のすべてを変えることができる。

しかし、そこで彼の聡明で真面目な性格が顔を出す。

「自分だけ助かって、何になる? この問題は、私だけのものじゃない。日本中に、世界中に、同じ地獄を抱える人がいる」

彼は長い熟考に入った。自分の願いが、個人的な救済ではなく、この世の根本的な問題解決に繋がるものはないか。

そして、夜明け前、和人は一つの願いを思いつく。それは、彼の真面目さ、優しさ、そして限界まで追い詰められた故の、冷徹な合理性が融合した、恐ろしくも優しい願いだった。

翌朝。

和人はいつものように、母の様子を見に寝室へ向かった。しかし、そこで見た光景に、彼は完全に茫然自失となった。

昨日まで、皺(しわ)だらけでよぼよぼだった八十歳の綾子が寝ていた場所に、二十歳前後と思われる、肌艶の良い若い女性が寝ていたのだ。

和人が恐る恐る声をかける。

「…あの、お母さん?」

女性はむくりと起き上がり、ぶっきらぼうな声で返事を返した。その声だけは、聞き慣れた母のそれだった。

「なんだい、朝食の準備はできたのかい。はやく、ダイニングエリアまで連れてっておくれ」

まさに、いつもの母と同じ、きまり文句。願いが叶った喜びの実感が湧かないまま、和人が呆然としていると、女性はベッドから自力で立ち上がった。

そして、自分の手の甲をゆっくりと見つめる。細く、若々しい指。しばし呆然とした後、洗面所へゆっくり向かっていく。

数秒の静寂の後、家中に響き渡る大きな叫び声が上がった。

「若返っている!!」

二人とも茫然としたままだったが、和人は勤務時間がある。

「…と、とりあえず、お母さん。食事は自分で食べて、今日は家でゆっくりしててくれ」

そう告げ、彼は会社に向かった。

会社にいる時、昼休みでネットニュースを開いた和人は、さらに衝撃を受ける。

彼の家だけでなく、日本中どころか、世界中で同じような現象が起きているというのだ。昨日まで要介護状態だった人々が、突如として若返り、健康な姿に戻っている。

政府からは、結果が出るまで混乱しないようにと、新型コロナウイルスの時と同じような、「不要不急の外出を控える」といった要求が流れていた。誰の頭でも、この現象の整理はついていないようだった。

夢心地で帰宅した和人が家に入ると、デイサービスの担当者が、リビングで茫然と立ち尽くしていた。

「どういうことでしょうか…昨日まで、あんなに大変だった綾子さんが…」

和人は曖昧に頷き、「とりあえず、今日のところは帰ってください」と告げた。母も彼も、理解できぬまま、漠然と日々を過ごしていくしかなかった。

ニュースでは、若返った人が突発的な心臓発作のようなもので死んでいく話も報じられ始めた。しかし、政府や専門家も、この事象に対して「皆、同じように対応していいものか」と、判断ができずにいた。

三日後の朝。

若返った母、綾子から、和人は告げられた。

「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」

和人は身構えた。そして、次の言葉で彼の最悪の予感が的中する。

「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」

年金は、和人の派遣の収入だけでは足りず、二人の生活費に組み込まれていた。自由になるお金はない。それを説明すると、綾子はヒステリーを巻き起こした。

「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」

和人は否定するでもなく、年金手帳と、振込口座のキャッシュカードを渡した。母はそれをひったくるように奪うと、そそくさと家を出ていった。

デイサービスの担当者には、この件が落ち着くまでは対応不要と説明し、和人は母の判断に任せることにした。

母の傍若無人ぶりは、日々エスカレートしていった。新たな収入がないにもかかわらず、「新しい青春を取り戻す」と、日々無茶な要求を重ねる。

「今の世代の服を用意しろ!」 「化粧品を用意しろ!」 「アクセサリーを用意しろ!」

既に亡くなった父のことを思い出すそぶりもなく、綾子は遊び歩いた。

(本当に女性というのは、いくつになっても女性なのだな)

婚活で色々と痛い目にあった和人は、思わずそう思いを馳せた。女心、そして女性の持つ生命力のようなものを、改めて突きつけられた気がした。

さらに数日たった、母が若返って十日目の朝。

和人がいつものように母の寝床へ向かうと、そこには以前の母の姿の老婆が、静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。

和人はにやりと笑い、心の中で静かに呟いた。

「母は、満足しただろうか」

和人が天使に願った願いは、以下の通りだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を365分の1にしてほしい」
つまり、残り寿命を1年を1日に短縮するというもの

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」
最後にやけを起こさせないためのセーフティーネットの設定

真面目で聡明な彼は、この世の介護問題を根本的に解決するべく、このような願いをしたのだ。

目先一ヶ月は、世界中で「死亡処理」に追われる多くの人がいた。若返った人々が、束の間の自由と生を謳歌した後、静かに元の姿に戻る、あるいはそのまま亡くなっていったからだ。

しかし、半年後、日本の多くの問題は改善した。莫大だった介護保険の負担は減り、介護に疲弊していた人々は解放された。

一方で、人口の半減により、労働需要も激減してしまった。これは主に先進国の問題だったが、この後どうなるかは、誰にも想像がつかない。数百年後に同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

それでも、佐伯和人は、肩から大きな重荷がおりたような、すっきりとした感覚に包まれていた。

彼は、窓の外を見つめた。空は青い。

「この先の人生は、何があるのだろう」

彼は呟いた。彼の新しい人生が、今、始まる。

見返り爺 金 落ちを変えてみた

こんな都市伝説がある、身代わり爺 これは、現代の都市に潜む、奇妙な老人の物語である。突如、目の前に現れるその爺は、「一番大事なもの」と引き換えに、対象者のどんな願いでも叶えるという。老人の質問に対する回答の真偽や、その時の機嫌(さじ加減)によって、願いの叶い方や代償の重さが変わると言われている。

夕暮れのネオンが乱反射する雑居ビルの裏口。生ゴミの匂いが微かに漂う場所で、神崎(かんざき)はタバコをふかしていた。20代後半。黒の安物なブルゾンを羽織っているが、その顔には妙に自信に満ちた、鼻につく表情が貼り付いている。

彼の人生は、「大した努力なしに何でもできる」という根拠のない自信に支えられてきた。小学校の作文コンクールでたまたま褒められて以来、彼は自分が「天才の部類」だと信じている。しかし、その自信は現実の努力を伴わなかった。

名前を書けば入れるような底辺大学に入学したが、講義が「退屈すぎる」という理由で中退。今はアルバイトで生計を立てているが、プライドだけは捨てていない。

「こんな仕事、本気を出せばいつでも辞められる。俺の才能は、こんなところで燻っていいもんじゃない」

彼の口癖だ。当然、バイト先では煙たがられている。同僚に仕事を頼まれても、「俺がやるべき仕事じゃない」と一蹴し、そのくせ失敗した同僚には上から目線でアドバイスをする。自己顕示欲は満たしたいが、実際に評価されるための行動はしない。

この日も、シフト終わりに店長から「もっと協調性を持て」と注意を受け、憮然としていた。

「チッ。こいつらは俺の価値を理解できない。どうせ低レベルな人間ばかりだ」

神崎は、自分の人生がうまくいかないのは、世界が自分に追いついていないからだと本気で信じていた。そして、それを一瞬でひっくり返すような「何か」を常に渇望していた。

「あーあ、一瞬で大金持ちになれたら、あいつら全員見下せるのに」

そう心の中で毒づいた時、ビルの陰から、一人の老人が現れた。

老人は、神崎が今いる薄汚れた場所には不釣り合いな、仕立ての良い和装をしていた。ニコニコと、しかしどこか虚ろな目で神崎を見つめている。

「おや、若いのに随分と鬱屈しておるのぅ」

神崎は怪訝な顔をした。新手の宗教の勧誘か、または物乞いか。

「うるせえな、爺。絡むなよ」

「まぁそう邪険にせんでも。わしはな、願いを叶えてやれる爺さんなのじゃ」

神崎は鼻で笑った。「願い? だったら億単位の金でも持ってこいよ。そんなもん叶えられんだろ」

爺はさらにニコニコと笑った。

「金じゃな。よかろう。わしは『身代わり爺』。お主の願いを叶える代わりに、お主の一番大事なものを頂戴する。それでよければ、叶えてやろう」

神崎は一瞬の迷いもなく答えた。「俺の一番大事なもの? そんなもんねえよ。せいぜいスマホくらいなもんだろ」

「ほう。では、本当に大事なものが何か、お主に教えてやろう。わしの質問に真実を答えるのじゃ。真実を答えるごとに、お主の『本当の価値』が見えてくる」

爺は近くのダンボールの上に腰を下ろし、一つ目の質問を投げかけた。

「お主が今のアルバイトを辞めない、真の理由は?」

神崎は即答した。「辞めたら暇になるからだろ」

爺の顔から、笑みが消えた。「嘘はだめじゃ。一万円にもならん。答えよ、真実を」

神崎はカチンときたが、爺の目が妙に怖かった。渋々、本当の理由を口にした。

「……辞めたら、無職になるのが嫌だからだ。フリーターなら、まだ次のステップがあるって言い訳できるから」

爺は、またニコニコと笑い、手のひらに乗せた一万円札を神崎に投げ渡した。

「お主が中退した大学。本当に『退屈すぎた』からか?」

「当たり前だろ! あんなレベルの低い授業、聞くに値しない!」

爺は首を振った。「嘘はだめじゃ」

神崎はイライラしながら、俯いた。

「……授業についていけなくなったのが、周りにバレるのが怖かった。だから、先に『つまらない』って言って、辞めた」

一万円がまた手渡される。

「お主の、その自信は、何を根拠にしている?」

「根拠? 実力だよ! 小さい頃から褒められて、成績も良かった……」

爺は冷たい目で神崎を見つめた。神崎の背中に汗が滲む。

「……本当は、何も根拠がない。自信があるって言い聞かせてないと、自分には何の価値もないって知ってるから」

一万円が手渡される。

質問は続いた。答えるたびに、神崎は自分の内側を覗き込まれるような不快感を覚えたが、同時に、目の前の札束が増えていく興奮が、それを凌駕した。

「お主が一番、人から言われたくない言葉は?」 「……『才能がない』」

「今の人生を変えるために、昨日、何か努力をしたか?」 「……していない」

「誰か、心の底から『愛している』と言える人間はいるか?」 「……いない」

「お主の友人たちは、お主のことをどう思っている?」 「……多分、見下してる。でも、俺は気づいてないふりをしてる」

爺の質問は、神崎の自意識が生み出した嘘、虚勢、そして孤独を次々に暴いていった。札束は、あっという間に数十万円の厚みになった。

爺は最後に、札束を指差しながら、神崎に尋ねた。

「お主の『一番大事なもの』。それは、その札束と引き換えに、失っても構わぬものか?」

神崎は札束を強く抱きしめた。

「構うわけないだろ! 俺にとって一番大事なのは、この金だ。金さえあれば、俺の価値は証明できる。それ以外、全部失っても構わねえ!」

彼の目には、札束の山しか映っていなかった。金さえあれば、失われたプライドも、失われた時間も、すべて取り戻せると信じていた。

爺は、満足そうに頷いた。

「そうか。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

そして、爺は手を翳した。

「よかろう。お主の望み、叶えてやろう」

神崎は気づくと、自分のアパートの安物のソファに座っていた。

「夢か?」と思ったが、膝の上には、先ほどまでの何倍にも膨れ上がった、札束の山があった。数百万、いや数千万はあるかもしれない。

「やった……! やったぞ!」

神崎は飛び上がり、部屋の中を歓喜して走り回った。これで、あの嫌味な店長や、自分を見下していた大学時代の同級生たちを見返せる。高級車を買い、タワーマンションに住み、もう二度と労働などしなくていい。

彼は興奮しながら、財布の中の少額の小銭を捨て、札束を掴んで外へ飛び出した。

「まずは、高級寿司だ! そして、最新のスマホとブランドの服を――」

彼は大通りに出たところで立ち止まった。

賑やかなはずの街が、異常なほど静まり返っている。道行く人々の顔は、誰も彼を見ていない。誰も、彼に気づいていない。

彼は、すぐそばを歩く女性の肩を叩こうとしたが、彼の指は、まるで空気のように女性の体を通り抜けた。

「……え?」

彼は驚愕し、自分の手をマジマジと見つめる。そして、目の前を通り過ぎる車のボンネットに、自分の姿が映っていないことに気がついた。

彼は急いでスマートフォンを取り出そうとしたが、ポケットには何も入っていない。

神崎は、慌ててコンビニエンスストアに駆け込んだ。店員に話しかけようと「すみません!」と叫ぶが、店員は彼の声に一切反応しない。

彼はレジカウンターに置いてあったスポーツ新聞を掴もうとしたが、手が触れる前に、紙は風に揺れることもなく、彼の指をすり抜けた。

彼は理解した。

自分は、この世界から認識されていない。

彼は札束を握りしめた。高級な紙幣の束は、彼の手に、確かに触れている。彼は、世界で最も裕福な人間の一人になった。

しかし、その金で誰にもサービスを受けられない。

高級寿司屋に入っても、誰も席に案内してくれない。 ブランド店に入っても、誰も彼の存在に気づかない。 家を買おうにも、彼は不動産屋に声をかけられない。 車を運転しようにも、車のハンドルに触れることすらできない。

彼が望んだ「金」だけは、彼の傍にある。

しかし、その金を使うため、自己顕示欲を満たすために必要だった「金以外のすべて」――すなわち、他者からの認識、コミュニケーション、物質的な交流、そして世界との繋がりそのものを、彼は失っていた。

神崎は、大金が入った札束を抱きしめたまま、ただ街の雑踏の中に立ち尽くした。

誰も彼を知らない。誰も彼を見ていない。

彼の耳元で、遠いビルの裏口で聞いた、あの爺の満面の笑みが、嘲笑のように響いた。

「よかろう。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

神崎は、無力な札束の山を背に、沈黙の世界へと足を踏み出した。その足取りは、これまでの人生で最も、確固たる意志に満ちていた。

彼はもう、大金が何の役にも立たないことを知っている。彼に残されたのは、自分の肉体と、新しく芽生えた「変わりたい」という強烈な意識だけだった。

「まず、体力だ」

彼はこれまで、運動を「肉体労働者のやること」と見下していた。だが、今は違う。彼は走り始めた。誰も彼に注意を払わない。信号を無視しても、車は彼をすり抜けていく。彼は、世界のルールから解放された、透明な存在だった。

最初のうちは、すぐに息が上がった。数分のランニングで、膝が笑う。しかし、「辞めたら無職になるのが嫌だからバイトを辞めない」と嘘をついていた自分を思い出す。あの時の虚勢とは違う。これは、誰にも見られていない、自分自身との約束だ。

「俺は、俺の価値を、俺自身で証明する」

彼は毎日、同じ時間に走り続けた。最初は1km、次に3km、そして5km。誰も彼を褒めてくれない。誰も彼の努力を見ていない。だが、彼の筋肉は裏切らなかった。疲労の向こう側で、体が応えてくれる感覚が、彼にとって生まれて初めての、純粋な達成感だった。

次に彼は、知識を求めた。大学の講義を「つまらない」と逃げた過去がある。

彼は公共の図書館に入り、誰も座っていない席に座った。物理的に本に触れることはできないが、彼は集中すれば、まるで脳内でページをめくるかのように、情報を「読み取る」ことができることに気づいた。

彼は、これまで見下していた分野――経済学、プログラミング、歴史――の分厚い専門書を片っ端から読み始めた。誰も教えてくれない。すべて独学だ。わからなければ、何度でも立ち止まり、考え抜く。

「こんなこと、誰かに見てもらえれば、どれだけ自慢できるだろう」という誘惑が何度も襲った。しかし、彼はその都度、頭を振った。

「金以外のすべて」じゃったな。

爺の声が、彼を戒める。彼の望みは、金や承認ではない。自分自身で価値を生み出す能力だ。

孤独な努力は、半年続いた。

彼の体は引き締まり、その知識は、もはや中退した大学の同級生を遥かに凌駕していた。

ある日、彼はいつものようにカフェで本を「読んで」いる時、ふと、隣の席でノートパソコンを広げている男性の会話が耳に入った。

「プロジェクトが頓挫しそうだ。データベースの設計が複雑すぎて、誰も解決策を見いだせない」

神崎は、つい先週、独学で読み終えたばかりの専門書の内容を思い出した。それは、まさにその男性が抱える問題の、最も効率的かつ簡単な解決法だった。

神崎は、反射的にその男性に向かって口を開いた。

「あの、それ、○○の設計にすれば、複雑性を一気に減らせますよ」

彼の声は、当然、男性には届かない。男性はただ、頭を抱えている。

神崎は絶望した。どれだけ知識を積み上げても、誰にも伝えることができない。この世界で、彼の知識は無価値だ。

「くそっ、何のために頑張ったんだ!」

彼は衝動的に立ち上がり、カフェのドアを突き破って外に出ようとした。その瞬間、彼の体が、ドアのフレームに、微かに接触した。

「……え?」

彼は、すぐに後退し、再びドアノブに手を伸ばした。かすかに、硬い感触がある。これまで、あらゆる物質をすり抜けてきた彼の指が、確かにドアノブの金属に触れている。

彼は震える手で、もう一度、先ほどの男性のノートパソコンに触れようとした。今度は、指がキーボードに触れ、パチリと小さな音が鳴った。

男性が、ハッと顔を上げた。

「……今、何か、音?」

男性は周りを見回すが、誰もいない。

神崎は、心臓が爆発しそうだった。

繋がった。

彼は、猛烈な勢いで自分の部屋に戻り、鏡の前に立った。鏡には、彼の姿が薄く、ぼんやりと映っている。

「爺さん……!」

彼の意識が変わった。傲慢なプライドを捨て、誰にも見られず、誰にも評価されない孤独の中で、彼は真の努力を積み重ねた。その内面の変化こそが、「一番大事なもの」の代償を取り戻す鍵だったのだ。

神崎は、再びカフェに戻った。彼の体は、以前よりはっきりと物質に触れることができるようになっていたが、まだ完全に他者に認識されるまでには至らない。

彼は、先ほどのプログラマーの男性の隣に座った。そして、キーボードを操作する男性の手元に、微かに触れながら、解決策となるコードのヒントを、キーボード上に文字として残そうと試みた。

指先がキーボードに触れるたび、小さなノイズのような音が響く。男性は何度も怪訝な顔で周りを見回した。

神崎は汗だくになりながら、必死にキーを押し続けた。誰も彼を見ていない。誰も彼を褒めてくれない。でも、彼はただ、その男性の役に立ちたいという、初めて経験する純粋な衝動に突き動かされていた。

数時間後、男性は突然「これだ!」と叫び、プロジェクトの問題を解決した。男性は深く安堵し、天を仰いだ。

その瞬間、神崎の体が、ドクンと脈打った。

彼の存在が、一気に鮮明になった。鏡の中の姿が、鮮やかな色を取り戻した。

そして、カフェの店員が彼に気づき、話しかけてきた。

「お客様、当店はワンドリンク制でして……」

神崎は、その何気ない店員の声に、涙が止まらなくなった。彼は、財布から札を取り出し、渡した。店員は、戸惑いながらもそれを受け取った。

「一番大事なもの……俺の意識だったんだ」

彼は、あの札束が置いてあるアパートには二度と戻らなかった。

数年後、神崎は、あのプログラマーの男性と立ち上げた小さなIT企業で、チームを率いる立場になっていた。彼の知識と粘り強さは本物だった。彼はもう、他者からの承認を渇望していない。自分の内側から湧き出る確固たる自信と、チームメンバーへの感謝こそが、彼の原動力だった。

ある夜、彼は自社のオフィスから帰り、ふと雑居ビルの裏口を通った。生ゴミの匂いがする、あの場所だ。

そこには、もう身代わり爺の姿はなかった。

神崎は立ち止まり、心の中で深く感謝した。そして、胸ポケットから、自分で稼いだ給料明細を取り出した。

「俺はもう、誰かに価値を証明してもらう必要はない」

彼は明細書を握りしめ、自分自身の力で手に入れた、当たり前の日常へと歩き出した。

見返り爺 金

こんな都市伝説がある、身代わり爺 これは、現代の都市に潜む、奇妙な老人の物語である。突如、目の前に現れるその爺は、「一番大事なもの」と引き換えに、対象者のどんな願いでも叶えるという。老人の質問に対する回答の真偽や、その時の機嫌(さじ加減)によって、願いの叶い方や代償の重さが変わると言われている。

夕暮れのネオンが乱反射する雑居ビルの裏口。生ゴミの匂いが微かに漂う場所で、神崎(かんざき)はタバコをふかしていた。20代後半。黒の安物なブルゾンを羽織っているが、その顔には妙に自信に満ちた、鼻につく表情が貼り付いている。

彼の人生は、「大した努力なしに何でもできる」という根拠のない自信に支えられてきた。小学校の作文コンクールでたまたま褒められて以来、彼は自分が「天才の部類」だと信じている。しかし、その自信は現実の努力を伴わなかった。

名前を書けば入れるような底辺大学に入学したが、講義が「退屈すぎる」という理由で中退。今はアルバイトで生計を立てているが、プライドだけは捨てていない。

「こんな仕事、本気を出せばいつでも辞められる。俺の才能は、こんなところで燻っていいもんじゃない」

彼の口癖だ。当然、バイト先では煙たがられている。同僚に仕事を頼まれても、「俺がやるべき仕事じゃない」と一蹴し、そのくせ失敗した同僚には上から目線でアドバイスをする。自己顕示欲は満たしたいが、実際に評価されるための行動はしない。

この日も、シフト終わりに店長から「もっと協調性を持て」と注意を受け、憮然としていた。

「チッ。こいつらは俺の価値を理解できない。どうせ低レベルな人間ばかりだ」

神崎は、自分の人生がうまくいかないのは、世界が自分に追いついていないからだと本気で信じていた。そして、それを一瞬でひっくり返すような「何か」を常に渇望していた。

「あーあ、一瞬で大金持ちになれたら、あいつら全員見下せるのに」

そう心の中で毒づいた時、ビルの陰から、一人の老人が現れた。

老人は、神崎が今いる薄汚れた場所には不釣り合いな、仕立ての良い和装をしていた。ニコニコと、しかしどこか虚ろな目で神崎を見つめている。

「おや、若いのに随分と鬱屈しておるのぅ」

神崎は怪訝な顔をした。新手の宗教の勧誘か、または物乞いか。

「うるせえな、爺。絡むなよ」

「まぁそう邪険にせんでも。わしはな、願いを叶えてやれる爺さんなのじゃ」

神崎は鼻で笑った。「願い? だったら億単位の金でも持ってこいよ。そんなもん叶えられんだろ」

爺はさらにニコニコと笑った。

「金じゃな。よかろう。わしは『身代わり爺』。お主の願いを叶える代わりに、お主の一番大事なものを頂戴する。それでよければ、叶えてやろう」

神崎は一瞬の迷いもなく答えた。「俺の一番大事なもの? そんなもんねえよ。せいぜいスマホくらいなもんだろ」

「ほう。では、本当に大事なものが何か、お主に教えてやろう。わしの質問に真実を答えるのじゃ。真実を答えるごとに、お主の『本当の価値』が見えてくる」

爺は近くのダンボールの上に腰を下ろし、一つ目の質問を投げかけた。

「お主が今のアルバイトを辞めない、真の理由は?」

神崎は即答した。「辞めたら暇になるからだろ」

爺の顔から、笑みが消えた。「嘘はだめじゃ。一万円にもならん。答えよ、真実を」

神崎はカチンときたが、爺の目が妙に怖かった。渋々、本当の理由を口にした。

「……辞めたら、無職になるのが嫌だからだ。フリーターなら、まだ次のステップがあるって言い訳できるから」

爺は、またニコニコと笑い、手のひらに乗せた一万円札を神崎に投げ渡した。

「お主が中退した大学。本当に『退屈すぎた』からか?」

「当たり前だろ! あんなレベルの低い授業、聞くに値しない!」

爺は首を振った。「嘘はだめじゃ」

神崎はイライラしながら、俯いた。

「……授業についていけなくなったのが、周りにバレるのが怖かった。だから、先に『つまらない』って言って、辞めた」

一万円がまた手渡される。

「お主の、その自信は、何を根拠にしている?」

「根拠? 実力だよ! 小さい頃から褒められて、成績も良かった……」

爺は冷たい目で神崎を見つめた。神崎の背中に汗が滲む。

「……本当は、何も根拠がない。自信があるって言い聞かせてないと、自分には何の価値もないって知ってるから」

一万円が手渡される。

質問は続いた。答えるたびに、神崎は自分の内側を覗き込まれるような不快感を覚えたが、同時に、目の前の札束が増えていく興奮が、それを凌駕した。

「お主が一番、人から言われたくない言葉は?」 「……『才能がない』」

「今の人生を変えるために、昨日、何か努力をしたか?」 「……していない」

「誰か、心の底から『愛している』と言える人間はいるか?」 「……いない」

「お主の友人たちは、お主のことをどう思っている?」 「……多分、見下してる。でも、俺は気づいてないふりをしてる」

爺の質問は、神崎の自意識が生み出した嘘、虚勢、そして孤独を次々に暴いていった。札束は、あっという間に数十万円の厚みになった。

爺は最後に、札束を指差しながら、神崎に尋ねた。

「お主の『一番大事なもの』。それは、その札束と引き換えに、失っても構わぬものか?」

神崎は札束を強く抱きしめた。

「構うわけないだろ! 俺にとって一番大事なのは、この金だ。金さえあれば、俺の価値は証明できる。それ以外、全部失っても構わねえ!」

彼の目には、札束の山しか映っていなかった。金さえあれば、失われたプライドも、失われた時間も、すべて取り戻せると信じていた。

爺は、満足そうに頷いた。

「そうか。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

そして、爺は手を翳した。

「よかろう。お主の望み、叶えてやろう」

神崎は気づくと、自分のアパートの安物のソファに座っていた。

「夢か?」と思ったが、膝の上には、先ほどまでの何倍にも膨れ上がった、札束の山があった。数百万、いや数千万はあるかもしれない。

「やった……! やったぞ!」

神崎は飛び上がり、部屋の中を歓喜して走り回った。これで、あの嫌味な店長や、自分を見下していた大学時代の同級生たちを見返せる。高級車を買い、タワーマンションに住み、もう二度と労働などしなくていい。

彼は興奮しながら、財布の中の少額の小銭を捨て、札束を掴んで外へ飛び出した。

「まずは、高級寿司だ! そして、最新のスマホとブランドの服を――」

彼は大通りに出たところで立ち止まった。

賑やかなはずの街が、異常なほど静まり返っている。道行く人々の顔は、誰も彼を見ていない。誰も、彼に気づいていない。

彼は、すぐそばを歩く女性の肩を叩こうとしたが、彼の指は、まるで空気のように女性の体を通り抜けた。

「……え?」

彼は驚愕し、自分の手をマジマジと見つめる。そして、目の前を通り過ぎる車のボンネットに、自分の姿が映っていないことに気がついた。

彼は急いでスマートフォンを取り出そうとしたが、ポケットには何も入っていない。

神崎は、慌ててコンビニエンスストアに駆け込んだ。店員に話しかけようと「すみません!」と叫ぶが、店員は彼の声に一切反応しない。

彼はレジカウンターに置いてあったスポーツ新聞を掴もうとしたが、手が触れる前に、紙は風に揺れることもなく、彼の指をすり抜けた。

彼は理解した。

自分は、この世界から認識されていない。

彼は札束を握りしめた。高級な紙幣の束は、彼の手に、確かに触れている。彼は、世界で最も裕福な人間の一人になった。

しかし、その金で誰にもサービスを受けられない。

高級寿司屋に入っても、誰も席に案内してくれない。 ブランド店に入っても、誰も彼の存在に気づかない。 家を買おうにも、彼は不動産屋に声をかけられない。 車を運転しようにも、車のハンドルに触れることすらできない。

彼が望んだ「金」だけは、彼の傍にある。

しかし、その金を使うため、自己顕示欲を満たすために必要だった「金以外のすべて」――すなわち、他者からの認識、コミュニケーション、物質的な交流、そして世界との繋がりそのものを、彼は失っていた。

神崎は、大金が入った札束を抱きしめたまま、ただ街の雑踏の中に立ち尽くした。

誰も彼を知らない。誰も彼を見ていない。

彼の耳元で、遠いビルの裏口で聞いた、あの爺の満面の笑みが、嘲笑のように響いた。

「よかろう。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

見返り爺 メリエル

こんな都市伝説がある、身代わり爺 これは、現代の都市に潜む、奇妙な老人の物語である。突如、目の前に現れるその爺は、「一番大事なもの」と引き換えに、対象者のどんな願いでも叶えるという。老人の質問に対する回答の真偽や、その時の機嫌(さじ加減)によって、願いの叶い方や代償の重さが変わると言われている。

見た目は10代後半から20代前半といったところだが、どこか幼い印象を与える。着ている服は、原色に近いピンクと水色のアンバランスな色彩で、大人が選ばないような組み合わせだ。肩から提げた小さなバッグからは、20センチほどの古びた熊のぬいぐるみが、だらりとぶら下がっている。一般的な成人とはかけ離れた、稚拙な装い。

彼女がそこに立っていると、様々な男から声がかかる。

「1万円でどう?」 「1万5千円でどう?」 「食事だけどう?」

それはすべて、俗にいうパパ活、平たく言えば売春の誘いだった。

今日はどうにも客足が悪い。早く稼いで、あのセイヤがいる店へ行き、ボトルを頼むお金を手にしたい。彼女の毎日は、このホストクラブで過ごす束の間だけを唯一の癒しとして成り立っていた。

そんな中、相場を大きく上回る声が響いた。

「3万円でどう」

声の主は、身なりはそこそこ清潔だが、それなりに年老いた爺だった。爺なら体力もさほどないだろうし、長引く面倒もないだろう。とりあえず、金を稼ぐには手っ取り早い。彼女は同意し、近くのラブホテルへと向かった。

部屋に入り、いつものようにシャワーを浴びようと浴室に向かうと、爺から声がかかった。

「一旦シャワーはいいからお話をしよう。とりあえず約束の3万円は渡すよ」

そう言って、彼は茶封筒を差し出した。中を確認すると、確かに3万円が入っている。彼女は身構えた。もしかして、長引く面倒な客なのだろうか。

ベッド脇のソファに腰掛けるよう促され、彼女が座ると、爺も対面のソファに座り、ニコニコと笑いながら最初の質問を投げかけてきた。

「年はいくつじゃ?」

面倒なので、いつもの決まりきった嘘をつく。

「22歳」

爺は、ほんのわずかに眉を動かし、重たい声でつぶやいた。

「嘘はだめだよ……本当はいくつじゃ?」

「ああ、やっぱり面倒な客だ」と直感する。こういう客には、本当の年齢を言って、その反応を確かめるのが一番だ。

「16だけど」

どうせ、ビビるか、喜ぶロリコン野郎だろうと、彼女はタカをくくった。

しかし、爺の反応は変わらず、ただニコニコとしているだけだった。

爺は追加の提案をした。

「爺の話に付き合うのも、退屈だろう。真実を答えるたびに、一万円やろう」

そして、質問が続いた。

「どこの出身なの」

いつもの決まった回答をする。

「O県です」

O県なんて行ったこともない。適当に答えるだけだ。すると、また同じセリフが返ってくる。

「嘘はだめだよ……」

こいつ、一体なんなんだと思ったが、試しに本当のことを言ってみる。

「S県です」

爺はニコニコとして、一万円札を彼女に手渡した。本当に嘘を見破れるのか? リスクはあるものの、背に腹は代えられない。今後は真実を語った方がいいのかもしれない。

爺の質問は続いた。

「なぜ、ここにいるの?」

これについては真実を答えた。

「家に居場所がないから、とりあえず都会に来てみた」

爺の反応は変わらず、ニコニコして一万円札をくれる。やはり、この爺は、自分の嘘を見分けられるのかもしれない。彼女は、真実だけを語り続けることに決めた。

続けて爺から質問がくる。

「友達はいる?」

この繁華街でつるむメンバーはたくさんいる。だが、みんな友達ではない。本当の友達といえるのは……。

「メリエルだけが友達」

そう言って、彼女はカバンにぶら下がっている熊のぬいぐるみを指差した。これは、嘘ではない。彼女にはずっと友達がいなかった。唯一の友達は、小学生のころ母親からもらった熊のぬいぐるみ、「メリエル」だけ。本当のことを言えるのは、この子だけだった。

爺の反応は、またもニコニコして一万円札をくれた。逆に嘘くさい、この話を信じるということは、本当に爺は嘘が見抜けるのかもしれない。

続いて爺の質問。

「好きな食べ物は?」

「ハンバーガー」

彼女の母親は、彼女が幼い頃に離婚し、シングルマザーとして育ててきた。彼女の基本的な食事は、コンビニ弁当かレトルト食品だった。しかし、母が機嫌のいい時だけ、近所のハンバーガーチェーン店に連れて行ってくれた。本当に二人で食べるときもあれば、母の彼氏に会うまでの時間つぶしの時もあった。ただ、この店で会う母親は、いつも上機嫌だった。それが、彼女の一番幸せな食事の記憶だった。

「最後に誰かに褒められたのはいつ?」

少し考えて、彼女は答える。「セイヤに『頑張ってるね』って言われた時」。それはもちろん、お金を払って聞く言葉だ。

爺はニコニコして、また一万円をくれた。優しさは、いつも対価と引き換えだった。

「小学生の時、一番つらかったことは?」

記憶をたぐる。学校でのいじめではない。母親のことだ。「音読の宿題を、誰も聞いてくれなかったこと」。

誰にも聞いてもらえない。それは、自分の存在を完全に無視されていることのように感じた。爺は何も言わず、一万円をくれた。

それからもたくさんの質問が投げかけられた。

全ての質問は、彼女の人生に関わるものだった。答えるたびに、遠い記憶が呼び覚まされていく。

彼女がシングルマザーの母親に育てられ、寂しい思いをしたこと。

母親の彼氏に虐待を受けたこと。

友人が一人もできなかったこと。

高校に行けなかったこと。

中学すらまともに通えなかったこと。

友達と思った人たちに裏切られ続けたこと。

男性はセックスさえすれば優しくしてくれること。

とりあえず、セックスすればお金が稼げること。

優しい言葉をくれるのは、ホストクラブだけであること。

いじめられた思い出。

答えるごとに一万円が手渡され、彼女の膝の上には、総計30万円ほどになった一万円札の束が置かれていた。

爺から改めて質問がくる。

「最後の質問じゃ。何ができたら、幸せじゃ?」

彼女は少し考えた後、答える。

「セイヤと、ずっと一緒にいられたら幸せ」

爺はすぐに言った。

「嘘はだめといったはずだよ」

彼女は一瞬、息を止めた。少し考えた後、ほほから一筋の雫が伝った。涙交じりの声で、彼女は答える。

「本当は、普通に学校に行きたい……友達が欲しい……親から愛されたい……テレビで見るような、当たり前の生活がしたい……」

彼女は、堰を切ったように涙が止まらなくなり、ずっと泣きじゃくっていた。

爺は、静かに答えた。

「お前の一番大事なものを引き換えに、その願い、叶えよう」

場所は、放課後の高校の教室だった。

どうやら居眠りをしていたようで、クラスには半分ほどの生徒しか残っていない。窓から差し込む西日が、黒板を赤く染めている。

そんな中、明るい声が聞こえた。

「なーに、寝てたの? 早く部活行こうよ、部長が待ってるって」

友達が、彼女の肩を軽く叩いて起こしてくれた。早く部活に行かなければ。今日も、あの子たちと楽しい時間が始まる。

彼女は慌てて荷物をまとめ、部室へと急いだ。

ふと、バッグを見て、何かが足りない気がして気にかかる。

ここに、何かがあったような気がする。いつも一緒だった、何か。

しかし、それが何だったのか、彼女はいくら考えても、どうしても思い出せなかった。

チャーリーズブラックエンジェル アポカリプス

東立東北支店に激震が走った。支店のメイン顧客である地元の大手企業で、全社的なDX化のビッグプロジェクトが立ち上がったのだ。

既存の担当者は、残念ながらアマツカ・マヤだった。流石にその規模から、支店単独での対応は不可能と判断され、本社から「全社一丸となってクロージングせよ」という厳命が下った。

普通の判断であれば、マヤの担当自体を変更するのが当然だった。しかし、問題は先方顧客のキーマンが、マヤの魅力にメロメロの老役員であったことだ。マヤを外せば、これまで彼女が「色仕掛け(と本人は思っている)」で集めてきた必要な情報が入ってこなくなる。彼女を切ることは、できなかった。

会議には常に彼女がいなければならず、肝心な説明は他の優秀な社員が行えばよかったのだが、老役員はマヤ以外の言葉を信用せず、上に上げてくれない。そのため、マヤの口から全てを説明させるという、本社から見れば狂気の沙汰なプロセスを辿るしかなかった。

本社は、この状況を「単なるスケベジジイの戯言」と推測し、美人で優秀な若手女性社員を当てがってみたが、老役員は全く反応しなかった。むしろ、奇妙なことにハナゾノ・ミヤの「叩き上げの情熱」と、サイオン・サヤの「グローバルな知性」というエンジェルス特有の狂気にだけ、なぜか反応があった。

仕方なく、プロジェクトのフロント役はエンジェルス三人に任され、裏で本社と他の支店が必死に資料を作成し、プロジェクトは進められた。

プロジェクトは、なんやかんやで最終提案の段階までたどり着けた。役員への提案のチャンスをいただいた東立側は、これまでのやり取りから、フロント役をエンジェルスに任せるのは危険すぎると判断。最終提案は、本社のベテラン社員が説明役として準備されていた。

役員会議室。本社の人間が話を初めた、その時だった。

先方役員(キーマンの老役員を含む)から、厳しい突っ込みが入った。

老役員: 「おい。今回のメインプロジェクト担当者は、東立のアマツカさんと聞いているが。なぜアマツカさんから説明されないのかね?」

本社社員は顔面蒼白になったが、断るわけにはいかない。マヤに説明を促した。当然ながら、マヤがうまく説明できることはない。彼女が発するのは、資料にない抽象的な「華やかさ」と「繊細さ」という言葉ばかりだった。

そこで横から本社社員がロジカルなフォローを入れた途端、老役員からのきつい突っ込みが入った。

「君の理屈は聞きたくない。アマツカさんの魂で語ってもらおうか!」

しかし、ここでミヤとサヤが横から口を挟むと、老役員はなぜか否定しなかった。

ハナゾノ・ミヤ: 「御社のDX化に必要なのは、理屈じゃない!魂よ!私の叩き上げの情熱で、御社の閉塞感を破壊します!」

サイオン・サヤ: 「御社の進むべき道は、ドメスティックな安定ではない!私のグローバルな知性で、御社をユニバーサルな領域へと導きます!」

老役員は、ミヤの狂気的な情熱と、サヤの非現実的な知性に、満足げに頷いた。

その瞬間、エンジェルスは自分たちの狂気が、この場で通用したと勘違いし、どんどん調子に乗った。エンジェルスによる制御不能な暴走が始まった。マヤは身振り手振りで「華やかさ」をアピールし、ミヤはテーブルを叩きながら「情熱」を説き、サヤは無関係な国際情勢の知識をまくし立てた。

結果、プレゼンはボロボロ。論理は破綻し、資料は無視され、プロジェクトの実現性は完全に失われた。

結果は当然の失注だった。

さらに悪いことに、先方役員から東立の役員に対し、「この会社は、一体どうなっているのか。あの三人を放置するとは、東立の経営陣は、我々を侮辱しているのか?」という、屈辱的で侮辱的なメッセージが届いた。

本部役員からの怒りのメッセージが、ハマの携帯に立て続けに届いた。流石のハマも、この件についてはなあなあでは済まされないことを悟った。東立の威信が、エンジェルスによって地に落ちたのだ。

ハマは、支店長室で一人、静かに重大な決断を下した。

実は東立の末端と思われていた東北支店だが、その奥地には「東北奥地支店」という、ほぼ仕事が存在しない、放置された支店が一つあった。支店という名ばかりの、限界集落のような場所だ。

ハマは、本社からの怒りの鉄槌が自分に下る前に、エンジェルス三人を、その東北奥地支店へと「転属」させることを決意した。

「すまない、アマツカ、ハナゾノ、サイオン。君たちは、東北奥地支店への転属が決まった。明日からだ」

遂に、エンジェルスも最後の時を迎えた。

その夜。支店全員が参加し、居酒屋「大漁」でエンジェルスたちの送別会が行われた。

ベテラン社員たちは、「ああ、これでハマ支店長も重荷がなくなって、さぞ楽になるだろう」と、ハマを温かい目で見ていた。全員が、落胆しているだろうエンジェルスを慰めようと、優しく言葉をかけていた。

しかし、エンジェルスたちは全く落胆していなかった。

アマツカ・マヤは、そもそも仕事に興味がなく、「地方奥地への転属=煩わしい業務からの解放」と解釈し、満面の笑みで酒を呷っていた。 ハナゾノ・ミヤは、雑草根性と大手嫌いが混同しており、「地方の零細こそ日本を牛耳っている」と勘違い。「私の情熱を試せる、より本質的な舞台だ!」と興奮していた。 サイオン・サヤは、最近自然派に目覚めており、「リモート勤務がグローバル水準」と自己解釈していたため、「都会の喧騒から離れ、グローバルな思考を深める最高の環境よ!」と、逆に優越感に浸っていた。

皆は、ハマが肩の荷が下りたことで恵比寿顔になっているだろうと思っていたが、ハマの心中は深い悲しみに満ちていた。

ハマも、彼女たちのことを無能だと断じていたはずだった。しかし、エンジェルスたちと過ごした日々、彼女たちの狂気に満ちた情熱と、不撓不屈の自己肯定感が、彼の心に重くのしかかっていた。

(なぜだ?なぜ、こんなに悲しい?)

彼は、エンジェルスたちの歪んだ情熱と、自分がこの支店に飛ばされた時の、若き日の野心とを無意識に重ねていた。支店長といっても、役員ではない自分には、彼女たちを守ることも、この事態を覆すこともできない。

(あの時、私がこの支店に来た時、胸に燃えた一夜の過ちのような情熱は、嘘ではなかった。私は、この安寧のために、それを押し殺した)

自分は、あと10年以上、この支店に居座り続けられるだろう。しかし、この狂気が消えた後の残り時間を、ハマは何を考えて過ごせばいいのだろうか?彼の心には、エンジェルたちとの思い出だけが、虚しい熱量となって残るだけだった。

ハマは、熱燗を呷った。その味は、ひどく冷たかった。

翌朝、支店長室。

エンジェルスたちが去った後の東北支店は、嘘のように静かだった。

ハマ・ソウスケは、いつもの席に座っていた。彼の机の上には、もはや田中や伊藤からの怒りのメッセージは届かない。コバヤシやヤマダといった常識的な社員たちが、粛々と業務をこなす音だけが、静かに響いていた。それは、ハマが長年求め続けてきた、完璧な「安寧」の姿だった。

だが、彼の心は、その達成された静けさとは裏腹に、荒涼とした砂漠のようだった。

ハマは、窓の外の雪解けを待つ山々を見つめた。エンジェルスがいた頃、この景色を見るたび、彼は「ああ、また何かやらかすだろう」という、一種の緊張感と支配欲に満たされていた。彼女たちの存在は、ハマにとって、自分の無責任な支配を試す、常に稼働し続ける実験装置であり、同時に、自身の「有能な管理者」という虚像を支える「狂気の燃料」だった。

彼女たちを東北奥地の限界集落へと追いやった決断は、論理的には正しかった。自身の定年までの地位を守るための、冷徹な最善手だった。

しかし、その決断は、ハマ自身の過去をも切り離してしまった。

彼は、エンジェルスたちの歪んだ情熱の中に、自分自身が、かつて本社からこの地に飛ばされた時に抱いていた、無謀で、しかし純粋だったはずの「野心」の残滓を見ていたのだ。マヤのチヤホヤされたいという承認欲、ミヤの叩き上げへの執着、サヤのグローバルという名の逃避。それらは全て、都会のエリート街道から外れた人間が、地方という名の辺境で、必死に自分の存在価値を叫ぶ、悲しい叫びだった。

ハマは、コーヒーを一口啜った。その苦味は、彼の裏切りの味だった。

彼は、彼女たちを利用し、彼女たちの狂気を「才能」と持ち上げて支配することで、自分の「安寧」を築いた。そして、その狂気が自分の領域を脅かした瞬間、彼は容赦なく彼女たちを切り捨てた。

(私は、彼女たちが持っていた、あの「一夜の過ち」のような熱量を、自分のために消費し尽くしたのだ。そして、その熱量が尽きた今、私の部屋には、何も残されていない)

ハマは、あと10年以上、この平和な支店で、定年まで安穏と過ごせるだろう。しかし、その日々は、退屈で、無意味で、空虚なものになるだろう。彼の人生を彩っていたのは、エンジェルスという「予測不能な狂気」だったからだ。

彼に残されたのは、彼女たちを支配することで得た冷たい静寂と、彼女たちの熱狂と愚かさを思い出すという、個人的な追憶だけだった。

ハマは、引き出しから、エンジェルスたちと「大漁」で写した、馬鹿騒ぎの記念写真を取り出した。三人の女性は、それぞれの狂気を幸福な笑顔に変えてそこに写っていた。

この写真こそが、私の「安寧」の代償だ。私は、この思い出を反芻することでしか、残りの人生を埋められないのだろう

彼は、その写真を静かに机の上に置いた。ハマ・ソウスケの残りの支店長人生は、誰にも邪魔されない静かな時間と、孤独な回想という、彼自身が作り出した心の奥地の「辺境」で、緩やかに続いていくのだった。